【SQ5】終章

「……で~きた! はい、これ飲んでください。血の巡りが良くなるから」

「ありがとう。いただきます」

 差し出された薬湯をにこやかに受け取り、セリアンの女性は一息に椀をあおる。その横顔を眺めながら、エスメラルダはほっと胸を撫で下ろした。この様子なら、もう大丈夫だろう。

 彼女の名はミルドレッドという。メレディスがレイチェルを仲間に引き入れるために人質に取っていた女性である。彼女は魔術と薬品の併せ技で長期間意識を奪われていた。当然そんな状況が続けば命が危ういし、実際に治療の最中に危険な状態に陥った事もあったが……医師たちの懸命な治療により無事持ち直し、今ではベッドから身を起こせるまでに快復していた。

 エスメラルダ――と、特に深い理由もなくついてきたリズ――がこうしてミルドレッドの病室を訪れたのは、純粋に彼女の容態が気になっていたためである。突如やってきた初対面の若者二人を、彼女は快く迎え入れた。

「リハビリには時間がかかるらしい。しばらくは休養に徹するしかなさそうだ」

 と、ミルドレッドは空になった椀をエスメラルダに返す。本当のところは時間がかかるどころの話ではないのだが、どうやら彼女にとってリハビリに伴う苦痛はそれほど大した問題ではないようだ。

 ベッドの空いたスペースに腰かけて足をぶらつせていたリズが、のんびりした口調で言う。

「はやく元気になるといいね」

「ああ、ありがとう。早く旅に戻れたらいいんだが……そういえば、あなたたちは今後どうするんだ?」

「どうとは」

「世界樹の迷宮、踏破したんだろう? 冒険者を続けるのか?」

 投げかけられた問いに、エスメラルダとリズは顔を見合わせて黙り込む。何とも言えない表情で口をつぐんだ二人を見て、ミルドレッドは首を傾げる。

 『カレイドスコープ』が世界樹を踏破したギルドと呼ばれるようになってから、早くも十日が経とうとしている。

 確かに、世界樹の頂上にあたる二十五階に到達して、なおかつそこに巣食っていた迷宮の主とも呼べる存在を討伐したのだから、踏破で間違いないのかもしれないが……正直なところ、まだ実感が薄い。第四層の途中からはメレディスたちの件でいっぱいいっぱいであったし、特に第五層では色々なものに追われすぎて探索をしているという感覚も薄かった。

 滅びの化身を倒して帰還した後、大騒ぎする街の人々に揉まれている間にあれよあれよと恩賞だの勲章だのの授与が行われ、英雄と呼ばれだして初めて「すごい事をしてしまった」という意識が湧いてきたくらいだ。自覚が無さすぎるのではないかと思われるだろうが、大変だったのだから許してほしい。

「……まあ、その、まだ二十五階の地図はぜんぜんできてないし、もう少しは探索を続ける予定です。今後の事を考えるのは、それからかな……」

「そうか。大変なんだな……」

 気遣わしげに言い、ミルドレッドは枕元に置いてあった見舞い品らしき菓子をリズに差し出す。喜んで受け取る少女を横目に、エスメラルダは薬湯を淹れるために広げてあった道具を片付け始める。自分に向けて差し出された菓子は謹んで受け取りを辞退し、話を逸らすように訊ね返す。

「リハビリが終わったら、また旅に出るんですよね? どこに行くんですか?」

「西かな、元々そちらに向かっていたし。けどまあ、そのあたりはレイチェルの機嫌と相談だな」

「機嫌……」

 おうむ返しに呟き、エスメラルダは話題に上がったその人の顔を思い浮かべる。常に無表情の、淡々としたルナリア女性……深く交流したわけではないが、エスメラルダが彼女に抱くイメージは冷たい陶器の人形か、あるいは氷の彫像だ。聞こえは悪いが……。

 どうやらリズも似たような事を考えていたようだ。彼女は不思議そうな顔で呟く。

「機嫌、あるの?」

「なかなか失礼だな。あるんだ。意外な事に」

 それはそれで失礼な事を言いながらミルドレッドは腕を組み、例えば、と告げる。

「最近はなんか、悩んでるみたいだったな」


 レイチェル・アンブレラは孤児であった。幼い頃に両親を失い、紆余曲折を経たのちに祈禱術の才能を見出され、現在籍を置いている家に引き取られ養育されたのだが――その直前にいた孤児院で同じく孤児のひとりとして生活していたのが、メレディス・コーディアだった。

「さほど強い印象はありませんでした。強いて言えば孤立している少年がひとり居る、と、それだけだったように思います」

 と、当時の彼を振り返ってそう語ったレイチェルを、エールは神妙に見つめ返した。豪華な調度品に彩られた評議会の応接室は静謐に満ちていて、大きな窓から射し込む光が柔らかく部屋の隅を照らしている。内密に話がしたいというエールの頼みに応えたレムスが用意してくれた部屋だが、やはり身の丈に合わない場所にいると少し落ち着かない。

 もぞもぞと体を動かして柔らかいソファーに沈み込んだ尻の位置を繰り返し変えるエールを前に、レイチェルは至極落ち着いた様子で紅茶の入ったカップをソーサーの上に戻す。

「そういう点では、彼よりもあの冒険者のほうが印象に残っています」

「……どんな人でしたか?」

「そうですね、優しい大人でした。彼が来た日の夕食は豪華でしたし、デザートまでつきましたから、それが嬉しかっただけかもしれませんが」

 もう一度紅茶を啜って唇を潤し、けれど、と前置いてレイチェルは続ける。

「メレディスはあの方を慕っていたようですが、私にはそれが理解できませんでした」

「それは、どういう……」

「あの方は優しくはありましたが、孤児ひとりひとりに目をかけた事は一度もありませんでした。誰を相手にしていても、常にどこか遠くを見ているようで」

 そこでレイチェルは言葉を切った。手元のカップに落としていた視線を上げ、エールを見た。エールは何とも言えない、どこか不安げな表情を浮かべて机の上をじっと見ている。

 その表情を見てレイチェルは何か言おうとしたが、寸前で思い留まった。底がはっきり見えるようになったカップをそっと置き、先程までと変わらない淡々とした口調で告げる。

「私がお話しできる事はこれ以上ありません。メレディスが地図を手記ごと行方を眩ませたのなら、彼の冒険を知り得る方法も永遠に失われたでしょう」

「そう……ですよね。そう……」

 口ごもるエールを前にして、レイチェルは考える。彼女があの冒険者について知りたい理由も理解できるが、自分からしてみればあれ(・・)は踏み入ったところで何ら得をしないものだ。残された足跡を辿ったところでその先にあるのは行く末もなく広がる星の海か、もしくは未だに遺体どころか持ち物のひとつすら見つからないメレディスと同じ場所だ。

 そんなに価値があるものだろうか。と、思ったところで、彼女の脳裏に過ったのは「人質」に取られた相棒の姿だった。意識を奪われたまま目覚めない彼女を前に、記憶の中のメレディスが言う。

 ――誰にも興味が無かった君が、こんなに入れ込むなんて、いったい彼女にどれだけの価値があるんだい?

 僅かに瞳を細め、細い溜息をひとつ吐く。

「名前……」

「!」

 ぽつりと呟いた言葉に、エールは弾かれたように顔を上げる。彼女から視線を逸らしながら、レイチェルは言う。

「あの冒険者の名前を、ご存知ないでしょう。一度も話に出てこない」

 エールはひとつ頷いた。自分をまっすぐに見つめる少女の表情に一度目を伏せ、レイチェルはゆっくりと唇を開く。――すべての責任を負わずにこの世界を去った、忌むべき彼方からの旅人の名は。

「エノク・アイオライト」


     ◆


 瘴気の炎に焼かれて無惨な様相となった筈の二十五階は、驚く事に僅か十数日ほどで元の豊かな樹海へと戻っていた。『カレイドスコープ』を迎え入れたアルコンの言によれば、「封印が必要なくなったため、余ったリソースを再生機能に回した」との事だが、一行にはちょっと意味が分からなかった。分からなかったが、きっと魔法よりすごい何かの力を利用したのだろう。

 元通りになった森の地図を描きながら、五人はゆっくりと探索を続けた。森と共に再生したのか、別の場所からやってきたのか、はたまたあの惨状を生き延びたのか、他のフロアと同じように棲息している魔物たちを倒しながら、どこまで広がっているのかもよく分からない森を進んでいく。当然、一日や二日で地図が完成する筈も無かった。

 何にも追われず、少しずつ着実に、足跡を刻み込むように地図を描き進めていく……その歩みは駆け出し冒険者だった頃のそれとよく似ていた。五人でギルドを組んで探索を始めてからまだ一年も経っていない筈だが、ひよっこだったあの頃がもはや遠い昔のようだ。

 ……地図を描き終えたのは、アイオリスの街から「世界樹踏破」の熱気が消えつつある頃だった。何もない広い空間を抜け、ついに辿り着いた小部屋の奥で、透き通る水晶の髪をなびかせたアルコンは静かに一行を待っていた。

 やって来た五人の顔を順に見回し、彼女は微笑みを浮かべて告げる。

「到達おめでとう、『カレイドスコープ』。そして、改めて言おう。よくぞ幽冥なる原初の主を討伐してくれた」

「こちらこそ、おめでとー」

 リズがぺこりと頭を下げれば、アルコンも律儀に応える。ご機嫌に背中の棺の位置を直すリズをよそに、辺りを見回していたケイナが訊ねる。

「ここが、いちばん奥なのか?」

「そうだ。この場所こそが円環ノ原生林の最奥部。もう先には何もない……ここに辿り着いたという事は、すなわち世界樹の迷宮を踏破したことと同義だ」

 そう言われて、改めて一行は周囲に視線を巡らせる。辺りの様子はこれまでの道のりで見てきたそれと何ら変わらない。だが、確かに今いるこの空間から先に行く道は存在しないようだ。

 本当にこの場所が第五層の最奥部であると。そう確信したところで、エスメラルダの顔に徐々に喜色が浮かんでくる。

「そっか……ここが、そうなんだ」

「てっぺん?」

「天辺……登る事のできる範囲という意味では、確かにここがそう呼べるだろう」

 と、言ったところで、ふとアルコンは顎に手を当ててふむと唸る。

「そうだ、ここまで辿り着いたのだ、汝らに報酬を渡さねばな」

「ほ、報酬?」

「名誉、知識、武力、財宝……汝らアルカディアの民に伝わる世界樹の秘宝だ。元はといえば私が冒険者を集めるために作った伝説だが、それらを求めてきた者に、実はそんなものは存在しなかったなどと告げるのはあまりに残酷だろう」

 うんうんと頷くアルコンを、五人は何とも言えない目で見る。実のところ、その四種族の伝承を本気で信じていた者はこのギルドにはいないのだが……こちらのためにわざわざその報酬とやらを用意してくれたらしいアルコンの様子を見ていると、それを口に出すのは憚られた。彼女の正体は未だによく分からないが、いちいち真面目な人だ。

「……とはいえ、世界樹を踏破した汝らだ。名誉は既に手にしたと言えるだろう。知識についても、世界樹の始まりを知った知った事で叶っているだろう。となると、武力と財宝か」

 しばし考え込むと、アルコンはおもむろに両の掌を『カレイドスコープ』に差し出す。その上に現れたのは、小さな指輪と見た事のない色をした金属の延べ棒だ。戸惑う五人にアルコンはそれぞれの品について説明する。どうやら両方とも遥か古代の時代に造られた品で、指輪は装着した者の身体能力を強化する魔法がかけられた世界にひとつだけの装身具、延べ棒は現代のアルカディアでは非常に稀少な金属のインゴットなのだという。『カレイドスコープ』は顔を見合わせた。報酬を目的にして登ってきたわけではないが……確かにここまで来るのにはたいへんな苦労をした事だし、くれるというなら貰っておいても罰は当たらないだろう。

 礼を言って指輪と延べ棒を受け取ったところで、マリウスがアルコンに向き直る。

「ここで休憩していっても良いか? なんというか……この場所の空気を、もう少し吸っておきたくて」

 アルコンはその言葉に目を丸くし、何度か瞬きをした後、ひとつ頷いた。


 頂上というのだから、てっきり地上の様子が見えるものだと思っていたのだが。少し残念に思いながら、ケイナは頭上に広がる星海を見上げた。暗い空にいくつもの光る星が散りばめられている様子は夜空に似ているが、異なっているのは二つの月の近さだ。

 表面の凹凸まではっきりと見えるそれをしばし眺めていた彼だったが、ふと視線を下ろすとゆったりとした足取りで歩き出した。向かう先にいるのはエールだ。膝を抱えて木陰に座り込み、先ほどまでのケイナと同じように空を見上げていた彼女は、近付いてくる足音に気が付くとはっと我に返った。

「あ、ごめん、邪魔したか……?」

「いいえ、大丈夫です」

 にこやかに首を振るエールにそっか、と頷き、ケイナは彼女の隣に腰を下ろす。

「ここが頂上だって。何だかこうしてくつろいでると、全然そんな気がしないな」

「そうですね。でも、やり遂げたんです。わたしたち。……」

 唐突に黙り込んだエールを、ケイナは不思議そうに見つめる。視線に気付いたエールは小さく首を振って苦笑すると、本気で聞かないでくださいね、と前置いて語りだす。

「わたし、世界樹の迷宮を踏破したらそこで終わりなんだと思ってました。でも、そんな事はなくて……世界樹の頂上に行きたがっていた兄も、その兄を死霊にして利用した人も、本当の父親らしい人も、いなくなってしまったのに、わたしは今もこうして生きていて」

「……うん」

「そんな自分に、まだ失望してるんです。こんな事を言うと、怒られてしまうかもしれませんけど」

 ケイナは黙り込んだ。真剣な面持ちで返す言葉を探す彼に、エールは困ったように笑って告げる。

「もちろん! それ以上に皆さんと一緒にここまで来れた事が嬉しいですよ。探索も終わっちゃうのかと思うと、寂しいけれど……」

「え、あ……そっか。探索、終わりか……」

 冒険者としての目標を「世界樹の踏破」に置いていた以上、ここから先へ進む道が無いとなると探索を続ける理由も無くなってしまう。勿論、必ずしもギルドを解散しなければならない訳ではないだろうが、大目標を失ったまま冒険者として活動を続けても、得られるものは無いように思われる。きっと、解散してそれぞれの道を行くのが最善の道なのだろう。それはとても寂しい事ではあるが……。

「ケイナさんは、これからどうするか決めてますか?」

「……実は……西に行くかもしれない。ディアマンテが、ゼファーリアまでついてこないかって……」

 曰く、ディアマンテもそろそろ実家に帰らなければならない時期が近付いてきているらしい。彼女がアイオリスまでやって来たのは由縁ある精霊ゆかりの地をめぐる巡礼のためであり、この旅を終えた後はゼファーリアに戻って本格的に巫女修行を始めるのだという。ケイナはその復路の道中を警護してほしいと頼まれたのだ。

『ほら、道の途中で盗賊とかに会うかもしれないし、ケーちゃんがいてくれたら安心だなって。……あ! でもでも、強制するわけじゃないよ。ケーちゃんがやりたい事できるのが一番だもんね』

「行ってみようかな、って思ってる。いつ出発するのかはまだ聞いてないし、父さんと母さんにも連絡しないといけないけど……」

「そうですか……でも、やりたい事があるって素敵ですね」

「そう言うエールはどうなんだ?」

「わたしは……」

 問い返されたエールは思わず口ごもる。少しのあいだどこか遠くを見つめて考え込んでいた彼女だったが、やがて呟くように答えた。

「……わたしも、アイオリスを出ると思います。少し、やってみたい事ができて」

 ケイナは目を丸くした。意外な答えだ――色々な事があって精神的に疲れてしまっただろうし、今後の事を考える余裕はまだ無いのではないかと思っていた。だが、やりたい事とは何だろう? ケイナにはまったく想像がつかなかった。しかし、と彼は思い直す。エールがそうしたいと言うなら、自分はその「やりたい事」を全力で応援するまでだ。……勿論、ヤケになっておかしな事に走ろうとしているなら別だが。

「あ、大丈夫ですよ! 前向きな事です。誓っておかしな事じゃありません!」

「おかしな事をしそうだと思われている自覚はあるんだな……」

 だがまあ、自覚があるのなら殊更におかしな事はしでかさないだろう。ひとまず安心して、ケイナはもう一度空を見上げた。巨大な月の向こうに瞬く星々。あのうちのどれかひとつが、かの冒険者が帰ったという星なのだろうか。アルコンに訊いてみようかと思ったが、やめた。知ったところで意味のない事だ。自分たちの行く先は、そこにはないのだから。


 少し離れた場所で耳をそばだててエールとケイナの会話を聞いていたリズは、おやつの焼きリンゴをかじりながらむむ! と顔をしかめた。二人は、もう冒険者をやめた後の話をしているようだ。彼女にはそれが腹立たしかった……より正確にはとても寂しかったのだが、原因のはっきりした寂しさが怒りに転じてしまう事はままある事だ。

 しかしそれを言語化して整理できるほどリズは器用ではなかったので、勢いのままにリンゴにかぶりついて感情を発散する事しかできなかった。不機嫌な表情のまま果肉をしゃりしゃりと噛み砕く彼女を見ていたエスメラルダは、呆れたように声をかける。

「どうしたのさ、急に怒りだして」

「……なんでもないもん!」

「いや、何でもなくは……いや、そう、ごめん……」

 深入りしても良い事はなさそうだと判断し、エスメラルダは大人しく引き下がる。賢明な彼が少し距離を取って足下の植物を観察し始めるのを横目に、リズは違う方向へと耳を傾けた。マリウスは、先程から四人とは離れた場所でアルコンと話をしている。二人とも何やら真剣な表情だ。

「……では、あの原初の主とやらが、瘴気の……」

「そうだ。太古の時代、奴の影響を受けて同じ力をその身に宿した血筋が……」

 ……どうやら難しい話のようだ。あまり興味もないので、特に聞かなくても問題はないだろう。

 リンゴの最後のひと欠片を口に放り込んだリズは、服の裾で手を拭うとこちらに背を向けて植物を見ているエスメラルダにぎゅうと抱きついた。エスメラルダは突如のしかかってきた重みにグエエと呻く。

「もー、やめてよ……潰れちゃうよ」

「エスメラルダは、行くとこあるの」

 言葉の足りない質問の意図を、エスメラルダは正しく把握したようだった。草花をかき分ける手を止め、小さく息を吐いて答える。

「まだ決めてないよ。でも、そうだな……せっかくここまで来たんだし、探索の経験を活かせる事がしたいよね」

「……ちゃんと考えてる!」

「なんで怒るの、良い事じゃん……」

 非難するように声を上げてより体重をかけてくるリズを押し返しながら、彼は諭すような声色で続ける。

「世界樹踏破はすごい事だし、このギルドの事も大好きだけど、そこに甘え続けてたら先に進めないよね……って、けっこう前から考えてたんだ。僕もっと色んなところを冒険してみたいしね」

「なんでまじめなの!」

「だから良い事じゃんって……リズは、やっぱり寂しいの?」

 エスメラルダの問いかけにリズはいっそう顔をしかめてエスメラルダのつむじに頬を押しつける。エスメラルダはやれやれと苦笑した。彼女は特にギルドの仲間たちに愛着があるから、離別の予感を嫌がるのも無理はない。これは後々面倒な事になるかもしれないな、と思いつつも、そのわがままが嬉しくもあった。

 このギルドで良かったな、と。素直にそう思える。

「どこに行っても仲間だよ。リズはそうは思えない?」

 答えは無い。代わりにむずがるような唸りが返った。アルコンとの話を終えたらしいマリウスがこちらへ歩いてくる。休憩時間の終わりを察し、エールとケイナも立ち上がった。エスメラルダが二度、三度と促せば、リズもようやく体を離す。むくれた顔の彼女と共にエスメラルダも仲間たちの元へ向かった。

 そうして、探索は終わる。


     ◆


 それから、しばらくして。

 エスメラルダは大市で仕入れた薬草を両手いっぱいに抱え、大通りを歩いていた。時折通りすがる人々から会釈をされたり手を振られたりするが、その多くは知らない顔である。ひとまず笑顔で応えつつ、内心で嘆息する。こんなどこにでもいそうな顔のブラニーが『カレイドスコープ』の薬草師であるなどと、彼らはなぜ気付く事ができるのだろう。まさか知らないうちに肖像画でも流通してしまっているのだろうか。よからぬ輩に絡まれるかもしれないし、ひとりで行動するのは避けた方がいいかもしれない。

 と、そんな事を考えながら歩いていたせいか、注意力が散漫になっていたようである。腕からこぼれ落ちた薬草が石畳を跳ねる。すぐにしゃがんで拾おうとしたが、如何せん両手が塞がっているためうまく拾う事ができない。もっと面倒臭がらずに大きな鞄を持ってきておけば良かった……と後悔しながら四苦八苦している間に、脇から伸びてきた手がすっと薬草の束を拾い上げる。

「あっ!」

「なんだ落し物か。こんなとこで座り込んでるから、何かあったのかと」

「なんで鞄を持ってこなかったんです? 無茶でしょう、そんないっぱいに抱えて歩くのは」

「ああ、はい、まったくその通りで……ありがとうございます」

 頭を下げれば、薬草を差し出したジャンは気にすんなと笑い、その後ろに立つステファンは小さく肩をすくめた。

 どうやら彼らも進行方向は同じらしい。それじゃ宿に着いてもドア開けられねーだろ、とのお言葉に甘えて薬草を持ってもらいつつ、エスメラルダは二人を見上げて問う。

「探索、順調ですか?」

「ぼちぼちですねえ。昨日ドングリにぶつかられて背骨折れたかと思いました」

 発現の内容にそぐわないのんびりした声でステファンが答える。彼ら『ヴォルドゥニュイ』は、現在第五層の探索を行っている。二人での探索という事もあってその進捗は亀の歩みであるが、それでも日々少しずつ先へと進んでいるようである。

 鼻先をくすぐる薬草とひとり格闘していたジャンがエスメラルダへ向き直る。

「お前こそ最近どうなんだ? そもそも何やってんのか知らねえけど」

「僕? 僕は評議会とかギルド長に頼まれて、医院の手伝いとか……」

 そこでエスメラルダはおもむろに辺りを見回し、声をひそめて大声じゃ言えないんですけど、と続ける。

「実は近々、クラフトマン高地に調査団が派遣される計画があるらしくて。僕を団員として推薦したいって、レムス様が」

「へえ、クラフトマン高地っていうと……」

「世界樹の麓の西側ですね。確かにあの辺りの森にはあまり調査の手が入った事がないと聞きます」

「まだ確実じゃないですけどね。でも折角推薦してくれるなら引き受けようと思って。色々勉強中です」

 そう言ってはにかむエスメラルダに、二人はへえ~と相槌を打つ。調査団の派遣は基本的に評議会――この場合の評議会とはアイオリスでの政治を行う機関ではなく、その母体、四種族の代表から成るアルカディア最大の意思決定機関を指す――の主導で行われる一大プロジェクトである。当然調査に参加するのは各分野の精鋭であるし、誰もがなろうと思ってなれるものではない。市井の出の冒険者がそこに参加するとなると、歴史的にもかなり大きな出来事になる筈だ。

「うまくいくと良いですね。出世したらご飯とか奢ってください」

「そんな、いつになるかも分からない話を……まあ、できる限りの事はやってみるつもりです。皆もそれぞれ頑張ってるだろうし」

 と、そう言ってエスメラルダは遠くを見つめる。

 二十五階の地図を作り終えた後、まず初めにアイオリスを発つ事になったのはケイナだった。

 前々から言っていた通りディアマンテに同行してゼファーリアへ向かう事に決めた彼は、アイオリスでの諸々の手続きを終え、故郷の両親から旅の継続を承諾する旨の手紙を受け取ると、それからすぐに旅立っていった。本当はディアマンテたちはもっと早く出発する予定だったのだが、ケイナの準備が整うまで待っていてくれたのだという。

「ブラニーたちの地域には行った事がないし、色々勉強して帰ってくる。どのくらい滞在するのかは、まだ決めてないけど……また皆に会いに来る。絶対に!」

 そう言い残して去っていった彼の表情は晴れやかだった。見送りに来ていたハルが、遠ざかっていく馬車を眺めながら小さく呟いた。

「調子に乗りすぎて、また物壊さなきゃいいけど」

「ハルさんは寂しくないんですか?」

「別に。今のあいつなら上手くやるでしょ」

 そっけない、しかしどこか安心したような言葉に、彼の足元で寂しげに尻尾を垂らしていたカザハナが小さく鳴いた。

 次はマリウスとリズだった。長らく庶務をペルラに任せる形で屋敷を空けていたマリウスだったが、ついに「そろそろ戻ってきなさい」とお叱り半分懇願半分の便りが届いてしまったのだという。それに、そろそろジュディスの弔いの儀を行わなければいけない日取りでもある。ちょうど良いタイミングであるし、手伝いのミーシャとリズも連れて一緒に帰る事に決めたのだそうだ。

「これ以上小父上に迷惑をかけられないし、アイオリスに戻ってくるのは難しいだろう。何かあったら手紙でも寄越してくれ。勿論、屋敷に来てくれたらすぐに会えるが」

「みんな来て。あした来て」

「お前って子はまた無茶を……ほらこっちに来て、荷物載せるの手伝ってくれ」

 ふくれっ面のままミーシャに引きずられていくリズに苦笑しながら、マリウスは最後に大きく手を振って馬車へ乗り込んでいった。

 最後はエールだった。たったひとりで荷物をまとめた彼女は、歩いて故郷まで戻ろうと思うんです、と告げた。

「考えたい事がたくさんあって。景色でも眺めながら、ゆっくり旅をしたいと思います」

「また行き倒れたりしないでよ?」

「大丈夫です! あの頃のわたしとは違いますから!」

 えっへん! と胸を張ってみせたエールに、エスメラルダは本当かなあ、と苦笑した。まあ、路銀は貴金属に換えて小分けにして持っているし、道中ですこし寄り道をすればマリウスの屋敷を頼る事もできるため、心配いらないとは思うが。

 同じくアイオリスから旅立っていく馬車が、街道へと進んでいく。ガタガタと鳴る車輪の音を聞きながら、エールはふとエスメラルダを見つめた。

「エスメラルダさん」

「なに?」

「丘の向こう(・・・・・)は……どうでしたか? 見たい景色が、ありましたか?」

 問いかけにエスメラルダは何度か目を瞬かせた。それからにっこりと笑い、答える。

「そうだね。でも、もっともっと遠くまで行けそうな気がする!」

 その答えにエールも笑みを浮かべた。そうして、彼女も旅立っていった。もう十日も前の出来事だ。

 ようやくひとりで寝起きする日々にも慣れ始めた頃だが、いまだにふとした瞬間寂しさが過る。街の人たちは変わらず良くしてくれるし、『ヴォルドゥニュイ』やハルたちもアイオリスに残っているため、孤独を感じる事はないのだが。

「でかい事なしとげたのに、お前ら皆忙しいなあ。もっとゆっくりしてけば良かったのに」

「でも足を止めてなんかいられませんよ。まだまだ遠くまで、丘は広がってるので!」

 丘? と首を傾げる二人をよそに、エスメラルダは頭上に目をやった。街の上空、傘のように枝葉を広げる世界樹は、今日も昨日までと同じように悠然と佇み続けている。空は晴れ渡っている。その遥か上方に広がる星の海も、変わらず満天の光を湛え続けている事だろう。

 世界樹が踏破されたところで世界は大きく変わらない。アルカディアはどこまでも広く、未踏の地はまだまだ存在している。それはとてもロマンのある事のように思えた。あれほど目指していた世界樹の頂上ですら、到達点のひとつでしかないと思えるほどに。

 よし! と気合いを入れ直し、エスメラルダは再び歩き出す。不思議そうな顔をしたジャンとステファンを引き連れて、彼は軽い足取りで通りを行く。


     ◆


 遠くの空に黒い雲がかかっている。先程まで窓を叩いていた雨も、もうあんなに遠くまでいってしまったようだ。庭の花々に滴る雨粒を明るく射しはじめた太陽の光が照らしている。涼やかな風がカーテンを揺らして吹き抜けていく。気持ちのいい、穏やかな雨上がりの午後だった。

 諸々の執務を終えて自室へ戻ったマリウスは、作業机に広げた諸々の道具を見渡してふうと息を吐いた。なにせ一年近く放置してしまったため、愛用の道具や顔料は全て駄目になっているかもしれないと心配していたが、どうやら自分がいない間も使用人たちが手入れをしてくれていたらしい。むしろ記憶にあるより綺麗になっているような気さえするそれらを前に、マリウスは自分がどれだけ周囲の人々に助けられているのかを改めて実感した。

 久しく使っていなかったイーゼルに白いキャンバスを立てかける。絵を描くのは幼い頃からの趣味だ。きっかけは何だっただろう――言われるがまま描いた花の絵を誰かが褒めてくれたとか、そういった些細な事だった気がする。ともかく、病弱であまり外に出る事ができなかった幼い自分にとって、絵は数少ない趣味のひとつであり、自尊心を守ってくれるほぼ唯一の手段だった。

 机の上に手を伸ばし、表紙のよれたスケッチブックを拾い上げる。開いたのはページに描いてあるのは、探索の合間に写し取った樹海の風景だ。迷宮でスケッチをしている余裕など無いため記憶を頼りに宿屋で描いたものだが、各階層の特徴が分かる程度の絵ではある筈だ。

 色鉛筆で着彩されたそれらをぱらぱらと捲って吟味するマリウスの耳に、控えめなノックの音が響く。振り返れば、扉の隙間からリズが顔を出していた。笑って手招きすれば少女は跳ねるように近付いてくる。

「おえかきするの?」

「ああ。迷宮の景色をきちんと残しておこうと思って」

 ふうん、と頷いてリズはスケッチブックを覗き込む。

 ジュディスの弔いはつつがなく終了した。仕事を終えたミーシャは早々にアイオリスに帰ろうとしていたが、リズがまだ残ると主張し、またマリウスたちももう少しゆっくりしていってくださいと誘ったために、もう少しこの屋敷に滞在する事になった。長旅の前に英気を養っていってほしいという気持ちは確かにあったが、実は別れが寂しくて引き留めただけかもしれないな、とマリウスは自嘲する。

 隣の青年の内心などまったく知らないリズはスケッチブックを自由に捲るとはしゃいだ声を上げる。彼女の頭を撫でつつ、マリウスは机の上から鉛筆を一本拾い上げる。

「どれを描くの?」

「そうだな、第五層かな……行くのが難しい場所を優先して描いておきたくて」

「そっかー」

「記憶が鮮明なうちに完成させないとな。……他にも、描いておきたいものがあるし」

 リズが首を傾げる。マリウスは困ったように笑ってキャンバスに向き直った。開いた窓の向こう、遠くまで広がる青空の向こうにそびえ立つ世界樹の影が見える。

 ――失ったものばかりが頭に浮かんでしまうのは、きっと自分が弱いからだろう。世界樹での冒険を経てもなお自分は弱く幼いままで、求めたものは手に入らないまま永遠に手の届かない場所へ行ってしまった。だからこそ残しておかなければならない。愚かな自分が、失ったものの存在すら忘れたまま歩いていってしまわないように。

 マリウスはリズを呼んだ。振り返った彼女に、静かな声で問いかける。

「冒険者になって、良かったか?」

 リズは少し考えた。一度スケッチブックに目を落とし、それから微笑んで答える。

「うん!」

「そうか」

 マリウスも微かに笑った。彼女の手からスケッチブックを受け取り、机の上に置く。四角い紙の内側に広がる、淡く色づいた円環ノ原生林の景色を見つめながら、青年は呟く。

「私もだ」

 真っ白いキャンバスに淡い線がひとつ引かれる。吹き込んできた穏やかな風が、鉛筆が紙上を走る微かな音を窓の外へ運んでいく。

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