【SQ5】7 お花畑でつかまえて
冒険者とは切っても切り離せない関係にあるもの、それは一般市民からの依頼である。クエストと呼ばれるこうした依頼は、元々は衛兵ら評議会の管轄下にある組織では処理しきれない細々とした嘆願に応じるためのものであったというが、システムが普及しきった今となっては嘆願と呼べるほど大層な依頼はほとんど存在していない。迷宮でしか入手できない素材を入手してほしいだとか、魔物を討伐せよだとか、護衛だとか人捜しだとか、諸々、諸々……中には半ば子供のお手伝いと変わりないような依頼まである。とにかく、内容はさておきひとまず困った事は冒険者に丸投げしろという不文律がこのアイオリスには存在しているのだ。よく考えてみれば理不尽な事である――まあ、そうした依頼で日銭を稼ぐ冒険者の側にも問題があるような気がしなくもないが。
そして『カレイドスコープ』もまた、探索の傍らにクエストをこなして収入を得ているギルドのひとつだった。目についた依頼なら何でもかんでも……などという無茶は流石にしないが、探索の片手間にこなせる素材集めの依頼などはよく引き受けているし、大市のセリクや宿屋のジェネッタをはじめ、知った相手からの頼みは積極的に聞く事にしている。言い方は悪いが、懇意にしている相手には恩を売っておいて損は無いのである。
「……でも、随分意外なところから依頼がきたね?」
行きがけに大市の屋台で購入した何らかの肉の串焼きを頬張りながらエスメラルダが言う。ちょうど隣を歩いていたエールが、小首を傾げながら彼の言葉に応じた。
「そうですね。お会いするのも久々ですし、何よりまだ詳しい内容を聞いていないような……」
「まあ、話を持ってきたのがあの子だからな」
そう苦笑するマリウスの視線の先で、角のついたフードを目深に被った背中がぴょんと跳ねる。ご機嫌に先頭を行くリズは弾むような足取りで仲間たちの数歩先を歩いている。二番手についたケイナが小柄な彼女を見失わないように慌てて足を速めるのを眺めつつエスメラルダは食べ終えた串焼きの串を鞄に突っ込んだ。いくらゴミ箱がないからといってポイ捨てはいただけない。
いくつか通りを抜けて路地を曲がり、先を行く二人と後ろを歩く三人との距離が通りに並ぶ家屋三軒分ほどになろうとした頃、リズはぴたりと足を止めて振り向く。ギルドの全員が自分に追いつくのを待ち、少女は嬉しげな表情ですぐ傍にあった家屋の扉に手をかけた。
「いらっしゃいませー」
彼女に促され、一行は屋内へ入っていく。最後にリズが勢いよく閉めた扉の傍らには、固い字で「葬儀屋」と書かれた無骨なプレートがかけられていた。
「いや、急に呼びつけて悪いな」
人数分のティーカップ――普段使っていないものまでかき集めてきたのか、柄や大きさが全てバラバラだ――をローテーブルに並べながら、ミーシャは申し訳なさげな表情でそう言った。彼はこの「葬儀屋」の店主であり、リズの従兄でもある男性だ。『カレイドスコープ』が顔を合わせるのはリズがギルドに加入する前の騒ぎ以来になる。
「どうしても俺ひとりでは対応できない仕事が入ってきて……リズから話は聞いたか?」
「いえ、実は何も……」
やっぱりか……というように溜息を吐き、ミーシャは既に準備されていたティーポットを持ち上げて中身をカップに注ぎ始める。ハーブティーか何かだろうか? 嗅ぎ慣れない、しかしどこか懐かしいような爽やかな香りが狭い客間を満たす。
「あまり時間を取らせるのも申し訳ないから手短に話すが、第二層に幽霊が出るという話があってな」
「幽霊!?」
「それの対処を頼まれたんだ。……あ、俺はそういう、死霊絡みの依頼をこなして生計を立ててるんだが、知ってたか?」
問うてくるミーシャに四人は首を横に振って答える。ミーシャは閉口し、ソファに腰かけてハーブティーを啜るリズに目をやった。注がれる視線はまったく気にせずお茶請けの焼き菓子に手を伸ばす少女に呆れたような表情を浮かべて店主は続ける。
「で、第二層の七階までの護衛をあんたらに頼みたい。もちろん報酬は出すから」
「もちろん構いませんけど……そのう、幽霊の対処って、いったい何をするんでしょう?」
エールがおずおずと問う。しばし考える様子を見せたミーシャが答える前に、お菓子を頬張っていたリズがはーいと手を挙げる。
「行かなきゃいけないところにー行ってもらうの」
「……まあ、イメージとしたはそんな感じだ。詳しくは死霊遣い(ネクロマンサー)の企業秘密という事で」
「はあ」
「それでいつなら都合が良い? 予定があるならそっちに合わせるが」
『カレイドスコープ』は顔を見合わせる。いつ、と言われても、どうせ探索には毎日出なければならないし、そのうえ目的地の七階は今ちょうど探索を行っている場所だ。地図もあらかた完成している。行こうと思えばいつでも出られるが、となると都合の良い日とは。
「……今日?」
「今日!? いやまあ、今日でも大丈夫だけど」
その前にちょっと準備が要るな……と立ち上がり、ミーシャは部屋の隅にインテリアのごとく立てかけてあった棺に手をかける。よく見るとベルトを二本くくりつけて背負い鞄にような形になっているそれを持ち上げてしばし思案した彼だったが、ふと動きを止めると『カレイドスコープ』を振り返った。
「もうひとつ訊きたいんだが、心当たりとかあるか?」
「心当たり?」
「だからその、幽霊と関係ありそうな場所の……」
幽霊と関係ありそうな場所。問いかけの意味が飲み込めず黙り込む一同の表情を見て、ミーシャは眉を八の字に歪めた。形容しがたい気まずさに満ちた沈黙が辺りを支配する。ただ一人、余っていたお菓子を全て食べ尽くしたリズだけがご機嫌に身体を揺すっている。いつもの事である。
幽霊と関係ありそうな場所というと、やはり過去に死者が出たなどというような「いわくつき」の場所だろうか。しかし街の中や郊外ならいざ知らず、問題の場所は迷宮の内部だ。世界樹の迷宮ではいつどこでも死者が出る。入り口周りはほぼ整備され、駐屯した衛兵隊が巡回すら行っている第一層の一階ですら、新人ギルドが全滅したという噂をちらほら耳にするのだ。やるせない話ではあるが紛れもない事実である。
「そういう冒険者が全員幽霊になってたら、樹海はすごい人混み……霊混み? に、なってそうだ」
ケイナの呟きにエスメラルダが頷く。
「ただ、七階だからね。探索してる人は少ないし、下の階よりは絞り込める……かも」
そう言う彼の言葉にも自信めいたものは見られない。それこそどんな場所でも死の危険がある迷宮内で、「人が死んでいそうな場所」を探すのは困難だ。そもそもその幽霊とやらの死因すら分からないのである。魔物に襲われたのか、落石や滑落といった事故なのか、はたまた遭難による餓死か……ミーシャから得た数少ない情報によれば、幽霊は冒険者らしき格好をしているらしいが。
「迷宮に入る方は、みなさん冒険者らしい格好をしますもんねえ」
「もう少し情報が欲しいところだな。幽霊と関係がある場所を探す前に、まず幽霊そのものがいつ、どこで、どんな風に現れるのか調べてみた方が良いかもしれない」
マリウスの提案に他の面々も同意したが、その表情は妙に曇っていた。というより言い出した本人であるマリウスの顔も曇っている。わざわざ言い出す者は誰もいなかったものの理由は明白である。だって、幽霊なんて、ねえ。
無言のまま、一行は揃って大市へ入っていく。ミーシャとはあちらの準備が終わりしだい樹海入口で合流する手はずになっている。それまで時間を潰す目的で市場までやって来てはみたが、正直なところ買っておかなければならない物は特に無い。強いて言えば予備のアリアドネの糸くらいだ。
「な、何か幽霊に効果がありそうなものを買っておくべきでしょうか……? あそこのお守りとか……」
「あれブラニーがよく使う紋章だよ。そんな効果は無いと思う」
「心配しなくても、だいじょーぶ」
唐突に口を開いたのはリズだ。驚く四人をよそに、彼女は珍しく長めに言葉を続ける。
「ミーシャは、お仕事じょうず」
「上手という概念があるんだな……」
いったい何がどう上手なのかは見当もつかないが、死霊のプロであるところのリズが言うなら恐らく間違いないのだろう。
とはいえそのお仕事とやらがいったいどういった手法で行われるのかくらいは知っておきたい。あまり期待してなさそうな顔で、それでもリズに問いかけようとしたマリウスだったが、ふと人混みの中の一点を見つめて目を瞬かせた。
「小父上? ……小父上! 私です!」
マリウスは声を上げて片手を大きく振る。応えはすぐには返ってこなかったが、その場で十秒ほど待っていると、買い物客の脚を掻き分けるようにして小さな人影が姿を現した。エールが小さく声を漏らす。見覚えのある服装、目元を隠す長い前髪……ジュディスが初めて『カレイドスコープ』を訪ねてきた時、彼女と一緒にいたブラニー族の男性だ。
人混みに揉まれて消耗したのか、やれやれと力なく首を振って男性はマリウスを見上げる。
「よう、坊ちゃん。こんな所で会えるとは、嬉しいね」
「買い物ですか? 人が多くて苦労なさったでしょう」
「そりゃあ、もう。……ん、ああ、そうだ。お友達にはまだ挨拶してなかったな」
そう言って思い出したようにマリウス以外の面子に視線をやると、男性はうやうやしい仕草でお辞儀をする。
「俺はペルラ。マリウス坊ちゃんとジュディスお嬢の世話役ってとこかね。よろしく」
「おじさん?」
「ははは、確かに年寄りではある。この声のとおりだ」
リズの不躾な問いにも悠々と答える、その声はブラニー特有の小さく丸みのある背格好とは裏腹に低く響く渋みのある声色をしている。他種族から見たブラニー族は得てして外見から実年齢が分かりづらい傾向にあるが、ペルラの場合はその声が彼の年齢層を端的に示していた。
口許に笑みを浮かべながら、ペルラは指先を丸めて豆粒ほどの大きさを示す。
「なにせ坊ちゃんの事も、こぉんなに小さい頃から見てるからなあ」
「え! マリウスさん、そんなに小さかったんですか!?」
「そんなわけ無いだろう……」
困り果てた表情でぱたぱたと手を振るマリウスを見てペルラはますます笑みを深くする。後ろの方でその様子を見ていたエスメラルダとケイナは、こっそり顔を見合わせて苦笑した。ずいぶんと可愛がられているようだ。
「……で、坊ちゃんたちはこれから探索かい? 気をつけてな」
「はい……あ、そうだ!」
マリウスがぽんと手を叩く。いったい何を思いついたのかと怪訝な視線を送ってくる仲間たちをよそに、彼はそっと屈んでペルラの耳元に口を寄せる。
「小父上にご相談したい事がありまして」
◆
大きな棺桶を背負ったルナリアが二人並んで歩いていると、とにかく目立つ。途中ですれ違った顔見知りの衛兵が挨拶もそこそこにぎょっとした視線を向けてくるのを苦笑混じりの会釈で受け止めながら、ミーシャを連れた『カレイドスコープ』は迷宮七階を歩いていた。既に発見していた抜け道を通り、遠くで疾走する首の長い魔物の足音を聞きながら一行はまっすぐに通路を進んでいく。
「真っ昼間だけど、大丈夫なんですか?」
エスメラルダの問いには幽霊を探すのにこんな時間でいいのか、という疑問が込められている。それを正しく読み取ったらしいミーシャは、問題ない、と頷いた。
「ああいった手合いのものは本当は昼夜問わずそこにいるんだ。ただ生きている側のほうは「夜になると現れる」という思い込みのせいで、夜間は奴らの存在を察知しやすくなる。意識すればするほど気になってしまう、というやつだな」
「へえ~。今この瞬間から僕は昼でも霊の存在を意識せざるを得なくなったんですけど」
「それは悪かった……」
「はい! わたしも質問していいですか?」
エールが元気よく手を挙げる。ミーシャがどうぞと促せば、彼女は顎に指を添えながら続けた。
「リズさんみたいなネクロマンサーの方が遣う死霊は、幽霊とは違うものなんですか?」
「……お前、本当になにも伝えてないんだな……」
そう呟いて隣をちょこちょこ歩いているリズを半目で見るミーシャだが、当の本人は我関せずといった様子だ。反応すら返さず上空を飛んでいく鳥たちをじっと見つめる少女に溜息を吐きつつ、答える。
「そうだな……ざっくり言うと幽霊、というよりはつまり霊魂だな。霊魂を元に作り出した使い魔を死霊と呼ぶ。厳密にはもう少しややこしい区分があるんだが、その辺りは専門家の領分だからな」
「え! じゃあリズが普段喚び出してるやつも……」
「ああいや、死霊すべてがヒトの霊ってわけじゃない。たとえば動物とか……それこそ、樹海には魔物の霊魂がたくさんいるしな。リズはそういうのを召喚してる……筈だ。え? そうだよな……?」
「うん」
実はちゃんと話を聞いていたらしいリズが答える。すっかり慣れてしまっていたため忘れていたが、よく考えてみればネクロマンサーという職業には謎が多い。それがミーシャの解説を受けてようやく少しずつ分かってきたような気がする。
次に手を挙げたのはマリウスだった。黙って話を聞いていた彼は、ミーシャを振り返ると控えめに問う。
「失礼な質問になるかもしれないんですが……その、死んだ生物の霊魂を使役するというのは、倫理的に問題があるのでは?」
「もっともな質問だ」
先程までより僅かに低い声でミーシャは答える。
「ただ、そもそも霊魂というは生物が持つ生命エネルギーの根源なんだ。一般的に霊と言われるものはそのエネルギーに生前の残留思念がこびりついたものでしかない。つまり死者そのものではなく、生前の強い意識が魂に張りついて観測可能な形で残ったものが幽霊と呼ばれる」
「幽霊に意識や人格は存在しないと?」
「そこまでいくと生者の自己意思の定義の話にまでもつれ込むから深くは突っ込めないが……少なくとも、俺が見てきた限り奴らはたいてい同じ事を繰り返しているよ。それ以外の事は何も考えていないという風に」
「同じ事?」
「同じ場所を彷徨っていたり、特定の相手につきまとったり、あるいは死の瞬間を再演し続けたり、だな」
「ああ……成程。残留思念に則った行動しかしない、と。確かに実態がどうあれ、同じ反応しか観測できないのならそこに人格を認める事は……ううん」
「……なんだか難しいお話ですね」
「え、あ、ごめん俺もう聞いてなかった……」
数歩先を歩いていたエールとケイナの小声でのやり取りにマリウスがばつの悪い表情を浮かべ、ミーシャは苦笑する。
「まあ、ネクロマンサーの術が倫理的に問題ありと見られるのは当然だし、歴史を紐解けばもっとおぞましい事をしてきた術者も山ほどいる。ここ数十年でかなりマシになったが、俺たちによくない感情を持つ人もまだそれなりにいるし……」
と、そこで言葉を切って黙り込むとミーシャはすぐ近くを歩くリズを見下ろした。跳ねるように歩を進める彼女の胸元で、フードの中から垂れた金色の髪の束が揺れている。ちょうど真上から射す日の光を反射してきらめくその色を見て僅かに目を細めながら、彼は薄く唇を開く。
「俺もあんまり好きじゃないな」
ごくごく小さなその呟きが、果たして聞こえていたのかそうでなかったのか。応える者は誰もいなかった。
「……そういえば今更訊くのもなんだが、これ今どこに向かってるんだ?」
しばし無言で迷宮内を進んでいた一行だが、三個目の岩塊を押し倒して道を切り拓いたあたりでようやくミーシャがそう訊ねてきた。問われたエールがあっと口元に手を当てる。
「お伝えしてませんでしたっけ。ごめんなさい」
「いや、今まで言わなかった俺も悪いが……」
「ええと、まあもうすぐなので。僕らも実際に見て確かめないと確信が持てないって言うか……とにかく行きましょう」
エスメラルダが促せば、ミーシャは怪訝そうな表情を浮かべながらも従う。
崩れた岩の欠片を踏み越えて通路を進み、丁字路を左へ。すぐ先の曲がり角も左、そこから直進……道中で見落としていた抜け道を発見しつつ辿り着いた通路の突き当たりには、扉で隔てられた小部屋が存在している。先頭にいたマリウスが神妙な表情で扉に手をかけ、少しだけ開く。隙間から見えるのは一面の花……ちょうどエールの身長ほどはありそうな美しい白い花が、空間を埋め尽くすように咲き誇っている。
一見すればのどかな花畑に見えなくもない光景だが、だからといってうかつに脚を踏み入れるほど『カレイドスコープ』も愚かではない。荒涼とした山地に突如現れる美しい花、それも他の場所では一度も見た事がないような……となれば、流石に「ヤバい」と感じて然るべきだ。なにせ樹海では何が起こるか分からないのである。
マリウスの足元でしゃがみ込み、花々の根元にじっと目を凝らしていたエスメラルダが小さく声を上げる。
「本当にあった……真ん中のあたりです」
苦々しくそう言うと、彼は後ろの方で戸惑ったように立ち尽くしていたミーシャを呼んで小部屋の中のある一点を指し示した。縦に長い身体を小さく丸めてそちらを覗き込んだミーシャは、そこにあるものを認めて渋い表情を浮かべた。
「ああー……この距離では無理だな……せめてこう、何かしらのパーツを一部分だけでも回収できればいいんだが」
「取りに行かなきゃいけないって事ですよね。どうしよう……」
「とにかく、できるだけ花に触れないようにした方が良いな」
あの花がどのような植物か分からない以上、下手に触れるわけにはいかない。それにこの密度だ。万が一毒性があったとしたら大変な事になるのは目に見えている。少なくとも素肌を露出した状態で踏み込むのは危険だろう。
「この中でいちばん厚着なのは……」
と、マリウスは背後を振り返る。肌に密着した薄い装束の突剣士と、生腕の刀使いと、薄手の衣服の薬草師と、生足の死霊遣いと、シャツにジャケットを羽織った同じく死霊遣いと、……。
「……私か……私だな……」
「マリーがんばって」
リズの他人事な応援を受けながら、マリウスは溜息を吐いてコートの襟を正す。
肌の露出を減らすため頭にタオルを巻きつけて不審な容貌へと変身したマリウスは、ひとつ深呼吸すると扉を開け放って小部屋へ踏み込んでいく。花畑を掻き分け、足早に進んでいった先で彼は素早くしゃがみ込み、そこに転がっていたものに手を伸ばした。
白骨死体、だ。骨格からしてアースランかルナリアだろうか、花々に囲まれて倒れ込んだそれはここに放置されてかなりの年月が経っているらしく、周囲にも生前の痕跡らしきものは見受けられない。ただ、手元に近い場所に一振りの剣が転がっていた。
内心で亡骸に向かって非礼を詫びつつ、マリウスは偶然すぐ傍にあった左手首から先を布に包んで持ち上げる……と、同時に握り込んだ形で白骨化したその手の内になにか朽ちかけた紙のようなものが握られているのに気付き、彼は目を丸くした。これはいったい何なのかと紙を引っ張りだそうとしたマリウスだが、瞬間、目許に走った衝撃に思わず声を上げる。
「痛っ……えっ痛!? 痛い!!」
「わああ! マリーさん戻ってください早くーっ!!」
薬草を握ったエスメラルダが叫ぶ。マリウスは慌てて立ち上がって通路を目指すが、その間にもタオルの隙間や袖や襟……あらゆる場所から燃えるような痛みが広がっていく。
「あー痛い痛い!! なん……あー!!」
「おかえりなさ……ああっ肌が! 紫に!!」
「ミーシャさんはいこれ! 僕マリーさんの治療するので後はお願いします!」
「あっ、ああ……!」
布に包まれた骨を受け取ったミーシャは少し離れた場所に移動すると、棺桶を下ろして何やら作業を始める。ちょこちょことそちらに近付いていくリズを横目に、エスメラルダはてきぱきと術式を発動させて治療を進めていく。仰向けに倒れ込んだマリウスは、されるがままになりながら紫色に変色した顔で呻いた。
「次回からは皆もコートとか着てきてくれ……」
「あるのか? 次回……」
ケイナの困惑したような呟きは荒涼とした空気に解けて消えていった。離れた場所で何やら術を行使していたミーシャが、早くもほっとしたような表情を浮かべてリズと共に戻ってくる。どうやらやるべき事はこれで終わりらしい。
丁重に包んだ骨を片手に下げながら、ミーシャはもう片方の手に持っていた紙片を差し出す。
「これはあんたらが持っていってくれ。手に握られてた」
「わたしたちで良いんですか?」
「本人がそう書き残してるからな。……ああ、安心してくれ。祟られるなんて事は無いから」
もう、いないからな――とミーシャは苦笑する。エールが受け取った紙を開いてみれば、そこには地図が書いてあった。地形からして恐らく六階の南東部だろうか、一部分に印が描かれたそれには、「君たちの冒険に役立てて欲しい」との走り書きが残されている。エールは慎重に紙を折りたたみ、ミーシャに頭を下げた。
治療を終えて元の顔色に戻ったマリウスが疲れきった表情で身を起こす。今日はここで切り上げた方がいいだろう。互いに顔を見追わせて頷き合い、一行は鞄からアリアドネの糸を取り出したエスメラルダの元へ集まっていく。
ミーシャとは樹海入り口で別れる事になった。彼はこのまま依頼人の元へ向かい報告を済ませてくるという。報酬はまた後日届けるから少し待ってくれ……と申し訳なさげに告げて去っていく彼の後ろ姿を見送りながら、『カレイドスコープ』はようやく肩の力を抜く。
「濃密な一日でしたね」
「早く帰って休みたい……」
と、間違いなく今日最も心身を削ったであろうマリウスが呟いたため、一行は寄り道せずまっすぐ宿へ帰る事にした。まだ人の少ない通りを抜けてジェネッタの宿へ向かう。道中に出ていた屋台の焼き菓子にリズが釣られかけたが、今日は我慢してもらう事にした。むっと唇を尖らせる少女をなんとか言いくるめつつ歩を進める。
宿に戻った一行を出迎えたのはペルラだった。どうやら彼は午前中に『カレイドスコープ』が迷宮へ出発してから宿を訪れ、それからエントランスに居座ってずっと一行の帰りを待っていたらしい。
看板娘が頼んでもいないのにお出ししてきたというフルーツパンをおやつに飢えたリズに分けてやりつつ、ペルラはマリウスへ目をやる。
「妙に疲れてるみたいだが、うまくいったか?」
「ええ、小父上のお力添えのおかげです」
「そりゃあ良かった。この力が若いもんの役に立つとは、長生きはしてみるもんだなあ」
飄々と笑い、ペルラは置いていたカップを手に取ってコーヒーを啜る。彼をまじまじと見つめたケイナは神妙な面持ちで口を開いた。
「でも、本当なんだな。未来を視る力があるなんて……」
返答の代わりに微かな笑いが返る。
ペルラには未来に起きる出来事を言い当てる力がある――だから幽霊騒ぎに関係ある場所を教えてもらおう、とマリウスが言い出した時、他の面々は彼の言葉を信じなかった。確かにブラニー族の中にはそういった超常の力……たとえば彼らが古くから信仰する自然神や精霊と対話し、その力を引き出す能力を持つ者もいるとは聞くが、未来予知までいくと流石に無理がある。今どき道端でカードを広げている占い師もどきでもそんな事は言わないくらいだ。だがマリウスは食い下がった。確かにそうかもしれないが、それでもペルラの力は本物だと言い張ったのである。
ギルドに流れる空気が不穏になりかけたその時、割って入ってきたのはペルラ本人だった。若者たちをまあまあとあやし、彼はのんびりとした口調で言った。
『まあ、どうせその目的地とやらに心当たりは無いんだろう? それならちょっと俺のアドバイスを聞いてから行っても同じなんじゃないか?』
……そして結局、彼が告げた「白い花畑」に、幽霊騒ぎの原因は転がっていたというわけである。
「いやでも、ちょっと待ってください。おかしくないですか?」
腕を組んだエスメラルダがどうしても納得いかないという顔で言う。
「だって僕ら、ペルラさんのヒントを聞いたからあの花の部屋に行ったわけでしょ。それなのにそれを聞く前から「僕らがあの部屋で遺骨を見つける未来」が見えてたら、結果と過程が逆になっちゃうじゃないですか」
「そりゃあお前さん、簡単な話だ」
と、ペルラはエントランスに置かれた柱時計を指さす。時刻は昼過ぎ、もうすぐおやつに丁度いい時間帯にさしかかる頃だ。
「俺が視た未来では、お前さんたちが例の部屋に辿り着いたのは日没後(・・・)だった。つまり、結論から言えば予知を聞かなくてもお前さんたちはそこに辿り着いていたんだろう。迷宮をしらみ潰しに探すなり何なりしてな。だが俺の言ったとおりにした事でその手間が省けて、今この時間に帰ってこれた。そんなところだ」
「う、うーん……? ええ……?」
説明を受けてもやはり腑に落ちていない様子でエスメラルダは首をひねる。うんうんと唸って悩んむ彼を見てわははと愉快そうな笑い声を上げるペルラに、今度はエールが詰め寄った。
「あの! じゃあもしかして、わたしたちが世界樹を踏破できるかも分かったり……!?」
「まあやろうと思えばできるだろうが、そういうのは視ないようにしてるんだ」
「どうしてですか?」
問われたペルラは前髪の下で僅かに視線を逸らしたようだった。飲み干したコーヒーのカップをテーブルに置き、だってなあ、と彼は静かな声で答える。
「そこに坊ちゃんがいなかったら怖いだろう」
◆
宿の一室で書類仕事を片付けていたジュディスの元にペルラが戻ってきたのは、ちょうど作業の手を止めてお茶にするにはいい時間になった頃だった。ペルラが土産だと言って差し出してきた包みを解きながら、ジュディスは淡々と言う。
「随分と長い散歩だったようで」
「アイオリスを散策するのは久々だったからなあ。なかなか楽しかったよ」
「マリーは息災でしたか?」
なんの前触れもなく切り込んできたジュディスにペルラは思わず閉口した。お土産の中身はジェネッタ謹製のフルーツパンだ。間食として食べるには少々ボリューミーが過ぎるそれを掴んでしげしげ眺め、ジュディスは嘆息する。
「私とは顔を合わせたがらないくせに、小父上とは会うのですね……」
「待て待て、別に俺も坊ちゃんに会いに行ったわけじゃない。大市でたまたまはち合わせてな……」
「そうですか」
と、ペルラの言い訳じみた言葉にジュディスは妙に据わった目で応え、フルーツパンを大きく頬張った。よく見れば彼女の踵は一定のリズムで床を叩いている。高いヒールに時折黒い靄のようなものが絡みつくのを見てペルラは密かに眉をひそめ、それからジュディスの対面に置いてある椅子によじ登るとよっこらしょ、と腰かけた。既に机上に用意されていたティーポットに手を伸ばしながら諭すように告げる。
「焦らなくても、こういうのは時間が解決してくれるさ」
「では視てくださいますか?」
「痛いところを突かんでくれ……」
紅茶を注いだティーカップを差し出してからペルラは弱々しく頭を抱える。ジュディスは肩をすくめてカップに唇をつけた。態度のわりに涼しげな表情を保ったままの彼女をしばし見つめ、ペルラは溜息を吐く。随分と心配しているようだ。まあ、その気持ちも分からなくはない……もし、万が一、次にあの花畑に転がる亡骸や迷宮に佇む幽霊になるのがマリウスだったならば。ペルラはそう思うだに背筋が凍るような思いがする。ジュディスも同じように考えていたからこそマリウスが冒険者になる事に反対していたのだが、しかしどうやら今は違うらしい。
「危険ならば私が守ってやればいいのです。そのためにギルドに入ったというのに、これでは意味がない」
僅かに顔をしかめながらジュディスが呟く。事もなげに言い切った彼女を複雑な表情で眺めながら、ペルラは包みの中に残っていたもう一切れのフルーツパンにかぶりついた。クリームの重厚な甘さと果実の瑞々しい感触を噛み砕き、出そうになった苦言もろとも呑み込む。いかにも子供や若者が好きそうな味のそれは、たった一口食べただけでも老いた胃袋にぐんと重くのしかかってくるような気がした。
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