【SQ5】17 メレディス

 獣避けの鈴を手に単身十六階を進んでいたエールを迎えたのは、一人の女性だった。金髪に青い瞳、白い肌……典型的なルナリアの特徴を持った若い女だ。その顔に見覚えは無い。

 彼女はやって来たエールを無表情に眺めると、静かに口を開く。

「こちらです」

 抑揚のない声で言葉少なに告げ、女はエールを先導するように歩き出す。声を聞いて初めて、エールは彼女が昨夜自分の元に現れた女その人であった事に気付いた。しかしそれを口に出す気にもなれないまま、ただ俯いて少し離れた背中を追う。

 自分がひとりで迷宮に入っている事は仲間の誰も知らない。マリウスは朝からソロルとの特訓に出かけていったし、リズとエスメラルダはミーシャの元へ行くと言っていた。ケイナの予定は聞いていないが、そもそも昨日の夜から顔を合わせていないので行き先など知りようもないだろう。大丈夫――大丈夫、な、筈だ。こうして誰にも知られず街を出てきたのだ。誰にも知られないまま事を収めてしまえば全て無かった事にできる。

 硬い表情で後ろをついてくるエールに、女は一度だけ視線を送った。しかし彼女は表情ひとつ変える事もなく、何も言わずにただ歩き続けるばかりだった。

 女が足を止めたのは曲がりくねった小路を抜けた先、次の階に繋がる階段が遠目に見え始めた辺りだった。探索でも未だ訪れた事のない場所を不安げに見回すエールを振り返り、静かに告げる。

「引き返すなら、今しかありませんよ」

「……っ」

 エールが唇を噛みしめたまま何も答えないのを見ると、女はそうですか、と呟いて再び歩き出した。階段に足をかける彼女を追ってエールも重い足を一歩踏み出す。

 階段を上った先には少し開けた空間が広がっていた。野営に丁度よさそうなスペースを横目に西へ直進し、水晶の隙間を通り抜けて先へ進む。しばしそのまま歩き続けてやがて辿り着いた突き当りに、彼はいた。

 白髪のアースランだ。歳はエールより幾つか上に見える。こちらもエールの記憶には無い顔だ。彼は先に歩いてきた女に手を振るとにこやかに口を開いた。

「お疲れ、レイチェル。魔物には遭わなかった?」

「…………」

 レイチェルと呼ばれた女は青年の問いかけには答えないまま、彼の横を通り過ぎて壁際まで移動する。水晶に寄りかかり、足元を見つめたまま一瞥を寄越そうともしない彼女に肩をすくめると、青年は改めてエールに向き直った。その顔には真意の読み取れない微笑が浮かんでいる。

「どうも、来てくれてありがとう。エール……って呼べばいいんだっけ?」

 エールはひとつ頷いた。青年は僅かに瞳を細め、丁寧な仕草で礼をする。

「初めまして。俺はメレディス・コーディア……名前はもう、知ってるよね」

 エールははっとした。脳裏に浮かぶのは第三層にハルたちを捜しに行った夜の記憶だ。あの後、ハルから聞いた下手人の名前こそ、「メレディス」だった筈だ。

「……あなたが……ハルさんと、ディアマンテさんを?」

「悪い事をしたとは思ってる。でも俺にも事情があってね……まあ、その話は今はいいだろ」

 そう言ってメレディスは一歩踏み出す。エールは無意識に肩を強張らせた。にこやかな表情を崩さないまま、青年は続ける。

「君とはずっと話がしたかったんだ」

「わたし、と?」

「そう。ああでもその前に、君にとってはこちらの方が大事かな」

 メレディスが指をひとつ鳴らした。少し間を置き、エールの背後から足音が聞こえてくる。緩慢に反響するそれが耳に入った瞬間、エールは弾かれたように振り返った。そこに立っていた人物の姿を見た瞬間に彼女はさっと顔を青くする。

 群青色の髪、空色の瞳、見紛う筈もない、その姿は――。

「……兄さま!」

 エールは悲鳴にも似た声を上げ、彼の元へ駆け寄ろうとした。しかし寸前で飛び出してきたセリアンの女に阻まれる。女の腕から逃れようともがきながらエールは必死に叫ぶ。

「兄さま! わたしです! わたし……っ!!」

「はいはい落ち着いて。話は最後まで聞こうね」

 セリアンの女――ラクライがそう言ってエールを殊更に強く抑え込む。拘束された腕の痛みに呻きながら、エールは目の前のに立つ男を見た。彼はエールの姿を見ても何も言わない……それどころか呼びかけに反応する様子も、こちらに視線をやる気配すら無い。通路の真ん中に佇んだまま、どこを見ているのか分からない目で虚空を見つめ続けている。

 相手の様相が明らかに異様であることに気付いたエールが言葉を詰まらせるのと同時に、メレディスが口を開く。

「彼女の言う通り。色々と言いたい事はあるだろうけど、ちょっと俺の話を聞いてくれよ」

「――――」

「俺はある目的のために世界樹の頂上を目指してる。でも、ただ迷宮を登っていくだけじゃ不足でね。欲しいものがあるんだ……たとえば、ある冒険者が描き残した十二年前の迷宮の地図(・・・・・・・・・・)」

 そう言いながら青年は懐から年季の入った紙を一枚取り出す。そこに描かれているのは迷宮の地図だ。その傍らに残された走り書きは、見たこともないような文字で記されている。

「ハルっていったね。彼が持ってた地図がこれだよ。勿論他のフロアの分もある。十年以上も経っているし、流石に見つからないものもあったけど、それでも全体の半数が俺の手にある」

 そこで言葉を切り、メレディスは改めてエールを見る。その顔には相変わらずの笑みが浮かんでるが、その裏にはどこか試すような色が浮かんでいる。

 たっぷりと息を吸い込んで青年は言う。

「君も持ってるんだろ、同じ地図を」

 エールの呼吸が止まった。ラクライが拘束を緩めたのにも気付かないまま、今にも倒れてしまいそうな顔色で自身の足元を見つめ続ける彼女へ、メレディスはまた一歩近付く。

「本題に入ろう。俺は君が持っている地図が欲しい。代わりに彼を譲り渡そう」

 そう言いながらメレディスが示すのは、先程から同じ場所に同じ姿勢で佇み続けている男だ。エールはゆっくりとその指先を目で追い、喉の奥で呻いた。

「そ、んな……」

「君にとっても思い出深い品だっていうのは理解してるさ。でも、もしそれが手に入ったら俺はもう人質を取ってでも地図を集める必要は無くなるし、君だって仲間を巻き込まずに事を収められる。なかなか良い条件だと思うけどね」

 軽やかに語るメレディスの言葉に、彼の背後で水晶に身を預けていたレイチェルが僅かに眉をひそめる。ラクライはこっそりと肩をすくめた。彼女の顔には呆れたような笑顔が浮かんでいる。

 エールはしばし俯いて震えたまま黙り込んでいたが、やがてきつく目を閉じると小さく頭を振った。細く息を吐き出して顔を上げ、メレディスに応える。

「分かり……ました」

 エールの手が腰のポーチに伸びた。覚束ない指先がアリアドネの糸や薬品の瓶が入った容れ物を探る。底に敷かれた皮の切れ端をめくれば、目当てのものはそこに隠されていた。小さく折り畳まれた何枚かの紙片――広げてみれば、そこに描かれているのはまさしく迷宮の地図だ。

「わたしが持っているのは、これで全部です……」

「ありがとう。貰うよ」

 メレディスが手を伸ばす。エールが差し出された掌に地図を載せれば、彼は心底嬉しそうに笑って受け取った品を検め始めた。地図の内容が自身の手元にあるものと合致している事を確かめると、ひとつ頷いてエールへ向き直る。

「確かに受け取ったよ。約束通り、彼とゆっくり語り合うといい」

 メレディスの指がぱちんと鳴らされる。瞬間、エールの背後にいた男が動いた。一歩踏み出し、エールの元へ歩み寄り――彼女の胸ぐらを掴み上げる。

「――え、」

 言葉を失い、自身を見下ろす男の虚ろな無表情を見上げ、初めてエールは彼の片手に抜き身の剣が握られている事に気付いた。ラクライやレイチェルが割って入る気配は無い。彼女たちはただ静かに事の成り行きを見守っている。

 メレディスが穏やかな笑みを浮かべて言う。

「うん、そうだね。別に嘘はついていないよ。初めから生きて帰すとは言っていなかったし」

 それに、と青年はいっそう笑みを深くする。

「いなくなった人間が戻ってくるなんて、そんな都合のいい話があるわけないだろう……?」

 持ち上がった剣の切っ先がエールを向く。呆然と胸元を持ち上げられたまま動けない彼女に向って、無慈悲な刃が振り下ろされる――。

 その時だった。突如響いた破壊音が辺り一帯に反響する。はっとしたメレディスが後退した瞬間、彼のすぐ傍らに水晶の塊が落下した。砕けて飛び散った欠片を反射的に手で防いだ隙を見計らい、通路の角から飛び出した影がひとつ。ジャンだ。

 ジャンは姿勢を低くしてエールの元へ駆け寄ると、男の横っ腹に鋭い拳の一撃を叩きこんだ。そのまま吹き飛ぶ男には目もくれずエールの腕を掴んで後ろへ投げ飛ばす。されるがまま受け身も取れず床に転がるエールを、待機していたステファンがすかさず引き起こした。

 ステファンがエールの手を無理やり引いて駆けだす。ふたりが退避し始めたのを確かめて自らもその後に続こうとしたジャンだったが、背筋に走った怖気に思わず一歩を踏みとどまる。刹那、飛来した真空の刃が彼の鼻先を掠めた。

 視界の端でひらひらと落下する前髪数本を冷や汗をかきながら見送り、ジャンは背後を振り返る。刀を二本、両手に構えたラクライが、にこやかに彼を見つめていた。

「やるじゃん。もしかして、通りすがりの正義の冒険者かな?」

「……あー、そんな感じ。そう言うお前らは悪の冒険者っぽいな。聞いてた限り」

「そんなトコ。だから迷宮に転がる死体をふたつ増やすくらい、どうって事はないんだぜ」

 気付けばその場にはメレディスも、更には先程コークスクリューを食らわせた筈の男もいなくなっている。ラクライが構えを取った。彼女の一挙一動から視線を外さないまま、ジャンは早くも自分の行いを後悔した。勢いで来ちゃったけど、流石にちょっとこれは無理かもしんない。


     ◆


 休日といっても、何もかもを忘れて宿屋でゴロゴロしていて良い訳ではない。大市を練り歩いて仕入れた薬草類を抱えたエスメラルダは、そよ風に吹かれて鼻先をくすぐる葉先の感触に顔をしかめた。大市に入荷する薬草には、当然ながら日ごとに種類や品質に差がある。そのためエスメラルダをはじめ多くのハーバリストは頻繁に店先まで足を運んでより高品質な薬草を仕入れようと日々努めているのだ。

 休日にも関わらず早起きして大市で人混みに揉まれなければならないというのは正直かなり憂鬱ではあったが、その甲斐あってか今日の戦果は上々だった。エスメラルダも一応プロであるため多少薬草の品質が変わったところで薬草術の効果に違いは出ないが、それでも良い商売道具が手に入れば嬉しいものである。

 エスメラルダの隣ではリズが機嫌よさげに鼻歌を歌っている。彼女は腕にお菓子の入った包みを抱えていて、こちらも大市の出店で買ったものだ。正式名称は分からないが、香ばしい匂いのする焼き菓子である。

「最近は遠い地方の料理とかお菓子を出す店が増えてきたね。リタイアした冒険者が店を始めてるらしいって話聞くけど、本当なのかな」

「リズも出す。お茶のおみせ」

「お茶を淹れるのはリズじゃなくてミーシャさんでしょ……」

「リズはおてつだいさーん」

 軽やかに応え、リズはその場でくるりと回る。エスメラルダは溜息を吐いた。

 二人は今、リズの家……もといミーシャの「葬儀屋」へ向かっている。リズは休日になるとミーシャの元で過ごすのが恒例なのだ。エスメラルダが同行しているのには特に大きな理由は無い。ただ、ミーシャが趣味で淹れるハーブティーはたいへん美味しいのである。

「地元でよくお茶にして飲んでた品種あったから一緒に買っちゃった。淹れてもらって、そのお菓子と一緒に飲もうね」

「やったー」

 包みごと両手を上げて喜ぶリズだったが、ふと前方に何かを見つけて足を止めた。彼女がそっと示した方向をエスメラルダも見てみれば、見覚えのある小さな人影が花壇の縁に腰かけて道行く人々を眺めている。

「ディアマンテさん?」

「うん? あー! えーとエスメラルダくんとリズちゃん! こんにちはー」

「こんにちはー」

 リズが挨拶を返せば、ディアマンテはにっこりと笑って腰かけていた花壇から飛び下りる。彼女の手には棒の刺さった丸い飴のような物体がある。これは何かと訊ねてみれば、どうやら姫リンゴに飴をかけてコーティングしたお菓子であるらしい。

「今日はふたりだけ? 探索は行かないの?」

「今日はお休み。ディアマンテさんは何してるの?」

「ぼくはねー人間観察。アイオリスはいろんな人がいて面白いね」

 そう言うディアマンテの背後、花壇のすぐ傍にある建物の陰からは、見知らぬブラニーがちらちらと顔を出してこちらの様子を窺っている。聞くところによれば彼女はゼファーリアのかなり歴史の古い巫子の家系の生まれであるという。やんごとなき血筋の巫子様が果たしてこんな下町の道端で人間観察などしていて良いのかという話だが、まあ恐らく良くないだろう。実際、先日の誘拐事件もお付きの者が目を離した隙にひとりで外出した際に起こった出来事だというし……。

 何とも言えない顔をするエスメラルダに、ディアマンテは気付かなかったようだ。飴がけリンゴをかじって幸せそうな顔をしていた彼女は、ふと小さな声を上げると二人を見上げて首を傾げた。

「あれ、今日お休みなんだよね? でも、さっき……」

「さっき?」

「うーん、ぼくちょっと前までお散歩してたんだけど、樹海入り口の近くであの子見た気がするんだ。えーとお名前……」

 なんていったっけ、と少しの間考え込んでいたディアマンテだったが、やがてぽんと手を打って口を開く。

「エールちゃんだ」


     ◆


 冷たい輝きに満ちた水晶の洞窟の中では、荒い呼吸のひとつひとつさえも反響して聞こえるような心地がする。片手に握った杖と、そこに繋がる発動機の接続管を確かめながら、ステファンは周囲の様子を窺った。誰かが追ってきている気配は無い……が、だからといって安心してもいられないだろう。

 静寂を常とするこの迷宮では大きな物音は非常に目立つ。空気がいやにざわついている、そんな気がする――言葉の通じない鱗持ち(レプティリアン)もどきの兵士たちが騒ぎを聞きつけてやって来る可能性も無いではない。一刻も早くジャンと合流して迷宮を出たいところだが。

 深く息を吐き、ステファンはエールを見た。彼女は先程からうずくまったまま、動く気配がない。

「……落ち着いたなら、行きますよ」

 返事は無い。ステファンは眉根を寄せ、周辺を警戒しながらもエールの隣に膝をつく。

「今は動いてください。私はここで死ぬつもりは無いし、貴女を見殺しにするつもりも無いんですよ」

「…………」

「ああ……はあ、もう……」

 反応が返るのを半ば諦めたステファンは、いつでもアリアドネの糸を取り出せるよう準備しながらこれまでの経緯を整理する。ひとりで迷宮を歩いていたエールの後を追って十七階にまでやって来たらいつぞやの恫喝及び誘拐事件の犯人一行がおり、エールは地図を奪われ殺されかけた……と。地図の持つ価値だとか、メレディスとやらの目的とやらについては置いておくとして、とりあえず確認しておかなければならない事がひとつある。

「貴女のお兄さん、」

 エールの肩が揺れた。それに気付かないふりをしながら、努めて静かな声でステファンは彼女に問う。

「彼の命令を素直に聞いていたように見えましたが、何か事情が?」

 少女の膝を抱えた手がぎゅうと握られる。どこか遠くで水晶が割れたような音が聞こえた気がした。ステファンは黙ってエールを待つ。

 返事があるまでの時間はいやに長く感じられた。やがて、今にも消えそうなか細い声がぽつりと落ちる。

「違うんです」

「……何が違うと?」

「わたし、……見、見たんです。確かに見たのに……それでも……って……」

 悲痛な声でエールは言う。

「兄さまは死んだんです」

 ステファンはこの上なく苦い表情を浮かべた。彼が返す言葉を探すまでもなく、エールは吐息を震わせながら続けた。

「わた、わたし、この目で見たの……」

 再び破壊音が響く。次いで魔物の声と思しき耳をつんざくような叫び声。どちらも先程聞こえた音よりも近い。息を呑み、ステファンは片手の杖を強く握りしめる。


 この世のものとは思えないおぞましい叫び声に、思わず平衡感覚を失いかけた。しかしすぐさま呼吸を整えて平静を取り戻したジャンは行く手を阻む巨体の脇を駆け抜ける。通り過ぎざまに手の内に握り込んでいた水晶の欠片を背後へ放る。決して小さくはないそれが床を跳ねて音を立てた瞬間、追随してきていた尾がそちらへと傾いだ。一瞬の隙を見て距離を取り、滑り込んだ水晶の陰で息を殺す。

 追ってくるラクライを必死に躱しつつ辿り着いた大部屋で遭遇したこの異様な色をしたミミズのような魔物は、どうやら音によって獲物の存在を感じ取っているらしい。出会い頭にうっかり目の前に躍り出てしまったジャンよりも、その背後で勢い余って水晶に斬撃を食らわせていたラクライに狙いをつけた辺りからして、間違った推測ではないだろう。恐らく。

 そしてその事実に気付いたのはジャンの方が早かった。魔物の前方にひとり残されたラクライは恨みがましい目でジャンを睨んでいるが、そんな目で見られてもどうしようもない。そもそも先に命を狙ってきたのはあちらなので、自業自得ではないだろうか。

 魔物が名状しがたい叫びを上げ、無数の牙が生えた頭を振り下ろす。暴れ狂っているようにしか見えない乱打を避けきったラクライだが、そこにすかさずジャンが水晶の欠片に括りつけて放った氷術の起動符が着弾する。発生した氷柱が甲高い音を立てて床を砕いた。一瞬と間を置かず魔物の尾が音の出所に喰らいつく。

 完全に行く手を塞がれたラクライは、おいおい、と唇の動きだけで呟く。ジャンはそれには答えず、可能な限り音を殺して部屋の出口へ向かった。残念だが、これ以上彼女に構っている余裕は無い。

 扉をくぐり抜け、走り、また何体か魔物をやり過ごし、ようやく何の気配も感じない場所に辿り着いたところでようやくジャンは詰めていた息を吐いた。辺りを見回す。まったく見覚えのない地形だ。

 どうすっかなあ、と彼は頭を掻く。アリアドネの糸は当然携帯している。万が一の事を考えて糸はひとり二本常備する、というのが一層を探索している頃からの習慣だ。同じように迷宮内で分断された際はすぐに脱出する、とも決めてはいるが……状況が状況だ。せめてあちらの二人が生きているかだけでも確認したい。恐らくステファンもこちらの安否を気にしているだろうし……だが、しかし。

「……次の部屋を抜けて何も見つからなかったら、脱出する」

 自身に言い聞かせるようにそっと呟き、両の頬を叩いて気合を入れ直すとジャンは少し離れた場所にある次の扉へ向かった。冷たい鉱石の感触を、ゆっくりと押し開ける。

 その先に見えた光景に彼は表情を歪める。……女がひとり、行く手を塞ぐように立っている。

「えー……あー……狙いはオレだよな?」

「はい。可能ならば私のところには来ないでいただきたいとは思っていましたが」

 女は淡々と応じる。頭を振って拳を構えたジャンはしかし、ふとある事に気付いて目を丸くした。

「あんた、もしかしてレイチェル・アンブレラか?」

「…………」

 女は僅かに眉を吊り上げた。構えは解かないまま、ジャンは相手を見定めるように見つめて続ける。

「オレが学生の時、あんたが同じ学校に留学に来てた。そんで、そうだ、うちの兄貴があんたに告白してフラれたんだわ。覚えてるか?」

 沈黙が下りた。杖を握る指の力は緩めないまま、レイチェルはしばし渋い表情で瞬きを繰り返した。一度ジャンから視線を逸らし、すぐに戻してゆっくりと口を開く。

「……失礼ですが、お名前を伺っても?」

「ジャン」

 はっきりとした声で答えたジャンだったが、ふと思い直した様子で改めて名乗り直す。

「ジャン=フランソワ・ド・ヴォリュビリス」

「……「朝顔の君」ですか。ええ覚えています。会話した事もないのに薔薇の花束を贈ってきた方がいましたね……」

 溜息混じりに呟き、レイチェルは先程より幾分か険しい表情でジャンを見た。その表情の意味を図りかねるジャンに、今度は彼女の方から問いかけてくる。

「伯爵家の令息が何故ここに?」

「オレ三男だから家継がねえし。それよりあんたこそ何だってあんなヤバそうな奴と一緒にいるんだ? 名門校のエリートが裏社会に転落とか、笑えねえんだけど」

「事情がありまして。ええ……」

 言い淀むように口を閉ざしたレイチェルを、ジャンは神妙に眺めた。さて、どう出るか。顔見知りを殴り倒すのも、殴り倒されるのも御免ではあるが、今は四の五の言っていられる場合でもない。相手に動きがない今の内に攻勢に出るのが吉か……。

 思考を巡らせる彼の目の前で、レイチェルはふと顔を上げた。そして片手に持っていた杖に視線をやり、それをおもむろに床に落とした。思わず身構えたジャンに、彼女は無表情のまま、静かに告げる。

「助けてください」


 遠くからの戦闘音はいまだ続いている。ステファンは重い息を吐いてエールに近付き、彼女の手首を掴んだ。

「立ってください。行きますよ」

「…………」

「立ちなさい」

 強い口調でそう言い、無理やりに腕を引いて立ち上がらせる。そのまま半ば引きずるようにしてエールの手を引きながら、ステファンは歩き出した。アリアドネの糸は持っているが、転移は可能な限り安全な場所で行いたい。今いる場所は通路の真ん中で見通しが良すぎる。せめて物陰に移動して……などと考えていると、背後のエールが急に立ち止まった。顔をしかめて振り返る。記憶にあるよりやつれて見える少女と目が合う。

「……置、いていってください……」

 色のない唇から、か細い声が漏れた。

「わたし、誰も、巻き込みたく……」

「さっきも言ったでしょう、見殺しにする気は無いと。……それとも貴女、あの異常者にむざむざ殺されに行くつもりでいます?」

 返事は無い。はああ、とうんざりした声を吐き出しながら、ステファンはひときわ強い力でエールの腕を引いた。突然引き寄せられてよろめくエールを支えながら、彼は少女の顔を覗き込む。

「貴女、世界樹の天辺に行くんでしょう。あの言葉は嘘だったんですか?」

「あ……え……」

「貴女の過去に何があったかなんて知りませんけど。巻き込みたくないだとか、迷惑をかけるだとかぬかして自分だけ満足して勝手に死なれるのが一番腹が立つんですよ。どうせギルドの人にも言ってないんでしょう? 馬鹿なんですか? ……それとも、残される仲間の事なんてどうでもいいんですか?」

「違っ……」

「違うならしっかりしなさい! いいですか、一度しか訊きませんよ」

 ステファンの赤い瞳がまっすぐにエールを睨む。

「エールさん。貴女は何のために世界樹の迷宮に来たんですか」

 エールの瞳が揺れた。あ……と口を開いて固まる彼女にステファンが再び声をかけようとした、その時だった。轟音が足下を揺らす。はっとしたステファンが杖を構えるのと同時に、通路の向こうから黒い奔流がどっと押し寄せてきた。避ける間もなく二人の腰から下を呑み込んだそれは、紛れもなく瘴気だ。

 身体から力が抜ける。思わず膝をつく二人の目の前で、突き当りの角を曲がってやってきた人影が姿を現す。大鎌を携えたルナリアの男だ。視線は虚ろで、その表情には生気が無い――エールの兄と同じだ。

「瘴気使いは反則でしょう……!」

 ふり絞るように呟き、ステファンはふらつきながらも立ち上がって発動機を展開する。彼が高速詠唱を終えるのと、男が鎌を振り上げるのとはほぼ同時だった。瘴気を帯びた刃が咄嗟に避けようとしたステファンの腕を掠った。だが、男が追撃を繰り出そうとした瞬間、魔力によって生み出された岩が天井付近から降りそそぐ。

 男の動きが止まった。それを認識した瞬間、ステファンはエールの手を取り身を翻して駆けだす。細い通路を通り抜け、勘だけを頼りに分かれ道を行く。されるがまま引っ張られていたエールが息も絶え絶えに何かを言おうとする。

「どう、っして、」

「あーうるさいうるさい! 理由とかそんなの、どうだっていいでしょう!」

 乱れた呼吸の合間を縫ってステファンは叫ぶ。

「私はっ! 貴女が死んだら! 悲しいんですけど!?」

 果たしてその言葉に返事はあったのか。

 しかし、あったのかもしれないそれは背後から響いた破壊音に掻き消された。崩れ落ちた壁の欠片を踏み越え、黒を纏った男はまっすぐに、異様な速度でこちらへ駆けてくる。瘴気兵装だ。術式の展開は間に合わない。ステファンは一切の思考を挟む余地もなく、エールを自身の後ろにかばおうとした。振り上げた大鎌の切っ先が二人を向く――。

「……っぶ、なあーい!!」

 聞き覚えのある咆哮が響く。目にも留まらぬ速さで駆け込んできた黒い影は、勢いよく踏み込んで跳ぶと大砲のごとき膝蹴りを男に向かって繰り出した。男が吹き飛ぶ。背後の壁にぶつかって床に落ちた彼だが、痛みに悶えるような気配も無く緩慢な動作で立ち上がった。

 盛大な摩擦音を立てながら着地し、腰の刀を抜いてケイナはステファンとエールを振り返る。

「……えっあっ、ステファン!? なんでいるんだ? ジャンは!?」

「ケイナ! 先行しすぎるな!」

 ケイナが現れた通路の先から騒がしい足音がやってくる。先頭にいたマリウスもケイナと同じようにステファンを見てぎょっとしたが、すぐさま男の方へ向き直ると盾と重砲を構えた。彼の後ろに続いていたエスメラルダとリズは、足早に二人の元へやって来るとそれぞれ複雑な表情を浮かべる。

「ケガしてる?」

「どこか痛むなら先に言って。先にハーブ撒くから……ああ、もう、なんで人捜しながら迷宮全力疾走するのが恒例行事みたいになってるのさ。後で言いたいこと山ほどあるからね!」

 怒りが隠せない様子でぶつぶつと言いながらも、治療術と並行して傷の有無を確認するエスメラルダの手つきは的確だ。先程大鎌の一撃が掠った際に切っていたらしい手の傷を治療されながら、突然の事態に硬直していたステファンは大きく息を吐いてその場に座り込む。

 銃口と剣先を同時に向けられた男は不気味に佇んだまましばらく動きを止めていたが、やがてスイッチが入ったかのような動きで顔を上げるとその四肢に瘴気を纏わせた。マリウスがはっとして指示を飛ばす。

「糸を出せ! 撤退する!」

「はいっ!」

 エスメラルダが鞄から糸を取り出して傍らのリズに放る。リズが受け取った糸を素早く広げている間に、男は瘴気兵装を生成し終えて鎌を握り直していた。マリウスが威嚇射撃を放つ。足下を狙ったそれを意に介す事もなく、男は一歩踏み込んだ。拍子に弾丸の一発がそのブーツの先を抉る――だが、出血が無い。

「……!!」

「マリウス!」

「っああ……!」

 焦った様子のケイナの呼びかけに応え、マリウスは踵を返して仲間たちの元へ向かう。全員が広げた糸の中に収まったのと男がこちらに向かって肉薄してきたのとはほぼ同時だった。迫る黒を目前にして、六人を包んだ転移の光はその場から掻き消える。

 無事迷宮を脱出して樹海入り口に辿り着いたのを確認した一行は、周囲の冒険者や衛兵たちの視線も気にせずその場にへたり込んだ。ぺったりと座って脱力したリズが元気のない声で呟く。

「ちゅかれた」

「えー、あー……とにかく、生きて帰れて何より……」

「あ! ステファ……あれお前らなんでいんの?」

 相棒の姿を見つけて駆け寄ってきたジャンが首を傾げる。彼もここにいるという事は、これで本当に全員無事に脱出できたと見てよさそうだ。疲労困憊を絵に描いたような顔をしたステファンが片手を挙げてジャンに応えるのを横目に、立ち上がって装備を整えたマリウスは、ふとエスメラルダと視線が合ったのに気付いて僅かに眉をひそめた。エスメラルダの顔には渋い表情が浮かんでいる。マリウスにも、そんな顔をしたくなる気持ちはよく分かった。

 エールはひとり、真っ青な顔で座り込んだまま動かないでいる。

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