【SQ5】Sleepy Hollow4
『これが「水晶竜」? 確かに手強かったな。あのキラキラしたやつの言ったとおりだ』
『でも僕らの勝ちだ。急に形が変わった時はびっくりしたけど、良かったよ。剣が通る相手で』
『水晶だけいただいていくか。売れば金になるだろ』
『そうだね。さあ、この先には何があるんだろう? 元の世界に戻る手がかりがあればいいんだけど』
『行ってみないことには分からないな。……なあ、お前』
『うん?』
『何度も訊いてるが、本当に戻りたいのか? ここにいるって選択肢もあるだろ』
『何度も答えてるけど、僕は戻るよ。やらなきゃいけない事がまだ残ってる』
『ここで得たものを置き去りにしてまで?』
『当たり前だろ。ここで生まれたものは、ここに残らなきゃいけない』
『……そうか。じゃあ、もう訊かないことにする』
『そうして。……ほら、行こうか。次の階層はどんなのだろう? 楽しみだな』
★
「……そう。やっぱり死んだのね、彼」
そう言って、ブラニーの女性は紙の束をそっと捲った。彼女に対面して座っていたジャンは、居心地の悪さを誤魔化しきれずにそっと視線を外した。
メレディス一行の隠れ家から見つかった論文は、しかるべき場所に返還することになった。評議会での調査の結果、論文そのものにメレディスの行動や思想のヒントとなるような記述は無く、また論じられている内容に学術的価値があると認められたのだ。証拠品として保持しておくより、彼の研究内容を理解して適切に活かすことのできる者に返したほうがいい、との判断である。
そうして呼び出されたのが、このブラニーの女性だった。名をフローラという。彼女はトトことサルヴァトーレ・フェリリの同門の研究者で、行方知れずとなった彼の捜索願を出した張本人であった。
トトの足取りを追ってアイオリスまでやって来たフローラに、評議会や衛兵隊は彼が辿った顛末を伝えていなかった。なにせ死霊となって肉体ごと消滅してしまった彼には、遺体どころか遺品のひとつも遺されていなかったのだ。論文という遺品が見つかって、ようやく彼女は真実を知らされた。……それが良いことだったのかは、分からないが。
「そうね、ショックは受けているけれど、覚悟はしていたから。……犯人はどうなったの? 捕まった?」
「一応な。ただ、話ができる状況じゃない」
「そう。文句のひとつも言えないのね」
フローラは寂しげに笑う。そうして、彼女はぽつぽつと話した。自分とトトが同じ研究者の下で薫陶を受けた同期であったこと、生前のトトが瘴気研究において多大な功績を上げた研究者だったこと、彼が自分と同じように瘴気を持って生まれた人々を助けたいという夢を持っていたこと。ひとつひとつの話をしっかり聞きながら、ジャンはメレディスの現状を正しく伝えなくて正解だった、と内心安堵した。
彼が今まで他者から奪ってきたのと同じだけ、彼を恨む人間がいる。誰もがレイチェルとミルドレッドのように幸運ではない――奪われた命も、絆も、夢も、大抵の場合は二度と戻ってはこないのだ。メレディス・コーディアは、きっとそんな事は承知の上で彼らを踏みにじっただろう。だが、今の彼は。
沈黙が下りる。しばし手元の紙の束を見つめていたフローラだったが、ひとつ息を吐いて顔を上げるとジャンをまっすぐに見た。
「届けてくれて、ありがとう。この論文は私が責任をもって然るべき場所に発表します」
「おう、よろしく頼む」
「アイオリスにはもう少し滞在するから、また何か見つかったら教えて。それじゃあ……」
しっかりとした口調で言い、深く礼をしてフローラは去っていく。評議会の応接間にひとり残されたジャンはしばしソファに背を預けたまま天井を仰いでいたが、やがてうっし、と気合を入れて立ち上がった。さっさと帰って、次の探索の準備をしなければならない。
『ヴォルドゥニュイ』の二人が寝泊まりしている宿は、冒険者たちが好んで使う……例えばジェネッタの宿のような「冒険者ギルド推奨」の宿が並ぶ通りからは、少し離れた場所にある。当初は彼らも冒険者向けの宿に泊まっていたのだが、探索を始めてすぐの頃にジャンがこの宿のベッドだと安眠できないと強くごねて別の宿に移ったのだ。ステファンは嫌がったが、宿代の差額をジャンが自身の財布から支払うということで無理矢理納得させた――そう、ジャンは冒険者稼業で稼がなくとも十分な金を持っているのである。何故なら彼は由緒正しき貴族の令息なのだ。
そういうわけで冒険者というよりは観光者向けの少しお高い宿に戻ってきたジャンは、すっかり仲良くなった受付嬢に会釈しながら階段を駆け上って客室へ向かった。ノックを三回してから返事を待たずに部屋へ入る。予想通り、相方は部屋でひとり休息をとっていた。ベッドの上でひらりと手を振った彼に声をかける。
「戻った。なんかあったか?」
「おかえりなさい。特に、何も」
ステファンは覇気のない声でそう応える。だらけきった格好でパンケーキを食べる彼に少々眉をひそめつつ、ジャンもブーツを脱いで自身のベッドに腰かけた。
「で、どうだったんですかそっちは」
「まあ、だいたい予定どおりだったわ。詳しいことは明日ハルと合流してからでも」
ふうん、と頷き、ステファンはベッドから身を起こす。彼はパンケーキをつまんでいた指をハンカチで丁寧に拭った後、枕元に置いてあった何かを持ち上げてジャンに差し出した。反射的に受け取ってから、ジャンはそれが蝋で封がなされた手紙であることに気付く。そしてうっかり受け取ったことを後悔した。というのも、封蝋に押された印は実家に代々伝わる家紋のそれだったのだ。あまりにも、嫌な予感しかしない。
「ちゃんと読みなさいよ。ただでさえ迷惑かけてるんですから」
と、ステファンが責めるような声色で諭してくる。ジャンは嫌々ながらも封筒を開けた。中から出てきたのはアイオリスでは滅多に見かけないような上質な便箋である。微かに香水の匂いがするそれを、沈痛な思いで読み進めていく。
手紙の差出人は長兄であった。長兄はジャンより四つ年上で、父の後継として日々所領の統治に携わる優秀な男だ。ジャンと違って頭がいいので当然手紙を書くのも上手い。整然と並んだ文字を追っていくうち、ジャンの顔はみるみる険しくなった。再びパンケーキをつまみながら彼の様子を横目に見ていたステファンが、思わずといったように問う。
「何が書いてあるんです?」
「……下の兄貴がアイオリスに来るって……えっなんで? あいつ王都で勉強してる筈じゃ」
背中に嫌な汗がじわじわ滲んでくるのを感じながら、ジャンは必死に文字を追った。長兄曰く。長く領地内の農業改革のため王都で最先端の技術を学んでいた次兄であったが、最近になって長期の休暇を得たのだという。そうして王都から実家に戻ってきた彼は、何がどうなってそうなったのか知らないが「弟の顔を見てくる」と言って急にアイオリス行きの準備を始めたと。そういうわけで多分近いうちにそっちに到着すると思うから会ったら観光案内くらいしてやってくれ……というのが、手紙の内容であった。
ジャンは頭を抱える。言いたいことは多々あったが、言葉になったのはひとつだけだった。
「……仕事しろ……!」
「貴方が言えた事ですかそれ」
ステファンのごく冷静な突っ込みは受け流し、ジャンは部屋の中を意味もなく歩き回る。面倒なことになった――ただでさえトンデモ迷惑犯罪者の後始末で大変なのに、身内まで突撃してくるなど堪ったものではない。どうにか次兄と顔を合わせる事だけは回避したいところだが果たしてそんなうまい方法があるだろうか。
神妙な表情でうろうろするジャンをよそに、ステファンは食べかけのパンケーキを手に持ったまま窓の外を眺めていた。窓側にある彼のベッドからは、ちょうど宿の前の通りがよく見える。器の底に溜まったベリーソースを拭い取って最後のひとかけらを口に運び、彼は落ち着きのない相方を振り返る。
「いったん落ち着きなさいよ。今更そう動き回ったって無駄でしょう」
「ま、まだ無駄じゃねえし……」
「無駄ですよ。だって」
と、ステファンが言い切るより先に、扉の向こうからノックの音が聞こえてくる。さっと沈黙するジャンはそのまま置いておき、ステファンはベッドを下りて鍵を開けた。次の瞬間、勢いよくドアが開く。
現れたのはよく見知った姿だ。自分と同じ色の瞳と目が合ってジャンは思わず天を仰ぐ。堂々とした態度で客室に入ってきたアースラン男性は、そんな彼の様子を見て声を上げて笑った。
「来たぜバカ弟ざまあみろ! ステファンも久しぶり! じいさまとばあさまは元気そうだったぜ、ほらこれ手紙預かってきた」
「どうも、お久しぶりです。エドゥアールさんもお元気そうで何より」
「おう! 俺はだいたいいっつも超元気!」
そう言って、男性は大きく胸を張る。ステファンは受け取った手紙を読み始め、ジャンはぐったりと脱力してベッドに座り込んだ。そういうわけで、どうにかして身内の訪問を食い止めたいという彼の思惑は結局すべて無駄になった――次兄エドゥアール・ド・ヴォリュビリス、襲来である。
◆
「それで身内が来たから探索は延期したいって? 勝手だなほんと……」
ハルの至極正当な苦言にステファンは肩をすくめた。今日は探索の打ち合わせのために『ヴォルドゥニュイ』とハルとで合流する予定だったのだが、昨日の急な身内の来訪によりすっかりそれどころでは無くなってしまった。足元に座っているカザハナも心なしか拍子抜けしてしまった、とでも言いたげな視線で彼を見上げている。彼女のふわふわの耳を揉んだり畳んだりしながら、ステファンは溜息混じりに応える。
「仕方ないでしょう、無関係な人を巻き込むわけにもいきませんし」
「……まあそうだけど。で、何日待てばいいわけ」
「そうお待たせしませんよ。明日は何とか時間を作るらしいので、さっと行ってさっと帰ってくれば問題ないでしょう」
そう言うステファンの顔にも困ったような苦笑が浮かんでいる。彼の手にふんふんと鼻先を押しつけるカザハナを見て、ハルも溜息をひとつ吐いた。まあ、どうせ急ぐわけでもないミッションだ。数日予定がずれ込んだところで何も問題は無いだろう。
それにしても、とハルはステファンに問いかける。
「ジャンは? そのお兄さんと一緒にいるわけ?」
「ええ、観光案内させられてますよ。彼、家族には頭が上がらないんです……自分だけ働いていないから」
「真っ当な感覚だな。あんたに着いてきて冒険者になったんなら、あんたのせいじゃないの」
直球な物言いにステファンはあははと笑った。図星だが悪びれるつもりも無いようである。ハルはうんざりとした気持ちで頭を振って、それから今ごろ西方でブラニーたちに囲まれて元気にやっているだろう幼馴染のことを思い出した。言いたいことは色々あるが、一緒に迷宮にきて仲良くやれているというのは、きっと良いことだろう――それを目の前のこの男に言ってやるつもりは毛頭ないけれど。
話を切り上げたステファンがカザハナの傍にしゃがみ込み、本格的に彼女とじゃれ始める。途端に尻尾を激しく振ってはしゃぎだす相棒を横目にハルも手近なところにあった花壇に腰を下ろした。急に降って湧いた休みだが、カザハナが楽しそうなら何よりである。
ジャン=フランソワ・ド・ヴォリュビリスは貴族の三男である。祖先は代々アースラン王に仕えていた武官で、最盛期には王族とも婚姻を結んで大きな権力を持ったと聞く。最も栄えた時代が過ぎ去った今でもヴォリュビリス家はルナリア領との境界に位置する一帯を統治し、絶えず人の行き交う種族混合都市を治める名家だ。
しかし現当主は家柄のわりに庶民的な価値観を持つ人物であり、彼の三人の息子たちもまた、そのような価値観の下でおよそ貴族令息らしくない性分に育った。長男は父の跡継ぎとして研鑽を積みながら自由恋愛の末に庶民の幼馴染を娶り、次男は勉学のためと称してアルカディア各地を気ままに飛び回り、そして三男は、友人について世界樹の迷宮へ飛び込んだ。
「つっても、何してもいいってわけじゃあないんだぜ。親父殿も母上もお前のこと心配してんだ。ステファンのじいさまばあさまも申し訳なさそ~に謝ってくるしさあ」
先ほど屋台で買ったばかりの串焼きを頬張りながらそう言ったエドゥアールに、ジャンは返す言葉も無かった。そんな事は言われずとも重々承知である。だからこそ実家とはこまめに手紙のやりとりをしているし、何ならステファンの祖父母にだって何の心配もいらない旨の便りを出した事さえある――手紙のひとつやふたつで安心させられるわけがないだろうというのは、その通りだが。
「ステファンを放っとけないっつー気持ちも分からんでもないけど、それとこれとは話が別だよなァ」
「うるせー……お前こそどうだったんだよ王都留学は。なんか収穫あったんだろうな」
「あたぼうよ~見てろよ、来年の今ごろは俺が持ち帰った農法で大豊作だぜ」
あっそ……と半目で頷き、ジャンは手元のサンドイッチを頬張る。馴染みの店で買ったハムサンドは今日も安定して旨い。
エドゥアールが最初に案内しろと言ってきたのはアイオリスの経済の中心、冒険者にとってもお馴染みのアイオリス大市であった。当然辺りは人でごった返している。貴族令息が護衛もつけずに人混みの中を歩き回っているというのは褒められたことではないが、エドゥアールもジャンもおよそ貴族には見えない風貌であることに定評があるので今のところ特に問題は無かった。彼ら兄弟は昔からこんな調子である。
次兄はアイオリスに集まってくる各地の名産品に興味があるらしい。あちこちの露店を覗いては店主と二、三言葉を交わし、時には小物を買ってまた次の店へと向かうエドゥアールの背中を見ながら、ジャンは何だかもう全てがイヤになる。別に次兄のことが嫌いなわけではないが、嫌いでなくてもイヤなことはあるのだ。身内特有の複雑な感情が存在しているのである。
「……エド! どこまで歩くつもりだよ」
「大市の端までに決まってんだろ。お前もおもれーもんあったら言えよ! ぜんぶ買って帰っから」
「あ、そ……」
経済を大回転させるつもり満々の兄に嘆息しつつ、辺りを見回す。大市の様子は普段と何も変わらない。強いて言えば真っ昼間ということもあって冒険者の姿は少ないだろうか。食品や日用品の店は賑わっているが武具を扱う店の客入りはいまいちだ。少し離れた軒先ではセリクが忙しなく商品をチェックしている姿が見える。商売熱心なことだ……と感心したジャンだったが、ふとあるものに気付いて目を瞬かせた。兄が近くにいることも忘れ、つい声を上げる。
「メレディス?」
「! ジャンさん、どうも」
素性を知られるのを警戒してか、怪しくない程度に顔を隠したメレディスがぺこりと頭を下げる。よく見てみれば彼から数歩離れた場所にいるのはミーシャだ。そこからまた少し距離を取った場所には、見張り役の衛兵がいるのも見える。彼はジャンと目が合うと軽く頭を下げて会釈する。いつもは宿でのメレディスの動向を監視している筈だが、ここまで着いてくるとはご苦労なことだ。
それにしても意外な組み合わせである。死霊遣いが二人で大市にいるということは、死霊術の道具でも調達しに来たのだろうか?
「いや、ミーシャさんのところに行ったら、ちょうどお茶に使うハーブを買いに行くところだったので……俺もついていこうかなって」
全然違ったようである。
メレディスの言ったとおり、ミーシャの腕には買い漁ったらしいハーブや茶葉の束が山ほど抱えられている。ジャンは驚いた。第五層から街に連れてこられて以降、メレディスはずっと暗い顔で隅のほうに立って黙り込んでいたような気がするのだが、いつの間にか人の買い物についていく程度には気力を取り戻していたらしい。果たしてそれが良いことなのか、それを判断できる立場に自分はいないが……悪いことでもないだろう、きっと。
ひとつ頷いて話を続けようとしたジャンだったが、不意に勢いよく背中を叩かれてつんのめった。メレディスが肩を強張らせて固まるのを横目に振り返れば、そこに立っているのはエドゥアールだ。
盛大に顔をしかめ、文句を言うため口を開くジャンだったが、兄の視線が自分に向いていないことに気付いてふと冷静になった。エドゥアールが見ているのは彼ではなく、彼が向いている方向……正面に立っているメレディスの方だ。その事実が何を指すのか、考えるより先に答えは返ってきた。ああ! と声を上げ、エドゥアールはメレディスに向かって声をかける。
「見たことあると思ったら、コーディアじゃあん。俺俺、覚えてる? ほら学院でみっつ隣の席にいただろ「朝顔の君」って、あれ俺~」
「……え?」
メレディスが素っ頓狂な声を上げ、ハーブ選びに没頭していたミーシャが振り返った。ジャンは咄嗟にエドゥアールの胴に拳を叩き込む。グエッ! と悲鳴を上げて崩れ落ちるようにうずくまる彼を囲んで、三人はしばし沈黙する。遠くで見守っていた衛兵が慌てて駆け寄ってくる。困惑しきった表情で見つめてくるメレディスに、ジャンは何も応えることができなかった。そんな新事実が今更明らかになったところで、いったいどうしろというのだ。
◆
「……で、そのエドゥアールってやつが、おまえの学生時代の同級生だったって?」
あまり興味のなさそうな口調でそう言ったシュシャに、メレディスは曖昧に頷く。聞いた話では、そうらしい……記憶を失っているためそれが本当かどうかについては確証が持てないが、かといってエドゥアールがでまかせを言う理由も存在しない以上、本当だと判断せざるを得ないだろう。
これまでの調査で得られた情報によると、メレディス・コーディアは養父母に引き取られた後、ルナエの学院に在籍していた経歴があるという。エドゥアールと同級生だったというのはその頃だ。留学にやって来た彼が配属されたクラスに、たまたまメレディスがいたのである。十年近く前の話だ。
「そんな前のこと覚えてるとか、どんなやつだよ。仲良かったわけでもないんだろ」
「態度は軽いけど、変なとこしっかりしてる人ですからねえ」
ステファンがのんびりとした声で言う。
「それにしても世間って狭いものですね。その留学から帰ってきたら今度は元の学校にレイチェルさんが留学してきて、告白して振られるんでしょう? あの人」
「言うなって……身内の恥を……」
「レイチェルに告白ぅ? 趣味わる……好きになる要素ないだろあの女」
「それは人それぞれだろ……!」
「ええと、それでそのエドゥアールさんは今日はどこに?」
「世界樹の調査資料見たいっつってたから、評議会に取り次ぐたけ取り次いで資料室に叩き込んできた。あいつもいい大人だし、ひとりになったからって滅多な事はしねえだろ。多分」
と、四人がやりとりしていると、前方から重い溜息が聞こえてきた。視線を送ってみれば、先頭を行くハルが明らかに苛立った表情でこちらを振り返っている。
「おしゃべりなら街でやって。それとも、蟲に食われて死にたいわけ?」
当然、はいと答える者はいない。ハルはふんと鼻を鳴らすと進行方向へと向き直る。彼の言葉を最後に辺りは静寂に包まれた。一行の足音と、カザハナの吐息ばかりが水晶の壁に跳ね返って四方八方に響く。
第四層・虹霓ノ晶洞は、竜水晶と呼ばれる水晶に覆われた幻想的な洞窟の迷宮である。この竜水晶は下界で採取される一般的な水晶よりも多くの魔力を含有しており、魔法の触媒として有用であることから、一時期はアイオリスの市場で非常に活発に取引されていた。その需要たるや、冒険者だけでなく衛兵や一般市民までもがツルハシを手に迷宮を目指したほどだ。もちろん犠牲は相応に出て、そのせいで冒険者以外の迷宮への出入りが殊更に厳重に管理される事になったのだが、その話は今は割愛する。
ひとまず重要なのは、この第四層は人の出入りが多い迷宮であるという事だ。許可を得ていない衛兵や一般市民の出入りはほとんど無くなったが、冒険者や評議会の許可を得た採掘部隊は定期的にここへ来て水晶の採集を行っている。この迷宮は瘴気が漂い不気味な雰囲気が漂っていた三層よりも遙かに人の目が多く、その視界に入る範囲も広いのだ。当然遺物を隠せる場所は限られてくる。メレディスが選んだのは、魔物を利用して箱を守らせるという手段だった。
メレディスが遺した地図の四枚目は、十七階のものであった。印がされているのは迷宮の西側、あの『残響に集う蟲』が住処にしているエリアの一角である。曲がりなりにも隔離された場所に置いてあった今までとは違い、この階層の遺物は魔物が徘徊している空間と同じ場所に隠してあるようだ。確かに人に見つからないようにするには有効だろうが、なかなか思いきった事をするものである。
「あのきもい蟲、よく死霊の材料にされてたわ」
と、小声でシュシャが呟く。落ち着いた様子を見ると、彼女もかなり迷宮にな慣れてきたらしい。
「なんか……ゾンビパウダー? ってやつが、少量でもよく効くとか言ってたな……」
「げえ、うわさの毒薬。本当に持ってたんですね」
「今はそんな物使えないし、見つかったら面倒だ。さっさと抜けよう」
ハルが言い、カザハナを先行させる。賢い白犬は吠え声ひとつ上げる事もなく岩陰から飛び出した。部屋の中にたむろする蟲たちは、彼女が硬い床を駆ける足音に反応する様子を見せていない。
周囲に『残響に集う蟲』以外の魔物がいない事を確かめたカザハナは、その場で立ち止まって一行が追いついてくるのを待っている。五人は頷きあい、音を殺して彼女の辿った道筋を追った。同じ場所に佇んだまま不気味に触腕をうごめかせる蟲の真横をすり抜け、部屋の奥へ。やがて辿り着いたのは水晶に塞がれた狭い道の手前だ。
この迷宮の一部の水晶は、驚異的な速度で成長して道を塞いでしまう事がしばしばある。そして、今回の目標地点は今目の前にある水晶のちょうど真っただ中に位置しているのだ。捜索するためにはこの水晶を砕かなければならないが、そうすると音に反応した『残響に集う蟲』が近寄ってきてしまう。こんな所を隠し場所に選ぶとはなかなか「いい趣味」だ。捜索しなければいけない側からすればまったく笑い事ではないが。
水晶は厚く、一筋縄では砕けそうもない。少し離れた場所でじっとしている蟲を横目に見ながら、ツルハシを構えたハルが四人を振り返る。ここから先はスピード勝負だ。視線だけで言葉を交わしあい、ハルはツルハシを振り返る。
辺りに響いた甲高い音に蟲たちがざわりと身を震わせる。途端に長い体をぜん動させてこちらへ向かってくる魔物たちの様子を窺いながら、ハルはもう一度ツルハシを振り下ろした。水晶が砕けて崩れ落ちる音。蟲とはまだ距離がある。この速度ならば何とか接触せずに事を終えられる……などと、考えていたその時だった。
砕けた水晶の陰で何かが光った――瞬間、周囲に炎が走る。意識の外からの攻撃にツルハシを取り落としたハルの脇をカザハナが駆け抜けた。彼女が飛びついて押し倒したのは燃えるような色をした結晶のような魔物だ。
髪の先端をほんのり焦がしたシュシャが慌てて回復術を発動させる。その間にジャンがカザハナの元へ向かい、転げてもがく結晶を蹴り砕いた。ハルが落としたツルハシを手に取り直すがもう遅かった。『残響に集う蟲』はすぐそこまで来ている。今から水晶を砕けば間違いなく襲撃される。
ステファンが杖を掲げて魔法を放つ。目標は近くまで迫っている蟲ではなく、その背後何もない空間だ。地面に着弾して砕けた氷柱の音に蟲が反応した、その隙にハルが動いた。全速力で魔物の懐まで飛び込み、構えたツルハシを思いきり振り抜く。セリアンの腕力で叩きつけられたツルハシは勢いのまま柔らかい胴に深く埋まった。つんざくような悲鳴が水晶の壁に跳ね返り、残響に惹かれた他の蟲たちもこちらへまっすぐに向かってくる。
勢いよく噴き出して足下に散った魔物の体液を踏み越え、ジャンが駆ける。向かう先にあるのはおぞましい叫びを上げてのたうち回る『残響に集う蟲』ではなく、弾き飛ばされて転がったツルハシだ。形容しがたい色の体液で汚れたそれを担ぎ上げ、叫ぶ。
「走れ!」
ハルは弾かれるように地を蹴って、スモークを構えたまま硬直していたシュシャを抱え上げる。メレディスもステファンに背中を押されて走り出した。殿(しんがり)についたステファンは振り返りざまに高速詠唱を完成させると、遠く離れた壁に向かって術式を放った。魔法の直撃を受けた壁が崩れる音が一行の足音を掻き消す。
四方八方から響く音に二体の『残響に集う蟲』たちが方向感覚を失っている間に、五人と一匹は北へ向かって走る。この部屋は中央の壁を囲む形でおおよそ円形に繋がっているが、南側の道は水晶――ちょうど先程まで砕いていたものだ――に塞がれていて自由に通行できない。襲撃を受けてしまった今、もう一度水晶を砕いて遺物の回収を試みるには反対側、すなわち部屋の東側へ回り込む必要がある。
「いけると思う?」
シュシャを小脇に抱えたままハルが言う。問われたステファンは乾いた笑い声を上げた。
「さあ? でも二体あっちに置いてこれたのはラッキーでしょう」
「そんなの蛇に噛まれたか蜂に刺されたかくらいの違いだろ」
「話は後にしろ……来たぞッ」
ジャンが鋭く叫ぶ、同時に、水晶の陰から三体目の『残響に集う蟲』が這い出てきた。この部屋を徘徊する蟲はこの個体で最後だ。そしてこの蟲は、ちょうど目標地点への道を塞ぐようにして隘路に陣取っている。周囲は狭い。今ここで大きな音を出して道をあけさせようとしても、結局攻撃に巻き込まれるのがオチだろう。
戦うほかは無い。ハルが半ば放り捨てるようにシュシャを下ろして弓を構え、ステファンが詠唱を始める。ジャンとカザハナが前衛に立った。荒い呼吸を整えながら彼らの背中を見ていたメレディスだったが、やがて意を決して棺の蓋を開くと死霊を引きずり出す。ステファンがぎょっとした表情で振り返るが特に文句は飛んでこなかった。今は死霊の手でも借りたいというのが、この場にいる全員の総意だろう。
かつてのメレディスはゾンビパウダーで好き放題死霊に変えていたようだが、そんな特別な手段も無い今、『残響に集う蟲』は第四層でもトップクラスの強敵だ――戦闘慣れしていない二人を抱えたこの状況では、油断せずにかかったとしても、勝てる保証は無い。
花開くようにゆっくりと広がった触腕の内側を粘液が伝う。中央に鎮座する口らしき穴の奥から、ぎちぎちと異様な音が聞こえた。青い巨体がぐんと仰け反る、同時にジャンが飛び出した。位置を気取られる前に懐へ潜り込み、拳を叩き込む。が、手応えが薄い。
「伏せて!」
ハルが一声叫んで矢を放つ。鏃が直に刺さっても、やはり効いている様子は見られない。追随したカザハナが胴に牙を突き立てれば『残響に集う蟲』は長い胴を波打たせて暴れだす。カザハナはすぐさま後退すると、一声吠えて駆けだした。彼女の足音を追うように触腕の一撃が次々に飛んだ。相手の注意が逸れたその隙にステファンが魔法を放つ。
範囲を絞って威力を高めた高位炎魔法(エクスプロード)の直撃を受け、初めて蟲は悲鳴を上げて悶えた。振り抜かれた尾が音の出所も関係なくまとめて周囲をなぎ払う。カザハナへ指示を出していたために反応が遅れたハルを死霊が庇った。視線だけメレディスに寄越し、彼は再び魔物の方へ向き直る。
「仕留めきれるか……?」
いつの間にか額に傷をつくっていたジャンが呼吸を整えながら呟く。シュシャが慌てて回復用のハーブを取り出すのを横目に、メレディスは背後を振り返った。西側に残してきた二体の『残響に集う蟲』は、まだこちら側には移動してきていない。だがそれも時間の問題だろう。ここでの戦闘の音は確実に向こう側にも聞こえている。もたもたしていれば確実に追いつかれて、乱入される――速攻で押し通る以外に道は無い。
「し、仕留めきれなきゃヤバいんだろ……」
傷の手当てを終えたシュシャが、血の気の引いた顔でジャンを睨む。
「何とかしろよ、あんなキモいのに襲われて死ぬなんてありえないからな……!」
「え? ああ、おう」
「ジャン、腕の部分から潰しなさい」
詠唱と魔法の発動を繰り返す合間に、ステファンがそう告げる。腰のポーチからアムリタの瓶を引っ張り出しながら彼は杖で蟲を指し示す。
「恐らくあの腕のどこかの節から音を聞いている……と思うんですけどね。どうでしょう。もう分かんないです。でもどうせあれで攻撃してくるんですからさっさと潰しておいた方がいいですよ」
信用できるのかそうでないのか分からないことを一息に言いきり、ステファンはアムリタに口をつける。ジャンは何か言いたげに彼を見たが、今はそれどころではないと言葉を飲み込んだようだった。そのまま撹乱を続けていたカザハナと入れ替わるように前へ出る。
蟲が壁にぶつかりながら暴れるせいで、時々水晶の欠片が飛んでくる。顔に向かって飛んでくる破片を腕を掲げて防ぎながら、メレディスは攻撃に巻き込まれて消滅してしまった死霊を再び召喚する。正直まったく効果的に利用できていないが、いないよりはいる方がマシというのがつい先程証明されたばかりだ。余力はまだあるのでいくらでも盾にしてほしいところである。
「……なあ……おいっ」
「! どうしたのシュシャ」
急に服の裾を引かれて振り返れば切羽詰まった表情のシュシャがこちらを見上げている。彼女は素早く辺りを見回してから、片手に持っていたものをメレディスに向かって突き出した。見てみれば、それはちょうどメレディス片手に収まるくらいのサイズの球だった。
「投げろ」
「なっ、えっ……どこに?」
「あのキモい虫以外あるか! あたしの腕力じゃ届かねーんだよ!」
押しつけられるままシュシャが差し出したものを受け取ったメレディスだったが、いざ手に取ってみてもそれが何なのかは全く分からない。助けを求めるようにステファンに視線をやる。彼は詠唱を重ねながら、顎で『残響に集う蟲』の方向を示した。戸惑いながらもメレディスは蟲に向かって球を放り投げる。
蟲と面と向かって殴り合っていたジャンが咄嗟に飛び退く。次の瞬間、投擲されて地面に落ちた球が砕けて中から薄紫色の煙が広がった。メレディスにはそれがスモークと呼ばれる毒煙だという事が分からなかったが、薄煙の向こうに見える『残響に集う蟲』が悲鳴を上げて悶えているのを見て自分の行動が正解だったらしいことを悟る。明らかに動きが鈍り、攻撃の命中精度が悪くなった魔物にカザハナが飛びかかっていく。
幾度となく食い千切られた胴は体液で汚れ、尾の先端は半ばから抉れてぶら下がっていた。満身創痍の蟲を責め立てるように魔法の炎が焼く。身を焼かれながらのたうつ蟲が、ぐっと大きく口を開く――それが合図である事に気付けた者はいなかった。
絶叫。おぞましい響きが脳を揺らす。前衛の動きが止まった。表情を歪めたステファンが何かを言ったが蟲の叫びに掻き消されて聞こえない。
炎の中で尾が持ち上がる。頭を押さえてうずくまるシュシャの腕を掴み、メレディスは慌てて後退した。刹那、辺り一帯を嵐のような一撃が薙いだ。叫びを食らって平衡感覚を失っていたハルの体が吹き飛ぶ。カザハナが弾かれるように主の元へ駆けた。ジャンは寸前で死霊が庇ったようだ。地面に倒れ、緩慢な動作で起き上がろうともがく彼をステファンが引きずって後衛へ下げる。
「回復!」
「っ……ぅ……!」
シュシャが頭を振って鞄からハーブを引っ張り出す。メレディスは慌てて死霊を召喚し直した。前に立っていた二人と一匹が離脱し、今『残響に集う蟲』と自分たちを隔てるものはいまだ場に残る魔法の炎だけだ。
自分やシュシャに、相手の攻撃を躱せるだけの経験値はない。一撃でも食らえばその時点で全滅すらあり得る。まずい状況だ――目前に迫る危機に焦るメレディスに、隣に立ったステファンが常よりも低い声で告げる。
「死霊をありったけ出しなさい。防御には回さず、攻撃術式の準備を」
「え……!?」
「仕留めきります」
そう呟いてステファンは魔法を展開する。「アンプリファー」だ。生成した力場を維持しながら、彼は再度詠唱に入る。メレディスは困惑しながらも、言われたとおり死霊を召喚して術式を編みはじめた。彼がまともに使える攻撃術式はひとつしかない……死霊を炎に変えて突撃させる術だ。
背後から物音。振り返ってみれば、ハルが水晶の欠片を振り払ってゆっくりと身を起こしたところだった。足元で心配そうに見上げてくるカザハナに、彼は手の動きだけで指示を出す。「行け」のサインだ。しばし迷う様子を見せたカザハナだったが、再度合図を出されると素直に従った。彼女が駆けていった先では『残響に集う蟲』が炎を乗り越えてこちらへまっすぐに向かってこようとしている。
蟲が叫びを上げる。そのまま悶え苦しむように長大な体を大きく揺らし、手当たり次第に周囲に攻撃を加える――壁や天井の水晶を巻き込みながら数歩先を掠めた尾の先端に、メレディスは背筋が凍る思いがした。もう少し距離を取った方がいいのでは、と言おうとした瞬間にシュシャが悲鳴を上げる。
「きっき来てるって、おい!!」
振り返れば水晶の陰から巨大な影が覗いているのが見える。それに何かを思うより先に視界の端で何かが宙を舞う、同時にステファンが魔法を放った。暴れていた蟲が業火に沈む。頬を撫でる熱に思わず顔を覆ったメレディスの耳に鋭い声が届く。
「やれ!」
半ば反射的に手が動いた。ありったけ召喚していた死霊をまとめて炎に換えて、魔物へと突撃させる。躱される心配などもはや無かった。二種の炎に焼かれた『残響に集う蟲』の影が次第に動きを止めていく。
背後から蟲の叫び声が聞こえる。次第に近付いてくるそれに追い立てられるように、一行は走り出した。負傷していたジャンとハルも既に動ける状態にまで回復している。蟲が塞いでいた狭い通路を通れば目指す場所まではもうすぐだ。
目標地点は厚い水晶に塞がれている。いつの間に拾ったのか、戦闘前に投げ捨てられていたはずのツルハシを手にしたハルが前に出て思いきり振り下ろした。先に反対側を掘削していたお陰もあってか、水晶の壁はすぐに砕けた。五人と一匹が入っても余裕のあるだけのスペースを確保し、壁と壁の間に滑り込む。
しばらく、その場でじっとしていた……そのうち蟲が這いずる重い音が聞こえなくなって、辺りは再び静寂に包まれる。最後尾からこっそりと顔を出して部屋の様子を窺っていたステファンが両手で大きなマルを作るのを見て、他の四人はようやく肩の力を抜いた。壁を背にしてずるずると座り込んだジャンが呟く。
「ひっでぇ目に遭った」
「あの、大丈夫でしたか? すごい吹っ飛ばされてたように見えたんですけど……」
「大丈夫なわけないだろ……カザハナが手当てしてくれたから何とかなったけど」
そうぼやくハルの傍らには、カザハナが心配そうに寄り添っている。主を癒やそうと全身くまなく舐め回すカザハナとくまなく舐め回されて頭から爪先までしっとりしているハルを横目に、鞄を漁っていたシュシャが眉をひそめてジャンのほうを向く。
「おまえなに投げた? あたしの鞄から」
「スモークロット」
ジャンの端的な答えに、シュシャは疲れきった表情でああ……と頷く。「スモークロット」はスモークの成分に反応し、周囲で発動する魔法の効果を大幅に上昇させる特殊な薬品である。魔法攻撃の威力を高めるという点では確かにあの場面で使うのが最も効果的だったし、だからといってシュシャ本人が投げるのは無理だっただろう。彼女もそう思ったのか、どことなく不満げな顔で鞄を整理しつつもそれ以上何も言わなかった。
疲労困憊といった様子の面々をよそに、ステファンはひとりきょろきょろと辺りを見回していた。壁を覆う水晶の隙間をしきりに覗き込んでは首を傾げる彼に、メレディスは声をかける。
「ありましたか? 箱」
「ええ、この辺りから反応が……ああ、あれですね」
そう言って水晶の隙間に腕を突っ込もうとしたステファンだったが、発動機を繋ぐ管が途中で引っかかった。顔をしかめて自身の手を見下ろす彼の代わりに、メレディスが腕を入れる。半ばほどまで突っ込んだところで指先に触れた硬い感触を引き寄せ、力ずくで引っ張り出した。
邪魔な水晶を無理やり砕きながら何とか取り出したそれは、すっかりお馴染みになった無骨な箱だった。いつもどおりステファンに渡して封印を解除してもらう。ステファンの方もすっかり手慣れた様子ですぐに封を解いた。立ち上がって様子を見に来たジャンたちが見守る中、蓋を開ける――中から出てきたのはいつもと同じ古い地図だ。今回は、他に入っているものは無いようである。
「あんだけ苦労してこれだけかよ」
シュシャがぼやく。他の四人も口に出しこそしなかったが、おおむね同じ感想であった。地図を広げて見てみるが、文字が読めないことを差し引いても特段変わったものが描いてある様子は無い。上の階層ほど特別なものが入っているものかと思っていたが、どうやら特別だったのは前回だけだったようだ。
「まあ……中身がアレでも回収しなきゃいけないのには変わりねえし。それよりさっさと帰ろうぜ、オレなんか腰いてえわ」
「そうですねえ。残りの蟲がこちらに気付くかもしれませんし、さっさと帰りましょう」
反対する者はいなかった。帰り準備を進める中で、メレディスはステファンから箱を押しつけるように手渡される。彼が発動機を収納して鞄からアリアドネの糸を取り出すのを横目に、箱の中にしまわれた地図をじっと見下ろす。十二年分の軌跡が、紙面にこびりついた染みや傷んだ折れ目に刻まれている。
これを描いた冒険者も、ひとりでここまで来るなんて大変だったろうな。他人事のようにそう思った。抱いた感想は、それだけだった。
迷宮を脱出し、一行は二手に別れた。別の通りへ歩いていく『ヴォルドゥニュイ』の二人とシュシャを見送り、メレディスもハルとカザハナに連れられて帰路につく。メレディスとシュシャの二人はいちおう囚人の身分なので、どこへ行くにも監視をつけなければならない事になっているのだ。
「逃げる気はなさそうだけど、そういう決まりだから」
と、ハルは気だるげな様子で呟く。彼は先程からずっと左の脇腹のあたりを気にしていて、メレディスは少し心配していた。あの巨大な蟲に思いきり吹き飛ばされたのだから、治療術を受けたとはいえ体のどこかに変調が残っていてもおかしくはない。
メレディスがそう告げると、ハルは顔をしかめて彼を振り返る。
「……別に。これから病院行くし」
「あ、それならいいんですけど、……」
「…………」
沈黙。メレディスは思わず俯いた。ジャンやステファンとはそれなりに話せるようになったが、ハルとはいまだに会話が続かない。いや、かつての自分が彼にしたことは何となく聞いているし、嫌われていても仕方ないとは思っているが。
反面カザハナはその辺りの事はあまり気にしていないらしい。傍らをせかせかと歩きながら見上げてくる彼女の額を撫でていると、ふとハルが足を止めた。背中にぶつかりかけたメレディスも慌てて立ち止まる。いったい何があったのかとハルの肩越しに前方を覗き込んだ彼は、そこにいた人物を見てあっと声を上げた。
「エドゥアールさん」
「よっすー。あれジャンとステファンは? まあいなくてもいいけど」
人懐っこい笑顔を浮かべてそう言い、エドゥアールはこちらへ歩み寄ってくる。ハルが思わずといったように顔をしかめた。
「何か用?」
「そっちの方にな。ていうかお前がハル君? どうも、弟と弟の友達がお世話になってます」
ぺこりと頭を下げたエドゥアールに、ハルもあまり納得がいってなさそうな表情をしながらも会釈を返す。エドゥアールはハルの反応を見て満足げに頷くと、改めてメレディスに向き直る。
「お前記憶喪失なんだって? びびったわ~まあ実際記憶あっても俺のことは覚えてなさそうだけど。何があったんだ? めっちゃ強く頭打ったとか?」
「ああ、まあ……そんな感じです」
「ふーん。残念だな、昔の話とかしたかったのに」
メレディスは曖昧な笑みを返す。もし記憶があっても、きっと昔の話はできなかっただろう、という言葉は飲み込んだ。今のメレディスは過去のメレディスのことを知らないので断言はできないが、少なくとも同級生と仲良く談笑するようなタイプではなさそうな事だけは分かる。
しかしよく考えると、犯罪者ではないメレディスの事を知っている人物に会うのは初めてだ。ハルも同じような事を思っていたらしい。冷ややかな目で二人のやり取りを眺めていた彼が、ふと口を開く。
「どんな奴だったの。学生の頃のメレディスって」
「うーん、ぜんぜん喋らなくて……ずっとひとりで勉強してたな。成績も良かったし。何回か話しかけたけど当たり障りない感じで受け流されたの覚えてるわ」
「ふーん。記憶力いいんだね」
「印象に残ってるだけだよ。めっちゃ熱心に世界樹のこと調べててさ」
と、そこでエドゥアールは言葉を切ってメレディスをじっと見る。頭から爪先までじっくり見られて少々気圧されるメレディスに、彼はにっこりと笑って告げる。
「ジャンたちと一緒にいるって事は、あれだろ? お前も冒険者なんだろ? ってことはやっぱり世界樹に行きたかったんだな。良かったじゃん夢叶って」
「え? えっーと」
「あっそうだった記憶ないんだった」
悪い悪い、とあっけらかんと言うエドゥアールだったが、正直あまり悪いとは思っていなさそうである。探索の合間にジャンがこぼした「あいつぜんぶ適当なんだよなぁ……」というぼやきが脳裏に浮かぶ。何も言えずに苦笑するばかりになっているメレディスに向かって、彼は事もなげに続ける。
「ここで会ったのも何かの縁だし、冒険者稼業やめたら俺んとこ来ね? 上層まで行った冒険者なんて貴重だし、魔法使いに任せたい仕事なんて山ほどあるもんな」
「え?」
「え……? そんな嫌だった……?」
「あ、いや……」
メレディスは思わず黙り込む。そういえば、そうだった。今はミッションに従って迷宮を探索しているが、ミッションが終わった後、自分はいったいどうなるのだろう。まさか無罪放免で晴れて自由の身……ということは無いだろうが。
考え込むメレディスに、エドゥアールは呑気な様子で告げる。
「冒険者の友達欲しかったんだよな~。色々話聞きたくてさあ。ジャンはステファンに着いてくだろうし、そのステファンは俺の言うことなんて聞かねえし、あいつらは全然期待できねえから」
自由に育ちすぎたよなァ、とぼやくエドゥアールを、メレディスはしばしじっと見つめていた。が、やがて苦笑を浮かべると、そうですね、と応える。
「機会があれば、是非」
「お、言ったな! 忘れねえからな、俺、記憶力いいから」
「……盛り上がってるところ悪いけど」
事の成り行きを見守っていたハルが静かに口を開いた。大人しく座って尻尾をぱたぱたさせているカザハナの頭を撫でながら、彼は冷ややかな声で続ける。
「そろそろ行きたいんだけど。ボクは評議会に用あるし」
「あ、そうなの? 悪い悪い、引き留めちまったな。俺はあと三日くらいアイオリスにいるから、遊びに来いよな~」
そう言い残し、エドゥアールは颯爽と踵を返して通りの向こうへ去っていく。その場に立ち尽くしたまま彼の背中を見送っていると、カザハナがわんと吠えた。早く行こう、とでも言いたげに見上げてくる彼女にひとつ頷き、ハルは歩きだす、メレディスも慌てて彼の後を追った。
時刻は夕暮れ時、探索を終えた冒険者や仕事帰りの市民が帰路につき始める頃である。宿への道を無言で歩きながら、メレディスは考える。ミッションが完了したら、自分はいったいどうなるのか。今までそんな事を考える余裕も無かったが、探すべき遺産も残すところあとひとつとなった今、ちゃんと考えておくべきかもしれない。どうなるか、ではなく、どうしたいかを。
記憶を失う前の自分が犯した罪を思えば、ミッション達成の功のみで釈放されるとは到底考えづらいが、檻の中にも多少の自由はあろう。本を読んだり、何かの作業をしたり、そういう事くらいはできるかもしれない。ミーシャのところで読ませてもらった死霊術の本は面白かった。研究などさせてもらえるだろうか。逃げたり反抗したりする気は無いから、そのくらいは許してほしいところだが、……。
宿に着いた。受付に声をかけて監視役の衛兵を呼んでもらう。従業員が階段を上っていく足音を聞きながら思考を続けるメレディスの耳に、ふとハルの声が届く。
「行きたいの。あの人のところ」
その問いが先程のエドゥアールとの会話と繋がっているのだと気付くのに少しかかった。視線を下に落として少し考え、メレディスは答える。
「いや……厚意を無下にはできないからああ言いましたけど、実際はそんな事できないだろうし」
彼はそこで一度言葉を切った。上階から響いてくる衛兵の足音を聞きながら、呟くように続ける。
「でもぜんぶ終わった後のことを考えるのは、いいかもしれないなって。その通りにできるかなんて分からないけど」
「そう」
メレディスの方を振り向かないまま、ハルは突き放すような声色で言う。足元に座っていたカザハナがクンと鳴いて彼の脚に頭を擦りつけた。衛兵が一階へ下りてくる。メレディスが彼に連れられて部屋へ戻ろうとするより先に、ハルとカザハナは踵を返して宿を出ていった。ひとりと一匹の後ろ姿を見送りながら、メレディスも階段に足をかける。
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