【SQ3】13 海底に星は見えるか
第四層・深洋祭祀殿。かつて深海に沈んだ海都の祭祀場だったというそこは、現在はフカビトの巣窟となっている。
『セレスト・ブルー』にとって初めてのフカビトとの邂逅は、見つけた抜け道を地図に描き残して探索を切り上げようとしたその時に起こった。遺跡の暗がりから飛び出してきた、水色の肌を持つ人と魚の合いの子のような魔物……初め、一行はそれが何なのか分からなかった。分からないながらも応戦しようと武器を取ったところで、たまたま同行していたマキナが声を上げた。フカビトです、と。そこで初めて、目の前にいるそれがフカビトだと気付いたのである。
「何か、ちょっといい匂いするね……」
ベロニカが小首を傾げて呟く。彼女の目の前に転がっているのは星術の炎に焼かれて丸焼きになったフカビトだ。体格からしてオスの個体だろうか、鉾を構えて味方を守る戦法を取っていた一体である。
「やっぱりこれ食べたら焼き魚の味するのかな」
「たべれるのか?」
「あーっ駄目駄目! ティル! そんな得体の知れないもの食べたらお腹壊すよ!!」
「お前ら静かにしろっての!」
一喝すれば、二人は揃ってはあーいと返事をして大人しくなる。メスと思わしきフカビトの死骸を突剣でつついていたインディゴは、呆れたように溜息を吐いて荷物を担ぎ直した。
「緊張感が無えな……これから先、そいつらみたいなのがわんさか出てくるんだろ? 気をつけろよ、ただの魔物とは違うんだから」
「そうなの? 外見が人に似てるだけかと思ってた」
「否定します。フカビトは魔物には無い高度な知能を有しています」
ガショガショと足音を立てながらマキナが近付いてくる。戦闘時に取り外した腕パーツを装着し直しつつ、彼女はフカビトたちを指し示して言う。
「しかし、これらはフカビトの中でも位の低い個体と思われます。分かりやすく言い換えると、下っ端の使い走りという事です。この状態から進化し、強大な力を得た個体も存在しています」
「へえ、もしかして戦った事あるの?」
「否定します。マキナは箱入りアンドロですので、フカビトに関する知識はすべて又聞きもしくは文献によって得たものです」
「そ、そう……」
何故か胸を張るマキナにレイファは何とも言えない顔をして頷く。その間にインディゴが彼女と似たような表情で荷物からアリアドネの糸を取り出した。フカビトが危険な存在である事はよく分かった。今日のところはひとまず探索終了だ。明日以降も長時間の探索は避け、街へ帰って装備を整え直しながら進んでいった方が良いだろう。
五人──正確には四人と一体とオオタカ一羽──で広げた糸の内側に入る。一瞬のうちに視界が光に包まれ、一行は樹海入口へと帰還した。さて借家に帰るかと街へ一歩踏み出したところでマキナがふと口を開く。
「先程の戦闘時に、内部システムの軽微な動作不良を確認しました。システム修正のために自己メンテナンスを行いたいのですが、海都の設備では適切なメンテナンスが行えません。そこで一度マスターの家……もとい、ネイピア支店へ戻りたいのですが、同行して頂いてもよろしいでしょうか」
「同行? ……ああ、ひとりじゃ行けないんだったか」
マキナには自由に単独行動できないよう制限がかけられている。誰かがついていなければ三軒隣にも行けないのだから不便極まりない制限だ。当然、深都に行くのにも誰かが同行しなければならないのだが、今の状況で『セレスト・ブルー』の誰かが堂々と深都に顔を出すのは気が引ける。
しばし考え込み、インディゴは唸るように答える。
「まあ、誰に行かせるかは帰ってから考える。それまで待っててくれ」
「了解しました」
素直に頷いたアンドロに肩を竦め、改めて歩き出す。まだ時刻は昼過ぎだ。狭苦しい借家に戻ったらお茶でも淹れて、それからゆっくり考えれば良いだろう。マキナに誰を同行させるかも、第四層の探索計画も、これからの身の振り方についても。
◆
深都の市街地はいつも通り、沈黙ばかりが満ちている。
第三層最深部での出来事を受け、深王は海都との交流を絶つとの決定を下した。冒険者の受け入れは変わらず続けるようだが、これで両都市間の関係は破綻してしまったと言っても良いだろう。
深王は報告に赴いた『カーテンコール』に、起きてしまった事は仕方ない、と言った。また、もうひとつ頼みたい事があるため英気を養い次第もう一度顔を出せ、とも。しかしその言葉に従って天極殿星御座に向かう気力は今の『カーテンコール』には無かった。
「何度でも言いますけど、私は反対ですよ」
どこか青い顔をしたアルフレッドが呟くように言う。ライディーンは神妙な顔で顎を擦った。例の事件から三日経つが、この男はずっとこの調子なのだ。……否、アルフレッドだけではない。ここ数日、ギルド全体の雰囲気が異常だ。
「深都を拠点にするのも、深王に協力するのも反対はしません。だけど、他の冒険者と対立するっていうのは違うでしょう」
「おれだってそう思うさ。だが……」
「あなたがそう思っていても、パーニャやシナトベさんは違う」
口ごもるライディーンを俯きがちに見て、アルフレッドは溜息を吐いた。扉越しに宿屋の娘が廊下を歩いていく気配。ぱたぱたと軽い足音が遠ざかれば、壁かけ時計の秒針が時を刻む音ばかりが四方の壁に反響する。嵐のような出来事に振り回されて弱った精神に、無機質な静寂はあまりに毒だ。
「ライディーン。あなたも悩んでいるのは分かります。けど、あなたは騎士ですから……何があっても主を守ると決めているんでしょう」
「……すまないとは思っているよ。去ると言うのなら止めはしない」
「私だってそこまで薄情ではありませんよ。でも深王に力を貸すのではなく、冒険者を排除するのが目的になってしまうなら、私は協力できません」
彼だってあんな調子になってしまっていますし──そう言ってアルフレッドは壁の方向に視線をやる。壁一枚隔てた先の隣室では、タマキがベッドに横たわって物思いに沈んでいる筈だ。ライディーンも思わずといったように溜息を吐く。一度様子を見に行ったが、あれは酷かった。恐らく今もあの数秒後に死ぬのではないかという顔で虚空を見つめている事だろう。
「……まあ、タマキは私が適当に励ましておきます」
「励ましでどうにかなるかな……」
「とにかくあなたはルル・ベル様たちの方をよろしくお願いしますよ」
手元ばかり見ていたアルフレッドが、顔を上げてライディーンと視線を合わせた。彼の紫色の瞳にはいつになく真剣な光が宿っている。
「『セレスト・ブルー』と……殺し合いになるような事だけは避けてください。私の望みはそれだけです」
「……分かってる。そっちも頼んだ」
頷き返して部屋を出る。扉を閉めてゆっくり三歩進んだところで、ライディーンはああ……と声を漏らして天井を仰いだ。ああは言ったが、これから平穏に事が収まる展開がまったく想像できない。パーニャはあの海賊への敵意を剥き出しにしているし、シナトベは平然とした態度のまま笑顔で相手を殺しにかかるだろう。ルル・ベルが諫めれば止まるかもしれないが、そのルル・ベルも今は。
と、そこで微かな足音が聞こえてくるのに気付き、彼はふと振り返る。背後の廊下の突き当たりにあったのは、部屋着のワンピースに上着を羽織った主の姿だ。ぎょっとした風に固まるルル・ベルに向かって、ライディーンは顔をしかめて歩み寄る。
「ルル・ベル様? おひとりで一体どこへ……」
「……外の空気を吸いたかったのだ。宿の裏手に出るだけなら、ひとりでも問題あるまい」
「しかし、」
「大声を出せば聞こえる距離だ。……部屋でひとり考え事をしていると気が滅入る。見逃してくれぬか」
弱々しい声で懇願してくる主の姿にライディーンは眉を下げて小さく呻いた。それから少々お待ちください、と呟いて素早く先程の部屋に戻り、ベッドの上に畳まれていた毛布を手に取った。アルフレッドの困惑に満ちた視線を浴びつつ廊下に戻り、ルル・ベルへ毛布を差し出す。
「お風邪を召さないよう……」
「ああ……ありがとう。行ってくる」
ぎこちない笑みを返して去っていく主の細い背中を見送り、ライディーンは小さく息を吐いた。彼女の平穏と幸福ばかりを願っていた筈なのに、気付けば余計にこじれた状況まで追い込まれてしまっている。
せめて少しでも心休まる時間があれば良いのだが。廊下の向こうに消えたルル・ベルを思い、彼はもう一度天井を仰いだ。
宿の外に出たルル・ベルは、ライディーンに告げた通り建物の裏手へ向かっていた。深都は海都と同じで土地の高低差が激しく、坂や階段が多い。宿の裏にも短い階段があって、そこからは深都の街を一望できるのだという事を、彼女はパーニャに教えられて知っていた。
辿り着いた場所からは、聞いていた通り街の景色が綺麗に一望できた。遥か頭上から射し込んだ淡い陽光が古びた青い屋根の群れを照らしている。階段に腰を下ろし、毛布を膝にかけてぼんやり景色を眺める。どこか近くの民家から小気味いい音と香ばしい香りが漏れてきている。遅めの昼食でも作っているのだろうか。何とはなしに考えて、停滞した空気を吸い込んだ。
深都では屋外にいても風を感じる事がほとんど無い。海中なのだから当然と言えば当然なのだが、少々寂しさを感じるのも事実だ。そして寂しさと、同時に遥か遠い祖国への望郷の思いも湧いてくる。白く輝く王宮、花の咲き誇る庭園、城下から聞こえる喧騒……すべてが懐かしく、思い出すたびに刺すような痛みが胸を刺す。
故郷を追われてから、もう一年が経とうとしている。
閉じ込められた屋敷から命からがら逃げ出し、差し向けられる追手を避けてここまでやって来た。思えば随分と遠くまで来たものだ。多くの危険を乗り越えてこんな海の底まで辿り着いたというのに、求めてやまない安息の時は未だ手に入れられそうもない。それどころか余計に悪い方へ進んでいってしまっている気がする。自分ひとりでならまだしも、従者やついてきてくれた仲間たちまで巻き込んで。
「妾が間違っていたのだろうか……」
ぽつりと呟いた。間違っていたとして、いったい何を間違えたのだろう。海都行きを決めた事? 深王に協力した事? ──数度会っただけのギルドを信じてしまった事? 深い溜息を吐き、膝に顔を埋める。たまたま利害が一致して協力していただけで元々仲間でも何でもないと言われれば確かにそうだが、それでも裏切られた気分になってしまうのは決してわがままではないだろう。
ふと上空を見上げる。街を覆う深海の色は、時に夜空の色にも似ている。そこには月も星も無いが、その静謐がルル・ベルは好きだった。地上ではちょうど太陽が傾き始めた時間帯だ。海面から射し込んだ光が濃紺の海を淡く照らし、同時に濃い影を落とす。揺らめく光のグラデーションを見ていると気分が落ち着いた。深く呼吸し、波立つ胸の内を抑えるように目を凝らして頭上の海を見つめる。
近付いてくる重い足音に気がついたのは、そうしてしばらく経った頃の事だった。ライディーンが追いかけてきたのかと慌てて振り返ったルル・ベルだったが、その予想は外れていた。足音が聞こえてきた方向に立っていたのは見知らぬ機械人形……アンドロだったのである。
水色の髪をした少女に似た姿をしたアンドロは、赤縁の眼鏡越しにこちらをじっと見つめている。ルル・ベルは困惑に上擦った声で彼女──ひとまず声から判断して「彼女」だと仮定する──に問うた。
「あの……妾に何か用だろうか……」
「否定します。アナタに用事があるという訳ではありません。しかし、深都でアナタのような格好のニンゲンを見るのは珍しいので立ち止まって観察していました。お気に障ったのなら謝罪します」
「いや、気に障ってはいないが……」
言葉を交わす間もアンドロは瞬きをしない目でじっとルル・ベルを見ていた。オランピアと会話している時もそうだが、アンドロに視線を向けられるとどうも落ち着かない。思わず視線を彷徨わせるルル・ベルにアンドロは小首を傾げ、ところで、と口を開く。
「アナタは海都から来た冒険者、という認識でよろしいでしょうか。先程も申し上げた通り、アナタの格好は深都の住民のそれとは異なっているように見えますので」
「……まあ、そうだな」
現在の境遇はともかく、海都から来た冒険者というのは間違ってはいない。ルル・ベルが肯定すれば、アンドロはふと上空を見上げてしばし静止し、それから改めてルル・ベルに向き直る。
「アナタを親切な冒険者と見込んでひとつお願いしたい事があります。マキナは以前から海都の冒険者たちと接触し深都についての所感など詳細にお聞きしたいと常々思っていたのですが機会に恵まれずにいました。というのも海都で積極的な情報収集を行えばマキナがアンドロである事が露呈し余計な混乱を引き起こす恐れが」
「す、すまぬ、もう少し分かりやすく伝えてくれ」
「深都の事をどう思いますか?」
「どう思う……」
オウム返しに呟いたルル・ベルに、アンドロはひとつ頷く。ひとりと一体はそのまましばし見つめ合った。何とも言えない空気が流れる。やがて微動だにしないアンドロの視線に耐えかねたルル・ベルはああ……と漏らし、ぎこちなく自身の隣を指さした。
「とりあえず……座るか?」
アンドロは自らをマキナと名乗った。先程のやり取りではまったく分からなかったが、どうやら彼女は深都で生まれたアンドロとして、外から来た人間がこの街に抱く印象が知りたかったらしい。
「御覧の通り、深都は閉鎖的で停滞した街です」
ルル・ベルの隣に腰かけ、眼下の青い街並みを見下ろしながらマキナは言う。
「海都から切り離されて百年、一切の変化が無かった街、と言って差し支えないでしょう。マキナは最近になって深都の外に出るようになり、地上に比べて深都はいかに代わり映えのしない場所なのかと驚きました。ですので、逆に地上からやって来た方々は深都をどう思うのか、比較する目的でお話を聞きたく思った次第です」
「成程……その気持ちは妾にも分かるぞ」
自分も祖国にいた頃は、外からやってきた旅人や商人たちの声が気になっていたものだ……とは流石に言わなかった。思わず過った懐かしい記憶を溜息で脳裏から吹き飛ばしつつ、ルル・ベルは答える。
「そうだな……変化に乏しい街というのは確かにそうかもしれぬ。だが言い換えればそれは安定しているという事だ」
マキナがこちらを振り向く。その視線には応えず、ルル・ベルは顔を上げて街の向こう側に目をやった。深都を照らす光源は弱く、か細い。街を囲む白い砂浜はぼんやりとした闇に包まれ、空気のドームがどこまで広がっているのかも判然としない。深海の闇に目を凝らしながら、彼女は続ける。
「安定……独立、とも言うべきか。何者にも左右されず、ただこの地にあって自らの役目を果たし続ける……それが善い事なのかは、妾からは何とも言えぬ。だが妾はそんな深都の在り方を尊ぶべきものだと思うし、」
少し、羨ましい。
呟くように言えば、どこか怪訝そうな視線が返ってくる。ルル・ベルは取り繕うように微笑み、マキナの方を向いた。真正面から見たアンドロの顔は思っていたよりあどけなく、自分と同じ年頃の少女のそれに見える。
「とにかく、妾はこの街が嫌いではないぞ。陽の光が恋しくなる事もあるが、この街の空(・)も……それはそれで良いものだ」
もう一度、上を見る。水で満たされた暗い空は一見すると重く、沈鬱にも見えるが、よくよく見てみるとさまざまな色が混ざり合った美しい藍色をしているのだ。射し込んでくる陽の光以外にも、深海の濃い青や世界樹の幹や葉の色、微かな街の灯り。それらの淡い色彩が水で満たされた空間に溶け込んでは拡散し、深都の空の色を生み出している。それを、美しいと思う。
上手く説明できないながらもそう告げれば、マキナは深く頷いた。
「成程。詳細にお答えいただき、感謝します」
そう言って、彼女は鋼鉄の頬に微笑を浮かべた。初めて見るアンドロの表情の変化に目を丸くするルル・ベルに、アンドロの顔がずいっと近付けられる。思わず仰け反ると、眼前の白い顔が僅かに傾いた。小首を傾げてマキナは静かに問う。
「……元気は出ましたか?」
「何?」
「マキナがアナタの姿を見つけた時、アナタは酷く落ち込んでいる様子でした。マキナにはニンゲンのメンタルケアの経験はありませんが、他者との対話により精神的な負担が軽減される場合があるという知識は持ち合わせていましたので、情報収集も兼ねて対話を試みました。如何でしょう、精神的ストレスは軽減されましたか?」
ルル・ベルは思わず口をつぐんだ。言っている事は難解でよく分からないが……このアンドロはどうやら、落ち込んでいる自分を見兼ねて声をかけてくれたらしい。確かに彼女と話している間に先程の陰鬱とした気分は少し晴れたようだ。至近距離で覗き込んでくるマキナの顔を見返す。人工の瞳の奥に、温かく光る何かが見えた、気がした。
……そういえば、ギルドや探索、ミッションとは関係ない相手とこうした他愛もない話をするというのは随分と久々だ。そんな事をしている場合ではない、と頭のどこかで理性的な自分が囁く。しかし、同時にこのアンドロとの対話で心癒された自分も存在している事に、ルル・ベルは気付いていた。
ぐいぐいと額を近付けてくる彼女の肩をそっと押し返し、少々困惑しつつも笑って応える。
「う、む……そうだな。元気は出た。気遣い感謝する」
「それは良かったです。マキナも安心しました」
と、そこでマキナはふと頭上を見る。何かあるのかとルル・ベルがその視線を追う前に、彼女は時間のようです、と呟いて立ち上がった。
「マキナは「ツレ」を待たせていますので、そろそろお暇します。アナタとお話ができて良かったです、ルル・ベル。それでは」
「あ……待ってくれ」
ガショガショと足音を立てて去っていこうとしたマキナを、ルル・ベルは思わず呼び止めた。くるりと振り返ったアンドロの青い瞳を見つめて、彼女は問う。
「そなたはどこで暮らしているのだ?」
「詳しくはお教えできませんが、現在の活動拠点は海都です。深都には自己メンテナンスのため定期的に訪れています」
「そうか……」
ルル・ベルはそっと背後の建物を指さした。示した先を素直に覗き込むマキナに、彼女は告げる。
「妾はそこの瞬く恒星亭に滞在している。また時間があった時にでも、訪ねてきてくれ。妾もそなたの話を聞きたい」
「……! そうですか。では、またの機会に、きっと」
にこり、と口許に笑みを浮かべ、小さく手を振るとマキナは今度こそ立ち去っていく。鋼鉄の背中が角を曲がって消えていくのを見送ったところで、ルル・ベルは振り返していた手を下ろした。ひとつ息を吐き、当初より幾分か晴れ晴れとした表情で立ち上がる。
思いがけない遭遇だったが、彼女と話ができて良かった。もしあのままひとりで物思いに耽っていたら、気分転換どころか余計な事ばかり考えてしまっていただろう。降って湧いた幸運に感謝しつつ、彼女は迷いのない足取りで宿へと戻っていく。いくら気分を変えたところで目の前に積み上がっている問題の量は変わらないが、それでも。それらの問題に正面からぶつかっていくための活力を少し得られただけでも、今の自分にとっては大きな前進だ。
◆
聴覚センサーが微かな足音を捉えたのは、マキナが軽やかな足取りで通りを抜け、郊外のだだっ広い砂浜に出たちょうどその時だった。振り向いて音の出所を確かめれば、背後から音もなく近付いてくる姿が目に入る。マキナは体ごと彼に向き直るとぺこりと頭を下げた。
「感謝します、カゲチヨ。同行していただいたお陰で無事にメンテナンスを完了しました」
「ああ」
「用事が終わるまで待たせてしまい、申し訳ありません」
「構わない」
小さく応え、カゲチヨは顔を隠していた頭巾と口布を外す。マキナが深都を訪れるにあたって、インディゴが同行者として選んだのが彼だった。とりあえず頼めば何でもしてくれるから……ではなく、単純に深都の人間に見られないよう隠密行動できるからという理由である。
深都から随分離れたこの場所には自分たちの他に人の姿は無い。もう人目を憚る必要も無いだろう。素顔を晒して警戒を解いたカゲチヨと並んで樹海磁軸を目指しつつ、マキナは背後の深都を振り返って口を開く。
「ゲートキーパー討伐の際に敵対したという集団は確認できましたか? マキナにはそれらしき存在は認識できませんでしたが」
カゲチヨは横目にマキナを見た。『セレスト・ブルー』がゲートキーパーに挑んでいる間の事を、マキナは又聞きでしか知らない。補助デバイスである「ボット」のみを仲間に託し、彼女自身は海都で拠点の留守を預かっていたためだ。
故に、彼女は知らない。『カーテンコール』の存在も、ルル・ベルが自分たちと敵対関係にあるという事も。
何度か瞬きを繰り返し、カゲチヨは視線を前に戻して呟くように答える。
「確認できた。拠点の位置も割れた」
「そうでしたか。あの滞在時間でそこまで調べられるとは、流石のマキナといえど驚かざるを得ません」
素直に感嘆しているらしいマキナの言葉には応えず、カゲチヨは僅かに目を細めて黙り込んだ。砂を踏む微かな音だけが周囲に響く。脚パーツの隙間に入り込んだ砂を叩き落としながら歩くマキナに、彼はぽつりとこぼす。
「今日の事は誰にも言うな」
「……? 今日の事とは?」
「少女と話をしただろう」
マキナは首を傾げてカゲチヨを見た。自分を見下ろす金の瞳をじっと見つめ、何事か考えた後で彼女はようやく頷く。
「了解しました。アナタがそう仰るという事は、それは重要度の高い事柄であると判断します」
「……ああ」
それからしばらくの間、二人が口を開く事はなかった。歩く地面は柔らかく沈み込み、気を抜けば足を取られてしまいそうだ。ふたつ分の足跡が残ったそばから崩れた砂に埋もれて薄れていく。
「ところで、ひとつお聞きしたいのですが」
マキナがそう言ったのは、砂浜を抜けて林の中の磁軸に近付いた頃だった。振り向いたカゲチヨに彼女は心なしかそわそわした様子で問う。
「マキナはマスターがご存命の時代も深都の住民との交流はほとんど存在せず、アナタ方に出会った後もギルド及び海賊団以外のニンゲンとの関わりは持っていませんでした。ですので今日の彼女との対話が実質的に初めての他人(・・)との関わりという事になると思うのですが、どうでしょう。マキナと彼女との関係は、いわゆる友人関係と定義できるものでしょうか」
長く早口で聞き取りづらいマキナの言葉を、カゲチヨは黙って聞いていた。どう思いますか、と首を傾げたマキナから金色の視線を逸らし、彼にしては珍しく僅かに眉根を寄せて答える。
「友人とは……一度会話しただけでなれるものではないように思う」
「そうなのですか」
「いや、俺にも分からない……」
「ニンゲンの関係性とは難しいものなのですね」
しみじみとした感想にカゲチヨもそうだな……と頷く。これもまた彼にしては珍しい、複雑な感情の滲んだ呟きであったが、マキナがそこに触れる事は無かった。むむむと唸ってしばし考え込み、ぽんと手を打ち合わせて彼女は再び口を開く。
「では、次に会った時に友人になれるかどうか彼女本人に打診してみる事にしましょう。マキナはデキるアンドロですので、友人関係とは一方的な認識ではなく、相互の認証によって成り立つものだと理解しています」
「……そうか」
神妙に応えたカゲチヨに満足げに頷き返し、マキナは磁軸へと向かっていく。
聳え立つ樹海磁軸は天を支える柱のようにも見える。その根本に立ち、頭上を見上げた。世界樹の上から射す光は、街外れのこの林までは届かない。まっすぐに伸びる赤い柱は頭上の黒い海に呑み込まれている。星の光の存在しない夜空にも似た海底はただただ黒々としていて物寂しい。しかしマキナは知っている。眼鏡──視覚補助デバイス越しの彼女の瞳に映る海底は、人間の認識するそれより遥かに壮大で美しいのだ。
降り注ぐマリンスノーを掻き分け、奇妙な形をした魚が泳いでいく。暗がりで時折瞬くのは深海に棲む生き物が発する光だ。人やアンドロの到達できない闇の中に存在する生命の営みを見るのが、マキナは好きだった。だから、嬉しかったのだ。たとえ同じ世界が見えていなくとも、この空を好きだと言ってくれる人間がいた事が。
「きっと、彼女とは良いトモダチになれます」
抑揚の少ない、しかし弾んだ声でそう言うマキナの背中を見て、カゲチヨは何か言おうとした。しかし結局何も言わずに口を閉ざし、そのまま磁軸に触れる。二人の姿が一瞬のうちにその場から消え去り、辺りには誰もいなくなった。
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