【SQ3】深層航路

 熱──おぞましいほどの熱量が、視界の端から端を駆け抜けた。思わず呆けたその一瞬に目前まで迫っていたそれを、インディゴは避けきれなかった。咄嗟に目を瞑る。瞬間、体が浮いた。投げ飛ばされたのだと気付いたのは受け身も取れないまま床に叩きつけられた後の事だ。

 全身の痛みに呻きながらも手を伸ばし、石畳を跳ねた突剣を握り直す。鉛のように重い半身を無理に起こして振り返った。先程まで自分がいた場所に男がひとり倒れている。

「──治療!」

 掠れて裏返った声で叫べばレイファはすぐに飛んできた。襟巻の端にくすぶっていた炎を踏み消し、倒れ伏すカゲチヨをひっくり返して口許を覆っていた布を剥ぐと彼の胸に両の手を押し当てる。気功の淡い熱が止まりかけていた呼吸を引き戻した。僅かに開いた唇の奥から弱々しい咳が漏れるのを確かめ、彼女は手早く傷の治療に取りかかる。

 雷獣が高く嘶いた。頭が割れるような衝撃が辺りに広がる。まだ立ち上がれないインディゴの元にティルが駆けてきて、蓋の開いたメディカの瓶を差し出した。礼を言う余裕も無いがありがたく受け取って飲み干す。

 獅子王が轟と吼えて魔物の胴に掴みかかっていくのが見える。どうやら追い込まれているのはあちらも同じであるらしい、突き立てられた爪を振り払おうとする肢の力は先程までと比べると随分と弱い。あと一手、止めの一手があればすぐにでも戦いは終わるだろう──そしてその一手は、こちらの手の内にある。

「伏せてッ!!」

 少女の甲高い声が響く。インディゴが咄嗟にティルの腕を掴んで床に伏せさせるのと同時に、空気が大きく鳴動した。ベロニカが高く掲げた掌の先、上空から巨大なエーテルの塊が飛来する。流星にも似たそれは瞬きひとつの間に雷獣へと降り注ぎ、そして炸裂した。巻き起こった衝撃が頭上を通り過ぎていく。

 全てが収まった後、そこにあったのは息絶えて崩れ落ちた雷獣の姿だった。インディゴの腕を抜け出して立ち上がったティルがそちらへ歩み寄り、追い討ちと言わんばかりに投げ出された頭へ槍を振り下ろした。そこでようやく緊張が解ける。駆け寄ってきたベロニカの頭を帽子ごと撫で、インディゴも立ち上がって辺りを見回す。カゲチヨがレイファの手を借りて身を起こしているのを確認し、ほっと息を吐いた彼だったが、すぐに表情を険しくすると背後を振り返った。

 剣士と機械兵との戦いはまだ続いていた。互いに満身創痍で、しかし一歩も譲らない様子を見せていた彼らだったが、こちらの戦いが終わった事に気付くと揃って振り返った。クジュラの表情が僅かに緩む。

 反面、機械兵の声は固く鋭い。

「……ここまでの強さとは計算外」

 剥き出しの兵装もそのままにこちらを向いたオランピアの目には、冷たく燃える炎が宿っていた。


   ◆


 海賊という生き物は、とにかく宴会というものが好きである。セレスト・ブルー海賊団においてもそれは例外ではなく、愉快な野郎どもは何かにつけて飲み食い歌い騒ぐのを好んだ。何故かと問われてもそういうものだからとしか答えられない。身も蓋もなく言ってしまえば、結局のところ全員馬鹿なのである。

 今夜の宴会には珍しく海賊団の全員が揃っている。どうやら今日は海都の祝日か何かであったらしく、それぞれ働きに出ていた船員たちも全員が早上がりで帰されたのだ。突然の休みが嬉しいのはいつの時代でもどこの誰でも共通である。そういう訳で舞い上がった野郎どもはいつにも増して元気に騒いでいた。

 不明瞭な罵声と笑い声が飛ぶ。大騒ぎの中心では酔っぱらい二人が何やら取っ組み合いの喧嘩を始めていて、一方がもう一方に攻撃を食らわせるたび、周囲から声援やら野次やらが嵐のように飛んだ。争いに巻き込まれた酒瓶が中身を撒き散らしながら転がる。観衆の何人かがもったいねえ! と叫び、床にこぼれた酒を直に舐め取った。もはや全員正気ではない。

 喧騒を遠巻きに眺めていたウィリーが、手元の安酒を舐めながら他人事のように呟く。

「こりゃ明日がやばそうだ」

「何が? 掃除が? 酔っぱらいが?」

 隣でチーズの欠片をつまんでいたベロニカが問いかけた。ウィリーはしばし考えてから答える。

「両方」

「みんなはどーせ潰れて寝てるんだから良いでしょ。いっつも私たちが片付ける事になるんだもん。ねーカゲチヨ」

 ベロニカにそう投げかけられ、ウィリーを挟んで反対側に座っていたカゲチヨは神妙な顔で頷く。酔っぱらいどもが暴れた後の片付けに駆り出されるのは、酒を飲まない彼やベロニカだ。それなのに好き勝手言ってさ~と文句を垂れるベロニカに、ウィリーはすかさず小さな包みを手渡した。包装を解いてみれば、中に入っていたのは海都ではそこそこ名の知れた名店の焼き菓子だ。

 途端に機嫌を直して菓子を頬張りだす少女に苦笑するウィリーの元に、ずんずんと近付いてくる男がひとりいた。インディゴである。彼はまだ開けていない酒瓶を片手に大股で歩いてくると、通り過ぎざまにウィリーの背中を勢いよく蹴りつけた。鈍い悲鳴が響く。

「痛っ……てえなオイ!! どこ見て歩いてんだ!」

「狙って蹴ってんだよ。さっさと邪魔なケツどけろ」

 気だるげに言い放ち、インディゴはウィリーを無理やりどかせると彼とカゲチヨとの間に割り込んで腰を下ろす。ウィリーは盛大な舌打ちをこぼしたが、それ以上は何も言わずにコップをあおった。ベロニカが呆れた顔でインディゴを見る。

「ほんと横暴なんだもん。カゲチヨ、一回ちゃんと言った方がいいよ。隣にいられると暑苦しい、って」

「チヨはそんな事思ってませ~ん。それに俺はそこのヒゲ眼鏡と違って暑苦しくないで~す。なっ、そうだよな?」

「そうなのか……」

 蚊の鳴くような声で呟くカゲチヨの表情には明らかに覇気がない。彼の肩に手を回してなんだよ元気ねえな~と絡み始めたインディゴであったが、ふと何かを思い出したように動きを止めた。

「あー忘れてたわ。おいウィリー、これ」

「あん?」

 振り返ったウィリーは、眼前に突き出されたインディゴの手と、その内に握られた物を見てぎょっと目を剥いた。促されるまま受け取ってよく見てみれば、それは紛れもなく一丁の銃だ。それも、ただの銃ではない。

「先代(オヤジ)の銃じゃん、それ」

 ウィリーの脇から彼の手元を覗き込んでいたベロニカが呟く。インディゴは肩を竦めた。彼女の言う通りこの銃はセレスト・ブルー海賊団の先代船長が愛用していたもので、代替わりと同時にインディゴが受け継いだ、いわば船長の証のような品である。言うまでもなく大事な物だ。射撃はからきしなインディゴが、常に肌身離さず携帯している程には。

 顔をしかめつつも銃を手に取るウィリーに、インディゴは溜息混じりに告げる。

「それ預けとくわ。で、もしもの事があったらお前のもんって事で」

「……もしもの事があんのかよ」

「そんなの予測できたら誰も困らねえよ」

 どこか諭すような響きの返答にウィリーはますます表情を険しくする。しばしそうして黙っていた彼だったが、やがて盛大な溜息をひとつ吐き、分かったよ、と呟いて銃を懐に収めた。それを見たインディゴはふんと鼻を鳴らすと再びカゲチヨへと絡みだす。

 酔っぱらい特有の面倒な絡み方をするインディゴと覇気どころか生気も無くなりつつある顔で対応するカゲチヨとを横目に、ウィリーはベロニカへ目をやった。彼の青い視線に少女は可愛らしく首を傾げて、それから小さな声で応えた。

「死ぬ気とかはぜんぜん無いよ」

「知ってらァそんな事!」

 うんざりしたように叫び、男はコップに残っていた酒を一気にあおる。ベロニカはなんで怒ってるの? と訊こうとして、寸前で思い留まった。ウィリーはこうなると面倒臭いのだ。変に絡まれてカゲチヨの二の舞になる前に退散するのが吉だろう。

 そそくさと立ち上がって部屋を出る。宴会の準備でお疲れのレイファとティルが二階で休んでいる筈だから、そっちに行こう……と階段の方向へ歩き出したベロニカだったが、あるものに気付いて思わず声を上げた。廊下の隅に白い人影が佇んでいる。

「……って、マキナじゃん。びっくりした……」

「マキナです。驚かせてしまったようであれば、謝罪します」

「別にいいけど。こんなところで何してるの?」

 マキナが立っているのは特に何がある訳でもない、廊下の途中だ。

「何かをしているという訳ではありません。強いて言うなら休息を取っていました」

「そう……」

 何故廊下で、と怪訝に思ったが、そもそも彼女は立ったまま微動だにしない状態を「休息」と呼ぶような存在である。本人が休んでいたと言うのならば、確かにそうなのだろう。ひとまず納得したベロニカはマキナの横を通り抜けて階段に足をかける。

「じゃあ私、上に行くから。あんまり皆おどろかせちゃ駄目だよ。酔っぱらいが騒ぐとうるさいから」

「了解しました。……」

 軽やかな足取りで上階へ消えていくベロニカの背中を、マキナはじっと見つめる。宴の喧騒が響く薄暗い廊下に、瞬きをしない青い瞳がぼんやりと浮かんでいたが、ベロニカがその光景を振り返る事はなかった。

 夜はまだまだ長い。宴会は正気も狂気も呑み込み、際限なく続いていく。


   ◆


 白亜の森での探索にもようやく慣れてきた。鏡面のように周囲の風景を反射する床、視界を阻む霧、行く手を阻むぬかるみ。いずれも面倒な仕掛けだが、対処法を頭に入れて気を付けて進みさえすれば案外どうにでもなる。

「……と思ってたけど、これは……」

 レイファが困惑したように呟き、傍らに立つ赤い柱を撫でた。まっすぐに聳えるそれは、迷宮の各所に立つ不思議な形状の門を支える柱だ。

「鳥居だ」

 と、そう言ったのはカゲチヨである。彼曰く、この謎の門は彼の故郷でも見られるものであるらしい。鳥居という名のそれは神を祀る場所とそうでない場所との境界に立つもので、つまりそこから先が神聖な場所である事を示す符号なのだという。成程、この森は海都にとっては聖なる土地であるという事だし、そういったものがあっても不思議な事ではないだろう。

 しかし、とインディゴが首を傾げる。

「その鳥居ってのは、潜ると瞬間移動するようなもんなのか?」

「……いや……そんな事は無いが……」

「じゃあ何なんだ、これ」

 カゲチヨは僅かに眉根を寄せて沈黙する。そう訊かれても困る、とでも言いたげな彼の様子に、他の面々も神妙に黙り込んだ。話を分かっていなさそうなティルだけが、退屈そうな顔で獅子王のたてがみを撫でている。

 下を潜り抜けると他の場所に転移する不可思議な鳥居の事はさておき、ひとまず今日の探索のノルマは達成だ。少し離れた場所に見える下り階段が本物である事を確かめ、一行は顔を突き合わせて話し合いを始める。

「どうする? 先行く?」

「まだ体力にも物資にも余裕はあるけど……」

「とりあえず進めそうな所まで進んでおくか。糸出せるようにしとけ」

 異を唱える者はいなかった。装備を整え直し、階段を下りて先へ進んでいく。

 『セレスト・ブルー』に課せられたミッションは、白亜の森に侵入した深王の手からグートルーネを守る事だ。現在深王がどの場所にいるのかは分からないが、つい先ほどオランピアの妨害にあった事を考えると、少なくとも自分たちよりは先に行っていると推測するのが妥当だろう。

 モタモタしていると深王がグートルーネの元へ辿り着いて……などという事になりかねない。無理をしないというのは大前提だが、進められる内に探索を進めておかなければ。

「……それにしても難儀な事だな」

 階段を下りて少し進んだ先、またも現れた鳥居を慎重に潜りながらインディゴがぼやく。

「聞くに、グートルーネの兄貴って深王の事なんだろ? 兄妹で殺し合いなんて、ろくなもんじゃないな」

「そうだねー。でも深王も薄情だよね、妹の事忘れちゃうなんてさ」

「世界樹に魅入られ、記憶を消され……とか言ってなかった?」

「そんな力が世界樹にあるの?」

 ベロニカの問いに答えられる者はいない。以前マキナから深都やフカビトの事情について聞いた際に世界樹の意思がどうこうという話が出た覚えもあるが、それがどういった存在なのかはよく分からないままだ。意思というからには、思考したり人と言葉を交わしたりすることができるのだろうか。こちらからすれば世界樹など迷宮のおまけの馬鹿でかい樹にしか見えないのだが。

 インディゴが肩を竦め、口を開く。

「ま、本当に世界樹の意思っていうやつが実在するなら……」

 言いながら見つめるのは白く輝く森の奥、岩壁かと見紛うほどの存在感で鎮座する巨大な樹の表面だ。所々に茂る緑とそこに咲く白い花とを目を細めて眺めながら、彼は静かに呟いた。

「たぶんそいつは、びっくりするくらい性格が悪いだろうな」

 大量の鳥居が乱立しているせいで現在地が分かりづらい。ひとまず周囲の風景を手がかりに元居た場所からの距離を推測し、確認できる範囲の地図を作っていく。とにかく正確にマッピングできる範囲の地図だけ先に描いておき、後でパズルのようにはめ込んでこの階全体の地図を作ればいい、という魂胆である。面倒な事この上ないが、これ以上の方法が思い浮かばなかったのだから仕方ない。地道にやっていくしかないのである。

 尻尾が九本あるキツネの縄張りを抜け、周囲一帯の地図を書き終えた一行は、ふうと息を吐いて辺りを見回した。この辺りの鳥居を潜らずに探索できる範囲はこれで探索し尽くしてしまった。次に向かわなければならないのは、南側に立っている鳥居の向こう側だ。

「これさあ、オオタカに上を飛ばせたら位置の確認がしやすいんじゃない?」

「タカよぶか!?」

「あのな……そんな事したら目立つだろ。誰が見てるか分からねえんだぞ」

 そうかなあ、と顔を見合わせるベロニカとティルの背中を押し、インディゴは慎重に鳥居を潜る。樹海磁軸やアリアドネの糸を起動した時のような浮遊感が全身を包み、次の瞬間には周囲の景色は一変していた。辺りを見回してみれば、どうやらそこは小部屋の中であるらしい。

「マモノいないとこだ」

 次いで転移してきたティルが、開口一番そう告げる。迷宮の中には魔物が一切現れない特殊な空間が存在している事があるが、どうやらこの部屋もそのひとつであるらしい。つまり、この部屋も他の階の同じような場所と同様、野営地として利用できるという事だ。

 レイファがへえ、と表情を緩める。

「テントならあるよ。休んでいく?」

「あー、それも良いかもな。ついでに腹ごしらえでも……」

「待て」

 すっかり気を抜いて腰を下ろしかけたレイファとインディゴを、カゲチヨが止めた。驚いた二人が振り返れば、彼は部屋の中央に屈んで床を検分していた。

「野営の痕がある」

「……テントか」

 歩み寄って手元を覗き込みながら問うてきたインディゴに、カゲチヨはひとつ頷く。彼の指がなぞっている場所を見てみれば、確かにそこにはテントを張るためにペグを打ち込んだ穴がある。更に周囲を詳しく見てみれば、部屋を囲む茂みの中に燃え残った薪がいくつか捨ててあるのも確認できた。それも、まだ処理されてさほど時間の経っていない、ぐっしょりと濡れた薪だ。

 それはつまり、つい先程までこの場所で誰かが野営をしていた、という事だ。

 問題はその誰かが一体誰なのかというところである。深王やオランピアであるという可能性も無くはないが、それよりも。

「『カーテンコール』だな」

 インディゴの呟きにレイファの表情が曇る。背後で獅子王とじゃれていたベロニカとティルも動きを止め、じっと大人たちの動向を見守っていた。しばし重い沈黙が場を満たす。床に残る痕跡をじっと見つめながら考え込んでいたインディゴは、やがて小さく溜息を吐くと顔を上げた。

「今日はここで切り上げる。帰るぞ」

「いいの?」

「いいよ」

 応える声はどこか気だるげだ。レイファが曇り顔のまま荷物からアリアドネの糸を引っ張り出す。指示通り帰還の準備を始めた仲間たちを横目に野営の痕跡を見下ろしていたカゲチヨだったが、そっと立ち上がって床の穴を踏み消すとその場を離れた。


   ◆


 『セレスト・ブルー』の探索は滞りなく進んでいた。今のところ深王の手勢を遭遇する事もなく、白亜の森の複雑な仕掛けを抜けて順調に先へ進んでいた一行であったが、思いがけないハプニングとは得てしてこういう時にこそ訪れがちなものである。

 地下十九階──実際には地下ですらないのだが、便宜上そう呼ばれているフロア──の探索が間もなく終わるという時になって、それは起こった。

「……へっ……ふえっ……へぇっくしょい!!」

 盛大な衝撃にベッドが大きく揺れる。余波で倒れかけたコップを慌てて押さえ、レイファは思わずといったように苦笑した。

「あんたが風邪ひくのなんて久々だね」

「うー……しんどい……」

 口許まで布団をかぶったベロニカがずびび、と洟をすすりながら呻く。レイファは彼女の額に手をやり、体温を確かめた。高熱とまではいかないが、それなりに高い熱があるようだ。

 昨日の夜までは元気だったというのに一晩明けるとこの調子なのだから、つくづく病というのはいつやって来るか分からないからこそ恐ろしい。熱のこもった息を吐くベロニカの表情は明らかに苦しげで、できる事ならすぐにでも楽にしてやりたいところだったが、こういった症状を気功術で治す事はできない。栄養があるものを食べ、よく寝て治すしかないのである。

 濡れタオルを取り出したレイファにされるがまま汗を拭かれながら、ベロニカは顔をしかめてぼやく。

「何で急に熱なんか……」

「気付かないうちに疲れが溜まってたんじゃない? 色々あったもんね、仕方ないよ」

「……午後から探索行くの?」

「行くつもりみたいだよ。マキナを連れてくって」

 ベロニカが唇を尖らせる。レイファは手にしていたタオルを水に浸し直して軽く絞ると、綺麗に畳んで少女の額に乗せた。同時に部屋の扉が開いてインディゴが顔を出す。

「調子どうだ?」

「さいあく……」

「だってさ。あたし水換えてくるから、ちょっと見てて」

「はいよ」

 水を張った桶を抱えて廊下へ出ていくレイファを見送り、インディゴはよいしょ、とベッド脇の椅子に腰を下ろした。サイドテーブルに肘をついてベロニカを見下し、呆れたように笑う。

「急に熱出すなんて、まだまだガキだな」

「うるさいなー……」

「まあ大人しく寝てろよ。探索は適当に進めとくから」

 そう言ってインディゴは膨らんだ布団をぽんぽんと撫でる。ベロニカは不機嫌極まりない表情を浮かべて、ひとつ咳をした。

 さて、それにしても、ベロニカが抜けるとなるとどう連携を取るべきか。普段は他の面子で牽制している間にベロニカが練りに練った術式をぶつけて殲滅する戦法を取る事が多いが、マキナの能力では同じように戦うのは難しそうだ。カゲチヨを攻撃に回らせるか、それとも妨害や防御の手段を増やして耐久力の向上を図るか。悩ましいところである。

 何より、そろそろ対人戦を視野に入れていかねばならないし──と、思案していたインディゴの袖を、布団の下から伸びてきた指が引いた。改めてベロニカの顔を見てみれば、熱のせいか潤んだ紫の瞳が彼をじっと見ている。

「何だよ」

「私も探索行く」

「はいはい、治ってからな」

「治るまで行かないで……」

「無理に決まってんだろ……いつまでかかるんだよ」

 呆れて突っ込めば、ベロニカは不貞腐れた表情でだって……でも……とぶつくさ言い始める。インディゴは頭を掻いた。はて、これは一体どうした事か。海賊団の妹、怖いもの知らずのお転婆娘として常日頃から好き勝手している彼女であるが、こういった事を言い出すのは初めてだ。

 まあ、体調に引きずられて心も弱ってしまうというのは、大人でもよくある事だ。熱に浮かされて甘えたい気分になっているのだろう。それにしては甘え方の方向性が妙だが。内心首をひねりつつ、インディゴは改めてベロニカに向き直る。

「一体どうしたよ? 急にわがまま娘になりやがって」

 からかい半分に訊ねれば、ベロニカは眉間のシワをますます深くして口をもごもごとさせる。

「だって……探索行ったら、死ぬかもしれないでしょ」

「面子がひとり入れ替わったくらいじゃ死なねえよ」

「違うの。私を置いてかないで」

 インディゴの顔からふっと笑みが消える。掴んだ袖を強く握りしめ、少女はぽつぽつと続けた。

「死ぬのは嫌だけど、怖くないの。いつ死ぬか分からないのなんて、船の上でも同じでしょ」

「…………」

「でも皆が死ぬのに私だけ置いていかれるのは怖い……だから連れてって……」

 むずがるような声にすんすんと洟をすする音が混ざっていくのを、インディゴは僅かに目を細めて聞いていた。そのまま一度、何か言おうと口を開いたが、やはり何も言えずに息を吐いて目を伏せる。

 彼にしては珍しく、明らかに言葉を選んでいる様子だった。袖から剥がした細い指をそっと握り、インディゴは静かに告げる。

「俺は死ぬつもりも、死なせるつもりも無い。……勘弁してくれよ、お前にそんな事言わせちゃ先代オヤジに面目が立たねえ」

「インディゴ」

「……お前にそう呼ばれるのも久々だ」

 インディゴは懐かしげに呟く。昔はいつもそうやって名前で呼ばれていた。船長の座に就いてから「ただでさえ若くてナメられてるのに、こんな子供に呼び捨てされてるなんて知られたらもっとナメられるでしょ」と呼び方を改めるようになったのだったか。たった数年前の事である筈なのに、随分遠い過去のように感じる。

 懐かしい記憶に思いを馳せながら、インディゴはベロニカの頬を撫でた。汗ばんだ赤い目許に張りついた髪を除けてやりつつ、言い聞かせるように囁く。

「もう寝な。心配しなくても、お前ひとり置いていったりしねえよ」

「……ん……」

 やはり、随分と参っていたらしい。瞼を閉じさせてゆっくりと髪を撫でてやれば、喉の奥がつっかえたような苦しげな呼吸はすぐに規則的な寝息へと変わった。ベロニカが完全に眠りに落ちた事を確かめたインディゴは彼女の頭からそっと手を離すと、はあ、と吐息を漏らして片手で顔を覆った。


 インディゴとベロニカのやりとりを部屋の外で聞いていたレイファは、堪らず来た道を引き返して階下の廊下に座り込んだ。桶を床に置けば、はずみで中に溜めた水が跳ねて裾を濡らす。冷たい感触が服に染みて肌に張りつくのを感じながら、彼女はぐっと目を閉じた。

 ──急に、恐ろしくなってしまったのだ。命を懸けて戦わねばならない場面はこれまでに何度も経験してきた。海賊という身の上である以上、恐らく穏やかな死は迎えられないだろうという覚悟も、何年も前からできている。だが、それで自分が死ぬのは良いとしても、残される者はどうだろう。そしてその残される者が自分ではないと、どうして言い切れるだろう。

「……レイファ?」

 舌足らずに己を呼ぶ声に、はっと顔を上げた。廊下の向こうからぽてぽてと歩いてきたティルは、レイファの様子がおかしい事に気付くと心配そうに彼女へしがみついた。

「どうした? どっかいたいか?」

「っ……ううん、違う……大丈夫、ありがとね」

 取り繕うように笑って頭を撫でてやるが、ティルの表情は晴れない。むしろ殊更に強く額を押しつけてくる少年に思わず苦笑しながら、レイファは彼の肩を抱く。

「ねえティル……あんたは怖くない? 迷宮に行くの、嫌じゃない?」

「? こわくない! オレつよいから」

「……そっか」

「レイファはこわいのか?」

 素朴な問いに、レイファはすぐには答えられなかった。今自分が抱いている感情をそのまま伝えたところで、きっとティルには理解できないだろう。言葉に詰まった彼女の沈黙を、ティルは肯定と捉えたらしかった。得意げな笑みを浮かべて、だいじょぶだ、と告げる。

「オレがレイファまもる! だからこわくないぞ」

「────」

「だからレイファは……レイファ?」

 続く言葉を遮り、レイファはティルを抱きしめた。不思議そうな顔で身をよじるティルの薄い背中を抱き、絞り出すように呟く。

「ありがとう、……ごめん、ごめんね……」

 しばしレイファの腕の中でもぞもぞと動いていたティルだったが、そのうち収まりがいい体勢を見つけたのかスンと大人しくなって彼女の肩に頭を預けた。んふふ、と機嫌よさげに笑う少年の吐息を肩に感じながら、レイファはただただ己の無力を噛みしめた。

 怖い、もう嫌だ、と言ってくれれば良かった。そうであったなら、どんな手を使ってでも迷宮なんかには行かせなかったのに。

 いくら悔やんでももう遅い。ティルは幼いながらに心からレイファを慕い、守りたいと思っているし、レイファは大人の事情に足を取られて自由に動けない。もはや祈る事しかできないのだ。どうかその純真が報われるよう、彼が運命の荒波に何ひとつ奪われる事のないように、と。

 数時間後、探索が始まる。


   ◆


 どうやら随分と長く感じた白亜の森の探索も、いよいよ終わりが近付いているらしい。いよいよ踏み入った森の最奥は殊更に澄んだ空気を湛えていて、ひとつ呼吸をするごとに清涼な冷気が肺を満たす。清らかでありながら立ち入る者すべてを拒絶するようなその温度は、確かに「神聖」と言い表す他ない。

 その日の探索の最中、『セレスト・ブルー』は見慣れた人物に出会った。異国風の装束を纏った金髪の剣士──クジュラである。いつものように部下も連れずひとりで佇んでいた彼は、一行の姿を見ると驚いたように目を丸くし、それからふっと表情を緩めた。

「よく自力でここまで辿り着いたな。道中難儀しただろう」

「本当だよ。で、姫君はどこに?」

「具体的な場所は教えられないが……森の最奥だ。容易には見つけられない場所に身を隠していらっしゃる」

 クジュラはそこで一度言葉を切り、涼やかな視線を辺りへ巡らせた。周囲に自分たち以外の人影が無い事を確認すると、彼は僅かに声を低くして告げる。

「深王とその配下の機兵以外にも、この森へ侵入している者がいる。お前たちも知っているな」

「……まあな」

「今まさに、奴らもこの辺りまでやってきているようだ。こちらで対処できれば良かったが……深王の手が迫りつつある今、俺は姫様の警護を優先せねばならん。お前たちに頼めるか」

 その言葉は常のように冷淡でありながらも、どこか気遣わしげな響きが含まれていた。インディゴはちらりと背後の仲間たちを振り返り、それから肩を竦めて応える。

「そこまで言うんなら、従うさ。それより良いのか? 王家の森を冒険者なんかの血で穢して」

「今更だ」

 荷物から取り出した薬品一式を差し出しながらクジュラは苦笑する。

「既に血塗られた道だ。……脅威に抗い戦う事を罪だと言うなら、誰もが罪人だろう。俺も含めてな……」


 クジュラから受け取った物資といくつかの情報を整理しつつ、一行は野営場所で身体を休めていた。今日はまだ消耗が少ない。このまま探索を進めていっても問題は無いだろう。しかし、この状況においては探索の事だけ考えていれば良いというものでもない。焚き火にあたりながら地図を眺めていたインディゴがうーんと唸り、少し離れた場所でじっとしていたマキナに声をかける。

「どうだ、分かるか?」

「……否定します。全機能を広範囲センサーに集中させれば可能かもしれませんが、しばし戦闘を含む全行動が不能になります」

「それでもいい。くまなく調べてくれ」

「承知しました。サーチが終了し次第報告します」

 そう言ったきりマキナは石のように沈黙する。インディゴはその姿を横目に見て僅かに眉をひそめた。つくづくアンドロというのはよく分からない存在だ。しかし訳が分からずとも、彼女の持つ能力が有用である事は分かる。使えるものは徹底的に利用すべきだ。特に、今のような状況の中では。

 それにしても、とインディゴは手持ち無沙汰に地図の端を弄る。しばらくはこの場に留まってマキナの報告を待つ形になりそうだ。ひとつ息を吐いて弱まってきた焚き火に薪を足そうとした彼だったが、寸前でその手を止めた。この森の中で煙が上がっていると非常に目立つ。このまま燃え尽きるに任せてしまっていいだろう。暖を取らねば凍えてしまうという気温でもないし、万が一近くに魔物がいてもテントの傍で眠る獅子王がいる限り寄ってはこない筈だ。

 微かな物音。振り向いて見てみれば、周囲の様子を見て回っていたカゲチヨが戻ってきたところだった。彼は微動だにしないマキナを静かに二度見して、それからインディゴの隣に腰を下ろす。

「レイファとティルは」

「寝てる。お前も休んで良いぜ」

 テントを指したインディゴに、カゲチヨはそっと首を振った。野営の際、彼はいつもこうして休息を取る事を拒む。かえって気が休まらないからとの事らしいが、本気で言っているのならシノビとは厄介な生き物だ。

 とはいえ本人が必要ないと言っているのなら無理に休ませる訳にもいくまい。代わりに荷物から取り出したキルケ―チョコの欠片を渡した。掌に乗った黒い欠片をまじまじ見つめ、カゲチヨは何度か瞬きを繰り返す。

「ベロニカの好物ではないのか」

「おやつにしろって渡してきた。まあ、あいつなりに俺たちを心配してるんだろ」

 ここ数日寝込んだおかげもあってか、ベロニカの熱はすっかり引いたようだった。大事を取って今日も休ませてはいるが明日には復帰できるだろう。だがやはり、数日とはいえ探索に出られなかった事を彼女は随分と気にしているらしい。恐らくこの「おやつ」もそういった感情の現れなのだろう。

 食べてやんな、とインディゴが促せば、カゲチヨは素直に頷いた。頭巾を外して口布を下げ、普段より幾分か気の抜けた表情でチョコレートを口に放り込む。一見しただけでは分かりづらいが、よく見てみるにどうやら味は悪くないらしい。すぐに飲み込まず、じっくり味わって食べている様子だ。

 カゲチヨが口の中でチョコレートを転がすさまを満足げに見ていたインディゴだったが、ふと思い出したように口を開いた。

「チヨ、お前あいつら全員殺せるか?」

 唐突な問いにカゲチヨはゆっくりと振り向き、何度か瞬きを繰り返した。しばしの間じっとインディゴを見つめ、やがて彼は静かに応える。

「殺せる」

「へえ、断言するのか」

「だが固まられていると厳しい。分断できれば、確実に」

「……技術的な可不可の話をしてるんじゃないんだぜ? 心理的に抵抗が無いのかって訊きたいんだ、俺は」

 呆れたような言葉にカゲチヨは少しばかり肩を揺らして顔を上げた。何秒か間を置き、僅かに眉根を寄せて呟く。

「抵抗が……あったとして、問題があるのか」

「問題って……」

「必要があるなら、そうするだけだ。それとも嫌なら殺さずに済むのか」

 どうやらその問いは皮肉の類いではないようだった。相変わらず何を考えているかよく分からない、しかしどこか昏い目で見つめてくるカゲチヨにインディゴは困ったような呆れたような表情を浮かべる。そのまましばし逡巡した後、海賊は力無く両手を挙げて肩を竦めた。

「いいや、俺が間違ってた。お前の言う通りだ。……そうだよなあ、嫌で済むんなら誰も殺し合いなんかしねえわ」

 軽い口調で告げれば、カゲチヨは小さく相槌を打って消えかけの焚き火へ視線を向けた。その横顔を眺めたインディゴは僅かに眉をひそめ、内心で溜息を吐く。

 つくづくシノビというのは厄介で──哀しい生き物だ。だが真におぞましいのは使命のために自らの感情をかなぐり捨てる事のできる彼らではなく、彼らをそういうもの(・・・・・・)として使い潰す者たちだ。……そしてインディゴも今まさに、そちら側の人間になろうとしている。

 己の悪辣を明確に自覚しながら、それでもインディゴは静かに笑んでカゲチヨへ告げる。

「頼むぜ、チヨ。お前を信じてるからな」

 カゲチヨは視線を上げないままそっと目を伏せた。そうか、と小さく応える声。その声を聞いたインディゴもまた視線を下げて沈黙する。

 「使えそうな道具が落ちているのに拾わない理由は無い」、そう言ったのは自分だ。その言葉通りの悪人でなければならない──生き延びて未来を掴み取るためには。

「サーチが完了しました」

 動きを止めたままでいたマキナが唐突に口を開く。驚いて振り返った二人の方を向き、彼女は小さく首を傾げる。

「結果を報告してもよろしいでしょうか」

「ああ……いや少し待て、レイファ起こしてくる」

 よいしょ、と立ち上がってインディゴはテントへ向かう。仮眠を取っていたレイファとついでにティルにも声をかける彼の声を聞きながら、マキナはふとカゲチヨに目をやった。文字通りの鉄面皮にどこか不思議そうな表情を受かべて彼女は問う。

「カゲチヨ。何かありましたか?」

「どういう意味だ」

「頬や目許の筋肉の強張りから推測するに平時より表情が固いように思われましたので、何か気がかりがあるのかと思い質問しました。不快感を与えてしまったのなら、謝罪を」

「いや、……何も無い」

 ぽつりと呟き、カゲチヨは下ろしていた口布を上げて頭巾を被る。マキナは静かに装備を整える彼の姿を見て、先日の第四迷宮での出来事を思い出す。タマキが話していた事を彼に告げるべきか、と迷いはしたが、一度交わされた「誰にも言わない」という約束を破る事はアンドロである彼女には難しかった。

 黙々と武器の確認をするカゲチヨと動きを止めて思考するマキナをよそに、テントからインディゴが出てくる。その後ろには乱れた髪を編み直すレイファと、目を擦りながら彼女の腰にくっつくティルもいた。元の場所に腰を下ろしたインディゴがマキナを促す。マキナはひとつ頷き、目の前に広げられた地図を指し示して話し始める。


   ◆


 抵抗があるかと訊かれれば、ある、のだ。

 樹上で息を潜めて眼下の様子を窺っていたカゲチヨは、肩にかかる枝葉のざらつきを感じながら考える。抵抗はある。だが、それこそインディゴに言った通り、あったからといってどうなるのかという話だ。その内容に何をどう感じようが、使命は必ず果たさなくてはならない。

 だからシノビたちはまず初めに心を殺す。考える事をやめる。抵抗があったとて、そもそもあるという事に気付かなければそれはもう無いものと同じだ。……カゲチヨにはそれができなかった。そうできなくした者がいた。

 少し離れた場所から話し声が聞こえてくる。徐々にこちらへやってくるそれに耳を澄ましながらカゲチヨは掌の内の鋭い感触を確かめる。

 一度あると分かってしまったものを無かった事にするのはあまりにも辛く苦しい事だ。それが得がたく愛しいものであるならば、殊更に。しかし、もう後戻りはできない。今の自分の刃は海賊団の仲間のためにある。彼らが「そう」すると言うのであれば従うのみだ。そこに至るまでにいくら迷いを重ねたとしても、最後に己の心ひとつ無かった事にすれば、それで済む。

 ──たとえ、それにどれほどの苦痛が伴おうとも。

 深く息を吸い込み、時を待つ。軽い足音が真下へ近付いてくる。残り五歩、四歩、三歩……標的が絶好の間合いに入った瞬間、彼は含針を放った。音も無く飛んでいった針は確かに狙った場所へと命中する。呻きのひとつも無く倒れた星術師の姿に、近くにいたひとりだけが気付いた。

「……アルフレッド? ……」

 張り詰めた声、次いで鯉口を切る微かな金属音。ゆっくりと近付いてくる足音をただ待つ。擦り切れた赤い陣羽織の裾が視界に入った。瞬間、カゲチヨは樹から飛び降りる。着地の衝撃をそのまま踏み込む力に変え、懐へ飛び込むと同時に掌底を繰り出した。弾いた手の先から刀が滑り落ちる。

 そのままの勢いで抜刀し、空いた右側から首を掻き切ろうとする……が、視界の端に走った光に咄嗟に背後へ跳んだ。体勢を立て直し、握った短刀を改めて構える。

 距離を置いて対面した男は、引き抜いたもう一本の刀を手に強張った表情でカゲチヨを呼ぶ。

「チヨ」

「今更話す事は無い。そうだろう」

 淡々と返せば、タマキはいよいよその顔に滲む絶望の色を強めた。カゲチヨは彼が次の言葉を口にするより先に素早く屈み、傍らに倒れていたアルフレッドに手を伸ばす。タマキの目が大きく見開かれる。待て、という言葉が形になった頃には、もう事は終わっていた。

 昏倒した人間の首筋を切り裂くのはあまりにも容易だった。ぱっくりと口を開けた傷口から鮮血が溢れるのをよそに、もう一度、胸元にも刃を突き立てる。アルフレッドの意識が戻った様子は無い。彼はこのまま何事も無く、眠ったまま死んでいく事だろう。

「お前──」

 ようやく絞り出されたタマキの声は震えていた。カゲチヨは何も応えない。ただ立ち上がり、血に濡れた短刀を彼へと向ける。切っ先を突きつけられたタマキは僅かに肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔をして──静かに刀を構え直した。踏み込んだカゲチヨの斬撃を鈍く光る刀身が弾く。返った刃は記憶の中のそれより幾分か鋭く速い。手合わせをするのは何年ぶりだろう。いずれにせよ、これが最後の仕合になる。

 ……これは、もう無かった事になるものだから、思い出したところで何の価値もなさない記憶だが。あの時、幼い日のタマキがともだちになりたいのだと伝えてきた時。

 カゲチヨは確かに、彼の言葉が嬉しかったのだ。


 ぱ、と周囲に散ったの混乱の香は、女戦士が振るった武器にすぐさま掻き消された。香が効いた様子も無い。だがそれで十分だった。ただ一瞬、ほんの数秒だけあちらの視界を奪い、隙を作る事ができれば──奇襲をかけるには十分だ。

 全速力で駆け出した獅子王が飛びかかったのは、槌を振るって香を散らしている最中のシナトベだった。彼女はすぐさまそれに気付いたが、重い槌を持った状態では咄嗟に防御に入る事はできない。勢いのまま獣の前肢に押し倒される。

「シナトベッ……!」

 ライディーンが救出に向かおうとするが、駆け込んできたレイファがそれを阻む。鎧の隙間を狙って繰り出した拳を、騎士は槍の柄で弾いたが、反対側から飛んできた──本当に文字通り、肘から先だけが分離して射出され、驚くべき速度で飛んできた──マキナの拳までは避けられなかった。盛大な音を立てて鎧の胸元がへこむ。

「……!」

「貰ったっ……!」

 もう一度、装甲の薄い箇所へ拳を叩き込もうとしたレイファだったが、はっと何かに気付くと身を低くして防御する。次の瞬間、眩いばかりの光が周囲を駆け巡った。頭を守るよう掲げた腕に弾けるような痛みを送るその感覚は、雷の術式のそれだ。

 拡散した術式の痛みに獅子王が怯む。首筋へ牙を突き立てようとしてくる彼を槌で押し止めていたシナトベは、その隙に体を捩って巨体の下から脱け出した。顔に垂れていた唾液を拭った彼女は獰猛に笑い、槌を振りかぶると獅子王へと襲いかかる。

 姫の従者たちと自分の仲間との交戦を横目に、インディゴはゆっくりと彼女の元へと歩いていく。戦いの喧騒から少し距離を置いて佇む少女の頬からは血の気が失せていたが、反面赤い瞳は一言では言い表せない類の強さでもって彼を見つめていた。その手の剣には淡い光が灯っている。さっきの術式の正体はあれか、と得心したインディゴだったが、今はそんな事はどうでもいい。

 抜き身の突剣の切っ先を彼女へ向け、インディゴは問う。

「何か言い残す事はあるか」

「……何も。何も無い」

 予想に反して芯の通った声で答え、ルル・ベルはインディゴを睨みつけた。剣と盾を構え、凛と背筋を伸ばして宣言する。まるで民を前に演説する王のように。

「何故なら、妾は……ここでそなたを退け、無事に生き延びるからだ」

「そうかい。まあ、どんな夢物語だろうと口に出すだけならタダだろうよ」

 嘲るような笑いの滲んだ言葉を吐き捨てながらも、インディゴの表情には笑みのひとつも浮かんでいなかった。静かに構えを取る彼に、ルル・ベルもまた問い返す。

「そなたは妾を殺したかったのだな。第一層で出会ったその時から、ずっと」

「……ああ、そうだ。ただただ目障りだったからな」

「そうか。……ではもう、話す事は無いな」

 その声から彼女の感情は読み取れない。ほんの一瞬、赤い瞳の奥に寂寥が過ったが、それもすぐに掻き消えた。インディゴは僅かに目を細め、ぐっと腰を落として地を蹴る。

 突き出した剣の軌道は左手の盾が逸らした。重い一撃をいなしたルル・ベルはそのまま右手の剣を振るう。胴を斬り払う筈だった斬撃はすぐさま引き戻された突剣が防いだ。ルル・ベルの剣と自らの突剣を噛み合わせながら、インディゴは空いていた左手を伸ばす。広げた掌が顔面を掴む前にルル・ベルは身を屈めて逃れた。そのまま低い体勢から上へと斬り上げる。ほぼ死角からの斬撃をインディゴは仰け反って回避した。切っ先に掠めたシャツの襟が僅かに裂ける。

 無防備に喉を晒したものの、予想した追撃は飛んでこなかった。どうやら攻めより安定を取ったらしい。一度後退して呼吸を整えるルル・ベルを、インディゴは慎重に見やる。従者に指示を出すだけの小娘かと思っていたが、思っていたよりやるようだ。

 剣を構え直し、きっとこちらを見据えるルル・ベルの表情には、決して殺されてなるものかという強い決意が見て取れる。その立ち姿はまるで物語に出てくる主人公のようで、インディゴは口の端を皮肉げに吊り上げた。彼女が主人公ならば自分はさしずめ悪の海賊といったところか。

 だが、たとえ悪の海賊だったとしても、死ねない理由はある。それは目の前の相手への殺意や敵意とはまた別の、もっと単純な──自分たちの帰りを待っている少女がいるからという、それだけの理由だ。だからインディゴは死ねない。正義の主人公などには負けてやらない。持てる手は全て使って徹底的に叩き潰して、そうして最後に笑ってやるのだ。悪役らしく、痛快に!

 駆け込んできたルル・ベルの一撃を、彼は正面から受け止める。振り下ろされた剣は少女の体格にしては重くまっすぐで、その太刀筋だけは褒めてやってもいいかもしれない、と場違いにそう思った。


 予想通り、彼女が最も厄介だ。傷ついた獅子王に治療を施してやりつつ、レイファは油断なく戦況を窺う。

 ボットを連れたマキナと対面したシナトベは、至るところに傷を作りながらも微かな笑みを浮かべていた。この状況で笑っていられる神経は理解できないが、理解しようと努める暇も無い。槌の連打は大振りであるため避けやすくはあるが、一度当たってしまえば即死級の威力だ。

 マキナが傍らに浮かんでいたボットを操り一斉攻撃を仕掛ける。放たれた光線が豊かな緑の髪を焼いた。しかしそれも構わず突っ込んできたシナトベの攻撃でボットがひとつ叩き落とされる。そのままマキナ本体にも槌を振りかぶったシナトベに、例の飛び出す拳……ロケットパンチが放たれた。片方は軌道を外れた。まっすぐに飛んできたもう片方の拳を、シナトベは両手に構えた槌で思いきり打ち返す。弾き返された腕パーツが歪に歪んで床に転がる。

「それ良いわね! 私も欲しい!」

 両腕を失っても平然と立ち続けるマキナを前にして、シナトベは少女のように弾んだ声で言う。マキナは小さく首を傾げただけで何も応えず、格納していた予備のボットを展開し直す。

 何かにつけて楽しそうなシナトベとは対照的に、ライディーンは必死の形相で盾を構えていた。彼の周囲に薄く漂っているのは麻痺の香だ。痺れた末端を無理やり動かそうともがく彼の元へティルが走り込む。

「やーっ!」

 少年が気合の声と共に叩きつけたのは火術の起動符だった。一瞬の間を置き、符に刻まれた術式が発動する。少し距離を置いて巻き起こった炎をじっと見つめていたティルだったが、炎の中に立つ人影が健在である事に気付くとむむ! と唸ってその場を離れる。

「ジュツシキきかないぞ!」

 駆け戻ってきたティルにレイファはひとつ頷いた。治療を終えた獅子王を彼の元に帰し、素早く周囲に視線を巡らせる。

「盾に防御術式が刻まれてるんだ。……でもあの鎧が相手じゃ獅子王は不利だし……」

「レイファ!」

 考え込むレイファの袖をティルが慌てて引く。起動符の炎が消え去り、行動不能であった筈のライディーンが動き出していた。麻痺の香の効果が切れたらしい。レイファは表情を険しくしてそちらに目をやり、ティルの肩に手を乗せた。

「あんたは獅子王と一緒にマキナの方へ行って。前に出ちゃ駄目だよ。いいね?」

「ん!」

 大きく頷き、ティルは獅子王を伴って駆けていく。少年の背中を心配しつつ見守っていたレイファだったが、突如肌を刺した感覚にはっと振り向いた。既に弾かれるように掌を繰り出し、すぐそこまで迫ってきていた槍を受け流す。

 重鎧を纏っているにも関わらず予想外に速い動きで肉薄してきたライディーンは、槍を引いて構え直すとどこか苦しげな顔でレイファを見た。強い葛藤の見え隠れするその表情にレイファも思わず眉根を寄せる。

 顔を歪めたライディーンはしかし、鋭く踏み込むとレイファに向かって槍を突き出す。直線的な刺突は軌道の予測こそ立てやすいが当たり所によっては一撃で致命傷になり得る。胴を狙った突きを体を逸らして回避したレイファを、今度は薙ぐような足払いが襲った。上半身に意識を集中させていたレイファは唐突な足許への攻撃への対処が遅れる。咄嗟に対応できずバランスを崩した。すかさず翻った槍が彼女の胸を狙う──刹那、弾丸のように飛来した何かがライディーンへ激突した。

 予期せぬ方向からの攻撃をまともに食らったライディーンは、激突された勢いのまま床へ転がる。その間に体勢を立て直して距離を取ったレイファは、ようやく飛んできたものの正体に気付き、思わず悲鳴を上げた。鎧に跳ね返って足許まで転がってきたそれは、マキナの生首だ。

「あ、あんた大丈夫!?」

「問題ありません。それよりレイファ、お願いしたい事があります」

 問い返そうとしたレイファの視界の端でライディーンが咳き込みながら身を起こした。マキナもそれを確かめ、早口で彼女へ告げる。

「彼をなるべくあの場所から離れないよう留めてください。少し経ったらマキナがカウントを開始しますので、そうしたらすぐさま退避を。退避の際は必ず三歩以上の移動をお願いします」

「……よく分からないけど、策があるんだね?」

「肯定します」

「分かった。あんたを信じる」

 力強く頷き、レイファは呼吸を整えてライディーンの元へ駆けていく。重鎧を纏った騎士とはいえ、マキナの頭突きは相当に効いたらしい。未だふらつく彼に牽制代わりの連打を仕掛ける。盾にぶつかって弾かれた拳が痛むが、攻撃を続けられない程ではない。

 レイファがライディーンと対面しているその時、マキナは両碗と頭部を失った状態でシナトベと攻防を続けていた。機動力の落ちた彼女は攻撃どころか回避もままならないが、ティルの指示によって援護に入った獅子王のお陰で何とか大きな損傷を追わずに済んでいる。

 傍らに浮くボットから光線が放たれる。シナトベはそれを全て避けきると、槌の一撃でもって最も近い位置にあったボットを叩き壊した。これで残るボットはあと一機だ。相変わらず場に不釣り合いな笑みを浮かべて、彼女はもう一撃、今度はマキナ本体に殴打を加えようとする。獅子王の援護も間に合わない。重く空を切る槌の先端が機械仕掛けの胴を捉えた、筈だった。

「……え!?」

 予想だにしていなかった空振りの感触に、初めてシナトベの顔に驚愕が浮かぶ。先程までそこにあったはずのマキナの体が消え失せている。……否、正確には胴体だけが・・・・・消え失せている。切り離されてその場に残された脚部パーツの存在に気付いたシナトベは、はっと上空を見上げた。だが、その時にはもう、次の一手は打ち終わっていた。

 遥か上空に浮かんだマキナの、人体を模した白い装甲が音を立てて開く。あらわになった素体の胸元から突き出てきたのは、小型の砲門だ。その先端に青白い光が収束していく。

「HP砲装填完了。カウントを開始します。……三、二、」

 転がったままのマキナの頭部が無機質な、しかしよく通る声で言葉を発する。瞬間、ライディーンと打ち合っていたレイファが弾かれたように駆け出した。取り残されたライディーンも異変に気付く。しかし、遅かった。

 発射(ファイア)。というマキナの声を、轟音が掻き消す。砲門から放たれた光線はまるで光の柱のような様相で、その軌道上にあったものをことごとく灼いた。空気を、床を、水を、……避けきれなかったライディーンを。

「ライディーン、」

 シナトベが思わず振り返った、その瞬間だった。少年の高い掛け声が響く。瞬間、駆け込んできた獅子王の牙が、無防備な姿を晒していたシナトベの片腕を勢いよく噛み千切った。


 マキナの攻撃に意識を奪われたのはシナトベだけではなかった。体格で劣る相手を前にしてギリギリの立ち回りを続けていたルル・ベルも、突如響いた轟音と強烈な光の気配に一瞬動きを鈍らせる。インディゴは、その隙を見逃しはしなかった。

 力任せに振るわれた突剣が左手に構えていた盾を弾き飛ばす。防御の手段を奪われたルル・ベルは一瞬だけ表情を歪めたが、すぐに剣を構え直して反撃に転じた。斬撃が襟元を掠る。白い切れ端が視界の端を漂うのも気にせず、インディゴはもう一歩、深く踏み込んだ。突剣を引く。ルル・ベルが咄嗟に振り上げた剣を斬り下ろすより、彼が刺突を繰り出す方が早かった。

 少女の脇腹に、切っ先が深く沈み込む。

「、が、っ……!」

「──獲った」

 刃をぐっと捻り、引き抜く。吹き出た血がドレスを汚した。よろめきながらもなお剣を振ろうとしたルル・ベルであったが、インディゴに胸を押されるとそのまま崩れ落ちた。

 この出血量ではもう長くは保つまい。仰向けに倒れたまま荒い呼吸を繰り返す少女の傍らに立ち、その喉元に突剣を向けながら、インディゴは彼女へもう一度問いかける。

「……言い残す事は?」

 ルル・ベルは苦しげに表情を歪めて男を見上げた。喘ぐような呼吸の合間、途切れ途切れに彼女は言葉を紡ぐ。

「地獄へ……落ちろ、……アーチ……ボル、ド……」

 弱々しい呪詛を、インディゴはただ受け止めた。青い瞳を僅かに細め、静かに応える。

「お前を殺すのはキングストン家のアーチボルドじゃない、海賊のインディゴだ」

 突剣を持ち上げ、狙いを定める。ルル・ベルは小さく身じろぎしたが、やがてぐっと唇を噛んで目を閉じた。覚悟を決めてその時を待つ彼女にインディゴは囁くように告げた。

「じゃあなルル・ベル……これで本当にさよならだ」

 ……呼吸が絶えた事を確認して突き立てた刃を引き抜く。突剣を鞘に収めたインディゴはひとつ息を吐いて背後を振り返り、周囲の状況を確認した。ひとまず事は終わったようだ。まだカゲチヨが戻ってきていないが、彼ならば心配せずともうまくやっているだろう。

「インディゴーげんきかー」

 戦いが終わった事に気付いたティルがてこてこと駆けてくる。かすり傷のひとつも無くピンピンしている少年の頭をわしわし撫で、インディゴはおー、と気の抜けた返事をした。

「そっちも無事か」

「あー、マキナがバラバラなったけどげんきだってゆってる」

「バラバラ……?」

 物騒な響きの擬音に首を傾げつつ、二人並んでレイファたちの元へと歩いていく。途中で目に入った焦げた鎧らしき残骸や所々が欠けた女の死体を検める事は、敢えてしなかった。わざわざ確かめずとも、あの状態で生きていられる筈がない事はすぐに分かる。

 しかしどうしてもと言うから連れてきてしまったが、こんな光景を子供に見せて平気だっただろうか。少々不安を覚えつつインディゴは横目にティルの様子を窺う。……どこからどう見ても平気そうである。野生育ちの彼にとって生き物の生き死にはさほど恐ろしいものではないらしい。

「……その胆の太さはちょっと見習いてえな」

「?」

「何でもねえよ」

 不思議そうに見上げてくる少年に力無く苦笑し、足を進める。さて、後始末を終えたら早々に帰還しなければならない。それから元老院に事の次第を報告して、装備を整え直したらすぐにグートルーネの元へ向かう事になる。やるべき事は山積みだ。こんなところで足を止めている暇は、無い。


 剣戟は長く続いた。足りない重さと射程を速さと攪乱で補い、カゲチヨはタマキの刀をいなしては返す刃で斬りかかる。

 出会ってから決別するまで数えきれないほど仕合を重ねてきたが、真っ向からの打ち合いでカゲチヨがタマキに勝てた事は片手で数えられる程しか無い。今回もまともに打ち合えば一撃の威力で押し負けてしまうだろう。だがこれは殺し合いであって仕合ではない。手練手管で相手を翻弄し、隙を突いて仕留める技術ならば、カゲチヨの方が圧倒的に上だ。

 手の内に隠していた暗器を投げつける。足首を掠めたそれにタマキの意識が逸れた瞬間、一気に踏み込んで間合いに入った。首筋を狙った短刀はしかし、タマキが空いていた左手で掲げたクナイに阻まれる。

 無理な構えで受け止めた刃を力ずくで押し返したタマキは、荒い息を吐いて必死の形相でカゲチヨを見た。乱れた前髪が目許まで垂れている。対するカゲチヨは息のひとつも切らさず、自然な構えで佇んでいる。タマキはそんな彼の姿を見て何か言おうとしたが、それを遮るように含針が飛んだ。咄嗟に刀で弾く。その一瞬の間に、カゲチヨは彼の死角へ滑り込んでいた。鎧の防御が及ばない肩口に短刀を突き立てる。

「……ッ!!」

 それは長く続いた膠着状態を終わらせる一手だった。だらりと垂れたタマキの左手からクナイが落ちる。カゲチヨはすぐさま攻勢へ転じた。目にも止まらぬ連撃をタマキは避けきれない。羽織の胸元が裂けた。その下の鎧にも傷が走る。

 カゲチヨは目を細めた。着実に体力を削ってはいるが、決定打が足りない。ならば、と彼は更に一歩踏み込んだ。

 その時、タマキは反撃のため刀を振り上げていたところだった。まだ自由の効く片手でカゲチヨに斬りかかろうとした彼はしかし、そのカゲチヨがまっすぐに自らの懐へ入ってきたのを見て動きを止めた。止めてしまった。もしそこで即座に刀の角度を変え、突き下ろす形で攻撃していれば、恐らく彼の刃はカゲチヨの背中をまっすぐに貫いていただろうが。

 彼には、それができなかった。

「……ばか者め」

 鎧の隙間に射し込んだ短刀を深く押し込みながら、カゲチヨは小さく呟いた。腹を貫いて臓腑まで達した刃をすぐさま引き抜き、どこか呆然とした風に動きを止めたタマキの襟を掴んで首筋へ切っ先を滑らせる。ようやく、急所に手が届いた。

 鮮血が滝のように噴き出る。そのままぐらりと傾いだ体を半身で受け止める。熱い血潮が己の胸を、腕を、しとどに濡らしていくのを感じながら、カゲチヨは己の肩に引っかかったタマキの頭を見下ろした。細く弱い吸気と共に、掠れた声が聞こえる。

「……チ、ヨ……」

 彼が何を思って己を呼んだのか。分からないままに、カゲチヨは応える。

「俺を許すな、タマキ」

「──、…………」

「お前を棄てていく俺を、許すな」

 果たして返答はあったのだろうか。拾いきれなかったそれを求めてカゲチヨが耳を澄ましている間に、声どころか鼓動さえも次第に小さくなり、やがてタマキは完全に沈黙した。

 ただ完全に己に寄りかかるだけの物体となったそれを足許に横たえ、薄く開いたままの瞳を閉じさせるとカゲチヨはそっと立ち上がる。そこで初めて彼はタマキの手の中に刀が残ったままである事に気付いた。硬く握られた拳に血が滲んでいるのを確かめ、目を伏せる。

 守りを捨てて懐に飛び込んだあの時。ほんの一瞬、このまま殺されても構わないと、そう思った。

 だが今となってはそれもただの気の迷いだ。短刀を収め、彼はタマキをその場に残して仲間の元へ向かう。たったひとりのかつての友を、初めから無かった事にして。


 散り散りになったパーツの回収がようやく完了した。射出して外れた四肢を装着し、据わりの悪かった頭部の位置を直し終えたマキナは全身の接続に異常がない事を確認すると満を持して立ち上がる。実際に立ち上がって見てもやはり問題は見られない。彼女はひとつ頷き、二本の脚で床を踏みしめて歩き出す。

 獅子王の傷を手当てしていたレイファがマキナの接近に気付いて振り返った。五体満足なアンドロの姿を確かめ、彼女は安堵の笑みを浮かべる。

「ちゃんとくっついたの? 良かった、バラバラになってたからちょっと不安だったよ」

「ご心配をおかけしました。この通り身体機能に問題はありませんのでご安心を」

 その場で飛び跳ねたり腕を振り回したりを繰り返すマキナにレイファは苦笑を漏らす。しばしその場でうごうごとしていたマキナだったが、ふとあるものに気付いて動きを止めた。一度ちらりと仲間の方を窺い。ゆっくりとその場を離れる。

 彼女が向かった先には事切れたまま放置された少女の姿があった。既に熱を失いつつある彼女の傍らにしゃがみ込み、マキナはその胸元に触れて呟く。

「ルル・ベル。宿を訪ねるという約束を果たせず、申し訳ありません」

 言葉を探すように沈黙し、僅かに俯く。言いたい事は数多くあった筈なのだが、戦闘機能にリソースを割いたせいかうまく記憶を再生できない。

「マキナは──」

「おい、街に帰るぞ」

 インディゴの鋭い声が飛んだ。見れば、先程まではいなかったカゲチヨもいつの間にか合流している。マキナはもう一度ルル・ベルを見て、それからそっと立ち上がって四人と一匹の待つ場所へと戻っていく。


   ◇


「よく聞きなさい。

 私はもう長くはありません。お父様が亡くなられた時から、覚悟はしていたけれど、こんなに早いとは思わなかったわ。……良いですか、あなたはすぐにここを出て、北の港へ行きなさい。馬車の用意はしてあります。港町に着いたらここに書いてある通りの場所へ行って、そこにいる人を頼るのよ。お父様の古いご友人です。きっとあなたを助けてくれる。

 もうすぐ夕飯だけど、出てくる食事に口をつけては駄目。新しく屋敷にやってきた人とも顔を合わせないで。部屋で爺やが迎えに来るのを待つのよ。さあ行って。誰かに聞かれたら大変です。

 ……そんな顔をしないで。私の事は気にせず、早く逃げなさい。あの人たちにとっていちばん邪魔なのは跡継ぎのあなたよ。彼らは必ずあなたを狙ってくる……こんなところで死んではいけないわ。あなただけでも生き延びるの。たとえどんな手を使ってでも、貴族の誇りを捨ててでも……。

 お父様はあなたに家を守ってほしいと仰ったけど、私はそうは言わないわ。どんな場所でも生きていてくれさえすればいい。だからどんな事があっても望みを捨てないで。生きてさえいればきっと希望はあるわ。生きてさえいれば、きっと。

 ……もう行きなさい。涙を拭いて。大丈夫。夜に紛れて馬車を出せばきっと誰にも見つからない。言った通りにするのよ。ここへはもう戻らないで。さあ、早く。

 アーチボルド。

 あなたは私たちの希望……私たちの誇り……」


   ◆


「……王さま! あたしです! フローディアです!」

「妹にすまなかったと伝えてくれ」

「この百年の間、兄様の事だけを想って生きてきたのに……、私はこれからどうすればいいの?」


   ◆


 グートルーネを守った『セレスト・ブルー』に元老院から与えられたのは、まともに働いて金を稼ぐのが馬鹿らしくなるような額の報酬だった。

 普段の彼らにとっては夢のまた夢のような量の金銭を前にして興奮が一瞬回って妙に大人しくなってしまった海賊団だったが、結局その金も一日のうちに大半が使われた。例のごとく宴会のために浪費して……という訳ではない。船を買ったのである。海図制作のために元老院から与えられた小さな船ではなく、元々持っていたものにも引けを取らない、大きく丈夫な船を。

 そして今日、彼らはその船に乗ってアーモロードを去る。野郎どもが威勢よく積み荷を船室の運び込んでいく様子を眺めながら、インディゴは盛大に溜息を吐いて手元のメモを確かめる。

「とりあえず水と食糧はよし、あとは日用品と……おい! それ中に入ってるのライムだぞ! 潰したらぶっ飛ばすからな!!」

 ぞんざいな手つきで積み荷を運んでいた部下を怒鳴れば、まったく反省していなさそうな「すいませ~ん」という声が返る。あいつ一回本気で殴っとくか……と据わった目で彼を見るインディゴに、隣にいたベロニカが呆れたように告げた。

「まーいいじゃん。どうせアユタヤに寄って補給するんでしょ?」

「そうやってなあなあにしてると上下関係ってのはどんどん崩れていくんだよ。あいつら出稼ぎから解放されたからって浮かれてやがるんだ、今の内にシメとかねえと」

「ふーん」

 興味なさげに相槌を打ち、ベロニカは手元にあった小さな筒のような物体を弄び始める。インディゴが何だそれと訊けば、彼女は目を瞬かせて答えた。

「言ってなかったっけ? マキナに貰ったの。火のいらないライト」

「……錬金駆動か?」

「ちょっと違うみたい。錬金術で動くやつは定期的に触媒を足さなきゃいけないけど、これはそれもいらないんだって」

「へえ、それも深都の技術の産物ってやつかね」

「餞別代わりだってさ。見送りできなくて申し訳ないって言ってたよ」

 マキナは既に元いた場所……深都のネイピア支店が間借りしている家へ戻っている。ギルド解散後はどうするか、彼女は随分悩んでいたようだが、最終的には商店の店主に話をつけて雑用のような形で置いてもらう事に決めたようだ。見送りに来ていないのは彼女に付き添って深都まで送っていってくれる人が見つからなかったためである。やはり、人を伴わねば移動できないというのはあまりにも不便だ。

 別れの際、マキナは言った。

「ありがとうございました。アナタ方がいなければ、マキナはあの倉庫で永遠に誰かが来るのを待ち続けていた事でしょう。アナタ方と出会えた幸運に最大限の感謝を」

 そこで言葉を切り、アンドロは僅かな笑みを浮かべる。どこか寂しげにも見える笑顔で彼女は呟いた。

「ですがマキナには……まだ少し、「ニンゲン」は難しかったようです」

 果たしてそれは、どういった意味の込められた言葉だったのか。

「船長」

 控えめな呼び声が意識を思考の海から引き上げる。振り向いてみれば、ベロニカは妙に真面目な顔をしてこちらを見ていた。

「何だよ」

「あのさ、船長はアーモロードに来て良かったって思う?」

 唐突な質問に、インディゴは虚を突かれたような表情で黙り込む。なかなか答えにくい質問だ。たっぷり時間を取って考え込み、やがてうーんと唸って頭を掻くと溜息混じりの声で答える。

「……どっちつかずって感じだな。そういうお前は?」

「私はねー、プラスマイナスゼロってかんじ」

「俺と同じじゃねえか」

「違うわよ。良い事も悪い事も同じくらいたくさんあったねって事。最初から決められない船長とは違うの」

 まったく失礼しちゃう! と唇を尖らせる少女に、インディゴは釈然としない顔で頷いた。そうは言われても結局自分と同じ事を言っているようにしか思えないのだが、これ以上深く突っ込んでへそを曲げられても面倒だ。こういう時は大人しく納得した事にしておくのに限る。

 ……もうそろそろ積み荷を運び終える頃合いだ。本当に漏れが無いかもう一度メモを見直すインディゴの元へ、今度は船の中にいた筈のティルが駆けてきた。何やら興奮した様子の彼はインディゴの前をすり抜けて隣のベロニカに飛びつくと、上擦った声で彼女を呼ぶ。

「ベロニカ! あっちにイルカいるって! イルカだぞ!!」

「え、イルカ!? 迷い込んできたのかな……船長、私ちょっと見てくるねー!」

「あーはいはい。あんま遠くまで行くなよ」

 元気よく走っていく子供たちの背中を見送り、インディゴはメモを閉じて眼前に停まる船を見上げた。以前も船とまったく同じ使い勝手とはいかないが、設備に関しては十分すぎる程に足りているし、むしろ大砲などに関しては前のよりも高性能なものを積んでいる。新たな船出の供にするのにはうってつけの一隻だろう。

 海図を造るのに使用していた船──ステラマリスは、しかるべき整備をした後にまた別のギルドの船として使われるそうだ。「海都の英雄」が使っていた船ともなれば引く手あまただろうよ、と港の管理人は笑っていたが、インディゴたちは曖昧な笑みでその言葉を受け流す事しかできなかった。

 自分たちは英雄なのだそうだ。白亜の姫君を狙う悪の刺客を討ち果たした、海都の誇る正義の冒険者だと。

 民衆の声など気にしていてはキリが無いのは分かっているが、流石にそうも好き勝手持ち上げられると反論したくなる思いを抑えられない。もちろん反抗心のままに事の次第をすべて語ってしまうなどという愚は犯さないが……このままの状態で海都に滞在し続けるのは気分が悪いというのは、確かな事実だ。

 まあ成果を上げられた事そのものは素直に喜んでおこう。船も手に入れた訳であるし、このまま帰っても頭の固い上司が文句を言うような隙は無い筈だ。懐に入れた元老院からの親書の感触を確かめ、ひとつ息を吐く。

「インディゴ」

 縄梯子を伝って船上から下りてきたカゲチヨが声をかけてくる。静かに歩み寄ってくる彼に片手を挙げて応え、インディゴは気の抜けきった声で問い返した。

「何かあったのか?」

「レイファがティルを捜していた」

「あー、ベロニカと一緒にあっちに走ってったわ。……悪いけど連れ戻してきてくれるか?」

 こくりと頷き、カゲチヨは子供たちが向かっていった方向へと歩いていく。その背中で揺れる襟巻を眺めながらインディゴは大きく伸びをした。三人が戻ってきたら自分も船上に上がって、出航前の最後の準備に入るとしよう。航海計画の確認と船員の点呼、それから船長室に運び込んだ新しいベッドの寝心地も確かめておかねばならないし……。

 と、やるべき事をひとつひとつ数えていたインディゴであったが、ふと振り返ると背後に広がるアーモロードの街並みに目をやった。空っぽの世界樹を背に立つ街並みは絵画じみて美しく、南国の陽気に照らされて鮮やかに輝いている。だがその地下深くに隠されているものは、美しさで誤魔化す事のできない深い深い暗闇だ。

 今も海の底では深王の遺した機械兵たちとおぞましきフカビトたちが死闘を繰り広げているのかもしれない。脳裏に浮かんだ海底神殿の風景を、溜息で吹き飛ばす。何にせよもうこの街ともおさらばだ。面倒事は元老院で解決してもらう事にして、海賊は海賊らしく海の上での生活に戻るとしよう。

 遠目にティルとベロニカを連れたカゲチヨが近付いてくる姿が見える。さて、と気分を切り替えたインディゴは、踵を返して船縁から垂れた縄梯子の方へ足を進めようとして、ふと違和感を抱いてもう一度振り返った。

 刹那、衝撃が体を貫く。

「……あ、?」

 理解が及ばないまま胸元を見下ろした。……矢が一本、刺さっている。シャツとベストを染め上げる赤が己の血潮だと気付いたその瞬間に、意識の外にあった痛みが奔流のように襲ってきた。堪え切れず膝をつく。喉の奥から熱いものがせり上がってくるのを堪え、視線を上げた。……いつの間に近付いてきたのか、見覚えのある少女がそこに立っている。インディゴはそこで初めて、先程の違和感の原因が彼女の持つ弩だった事に気付いた。

 弩を構えたまま、パーニャは壮絶な表情でインディゴを見下ろした。絞り出すように、叫ぶ。

「姫様の……姫様の仇だ! 姫様の痛みを思い知れ!! 苦しんで死ね……っ!!」

 その次にどんな言葉が続いたのか、確かめる事はできなかった。その時には既に飛び込んできたカゲチヨが少女の首を叩き落としていて、同時にインディゴも上体を支える力を失って倒れ込んだ。返り血を浴びたカゲチヨが振り返る。その表情を見て、インディゴは他人事のように驚いた。なんだ、お前、そんな顔も、……。

「──船長! 船長!! やだ、なんで、どうして……!」

「レイファ! レイファあ! インディゴが!」

 ベロニカとティルがけたたましく叫ぶ声が聞こえてくる。だが、その声が妙に遠い。ベロニカは自分を抱き起して何事か喚いているようだが、内容はうまく聞き取れなかったし、揺さぶられているせいで堪えていたものが喉奥から溢れて口腔を満たした。熱い。息ができない。

 暗く狭まっていく視界の中で、ベロニカのものでない人影が揺れた。それがカゲチヨがのものである事だけはかろうじて分かったが、もはや顔も見えない。やがて胸の奥で暴れていた熱も痛みも消える。頭上に広がる青空の色だけが最後まで鮮やかに色づいていた。

 ああ、いい天気だ。

 ちくしょう。


Aルート『深層航路』 終

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