【SQ3】15 死線で踊れ
「私は……、あの優しかった兄ともう一度会いたいだけなのです!」
◆
いよいよとんでもない事になってきた。依頼されていた「不凋花」アラマントスは実はグートルーネ姫の寿命を伸ばす妙薬の原料であり、百年前から姿を変えず生きている不老の姫君はかつて深海へ消えた兄の姿を捜し続けているのだという。
衝撃の事実を『セレスト・ブルー』が受け入れるより先に、事態はまたも動く。深王率いる深王の軍勢が、突如として深洋祭祀殿へ繰り出し、最奥部に存在する転移装置を探し始めた。転移装置は海都の奥、王家が所蔵する白亜の森に繋がっていると推測される。深都側がなぜ急に動き始めたのかは定かでない。だがもし転移装置が制圧されてしまえば……良くない事態になるというのは、想像に難くない。
そうして、アラマントス採取のミッションを終えたばかりの『セレスト・ブルー』にまた新たなミッションが与えられた。深王の配下より先に転移装置を見つけ出し、制圧せよ──断るに足る理由は無かったし、あったとしてもそれを言い出せるような流れではなかった。
「皆さまなら必ずやり遂げてくれると、私は信じています」
僅かに潤んだ赤い瞳でまっすぐにこちらを見つめるグートルーネの表情は真摯そのものだった。そうは仰いましても、姫様、我々を無条件に信用しすぎではありませんか……などとは言える筈もなく。
そういう訳で一行は、言われた通り転移装置を探すため今日も第四層を歩き回っていた。何らかの罠だろうか、地下十五階の通路には所々大きな穴があいている。その穴がなかなか厄介で、探索を進めるためにはわざと落下して下階から通路の先まで回り込んでいかねばならないのだ。
「面倒臭え~! 地図二枚同時に描くのも手間だしよ!!」
インディゴが苛立った様子で描きかけの地図を乱雑に丸め、勢いよく荷物に突っ込んだ。その横で呆れた表情を浮かべたベロニカが星術機を起動させ、ふよふよと浮いて穴の中へ降下していく。先に荷物を落として両手を空けたインディゴも、その後を追って通路の端から端まで広がる穴の淵に足をかける。
幸い、穴から下階の床までの距離はさほど遠くはない。気をつけて下りれば着地は比較的容易だ。先に下りた四人の位置を確認し、慎重に足を下ろした。ゆっくりと着地して辺りに魔物の姿が無い事を確認すると、インディゴはふうと息を吐いてたった今下りてきた穴の上を見上げる。
「下りてきて良いぞー」
「了解しました。着地のためにジェット噴射を使用しますので、少し離れてください」
返ってきた言葉の通りその場から離れれば、上空からゴオオオという音と共にマキナが降下してくる。重い金属の体では下りてくるのも一苦労だろうと思っていたが、どうやらそれは杞憂だったようだ。というのも、彼女は足の裏から噴射された暴風の力によって宙に浮く事ができるのである。どういう原理で風が発生しているのかはさっぱり分からないが。
マキナはゆっくりと高度を下げ、小さな足音を立てて慎重に着地した。きょろきょろと辺りを見回す彼女にレイファが問う。
「どう? 転移装置ってやつ、この辺りにありそう?」
「……否定します。マキナの観測できる範囲には、それらしき反応は確認できません」
「うーん、やっぱりもっと先に行かなきゃ駄目か……」
「外部からの観測を妨害するような機構が組み込まれているという可能性も否定できません。マキナも可能な限りサーチの精度を上げてみます。転移装置そのものを発見できずとも、転移装置が存在しない場所を絞り込む事は可能かと思いますので」
「頼むぜ。そのためにお前を連れてきたんだからな」
インディゴの言葉にマキナはこくりと頷く。今回、彼女は完全に転移装置を探すためだけに連れてこられた。戦闘に使用する属性ポッドはすべて置いてきているため戦闘では役に立たないが、人間たちだけで手がかりも無いまま探し回るより、捜索を彼女に任せて残りの面子で魔物を片付けていくが幾分かマシだろう。
落とし穴を下りた先の通路は袋小路になっている。突き当たりの階段を上り、再び十五階に戻って先を進んでいく。この階の探索はこうした上下移動の繰り返しだ。現在地を見失わないよう、二階分の地図を慎重に参照しつつ進んでいく。
海底神殿は暗く、湿って纏わりつくような空気で満たされている。一層や二層のように目で見て楽しめる何かが存在していれば良かったのだが、残念な事にここにあるのは何を象っているのかも分からないような彫刻や無数のフカビトが描かれた壁画だけだ。辺りを見回し、インディゴが呟く。
「フカビトってのはどうも趣味が悪いらしいな。何だよあの目玉は……ああいや、もしかしてあれも何かの偶像か……?」
「船長なに言ってるの? ていうかそれ探索には関係なくない?」
「何かしらのヒントにはなるかもしれねえだろ」
「マモノきた!」
会話を遮ったティルの叫び声に、二人もすぐさま戦闘の構えを取る。飛び出してきたのは水がそのまま人の形を取ったような不思議な魔物たちだ。異海の落とし子と呼ばれる、フカビトのしもべである。
飛びかかってきた半液体の塊をレイファが殴り飛ばす。べちゃりと音を立てて床に落ちた一体を、すかさずインディゴの突剣が貫いた。残っていたもう二体はベロニカがまとめて焼き払う。炎に包まれながらもしばしもがいていた魔物にとどめを刺せば、辺りには元の静寂が戻った。この程度ならば手慣れたものだ。
「こいつら放っておくと仲間呼んで増えるからな、さっさと倒さねえと」
「そうだね。また呼ばれたかもしれないからしばらく気をつけて……待って、足音が聞こえない?」
レイファが鋭い声で言う。耳を澄ましてみれば、確かに通路の向こうから足音が聞こえる──それも、複数の足音だ。一度収めた武器を再び構え直し、徐々に近付いてくる気配に意識を集中させる。
息を呑んで見守る中、通路の先から足音の主たちが現れる。魔物ではなかった。しかしその姿を見た一行の警戒が解ける事はなく、むしろその場の空気はより一層張り詰める。突剣の柄をそっと握り直し、インディゴが冷ややかに呟いた。
「運命的だな、ここまで来ると……」
「──まるで他人事のような物言いだな、海賊よ」
返ってくる声にも隠し切れない警戒が滲んでいる。『セレスト・ブルー』と同様に油断なく武器を構え、『カーテンコール』は敵意と緊張のこもった目でこちらを見つめていた。
「成程な、深王はどこの馬の骨とも知れない冒険者を手勢に加えてまで探し物を見つけ出したいって訳かい」
皮肉めいたインディゴの言葉に、ルル・ベルは僅かに眉根を寄せた。応える声は無い。その代わりとでもいうかのように、彼女の脇から伸びた弩の切っ先がまっすぐに『セレスト・ブルー』へ向けられる。
迷いなく引金に指をかけながら、パーニャはインディゴを激しく睨みつけて言う。
「弁明の機会を与えてあげるわ『セレスト・ブルー』。……アタシたちに言うべき事があるでしょ」
「言ったら満足するのか? 「手柄を奪ってゴメンナサイ」って?」
「インディゴ、やめて」
レイファが固い声で制止する。青い視線が横目に注がれるのは気にせず、彼女は一歩前に出た。警戒を解き、両手を下ろした自然体のままゆっくりと言葉を選んで口を開く。
「『カーテンコール』……あんたたちが深王に与してるように、あたしたちも元老院に従ってる。両陣営の代表ともいえる立場のあたしたちがここで衝突すれば、深都と海都の関係がどうなるか……分からない訳じゃないでしょう」
「……そうだな。三層の時よりも、面倒な事態になるだろう」
ゲートキーパー討伐の一件で海都と深都の関係にはヒビが入っている。しかし少なくとも現時点では、両都市は表立って争う姿勢を見せてはいない──ちょうど今この時が、ただでさえヒビの入った関係が砕け散るかどうかの瀬戸際なのだ。ギルド間の関係については、今更どうこう言っても無駄だろう。だが海都と深都の関係は、違う。
レイファが言外に伝えようとした事をルル・ベルは正確に読み取ったらしい。しかしその上で、彼女はそっと首を振る。
「だが、もう遅い。我々がどう動こうが、深王は海都を……否、海都に巣食うフカビトを討つつもりだ」
「……何だって?」
「海都の上層部にフカビトに憑かれた(・・・・)者がいる」
息を呑む音。レイファが戸惑った様子でインディゴを見る。彼の横顔からも表情が消えていた。少し前までの彼らならば馬鹿な話を、と一蹴できただろうが、今の『セレスト・ブルー』にそれは叶わない。何故なら、彼らは当事者の口からそれを聞いている。
……グートルーネ姫は、百年の時を少女の姿のまま過ごした不老の姫君だという。その不老の力が、人ではない何かによってもたらされた力だとしたら?
重い沈黙の中、ベロニカがはっと顔を上げてルル・ベルに問う。
「待って。仮にそうだったとしても、どうしてそれをあなたたちが知ってるの」
「……その問いには答えられぬ。それに、今重要なのはそこではあるまい」
ルル・ベルがそう言うと同時に、パーニャが弩を構え直す。つがえられた矢弾が今度はレイファに向いた。瞬間、後ろに隠れていたティルが彼女の前に飛び出す。レイファを守るように手を広げ、犬歯を剥き出して相手を威嚇する少年の頭上ではオオタカがぐるぐると旋回している。眼下の獲物を捉える猛禽の眼光は、鋭い。
一触即発の事態を前にして、これまでになく凍てついた空気が両陣営の間を流れる。吹きこぼれる直前の鍋のように、空気を入れすぎた風船のように。極限まで張り詰めた状況はあともう一押し、ほんの些細なきっかけひとつさえあれば、一気に爆発する──だが、しかし。その時が訪れる前に、無機質な声が響く。
「お取り込み中、申し訳ありません」
『セレスト・ブルー』の背後からガションガションと音を立てて歩いてくるその姿を見て、ルル・ベルが信じられないものを見たような表情を浮かべた。歩いてきたマキナは彼女の顔をじっと見つめて、それから目の前の海賊の背中を見て、静かに問う。
「現在の状況について確認したい事項が幾つかあるのですが、お訊きしてもよろしいでしょうか」
数秒の間。ひとつ息を吐き、背後を振り返らないままインディゴは答える。
「構わねえが手短にしろ」
「感謝します。まずひとつ、ゲートキーパー討伐の際に敵対した集団とは彼女たちの事で間違いありませんか」
「そうだ」
「そして、アナタ方はマキナにそれを教えなかった」
「必要が無いと判断した。元々お前を深都の手勢と会わせるつもりも無かったからな」
「そうですか。では、最後にひとつ。「手柄を奪った」とはどういう意味ですか?」
インディゴが首だけで振り向き、横目にマキナを見た。彼が口を開く前に、動揺を隠して表情を繕い直したルル・ベルが口を開く。
「その者らは、妾たちを出し抜いて深都発見の功を立てたのだ。本来ならば、第二層を突破し、最初に深都を発見したのは……我々『カーテンコール』だった」
「彼女の言葉に間違いはありませんか? インディゴ」
マキナが静かに問いかける。その時にはインディゴは既に視線を前に戻してしまっていた。もう一度、促すように名を呼べば、彼は僅かな苛立ちを滲ませた声で答える。
「ああ、間違いない。で? 何が言いたい」
「……マキナの感じた事を率直に言うならば、不誠実だと。そう思わざるを得ません」
「誠実、ねえ……」
男の唇から漏れた呟きには、どこか嘲笑するような響きが込められている。マキナは再びルル・ベルを見た。機械人形の眼鏡越しの宝石じみた視線と、少女の赤い視線が交わる。ルル・ベルは何も言わない。彼女が命令を下さない限り、忠実な従者たちは動かない。
マキナはゆっくりと、鋼鉄の唇を開いて言葉を紡ぐ。
「アナタ方は対話をすべきです。過去の経験から発生した悪感情が合理的かつ人道的な判断を阻害している事はマキナにも推測できますが、ここで武力衝突したとして、双方に良い結果をもたらしません。論議の余地はまだ存在しています。それを放棄する事は、ニンゲンの知性の敗北と言えるのではありませんか」
「…………」
「それから、マキナも──」
その時だった。彼女の言葉を遮るように響いた重い足音が、その場の全員の意識を一気に現実へ引き戻す。
はっと振り返る。『セレスト・ブルー』の背後、西側の通路の先の曲がり角から、足音の主が姿を現す。腰に下げた剣を鳴らし、堂々たる佇まいで歩いてくるのは、武装したフカビトだ。だがこれまでに魔物に混じって襲ってきたものとは異なり、二本の脚で床を踏みしめるその姿は人間のそれに似ていて──つまり、上位個体(・・・・)だ。
その足下で、先程仕留めた筈の水色の塊が蠢いている。
「っしまッ……!」
増援を呼ばれた、と。そう口に出す余裕も無かった。剣を抜いたフカビト──異海の近衛兵が、一気に踏み込んで肉薄してくる。パーニャが構えていた弩から矢弾を射出するが、床を跳ねた散弾が掠ってもフカビトは足を止めない。前方を『カーテンコール』に塞がれている今、『セレスト・ブルー』に退路は無い。隙を見て撤退する前提で、ひとまず応戦する。
後ろに控えていたシナトベがルル・ベルの腕を退いて元来た道を引き返そうとした。しかしその足もすぐに止まる。上位個体のフカビトとは逆の方向から、また別の魔物がやって来ていた。身をくねらせて向かってくる巨大ライギョとその後ろに追随する複数のフカビトは、侵入者の姿を認めるとすぐさま襲いかかってくる。
「──駄目! また増えてる! そいつから殺して!」
ベロニカの叫び声。フカビトの怪物じみた巨体の背後で異海の落とし子が再び集い始めていた。また増援を呼ばれれば撤退どころではなくなる。カゲチヨがそちらへ回り込もうとするが、勢いよく振るわれた尾がそれを阻んだ。フカビトには知性がある。仲間との連携で意図的にこちらを追い込む程度には知恵が回るし、進化を遂げてより強力になった個体であるならば、なおさらだ。
このままでは押し切られる。
「……! ルル・ベル様!」
矢弾を装填し直しながらパーニャが焦った声を上げる。切羽詰まった空気を肌に感じながら、ルル・ベルは通路の先を睨んだ。戦闘の気配を感じ取ったのか、新たなフカビトが続々と現れだした。これはいよいよ本格的に、まずい。
かくなる上は。フカビトの鉾を盾で受け止めて振り払い、彼女は怒号にも似た声を上げる。
「散れ! 各々退路を開いて逃げろ!!」
間もなく、増援に現れたフカビトたちがどっと通路になだれ込んでくる。魔物の吼え声と、恐らく自分たちのものであろうくぐもった悲鳴と、何かの破壊音と衝撃と。それらを潜り抜けながら、冒険者たちは一心不乱に駆けた。誰のものとも知れない血飛沫が視界を汚すのも構わず、縋りつくように襲い来る追撃を振り切って。
◆
剣戟はまだ続いている。駆け込んだ曲がり角の先で、カゲチヨは細く息を吐いた。
押さえていた脇腹から手を退ける。傷口を塞がれて行き場を失っていた血液が一気に溢れ出し、床を汚した。すぐさまヒーリング──レイファから教わった気功による治療術だ──で傷口を塞ぎ、更にポーチからメディカの小瓶を取り出して喉に流し込む。魔物たちが追いかけてくる気配は、今のところは無い。
逃げ場がない状況でフカビトの剣が迫ってきた時は死を覚悟したが、結果的に掠った程度で済んだのは僥倖だった。とはいえ、ひとまず襲撃から逃れられたというだけで危機的状況が続いているのには変わりない。孤立したのが自分だけならまだ良いのだが、全員が散り散りになってしまっているとしたら非常にまずい事態だ。
とにかく誰かと合流しなければなるまい。短刀を構え直し、元来た通路に出る……瞬間、一体のソードフィッシュが待ち構えていたかのように飛びかかってくる。刃のように振るわれた鋭いヒレを、カゲチヨは最小限の動きで避けた。そのまま短刀を振り上げ、一撃で仕留める──その前に、飛び出してきた人影が魔物と彼との間に割り込んだ。
カゲチヨの動きが止まる。蘇芳色の羽織りと結い上げた髪を翻して必死の形相で飛び込んできたタマキが、一瞬の内にソードフィッシュを切り裂いた。四等分になった魚の死骸が床に転がる。
両手の刀を下ろして振り返ったタマキは愕然とした表情を浮かべていた。彼は脇腹から下を血で汚したカゲチヨに何か言おうとしたが、口を開くより先に、陰に潜んでいたライチョウが一目散に走ってくる。全体重をかけて突撃してきたライチョウがそのままの勢いで何の構えも取っていなかったタマキに衝突した。
鈍い悲鳴と共に吹き飛んだタマキの体が床に叩きつけられる。二度、三度と床を跳ねた彼は、そのまま通路にあいた大穴へ滑り落ちていった。
カゲチヨは反動で反対側に転がったライチョウをすぐさま斬り伏せ、穴を覗き込もうとした。しかしそんな彼を追うように、背後からまた新たな魔物が甲高い鳴き声を上げてやって来る。そちらを振り返り、もう一度穴に視線をやり、鼻梁の傷を僅かに歪めて彼はその場を離れた。足音のひとつも残さず、シノビの姿はその場からかき消える。
◆
「あいたたた……腰打った……」
小さく呻きながら起き上がり、レイファは頭上を見上げた。先程まで自分たちを追って来ていたフカビトは、どうやら落とし穴を下りる事はできなかったらしい。周囲にも上階にも敵の気配が無い事を確かめ、ほっと息を吐いた彼女はしかし、はっと我に返ると慌てて立ち上がって辺りを見回す。
捜していた姿はすぐに見つかった。薄暗い通路の中ほどに倒れているその人影が半裸の少年のものであると気付いた瞬間、レイファは血相を変えて駆け出す。
「ティル! しっかりして!」
呼びかけながら抱き起せば、ティルはうーんと声を漏らして閉じていた目を開いた。ぼんやりしている彼の顔を覗き込み、頬を軽く叩く。
「ティル、大丈夫? あたしの事分かる?」
少年は何度か半目のまま瞬きをして、それからあっと声を上げてぴょんと跳ね起きた。そのまま勢いよくレイファの胸に飛び込み、ぎゅうと抱きつく。
「レイファ! だいじょぶ!」
「ああ良かった……! あんたに何かあったらどうしようかと……」
見た限りでは大きな怪我も無いようだ。今度こそ本当に安堵の息を吐き、レイファはティルの体を抱き返す。
エヘヘと機嫌よさげに笑っていたティルだったが、ふと背後を振り向くと片手を高く突き上げた。するとどこからともなく飛んできたオオタカが彼の傍に降り立つ。彼女も無事にあの混戦から逃げおおせたようである。少々汚れた毛並みを撫でてやりつつ、改めて周囲の状況を確認する。
「ここに逃げてきたのはあたしたちだけ……みたいだね」
「みんなさがすか?」
「そうだね。タカちゃんにお願いして……」
と、その瞬間、何かを叩きつけるような鈍い音が辺りに響いた。体を強張らせてそちらを見れば、通路の奥から足音を立てて何者かが近付いてくるのが見える。慌てて隠れ場所を探すレイファの裾をティルが引いた。彼は至って落ち着いた様子で足音の主を指さす。
「はらだしてるヤツ」
「あら、女性に向かってそんな言い方は失礼よ」
苦笑混じりに応える声。現れたのは槌を片手に携えたシナトベだ。べっとりと返り血を浴びた彼女がもう片方の手に持っていた青い肉塊──恐らくフカビトの成れの果てだ──を床に放るのを見て、レイファは思わず表情を引きつらせた。
言葉を失ったレイファの代わりに、ティルがシナトベに向かって問う。
「オマエもレイファいじめるのか?」
「うん? ……ああ、パーニャの事で怒ってるのね。大丈夫よ、今は争ってる場合じゃないもの」
困ったように笑って肩を竦め、シナトベは足許に転がっていた羽飾りつきの面を拾い上げた。差し出されたそれをティルが受け取るのを横目に、レイファが困惑しつつ口を開く。
「あんたもひとり?」
「ええ。早く仲間を捜したいのだけど、まだ上には魔物がたくさんいて……全部殺すのは流石に無理だったからひとまず退避してきたの」
「そ、そう……」
「どうしたものかしら。地図なら持ってるのだけれど……」
と、溜息を吐きながら彼女が取り出したのは二枚の地図だ。その地図と、それから傍らで羽繕いをしているオオタカとを見比べ、レイファはしばし考え込む。争っている場合じゃないというのは本当だ。色々と懸念は残るが、とりあえず合流したのが彼女で良かったと言えるだろう。……流石に返り血くらいは拭いてほしいものだが。
ひとつ息を吐き、二人を呼び寄せる。何はともあれお互い仲間を見つけて無事に迷宮から脱出しなければならない。小難しい話はその後で飽きるまですればいいのだから。
◆
は、と顔を上げる。
少しのあいだ意識が飛んでいたようだ。ずきずきと痛む頭と体を押さえ、ルル・ベルは半身を床から起こした。さて、一体何がどうなったのだったか。くらくらする視界に顔をしかめつつ記憶を探る。
戦乱の最中、自分は必死に魔物の群れをかい潜って逃げ回っていた。だがそれも長くは続かず、追い詰められてとうとう逃げ場が無くなったところで、すぐそこにあった床の穴に飛び込んだのだ。着地に失敗しながらも上から見えない位置まで這い、自分を追って下りてくる影が無い事に安心して脱力し……そのまま気を失っていたのだろう。
迷宮で意識を手放すとは迂闊の極みだ。慌てて辺りを見回し、自身の荷物を探す。剣と盾はすぐそこに落ちていた。内心ほっと安堵しつつ装備し直し、残りの荷物と仲間の姿を探す。
荷物が落ちていたのは、床に入った大きな亀裂の隙間の中だった。ぴったりとはまり込んだポーチを引き抜き、腰のベルトにくくりつける。中身もどうにか無事だ。とはいっても、アリアドネの糸と獣避けの鈴くらいしか入っていないのだが。
さて、早く他の皆と合流しなければ……と立ち上がろうとしたルル・ベルだったが、ふと視界の端に気になるものを見つけて目を瞬かせた。荷物が挟まっていた隙間のすぐ横、壁の亀裂から伸びて床に広がるツタの中に、光るものがある。手を伸ばして拾い上げてみれば、それは金色の首飾りだった。
何となく気になり、掌に乗せて細部を眺めてみた。よく見てみればなかなか見事な造りをしている。あちこちに傷がついてみすぼらしくなってしまってはいるが、元々は高価な品だったのではなかろうか。それにこうして見る限り、丁寧に手入れされている事が窺える。きっと持ち主に大事にされているのだろう。
しかし、こんな所に落ちているとは、いったい誰の落とし物だろうか。首を傾げながら何気なく首飾りをひっくり返したルル・ベルは、そこに小さく刻印がされているのに気付いた。指でなぞり、刻まれた文字列を追う──。
「──え?」
思わず声を漏らしたのと、背後から足音が聞こえたのとは、ほぼ同時だった。
弾かれたように振り返る。いつの間に近付いてきたのか、そこには抜き身の突剣を持った海賊の男が立っていた。その顔を見上げたルル・ベルは背筋が凍えるのを感じた。乱れた前髪の奥から覗く瞳に、底冷えするような鋭い光が宿っている。その胸元にいつも光っている金色が、今は無い。
男は右手に握った突剣をそっと持ち上げ、ルル・ベルに向ける。その切っ先が指すのは彼女の手の中だ。
「それ(・・)を、」
薄く開いた唇から漏れた声は低く、それでいて異様なまでに静かだった。ルル・ベルを冷たく見下ろしながら、インディゴは告げる。
「返してもらおうか。……大事な物なんでね」
「──、……」
ルル・ベルはひとつ息を呑み、ゆっくりと首飾りを差し出した。彼女の手から望みの品を引ったくり、身につけ直そうとしたインディゴだったが、留め具が壊れてしまっている事に気付いてその手を止めた。舌打ちをひとつこぼし、腰に下げていた袋の中に首飾りを突っ込む。突剣の切っ先は既に床を向いている。ルル・ベルが慎重に立ち上がっても、インディゴはちらりと視線を寄越すだけで特に何も言わなかった。
ドレスについた汚れを払い落とす彼女に、インディゴが溜息混じりに声をかける。
「よりにもよって二人だなんて、ツイてねえな。……いや、むしろ良かったか。ここに弩持ちの小娘なんかがいたらそれこそ殺し合いだ」
「…………」
「で、どうする? 一緒に行くかい。俺としちゃ目も耳も手足も四つあった方が助かるが」
「……そう、だな。仲間と合流するまで……」
「じゃ、そういう事で。行くぞ」
返答も待たずに、インディゴは踵を返して歩き出す。その背中をルル・ベルは少しの間じっと見つめていたが、すぐに我に返ると早足で追従した。同時に荷物から獣避けの鈴を取り出して封を切る。擦れるような鈴の音にインディゴは一度だけ振り向き、小さく鼻を鳴らした。
薄暗い通路に二人分の足音が響く。頬を撫でる空気は冷たく、充満する濃い潮の匂いも相まって異様な不気味さが漂っているように思える。鈴の音のおかげか、魔物の気配も感じられない。深海に二人きりで取り残されたような錯覚に、ルル・ベルは腹の奥が冷え込むような感覚を覚えた。
通路の突き当りは分かれ道になっていた。インディゴは悩んだ末、左側の道を行く事に決めたらしい。相談もせずさっさと先に進んでしまう彼を、ルル・ベルは無言で追う。
数分歩いたところで男の足は止まった。選んだ道の先は行き止まりだったのである。舌打ちして引き返そうとした彼は、数歩分の距離を置いてついてきていたルル・ベルを見て顔をしかめる。
「何だよ、言いたい事があるんなら言ったらどうだ?」
返事は無い。はああ、と盛大な溜息を吐き、インディゴは少女の横を通り抜けて元来た道を戻っていく。
ルル・ベルはすぐには後を追わず、しばしその場に立ち止まったまま彼の姿を眺めた。結い上げた濃藍の髪が左右に揺れるのを細まった目で追いながら、ゆっくりと足を踏み出す。
先を行く規則的な靴音は時を刻む針の音にも聞こえる。ひとつ、ふたつ、みっつとそれを数えて彼女は深く息を吸い、意を決したように口を開いた。
「妾の、父の話だが」
唐突に切り出された話題にインディゴは無言で応じた。反応が無いのを確認しながら、ルル・ベルは静かに続ける。
「父は一国を統べる王であったが、王としては変わったお方だった。俗な言葉で言えば「太っ腹」なのだろうか……功を立てた者に、褒美と称して王家の宝をすぐに与えてしまうのだ。価値の高い指輪や耳飾り……国宝と呼ばれるような貴重な品まで」
「…………」
「父は必ず、宝物に相手の名を刻んでから下賜していた。誰にでも読める文字ではなく、王族にしか読めぬ暗号でな。何か意味があったとも思えぬゆえ、戯れのようなものだったのだろう」
ぴたり、と。インディゴの足が止まった。微動だにしない背中に、彼女は淡々と──本当に淡々と聞こえているかは分からないが、努めてそう振る舞いながら──語りかける。
「そうして褒美を与えられた者の中に、キングストンという姓の貴族がいた。十数年前に権力争いの中で血筋が途絶え、家も取り潰されたが……その直前に嫡子が消息不明になっている。家宝の装飾品と共に、だ」
ひとつ呼吸を置いた。冷えた空気が喉に突き刺さる。重い唇を開き、普段より低く響く声で、ルル・ベルは告げる。
「刻んであったな。その首飾りの裏に」
ゆっくりと、男が振り向く。何の感情も浮かばない横顔の中で鮮やかな青い瞳だけが寒々とした色を湛えている。逸る鼓動を抑えながら、その瞳に問いかけた。
「そなた……何者だ?」
静寂が辺りを包む。無音だけが薄暗い通路に満ち満ちる中、男は僅かに目を細めた。
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