【SQ3】16 思い出のあなた

 いよいよ吐きそうだ。アルフレッドはきりきりと痛みだす胃を押さえると、ひとつ息を吐いて目の前の光景に視線を戻す。そこにいるのは言い争う二人の少女だ。

「だからー。そう大声出されるとまた魔物が来るじゃん。静かにしてってば」

「何よ偉そうに! あと勝手に主導権を握るなっ!」

 ぎゃんと吼えたパーニャに、ベロニカはフ……と悟ったような表情を浮かべて肩を竦める。

「だって地図持ってるの私だし。そういえばアムリタ持ってる? なんか頭疲れちゃったから飲みたいんだよね」

「こっこの……! なんてふてぶてしい……!」

「もうやめてくれよ……アムリタは私のをあげるから……」

 アルフレッドがそう言って力無くアムリタの瓶を差し出せば、ベロニカはにっこりと笑って受け取った。同時に、ただでさえ険しかったパーニャの表情が憤怒を帯びたそれに変わっていく。もうここまでくるといつ武器を取って矢弾をぶち込んでくるか分からない。

 アルフレッドは探索に参加してしまった事を悔やんだ。そもそも本来ならば今日は休みの筈だったのだが、前日の探索でライディーンが腕を痛めてしまったために急遽駆り出される羽目になったのである。それなのに今日に限って『セレスト・ブルー』には遭遇してしまうし、パーティーは離散してしまうし、何故こうも間が悪いのか。

 今にも倒れそうな顔色のアルフレッドを気にした様子もなく、地図を広げたベロニカがうーんと唸る。

「他の皆どこ行っちゃったんだろ。私たちも穴に落ちるべきだったかなあ」

「はあ? バカじゃないの?」

 刺々しい声でパーニャが言う。アルフレッドの顔はどんどん生気を失っていくが、少女たちはそんな事はお構いなしである。

「この辺りは下に落ちたって行き止まりばっかりじゃない。どうせこの階に来なきゃ合流できないんだから、待ってた方が良いに決まってるわよ」

「それはそうだけど、こんな状況になるなら仲間の誰かと一緒が良かったなってだけ。あなたに殺されるかもだし」

「何よ、元はといえばアンタたちがこっちを騙してたのが悪いんでしょ!」

「それはそう。ま、悪くてなんぼだよねー。陸にいるって言ったって海賊だしさ」

「くうう……この期に及んで開き直るなんて……!」

 と、そこで角の向こうからやって来る気配に、アルフレッドは慌ててパーニャの口を塞いで壁際に寄る。掌の下でもごもご言っていた彼女も彼の意図に気付くとすっと大人しくなった。ぺたぺたと軽い足音を立てて歩いてきたライチョウは、三人の存在には気付かずそのまま通り過ぎていく。

 魔物の姿が見えなくなってからようやくアルフレッドはパーニャの口許から手を離す。素早い動きで彼から離れたパーニャは、若い階層の魔物くらいなら射殺せそうな目をしながら弩に手をかけた……が、ひとまず撃つのは見送ってくれたらしい。得物から静かに手を離すパーニャを見て内心冷や汗を垂らしつつ、アルフレッドは話題を変えるためベロニカに向き直る。

「アムリタが要るって言ってたけど……疲れているなら少し休んでも構わないよ。星体観測は私がやるから」

「え、いいの? じゃあお言葉に甘えちゃお」

 返ってきた言葉にはパーニャに向けていたような棘は無い。パーニャも不機嫌極まりない様子ではあるがひとまず文句は無いようだ。星術機を停止させて壁に背中を預けるベロニカを見て、アルフレッドは思わず安堵の息を吐く。

 生き別れの妹だと気付いてしまってからはなるべく顔を合わせないようにしてきたが、久々の会話がこんな状況下で行われるとは夢にも思わなかった。しかし、こうして後衛職ばかり取り残された危機的状況でも、まず彼女たちと戦闘にならなかった事に安心してしまうのだから手遅れだ。

 もし今、魔物に襲われたとしたら、自分はどちらの少女を庇うだろう──訪れるかもしれない未来を想像して憂鬱になりながら、アルフレッドは周囲の観測を続ける。

 掌に映し出される光のレーダーに反応が現れたのは、数分が経ったときの事だった。また魔物かと顔をしかめて反応を確かめるアルフレッドだったが、直後にうん? と首を傾げる。

「あれ、なんか……足が速いな。あ、まずい来る」

「はあ!? アンタ何やって、……っ!」

 パーニャが慌てて弩を構えた時には、曲がり角から伸びる影が見えていた。何か行動を起こす間も無く、近付いてきた何者かが突き当たりに固まっていた三人を覗き込む。

「……いやカゲチヨじゃん」

「そうだが」

 拍子抜けしたように呟いたベロニカに静かな声が返る。近付いてきた影の正体……普段より血やら何やらで汚れた格好のカゲチヨは、ひとまず肩の力を抜く三人の顔を見回して何度か瞬きをした。

「やはり分断されたか」

「うん。そっちもひとり?」

「ああ。他を捜しに行く」

 塞がって間もない傷の残る脇腹を気にしながら答えた彼に、ベロニカは困ったような表情を浮かべた。手負いの彼をひとりで向かわせるのは気が引けるが、かといって同行しても邪魔になるだけだろう。しばし悩んだ後、彼女は膝に置いていた地図を丸めてカゲチヨへ差し出す。

「じゃあこれだけ持っていきなよ。今いる場所がここね」

 と、そこでベロニカはアルフレッドとパーニャを振り向いた。じっと見つめてくる少女の瞳に耐えかねたアルフレッドが荷物に手を伸ばすより先に、パーニャがその中からメディカの瓶を掴み取った。一緒に取り出した鉛筆で瓶のラベルに何事か書き込み、カゲチヨに押しつける。

 流されるまま受け取ったシノビを睨み、彼女は地を這うような声で言う。

「ルル・ベル様を見つけてきて……ルル・ベル様に何かあったら殺す……」

「そうか」

 特に動じた様子もなく頷き、神妙にメディカを受け取ってカゲチヨはその場を立ち去っていく。あっという間に見えなくなった後ろ姿を見送り、パーニャは重い重い息を吐いて膝を抱えた。その姿を横目に見たベロニカとアルフレッドは顔を見合わせ、肩を竦めてまた各々休憩と観測に戻る。三者三様、それぞれ何だかんだ厄介なものを抱えているようである。


   ◆


 ──……てください。起きて……。

「う……ん……?」

 体を無遠慮に揺さぶられる感覚に眉をひそめながら、タマキは重い瞼を開ける。輪郭のぼやけた視界に大きく映り込んだのはのっぺりとした白いものだ。

 少しの間ぼんやりとしていた彼だったが、白いものの正体が少女の顔だと気付くとすぐさま目を見開いて飛び起きる。

「うおわああ!?」

「覚醒を確認。損傷の有無を確認しますので、そのまま動かないでください」

 至近距離から聞こえてきた無機質な声に目を白黒させていたタマキだったが、傍らに座っているのが見覚えのあるアンドロだと気付くとひとまず正気を取り戻した。体に異常が無い事を確かめ、息を整える。

 人工の瞳をちかちかと発光させながらタマキを見つめていたアンドロが、ふと顔を上げて首を傾げる。

「申し遅れました。マキナはマキナと申します」

「え? あ、ああ……俺はタマキ……」

「存じています。……簡易サーチを完了しました。アナタの肉体に異常は見られません。移動の準備が整い次第、可及的速やかに離脱する事をお勧めします」

 タマキはしばし困惑したように目を瞬かせ、ふと頭上の大穴を見上げてあ、と口を開けた。こうしてはいられない。自らの頬をぺちぺちと叩いて頭にかかる靄を振り払う。

 傍に転がっていた二本の刀を拾って立ち上がった彼を先導するようにマキナ前に出て、進行方向を指さす。

「上階に続く階段はあちらにあります。目立った魔物の気配はありませんが、もし接敵した場合、マキナは戦力にはなり得ませんのでご了承ください」

「そうか……」

 物理的にも心理的にも微妙な距離を置きながら、ふたりは薄暗い通路を歩いていく。ガショガショと音を立てるアンドロの足許を何とも言えない目で見つめながら、タマキは気まずさを払拭するためおずおずと口を開いた。

「お前はどうして俺のところに? 気を失う前にはいなかった……よな」

「肯定します。アナタに付き添っていた理由は、頼まれたため、と言うのが適切でしょうか」

「はあ、誰に」

「カゲチヨです」

「オア……ッ」

 奇妙な呻き声を上げ、タマキはその場に崩れ落ちた。完全に不意打ちで飛び出した名前にどっと汗が吹き出す。脳裏に過るのは穴に落ちて気を失う前の出来事だ。やってしまった。もう二度と近付かないつもりだったのに、つい手を出してしまった──あの程度の魔物、彼なら自分が割り込むまでもなく対処できると分かっていた筈なのに。

 マキナが怪訝に振り向いて首を傾げるが、男はうずくまって頭を抱えたまま動かない。見かねて近付いてきたマキナに指先でつつかれても無反応だ。もう一度、今度は反対側に首を傾げ、マキナは彼の肩を揺する。

「どうしましたか。体が痛みますか」

「……い、いや……すまない……何でもないんだ……」

「何でもないようには見えませんが」

 鋼鉄の掌をそっと押し返し、タマキはようやく顔を上げた。マキナは文字通りの鉄面皮にどこか気遣わしげな表情を浮かべて立っていて、その顔を見ると何となく罪悪感のようなものが湧いてくる。

 盛大な溜息を吐いて立ち上がり、気を取り直して歩き出した。とにかくこの場所を脱出しなければならない。沈んだ表情で足を進めるタマキの横に並び、マキナは追い打ちをかけるように問う。

「マキナはカゲチヨに、アナタがギルドの仲間と合流するまで付き添うよう頼まれています。が、先程の様子から推測するに、アナタにとって彼の依頼は不都合であった、という認識でよろしいでしょうか」

「あああ……いや違……そうではないんだ。来てくれて助かっている。ただ……」

 不自然に口をつぐんだタマキの次の言葉を、マキナは無言で待った。眼前の薄暗がりの中にぼんやりと浮かんでいた上り階段の輪郭がはっきりと掴めるようになってきたところで、ようやく彼は今にも消え入りそうな声で二の句を継ぐ。

「あれだけ言っておいて結局助けられてしまう自分が、情けない……」

「あれ、とは何を指すのか理解しかねますが、何であれ危機的状況で助け合うのは当然の事ではありませんか」

 マキナの素朴な言葉にタマキはそうではないと言いたげに力無く首を振った。問いかけには応えず、俯いたまま呟くように言う。

「ここで俺が喋った事は、誰にも言わないでくれ」

「承知しました。ご安心ください、マキナは約束を必ず守るアンドロです」

 大真面目な顔で頷くマキナをちらりと見て、タマキは僅かに苦笑する。血の通わないアンドロの言葉を、彼は信じる事にした。もし彼女が約束を違えたとしてもそれはそれで構わない。どうせ言葉ひとつで何か変えられるような状況でもないのだ。どうだって良い。もはや、何もかも。

「あいつは俺の事を何と?」

「あいつ、とはカゲチヨの事でしょうか。彼はマキナにアナタに付き添うよう指示しましたが、その際にマキナに与えられた情報はアナタの名前と性別、そして穴に落下する直前の状況のみでした。マキナからもお訊きしたいのですが、アナタ方は知り合いなのですか?」

「……あいつは俺の側仕えだったんだ」

 側仕え、とマキナが繰り返す。彼女にひとつ頷くと、感情の無い声でタマキは続けた。

「家の跡取りにはお付きのシノビがひとり与えられるのが慣例だったからな。でも俺は正直、従者なんていらなかった。それよりもっと気安く話ができる……ともだちが欲しかった。だから……」

「だから?」

「ともだちになれ(・・・・・・・)と命じた」

 マキナはしばし沈黙し、それからゆっくりと首を傾げて口を開く。

「その言動はマキナの認識するトモダチの定義とは合致しないように思いますが」

「だろうな。俺もそう思う」

 苦笑した、というにはあまりにぎこちない声色で男は応える。その視線は目の前の階段にばかり注がれていて、マキナの存在など眼中に入っていないかのようだった。この場に他の誰かがいれば彼の虚ろな眼差しに不安か恐怖か、それらに似た感情を抱いたかもしれないが、幸か不幸かアンドロであるマキナはそういった本能的な感覚を持たなかった。ただ表情や声の調子から読み取れる違和感がセンサー越しに伝わるのみである。

 少し高い位置にある横顔をじっと見て首を傾げる彼女に気付いているのかいないのか、タマキは独り言のように呟く。

「ふざけた命令に長く付き合わせて、あげく異郷の地に放り出して一方的に別れたのだから、憎まれて当然だ。だがあいつが俺の知らない場所で仲間を作って過ごしてきたのだと思うと、裏切られたように感じる。勝手な事だと分かっているのに」

 ひとつひとつ噛みしめるように言葉を紡ぎながら、上り階段に足をかける。通路脇に生える植物が放つ淡い光は階段までは届かない。タマキの顔を濃い陰が覆う。輪郭のぼやけた唇が微かに開く。

「本当に、ともだちになりたかったんだ。今もそう思っている」

 ぽつりとこぼれた言葉は、ひどく弱々しく狭い空間に響いた。マキナは自らに搭載された電子頭脳から、今の彼にかけるべき適切な言葉を検索しようとした。しかし探せども探せども相応しい言葉は見つからず、結局彼女は道端に転がった石のように黙り込む事しかできない。

 ふたつ分の足音が階段を跳ね回っては消えていく。海底に沈んだ迷宮の空気は重く湿っている。もしマキナに呼吸器があったなら、喉にまとわりつく感覚に息苦しさを覚えた事だろう。

 階段を抜けた瞬間、ふたりの耳に力強い羽ばたきの音が届いた。天井近くを旋回する茶色の鳥を見上げ、マキナが言う。

「ティルのオオタカです」

「ああ、あの獣使いの……」

 オオタカはばさばさと音を立てて降下するとマキナの頭の上に止まった。黄色い嘴が水色の頭を何度か叩く。それから翼を広げて通路の向こうへ飛び去っていく……かと思いきや、彼女はすぐに壁際の出っ張りに降り立ってこちらを振り返った。気のせいでなければ、ついて来いと言われているような気がする。

 先に歩き出したタマキを、マキナも追う。途中で飛び出してきたソードフィッシュを、男は一閃のうちに斬り伏せた。刀を収めて何事も無かったかのように歩いていく背中を見てマキナは首を傾げ、しかし何も言わずに彼の後ろを歩き続ける。


   ◆


 振り向いた男は、しばしの間ルル・ベルを見つめ続けていた。引き結ばれた唇が開く気配は無い。ただ注がれる視線に真っすぐに応えながらも、ルル・ベルは背中に滲んだ汗の温度をありありと感じていた。沈黙が耳を刺す。体にまとわりつく空気は重く、息苦しさも相まって深海の水に圧し潰されているような錯覚さえ覚える。

 だが、永遠のようにも感じられた静寂を打ち破ったのもまた彼だった。小さな吐息と共に、引き結ばれていた唇が薄く開く。

「やはり、殺しておけば良かった、と」

 こぼれ落ちた声は落ち着いてはいるが、その裏には不穏な何かが渦巻いていた。青い目をすっと細め、インディゴは静かに続ける。

「これほどまでにそう思ったのは今が初めてだ。……爺やの後ろに隠れて震えてた小娘がよくもまあここまで育ったもんだな。そこだけは褒めてやるよ──陛下に免じてな」

「ッ、やはり……」

 ルル・ベルは唇を噛んだ。ドレスの裾を握りしめ、呻くように呟く。

「やはりそなたか、アーチボルド(・・・・・・)……」

「その名で呼ぶな」

 返る声は低く鋭い。これまでとは違い明確な憎悪と殺意のこもった目でルル・ベルを睨みつけ、男は体を反転させて振り返った。その手に握られた突剣が持ち上がりかけたが、思案するように弧を描いた剣先は宙を彷徨った挙句どこにも向かずに床を指した。長く息を吐いて腕を組み、彼は少女を見下ろす。

 ルル・ベルは奥歯を噛みしめた。死んだだろうと聞かされていたが、まさか生きていたとは。「アーチボルド・キングストン」は、ルル・ベルの故郷の貴族だった男だ。父親同士の親交が深かったため幼い頃に何度か顔を合わせていたが──あまりに雰囲気が変わっていたため気付かなかった。

 目を伏せて呼吸を整えたルル・ベルは、彼に向き直ると改めて問う。

「貴族の嫡子であったそなたが何故、海賊に?」

「貴族だろうが何だろうが、一度落ちぶれたらなりふり構っちゃいられねえさ。俺は生き延びるために海賊になったし、なったからには今更やめる気もない」

 はっきりとした口調で言い切り、インディゴはひとつ息を吐いた。どこか無気力な仕草で頭を掻く彼の佇まいは海の荒くれ者というには妙に芯が通っている。

 ルル・ベルが続けて何か問おうとするのを、インディゴは待てよ、と遮る。

「一方的に人の秘密を暴き立てるとは、ずいぶん趣味が悪いな? ルル・ベル王女殿下。この俺にそこまで言うんだったら、あんたも何故ここにいるのかくらいは話すべきじゃないのか?」

「それは……」

「ま、あらかた予想はつく。どうせ弟王子でも担ぎ出されて引きずり降ろされたんだろう」

 少女は圧し黙った。それを無言の肯定と捉えたのか、インディゴは肩を竦めて皮肉な笑みを浮かべた。その姿を見たルル・ベルの口許がぐっと歪む。

 彼の言った事は間違っていない。王位継承者であったルル・ベルが国を追われてこんな南の島国にまで逃げてきたのは、弟王子を担ぎ上げようとする一派に謀反を起こされたがためだ。王族のみならず多くの貴族も巻き込んだ内乱は、ルル・ベルたち前体制側の敗北に終わった。そうして王宮を追われ、幽閉されていたところを従者たちに連れ出され……追手の目を搔い潜ってようやく彼女はアーモロードまでやって来たのだ。

 俯いて黙り込んだまま動かないルル・ベルにインディゴは肩を竦めて告げる。

「ま……今はどうでもいいさ、そんな事はな。で、お前はいったいどうするつもりだ? 俺の過去を暴いて、それで?」

「妾は……」

「昔のよしみで仲良くやろうってんならお断りだぜ。知ってるだろうが、俺はお前が嫌いなんだ」

 抜き身の突剣の先端が微かな音を立てて床を引っかいた。くすんだ翡翠色のタイルに残る細い傷跡を目で追いながら、彼は静かに語り続ける。

「第一迷宮でお前の名前を聞いた時は肝が冷えたよ……しかもいっぺん出会っただけでもヒヤヒヤしてたっていうのに、それから何度も何度も顔を合わせるもんだから余計に気が気でなかったさ。だが、途中からこうも考えるようになった。これはチャンスだ(・・・・・・・・)」

「…………」

「俺にとってお前は、捨てた筈の過去からやって来た刺客だ。お前を利用して叩きのめして、それで俺はようやく過去を征服できる。過ぎた事に足を取られて未来を奪われる前に、しがらみを断ち切って、真に自由になる……ってな」

「……世迷い言を」

「本気に決まってるだろ」

 鼻で笑いながら応え、インディゴは踵を返した。こちらに背を向けて再び歩き出す彼を追い、ルル・ベルも足を進める。

 そこまで言っておきながら何故いま殺そうとしないのか、と問おうとして、ルル・ベルは口をつぐむ。恐らく彼はこの状況でも足がつくことを危惧している。事に及んだ際のメリットとデメリットを秤にかけて、後者がより大きく傾いたがために行動に移さないだけだ。

 だが、それにしては。新たに浮かんだ疑問を、今度は飲み下さずにそのまま口に出す。

「ならばその首飾りも棄ててしまえば良かっただろう」

 インディゴは一度足を止め、首だけでルル・ベルを振り返った。感情の浮かばない顔で少女を見つめ、彼は言う。

「俺に死んだ親を思う心があっちゃいけないのか?」

 ルル・ベルが言葉に詰まっている間に、男は前を向いて歩き出してしまう。

 キングストン家の当主とその妻は、ひと月と間を空けず立て続けに逝去している。確たる証拠は無いが、恐らく謀殺だっただろう。そして悪しき思惑をもって夫妻を手にかけた何者かは、残された息子をもその毒牙にかけようとした。その結果が家の断絶と……「アーチボルド」の失踪だ。

 彼がこうまでして自身の過去に関わるものを拒むのは、そのように謀略に巻き込まれてすべてを失った経験のせいなのかもしれない。けれど、とルル・ベルは思う。本当にすべてが忌まわしい記憶なのだろうか。綺麗な思い出のひとつくらい、残ってはいないのか。親の形見を胸元に飾るのと同じように、大事に抱えている記憶が。

 自分を憎むなと言いたい訳ではない。ただ、ルル・ベルの記憶にある祖国はいつも美しく、民の笑顔で満ちていて……たとえ権力を巡った醜い争いが行われたとしても、その輝きは確かに存在していたと、知っているから。それらもまとめて唾棄すべきものだと切り捨てられるのは、あまりにも。

 そして、何より。

「……妾が幼い頃……」

 インディゴは振り返らない。話を聞いているのか聞いていないのか、変わらない速度で歩き続ける彼の背中に、ルル・ベルはか細い声で続ける。

「父上に連れられて、キングストンの屋敷を訪れた時……そなたは庭園に咲く花を摘んで、妾に手渡してくれたな。桃色の愛らしい薔薇を……贈り物だと言って、物語に出てくる貴公子のように」

「…………」

「妾はそれが、本当に嬉しかった……」

 沈黙が落ちる。靴の裏が石畳を叩く音だけが変わらないリズムで耳を打つ。しばしの間を置いて、男はぽつりと呟いた。

「覚えがないな、そんな話」


 階段を上りきったところで、見慣れた人物と出くわした。インディゴが僅かに表情を緩め、彼に声をかける。

「チヨ! 他の奴はどうした?」

「ベロニカは見た。南の通路の突き当りで待機している」

 いつもの調子で答えるカゲチヨだが、その全身は血で汚れている。返り血かと思ったが、どうやら本人が流した血も少なからず混ざっているらしい。仲間を捜すついでに魔物やらフカビトやらを倒して回っていたら何度か傷を負ってしまった、との事だった。

 単独行動をしている身で何故そうも好戦的に戦いを仕掛けていくのか。相変わらず何を考えているのかよく分からない。手負いの割には平然としている彼に呆れた表情でメディカを渡し、インディゴが言う。

「じゃ、そこに行くか。放置しとくのもまずいしな」

「ああ。……貴女も一緒に」

「妾も?」

 ルル・ベルが驚きと共に問い返せば、カゲチヨは静かに頷く。

「弩使いの娘が、貴女を捜してくるようにと」

「もしや、パーニャもベロニカと一緒にいるのか……?」

「これを預かっています」

 カゲチヨはそう言いながら、腰のポーチから薬瓶を取り出してルル・ベルに手渡した。それは何の変哲もないメディカの瓶だったが、よく見てみれば瓶のラベルには馴染みのある字で無事を願う言葉が切々と書き込まれていて、ルル・ベルは思わず苦笑する。

「手間を取らせたな」

「……とにかく行くぞ。また魔物に絡まれても面倒だ」

 言葉の端に苛立ちを滲ませながら言い、インディゴは歩き出す。二人もその後を追った。獣避けの鈴の効果もそろそろ切れる頃合だ。早く行動するに越した事は無い。

 道中に残る戦闘の痕跡を確かめながら目的の場所へと向かう。先程までの混戦の様子とは対照的に周囲の空気は静まり返っていて、どことなく不気味だ。あれだけ集まってきていた魔物もフカビトもどこへ行ったのだろう。これだけの時間で全員どこかへ行ってしまったとは流石に考えにくいが。

 足早に通路を抜け、突き当たりの角を覗き込む。いちばん近い場所にいたベロニカがあっと顔を上げると同時に、パーニャが飛びつくようにしてルル・ベルに駆け寄った。

「ルル・ベル様!」

「うむ。互いに無事で何より……他の者は?」

「まだ会ってないですね。流石にこの面子で捜しに行く訳にもいきませんでしたし」

 言葉の端に安堵を滲ませながらアルフレッドが応える。ルル・ベルはそうか、と頷いた。確かに後衛三人だけで迂闊に歩き回るのは危険だろう。

「でもこれだけ揃ったなら動いて大丈夫なんじゃない? 行こうよ、心配だしさあ」

 インディゴにじゃれついていたベロニカがそう言って星術機を起動させる。文句を言う者はいなかった。……パーニャはインディゴを険しい表情で睨んでいたが、彼女も今のところは事を波立てようというつもりは無いようだ。

 六人揃って迷宮を進み、曲がり角やら床の穴やらをしらみ潰しに覗き込んでいく。しかし残りの仲間の姿は無く、時折警戒した様子の魔物が通り過ぎていくばかりだ。早々に見切りをつけ、まだ見ていない西の通路に足を向けようとした、その時だった。星体観測で周囲を確認していたベロニカが声を上げる。

「待って。何か近付いてくる」

 少女の固い声に他の面々も武器を構えた。星術機が示した方向、東に伸びる通路の向こうから、重い足音が響いてくる。

 薄暗がりを引き裂くように現れた巨体は、見覚えのあるフカビトの戦士のそれだ。突剣を低く構えたインディゴがベロニカに問う。

「他に魔物は?」

「今のところはいないみたい」

「迎撃する。焼き魚にしてやれ」

「はーい」

 場にそぐわない気の抜けた声で返事をすると、ベロニカは星術機を展開して迫ってくるフカビトに術式を放つ。近接戦闘を行うフカビトが術式に弱いというのは上位個体も同じであるらしい。青い肌がジュウと音を立てて焼け焦げた。

 肌を焼く炎を振り払って駆け込んできた兵士の剣を避けたインディゴが、異形の瞳に向かって刺突を繰り出す。狙いを逸れた切っ先が口許を覆う金属を抉った。返す刃で反撃しようとしたフカビトの上腕を矢弾が貫く。F.O.Eもびっくりの憤怒の顔で弩を構えたパーニャは、ひとつ舌打ちをするともう一発、今度は胴を狙って矢弾を撃ち込む。

 命中したヘビーショットがフカビトの脇腹を抉る。防御が崩れた一瞬の隙に、死角に入り込んでいたカゲチヨが無防備な足許へクナイを突き刺した。影縫が敵の足首を絡め取る。動きを封じられたフカビトを、星術師ふたりが立て続けに放った術式の炎が襲う。が、まだとどめを刺すには至らない。

 もう一度パーニャが矢弾を撃ち出そうとする……が、ふと何かに気付いて手を止めた。彼女の頭上を通り過ぎ、文字通りフカビトの頭に飛びかかったそれは、翼を広げたオオタカだ。

「……ティル!」

「うおー、オレだぞー!」

 応える声は背後から聞こえてきた。振り返ってみれば、槍を振り回しながら駆けてくる少年の周りには捜していた仲間たちの姿が勢揃いしている。そちらに気を取られていたベロニカを守るようにレイファが前に出て防御の構えを取った。そのまま勢いよく振り抜かれた尻尾を徒手で受け流す。

 険しい表情で辺りを見回しながら、レイファは隣にいたインディゴに問う。

「また襲われたの!?」

「いや、なんか来たから迎え撃った」

「どうしてそんな事するの!」

 悲鳴めいた叫びにインディゴは肩を竦める。普段ならば言い訳のひとつやふたつ、いくらでも出てきただろうが、流石に戦闘中とあっては口も回らない。

 前衛が合流した事で戦線が安定し始めた。一気呵成に畳みかける『セレスト・ブルー』の姿を少し離れた場所で見ていたルル・ベルは、改めて矢弾の準備をしていたパーニャの袖をそっと引く。驚いて振り返ったパーニャに、彼女は静かな声で告げた。

「深都に帰還する」

「……いいんですか?」

 ルル・ベルはひとつ頷いた。はぐれていた仲間が集合し、危機を脱した以上、二つのギルドが一時休戦して協力し合う必要はもう無い。このままフカビトを倒して一息つけば、元の敵対した状態に逆戻りだ。その前にひとまず離脱し、この場では争いを避けるのが最善だろう……自分たちにとっても、彼らにとっても。

 パーニャが弩を下ろし、仲間を傍に集める。『カーテンコール』がアリアドネの糸を広げて迷宮を脱出しようとしている事に『セレスト・ブルー』も気付いていたが、誰もそれを止めようとはしなかった。戦闘の喧騒を背後に転送術式が起動する。

 ……転移の光に包まれる『カーテンコール』の姿を、物陰から見ていた者がいた。マキナである。彼女は脱出していく『カーテンコール』を見て、それからフカビトにとどめを刺す『セレスト・ブルー』を見て、何事か考え込む様子を見せる。

 やがて戦闘を終えた仲間たちに呼ばれるまで、マキナはその場に留まってじっと何かを考え続けていた。

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