【SQ5】13 残されたものたち

 夜に第三層に入るのは初めてだ。僅かでも足元を照らしてくれていた日光が無い今、迷宮内はいっそう暗く、来るものすべてを拒むような雰囲気さえ漂っている。

 そんな中、『カレイドスコープ』と『ヴォルドゥニュイ』の五人は一心不乱に走っていた。先頭を行くのはカザハナだ。暗闇でもよく目立つ彼女の白い背中を追いかけながら、エールが地図を広げて問う。

「この先、上り階段です! まだ行った事のないフロアですけど……!」

「行くしかないよ! 放っておいたらあの子、一匹で先に行っちゃうし!」

「さっさと衛兵が来てくれりゃ早いんだが……おいステファン、大丈夫か?」

「大丈夫じゃないです最後尾に置かないでください私を」

 ゴーストもびっくりの真っ青な顔をしたステファンは早口でそう言うが、足を緩める気配は無い。ジャンはやれやれと首を振ると言われた通り彼の後ろについた。彼の背中におぶられたエスメラルダも一緒である。

 慌てた様子で宿に戻ってきたケイナに説明もそこそこに迷宮へ連れ出された四人には、正直なところあまり状況が理解できていない。ただケイナの焦りようからしてただならぬ事態が起きているらしい事は分かったし、何より彼が強引に仲閒を連れ出そうとするなど初めての事だ。そしてそのケイナはというと、鬼気迫る表情でカザハナのすぐ後を追っている。口数は少ない。何が起こっているのか問い詰めたくはあるのだが、それが憚られるほどの必死さである。

 階段を上りきった。カザハナが足を止め、地面の匂いをふんふんと嗅ぎ始める。ジャンの腕から下ろされたエスメラルダが辺りを見回した。十三階……一行にとっては未知の領域だ。だがそれは、恐らくこの先にいるであろう人物たちも同じだろう。

 カザハナは匂いを嗅いではくるくると同じ場所を回り続けている。ケイナが彼女に歩み寄り、荷物から取り出したハンカチを鼻先にぶら下げた。戸惑うように自分を見上げてくる白犬に、小さく首を振って呟く。

「頼む……」

 カザハナはしばしじっとケイナを見上げ、それからハンカチの匂いを嗅ぐと踵を返して迷いのない足取りで歩き出した。ケイナが四人を振り返ってひとつ頷く。

 一行がこのフロアを訪れるのは初めてだという事を分かっているのか、カザハナの足取りは先程と比べると穏やかだ。時折こちらを振り向いて様子を窺っているらしい彼女に置いていかれないよう、最低限の地図を描き残しながらついて行く。

「毒沼がありますね」

 行く先に目を凝らしていたエールが渋い表情で言う。その斜め後ろに張りつくように立っていたステファンが、無言で発動機を起動した。カザハナを含む一行の身体が淡い光に包まれる。レビテーションと呼ばれる防護魔法だ。エールが感嘆の声を上げて振り返るが、ステファンは今にも息絶えそうな顔色で力無く頷くばかりだった。早めに事を終えなければいよいよ彼の精神が保たないかもしれない。

 カザハナが軽やかな足取りで毒沼を進んでいく。例によってケイナもすぐさまそれに続いた。数歩遅れてエールが後を追う……が、毒沼へ踏み出そうとした彼女の視界の端に何か黒いものが映った。はっと顔を上げる。

 中身が空っぽのローブが、ぬるり(・・・)と壁の中から現れる。

「なっ……!?」

「ビャ!! ア!? あええオアッ…………アァ!!!!」

「落ち着け! 魔物だから!!」

 咄嗟に剣を抜くエールの後ろで完全に平静を失って取り乱したステファンをジャンが抑える。背後の異変に気付いたケイナが刀を手に振り返る。しかしその瞬間、エスメラルダの鋭い声が飛んだ。

「行って!」

 続く言葉は無かった。ローブの魔物が勢いよく身を翻して裾を振り抜けば周囲の壁に、墓石に、鋭利な傷跡が残る。不可視の斬撃をことごとく避けきったジャンが大きく踏み込んで拳を振るう。実体は無くとも手応えはあった。僅かに怯む魔物をエールの突きが貫く。目に涙を浮かべ、杖を抱きしめてブルブル震えていたステファンもまた、覚束ない指先で発動機のブレードを展開した。洟をすすりながら詠唱を重ね、魔法を発動する――その寸前に放り投げられたスモークが魔物を包む。

 数秒間の攻防を足を止めて見ていたケイナだったが、戻ってきたカザハナに袴を引っ張られて我に返った。後ろ髪を引かれつつも踵を返して先へ進む。

 広い空間を抜け、細い通路へ差しかかった。どこからか唸り声……否、風の音だ。背筋を這う怖気に肌が粟立つ。暗く見通しの悪い通路の先に人影を見たのはその時だった。セリアンの女、だ。帯刀している。鬼面を象った装飾でかざられたその装備はマスラオのものだ。

 刀を抜いてゆっくりと近付いていく。女はケイナを見ると腰かけていた墓石からぴょんと降りた。その足元に両手で抱えられる程度の大きさの麻袋が置いてある。そしてよくよく見てみれば、麻袋の中身はもぞもぞと動いていた。中に何かがいる。あの袋に入りそうな大きさのものといえば、子ども、動物……あるいは、ブラニー族。

「よう、一人で来たの? なかなか豪胆じゃん」

 弾んだ口調で女は言う。今にも飛びかかっていきそうな様子で牙を剥き、低く唸るカザハナを押し留めながら、ケイナは苦虫を噛み潰したような顔で彼女に問うた。

「ディアマンテは……ハルも、ここにいるのか」

「そんな名前だったの。いるよ、ブラニーの子ならここに」

 と、女は踵を上げてうごめく袋を小突く。ほんの軽い力での動作ではあったが、突如加わった衝撃に袋の中身は驚いたのかぎくりと固まり、身を縮めるように小さくなるとそのまま動かなくなった。思わず身を乗り出すケイナに、女は抜き放った刀の切っ先を突きつける。

「もう一人のセリアンの子はいま大事なお話中。私は邪魔が入らないようにするための見張り番だ」

「話……」

「おっと、申し遅れた! あたしはラクライ。よろしくね、偽名だけど」

 気さくにそう言いながら、彼女は両の腰に佩いた刀を抜き放つ。とん、と踵を鳴らせば頭上の長い耳が揺れた――瞬間、ラクライは目にも止まらぬ速さでケイナの懐へ飛び込んでくる。咄嗟に刀を顔の前に構えれば今までに感じた事のないような重さが掌を震わせた。真っ直ぐに振るわれた、単調な一閃……だというのに受け流す事もできない。組み合った唾ががちりと鳴る。鍔迫り合い越しの女の顔がにやりと笑んだ。刺すような悪寒。無理な角度で擦れた刃が嫌な音を立てるのも無視し、ケイナは背後へ跳んだ。同時にラクライのもう片方の手に握られていた刃が、先程まで彼の胴があった場所を薙ぐ。

 帯の端が僅かに裂けた。瞬きひとつできないまま呼吸を整えるケイナに、ラクライはひゅーぅ、と口笛を吹いてみせる。

「思ったより速い。イイね! 殺りがいあるじゃん」

「な、にを……!」

「人質は生かしておけって言われたけど、キミの事は言われなかったからね。ま、あの魔物に斬り払われたって事にでもなってくれよ。すぐ終わらせるから……さッ!」

 気合いの声と共に先程とまったく同じ軌道の斬撃が飛ぶ。寸でのところで回避したケイナだが、視界の端で光った反射光には咄嗟に対応する事ができなかった。それでも何とか全力で上体を反らす。断たれた髪の束が湿った地面に落ちた。頬が熱い。流れた血を拭う事もできないまま、必死に距離を取って体勢を立て直そうとする。だが相手もそれを許すほど優しくはなかった。

 ケイナをその場に縫い止めようとするかのように、鋭い刺突が襲う。あわや心臓を抉られるというその瞬間に飛び込んできたカザハナがその身体を押し出した。受け身も取れず地面に転がる彼を守るように白犬は女の前に立ちはだかった。ラクライは小首を傾げ、敵意を剥き出しにして唸る彼女を見下ろす。

「おや、かわいい犬。キミも一緒にかかってくるかい?」

 カザハナは一声吼えるとラクライへ果敢に向かっていく。ケイナは身を起こし、叫んだ。

「駄目だ! 下がれ!」

 カザハナの足が緩む。その一瞬の動作がラクライのリズムを狂わせた。すぐ側を掠めた刀に怯んだ様子もなく、カザハナは大きく回り込んでケイナの元へ戻ってくる。ケイナは大きく息を吐き、噴き出した汗を拭った。彼女の背を撫でてやる余裕も無い。立ち上がって構え直した瞬間に大振りの一撃が飛んだ。

 双刀から繰り出される攻撃は絶えずこちらを狙ってくる。身のこなしだけで全て避けるのは無理があるが、刀を防御に回せば今度こそ空いた胴か脚かを獲られるのは目に見えている。カザハナが援護してくれているがそれでも追いつかない。剥き出しの肩に血が伝う感覚。身体の内に流れる父祖の遺伝子が叫ぶ。

 「勝てない」。

 だが、声が聞こえたのは、その時だった。

「……ん……け、え、ちゃーん!!」

 はっとそちらに意識が向いたのはケイナだけではなかった。耳を揺らしたラクライが振り返った、その刹那に辺りを眩い光が灼いた。袋の中から放たれたそれのお陰で、ラクライの動きが止まる――弾かれるようにケイナは動いた。女の手から刀を弾き飛ばし、鳩尾に膝を叩き込む。

 膂力ならば彼も決して劣ってはいない。渾身の蹴りを食らったラクライは後ろに吹き飛んで倒れた。が、ケイナが刀を構え直している間に早くも身を起こし、イテテ、と顔をしかめて立ち上がろうとする。

「今のダメでしょ、ルナリアなら背骨まで折れてたぞ……」

「ケーちゃん! ケーちゃん! どうなってるの!? ケーちゃーん!!」

 袋がひときわ激しくもがく。ラクライはそちらに目をやり、それからケイナ……ではなく彼の背後にも目をやり、舌打ちをひとつこぼして懐――どう見ても胸に巻いたサラシの隙間だった――からアリアドネの糸を取り出した。

「袋詰めのブラニーならどうとでもなるけど、邪魔が入るのは面倒だ」

 止める事はできなかった。一拍遅れて駆け出そうとしたケイナに、ラクライはにこりと笑顔を向ける。

「じゃ、またね~」

 あっけらかんとした調子でそう言い残すとラクライの姿は掻き消える。しばし肩で息をしながら呆然としていたケイナだったが、自分を呼ぶ声に我に返ると慌てて放置された袋の元へ駆け寄った。焦りのせいで動きの覚束ない指先を叱咤し、硬く縛られた口を切る。

 ようやく開いた布の隙間から、袋の中身は転がるように飛び出してきた。薄汚れた顔をぐしゃぐしゃに歪めたディアマンテはケイナの顔を見るとよじ登るように彼に縋りつき、傷ついた頬や肩口に手を当てた。

「けっケーちゃ、怪我……待っててぼく巫子だから、怪我を治す力もつか、使え、っるから……」

 震える手を祈るように握れば彼女の身体から溢れた暖かい光がケイナを包む。痛みが徐々に引いていく感覚に驚くケイナをよそに、ディアマンテは祈りの姿勢のままふるふると身体を震わせる。荒い吐息が嗚咽に変わった。ばっと顔を上げた彼女は涙に濡れた頬を勢いよくケイナの胸に押しつけた。ぎょっとしたケイナが何か反応する暇もなく、彼女は声を上げて泣き始める。

「うわああん! こわっ、怖かった! 怖かったよお!!」

「え、あ、え……!」

「しん、死んじゃうかと思ったあ……! ケーちゃんありがと、ありがとお……!」

 生暖かい涙の感触が胸に染みこんでくる。されるがまま、ただ黙ってディアマンテの泣き声を聞いていたケイナだったが、ふと瞬きをした瞬間に自分の瞳からも涙がこぼれた事に気付いて驚いた。慌てて手の甲で擦るが、拭ったそばから次々に溢れて止まりそうにない。喉の奥が詰まるような感覚。堪えきれず、掠れた声が漏れた。

 今になってようやく自分の内面に目を向ける。こんなに必死になって、あの時(・・・)の雪辱を果たそうとでもしたつもりなのか。今更もう遅いのに――何の関係もない女の子を救えなかったものの身代わりにまでして、赦されたつもりになっている。

 でも、間に合ってよかった。生きていてくれてよかった。

 カザハナが心配そうに周囲をくるくると回っている。二人はしばし寄り添ったまま泣いた。背後から幽鬼のごとき魔物を打ち倒したばかりのボロボロの四人が駆けてくるまで、片や声を上げて、片や歯を食いしばって。


「……地図?」

 ジャンの背に乗ったエスメラルダが思わず問い返せば、同じくケイナの背に乗ったディアマンテはひとつ頷いて応えた。

 分断された状態から無事に合流し、傷の手当てを終えた一行は改めてケイナとディアマンテの証言から状況を確認した。ケイナとディアマンテの関係、襲ってきた謎の女、そしてハルがまだこの迷宮の中にいるらしい事……。あらかたの経緯を聞いた上で五人――と、ディアマンテとカザハナ――はフロアの更に奥まで向かう事を決めた。

 主の気配を辿りながら先を行くカザハナの後を追いながら、六人は今回の事件について話していた。ひとまずハルが何者かに連れられてこの迷宮に来た事と、そのやりとりを目撃してしまったディアマンテが口封じのために誘拐されたという事は確かだが、当事者たちがいない以上詳しいところはよく分からないのが現状だ。

 うーんと唸り、こめかみの辺りを押しながらディアマンテはぼくもはっきり聞こえなかったんだけど、と前置いて告げる。

「その……ハルくん? の持ってる地図が欲しいんだって。顔は見えなかったけどアースランかルナリアの男の人だった。その後すぐに気を失っちゃったから、それ以上はよく分からないんだけど……」

「地図なんて誰でも持ってるだろ。なんでそいつのなんだ?」

「いや……そうじゃない。地図ってたぶん、冒険者が描いてるやつじゃなくて……」

 そこまで言ってケイナは躊躇するように口ごもった。隣にいたエールが咎めるような視線を送れば、彼は視線を下に落としつつ苦々しい口調で続ける。

「……あいつの親が遺した地図だ。十年近く前に行方不明になってるけど……確かに、今思えばあれは三層の地図だったかもしれない」

「いや、それおかしいだろ。迷宮探索が解禁されたのここ一年かそこらの話だぜ」

 ジャンがそう突っ込めば、ケイナは困り果てたような表情で黙り込んだ。明らかに言いあぐねている様子の彼を横目に、相変わらず何かしらの病にでも罹っているのではと心配になる顔色をしたステファンがぽつりと呟く。

「違法冒険者ですか」

 その言葉にケイナは耳を強張らせ、がくりと頭を下げて首肯した。辺りに気まずい空気が流れる。

 違法冒険者とは、文字通り公的に認可されていないまま迷宮探索を行う冒険者の事だ。現在のアイオリスで言えば冒険者ギルドで冒険者登録を行わずに迷宮に出入りしている者が該当するが、少し前……四大種族の連名で世界樹探索を解禁する旨のお触れが出されるまでは、そもそも「世界樹の迷宮に立ち入る事」自体が違法だった。ハルの両親が行方をくらましたという十年前よりも当然その時代である。

 うう、と苦々しい表情で呻きながら、ケイナは視線を逸らしてもごもご呟く。

「俺もハルも当時は迷宮に入る事が駄目だなんて知らなくて……その、時効とかにならないか……? 駄目かな……」

「え、ええと、ハルさんのご両親はともかくとして。その地図っていうのは、特別な物なんですか?」

「それが……俺もよく知らないんだ。親父さんが旅の冒険者から買い取ったとか……そんな話くらいしか……」

 と、そこでケイナは言葉を切った。何かを思い出したように目を瞬かせ、そういえば、と首をひねる。

「読めない文字が書いてあった気がする」

「読めない文字?」

「文字なのかもよく分からないけど、たぶん。俺たちが地図の余白にメモしてるみたいなのが、何個か……」

「じゃあそれが狙いなんじゃね? たとえば、お宝の隠し場所が書いてあるとか」

 ケイナの言葉を受けたジャンの発言は安直ではあったが、それ故にかえっていかにもそれらしく聞こえた。何故ならこの階層には伝説の竜騎士の遺品という財宝が眠っているのだ。禁足地に立ち入った冒険者が描き残した宝の地図が巡り巡ってハルの手に渡り、それを狙う人物の手によって今回の事件が引き起こされた……それなりに筋の通った推測である。

 だが、真相を確かめるには本人たちに訊いてみるほか無い。先を行くカザハナの足が早まってきた。彼女に置いていかれないよう気をつけながら、一行は暗く禍々しい気配に満ちた迷宮を進んでいく。

 迷宮の真ん中にひとり立ち尽くすハルを見つけたのは、それから間もなくの事だった。夜闇に映える金色が通路の先に見えた瞬間に駆け出したカザハナを、六人も追う。

 近付くにつれ、ハルが得物である弓を手にしているものの矢を放つ気配が見られない事が分かってくる。そして彼に迫る二つの影……ちょうどこの迷宮を徘徊している魔物と似たような様相の骸骨の姿も。一行はそれぞれ武器を手に取る。同時に先んじて主の元へ飛び込んでいったカザハナが骸骨のうち一体に体当たりを喰らわせた。

 唐突な乱入者に驚いたハルが振り返る。仲間たちがカザハナの後に続いて骸骨へ向かっていく中、ケイナはディアマンテを背負ったまま彼の前に立った。

 ハルの顔は薄汚れている。手足にはいくつか傷があるのも見えた。口の動きだけでどうして、と言った彼をまっすぐに見つめて、ケイナは告げる。

「あのさ! 俺……やっぱり強くなりたい。でも違うんだ、あの時自分が死ねばよかったとか、そんなんじゃなくて。あいや少し違って、……俺が赦されるなんて思わないけど、誰にも死んでほしくないし、傷ついてほしくなくて」

 所々つかえてしどろもどろになりながらケイナは必死に言葉を紡ぐ。声の端は微かに震えていたが、視線だけは逸らさなかった。

「強くなきゃ助けに来れない。お前の事だって」

「…………」

「だから……だから俺は上に行く。その、ごめん……」

 ケイナはそれきり口をつぐんで、ハルの返事を待った。背中のディアマンテが身じろぐ。戦っている仲閒たちは苦戦している気配も、こちらを呼び立てようとする気配もない。

 憔悴した表情で固まっていたハルはやがて唇を引き結ぶと深く俯いた。低く小さな声で彼は言う。

「地図、持っていかれた」

 言葉のわりに、その声は静かで落ち着いているように聞こえた。何も言えないケイナを前に、彼は淡々と続ける。

「もう良いんだ。その子、人質にされてた子だろ。無事で良かったよ。ボクはもう迷宮を歩き回る必要ないし。……探しもの、意味なくなったし」

 すっと腕を上げ、ハルは背後を指さした。その先では骸骨を相手に戦闘が繰り広げられている。ステファンの放った魔法が骸骨のうち一体、前衛に出ている方を焼いた。よく見ればその手に握られているのは刀だ。後衛のもう一体は弓を構えていたが、矢を放つ前にその足元に飛び込んだカザハナが白い脛を噛み砕いた。この調子ならばもうじき決着がつくだろう。

 力無く笑ってハルは告げる。

「父さんと母さんだ」

 ケイナの瞳が大きく見開かれる。思わずハルの横を通り抜けて前線の仲閒たちの元へ向かおうとした彼だったが、肩に置かれた手がその足を止めさせた。ケイナを引き止めたハルはしかし振り返りはせず、俯いたままでぽつぽつと話し続ける。

「ボクの方こそ言い過ぎた。別にお前のこと否定するつもりとか、そんなんじゃなくてさ。ボクだってお前が酷い目に遭うのは嫌だし」

 ケイナの肩に乗せた手に僅かな力が入る。皮膚に食い込む指先は冷えていた。ハルはか細い声で、噛みしめるように言った。

「お前のせいじゃない、って言いたかっただけなんだ。ごめん」

 刀を持った骸骨がエールの剣に貫かれ、音を立てて崩れ落ちた。地面に散らばってぴくりとも動かなくなった白骨を前にして四人はやっと武器を下ろす。カザハナが無邪気に尻尾を振って駆け寄ってくる。すり寄ってきた彼女の額を撫で、ハルはもう何も言わずただ目を伏せた。


 結局、メレディスという名のアースランの男が何故地図を欲しがっていたのかはハルにも分からないという。ディアマンテを人質に第三迷宮に連れ出され、しばし押し問答をした後で両親の死霊を召喚されて動揺した隙に地図を奪われ、そのまま置き去りにされ……というところで一行がやってきた、という事らしい。

 ひとまず事の成り行きを評議会に報告するにはしたが、犯人たちが捕まるかどうかはハッキリ言って分からないそうだ。というのも、メレディスという名の死霊遣いも、ラクライという名の剣士も、冒険者ギルドには登録されていないのだ。ただでさえ各地からの訪問客でごったがえしている今のアイオリスで届け出のなされていない人物を捜し出すのはかなり難しい。

「落とし物でもしていってくれてたら、この子に匂いを追ってもらえるんだけどね」

 座って大人しくしているカザハナの毛皮の感触を確かめながらエスメラルダが言う。ケイナは頷いて応えた。十三階の探索はまた改めて行う事になるであろうし、その時に何か発見できる可能性もあるが……あまり期待はしない方がいいだろう。

 ケイナたちが腰を下ろしているのは評議会の正面広場に備えつけられたベンチだ。時間帯は深夜……というよりは夜明けに近い頃という事もあり、周囲には人っ子一人見当たらない。にもかかわらず二人と一匹がこの場に座っているのは、評議会で取り調べを受けているハルを待つためだ。

 事件の経緯を説明するにあたり、ハルは自身の両親の事も洗いざらい証言した。彼の父と母は十数年前から幼い息子を友人の――ケイナの両親の元に預け、世界樹の迷宮へ忍び込んでは採取した素材を売って稼ぎとしていたのだという。ただ、二人は自分たちで地図を描きながら迷宮を開拓していったわけではなく、旅人に世界樹の地図を売ってもらった(・・・・・・・)らしい。ハルはその旅人とやらについては詳しく聞かされてはおらず、その素性は謎であるそうだが。

 十年以上過去の話であり、また当人たちも既に死亡しているが、評議会にとって違法冒険者の存在は放置してはおけない問題だ。ハルが認定を受けていないにも関わらず第三層に立ち入っていた事も含め、詳しく事情を聞いてから処遇を決めるという。

「ハルは……そんな裁量でも受け入れるって」

「でも、同情の余地はあるでしょ。レムス様に頼んだらどうにかしてくれないかな……」

 君もそう思うでしょ? とエスメラルダが問いかければ、カザハナはワンと鳴いて彼の頬に鼻先を押しつけようとする。ぐいぐい圧してくる湿った鼻を苦笑混じりに押し返していたエスメラルダだったが、ふと真剣な表情になってケイナを呼んだ。

「あのさ。もっとできる事があったんじゃないか……って思ってるの、君だけじゃないからね」

 ケイナは目を丸くしてエスメラルダを見た。エスメラルダの翠色の瞳はまっすぐにケイナを見上げている。

「もっと早く助けを呼べたらってずっと思ってた。……今も思ってる」

「……うん」

「僕だけじゃなくてリズも、マリーさんだってきっとそうだよ」

「うん」

「だから一緒に強くなろう。ケイナたちが魔物と戦ってさ、どんなに傷ついても僕が治すよ。そしたら僕ら、最強でしょ」

 そう言ってエスメラルダはにっと笑った。ケイナも笑って応える。どちらもどこか無理をしたような笑みだ。だが、今はそれで構わなかった。

 カザハナがおもむろに立ち上がり、尻尾を振りながら駆けだした。どうしたのかと彼女が向かっていく先を追ってみれば、評議会の建物から出てきたハルがいるのが見える。二人もベンチから立ち上がった。ゆっくりこちらへ歩いてくるハルを手を振って迎える――ふと視線を上げれば、建物の隙間から見える空が僅かに白んできているのが目に入った。ケイナとエスメラルダは顔を見合わせて苦笑する。結局徹夜になってしまったが、それも仕方ないだろう。

 後ろ脚で立ち上がってじゃれついてくるカザハナを、ハルは困った表情で押し留めている。二人は笑って彼を手伝った。長い夜が終わりを告げ、街には朝陽が射そうとしている。


     ◆


 長く閉ざされていた扉が、開いている。

 薄暗い廊下の先にそれを見たリズは思わず駆け足でそちらへ近付いた。薄く開いた扉の隙間から部屋の中をそっと覗き込む。ランプの灯りに照らされた橙色の部屋の真ん中で、彼は真っ白なキャンバスを目の前に立ち尽くしていた。……絵を描くのが趣味だと、聞いた事がある。

「マリー」

「……リズ」

 小さな声で呼べば、マリウスは顔を上げて振り返る。逆光で表情は見えづらいが返った声は柔らかかった。マリウスが拒絶の意志を見せない事を確かめると、リズはおずおずと部屋に入って彼の隣へ歩いていく。

 ランプに灯った光ひとつでは広い室内をすべて照らす事はできない。部屋の隅の暗がりにぼんやりと浮かぶ影、あれもキャンバスだろうか。別の方向を見れば、中庭に面したテラスにいくつかの鉢植えが並べてあるのが見えた。

 目を凝らして更に部屋を見回そうとしたリズの頭に軽い感触が乗る。少女の髪を優しく撫でながらマリウスは告げる。

「すまない、心配かけたな」

「……んーん」

 首を振れば、小さな笑いが返った。リズは顔を上げて彼の表情を見ようとして、やめた。今の状態で上を向けば頭を撫でる手が離れていってしまう。それは嫌だった。リズの逡巡に気付いているのかいないのか、マリウスは手を止めないまま静かな声で続ける。

「今日、アイオリスへ手紙を出した。準備には少し時間がかかるが、私たちも探索に戻ろう」

 え、と思わず声が漏れる。予想だにしなかった言葉に戸惑うリズとは違い、マリウスの様子は落ち着いたままだ。

「長く留守にしてしまった事だし、三人が受け入れてくれるかは分からないが……」

「でも、でも……マリーはいいの?」

 その問いかけにマリウスは圧し黙る。リズは彼のシャツの裾を掴んだ。

「あのね、リズはみんなと一緒でうれしい……リズ、おうちではひとりだった。優しいのはミーシャだけ。みんなリズのこと嫌いだって」

 そう言って彼女は自身の肩に垂れた髪の束を掴む。目の醒めるような金色をしたそれを強く握りしめながら、リズは弱々しい声で呟く。

「ダークルナリアはこんな髪の色じゃないって、こわい顔してた」

「…………」

「だからリズ仲閒ができてうれしくて、探索もちょっとこわいけど楽しくて、でも……でもリズは……マリーがつらいのは嫌……」

 沈黙が下りる。ひときわ強く吹きつけた夜風が窓枠を揺らす音がした。弱い雨粒がぱらぱらとガラスを叩く。窓の外、鉢に植えられた植物がざわざわと鳴る。しばし音を響かせていたそれらが完全に沈黙するのを待ってから、マリウスは口を開いた。

「お前は優しい子だな」

「マリー」

「だが戻らなければ。私が辛いかどうかなんてそんな事は関係ないんだ。これは私が始めた事で、私はまだ生きていて、五体満足に動かせる身体がある。私は行かなければ……私が、」

 頭上から生暖かい温度が滑り落ちた。その感覚があって初めて、リズはマリウスの顔を見上げる。しかし彼の表情は見えなかった。掌で目元を隠し、震えた吐息と共に呟く。途方に暮れたような声色で、助けを求めるように。

「私がここで諦めたら、姉上は何のために死んだんだ……?」

 あ、とリズは声にならない声を漏らした。同時にマリウスは顔を覆ってその場にうずくまる。床板が軋んで悲鳴じみた音を立てた。風の音が聞こえる。窓枠の隙間から甲高い叫びが吹き込んでくる。

 迷子の子供のように座り込む青年をリズは思わず抱きしめた。彼女の腕ではマリウスの身体を囲う事はできない。それでも回りきらない腕を伸ばして、縮こまった身体を必死に掻き抱く。

 嗚咽混じりの声でマリウスは言う。

「無駄死になんかじゃない。そうだろうリズ、私が証明しなければ……たった一人の姉を、犠牲にしてまでも、挑む価値があったと……私が……」

「マリー、ごめんね、リズそんなつもりじゃ」

「行かないと、……姉上……姉上……」

「ごめんねマリー、ごめんね……泣かないで……」

 ランプの灯りが揺れる。冷たい床に落ちた二人分の影が、心許なげにゆらめいている。長く続いた雨はいつの間にか止んでいた。雨音の聞こえなくなった夜はひどく静かで物寂しい。月明かりが厚い雲の向こうに隠れてしまった今、部屋にこびりついた暗がりを照らすには、ランプひとつではあまりに無力だった。

 ――そして、朝はやって来る。生きとし生けるものすべてに平等に、残酷に。

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