【SQ5】Sleepy Hollow6
『あなたの望みを叶えます、「アルコン」。僕らを元の世界へ帰してくれるというのなら』
『ですが、覚えておいてください。僕らにできるのはあの「呪い」を封じ込める事だけ……確かにこの世界に存在しない術式なら、多少長くは保つでしょうが、それも永遠ではありません』
『いつか、先延ばしにした滅びに向き合わなければならない時が来る。そしてあなたは、それをこの世界の民に背負わせる』
『……この世界に生まれた生命だから当然、だなんて、あなたが言わないひとで良かった』
『どうか誠実であってください。あなたたちの意志で作られた運命だったとしても、何も知らない命に罪はない』
『あの子たちは、つけを払うために生まれてきたんじゃないんだ……』
★
よく考えてもみれば、当然のことだったかもしれない。
そもそもメレディス・コーディアが行方不明になってから『ヴォルドゥニュイ』が第五層を踏破して自分を街に連れ帰るまで、数ヶ月も間隔があいているのだ。いくらアルコンに保護されていたとはいえ、それほどの長期間を迷宮の、それも凶暴な魔物の跋扈する第五層の中で過ごせるものか。気付いてみれば簡単な事だ、ただ、思いもしなかったから意識も何もしなかっただけで。
街に戻ってきてから、自分は食事を摂ったことがあっただろうか。布団の中で目を閉じてじっと朝を待つだけの行為を、睡眠と呼んではいなかっただろうか。わざわざ自問自答しなければ思い出すことすらできない、それが確かな証拠だった。
何度も自問自答した、自分は本当に「メレディス」なのかと――結局のところその疑問は正しかったし、そもそも人間ですらなかったのだ。自分は、最初から。
「貴方の言うとおりです」
芯まで冷えきった氷の声で女は言う。椅子に深くもたれていたメレディスは漫然と顔を上げて、彼女を見た。
背筋を伸ばして座ったレイチェルは、相変わらず感情の読み取れない瞳で彼を見つめている。
「『ヴォルドゥニュイ』のお二人が連れ帰ってきた貴方が、メレディス自身でないことはすぐに分かりました。ですが、貴方をどうするかについて決めるのには時間がかかりました」
「……話し合って、それで決めたんだろ? 俺がメレディスの記憶を取り戻すんじゃないかって期待して」
メレディスが力なく応えれば、レイチェルは唇を引き結んで沈黙した。彼女にしては珍しく何かを躊躇しているような様子だった。気を遣われているのかもしれない、とメレディスは思う。そうだとしたら、彼女にすら気を遣わせる今の自分は相当ひどい状態に見えるのだろう。
「時間がもう無いのです」
静かな声でレイチェルは言う。
「永遠に顕現し続けていられる死霊は存在しません。第三層の主のようにアーティファクトの力を得たとしても、魂の摩耗は防げない」
メレディスは黙り込む。第三層の主――アンデッドキングと呼ばれる死霊遣いの存在は、メレディスも伝え聞いている。なんでも古い時代の死霊遣いで、特別な魔道具を使って自身の生命を永遠に引き延ばそうとしたとか。だがその魔法も完全ではなく、彼は半ば死霊と化し、記憶を失い、自我を変質させながら墓所の王として君臨し続け……因縁によって倒されてからも、意志のない魔物として幾度となく甦り、その度に冒険者によって倒されているという。
つまるところ、どれだけ高度な魔法をもってしても魂を完全な状態のまま肉体に留め続ける方法など存在しないという事だ。それが生きている人間であろうとも、死後喚び戻された死霊であろうとも、例外はない。永遠の生命が存在しないのと同じように、永遠に存在し続けていられる死霊もまた、存在しないのだ。
そして「数ヶ月」は、本来死霊が存在し続けていられる時間をとうに過ぎている。
「俺はあとどのくらいで消えるんですか?」
そう問いかけてから、メレディスは己の発言を後悔した。わざわざ訊かずとも分かりきったことだ。もう時間が無いと、散々言われているのだから。
頭を振って否定し、顔を上げてレイチェルを見る。
「ミルドレッドさんの調子はどうですか」
「……ええ。問題ありません。特段お伝えする事もない程度には」
「それなら良かった」
そう小さく笑ったきり再びぐったりと俯くメレディスを、レイチェルは瞬きもせずにじっと見つめていた。狭い面会室に沈黙が下りる。結局、廊下で待機していた衛兵が面会時間の終了を告げにやって来るまで、二人は言葉もなく、視線すら交わらないままそこにいた。
メレディスの身柄は、宿から評議会の敷地内のどこかへ移された。この街へ連れてこられた当初のような独房ではなく、多少狭いもののしっかりとした造りのベッドをはじめ、最低限よりも数ランク上の家具が備えられた部屋である。療養施設か何かだろうか、と衛兵に連れられてきた時に思ったが、それを声に出して訊ねる元気も最早無かった。
数日、考える時間があった。その間にメレディスはどうにかこうにか自分の状況を見つめ直すことができた。
まず、自分は「メレディス」ではなく、彼の死体と魂から作られた死霊であること。評議会や冒険者たちはそれを把握していて、本物のメレディスの情報を求めて自分を探索に向かわせていたこと。……結局彼らの目論見は外れ、自分には死霊としての使用期限が迫っているということ。
そう簡単に受け入れられることではなかった。だが受け入れざるを得ない理由はそこら中に掃いて捨てるほど転がっていた。日を追うごとに悪化する体調もそのひとつだ。
そういえば、初めに体調不良を自覚した時に具合を診てくれた医者も、衛兵が手配してくれたのだった。彼が詳しい事情を知っていたかどうかは知らないが、わざわざ医者まで呼んで嘘の診察をさせるなんて随分と手の込んだ事をする。それほどまでに自分は利用価値のある死霊だったのだろうか。そうまでしてメレディスの記憶が知りたかったか……それとも全て諦めた上で、情けをかけられていたのか。
何にせよ終わってしまった事だった。今のメレディスは清潔な狭い部屋のベッドの上に横たわって消滅を待つだけの存在だ。そこに到るまでに誰がどのような意図で何をしようと、結果は変わらない。
それでも死ぬのは怖かった。
カーテンの隙間に僅かにあいた空白から、窓の向こうを見た。夜の色に染まりきろうとしている空には点々と星屑が散っているのが見える。メレディスも死ぬのは怖かっただろうかと考えた。何人もの罪なき人を踏み台にして目指した星海を目前にして死ぬのは、果たしてどんな気持ちだっただろうか。
考えたところで分かるはずもなかった。なぜなら彼は、メレディスではないのだ。
◆
「手記が無い」
と呟いたハルにステファンが肩をすくめ、ジャンが困った顔で頭を掻いた。重い沈黙。二人が何も応えないことを確かめたハルは、盛大な溜息をひとつ吐くと手元の杯を一気にあおる。
三人が顔を突き合わせているのは、『ヴォルドゥニュイ』が寝泊まりしている宿の部屋である。これまでの探索の振り返りと打ち上げも兼ねてささやかな宴会でもしようかという事で集まったのだが、誰がどう見ても打ち上げの雰囲気ではなかった。
不穏な空気を感じ取ったのか、足下に伏せていたカザハナが何だ何だと顔を上げた。身を屈めたステファンが彼女を撫で回すのを横目に、つまみのソーセージを口に放り込んだジャンが苦々しい声色で言う。
「んな事言われてもな……隅々まで探したって話だったろ。『カレイドスコープ』で無理だったんならオレらにも見つけられねえよ」
「ボクは五層の地図と同じ場所に隠されてると思ってた。……まあ、どうせ例の騒ぎでどこかに行っちゃったんだろうけど」
「どうですかねえ。案外もう誰かが回収しているかもしれませんよ」
カザハナに舐め回されながらステファンがそう言えば、二人は神妙に押し黙ってどちらからともなく酒を口にふくんだ。カザハナの荒い吐息とステファンが彼女をよ~しよしよしと可愛がる声ばかりが部屋に響く。
手記、とは、メレディス・コーディアが所持していた「十二年前の冒険者」の手記の事だ。彼の探索や日常生活の様子がアルカディアのものではない文字で書いてあるらしいそれこそが、実は今回のミッションの隠れた本命であった。
公式に世界樹への立ち入りが解禁される前に、それもたったひとりで迷宮を踏破したという冒険者の存在は、アイオリス評議会にとってはにわかに信じがたいものだった。当然である、迷宮の全容解明を目的として探索解禁と冒険者の招致を行ったのに、それが十何年も前に誰とも知れぬ冒険者によって果たされていたと言われても納得できるわけがない。果たして彼は何者で、どのように迷宮を踏破したのか――その謎を解き明かすために、手記は必要不可欠だった。
「今更そんなこと調べても意味ないと思うけどね。本人もういないし」
「仕方ねえだろ、歴史にはロマンがあるんだよ……多分」
「どうだか。謎のまま噂が広がりでもしたら評議会の偉い人らの面子が潰れるからじゃないの」
「でも、実際どうやって探索してたかはちょっと気になりません? 地図のメモの解読が進んでますけど、同行者がいたみたいですよ」
「マジ? 初耳だわ」
「まだ推定ですけどね。それがアルカディアの人間なのか、それとも別の世界とやらから一緒に来たのかも分かりませんし」
膝に乗ったカザハナの頭をもふもふと撫でくりまわしつつ、ステファンは酒をあおる。カザハナはステファンに構われてご機嫌な様子だったが、その視線はじっと机の上を向いていた。ハルがサラミを数枚手に取って口元に差し出してやる。
おやつを一瞬で平らげて尻尾を振る彼女を微笑ましく見守る三人だったが、その表情は完全には晴れていなかった。ミッションは完了したが、それで事態が無事収束したとも思えない。……否、収束はしているのだ。ただその終わりが納得いくものか、不足のない完全な幕引きかどうかなど誰も保証はしてくれないわけで。
「さっさと故郷に帰っとけばよかった」
ハルのぼやきにジャンが肩をすくめる。主人の心境を察してかカザハナがクンと鳴いたので、ステファンは彼女の額の紋様を優しく掻いた。この場でいちばん可哀想なのは彼女だ、わけもわからずこんな男三人が集まって暗い顔をしている部屋に入れられてしまって。
カザハナ以外は、まあ、自業自得だ。覚悟はしていたのだ。彼らは揃いも揃ってけっこうなお人好しなので、もうこの街にはいない友人たちのために、多少の咎を負ってでもけじめをつける気でいた。だがいざその場面に直面すると、とてもいい気分ではいられなくなってしまう。何故なら彼らは、お人好しなのである。
だが後悔するにはもう遅い。ここまで来たら、見届けるより他に無いのだ。目を逸らさずに。
◆
体も頭も重いのに眠気らしきものが全く来ないので、意識を失うこともできない。メレディスは暗い気持ちで目を開ける。世の死霊という存在はどいつもこいつもこんな難儀な身でいるのだろうか、それとも彼らには自分のように苦しむ心は無いのか。一回くらい自分で召喚した死霊とコミュニケーションを取ってみれば良かったなと思った。今はもう、召喚術を使えるだけの気力など残っていない。
暗い部屋の天井をじっと見つめる。カーテン越しの窓から微かに光が漏れているのが分かる。灯りでも焚かれているのだろうか。評議会の敷地内であるし、夜警の衛兵たちが巡回でもしているのかもしれない。
ひどく静かである。沈黙に耐えかねて寝返りを打とうとしたメレディスだったが、そこでふとある事に気付いた。廊下の方向から微かに足音が聞こえてくる。ここにも見回りの衛兵が来たのかと思ったがそれにしては違和感がある。疑問に思っていると、足音がふと止んだ。ちょうどメレディスが今いる部屋の目の前で。
え、と思う間もなく、鍵がかかっている筈の扉が小さな音を立てて開いた。流石に起き上がって身構える彼の目の前で、ゆっくりと開いた扉の向こうから何者かが現れる。
深く被ったフードの下から覗く水晶色の瞳、艶のある不可思議な色の肌、首筋に垂れる触手じみた髪……。
「……アルコン?」
問いかければ、少女は無言で顔を隠していたフードに手をかけた。布から解放された髪がにわかに輝きを帯びて周囲に広がる。メレディスはほっと肩の力を抜こうとして、寸前でやめた。第五層の探索の時にも顔を出さなかったアルコンが、なぜ今になって急に自分を訪ねてくるのだろう。
「汝に会いにきた」
メレディスの思考を読んだかのように、アルコンは静かな声で答えた。彼女はメレディスが目覚めたばかりのおぼろげな記憶にあるのと同じ、感情の浮き沈みの少ない、だがどこか物憂げな表情を浮かべて続ける。
「先日の探索中も陰から汝らのことを見ていた。……もう知っているのか、自分が何者であるかを」
「……知ってるよ。あなたは最初から知ってたんだろ」
「そうだ。私は初めから見ていた。あの男が死に、汝が生まれるまでを」
アルコンの身体が放つ水晶色の光が暗い部屋を淡く照らしている。眩しいな、と思った。目を伏せるメレディスを見て、アルコンもまた僅かに目を細める。
「それで、あなたはどうして俺のところに?」
「……汝はこれからどうする。自らの運命を受け入れ、死霊として消滅の時を待つのか」
「…………」
「その運命を、先延ばしにできる方法があると言ったらどうする」
メレディスは顔を上げた。アルコンは真剣な表情で彼を見つめている。
「本来ならば汝の存在はここまで長く保たなかった。それなのに今まで活動できていたのは、私がかけた保護術の効果が残っていたためだ。世界樹の力を借りて汝の魂を肉体に固定したのだ……だがそれは迷宮の中でのみ強く効果を発揮するもの。外に出れば効力は次第に弱まりいずれ消える」
アルコンの語りは淡々としている。幸い部屋の近くには誰もいないようだった。静まりかえった空間に響く少女の声を誰が聞くこともなかった。ここにいるのはアルコンとメレディスたったふたりだけだ。
メレディスの反応を待たずに、アルコンは続ける。
「外界に出せば消滅すると分かった上で汝を『ヴォルドゥニュイ』に預けたのは、このまま迷宮の中にいてもただ無為に時間を過ごすだけになるだろうと思ったからだ。だが、私の思ったようにはいかなかったな。彼らの考えも、理解できる。しかし……」
何か思うところがあったのか。一度口ごもる様子を見せてから、アルコンはもう一度メレディスをまっすぐに見た。そうして、先程までのそれより僅かに強い口調で告げる。
「私は汝に問いに来た。メレディス・コーディアではない者よ。汝が生きることを望むなら、私は望みを叶えよう」
「……俺は……」
「僅かだが、まだ猶予はある。もし望むのなら私の元へ来るがいい。明日になれば、汝もこの部屋から出られる筈だ」
そう言ってアルコンはメレディスに近付く。ベッドから上体を起こしたまま、肩を強張らせて俯く彼に、彼女はそっと何かを差し出した。メレディスは反射的に受け取ってからその正体に気付く。手帳、だ。随分と古びて、所々に染みのついた皮の表紙の。
「返し忘れていたものだ。五層に残されていた、十二年前の冒険者の手記だ」
はっと顔を上げたメレディスにアルコンはひとつ頷き、そっと彼の傍から離れる。そうしてフードを被り直し、ドアノブに手をかけた。扉を開いて出ていこうとする直前で動きを止め、メレディスを振り返ると、彼女は諭すような調子で言う。
「造られたものよ。汝にも最後を選ぶ自由はある。運命は変え難いものだが、汝には汝の意志がある。あの男ではなく、汝自身の」
「…………」
「迷宮で待つ。汝が来なくとも」
……アルコンが去っていった後、部屋には暗闇と静寂が訪れた。闇の中に薄ぼんやりと浮かぶ自身の指先の輪郭と、その中に収まる古びた皮の感触を、メレディスはじっと見下ろした。背表紙を走る縫い糸のほつれを指でなぞりながら、頭の中で何度もアルコンの言葉を反芻する。生き延びる方法。死霊の身で。消滅を免れて少しでも長く。メレディスではない、自分として、やりたい事を。自分の意志を。…………。
装丁のほころびに指先が少し強く引っかかった。爪と指のあいだに挟まる劣化した皮の欠片の感触に、彼は無性に泣きたくなった。どうせならこんな些細な不快だとか、苦しみだとか、そういったものも感じないように造ってほしかった。
だが自分はどうしようもなくここにいる。まだ、僅かな猶予が残っている。
◆
独房に満ちる空気は冷たく乾いている。硬い寝台の上で膝を抱えてじっとしながら、シュシャは自分のこれまでの人生を思い返した。
生まれたのは小さな街の、さして裕福でもない商人の家だ。幼い頃はそれでも普通に暮らしていたが、父親が女を作って家を出てからはそうもいかなくなった。住み込みの奉公に出て働く母、工芸品を作って小銭を稼ぐ祖母、姉よりずっと聡明でありながらも学費を払えないがため夢を叶えられない弟。医者の雑用係として働く中でこっそり薬草と毒の知識をつけたシュシャは、あるとき家族の貯金をいくらか盗み出して家を飛び出した。こんな場所にいられるかと思った。しみったれた家など捨てて、自分ひとりを頼りに生きていくのだと。
だが結局このざまだ。よくない輩とつるみ、薬草術を悪用して儲けを得た。ある日声をかけてきたアースランの死霊遣いは仕事をしてくれるなら多額の報酬を出すと言った。二つ返事で飛びついたのが運の尽きだ。それからの事は語るまでもない。逃げ出す機会を失ってアイオリスまで連れてこられて、色々あってメレディスは死に、レイチェルとミルドレッドは助けられて、シュシャは牢屋に叩き込まれている。
シュシャは、半端な人間だ。それは嫌というほど自覚している。真面目にこつこつやるのを面倒臭がって楽な方へ行き、そこで直面した困難や危険からも逃げ、それで結局本当にヤバいものからは逃げられずに捕まって罪を問われる。本当に、どうしようもない人間なのだ。自分が心底嫌になるが、だからといって変わろうとする度胸も無いような、しょうもないやつなのだ。
だから自分の行動についても、死ぬほど後悔している――せっかく危険を冒して迷宮なんかに行って、刑を短くするチャンスを手に入れたというのに、いったい何故あんなことをしてしまったのか。とんだ大馬鹿者である。
だが、シュシャは後悔こそすれど、自分が間違ったことをしたとは思っていないのだ。正しいことであるとは微塵も思っていないが、それでも決して間違いではない筈だ。だって……だって、何故だろう。でも……分からなくても……。
突如響いた音に顔を上げる。気付けば独房の外に衛兵が立っていた。牢の鍵を片手に持った彼は、振り返ったシュシャに向かってはっきりとした声で告げた。
「出ろ。面会だ」
「……面会?」
困惑しながらも指示に従って牢を出る。拘束されたまま連れていかれたのは入ったことのない部屋だった。中央に立つ鉄格子に隔てられるように、机と椅子がふたつずつ置かれている。そしてシュシャがいるのとは反対側の空間に座っているその人物は。
「メレディス?」
思わず呼べば、彼は曖昧な笑みで応えた。衛兵が空いている椅子に座るようシュシャを促す。指示に従って席につけば衛兵は静かに部屋を出ていった。扉を閉める音が響き、彼女は神妙に対面に座る男の顔を見上げる。
「おまえ……」
「今朝解放されたよ。俺の役目はもう終わったみたいだ」
そう言うメレディスの口調からはあからさまに気力が失われている。シュシャは、彼に向かって何か言おうとした。しかしそれを遮るようにメレディスが再び口を開く。
「シュシャ。俺のところに来たせいでまた拘束されてるんだろ。これを」
メレディスが鉄格子越しに差し出してきたものを、シュシャは咄嗟に両手を出して受け取った。そして、その感触にぎょっとする。古びて劣化した皮の表紙が小さな掌に収まる。……手帳だ。シュシャには覚えがある。これは、本物の(・・・)メレディスが大事に――どんな物より、何なら自分自身よりも大事にしていた、あの冒険者の手帳である。
「……は?」
「地図より価値のあるもので、俺にはもう必要ないものだ。君が見つけたって言えばいい。それか、俺がこっそり処分しようとしてたところを止めたとか。何でもいいんだ、君が有利になることなら何でも」
「待て……何言ってる? だっておまえこれ」
「もう行くよ……シュシャ。俺はこの街には戻らない。最後くらいは自分で決めなきゃね……」
独り言のように呟いて、メレディスは立ち上がった。ふらふらとよろめきながら部屋を出ていこうとする彼の背中に、シュシャは鉄格子に縋りながら思わず叫ぶ。
「待てって! ……なあ!」
振り返ったメレディスの顔を見て、シュシャは口ごもってしまう。何のために呼び止めたのだろう。言うべき事など何も思いつかないのに。メレディスの手は既にドアノブにかかっている。ない知恵を絞って、何とか言葉を選び取る。
「どこに……行くんだよ。そんな体じゃどこにも……」
「……いいんだよ。ヤケになってるわけじゃない。ちゃんと自分で考えたんだ」
そう言ってメレディスは小さく笑った。それを見たシュシャは、今更になって彼が何の荷物も持っていない身ひとつの状態である事に気付く。どこへ行くのか、と訊こうとしたがどうしても声が出なかった。格子を掴む指先に力を込めるしかできない彼女をしばし見つめていたメレディスは、やがて小さく息を吐いて呟く。
「メレディスは……とんでもない奴だね。あいつのせいで大迷惑だ。俺はどうせ生き延びることはできないけど、せめてちょっとくらい仕返しをしたいんだ」
「そんなの、」
「もうあんな奴みたいなのに捕まったら駄目だよ。君、きっと本当は悪い事に向いてないから」
シュシャが続く言葉を探している間に、メレディスは再びドアノブに手をかけた。最後にもう一度だけ彼女を振り返り、彼は微笑む。
「じゃあねシュシャ、短い間だったけどありがとう……さよならだ」
「おい……! ……行くなって!」
咄嗟に飛び出た言葉はしかし、彼の決心を鈍らせるには至らなかった。去っていったメレディスの背中を見送り、元通り閉ざされた重い扉を呆然と見つめていたシュシャは、やがて崩れ落ちるように椅子に腰を下ろした。
面会はこれで終わりだ。部屋の外で待機していた衛兵が迎えにくる前に、受け取った手帳を服の内側に隠す。無性に泣きたい気持ちになった。自分が泣く理由などどこにも無いはずなのに。
◆
ゆっくりと休みながら移動していたらもう昼過ぎになってしまった。時折よろめきながら、メレディスは市街地を抜けて樹海入口の方向へ足を進める。探索に向かう冒険者の群れの中に紛れ込んだ彼を、誰が見咎めることもなかった。いや、明らかに体調が悪そうで、しかも荷物も持っていない状態でひとり樹海に向かう男に、誰も関わりたくなかっただけかもしれない。むしろそれで有り難かった。変に声をかけられでもしてしまったら、本当に時間がなくなってしまう。
樹海入口には樹海磁軸と呼ばれる機構があり、これを使用すると迷宮内に存在する磁軸へ一瞬で転移する事ができる。本来は使用に制限がなされていて、所属ギルドが到達したことのある階層にしか移動できない仕組みなのだが、幸い今のメレディスはまだ『ヴォルドゥニュイ』の所属という事になっているらしい。ひとりでも磁軸は問題なく使用できた。
衛兵やその他の冒険者に呼び止められる前に、目的の場所へ転移する。目指すのは迷宮最上層、二十五階だ。
降り立った原生林はまるで生命が存在しないかのように静まりかえっている。重い体を引きずって、メレディスはフロアの奥へと向かった。探索の時に地図を覗き見ていて助かった。目指す場所までは抜け道を使えばまっすぐに辿り着ける。緩慢な足取りで彼は歩いていく。向かう先はフロアの最奥部……世界樹の迷宮の最上部とも言える、行き止まりの広間である。
幸い、魔物には遭わなかった。もしかすると無防備な状態でここまで来る自分のために、魔物を遠ざける仕掛けか何かをしておいてくれたのかもしれない。なにせ呼んだのは彼女だ。なにかと律儀なのは知っているので、そのくらいの事はしてくれるだろう。
抜け道の先の広場を通り抜け、目の前に立ち塞がる円形の扉に手をかざす。一瞬の間を置いて左右に滑るように開いた空間のその先に、水晶色の人影がひとつ立ち尽くしている。
「来たか」
静かな声でアルコンはそう言った。メレディスは力なく微笑み返して、彼女の元へ向かう。引きずった足が地面に微かな跡を残していく。
辿り着いたその場所は、扉の外と比べてひときわ生命力にあふれた森のように見えた。鬱蒼と茂る草花ひとつひとつが艶やかに輝き、どこからか聞こえる水のせせらぎが涼やかに響く。名も知らぬ小鳥の影が頭上を通り過ぎていった。見上げる気力もないが、微かな鳴き声の気配を追いかけた。美しい場所だ。この世界のはじまりも、きっとこんな風だったのだろう。
息も絶え絶えに、メレディスはアルコンのすぐ目の前まで辿り着いた。彼女が何か言おうとした――が、彼はそれを遮るように口を開く。
「アルコン。頼みがあるんだ……俺を生き延びさせてほしいとか、そんなのじゃなくて」
その言葉にアルコンは一瞬、呆気に取られたようだった。しかしすぐに落ち着いた様子に戻り、メレディスをまっすぐに見つめ返す。
「私にできる事ならば」
「ありがとう」
ひとつ、息を吐いた。それからしっかりとアルコンの瞳を見て、告げる。
「俺を空へ、あの星海まで、連れていってくれないか」
「――――」
沈黙が下りた。ゆらめく水晶の髪を宙に漂わせながら、アルコンはこちらの意図を探るため思案しているようだった。メレディスもまた黙り込む。
余計なことは、言わない方がいいと思った。どう思われようが自分で考えて決めたのだ。拒否されたならそれはそれで仕方がない。潔く諦めて、本当のメレディスがそうであったように、迷宮の片隅ででも生を終えよう。どうせ、この望みを叶えてくれる者は彼女以外にいないのだから。
アルコンが顔を上げた。彼女の一挙一動に注目するメレディスに、人ならざる少女はひとつ頷いてみせる。
「分かった……汝の望みを叶えよう。それで、本当に良いというのなら」
「……自分で考えて決めたんだ。あなたの言うとおりに」
「そうか」
しばし目を伏せ、アルコンはくるりと踵を返す。こちらへ、と促す声に従ってメレディスも彼女の背を追った。
広間の奥にはもうひとつ扉があった。今まで見たものと比べると幾分か古びたように見えるそれをくぐり抜ければ、その先は行き止まりだ……否、突き当たりの最奥に、白い壁のような建造物がある。
「私も、この星を……アルカディアを去ろうと思っていたところだった」
アルコンがぽつりと呟く。同時に彼女が掲げた指先から小さな光が走り、目の前の建造物の表面を伝った。四方に散った魔力が中央に集まり、まるで亀裂が入るかのように空間を歪ませた。
裂け目の向こうに青く渦巻く異様な空間が見える。正体を掴もうとじっと目をこらすメレディスの視界の外で、アルコンは続ける。
「我らアルコンは使命をもって星海へ散った。遙か昔の事だ……幾星霜が過ぎ、私は役目を果たした。本来ならば母星より迎えが来るはずだったが、それはもうやって来ない。当然のことだ、私の同胞はみな、星海に巣喰う魔物に滅ぼされていたのだから」
メレディスは思わず顔を上げて振り向いたが、アルコンは彼を見ていなかった。寂寥の滲む目で、彼女はじっと天を仰いでいる。
「仲間はもういないが……だが、私はまだ生きている。生きているのなら、選ばなくてはなるまい」
アルコンが一歩踏み出した。空間の裂け目の前に立った彼女は、そっとメレディスに手を差し出す。メレディスは少し迷ってその手を取った。
手を引かれて青い奔流の中に飛び込む。数秒のあいだ強い酩酊感に揺られて、再び目を開けた時には二人は別の場所にいた。
一面の荒野かと思ったが、よく見れば足下は人工物だ。硬い足音が痛いほど静かな空間に反響する。頭上には一面の星海、いや、足場の下にも広がっている。星海の中に浮かんだ島のような場所に、アルコンとメレディスは立っていた。
「私がこの星に初めて降り立った時。大地は荒れ果て、生命の息吹は絶えていた。星を覆う死は根強く、ここに新たな文明が生まれることなど叶わないのではないかとすら思った」
だが、とアルコンは足場の隙間に目をやる。眼下に見えるのは白い靄のようなものに覆われた、巨大な丸い何かだ。それはアルカディアと呼ばれている星そのものであったが、そもそもメレディスはアルカディアが「星」である事を知らなかったのでその事を理解できなかった。
「アルカディアはもう私を必要としていない。私はこの地を去って新たな……私の手助けを欲している土地を目指そうと思う。星の航路に地図を描いて、自らの足で進むのだ。偉大な冒険者たちのように……」
ふと、アルコンはメレディスを振り返る。そしてどこか値踏みするような目で問うた。
「汝はどうして星海へ行くのだ。そう望まれたからか」
メレディスは首を横に振った。確かにそう見えても仕方がないかもしれない。だが本当は全然、まったくそんなつもりではないのだ。
……目眩がしてきた。いよいよ時間の猶予も尽きたようだ。手を引かれていなければすぐにでも倒れ込んでしまいそうな心地になりながら、最後の力を振り絞るようにして答える。
「俺はメレディスじゃない。俺が何をどうやったって、あいつの望みが叶ったわけじゃないんだ」
言葉を紡ぎながら彼は内心で反芻する。そう、自分はメレディスではない。彼は死んだ。第五層で、誰にも知られずひっそりと。
実を言うと。メレディスは本当のメレディスの事を何も知らなかったので、彼にも彼なりの事情があったのではないかと何となく思っていたのだ。例えば十二年前の冒険者と特別な関係で、だからこそどうしても後を追って別の世界とやらに行きたかったのではないか、というように。だが実際は違ったようだ。あの冒険者の手記には、彼らしき存在の記述はどこにも無かった。
それを知って、ああ、本当に意味が分からないな、改めて思ったので。メレディスは「メレディス」を見限る事にした。残されたほんのちょっとの時間を使って、身勝手な極悪人に、無意味な嫌がらせをしてやるのだ。
「散々いろんな人を巻き込んで、結局なにもできなかったあいつじゃなくて……何者でもない、ただの死体の俺が星海に行くんだ。俺はあいつの事なにも知らないけど、きっと、嫌がってくれるだろ」
アルコンは少し黙った。それから、そうだな、とささやかな声で応えた。
「汝もまた、つけ(・・)を払うために生まれてきたわけではないのだ」
呟くような言葉は、朦朧としたメレディスの耳には届かなかった。
もはや体の重さすら感じなくなってきた。ぐらぐらと覚束なく立ち尽くすメレディスの手を、アルコンが強く引く。勢いよく倒れ込む、と思われた肉体はしかし、予想に反してふわりと宙に浮いた。五層のあの装置を起動した時のような浮遊感だ。ただ、意識も急激にぼやけてしまい、もはや自分が今どうなっているのかも把握できない。
死霊が消滅する時はこんな感覚なのか、と思い、なんだかこれまで使役してきた死霊たちに申し訳なくなった。同時に彼らが少し羨ましい。術者の命令に従うだけの使い魔ならこんな思いはせずに済んだのに。
今にも途切れそうな意識の合間にふと周りを見れば、彼はアルコンに手を引かれて星海を飛んでいた。足場は既に遙か遠い。アイオリスは今どうなっているだろうと考えた。『ヴォルドゥニュイ』やハルはまた探索にでも出ているだろうか。彼らを恨む気持ちはない。お互い大変だったのだ、せめて今後彼らがメレディスのような奴に絡まれないよう祈るばかりだ。
レイチェルはきっと自分が消えてせいせいしているだろう。ミーシャには世話になったのに礼も言えなかった。そうだ、エドゥアール。せっかくの誘いを反故にしてしまった。記憶力がいいと言っていたが、自分のことを覚えていてくれるだろうか。
シュシャ……彼女はどうしただろう。ちゃんと自由になれたなら良いのだけど。良い道に進めればいいと思う。こんな自分を心配してくれて嬉しかったから。
死霊の最期にも一丁前に走馬灯が流れるらしい。自分が自分として存在した僅かな時間の記憶が代わる代わる浮かんでは移り変わっていくのを感じながら、彼はもう姿も見えないアルコンに向かって告げる。
「アルコン……俺が消えたら、魂を……完全に消滅させて……」
「……ああ」
「メレディスの魂はどこへも行けない……あの世界(・・・・)にも、アルカディアにも……はは……ざまあみろだ……」
「叶えよう。必ず」
よかった、という声は細切れの吐息に変わった。走馬灯も止んだ。もう自分の体がどこにあるのか分からない。暗い視界に薄らと光が映った。眼下に広がる星海の光だ。夜空を覆う満天の星とおなじ煌めきが、視界いっぱいに広がっていた。
「きれいだな、」
呟いた声が塵になって、星海の無重力に漂ってやがて消えた。
アルコンは航路を行く足を止めて、掌の中に残った一握の塵を握りしめた。振り返ってももう、名前のない青年の姿はどこにも無かった。
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