【SQX】14-9 世界でいちばん青い空
「げっ! クソババア!」
と、そんな声が聞こえた次の瞬間には、モモコは腰に差していたナイフを鞘ごと取り外してぶん投げていた。回転しながら飛んでいったナイフは一瞬の間を置いて声の主の額に直撃する。狭い廊下に濁った悲鳴が響いた。床を跳ねた得物を回収しつつモモコはふ……と鼻で笑う。
「流石に頭が軽いとその分良い音がしますね」
「テメッ……ふざっ……け……!」
「モモコ殿、そいつが何かした?」
応接間からサヤが顔を出す。モモコは何でもありませんよ、と応えて彼の元へ向かう。……頭を抱えて悶絶するスペードはそのまま捨て置いておいた。大した重さも無い、果物ナイフ程度の一撃でそう大げさに痛がられても困るというものだ。
「頼まれた物、持ってきましたよ」
「ありがとう。残りの荷物は預けてきた?」
「はい。あと、これはヴィヴィアンちゃんからの差し入れです」
「お、クッキーじゃん。丁度良い、休憩にするか」
者共おやつだぞー、と言いながら戻っていくサヤの背中を追い、モモコも応接間へ足を踏み入れる。一対のソファーにエノクとマナ、クチナとチエリがそれぞれ座っている。その周囲に散乱しているのは『スターゲイザー』の面々がいつも身に付けている装備品だ。
エノクの手甲を膝に乗せて、内側に張られた皮に何やらペンを走らせていたマナが、ぱっと顔を上げる。
「おやつ!」
「そっちの作業終わってからな。エノクの分はそれで終わりか」
「そうだよー。次はあたしの分」
「できたー」
「どれどれ。……うーん、まだ小さいのにこんな結界が刻めるなんて、凄いな?」
「ホージンなの」
手甲を取り上げてしげしげと眺めたクチナの言葉に、マナがにこにこと笑顔を返す。
ヨルムンガンドの放つ瘴気に備えて防具に魔除けを刻んでおこうというのはクチナの案だった。魔除けと言うと何となく胡散臭いようだが、実際に刻むのは巫術や方陣などの術式だ。ああいった類いの術式に『悪いもの』を打ち消す力があるのは知っての通りである。
サヤはクッキーの入った籠を手に給湯室へと入っていった。そちらにはマリアンヌとメルセデスがいて、二人で何やら話し込んでいたらしい。しかしサヤが持ってきた菓子の山を見ると表情を緩ませて湯を沸かし始めた。
モモコは部屋を見回すと、静かに廊下へ出た。背後からチエリの声が飛んでくる。
「モモコさんどこ行くのー?」
「二階に。ノワールさんの様子を見てきます」
「はーい」
それ以上の追及は無かった。わいわいと騒がしい気配を背骨に感じながら、薄暗い階段をゆっくり上っていく。
病室のある診療所部分の二階と居住部分の二階はしっかりとした壁で区切られていて、後者は前者と比べるとかなり狭い。階段の上りきってすぐの突き当たりがノワールの寝室である。開けっ放しの扉から中に入れば、ベッドの上で本を読んでいた彼と目が合った。
そのまま部屋に入ってくるモモコの姿を認め、ノワールはひとつ息を吐いて手元の本を閉じる。
「調子は如何です?」
「大事無い。マナはどうしていた」
「楽しそうにしていましたよ。今はおやつの時間ですかね」
「そうか。……随分落ち込んでいたから心配していたが、ひとまずは大丈夫そうだな」
ノワールの言葉にモモコは曖昧な笑顔を返した。
ワニの魔物から逃げ切り、傷だらけのネロとノワールを回収した『スターゲイザー』が森の中でマナを見つけた時、彼女は倒れたサヤの傍らで泣きじゃくっていた。泣きながら謝り続ける彼女をなだめて何があったのか聞き出そうとしたが、それも要領を得ない。ただ重大な事件が起こったのは確かで、モモコがネロの元を訪れていたのもその真相を探るためであった。結果として得られたのは、受け止めるにはあまりにも重すぎる事実だったが。
「ネロの話は聞けたのか」
ノワールが静かに訊ねる。モモコはひとつ頷いた。
「下の奴らには?」
「伝えないつもりです。今はヨルムンガンドの件に集中すべきですし……不安にさせてもいけませんから」
「……まあ、それもそうだ」
階下から楽しげな笑い声が聞こえてくる。予定通りに事が進めば、明後日の朝にはヨルムンガンド討伐のため第十三迷宮の奥へと向かう事になる。大きな戦いを前に余計な心労を増やすわけにもいかない。
とは言いながらも、自分が一番落ち着けていない訳だが──疲れたような笑みを浮かべて自嘲するモモコを細めた瞳で眺め、ノワールは再び口を開く。
「疲れているところで悪いが、訊きたい事がある」
「何ですか」
「例のやつの事だ。ネロは「あれは心の無い兵器だ」と言っていた。「人の命を喰らう殺戮者」とも」
モモコは頷く。彼女が聞いた言葉はノワールのそれより幾分か穏和だったが、内容的にはさほど変わり無い。
『瘴気』は生物の生命力を奪う。『彼』は奪い取った生命力を燃料にして動いている。そこには倫理や良心などは働かない。何故なら、それは『彼』にとっては息をするのと同じ事だからだ。
「それなら、なぜ奴はマギニアに来ない」
「…………」
「人の命が欲しいなら街に乗り込んでくるのが一番効率が良いだろう」
「それは……」
「何だ、アンタらそんな事も分かんねぇのかよ」
突如聞こえてきた声に、二人は揃って顔をしかめる。いつの間にか部屋の出入口に立っていたスペードは、持っていたトレイ──温かい紅茶とヴィヴィアンからの差し入れのクッキーが載っている──をベッド脇のテーブルに置き、壁に寄りかかってふふんと鼻を鳴らした。モモコがカップの中でなみなみと揺れる紅茶を冷たい目で見る。
「何も入ってないでしょうね」
「入ってねぇよ! 淹れたのは女医だし、せっかく持ってきてやったんだから感謝しろ」
「……で、何だ。お前は何か知ってるのか」
ノワールが冷ややかに問う。スペードは得意げに笑って肩を竦めた。
「当たり前だ。ヘヴェルの旦那が何で街で暴れないかって話だろ?その疑問も分かるぜ。あの人何でもないみてーな顔で殺すもんな」
「御託は良い。簡潔に言え」
うんざりしたように話を遮るノワールにつまんねー奴、と呟き、スペードは指先をそっと下に向けた。怪訝な顔をする二人に彼はあっけらかんと言う。
「お嬢がいるからだ」
無人の待合室でエレオノーラはひとり座っていた。灯りを落とした部屋は暗く、閉め切られたカーテンの向こう側から街灯の光だけが微かに漏れている。廊下の奥ではちょうどクッキーを囲んだ茶会が始まったところだったが、廊下と扉とを隔てた場所にいる彼女の元には談笑の声は届かなかった。
静かな空間を引き裂くように、扉が開く音が響く。
「まだそこにいたのか」
問う声には感情は無かった。エレオノーラは振り返らない。はあ、と息を吐く気配と共に背後から足音が近付いてくる。
ドレスを翻して歩み寄ってきたヘンリエッタは、片手に乗せていた皿をずいと突き出して言う。
「食え」
「…………」
白い皿には愛らしい猫の形のクッキーが並べられている。エレオノーラはゆっくりと腕を上げて皿を受け取ったが、クッキーを口に運ぶ事はなかった。ヘンリエッタの眉がますます寄る。
何か言いたげに口を開いたヘンリエッタだったが、結局何も言わずに視線を彷徨わせた。手の内に収まった皿に手を伸ばしてクッキーをつまむ彼女を前髪の隙間から覗き、エレオノーラはぽつりと呟く。
「あなた、私が憎いでしょう」
クッキーを咀嚼する音が止んだ。言外に匂わせた意図を正しく読み取ったらしいヘンリエッタは、声を一段階低くして応える。
「一人にしろと言いたいなら、回りくどいやり方はやめて素直に言え」
「…………」
「確かに私はお前が嫌いだ。言われなくてもすぐに出ていく」
ヘンリエッタはそのまま踵を返そうとして、一度立ち止まってエレオノーラを振り返った。俯いたまま動かない少女に向かって声を投げる。
「お前はそれでいいのか」
「…………」
「それでいいならそうしてろ。私はやるべき事を果たしに行く」
今度こそ歩き出したヘンリエッタをエレオノーラが振り返る事は無かった。扉の開く音。廊下の向こうから明るい笑い声が微かに聞こえてくる。そういえば、と呟いてヘンリエッタは最後にもう一度口を開く。
「お前の部屋はそこの階段を上がってすぐの右だ。ベッドは好きに使え」
……静寂の戻った待合室で、エレオノーラは詰まっていた息を細く細く吐き出した。手元の皿をじっと見下ろす。少し歪な形をした猫の、チョコレートの瞳が彼女を見上げている。
暫しそうしていたエレオノーラだったが、やがてそっとクッキーをつまみ上げるとそっと口に運んだ。柔らかな甘味が舌の上で溶けて広がる。どこかで食べたことのある味だった。懐かしいと思った。どこで味わったのかすら思い出せないが。
鼻の奥がつんとする。視界が滲んで、意味もなく掠れた声が漏れた。皿を膝に置いて彼女はぐっと身体を丸めた。
いよいよ終わりだった。どこへも行けない。もう一寸先も見えないが、それでも自分はまだ生きている。
◆
──もうどこへも行けなくとも、
──やらなければならない事がある。
は、と目を覚ます。
元より深く眠れずにいた頭が、冷や水にでも晒されたかのように覚醒する。辺りはひどく静かだ。装備の用意は明日に回し、こうして床に就いてから既に数時間が立っている。身を横たえていたベッドから身を起こし、エノクは病室を見回した。本来ならば患者が寝起きしているであろう部屋は、今夜は『スターゲイザー』達の休憩所となっている。
窓の外は暗かった。隣のベッドで眠るチエリが変わらず寝息を立てている事を確かめ、こっそりとベッドを抜け出す。廊下に出てみてもやはり物音ひとつしない。軋む床板の音を僅かに鳴らしながら一階へ下り、外へ出た。等間隔に並んだ街灯だけが照らす通りをゆっくりと歩き出す。
何故こんな夜中に寝床を抜け出して外を歩いているのか、エノク自身にもはっきりとした理由は分からなかった。ただ何か、抗いがたい衝動のようなものが腹の底から湧き上がって身体を動かしている。
通りを抜けた突き当たりには小さな広場がある。花壇とベンチが並んでいるだけの広場からは、街の下層とはじまり島の平原、そして遠景の世界樹を見渡すことができる。エノクは足を止めて、鉄柵越しに広がる暗闇をじっと見つめた。……目には見えない。だが、ちゃんと分かる。
「……そこにいるんでしょ?」
問えば、目の前の空気が揺らぐ。どこからともなく漂ってきた光の帯が渦を巻き、思わず瞬きをした次の瞬間には少年の姿を形作っていた。
赤いキルトが夜風に揺れる。街灯の光を受けて陰の落ちた顔にどんな表情が浮かんでいるのか、エノクの立つ場所からは読み取れなかった。
少年が溜息混じりに応える。
「どうして分かった」
「それが……僕にもよく分からなくて……」
「何だそれ」
ふ、と笑う気配。中空に浮かんでいた少年はくるりと身を翻し、鉄柵の上に下り立った。ようやくはっきりと見えるようになった顔を上げ、彼はエノクを真っ直ぐに見つめる。エノクは思わず問いかけた。
「黙ってどこかに行くつもりじゃ……ないよね?」
「……そうする気だったんだけどな。こうやってお前が来たのを見るに、俺も随分迷ってたらしい」
「どういう、」
意味なのか、と訊ねようとすれば、少年は片手でそれを制した。戸惑うエノクに彼は言う。
「モモコはお前には何も教えなかったな。あいつらしい、正しい判断だ」
「きみ、何を」
「まあ聞け。……だが、そうだな、俺が何も言わずにいるのは、"正義"ではないな……」
言葉を切った少年はちらりと視線を横へ移す。星空に浮かび上がる影は世界樹のものだ。夜闇に黒々と鎮座する巨大な樹の輪郭は、どこか化物じみても見える。少年はしばしそちらを見つめ、そっと口を開いた。
「あのハイランダーの男の事を、」
エノクがはっと顔を上げる。
「俺は初めから知ってたんだ。あれが死人の身体を乗っ取った怪物だって事も、記憶を封印されてたって事も。ネロって言ったか?あいつが何をしたかったのかもある程度は想像がつく。元よりレムリアには巨大な封印術式が刻んであるようだから、方陣の力を借りればあの身体の中にある呪いも無力化できただろう。ただ、そうすると反動を全てマナに押しつける事になる訳だが……」
「待って、……死人? もっとゆっくり説明してよ」
「……別に理解する必要は無いさ。『ヘヴェル』なんて男は最初から存在しなかったってだけだ」
エノクは頭を掻いた。混乱する頭で聞き取れた言葉をひとつひとつ整理していく。ヘヴェルが怪物で、身体は死体?では、第十三迷宮で自分を助けてくれた彼はいったい。
俯いて思案に耽るエノクに、少年は続けて言葉をかける。
「お前が心配する事は何もない。あれの事は俺が始末をつけるから、お前はミッションの方に集中しろ」
「……きみは……きみは彼の何なの?」
「…………」
苦し紛れに投げた問いに少年は閉口した。エノクはひとつ、ふたつ深呼吸をする。見失ってはいけない。いま本当に知りたいのは、ヘヴェルではなく、彼自身のことだ。
暫しの沈黙の後、ああ、と吐息を漏らした少年の顔が歪むのをエノクは見た。しかしそれも一瞬の事で、彼はすぐに身を翻してエノクに背を向けてしまう。そのままどこかへ行ってしまうのではないかと思ったエノクが思わず一歩を踏み出すのと同時に少年は再び口を開く。
「『ヘヴェル』の身体も、昔はちゃんと人間として生きていた。今でも思い出せる。故郷の景色、ハイランドの山の空気、天を衝く世界樹の、……」
ふと言葉が切れる。声もなく項垂れる少年を後頭部をエノクはただ見つめている。心臓がいやに速く打っていて、呼吸が苦しい。乾燥して張りついた唇を少し開けば微かな痛みが滲んだ。少年が、噛みしめるように呟く。
「世界でいちばん青い空を見たんだ。お前には信じられないかもしれないが」
「……『彼』は、きみだった?」
震える声に、少年は乾いた笑いで応えた。彼は未だエノクに背を向け続けている。
「言ったろ、俺は残像(・・)だ。……あの身体の持ち主はもういない。あいつは逝ってしまった。残したかった記憶だけ俺に押し付けて」
吹き抜けた夜風が少年の背中を撫でた。赤いキルトが揺れる。耳に届く風音は壁一枚隔てたかと思うほど不明瞭だ。手足は重く、痺れたように動かない。水底に沈んだかのような夜だった。
「俺はあれを殺しに行く」
呟くような声がひとつ。
「元より存在してはいけないものだ。こんな幽霊みたいな身体で敵うかは分からないが……相討ちくらいには持ち込めるだろう」
「……勝手に決めないでよ」
「いいや、勝手にさせてもらう。お前を巻き込みたくないんだ」
振り向いた少年の顔には静かな微笑が浮かんでいる。エノクはその顔を見ることができなかった。顔を伏せて、服の裾を強く握りしめる。彼には分かってしまった。ここで見送ってしまえば、少年は二度と自分の元へは戻ってこないと。
「嫌だ」
引き絞られた喉から出た声は想像より何倍も情けなかった。少年の眉が下がる。
「絶対嫌だ」
「エノク」
「きみが居てくれないと、嫌だ」
「……俺もだよ」
少年はゆっくりと両手を伸ばした。感触のぼやけた掌がエノクの頬に添えられる。自分を見下ろす彼の表情は、親が聞き分けのない子供を優しく見つめる時のそれによく似ていて、エノクは目の奥がじわじわと熱くなってくるのを感じた。
「……なら、行かないでよ……」
「ごめんな」
拒絶の声は真綿にくるまれたように柔らかい。いっそいい加減にしろと怒鳴りつけてくれたら楽なのに。エノクは黙って洟をすすった。もう、引き留める言葉が思い付かない。
「大きくなった」
少年は包み込んだエノクの頬を、感触を確かめるように撫でた。
「お前は知らないだろうが、俺はずっとお前の事を見てた。……強くなったな。もう、俺がいなくても大丈夫だ」
「────」
「どこにいても、誰よりお前の事を想ってる。それだけは信じてくれ」
指先にかかる青い髪を名残惜しむように撫で、少年はふわりと浮かび上がった。エノクは思わず追いすがろうとする。しかし伸ばした指は揺れるキルトの表面を軽く撫でただけで、捕まえる事は叶わなかった。
金の瞳がふっと細まる。墨色の夜空を背負い、少年は囁く。
「さよならだ」
……掠れた吐息だけを残して宙に融ける少年の姿を、エノクは動くこともできないまま見送った。最後に残った赤いキルトの端が幻のように揺らいで消えたところで、彼は上げたままだった腕をようやく下ろす。真夜中の涼やかな風が痛いほど頬に刺さる。どこか遠くから赤ん坊の泣き声。エノクは暫し立ち尽くしたまま、高く叫ぶ子供の声をじっと聞いていた。
夜明けはまだ遠い。
0コメント