【SQ5】11 止まない雨

 昨夜から降り出した雨はいまだ止まず、いっそう勢いを増して暗い窓の外を叩き続けている。激しい雨音に耳を傾けながらミーシャは署名を終えた契約書を机の上に積んだ。書面に記された報酬の額は普段の彼の収入からすれば文字通り桁違いのそれではあったが、ペンを持つ彼の手は重かった。できれば引き受けたくなかった仕事だ――気乗りがしないという意味ではなく、引き受けるような事態になって欲しくなかったという意味で。

 対面のソファに座るペルラは力無く項垂れたまま、何を言う気配も無い。ミーシャも何も言わなかった。彼の心中は察するに余りある。それに連日様々な手配やら各所への手続きやらであちこち駆け回っていたのも彼だ。ようやく一段落ついたのだから、今はそっとしておくのが一番だろう。

 ジュディス・ロザンタールの葬儀はつつがなく終了した。

 ミーシャがロザンタールの屋敷へ来たのは、埋葬の手伝いをするためだ。本来ならばこういった儀礼にまつわる作業はすべてその土地の葬儀屋にすべて任せるべきなのだが、今回はそうもいかなかった。ジュディスは瘴気使いだ。遺体に残留した瘴気が漏れ出さないよう死後早急に処置を施す必要があった。その処置を行ったのが、『カレイドスコープ』と繋がりのあるミーシャだったのである。

「悪いな。こんな所にまで来てもらってるのに、ロクなもてなしもできず」

 唐突にペルラがそう呟く。ミーシャは顔を上げ、彼に首を振ってみせた。その仕草に何を思ったのか、ブラニーの男は力無く笑う。

「もう少し付き合ってくれ。……この辺りじゃ火葬なんて滅多にしないから、準備に手間取りそうだ」

「……本当に良いのか?」

「本人の遺言なら従うしかないさ」

 諦めの滲む声で言われてしまっては、ミーシャももう何も言えない。

 ジュディスは冒険者になる以前から有事に備えて定期的に遺書を書いていたという。とはいえ書かれていた内容はさほど多くはない。遺産と家督はすべて弟に譲渡する旨をはじめ、領内で発生しているいくつかの問題への対応策、重要事項をまとめた書類の保管場所などが淡々とが書き連ねてあったが、最後に一行だけ付け足されていた。「自分が死んだら遺体は燃やすように」と。

 ロザンタール領付近では死者は土葬するのが一般的だ。だがジュディスはあえて遺体を燃やすよう書き遺した。恐らく彼女は遺体がそのまま埋葬される事で、残留した瘴気が周囲の環境に悪影響をもたらさないかと懸念していたのだろう。周到な人だ――その遺言が、遺された者にどう思われるかは、考えていなかったようだが。

「あんな小さい頃から見てきたのに、俺より先に灰になっちまうなんて」

 憔悴しきった声でペルラは言う。

「こんな光景が見たくなかったから、俺は二人の未来を視るのをやめたんだ。なのに……」

 続きは声にはならなかった。沈黙の下りた客間に微かな雨音ばかりが響く。扉を開く音がしたのは時計の秒針がちょうど二周半を刻んだ頃だった。振り向いてみればそこには少女がひとり、所在なげな面持ちで立っている。

「リズ」

「ミーシャ……」

 呼びかけに小さな声で応え、リズはゆっくりと歩いて部屋に入ってきた。ミーシャの背中におぶさるように抱きつきながら彼女は小さな声で問う。

「マリーは?」

「坊ちゃんなら自分の部屋だろうな。……そっとしといてやってくれないか? 今は……もうしばらく」

 ペルラが答えれば、リズは悲しげに目を伏せながらも素直に頷く。ペルラはごめんなあ、と呟き、再び深く項垂れた。肩に乗る少女の頭を撫でながらミーシャは横目に窓の外を見た。黒い雨雲は空を覆い尽くし、その向こうで輝いているであろう夕陽の色を一片も残さず覆い隠してしまっている。

 いっそ晴れない方がいいかもしれないと思った。主を喪った屋敷を包む沈黙は、雨音なしではあまりに静かすぎた。


     ◆


 迷宮第三層は晦冥ノ墓所と呼ばれている。その名の通り古代戦争時代の墓が立ち並ぶこの迷宮は、昼間でも常に薄暗く、肌にじっとりと纏わりつくような嫌な空気が漂っている。まるでこの地に眠る亡者の怨念が空気に溶け出し、自分たち生者を取り巻いているような……ついそんな感覚を覚えてしまう程には、この場所にわだかまる空気は暗く、沈鬱としていた。

 が、そんな空気を霧散させるかの如く生命力に満ちた人物が、ここに一人。

「あああーっ! ギャアーッ!! 散れ悪霊ォァーーッ!!」

 絶叫と共にぶん投げられた杖は回転しながら見事な弧を描いて飛んでいき、浮遊するしゃれこうべの魔物の脳天に直撃した。バラバラに砕けて地面に落ちた骨の欠片を涙目で睨みつけ、ステファンはぜえぜえと肩で息をしながら膝から崩れ落ちる。

「た……たかが頭蓋の分際で……絶対に許さない……っ……!」

「許さなくていいけど杖は投げんなよ」

 ジャンが至極冷静に突っ込みながら拾ってきた杖をステファンに差し出す。ひとまず、襲ってきた魔物は先程のひび割れこうべで最後だったようだ。黒くプニプニとした魔物の身体の一部らしき物体を拾って荷物に突っ込み、彼は背後を振り返って大きく手を振った。

「おーい、そっちも怪我とか無えか?」

「はーい、大丈夫です」

 返った声は明るい。煤の付着した剣を振って汚れを落としたエールは、周囲の安全を確かめるとジャンに向かってにこりと微笑んでみせた。

 現在の『カレイドスコープ』にはメンバーが三人しか残っていない。実家へ戻ったマリウスと、ミーシャと共にそれについて行ったリズがアイオリスに戻ってくるのはどう短く見積もってもひと月は先になる。それまでギルドをどうすべきか、結論を出すのにもかなりの時間がかかった。何度も話し合い、時にエドガーやメリーナにも意見を求めつつ考えた結果が、今のこの状況だ。三人は先に探索を再開する事にした。

 足りないメンバーは『ヴォルドゥニュイ』の力を借りる事で補った。単に数合わせのために知り合いのギルドを動員したという訳ではない。二人で探索している彼らは第三層へ進む条件である達人認定試験を突破する事が難しく、どうやって先に行こうかと悩んでいるところだったのである。『ヴォルドゥニュイ』のままでは三層に立ち入る事もできない状態だったところを、移籍という形で一時的に『カレイドスコープ』に所属する事で三層への挑戦権を得た、という形だ。

 冒険者ギルドと評議会の規則からみればグレーゾーンに近い所業だが……今のところ、エドガーもレムスもこの状態を黙認してくれているようだ。当然、その裏には様々な思惑があるだろう。コストの都合で達人認定試験を頻繁に行う事はできないという事情や、数少ない達人ギルドを無駄にはできないという思い……あるいは、『カレイドスコープ』に起きた出来事を知っているがゆえの温情も含まれているのかもしれない。彼らの真意は知る由も無かったが、真実が何であろうととにかく今の状況は『カレイドスコープ』にとっても『ヴォルドゥニュイ』にとっても都合が良かった。

「にしても、不気味な所だね……」

 魔物から採取した黒いプニプニを指先で捏ねながらエスメラルダが呟いた。彼が見上げる頭上には薄く霧が漂っており、存在する筈の天井は紫色に煙るそれに阻まれて目視する事も難しい。

「今は太陽の光が射してるからまだ良いけど、夜とか来たくないよね」

「そうですね。あ、でもミーシャさんが前に仰ってませんでしたか? 幽霊は昼にもいて、夜によく現れるのはわたしたちがそういうものだと思い込んでいるからで……」

「あーあーあー! 聞こえなーい聞こえませんー!! 聞こえないけどその話やめてくださーい!!」

 耳を塞ぎながらステファンが叫ぶ。エスメラルダとエールは顔を見合わせた。見兼ねたジャンが呆れた様子で割り込んでくる。

「見りゃ分かるだろうけど、あいつオバケとか駄目なんだよ。不気味っつっても攻撃すりゃ倒せるのに、なにが怖いんだろうなあ」

「黙らっしゃい脳天気鈍感危機感ナシ男! 私はイマジネーションが豊富なんですよニブチンの貴方と違って! バーカ!」

「すげえ罵倒してくんじゃん……」

 溜息を吐きながらもさほど傷付いてはいない様子でジャンはエスメラルダとエールを振り返り、肩をすくめてみせた。二人も苦笑を返す。

 「幽霊出るか出ないか問題」についてはともかく、確かにこの階層を夜間に歩き回るのは避けたほうが賢明だろう。ただでさえ視界が悪い上に日没後からは魔物の行動が活発になるとの噂も聞いている。少なくともこの迷宮の環境と合同パーティーでの連携に慣れるまでは、探索は昼間の短時間のみ行うべきだ。

「まあ、焦らずゆっくり行こうぜ。お前らも大変だったんだし……」

 ジャンの言葉に返る声は無かった。エスメラルダが僅かに視線を逸らし、エールは曖昧な笑みを浮かべる。少し離れた場所で周囲を警戒していたケイナの耳の角度が僅かに変わった。が、ジャンはそれに気付いていないようである。唐突に下りた沈黙に戸惑ったように辺りを見回す彼を見て、今度はステファンが溜息を吐いた。

 担いだ杖で自らの肩を叩きながら、ステファンは気怠げな声で言う。

「もう良いでしょう……先に進みましょう。いつまでも同じ場所に留まっていたって、余計に足が重くなるだけですからね」


 その日の探索帰りの事である。酒場への納品やら素材の売却やらのため各地に散っていった仲閒達とは別れ、ケイナは一人で街中をぶらついていた。特にこれといった目的がある訳ではない。ただ最近の彼はなにかにつけて一人になりたくなってしまうのだ。それがあまり良い傾向ではない事くらい、自分でも分かってはいるのだが。

 とはいえ彼が歩き回る範囲はさほど広くない。せいぜい通い慣れた酒場や冒険者ギルド、大市の間を行ったり来たりする程度だ。そういうわけで今日もケイナは石畳の感触まで覚えてしまった大通りを行くあてもなく歩きつつ、ぼんやりと考え事をしていた。規則的に響く自分の足音が他人事のように聞こえる――周囲に注意を払っていなかったせいで、対面から歩いてきた通行人と肩がぶつかった。振り向きざまにこちらを一睨みして去っていく冒険者らしき男に慌てて頭を下げながら辺りを見回したケイナは、ふと目に入ったものに視線を奪われた。

 ブラニーである。きらびやかな装飾のついた衣装を身に纏ったブラニー族の若者が、通りの向こうから道行く人々の脚の隙間を縫うようにちょこちょこと走ってくる。小さな身体には大きすぎる荷物を両腕で抱え、機嫌よさげな表情で駆けていたブラニーはそのままケイナの横を通りすぎていこうとしたが……すれ違う瞬間、石畳の段差にでも躓いたのか勢いよくすっ転んだ。ひっくり返った荷物の中身が路上に散らばる。ケイナはぎょっとして、ゆっくりと起き上がろうとするブラニーに駆け寄る。

「だっ、大丈夫か……?」

「うー……痛てて。……あーっ! ぼくのおやつ!」

 地面に膝をついたまま悲痛な声でブラニーは叫ぶ。ケイナは視線を巡らせ、彼女――外見からは判別できないが、声の感じからして恐らく彼女で合っている筈だ――の瞳の先にあるものを探す。おやつ、とはどうやら散らばった荷物の中に入っていた月リンゴの事であるらしかった。随分と転がったらしい、ブラニーが転んだ地点からはそれなりに離れた場所に落ちていたリンゴと周辺に落ちた荷物をまとめて拾い上げ、そっと彼女へ差し出した。

「ほら、これ……ちょっと汚れてるけど……」

「わあ! ありがとう! きみすっごく親切だね!」

 ぱっと表情を変えて笑顔でリンゴを受け取るブラニーに、ケイナは改めて手のひらを差し出す。彼女は大きな瞳を何度か瞬かせた後、ますます笑みを深くしてその手を取った。

「ぼく、ディアマンテ! きみの名前は?」

「俺はケイナ」

「じゃあ、ケーちゃんって呼ぶね。よろしくね、ケーちゃん!」

「け、ケー……?」

 生まれて初めて聞く呼び方に動揺を隠せないケイナをディアマンテと名乗ったブラニーは小首を傾げて見上げる。一切の邪気が感じられない視線を受けて我に返ったケイナは、慌てて腰に括ったポーチを探るとハンカチを引っ張り出す。あまり使った事のないそれは少々よれてしまっているが、決して汚くはない……筈だ。

「あのこれ、良かったら……その、手とかすりむいてるし……」

「え? あーほんとだ、気付かなかったよ~。ありがとう!」

 のんびりした口調でそう言いながらハンカチを受け取って手のひらに滲んだ血を拭うディアマンテを、ケイナは何とも言えない気持ちで見つめた。初対面でこんな感想を抱くのは失礼な気もするが、彼女を見ているとかなり不安になる。感覚的にはリズを見ている時と似ている、と言うと分かりやすいだろうか。もっとも、それはそれで両者ともに失敬な物言いではあるが……。

 最後に頬についていた土を拭き取り、ディアマンテはにこにこと笑ってハンカチを掲げる。

「これ汚れちゃったから洗って返すね。えーとケーちゃんはどこに住んでるの?」

「あ……っと、俺は――」

「あーっ! ディアマンテさま!!」

 ケイナの言葉を遮るように、通りの先から大声が響いてくる。驚いてそちらを見てみれば、知らないブラニーが慌てた顔で走ってくるところだった。短い脚でパタパタ駆け寄ってきた彼は、ケイナを見た途端にむっとした表情を浮かべてディアマンテに詰め寄る。

「また勝手に抜け出して! いけませんよ知らない人と無闇に話しちゃ!」

「えーだってお買い物したかったんだもん」

「だってじゃありませんっ! さあ、帰りますよ」

「あーん待ってよ~。ケーちゃんごめんねー! ぜったい返すからー!」

 知り合いらしきブラニー男性に半ば引きずられながら手を振って去っていくディアマンテを見送りながら、一人取り残されたケイナはしばしその場に立ち尽くしていた。口を半開きにしたまま二人が去っていった方向を見つめていた彼だったが、道行く人々が自分に怪訝な視線を向けている事に気付くとそそくさと踵を返して元来た道を引き返した。そろそろ宿に戻らなければ、仲閒に心配されてしまう頃合いである。


 宿に帰ったケイナを迎えたのは何やら神妙な表情で見慣れない紙を囲むエールとエスメラルダだった。いったい何をしているのかと問えば、二人は神妙な様子のまま顔を上げて答える。

「実は、新しいミッションが発動されるらしくてさ」

「ミッション」

 オウム返しに呟いたケイナにエスメラルダはひとつ頷き、事の次第を説明し始める。

 なんでも彼は図鑑報告のために評議会に訪れた際にレムスに呼び出され、次に発動するミッションへの協力を要請されたという。その内容とは、かつて大戦時代に活躍した伝説の竜騎士の遺品の回収である。伝説の竜騎士……当時のアースラン王族の一員であり、太古の時代に種族の守護神たる黄金竜より賜ったという武具を身に纏って戦ったアースランの英雄だ。大戦時に命を落とした彼の遺体は世界樹の内部に葬られたというが……その彼の遺品の回収を王都、つまりアースラン王族がアイオリスに要請してきたという。『カレイドスコープ』を含むいくつかのギルドが達人として認められ、第三層を探索できる冒険者が増えたこのタイミングで、だ。

「四大種族で世界樹探索にいちばん積極的だったのは王都だって話は聞いてたけど、もしかしてこれが目的だったのかなあ……」

「偉い方々のお考えは分かりませんけれど……レムス様もお困りのようでしたし、わたしたちにお手伝いできる事があるなら協力して差し上げませんか?」

 ね、と困ったように笑って問いかけてくるエールに、ケイナも頷き返した。そもそも、自分たちはギルドの体制まわりの事で評議会にお目こぼしをしてもらっている身だ。協力を要請されて断れる立場には無い。

「ステファンとジャンには?」

「まだ話してない。明日合流した時に伝えるよ」

 他の宿で寝泊まりしている『ヴォルドゥニュイ』の元へ赴いて小難しい話をするには、少し遅い時間になりすぎた。ひとまず今夜は休んで明日になってから疲れの抜けた頭で話をする方が建設的だろう。じゃあそういう事で、と話を切り上げてミッション関連の資料を荷物にしまい始めるエスメラルダを見て、エールも座っていたベッドから腰を上げて大きく伸びをした。

「わたし、部屋に戻りますね。晩ご飯は準備してあるので気にしないでください。二人ともおやすみなさい」

「うん、おやすみ……」

 部屋を出ていくエールを見送り、扉を閉めれば室内は急な沈黙に包まれる。ケイナは何とはなしに室内を見回した。エールが先程まで腰かけていた窓際のベッドはマリウスが使っていたもので、彼が不在の今は布団もシーツも整えられたまま手つかずになっている。小さなサイドテーブルを挟んで逆の壁側にあるのは二段ベッドで、その下段がケイナの寝床だ。綺麗に整った反対側のベッドとは対照的に、彼の布団は朝起きて放り出したそのままになっている。

 そそくさと布団を広げて綺麗に整え始めたケイナに、資料をしまい終えたエスメラルダが声をかける。

「ケイナさ、最近ひとりでウロウロしてるけど、いったい何してるの?」

「え」

 思わずぎくりと肩を強張らせて振り返れば、エスメラルダは僅かに眉をひそめてこちらを見つめていた。その眼差しにこちらを責めているとか、問い詰めようとしているような雰囲気は感じられない……が。

「いや……その……特に何も」

「本当? ……まあ、そう言うんなら、そうなんだろうけどさ」

 そこで一度言葉を切り、エスメラルダはじっと自身の手元を見た。彼の体格には合わない椅子に腰かけ、足を小さくぶらつかせながら少しの間そうして黙り込んでいた彼は、やがて小さく息を吐いて口を開いた。

「何かあるならさ、話してほしいなって。だって僕ら、」

 続く言葉は形にはならなかった。何度か微かに唸るような声を漏らして悩む様子を見せたエスメラルダだったが、結局探していたものは見付からなかったようだ。椅子から飛び降り、ケイナの方を見ないまま告げる。

「やっぱ今のなし。……少なくなったハーブ買い足してくるよ」

 愛用の鞄を肩にかけてエスメラルダはドアに手をかける。部屋を出る瞬間、彼は小さく呟いた。

「ごめん……」

 そうして、狭い客室にはケイナ一人だけが残される。しばらく立ち尽くしたまま閉じた扉を見ていたケイナは、力無い足取りでベッドに近付くと整えたばかりの布団の上に倒れ込んだ。静寂ばかりが耳に痛い。三人分のベッドはどれも冷えていて、疲れた身体を受け止める感触は硬く息苦しかった。


     ◆


 夜の第三層に冒険者の姿は無い。暗く静まりかえった迷宮内には不気味な風鳴りや亡者が骨を鳴らしながら動く音が響くばかりで、空間そのものが生物の侵入を拒んでいるかのような空気さえ漂っている。

 そんな中、ハルは周囲を丹念に見回しながら気配を殺して歩いていた。彼の足元にはカザハナが寄り添っており、彼女はしきりに地面の匂いを嗅いでは主人を見上げた。不安げな彼女の頭を撫でてやりつつ物陰にしゃがみ込んだハルは小さく息を吐くと懐から小さな紙片を取り出す。丁重な手つきで開いたそれの内側に描かれているのは、地図だ。

 恐らく迷宮の地図ではあるのだろうが、その形状は彼が今いる十一階のものとは大きく異なっている。僅かに顔をしかめつつ、ハルは紙の端に書き込まれたいくつかのメモを指でなぞる。メモのうち半分はハルがよく知る汚い字で、もう半分はどこで使われている言語なのかも分からない異郷の文字だ。

 解読できない方の走り書きは無視し、見知った文字をしばし丹念に追いかけていたハルはやがて苦々しい口調で呟く。

「ここで合ってる筈なんだ……」

 カザハナが小さく鳴いて鼻先を頬に擦り寄せてくる。生暖かく湿った感触に毛皮を叩いて応えてから、彼は立ち上がった。フードを被り、口元を隠して再び歩き出す。夜闇に紛れて霧の向こうに消えていく彼の姿を、誰が見つける事も無かった――既に死したるものたちを除いては

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