【SQ5】25 理想郷
「あれ、は」
エスメラルダが震える声で呟いた。遠くに見える巨大な影から発生しているらしい瘴気は絶えず小部屋の中に吹き込んでいるが、どうやらアルコンがそれを防いでいるようだった。扉の外に見える景色を険しい表情で睨みつけながら、彼女は鋭い声で言う。
「瘴気は私が防ぐ。汝らは奴を……どうか、頼む」
すぐに動ける者はいなかった。各々が得物を片手に呆然とする中、リズがおもむろに小部屋を飛び出して辺りを見回す。マリウスが慌てて追いかけて彼女の腕を掴む。
「リズ! 勝手に……!」
「戦ってる」
その呟きを聞いてはっとしたマリウスに、リズはある一点を指し示してみせる。吹き荒れる豪雨のように絶え間なく流れては渦巻く瘴気の向こう側で、何かの光が走った。魔力の光だ。続いて微かな破壊音。影ご大きく揺れる。戦っている――だが、何と? 思考を巡らせるより先にリズが再び呟いた。
「死霊の気配する」
「……やっぱり、そうだよな……」
納得より先に呆れによく似た感情が来た。むしろ、そうでない方がおかしい。野生に生きる魔物がここまで強大な気配の持ち主に、しかも暴力的なまでの瘴気の中で立ち向かっていくというのは不自然であるし、かといって他の冒険者がこの迷宮にいる筈もない。
メレディスだ。彼が、「滅びの化身」と戦闘を繰り広げている。
「行きましょう」
そう言ったのはエールだった。剣を抜き、瘴気の向こうで繰り広げられているであろう応酬をまっすぐに睨みつけながら、彼女は強張った声色で続ける。
「何にせよ、放っておけばこの瘴気は地表まで漏れだすでしょう。その前にどうにかしないと」
「そう……だな。瘴気からは守ってくれるって言うし……」
ケイナにちらりと視線を送られ、アルコンが小さく頷く。エスメラルダが観念したように首を振って鞄からありったけのハーブを取り出した。万が一に備えて物資と装備品を万全の状態に整えてきたのが、こんな形で功を奏すとは思いもしなかった。
遠景で弾けては消える魔力の光をしばし見つめていたマリウスだったが、傍らのリズにコートの裾を引かれると何も言わずに銃と盾を構え直した。
影の主の姿が見えたのは、瘴気の嵐の中心部を目指して歩き始めてからしばらく経った頃だった。木々の隙間に見えたその姿に、ケイナが思わずといったように顔をしかめる。
「あれは……何だ? 竜……?」
「水晶竜とはぜんせん違うね。なんか……ちょっと気持ち悪いかも……」
エスメラルダが唸る。ようやく視認できたとはいえ、その全容は瘴気に遮られてはっきりとは確認できない。ただ、何故かは分からないが、とてつもなく嫌な感じがするのだ。巨体の背で大きく広がる翼に生えた棘や、鞭のように持ち上がった尻尾のしなりに、いちいち怖気が立つような気がする。
居心地悪そうに肩を揺らし、リズが一歩前に出る。
「はやく行こ」
周囲の視界は非常に悪い。こんな状況で初めて訪れるフロアを歩き回るなど本来ならば半時ともたずに全滅するような愚行であるが、今回に限ってはアルコンが逐一道を指示してくれていたため道に迷わずに済んでいる。
先に一行へ宣言した通り、彼女は周囲の瘴気の害を完全にシャットアウトしているようだった。この濃度の瘴気の中を何の防護策も無しに歩けば命が危うい。現に道中、魔物の死骸があちこちに転がっているのを見た。瘴気の技はジュディスやソロルが扱うのを何度も見てきたが、こうしてみると彼女たちの扱う技もあくまで人の手に負える範囲のものだったという事がよく分かる。ここまでくるともはや災害だ。
参考までに、どのような術で瘴気を防いでいるのかとアルコンにそれとなく問いかけてみたが、納得できる答えは返ってこなかった。曰く、「限りなく高度に発達した魔法や祈祷術に近い」らしいが、それはほぼ奇跡と呼んで差し支えないレベルの術ではないのか。疑問は尽きない。
……無駄話をしていられたのはそこまでだった。
爆音が響く。近くの森の中から聞こえてきたその音に、弾かれるように一行は武器を取る。構える猶予があったのは数秒だった。盛大な音を立てて茂みを突っ切ってきた何かが、目の前に勢いよく姿を現す。
「――メレディス!?」
「……ん? ああ、君らか! 今忙しいからまた今度にしてくれ!」
身体のあちこちに葉っぱや小さな木の実をくっつけたメレディスは、一声叫ぶと片手に持った棺――リズが持っているものより遥かに小型だ。盾か何かのようにも見える――を開けると素早く何かの呪文を唱えた。棺の中から出てきた死霊が淡い光のヴェールへと姿を変えて彼を包む。と、そこで気付いた。メレディスの顔色はいやに悪く、額からは汗が滴っている。
「生身だからね。生きてるだけで褒めてほしいくらいだ」
独り言のように呟き、メレディスはふと振り返る。警戒する『カレイドスコープ』の面々の後ろに隠れたアルコンの姿を目ざとく見つけた彼は、血の気の引いた顔に柔和な笑みを浮かべると彼女へ語りかける。
「やあ、また会ったね「星の人」。あれ倒したら俺を送ってくれるだろ? ほら、古臭い封印なんて必要なくなるわけだしさ……」
「っ、そもそも、汝が――」
「ああいや、後にしよう。来た(・・)」
そう呟いて再び死霊を召喚し、前方へ配置した――次の瞬間、頭上から黒い何かが降ってくる。勢いよく振り下ろされたそれは、いつの間にかすぐ近くまで迫って来ていた滅びの化身の両腕だ。得物を狙って繰り出されたはずの一撃は先んじて前に出ていた死霊に吸い寄せられるようにして軌道を逸れたものの、攻撃の余波までは殺しきれなかった。突き上げるような揺れにエスメラルダがバランスを崩して転倒する。ケイナが刀を持っていない片手で彼を引き起こすが、その時には既に次の攻撃が始まっていた。
禍々しい翼を大きく広げ、黒い竜が大きく仰け反る。一瞬と間を置かず繰り出されたのは刺すような冷気のブレスだ。マリウスが咄嗟に防護の魔法を発動する。
しかし防御越しに冷気を浴びた瞬間、盾を支える腕から力が抜け落ちていく。全身で盾を支えながらマリウスは歯噛みする。「封じ」だ。瘴気使いお得意の絡め手を、どうやら相手も得意としているらしい。
「マリーさん! 今治療します!」
体勢を立て直したエスメラルダが駆け寄ってきて素早く治療術を発動する。その間に再び死霊を盾にして凌ぎきったらしいメレディスが動いた。『カレイドスコープ』の元から離れ、滅びの化身の側面から回り込むようにして死角へと回っていく。その場の全員がそれに気付いたが、今は彼に構っていられる余裕は無い。
自由を取り戻した腕で改めて盾を構え直し、マリウスは眼前の相手を睨む。異様な姿だった。その背の翼や長い尾は確かに竜のそれに見えるが、胴や四肢、そして顔は豪奢な鎧を纏ったヒトのようにも見える。その姿形は今まで見たどの魔物とも、伝承で聞いたどの生物とも似つかない。
だが、肌を刺すのは、今までに戦ってきた強力な敵たちとまったく同じ……明確な敵意と殺気だ。ここまではっきりと敵視されてしまっては、別に戦う気はなくて流れで連れてこられただけなんです……などと言っても意味はあるまい。
滅びの化身が脚を上げた。持ち上がった足の裏が勢いよく地面を叩いた、その衝撃で再び周囲が揺れる。同時に地面近くに滞留していた瘴気が舞い上がった。他の面々が黒い霧を顔面から浴びて方向感覚を失う中、気配を頼りに狙いをつけたケイナが気合と共に刀を振り下ろす。
手応えがあった。噴き出した液体が血液なのかも分からないが、とにもかくにもケイナは叫ぶ。
「刃が通る!」
「了解……!」
周囲の瘴気を振り払ったエールが剣を握り直して彼に追随する。斬撃を受けて後ずさりかけていた足の健を狙い、切っ先を捻じ込んだ。剣をひねれば周囲の組織を巻き込んだ感触がある。だが、動きを封じられるほどには達していない。
巨体が身をよじった。鋭く飛んできた尻尾の一撃を前にいた二人は転がるように避ける。撥ね上げられた土塊や草が宙を舞った。次の攻撃が来ないうちに、死霊の召喚を終えたリズが炎爆弾を叩き込む。命中はしたが目に見えて効いているような様子は無い。
滅びの化身が再び仰け反る。頭上から降る冷気をマテリアルガードで防ぎつつ、マリウスは片脚に集中して攻撃を続けるエールとケイナの様子を確かめた。エスメラルダは二人の支援に回っている。その後ろにいるリズは死霊術で物理攻撃の届かない胴から上を攻めているようだ。時折、彼女の指示とは異なるタイミングで炎爆弾が弾けるのが見える。死角に回り込んだメレディスの手によるものだろうか。
滅びの化身の身体には既にいくつもの傷が刻まれている。自分たちが参戦する前から存在した傷であるため、あれらはメレディスの奮闘の痕跡とみていいだろう。よく見れば巨大な翼のうち右方は激しく損傷している。今も彼が狙って攻撃しているのは、翼だ。
そこでふとマリウスは思う。何故、翼なのだ? 術式ならば地表から離れた位置を狙う事ができる、だが普通なら優先して狙うのは腕や頭だ。飛び立つのを阻止しようとしている? だがそもそもここは天井のある空間だ。空中に逃れたところであちらに利があるとは思えないし、実際そのような動きは一度も見せていない。
明確な答えの出ない問いについて考えられるほどの余裕があったのはそこまでだった。辺り一面を薙ぐように振るわれた爪を避け、重砲の照準を合わせる。放った跳弾は装甲に細かな傷をつけるばかりで終わったが、相手の気を引くにはこれで十分だ。
相手の狙いがこちらへ向いたのを確認し、防御体勢を取り直す。と、そこでマリウスは気付いた。周囲に漂う瘴気が先程よりも薄くなっている。それが何を意味するのか考えるよりも、答えが先にきた。
黒い竜が口を大きく開けた。その内側に燻るものが見えた瞬間、マリウスは防御を展開する。だが、襲ってきたのは予想したようなブレスではなかった。黒い炎だ。瘴気と同じ魔力を帯びた黒炎が辺り一面を覆う。盾の影に退避してきたリズが悲鳴を上げる。
「マリー!」
「大丈夫だ、この程度なら防げ……」
「駄目だっ伏せろ!!」
ケイナの声が響く。マリウスが反射的にリズと盾を引き寄せて地面に伏せたのとほぼ同時だった。炎を吐き終えた竜が咆哮を上げ、背の翼を大きく震わせる。そのまま羽ばたきをひとつ。巻き起こった突風が炎をあおる。滞留していた瘴気が流れていく――燃え盛る炎の方へ。
瘴気の風に吹かれたその瞬間、周囲の木々に燃え移っていた炎が勢いを増した。地に伏せたまま、盾の下でその様子を見ていたマリウスは半ば呆然と呟く。
「瘴気を喰っている……」
普通の炎が空気を取り込んで燃えるのと同じように、あの黒い炎は瘴気を取り込んで燃えるのだ。周囲の瘴気が薄くなっていたのは、滅びの化身がこの炎を吐き出す前に瘴気を吸い込んでいたためだろう。同時にメレディスの意図に気付く。恐らく、翼を狙っていたのはこれを防ぐためだったのだ。いくら瘴気そのものの害を防いだとて、炎にまかれてしまえば生きてなどいられない。
嵐のように勢いよく吹き抜ける瘴気を次々と取り込み、炎は激しさを増していく。木々が燃え、茂みは瞬く間に灰へ変わる。熱が体力を奪っていく――これは、まずい。
「リズ……火を消せるか? 私たちの周りだけでいい」
「……ん!」
マリウスの下にいたリズがもぞもぞと腕を出し、死霊を召喚する。喚び出されてきた死霊をすぐさま魔力に変換して辺りを覆えば、近くで燃えていた炎が綺麗に消え去った。どうやら防護魔法の一種を応用したらしい。盾をどけて立ち上がる二人の前に、ふらりと水色の少女が降り立つ。
「アルコン」
「無事か。……すまない、すぐに消し止めるのは難しい。環境維持を優先しなければ君たちの生存が危うい」
「それで構わない。三人がどこにいるか分かるか」
気付けば三人の姿が見えなくなっている。炎を避けてどこかへ退避したのだろうが、広い範囲に火の手が回っているこの状況では無闇に捜して動き回るのは無謀だ。アルコンは少し考え、ある方向を指さす。……いまだ強く燃える木立の向こう側だ。
ひとつ頷き、マリウスは盾を構え直す。燃える森の中央で滅びの化身は変わらず佇んでいる。その目に宿る殺気はいまだ消えてはいない。
「リズ……支援を頼む」
応えるように死霊を召喚するリズを背中に庇いながら、マリウスは盾を握る手に力を込めた。どちらにせよ自分のなすべき事は変わらない。守るのだ、たとえこの背に庇うべき仲間が離れた場所にいるとしても。
「……はぐれた!」
もうもうと立ち昇る煙に咳き込みながら、ケイナが焦りの声を上げる。風に流されて燃え広がる炎を避けて森を突っ切ってきたが、そのせいでマリウスとリズから離れてしまった。少し離れた場所で必死に呼吸を整えるエールとエスメラルダもそれぞれ苦い表情を浮かべている。つい先日も迷宮で分断されて大変な目に遭ったばかりだというのに、よりにもよってこの状況で同じ事になるとは。
元来た道は黒い火の海だ。二人の元へ戻るには燃えている地帯を避けて回り込む必要があるが、その回り道が本当に元の場所へ通じているかは分からない。なにせ探索も行っていないフロアだ。こんな事ならば、アルコンに道案内だけではなく地図の用意も頼んでおけば良かった。
「……どうする?」
「どうするもこうするも、しばらくは三人で凌ぐしかないでしょ。……瘴気が薄れてる。もう少し待てば、火の勢いも弱まるかもしれない」
言っている内容のわりにエスメラルダの声は硬い。自分の発言が希望的観測でしかない事は彼も分かっているが、今はそれでもそうするしか無いのだ。しばらく動きを止めていた滅びの化身は再び動きだしている。このまま時が過ぎるのを待ったとて、いつ再びあの炎を繰り出してくるかは分からないし、恐ろしい技は炎ばかりではない。何にせよいつ攻撃に巻き込まれて死ぬか分からないのであれば、いっそ攻勢に出て相手が先に倒れてくれる可能性を少しでも高める他はない。
垂れた汗を拭い、エールが剣を構える。
「守りはわたしが。「幻影」は見よう見まねでしかできませんけれど」
「不安だ……でも任せるよ」
エスメラルダが苦笑混じりに言いながらハーブを取り出す。長時間その場に残留する特殊な癒しの術を展開した彼が後ろに下がるのと同時に、前衛の二人は駆けだした。
ちょうど近くにあった左脚に向かい、ケイナが刀を振り下ろす。刃は真っすぐに通った。先の攻撃で与えていた傷からも再び血らしきものが噴き出す。滅びの化身の顔がこちらを向いた。ほどなくして振るわれた爪をエールが引きつけて回避する。爪の軌道上から退いていたケイナが身を翻し、返す刃の三連撃を叩き込む。
傷に耐えかねてか足が僅かに持ち上がった。地団太を踏むように地面を叩いたその威力はしかし、先程のように足下を揺らすほどのものではない。もう一度腕を振り上げようとした竜だったが、不意にその視線が逸れた。どうやら三人が元来た方向を見ているらしい。マリウスたちだ、と直感する。
今の内に一気に仕掛けようとケイナが踏み込む。狙いを動きの鈍った脚からほぼ無傷の尾に切り替え、鋭い突起を切り落としていく。エールもそれに続いた。竜は抵抗しようとするが、胴を狙った爆発が連続して起きた事でいずれも不発に終わる。
ケイナが刀をひときわ強く突きたてた。咆哮。激しくのたうつ尻尾から距離を取る二人の元に、エスメラルダの声が届く。
「逃げて!」
一瞬反応が遅れたケイナをエールが突き飛ばした次の瞬間、辺りに閃光が走った。次いで轟音と熱。雷だ、と分かったのはエールが倒れる音を聞いた後だった。断続的に走る閃光が視界を埋める。ようやく光が収まったところでケイナは倒れたエールを抱えてエスメラルダの元へ駆けた。
「しっかり!」
「……、はい……大丈夫、起きてます……」
本人はそう言うが、どう見ても大丈夫ではない。手早く手当を始めるエスメラルダを横目にケイナは刀を握り直して再び前衛へ戻った。深く傷ついた尻尾に再び刀を入れ、一気に斬り落とす。頭上の巨体がバランスを崩した。予想以上の反応にぎょっとしたケイナが回避しようとするが、それより先に千切れかけていた右翼の破片が自重で落ちてくる。
完全に不意打ちで落下してきたそれに巻き込まれそうになったその時、目の前に飛び込んできた影があった。人間だ。剣を構えた鎧姿の男がケイナの前に立ちはだかると、落ちてきた破片を一閃のうちに斬り分ける。
呆気に取られるケイナの背後から、エールの弱々しい声が聞こえてくる。
「兄さま……」
男は応えない。体勢を立て直した滅びの化身が再び咆哮を上げて拳を振り上げる。深く息を吐き、ケイナは構えを取り直す。
滅びの化身がバランスを崩して地面に手をついた、その隙にリズが死霊術で周囲の炎を少しずつ消火していく。瘴気に巻き込まれた魔物が大量に死んでいるため、死霊召喚に必要な魂が有り余っているらしい事が幸いした。強力だが使いこなすには原材料となる魂が必要不可欠という欠点がある死霊術を、ここでなら存分に行使できる。
炎の勢いは先程より幾分か弱まっている。この調子で三人と合流できればいいのだが。そう考えていたところで近くの茂みから足音が聞こえてきた。まさか三人がやってきたのか、と振り返ったマリウスだったが、そこにいた人物の顔を見ると何とも言えない表情を浮かべた。
「メレディス……」
「ご挨拶だね、ロザンタール卿。嫌がるのは勝手だけど話くらいは聞いてくれよ」
頭から爪先まで煤と土埃で汚したメレディスがそう言いながら茂みから出てくる。敵の注意は死霊が引いている。マリウスが神妙に頷き返せば、メレディスは小さく肩をすくめて話しだした。
「俺ひとりで戦うにはちょっと限界がきてね。協力できないかと思って」
「だますでしょ」
「いま君たちを騙したって、全員まとめてやられるだけだろ。これをこのまま放置すればそれこそアルカディアの危機だ。いがみ合うより先に仕留めたい」
「でも、そっちが封印といた!」
「解いた本人から言わせてもらうけど、あの様子だとどのみち数年と経たずに解けてたよ。結果的に誰も応戦できない状況で解き放たれるよりもかなりマシだと思うけど」
「むむむ……!」
反論の言葉が思いつかなくなったリズが頬を膨らませてマリウスにすがりつく。彼女をそれとなく引き剝がしながら、マリウスはメレディスの言葉を頭の中で反芻した。どこからどこまでが本当の事なのかはともかく、提案そのものは至って合理的だ。なにしろ今ここであの怪物をどうにかしなければ望みを叶える云々より先に死ぬのだ。彼とてそれは絶対に避けたいだろう。少なくとも、協力したところで勝利を確信するまでこちらに何か仕掛けてくる事は無いはずだ。
「……分かった。協力しよう」
「マリー」
「話が早くて助かるよ。とはいえあっちも既にかなりの手負いだ。力押しでどうにかなる……と思いたいね」
自分から言い出したのだからそこは自信を持って断言してもらわないと困る。だが相手に与えているダメージが決して浅くない事は事実だ。右の翼は焼け落ちているし、この位置からでは確認しづらいが片脚と尾もほぼ使えなくなっているようである。ただ、周囲に漂う瘴気がだんだんと濃さを増してきている――今のうちに攻めきらなければ、再びあの黒炎を使われてしまうだろう。
メレディスが死霊を召喚し、リズに向かって言う。
「大爆発を起こしたいんだけど、一度に操れる死霊の数に余裕が無くてね。三体くらいなら何とかなるから、君の分の死霊を巻き込ませてほしい」
「うう~……!」
明らかに納得いかないという顔をしながらも、リズは小さく頷く。メレディスが彼女に言葉を返すより先に滅びの化身が動いた。振り下ろされた拳が辺り一帯を薙ぐ。重砲を担いだマリウスが防御体勢を取りつつ牽制するその間に、二人の死霊遣いは可能な限りの数の死霊を喚び出して好機に備えた。相手が大きく腕を動かして暴れている今の状況では狙いがつけづらい。まだ、その時ではない。
治療を終え、エールは剣を支えにゆっくりと立ち上がった。エスメラルダも同じく鞄の位置を直して立ち上がる。前方ではケイナとエールの兄の死霊が、手の届く位置へ攻撃を続けている。眼前の後継を静かに見つめながら顔にこびりついた血と土の汚れを拭うエールを、エスメラルダは何か言いたげに見上げた。心配の滲む視線にエールは苦笑を返す。そして、何も言わず剣を構えた。
「エスメラルダさん。支援をお願いしますね」
「う……ん! 行ってきて……!」
頷き返し、エールは駆けていく。エスメラルダは鞄の中からハーブを取り出す。こまめに回復を繰り返したせいでかなり数が少なくなってしまった。あまり時間はかけていられない。とはいえエスメラルダ自身には戦いを短期決戦の持ち込めるような力は無い。せめて仲間が大きな怪我をしないよう祈るばかりだ。
前線に上がってきて隣に並んだエールを、ケイナは見なかった。しかしすぐさま彼女との連携を重視した刺突中心の戦法に切り替えて攻勢をかける。エールは彼に追随した。いつもと同じように、魔法を乗せた刃で追撃をかける。
死霊は相手の攻撃を引きつけているようだった。自身を狙った攻撃をひとつ残らず完璧に回避し、流れるように反撃に転じる。その動きは熟練の剣士のそれだ。身のこなしを見ている限りとても死霊には思えない。
滅びの化身が両手を高く掲げて振り下ろす。すさまじい勢いで振るわれた手刀が地面を抉り取るが、その威力ゆえに他の攻撃より大きな隙ができた。更に攻め込もうとしたエールたちに、後方で様子を窺っていたエスメラルダが叫ぶ。
「戻ってー! 巻き込まれる!!」
何に、と疑問に思うと同時に、頭上で今までになく盛大な爆発音が響く。慌てて距離を取ってから見上げれば、ちょうど滅びの化身の上半身が爆炎に包まれているところだった。滅びの化身が悶え苦しむ中、飛んできた魔力の光が爆炎の中に合流し、また新たな爆発を発生させた。死霊大爆発――死霊たちを燃料に業火を生じさせる、高位の死霊術だ。
「リズか……!?」
「! 見てください! 倒れ……!」
エールが指さすその先で、炎に焼かれた滅びの化身がついに膝をつく。両手も地面について四つん這いの状態になった竜は激しく身をよじって暴れた。咆哮――開いた口の中に、黒い炎。
「ッこのタイミングで!」
メレディスが焦った声を上げる。彼の余裕のない姿は初めて見るが、当然それに構っていられる余裕はマリウスにもリズにも無い。大慌てで死霊を召喚しようとしたリズが、手に持った棺をおろおろと揺らす。
「死霊だせない……」
「大爆発に突っ込みすぎたな! 守りは頼むよ!」
一声叫び、メレディスが呪文を紡ぐ。掌に渦巻いた魔力の流れを、瘴気を吸い続ける滅びの化身に向けてぐっと握り潰し、強く引く――「地獄門」の力で引きずりだされた死霊一体をどう扱うか、彼は迷ったようだった。防御の準備をしながらマリウスが叫ぶ。
「攻撃を! 押し切らないと保たない!!」
メレディスが振り返る。彼は何も言わず、小さくふうん、と呟くと手元の棺をそっと掲げた。
「また来る! どこか逃げ……」
「! エスメラルダさん! 危なッ……!!」
エールがエスメラルダを突き飛ばした次の瞬間、飛んできた太い枝が彼女の背中に激突する。エスメラルダはすぐさま起き上がると地面に転がった彼女の元へ駆け寄った。どうやら頭に当たってしまったらしい、ぐったりしたまま目を覚まさないエールの傷を治療してやるエスメラルダだったが、今度は枝から振り落とされたらしい大きな果実が飛んできているのに気がつくと、慌ててその場で身を伏せた。
運の悪い事に、滅びの化身がちょうど手をついた場所に森があったのだ。その状態で暴れるものだから、腕を振り回したり身をよじったりするたびに巻き込まれた草木や岩が飛んでくる……太い樹が音を立てて倒れた。流石にブラニーの身であれに当たれば、死ぬ。
飛び交う物体に顔を青くしながらも治療を続けるエスメラルダを少し離れた場所から見ていたケイナが、意を決したように刀を構え直した。ふんっ! と気合を入れ、彼は勢いよく地を蹴る。
「!? ちょっとケイナ……!?」
エスメラルダが驚いたように声を上げるが、ケイナは足を止めない。彼は真っすぐに滅びの化身の元へ走っていくと、地面についた傷だらけの手に爪先をかけて一足跳びに駆け上がった。動きが収まっているうちにほぼ垂直な角度を一気に登りきり、肩の上に立つ。
目の前では滅びの化身が瘴気を吸い込んでいる。吹き荒ぶ強風に煽られながら、ケイナは一度だけ地上を見た。倒れたままのエールの頭を抱えてこちらを見上げるエスメラルダが見える。はぐれたマリウスとリズの姿も見えた。無事なようで何よりだ――などと、考えている時間はない。
もう一度刀を握り直すと、ケイナは肩から身を乗り出して滅びの化身の顔の前に躍り出た。そのまま勢いよく刀を振り上げ、炎が燻る口腔内へと突き立てる。引き絞るような絶叫。耳が壊れそうなほどの音量を間近で食らい、瘴気の炎に焼かれながらも、ケイナはより深く刀を突き刺す。謎の生物といえど中身は柔らかい。抉れば抉るほど、足下を大量の血が汚していく。
「ケイナ! 駄目ー! 戻って!!」
エスメラルダが叫ぶが、その声はつんざくような叫びにかき消されてケイナの耳には届かない。口の中を深く傷つけられたためか、滅びの化身は瘴気を吸い込む事ができなくなっているようだ。動きも次第に弱々しくなっている。もう少しで勝てる――だが、次の瞬間エスメラルダの目に飛び込んできたのは、もっとも見たくない光景だった。
竜の開きっぱなしの口の中から、黒炎が溢れる。勢いよく噴き出したそれに押し出されるように、ケイナの身体も中に放り出された。
思わず駆けだすエスメラルダだが、彼の数歩先にも炎が落ちてくる。目前で揺れる黒に一度足を止めた。しかしぐっと奥歯を噛みしめ、中のハーブが燃えないよう鞄を抱き抱えると彼は再び走りだす。
悲鳴を上げて悶え苦しむ滅びの化身が炎を吐いたその瞬間に、メレディスは死霊を放った。魔力の塊に姿を変えた死霊が黒い巨体に絡みつき、その体から命を吸い上げる。「等価交換」は正しく為された。残り僅かな生命力を、瘴気の黒炎と引き換えに失った滅びの化身は、ついに力を失ってゆっくりと倒れ込む。
頭上から降りそそぐ火の粉からリズとメレディスを守っていたマリウスが、はっと顔を上げて辺りを見回す。周囲で燃えていた黒い炎が、少しずつ弱まっていく……やがて燻っていた残り火が消えると、後には焼けた森と僅かに立つ煙だけが残った。
一時の静寂。崩れ落ちた筈の滅びの化身の体は、ほんの少し目を離した隙に影も形も無く消えてしまっていた。周囲には濃い瘴気が漂っている。呆気のない終わりだった。一瞬、何もかもが幻だったのかと錯覚するほどに。
肩で息をしながら周囲の様子を確かめようとしたマリウスの腕に、リズが勢いよく飛びついてくる。まだ不安げな彼女の頭をなでて声をかけようとしたところで、遠くから声が聞こえてきた。エスメラルダの声だ。内容は聞き取れないが焦った様子が伝わってくる――二人はすぐさま駆けだした。炎が消えた今、三人の元へ向かうのに障害は無い。
蹂躙され尽くした森の片隅にエスメラルダはいた。彼が必死に声をかけているのは傍に倒れた煤まみれのケイナだ。むき出しの腕に火傷を負ったその姿を見て、マリウスとリズは言葉を失う。まさか――。
「……っうわああー!! 落ちるー!?」
「うわあー!?」
驚いたエスメラルダが勢い余って尻もちをつく。セリアン特有の膂力をフル活用してなんの前触れもなく跳ね起きたケイナは、冷や汗を垂らして呆然とするエスメラルダとその後ろにいる二人を見て首を傾げた。
「え、あれ、なんか……終わってる? どういう事だ……?」
「どういう事はこっちの台詞なんだけど!? ばか!! 心配したんだぞ!!」
「わ!? えっ、なんか、ごめん……」
ぽこぽこと殴ってくるエスメラルダに釈然としていない顔をしながらも謝るケイナを見て、マリウスも安堵の息を吐いた。何はともあれ無事なようで良かった。しかし、エールはどこにいるのだろう? 話を聞くためにまずは腕を大回転させてケイナを攻撃し続けるエスメラルダを止めようとしたところで、前触れなく傍らに現れた人影があった。アルコンである。
四人を見回し、彼女は小さく笑みを浮かべて言う。
「……見事であった。汝らの強さに敬意を……そして、礼を言おう。ありがとう『カレイドスコープ』。この星を奴から解放するという望みを抱いて過ごしてきた幾星霜も、これで終わる……」
「ほんとに勝ったの?」
「ああ。残滓はしばし残るだろうが、この迷宮も時が経てばいずれ元通りになるだろう」
そう答えるアルコンの表情は晴れやかだ。リズはひとつ頷いた。彼女には訊きたい事がまだ残っているが、とりあえずそちらは今は置いておく事にしよう。長年の望みが叶ったというのなら何よりである。
「残ってる瘴気は大丈夫なの? 外に漏れたりしない?」
「問題ない。森はこの有様だが、世界樹の機能は生きている。量が量なだけに多少時間はかかるが……」
アルコンの返答を聞きながらふんふんと頷くエスメラルダを横目に、マリウスはふと、元来た方向に視線を向けた。先程までリズと共に炎にまかれながら奮闘していたその場所には、もう誰もいない。少し考え、重砲に弾を込め直して爪先をそちらへ向ける。
傍らのリズと何かを感じ取ったのかじっと見つめてくるケイナに目配せをして、マリウスは歩き出した。諸手を挙げて喜ぶには、まだ少し早い。
メレディスは孤児だった。本当の親がどこに行ったのかは知らない。ただ、自分は生まれたばかりの頃に教会に置き去りにされていたところを保護されたと聞く。彼か、彼女か、そのどちらもかは定かでないが、きっとその人にとって自分は不要なものだったのだろう。そんな事はもうどうでもいい事だが。
あの冒険者が孤児院を訪ねてきたのは、メレディスが八歳になる年の事だった。彼が持ってきた多額の寄付金で、貧乏暮らしを強いられていた孤児たちは久しぶりに腹いっぱいご飯を食べる事ができた。喜ぶ子供たちをよそに、メレディスは冒険者へ近付いた。興味があった。この言葉も不自由な異邦の旅人がいったいどこから来たのか、どこへ行こうとしているのか。
彼はたどたどしい語彙で語った。世界樹の迷宮を登っているのだと。その頂上に、求めるものがあるかもしれないと。メレディスが彼に夢中になるのに時間はかからなかった。同じ家で暮らす孤児たちや面倒を見てくれる大人たちに馴染めずにいた少年が、初めて心を開いたのが彼だった。
言葉を教えた。もっと話がしたかったから。文字を教わった。彼と同じものを見たかったから。何回目かの訪問の際、父さんと呼んでいいかと訊いた。彼は曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
その反応の真意を知ったのは彼がいなくなった後だった。各地を駆け回ってようやく手に入れた彼の手記には、なんという事だろう、「本当の子ども」の事が書かれていたのだ。生まれてすぐ母を亡くした娘と、彼女が預けられた一家についての記述は、探索記の合間にたびたび現れた。彼がこの世界で書いた最後の日記にさえも彼女の事が書いてあった。自分の事は知らないまま、幸せに生きてほしい、と。
貧しい孤児院とそこに住む少年の存在は、書き残されていなかった。数年分のページのどこを見ても、一文字たりとも。
それでもメレディスは夢を諦めなかった。いつか彼を追いかけて、一緒に旅をするのだ。そのためなら何でもした。強い手駒がいれば有利に事を運べる。強い瘴気使いを殺して死霊として連れていく事にした。偶然出会った傭兵は金さえ出せばついてきた。世界樹の頂上に封じられているものが瘴気を操る事は手記を読んで知っていた。レイチェルを見つけられたのは幸いだった。人質ひとりで瘴気から身を守る護りの祈祷術が得られるのなら安いものだ。
結局それらは全て失ったが、まだ自分は生きてここにいる。ようやく立ったのだ、かつて彼も辿り着いた場所に、世界樹の迷宮のいちばん高い場所に! もう少しで手が届く。彼方に光るあの星に――もう少しで――。
「いいや、お前はどこにも行けない。どこへも行かせない」
……聞こえた声に顔を上げ、振り返る。どうやら、少し休むだけのつもりが知らぬ間に夢うつつになっていたようだ。メレディスはゆっくりと立ち上がった。足に力が入らない。やはり死霊術では瘴気は防ぎきれなかったようだ。こうならないためにレイチェルを連れてきた筈だったのだが。
この辺りには瘴気の炎は届かなかったらしい。あの惨状の中でもほぼ元の豊かさを残したまま燃え残った森の中には、滅びの化身による吸収を免れた瘴気が色濃く残っている。視界も空気も悪い。いつの間にか追いかけてきていたマリウスは盾を持たず、重砲だけを構えてそこに立っていた。「星の人」による防護ももう無いだろうに、平然と立っていられるのは、彼が曲りなりにも瘴気使いであるためか。
険しい表情で見つめてくるマリウスに、メレディスは力なく笑って応える。
「どうして止めるんだ? 好きにさせてくれてもいいだろ。俺がどこに行こうが、君に関係あるでもなし」
「そうだな。だがお前を自由にさせる事はできない」
油断なく重砲の引き金に指をかけながら、マリウスは静かに告げる。メレディスは頬を掻いた。確かに好き勝手やった自覚はあるが、彼個人にそこまで言わせるほどの何かをした記憶は無い。仲間のために怒っているというのであれば結構な事だが、様子を見る限りそれとも少し違うようだ。
戦闘に惜しみなく使用したせいでかなり少なくなっているが、周囲にはまだ瘴気にまかれて死んだ魔物たちの魂が残っている。それらを指先に集めながら様子を窺うメレディスに、マリウスは静かに告げる。
「ずっと考えていた。自然にあんな事(・・・・)が起こる筈がない。必ず原因がある……お前のやり口を知った時点で、予感はあった。ただ仲間の負担を増やすわけにはいかなかったから」
ひと呼吸置き、まっすぐにメレディスを見つめて彼は問う。
「第二層の魔物を死霊に変えたのは……姉上を殺した死霊たちの主は、お前だな? メレディス・コーディア……」
メレディスの目が丸くなり、それからすっと細まった。マリウスは何も言わず重砲を持ち上げる。冷たく光る砲口がメレディスへ向く。
「……にしても、なんで無事だったのさ? あんな所から落ちて……炎だって食らっただろうし」
勢いで放置してしまっていたエールの元へ戻り、各自の手当てを行っていたエスメラルダがふと問いかける。問われたケイナは首を傾げ、うーんと唸った。
「なんでと言われても……なんでだろう?」
「ええ……?」
「それ」
唐突に話に入ってきたリズがケイナの刀――滅びの化身の口から落ちた時に一緒に抜け落ちたようだ。すぐ回収できる位置に落下していたのは幸いだった――を指さす。これ……? と困惑しながら刀を掲げてみせたケイナに、リズは小首を傾げながらひとつ頷いてみせる。
「魔力。リズのしらないやつ」
「ええと、魔力……? ……あ」
そう言われてケイナはようやく思い出した。街でディアマンテに出会った時、確かこの刀に祈祷で何かの術をかけてもらったのだ。祈祷術の事はよく分からないが、わざわざリズが指摘してきたという事は、恐らくこの術が命を救ってくれたのだろう。
――おまじない。別に変なものじゃないから、安心して!
「……そうか……」
思わず笑みをこぼすケイナを見て、リズとエスメラルダも小さく微笑んだ。
用があると言って単身別行動をとったマリウスも、瘴気を浄化するための機構を作動させなければと去っていったアルコンも、まだしばらく帰ってくる様子は無さそうだ。リズが地面に座り込んであくびをひとつ漏らした。気を抜きすぎではないかとも思うが、滅びの化身が大暴れしたせいで辺りの魔物はごっそり死んでしまったようなのであまり心配は無いだろう。エールはまだ目を覚まさない。傷そのものはさほど深くはなかったため、こちらも心配する必要は無いと思われるが。
宙に漂い続ける瘴気をじっと見上げていたケイナが、ふと耳を立てて振り返る。
「そういえば……あいつはどこに? ええと、エールの……お兄さんの……」
「……そういえば、気付かないうちに消えてたね。どこに行ったんだろう……」
エスメラルダが辺りを見回すが、彼の姿はどこにも見えない。倒れるところを見ていない以上、健在のままどこかしらに居るのだろうが……近くにいたらいたで不安だが、いないとそれはそれで不気味だ。魔物がいないとはいえ少しは警戒すべきだろうか。
「……もう少し見晴らしのいい場所に移動しようか。この辺、木とか転がってて危ないし」
「あっち?」
「じゃあエールは俺が……」
三人はいそいそと移動の準備を始める。中途半端に燃え残った森に囲まれたこの場所では奇襲を受ける可能性がある。何より、マリウスが戻ってきた時にもっと開けた場所にいた方が見つけやすいし、逆にもし彼に何事かあった時に助けにも行きやすいだろう。
意識がないままのエールを抱え、三人は動きだす。一行の背中を追うように、焼けた荒原にひとつ影が落ちる。
しばし沈黙があった。やがて諦めるようにひとつ息を吐き、メレディスは両手を挙げる。
「弁明させてもらっても?」
「……聞くだけ聞こう」
砲口は下がらない。困ったように小さく笑うと、両手を挙げたまま彼は話を続ける。
「あの時、俺は死霊を自律行動させるために試行錯誤していてね。ものの考え方や認識、言語の壁という点で、ヒトと魔物の差は大きくて……人間を基にした死霊は多少雑な命令でもうまく動いてくれるけど、魔物だとそうもいかない。第二層でやってたのは、手軽だったからだね」
「…………」
「そうだな、実験に使った死霊を始末せずに取っておいたのは俺の落ち度だ。ただ、あんな人気のない場所に冒険者が来るとは思っていなくて……つまり言いたいのは、あの時点で悪意があったわけじゃなかったんだ。それだけは本当だ」
マリウスは考える。成程わざとらしい弁明だ。彼ならばエールが……自身の憎い相手が『カレイドスコープ』として活動している事は当時から知っていただろうし、その害意の矛先が自分たち仲間へ向くのはむしろ自然な事だ。
ただ、いま重要なのは事件の真相ではない。あの事件が意図的に引き起こされたかそうでないかの明確な結論を出す事はできない。そもそもあの死霊たちがメレディスの手で生み出されたものだという証拠も存在しないのだ――しかし彼は事実を認め、弁明に走った。それがいったい何の意味を持つのか。
引き金に指をかけたまま思考するマリウスに、メレディスは真剣な眼差しで告げる。
「悪かったとは思ってる。……詫び、にはならないかもしれないけど、これを」
そう言うとメレディスは挙げていた手の片方をそっと下ろし、掌を差し出す。その上にふわりと灯ったのは、魔力のそれに似た柔らかな光だ。訝しむマリウスに、彼は静かな声で言う。
「君の姉上の……ジュディス・ロザンタールの魂だ」
「な、」
構えた重砲の重心がぶれた。途端に大きくなった鼓動の音を感じながら、マリウスは息を呑んでメレディスの様子を窺う。男の表情は変わらない。至って真摯に彼は続ける。
「あの後、保護しておいたんだ。勿論、どうするかは君に任せる。あくまで死者の魂だから何もかも自由にとはいかないけれど……一言二言、言葉を交わすくらいならできる」
「死霊術は万能の術じゃない。その魂を死霊に変えたところで、操り人形としてお前の支配下に置かれるだけだ」
「そうしない方法もあるって事さ。ただ、万能じゃないっていうのはその通りだ。だから一言二言くらいしか叶わない……けど、それでも話したい事くらいあるだろう?」
問いかけに、すぐに答える事はできなかった。話したい事など、あるに決まっている――しかしそれに迷わず飛びつくほどマリウスは愚かではない。魂の区別など素人につく筈もない。例えば今メレディスの掌にあるのがその辺りで死んでいる魔物のものだったとしても、そんな事はマリウスには分からないのだ。
十中八九、罠だ。しかし万が一の可能性が引き金にかけた指先を鈍らせる。もし、もしもあれが姉の魂であったならば、交渉に応じなければいったいどうなってしまうだろう。先程自分で言ったように、意思のない使い魔として浪費されるだろうか。それとも爆弾にでもされるだろうか。そんなのは、あんまりだ。
話に乗ってみようか、と思った。いざとなれば撃てばいいだけであるし、少しくらい踏み込んだ話をしてみても――。
マリウスは乾いた唇を開く。メレディスの瞳が、僅かに細まる。
背後から近付いてきた気配に、ケイナは咄嗟に振り返った。担いでいたエールを隣にいたリズに押しつけ、刀を抜く。刃同士がぶつかる高い音。刀越しに見えた顔にケイナは表情を歪める。
エールの兄、だ。やはり警戒するのが正解だったようだ、こうして移動中に襲われてしまっては無意味だが。しかし先程までは曲がりなりにも共闘していたというのに、なぜ急に襲ってきたのか……考えるまでもない。何故なら彼は死霊だ。すべての動作は、術者の命令によって行われる。
生気のない瞳がこちらを見ている。受け止めていた剣を力ずくで弾き返し、ケイナはリズとエスメラルダを背後に庇う。どうしたものかと考えるより先に相手が動いた。死霊は勢いよく踏み込むとケイナの脇をすり抜け、後ろの二人の元へ一直線に向かっていく。慌てたリズが避けようとする、その弾みで彼女が支えていたエールの体が滑り落ちた。
焦りから回避が遅れる後衛ふたりと剣を振り上げる死霊との間に無理やり割り込み、ケイナは刀の代わりに拳を握る。ここまで近付かれると刀は使えない。振るわれた剣を寸前で避け、空いた胴に拳を叩き込む。打撃を受けた死霊は数歩後退したが、ダメージが入ったような様子は見られない。
「死霊ってどうやったら倒せるんだ!?」
「ふつうに攻撃すれば、大丈夫!」
「普通……!?」
リズの返答を復唱しつつ刀を振るおうとしたケイナだったが、死霊の顔を見てついその手を止めてしまう。彼はエールの兄だ。死霊であるとはいっても肉体は墓から掘り起こした遺体そのものであるし、動いている姿は生前のそれと変わりないものである筈だ。
一瞬だけ足下に視線を向ける。地面に横たわったエールを避難させるだけの余裕と間合いは無い。せめて距離を取れれば――意識が無いとはいえ、彼女の目の前で兄を倒すのは――。
「ケイナ!!」
エスメラルダの声にはっと我に返る。目の前に迫っていた剣の腹に刀を当てて軌道を逸らした。首筋を掠めた突きに巻き込まれ、髪の束が千切れ飛ぶ。流れるような動作でもう一閃、返す刃を避けきるには時間が足りなかった。肩から胸にかけて浅く傷が走る。
「ぐっ……!」
「もう一歩退いて!」
鋭く叫ぶ声。言われた通りに跳び退けば目の前でスモークが炸裂した。煙幕に紛れて体勢を整え直した瞬間、煙を裂いて斬撃が襲ってくる。今度は刀でしっかりと受け止めたが、これからどうすれば良いのか、答えは見つからない。
せめて、動きを……と、相手を拘束する方法を考えようとしたところでふと気付く。先程まで足下に倒れていたエールがいない。あ、と思ったのとほぼ同時だった。
死霊の胸から、剣が生える。
エールの剣だ――煙幕に紛れて死霊の背後に回っていた彼女は、突き刺した剣先を捻るとすぐさま引き抜く。瞬きひとつを残し、膝からくずおれて倒れる死霊を、肩で息をしながらエールは見下ろした。死霊の体が末端から崩れて消えていく。青い瞳がエールを見た。けれど、それだけだった。
死霊が完全に姿を消した。ほっと肩から力を抜いて剣を下ろした瞬間によろめいたエールを、ケイナが咄嗟に支える。彼女はケイナの腕にぐったりと体を預けながら、彼の肩口に走った傷に目をやった。
「怪我……」
「え? あ……俺は大丈夫! それより……」
「少し前に、目が覚めていたんです。なかなか起き上がる事ができなくて、」
言葉が切れる。ひとつ呼吸を置いたエールの瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。ケイナが慌てて彼女にかける言葉を探すが、それより先に涙を拭ったエールがゆっくりと身を起こして自分の足で立つ。握ったままの剣を鞘に収め直し、彼女はかすれた声で言う。
「兄さまは、」
喉奥から振り絞るような咳がこぼれる。苦しげに息を吸い込んで、エールはもう一度、兄さまは、と呟く。
「死んだんです。わたし、見ました。ちゃんとこの目で」
「……うん」
「全部、元に戻っただけ。兄は死んで、わたしは生きてる。生きてるんだから……前に進まなきゃ」
誰に言うでもなくそう言い、彼女は両の手でぺちぺちと自らの頬を叩く。心配そうな面持ちで傍に近寄ってきたリズに優しく笑いかけ、エールは振り返る。
「もう大丈夫。……行きましょう。マリウスさんが心配です」
ケイナとエスメラルダは顔を見合わせる。結局彼女に何も言うことができないまま、一行はその場を後にしてマリウスが向かった方角へと足を進める。エールは最後まで、死霊が倒れ、そのまま跡形もなく消えていった場所を見なかった。
「もし……お前が本当の事を言っていたとして」
乾いた唇から漏れた声は冷え冷えとしていた。メレディスが小さく首を傾げる。一度は下がった砲口を再び上げ、狙いがぶれないようしっかりと構えながら、マリウスは続ける。
「それ(・・)を交渉の材料にするならば……初めから死霊にしておくべきだった。エールの兄のように」
「…………」
「こんな勿体ぶった事はせずに、死霊にでもして言わせればいい。「お前を恨んでいる」と……それだけで私はお前を追う気力を失うだろう。そのまま取り殺されても、きっと抵抗はしない。だがお前はそうしない。そちらの方が交渉よりも余程手っ取り早い筈なのに。……姉上ではないんだろう、その魂は」
答えは無い。
メレディスは静かにマリウスを見つめている。瘴気で弱った彼の乱れた呼吸の音だけが、静まり返った森の中に響いている。
「……理想郷に行きたいんだ」
蚊の鳴くような声で、死霊遣いは呟く。
「それだけなんだよ、俺は」
「それだけのために、お前は色々なものを奪いすぎた」
「大事な人と二度と会えなくても良いの?」
マリウスは奥歯を噛みしめた。どこか懇願するような目で見つめてくるメレディスに、振り絞るように、答える。
「姉上はもういない……どこにもいない……!」
沈黙。メレディスの指先が僅かに動く――その掌の上の魂が渦巻いて死霊に姿を変えるよりも先に、マリウスは引き金を絞った。放たれた瘴気弾が魂を貫き霧散させる。弾丸が命中した肩から拡散した瘴気に視界を覆われ、メレディスが苦悶の声を漏らす。同時に召喚された死霊がマリウスの背後へ回った。はっと重砲を向ける――までもなく、どこからか飛んできた矢に射抜かれ、死霊は瞬く間に霧散する。
「っ、そ……!」
メレディスが踵を返して走りだす。覚束ない足元で真っすぐに森の奥へ向かう彼の背に、マリウスは静かに砲口を向けた。照準はぶれない。呼吸を整え、引き金に指をかける。
発砲音。次いで、鈍い音が響く。
瘴気の漂う暗い森の中では、弾丸の行き先で何が起こったのか見通す事はできない。暗闇に目を凝らしながら重砲を下ろし、顎に垂れた汗を拭うマリウスの元に、足音がふたつ近付いてくる。
「追わなくていいの?」
「……ああ。構わない」
マリウスが答えれば、ハルは弓を構えたままでひとつ頷いた。その足元についてきていたカザハナはひとつ吠えるとマリウスの周りをくるくる回り始めた。どうやら怪我の位置を確認しているらしい彼女に苦笑しつつ、マリウスは問う。
「どうしてここに?」
「……世界樹の頂上が強く光ったのが見えた。街が大騒ぎになって」
光の出所が迷宮第五層らしい事が確認されると、次は探索中の『カレイドスコープ』はいったいどうなっているのかという話になったのだという。評議会をはじめ各方面から心配の声が上がったが、そもそも第五層を探索できる冒険者はほとんどいない。そんな中で白羽の矢が立ったのがハルだった。なにせ彼はつい先日も『カレイドスコープ』の救援のために単身第五層にやって来たばかりだ。
「まあ大変だったよ。瘴気があるのは分かってたから祈祷師に頼んで防御術かけてもらったり」
「それは……手間をかけさせたな……」
顔の傷を舐めようと立ち上がるカザハナを抑えながら神妙に応えたマリウスを見て、ハルは僅かに顔をしかめた。溜息をひとつ吐き、彼は首を横に振る。
「ごめん、訂正させて。来るって決めたのはボクだ」
「? ……私たちに用があったのか?」
「違う。……「弟を頼む」って言われた」
マリウスは言葉を失う。そして思い出す。姉が第二層で命を落とした時、彼女の遺体を見つけて運んできたのは、彼らだった。
視線を地面にやりながらハルは呟くように告げる。
「聞いたのはボクだけだ。だから、助けに来た。……迷惑だったなら、謝るけど」
「いや、……いや、そうか。そうだったか。……」
勢いよく頬を舐めていたカザハナがふと顔を離し、つぶらな瞳でマリウスを見上げる。心優しい彼女の頭を感謝を込めて撫でてやりつつ、マリウスは重砲を肩にかけ直してひとつ息を吐く。森はひどく静かだ。足元に座り込むカザハナの息遣いと、辺りを見回すハルの上着が擦れる微かな音だけが聞こえてくる。
何もない、風ひとつも吹かない、ひどく静かなここが、世界樹の頂上だ。
――こんなもののために。
意味もなく胸の奥が苦しくなった。こみ上げそうになる何かを深く吸った息ごと押し戻し、マリウスは掠れた声で言う。
「ハル君」
「なに」
「大した事じゃないから、聞き流してほしいんだが」
ハルは何も言わない。それを肯定と捉え、マリウスはぽつりぽつりと語る。
「私は……成し遂げたかった。自分ひとりの力で、掛け値なしに誇れるなにかを」
……世界樹でなければいけなかった理由など、本当は無いのだ。ただ手の届きそうな範囲にそれがあって、運よく飛び出すためのきっかけがそこにあったから。浪漫や夢は二の次だった。権力も智慧も武力も富も、どうだって良かった。
――何故だ、マリー。
――何故よりにもよって、世界樹などを……。
誰にも言えなかった――言える筈も無かった。こんなくだらない理由で実の姉を死に追いやったなどと、誰が言えるものか。それでも、足を止められなくなる前の、はじめの願いは。私の望みは――。
「あの人の誇りになりたかった。……自慢の弟でありたかった。それだけなんだ」
「……そう」
ハルは静かに頷いた。彼はマリウスの方を見なかった。足元にすり寄ってきたカザハナの背を撫で、呟くように応える。
「叶ってるといいね。こんな頑張ったんだからさ」
マリウスは、言葉を返す事ができなかった。ただ不自然な笑みの形に歪んだ唇から、ひきつれた吐息がこぼれるばかりだった。僅かに薄れた頭上の瘴気の隙間から淡い星明りが射しこんでくる。焼けた森の向こうから連れ立って歩いてくる三人の足音。遠くで手を振る仲間たちの応えながら、二人と一匹は歩いた。
この時をもって。『カレイドスコープ』は史上初めて世界樹の迷宮を踏破したギルドとして、その名を歴史に残す事となったのだった。
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