　視界が歪む。ついに崩れ落ちた体が地面へと叩きつけられる感覚に、彼は安堵の息を吐いた。ようやく、ようやくだ――臓腑と脳を締めつける苦痛がだんだん薄れていく。遠のく意識の向こう側に安寧が横たわっているのが分かる。

　肩の荷が下りたような心地だった。長く辛いばかりであった旅路も、ここでついに終わりの時を迎えるのだ。その事実に安心すると共に、僅かな罪の意識が湧き上がる。果たしてこれで正しいのか……否、自分にはもはや、これ以外の道はあり得なかったのだ。それに、いずれにせよここで目を閉じれば全ての幕が下りる。

　最後の息をゆっくりと吐き出して瞳を閉じる。瞼の裏に恋しい面影が浮かび上がり、消えて、そして――。

「……ねえ、見て。人間が落ちてる……死にかけてるよ」

「そうだ、いいこと思いついた。こいつ連れていこう」

「だって剣を持ってるよ。ほらこれ、よく使い込まれてる。それに、ちょっとやつれてるけど体つきもいいし、鍛え直せばすぐにでも使えそう。きっと役に立つよ」

「ね、いいでしょ？　おれが面倒見るから。それに、どうせ人手は要るんだもの。無駄にはならないよ」

「……決まり！　じゃあ、そっち持って、せーので持ち上げるからね。せーの、……」

　　　　　◆

　背に当たる柔らかな感触が整えられたベッドのそれである事に気付いた瞬間、アズは思わず跳ね起きた。激しい目眩に頭を押さえながら、辺りを見回す――そこは何の変哲もない、宿屋の一室であるようだった。狭い部屋に寝台がふたつ並んで置いてある。アズが寝ていたベッドの右隣、もうひとつのベッドには見覚えのない荷物が無造作に投げ出されていて、誰かがそこで寝た形跡などは見当たらなかった。

　ここはどこだ。至極真っ当な疑問の後で、深い落胆と絶望が襲ってくる。ようやくそのとき（・・・・）がやってきたと思ったのに、とんだ肩透かしだ。それに、倒れる前とは比べものにならないほど体が軽い。生理的欲求を越えた耐えがたい苦痛と化して腹の中で暴れ回っていた餓えと渇きは嘘のようにどこかに消え、代わりにぐっすり熟睡した後の心地よい倦怠感が全身を包んでいる。今の自分は健康体であった。どう考えても、完全に。

　つまり……自分はまた、死に損ねたのだ。その事実に思わず唇を噛みしめるアズの耳に、軽い足音が届く。

　扉を開けて廊下から顔を出したのは、見覚えのない人物だった。厚手のコートを着た髪の長い男性である。彼はベッドから身を起こしているアズの姿を見ると何度か瞬きをして、それから背後を振り返って誰かに声をかける。

「マルクトよ、目が覚めたようだ」

「はあ～い」

　軽やかな声。男の脇から顔を出したのは、アズより随分年下のように見える子供だった。こちらも見覚えのない顔だ。性別は声色や背格好からは判別できない。腰に弓筒を下げているが、狩人か何かだろうか。

　子供は男の横をすり抜けて部屋に入ると、ベッドの枕元まで近寄ってアズの顔をまじまじと覗き込んだ。愛らしく整った顔が予想の倍近い距離まで迫ってきて、アズは思わず仰け反る。目を白黒させる彼に子供は喜色をたたえた声で告げる。

「うん、元気そうでよかった！　はじめまして、おれの名前はマルクト。道端に落ちてたおまえを拾って、ここに連れてきたのがおれだよ。どうもどうもよろしく～」

「……は、あ」

　子供の声は明るく無邪気な響きをしている。畳みかけるような言葉に思わず気圧されるアズに、マルクトと名乗った子供は小首を傾げて問う。

「それで、おまえの名前は？」

　アズは少し迷った。果たして素直に名乗っていいものか。今こうしてふかふかのベッドの上にいる以上、落ちていたところを拾われたというのは事実らしいが、それならばこの子供はいったい何の意図があって自分を助けたのか。金が目当てか、それとも恩を売って何かしらの対価をむしり取ろうというのか。どうせ自分は助けられたことに対して感謝などしないし、放っておいてくれて良かったのに……。

　……だが、ここで口を閉ざしても何にもならないだろう。最終的にそう結論づけ、アズはひとつ息を吐いた後ゆっくりと口を開く。

「アズ。……アズ・ルーカス」

「変わった名前だね。質問なんだけど、おまえってもしかして自殺志願者なの？」

「――――」

　あまりにも歯に衣着せない物言いに、つい黙り込む。それは、まさしくその通りであった。

　アズは死に場所を探している。

　色々な事があって生への終着を失って久しいが、だからといって人目に触れる場所に屍を晒そうものなら無関係の他人に要らぬ手間をかけさせる事になる。せめてそのような事がないようにと誰も通りがからないような僻地を目指して移動していたところ、極度の空腹と脱水で倒れてしまった、というのが事の経緯なのである。こうして助けられている以上、その目論見も大失敗に終わったようだが。

　しかし、たとえ自殺志願者だとしても初対面の相手に心の内側に踏み込まれていい気分にはならない。僅かに顔をしかめて沈黙するアズを見て、マルクトはやっぱりねえ、と明るい声を上げる。

「そうだと思った！　そういう奴って旅人みたいな格好なのに荷物ぜんぜん持ってないからすぐ分かるよね」

「…………」

「いや、お説教しようとか事情を訊こうとかそういう話じゃないよ。でも、勿体なくない？　せっかく剣の鍛錬とか頑張ってきたのにさ」

「！　どうしてそれを、」

「手。一朝一夕でつくような痕じゃないから」

　アズはシーツをきつく握りしめた。その硬い指先に残る数々の傷跡やタコに目を落としてマルクトはにんまりと笑う。そこで一度、彼は背後を振り向いた。扉のすぐ横に寄りかかって二人のやりとりを見守っていた男は、マルクトの視線を受けてひとつ頷く。

　男に笑い返し、マルクトはアズに向き直る。

「ね、ここからが本題なんだけど……どうせ死にたいんなら、その命、おれに頂戴」

　顔を上げたアズを、青い瞳がまっすぐに射貫いた。子供は満面の笑みのまま、両の手を大きく広げて高々と告げる。

「おれたちと一緒に世界樹の迷宮に行こう。それで冒険者になって、戦って死んでよ。おれたちの盾として！」

　　　　　◆

　ラガードの街は朝から慌ただしい。市街地を貫く大通りは探索に向かう冒険者と日常生活を営む市民とでごった返し、混沌とした様相を見せていた。

　人混みから少し離れた店の軒先で、アズは目の前を行き交う人の波をぼんやりと見つめていた。通行人は誰も彼の様子を気にしていないようである。鼻先を掠めるようにして走り去っていった男の背中には大ぶりの斧が引っかけられていた。危うく体にぶつかるところだった刃の軌跡を何とはなしに追いながら、ひとつ息を吐く。約束の時刻はとうに過ぎている筈なのに、待ち人が現れる気配はまだ無い。

「遅いな……」

　と、隣に立っていた男が呟く。彼はアズが宿屋で目覚めた時に最初に部屋に入ってきた男である。名をネツァクという。

「マルクトの事だから迷子などにはなっていないと思うが、どうしたことだろう……オマエはどう思う、えー……何といったかな名前は」

「アズだ……」

「そうだった。変わった名前だな」

　アズは頭を抱える。このやりとりも、今日顔を合わせてから数えて三回目だ。何度言えば名前を覚えてくれるのだろう。しかもこれまでのやり取りから察するに、名前だけでなく顔も覚えられていない。この男は立ち位置としてはマルクトの保護者とか目付役とか、そういう類いのものであるそうなのだが、傍から見ている限りとても保護者として頼りがいがあるようには見えない。何ならマルクトのほうがよほどしっかりしている。

　苦虫を噛み潰したような顔で沈黙するアズをよそに、ネツァクは顎に手を添えてふーむと唸る。

「やはりワタシが行ったほうが良かっただろうか。うん、子供をひとりで行かせるのは良くないからな。次からはそうすることにしよう」

「……あんた、待ち合わせ相手の顔と名前分かるのか？」

「そういえば分からないな。だがまあ、何とかなるだろう」

　異様なまでに自信たっぷりに答えたネツァクを横目に、アズは今日何度目か分からない溜息を吐いて天を仰ぐ。もうこの男と二人きりの空間には耐えられそうにない。早く帰ってきてくれ、と情けない願いが脳裏に浮かぶが、願う相手もそれはそれで理解できない嫌なやつだったので、彼はいよいよ沈痛な気持ちになった。

　あのマルクトという子供がいったい何を考えているのか、アズにはまったく分からない。

　冒険者になれ……などと急に告げられて理解が追いつかず呆然とするアズに、彼は言った。どうせ死ぬのに変わりはないなら、誰かの役に立って死んだほうがいい。自分たちは世界樹の迷宮に挑むための人手を探している。冒険者を志す人間は掃いて捨てるほどいるだろうが、本当に命を捨てる覚悟を持っている者など、果たしてその中に何人いるだろうか？

「おれたちは世界樹の謎を解き明かさなきゃいけない。使命のためなら誰でも巻き込むつもりだけど、それでもやっぱり、利害が一致してたほうが皆幸せだもんね」

　何とか断ろうと言い訳を並べるアズとの応酬の最後の最後に、マルクトはとどめを刺すかのように告げた。

「おれたちは戦力が増えて嬉しいし、おまえは良いかんじに役に立って死ぬ理由ができる！　ほら、お互い嬉しいでしょ？　別に断ってもいいけど、そしたらおれたち以外の誰がおまえの命を粗末に扱ってくれるだろうね。何だかんだ言い訳をして遠回りにしか死ねない人間の命を……」

　……思い出すだけで最悪な気分になる。あの子供はいったいどの立場から物を言っているのか。そもそもお前たちに拾われたりしなければ、俺は今ごろあの道端で力尽きていた筈だったのに。反論は山ほど思いついた。思いついたし、実際言い返した。どれもマルクトにダメージを与えた様子は無かったが。

　しかし結局、アズは彼の誘いのとおり冒険者としてここに立っている。問答から一晩明けた次の朝、アズはマルクトと契約を交わした。内容は至ってシンプルだ。『冒険者として、迷宮で死ぬまで探索する』。この死ぬというのが、自ら命を投げ出すことではなく、迷宮内の魔物や罠によって命を落とすことを指すというのは言わずもがなである。

　アズから見たマルクトは本当に強引で人の心が分からない嫌なやつで、彼の言いなりになるのが癪だという気持ちも確かにある。だが、そもそもアズは道端で倒れた時、死んだつもりでいた。そしてこれから本当に死にに行く。どうせ結果が同じならそこに至るまでの経緯がどうであろうが何も変わらないし、それなら彼の口車に乗って何かの役に立ってみるというのも良いのではないか、と思ったのだ。

　それに、命の価値は重くなければいけない。同じ死でも自らの命を軽んじて胸に剣を突き立てるより、必死に抗う中で魔物の爪に裂かれるほうが、重い（・・）筈だ。そうでなければならない。そうでなければ……。

「戻ってきた」

　ふと聞こえてきた呟きに顔を上げる。ネツァクが指さす方向に目を向ければ、マルクトが大きく手を振りながら人混みを掻き分けてこちらへ向かってくるところだった。

「遅くなっちゃった！　この時間、人がいっぱいいて嫌だね」

「心配したぞ。何かトラブルに巻き込まれたのかと」

「まさか、ネツァクじゃあるまいし……それで、こっちの二人が残りのメンバー！」

　そう言ってマルクトが示した先には、二人の人物がいる。一人は鎧を着込んだ壮年の男だ。騎士かと思ったが盾は持っておらず、腰に差しているのは東国由来の刀剣である。もう一人は彼の傍らに隠れるようにして佇む少女で、こちらは杖を持っていた。

　マルクトが二人に向かってちょいちょいと合図する。促されるまま一歩前に出た男は、大きく胸を張って口を開いた。

「我輩はジョージと申す。世界樹の迷宮踏破を目指してこの地に参った。こちらの娘はネリネ……探索には不慣れな身ゆえ迷惑をかける事もあろうが、よろしく頼む」

　深々と頭を下げるジョージの後ろで、少女もぺこりと礼をする。マルクトは満足げに頷いてネツァクとアズに向き直る。

「ってわけで、この五人で探索に行くからね」

「そうだったのか……まさか人を集めているとは。ワタシはてっきり散歩にでも行ったのかと」

「一昨日からずっと言ってたんだけどね。まあネツァクが人の話聞いてないのはいつもの事だから気にしないで」

　切り捨てるような調子で言われたネツァクがしゅんと肩を落とすが、マルクトがそれを気にした様子は無かった。酒場でスカウトして……だのギルドへの登録はもう済ませてあって……などと言っている彼の声を聞き流しながら、アズは新たな「仲間」であるという二人の姿を観察する。少女の方は分からないが、ジョージという男の方は経験豊富で頼りがいがありそうな風貌をしている。二人はどんな関係で何のためにラガードまでやって来たのだろう……と浮かんだ疑問を、すぐに掻き消した。どうせそう長い付き合いになるわけでもないのだから、わざわざ相手の事情に踏み込む必要は無い。

　ふと、目が合った。ネリネというらしい少女は自身を見つめてくる青年の顔をじっと見返すと、にっこりと笑う。いきなり微笑みかけられて困惑するアズの前にジョージが歩み出る。いかつい髭面に人好きのする笑みを浮かべて彼はアズに問いかける。

「おぬしの事は何と呼べば？」

「あ、ああ……俺はアズ」

「うむ！　改めてよろしく頼むぞ、アズ」

　快活な声と共に差し出された手を見て、アズはしばし逡巡した。やがておずおずとその手を握れば、力強く握り返された上にぶんぶんと上下に振られる。一切の遠慮がない動作に目を白黒させるアズの傍らに、気付けばネリネが近寄ってきていた。いかついおじさんに振り回される青年を見上げて、彼女は先程と同じ微笑みを浮かべたまま蚊の鳴くような声で言った。

「よろしくね」

　と、アズはそこでようやく気付いた。このギルドには変なやつしかいない。そもそも変なやつであるネツァクとマルクトが集めてきた面子なのだから、出来上がるギルドも変なギルドになって当然だ。慣れない土地で図らずも変なやつらに囲まれてしまった。本当にこれで大丈夫なのだろうか、と不安になる――アズは真面目で、それでいてあまり正気ではなかった。これから死ににいくつもりだというのに、それを忘れてつい先の事を心配してしまうくらいには。

　つまり、まともぶっている彼も含め、五人全員が変なやつなのである。

　ラガード公国にとって、「世界樹の迷宮」は長く禁足地とされる場所だった。迷宮の中枢である世界樹は古くから信仰対象として崇敬を集める存在であり、国を治める大公家とも縁深いとされる権威の象徴であったためだ。無論、禁令を無視してこっそりと迷宮に忍び込む者もいるにはいたが、彼らが偉大な何かを成すことも、価値のある何かを手に入れることも無かったというのは現状を見れば明らかであろう。数多の盗掘者の屍が積み重なってもなお、迷宮の神秘は健在であった。

　公式に禁が解かれたのはつい最近の話だ。衛士や認可を受けた一部の冒険者のみに探索が許されていた迷宮が大公の命により解放されたのが、数ヶ月前のこと。各地から冒険者を招き入れてまで探索を推し進めようとする大公宮の姿勢を疑問視する声も多かったが、それも人口流入による混乱で有耶無耶になった。ハイ・ラガードには毎日多くの冒険者が富や名声、あるいは心躍る冒険を求めてやって来る。だが、反対に国を出ていく者は少ない――否、生きて出られる者は少ない。

　今の世界樹の迷宮に静謐な聖地であった頃の面影は無い。美しく映える緑の樹海には、魔物と冒険者の死体が数え切れないほどに散乱している。

「それで、せっかく集めた冒険者を無駄に死なせないために出されるのがこの試験（ミッション）なんだけど」

　と、広げた地図を掲げながらマルクトは言う。

「いきなり迷宮に放り出して、自力で戻ってこいっていうのも厳しい話だよね」

「試験中は衛士による監視が行われていると聞いたが」

「一応ね。でも、合格できないギルドもわりといるんだって。酒場で聞いた話ではね」

「それは、確かに厳しい話であるなあ」

　ジョージが深く頷き、辺りを見回した。寒冷地に位置するラガードでは限られた季節にしか見られない筈の新緑が見渡す限り一面に広がっている。各所に見られる石造りの建造物は古い遺跡だろうか。柔らかな陽の光に照らされた森にはどこか神秘的な雰囲気が漂っていた。

　世界樹の迷宮第一層の一階……天まで続くと言われている迷宮のもっとも浅い層に、五人は取り残されていた。ここまで先導してきた衛士の姿は既に見えなくなっている。今から一行は、この右も左も分からない森の中を手探りで探索し、足取りを地図に描き残しながら出入口まで戻らなくてはならない。この試験こそ、ラガードの門を潜った冒険者すべてに課される入国試験であった。

　当然ながら、ただ迷宮を歩いて地図を描く練習をするというだけの試験ではない。迷宮の中には魔物がうろついている。浅い階層に棲息している魔物は比較的弱いとされているが、それでも探索慣れしていない新人冒険者の命を奪う程度の力はある。油断してかかれば初探索でパーティー全滅などという憂き目にも遭いかねない。

「だが、危険を承知で動かない事には何も始まるまい。我輩が先陣に立つとしよう」

　そう言ってジョージが腰に携えた刀の鞘を握る。両手で杖を握り込んだネリネもごく自然な流れで彼の後ろについた。その様子を見たネツァクがふむ、と呟いて肩にかけていた銃を下ろす。

「では、後ろはワタシだ。……それでいいな？」

　問いかけられたマルクトはひとつ頷く。彼も自身の得物の調子を改めて確認し、それから隣に立っていたアズを見上げると持っていた地図を彼に向かって差し出した。

「はい」

「なんだ」

「描いて」

「なぜ俺に……」

「おれは周り警戒しなきゃいけないからに決まってるでしょ。野伏（レンジャー）が地図に集中なんかして、敵襲や罠を見落としたらどうするの」

　だから、はい。と突き出された地図を、アズはこの上なく渋い顔で受け取った。仕事を押しつけられているだけなら拒否しようもあったが、論理的に理由を説明されると断りようがなくなってしまう。どうして筋が通っているんだこいつ……と半ば理不尽な苛立ちを抱きつつペンとインクを用意する彼を見て、マルクトは満足げな表情を浮かべた。

「さあ、初めての探索だ。元気よくいこう！」

　溌剌と宣言した彼にネツァクとジョージがおー、と応え、ネリネがぱちぱちと拍手をする。アズは反応しなかった。それよりも、学生の頃に受けた地理の授業の記憶を掘り起こすのに必死だったのである。もちろん授業でも地図を描いた経験など無いが、何の知識もないままペンを持つよりはマシだと思ったので。

　弾丸を受けた針ネズミがぱたりと倒れ伏すのを確かめたネツァクが、小さく息を吐いて銃口を下ろす。すぐさま次の戦いに備えて弾薬を込め直す彼を横目に、ナイフを手にしたマルクトが魔物の死骸に駆け寄っていく。何をするのかと訊けば、素材を剥いで換金するのだという。

「この針とか、まあ雀の涙くらいにしかならないだろうけど。でも一エンを笑う者は一エンに泣くって言うからね」

　などと宣（のたま）いながらてきぱきと素材を剥ぎ取っていくマルクトを横目に、アズは小盾を持つ腕をさすった。防御の際に構えを取るのが間に合わず、受け流しきれずに針が腕を掠めてしまった……死ぬために来たのなら直撃を受けても良かったのでは？　と思われるだろうが、彼の背後にはちょうど狙撃の体勢に入っていたネツァクやマルクトがいたので、そちらに攻撃が流れないようにするためにも安全に受け止めて攻撃を引きつけ続けておく必要があったのだ。いくら信用できない変なやつらとはいえ、自分が倒れたせいで後衛に害が及ぶのは後味が悪い。

　痛む箇所に触れた指先に暖かなぬめりを感じる。思わず顔をしかめるのと同時に、先程までジョージの元にいたネリネがトコトコと駆け寄ってきた。彼女に促されるまま負傷した腕を差し出せば、すかさず掲げられた杖の先端から光が溢れる。巫術による治療だ。見慣れた術式の光が傷口を塞いでいくのを複雑な表情で見つめていたアズだったが、はっと我に返るとネリネに向き直る。

「……ありがとう」

　控えめな感謝の言葉にネリネはにっこりと微笑む。そのまま踵を返してジョージの元に戻っていく彼女の背中を、アズはどこかいたたまれない気持ちで見た。

「……よーし取れた！　先に進もう！　この針チクチクして嫌だからネツァク持ってて」

「ワタシがか。まあいいだろう、オマエの指に刺さってしまってはいけないからな……あ痛」

　刺さった……と呟いて自身の指を見下ろすネツァクには特に反応せず、マルクトは軽やかな足取りで通路の先へと進んでいく。好き勝手な物言いとは裏腹に、彼は斥候としての役目を堅実にこなしていた。本人曰く「誰かに任せられるんならそうするけど、任せられなさそうだから自分でやるしかないでしょ」だそうだ。それなら地図も自分で描いてほしいものだ、とアズはうんざりしながらペンを鞄にしまう。勝手に押しつけてきたくせに地形がどうだのメモが分かりづらいだの口を挟んでくるマルクトに、彼はだいぶ嫌気が差していた。

　最初の地点を出発してから二時間ほど歩いただろうか。扉を開いた先、小さな花畑が広がる突き当たりの広場で、一行は足を止めた。

「休憩しない？」

　と言い出したのもマルクトであった。彼の言葉に他の面々も辺りを見回す。確かに辺りは静かで、差し迫った危険の気配は無いようである。ネツァクがふむと顎に手をあてて問う。

「疲れたのか」

　問いかけられたマルクトは一瞬視線を逸らして何か考えたようだった。それからいたずらっぽく笑って肩をすくめる。

「うん、まあね」

「ではそうしよう。まだ昼間だし、少しくらい休息を取っても問題はあるまい」

　異論を挟む者もいなかったので、そこで休憩することに決まった。疲れていると言ったわりには元気そうな様子で花畑の中を散策するマルクトと、彼にしきりに声をかけるネツァクをぼんやり眺めていたアズだったが、ふと上着の裾を引かれる感触に我に返る、振り返ってみれば、そこに立っていたのはネリネだ。

　いつの間にか背後に回り込んでいた彼女は、背負っていた鞄から何かを取り出すとそれをアズに差し出してくる。反射的に受け取ってから、それが小さなパンである事に気付いた。ネリネはじっとこちらを見ている。……はやく食べろとでも促されているのだろうか。

　一言礼を言ってかぶりつけば、彼女は満足げに頷いてマルクトたちの方へ向かっていく。アズは無心でパンを咀嚼した。携行食らしく硬めに焼かれた生地は噛めば噛むほど口内の水分を一気に奪い去っていくが、味そのものはかなり美味しい。

「元気がなさそうであるな」

　水筒の水を喉に流し込んでいると、すぐ隣にいたジョージが声をかけてきた。彼の手にもアズと同じパンがある。アズはよっこらせ！　と言いながら腰を下ろした男の顔を見返して、すぐに目を逸らした。ジョージは豪快に笑って話を続ける。

「うるさいオッサンが絡んできたと思っておるな？　まあそう邪険にするな。前衛を担う者同士、仲良くやろうではないか。……おぬしは何故このギルドに？　我らと同じく、勧誘されたタチか」

「……そんなところだ。不本意ながら、成り行きでな」

「わはは、確かに態度からもそんな感じが滲み出ておる。だが、このギルドのスカウトマンはなかなか見る目があるようだな」

　アズは思わず怪訝な顔で振り返る。ジョージはにやりと笑った。

「守りは任せたぞ、我輩は敵陣に斬り込む事しか知らんからな」

「いや、俺も別に騎士とかじゃないし、期待されても困るんだが……」

「なーに盾を持っているのだから立派な守り手よ。それに後ろにはネリネもいる。あやつは、支援などお手の物であるからな」

　自身の名前に反応してか、数歩離れた場所にいたネリネが振り返る。人懐っこい表情で小首を傾げて見つめてくる彼女に何でもないぞ～と応えるジョージを、アズは苦い顔で見ていた。確かに刀使いの彼より盾を持った自分のほうが守りに長けてはいるだろうが、だからといって頼られては困る。こちらとしてはそのうち死ぬ予定になっているが、それで残ったメンバーが進退に困ってしまうようでは本末転倒なのだ。

「本当に、期待なんかしないでくれ」

　俯きがちに呟いたアズを見て目を瞬かせると、ジョージは手元にあった残りのパンを一気に口に放り込んだ。口の中の水分を奪われて顔をしかめる彼に、音もなく近づいてきていたネリネがすかさず水筒を渡す。勢いよく水を飲み干すジョージを横目にアズは自身の水筒を鞄にしまい込んだ。いつまで探索が続くか分からない以上、あまり飲み過ぎるのも良くない。

　休憩を始めてしばらく経った頃、ネツァクがそろそろ出発しようと言い出した。

「二十分経った。これ以上長居してもいられないだろう」

「そんなに。まあ確かに、魔物が来ないとも限らないもんね」

　広場の真ん中に座り込んで花を摘んでいたマルクトがそう言って立ち上がる。アズも剣と盾の位置を直して出口の扉へ向かった。見通しのきかない場所に最初に踏み込むのは前衛の役目だ。出会い頭に魔物とかち合っても対応できるよう構えておかなければならない。

　背後から話し声が聞こえてくる。

「さっきのパンおいしかったね。どこで買ったの？　……あーあそこの店！」

「どこだ……？　ああ、あの宿屋の三件隣の」

「いやあそこの通りにパン屋は無いよ。西側に一本向こう」

「……おい……開けてもいいんだな？」

「あ、いいよ。どうぞどうぞ」

　アズは思わず溜息を吐く。ジョージがくつくつと笑う声を聞きながら、扉に手をかけて一気に押し開く。

　次の瞬間、視界に入ったのは巨大な芋虫だった。

「……！」

「左だ」

　鋭く告げたジョージの声に、アズは反射的に左腕を左方向へ突き出す、同時に頭から突っ込んできていた針ネズミが盾の表面に突き刺さった。勢いの乗った重みをまともに受け止めた腕が軋む。体勢はなんとか保った。突っ張った脚を軸に力を込め、魔物の体を振り払う。転がった針ネズミの柔い腹に矢が突き刺さるのを、彼は見なかった。

　視線を正面に向ければ抜刀したジョージが巨大な芋虫と向き合っているのが見える。急いでそちらに向かおうとしたアズだったが、視界の端にもう一体の針ネズミの姿を捉えて足を止めた。一瞬の逡巡を見透かしたように背後から声が飛ぶ。

「大物を叩け！」

　銃声。矢を受けてもがいていた針ネズミが弾丸を受けて動きを止める。指示通り、アズは芋虫の方へ駆けだした。

　周囲にまき散らされた糸に足首を絡め取られたジョージを半ば突き飛ばす勢いで前に割り込む。芋虫が振り下ろすように繰り出した頭突きを受け流し、目の前に晒された喉元に剣を突き立てた。次いでジョージの一閃が胴を裂く。

　傷口から体液を噴き出した芋虫が腹脚をうごめかせながら仰け反った、その隙に周囲へ視線を走らせる。もう一体残っていた針ネズミが、後衛の三人へ近付いていく――アズは咄嗟に、左手の盾を思いきりぶん投げた。回転しながら飛んでいった円形の小盾は、ちょうそ針ネズミのすぐ近くの地面を跳ねて転がっていく。突然の飛来物に針ネズミがびくりと動きを止めた、次の瞬間にその頭を矢が貫いていた。

　防御の手段を失ったアズの頭上で芋虫の影が揺れる。持ち上がった巨体が彼に迫るより先に、飛んできた弾丸が紫色の腹に突き刺さる。術式弾だ。弾丸に刻まれた術式に肉を焼かれ、芋虫は嫌がるように頭を振って崩れ落ちる。とどめにジョージが地面に縫いつけるように芋虫の頭に刀を突き立てれば、それで勝負はついた。

　心臓が激しく脈打つ音が聞こえる。アズは深く呼吸をして剣を鞘に収め、頬に飛んでいた芋虫の体液を拭った。ナイフを持ったマルクトが芋虫から素材を剥ぐため駆けていく。腹脚の鉤爪に狙いをつけて刃を入れていく彼の姿を何とはなしに眺めていると、背後からネツァクがやってきた。そこでようやくアズは先ほど芋虫を叩くよう指示してきたのが彼であった事に思い至る。

　先ほどぶん投げて遠くへ転がっていった盾を差し出しながら、ネツァクは静かな声で告げる。

「立ち回りに迷いがあったな」

　思わず顔をしかめるアズのことは気にせず、彼は淡々と続けた。

「いくら軽装備の後衛とはいえ、多少目を離したくらいでは死なない。あの場では未知の魔物がもっとも脅威だった。どう出てくるか分からない敵を相手にするのに、えー……あー……刀使いだけでは心許ない。まずオマエが前に出ろ。そのためにオマエを前衛に置いている」

「……」

「よりよい働きを期待する。契約を交わした以上、オマエにはそうする義務がある」

　アズは黙り込んだまま、差し出された盾を受け取った。針ネズミの針が突き刺さった痕を指先でなぞりながら小さく息を吐く。

「……ジョージだ。彼の名前はジョージ。そして俺がアズ」

「そうだったな。いやなに、ちゃんと覚えていたとも」

　言い訳でもするような調子で言いながらそそくさと去っていくネツァクを横目に見ながら、アズは彼の指摘を頭の中で反芻した。つまるところもっと考えて動けということだ。前衛に立つ者として、パーティーで唯一まともに守勢を担うことのできるメンバーとして、相手にすべき敵を考えろと、そう言われた。

　だがそうしたところで、後衛の装備が前衛の二人のそれと比べて脆いという事実は変わらない。もしアズが一体の敵に構っている間に別の魔物が後ろに回ってしまったらどうするのか。ネリネがあの細腕で杖を振り回したところで魔物に効果があるとは思えないし、飛び道具持ちのネツァクとマルクトは懐に入られると弱い。万が一のことがあれば困る。自分が死ぬのは構わないが、後ろで誰かに死なれては、……。

　ぽん、と背中を小突かれる感覚。はっとして振り返ればマルクトが立っていた。芋虫から剥ぎ取ったらしい鉤爪を手の内で弄びながら、呆れた顔で彼は言う。

「なにぼんやりしてるの？　行くよ」

　見てみれば、他の三人も既に準備を整えて探索の再開を待っている。アズはまとわりつく何かを振り払おうとするかのように頭を振って、マルクトに引っ張られるままそちらの方向へ向かった。試験を終わらせなければならない。少なくとも、陽が落ちるまでには。

　芋虫たちと戦った地点からまた一時間ほど歩いたところで、最初に案内してくれた衛士と出会った。彼は気さくな調子で声をかけてきたが、アズが描いていた地図を見るなり「このへんが足りない」と指摘してきた。どうやら指定された範囲内の地図を完璧に描ききらなければ街へ帰ることすら許してもらえないらいしい。

　幸い不足していた部分は元来た道を引き返してすぐの分かれ道の先だったので、急いで戻って地形を確認し、急いで描きながら衛士の元へ向かう。出会った魔物はすべて殴り倒した。本当は無視しても良かったのだが、後衛の弓を持った小さいやつが「一エンを笑う者は～!!」などとごねたので結局はきっちり倒して素材も回収するはめになった。何故あんなに小遣い稼ぎに余念がないのだろう。謎である。

　二度目の審査は、文句なしの合格であった。道を開けてくれた衛士に礼を言い、迷宮の出口に向かい始めたところで一行はようやく安堵の息を吐く。

「これで、ミッションは達成ということであるな」

「そうだね。おれたちも晴れて公国民ってわけ」

「公国民になると、何か嬉しいことがあるのか？」

「え？　いや……そんなの迷宮探索ができるようになることに決まってるじゃん。ちょっとボケすぎだけど大丈夫？」

「……!!」

　軽く流されるのを通り越して逆に心配されたネツァクが、ショックを受けたような表情でマルクトを見つめる。二人のやりとりはさておき、ミッションを達成したのならまず公宮に報告に行かねばならない。完成度の確認とかされるんだろうか、と地図を眺めるアズの隣に、すっとネリネが並ぶ。

　気配を消して近付いてきた彼女の存在に驚くより先に、広げた両の手が差し出された。戸惑うアズに、ネリネはぐいっと両手を突きつける。意図が読めずに困惑しつつも、ひとまずアズは自身の掌を彼女の掌のぽんと当てた。いわゆるハイタッチである。

　どうやら正しい反応であったらしい。ネリネはにっこりと笑うと、自らもアズの掌を押す。

「いえーい」

「……いえーい……？」

　ふんふんと満足げに頷き、ネリネはネツァクの元へ駆けていく。アズは呆気に取られつつその背中を見送った。何だかんだ、このギルドで一番分からないのは彼女の事かもしれない――そう考えるアズの上着の裾を、今度はマルクトが引いた。彼は下からアズの顔を覗き込むと、試すような口ぶりで問いかけてくる。

「どーお？　いいかんじに死ねそう？」

「お陰様でな」

「明日から本格的に探索に入るからね。ジョージたちもそれでいいって言ったし」

「俺は訊かれてないぞ」

「おまえの意見を聞く必要はないよ。おれたちの指揮下で探索するっていう契約でしょ」

「……そうだったな」

「でもあんまり早く死なないでね！　メンバー補充にだってコストがかかるんだから」

　アズは応えなかった。マルクトはむっと唇を尖らせ、なまいきなやつ～。と言いながらその場を立ち去っていく。文句を言いたいのはアズも同じであったが、彼は口を閉ざしたまま黙り込んでいた。何か言ったところでどうなるわけでもないのなら、沈黙を選ぶのがもっとも賢いやり方だ。

　いつまでも出入り口付近でたむろしている訳にもいかない。荷物をまとめ直し、一行は連れ立って街へと向かう。最後尾について迷宮を出ようとする寸前で、アズはふと背後の森を振り返った。古跡を覆う新緑が陽の光に照らされて穏やかに輝いている――新人冒険者だろうか、すれ違った一団がどこか緊張した面持ちで通路の先の広間へ向かっていくのを見送り、踵を返して先に行った四人の後を追う。

　そうして、終わりへ向かう旅は始まった。死に場所を探すために、世界樹の秘密を暴くために、あるいはどちらでもない別の目的のために。いま踏み出した一歩が、世界のどこよりも天に近い場所へ辿り着くための一歩であると信じて。

　ギルドの名を、『セフィロト』という。

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【SQ2リマスター】序