【SQX】14-10 此処にある総ての正義
『ウルスラグナ』が出発したのは正午になろうという頃だった。連れ立って第十四迷宮へと向かっていくニーナ達の背中を見送りつつ、サヤはうーんと伸びをする。その姿を横目に、隣に立っていたヘンリエッタが溜息混じりに呟いた。
「お前は緊張とかしないのか」
「緊張な~。どういう感じかイマイチ分からないんだが、それってどんな感覚?」
「……訊いた私が馬鹿だった」
「へそ曲げるなよ。まあ、皆がピリピリしてるのは分かる」
そう言ったサヤの視線の先を、鎧で身を固めた衛兵達が足早に通りすぎていく。どこか慌ただしい様子で街の外へと向かっていく隊列をヘンリエッタは神妙な表情で見つめた。
『ウルスラグナ』が帰還し次第、『スターゲイザー』も出動準備に入る。少なくとも明日の朝には自分達も迷宮に入る事になる──ヨルムンガンドとの決戦のために。
「あんま気張りすぎずに待とうぜ。某らがその緊張ってやつで潰れでもしたら、それこそニーナ殿達に申し訳が立たない」
サヤが笑顔を浮かべてヘンリエッタの肩をぽんぽんと叩く。途端に顔をしかめたヘンリエッタは手を振り上げて思いきりサヤを叩き返したが、存外に逞しい背中はびくともしなかった。
◆
「できた!」
マナがペンを投げ出して、座ったまま器用にぴょんと跳ぶ。ノワールのとこいく!と叫んで部屋を飛び出していく彼女に苦笑しつつ、クチナは机の上に置かれたベスト──サヤのものである──を手に取った。
「うん、これで終わりだな。随分長く付き合わせてしまったし、あの子には後でお礼をしないと」
「マナちゃん、最後のほう飽きてきてたもんね」
「でも小さいのにこんな仕事ができるなんて凄いな~。おれも習ってみようかな、方陣」
ベストの裏地に刻まれた紋様を機嫌よさげに眺めるクチナを、チエリは対面のソファーに腰かけてじっと見ていた。重大なミッションを目前に控え、ギルド内外の空気は非常に慌ただしいものとなっている。そんなだから誰も気にしなかったか、もしくは気にしていても自然と忘れてしまったのだろうが、チエリにはここ数日ずっと気になって仕方ない事がある。
「クチナさんってさー」
「んー?」
「なんでそんな詳しいの? その瘴気ってやつに」
「んー……」
クチナは手を止めて、考え込むような仕草を見せる。チエリはその一挙一動を注意深く観察した。その知識といい、傷の治りが速い体質といい、元より謎の多い男だ。今までがそうだったように、今回もまた適当な言い訳で誤魔化されてしまうかもしれない。
じっと見つめてくるチエリの視線に居心地悪そうな表情を浮かべながらクチナは口を開く。
「……なんか……実家がそういう感じの……そんな感じだったんだ」
「答えになってなくない?」
「……や、でも、おれがなんで知ってるとか……そんな事は正直どうでも良くないか? これから大事な戦いがある訳だし、後でも良いっていうか。とにかくおれの持ってる情報は役に立つだろう?」
「でもさー、たとえば、どんなに美味しい肉料理でも何の肉を使ってるのか分からなかったら不安じゃない?」
「うう……」
少し詰め寄れば、クチナは簡単に口ごもった。これはいけるかもしれない。チエリがずいっと身を乗り出して更に問い詰めようとしたその時、部屋の扉が開く音が響いた。
「やあ、ちょっと聞きたいんだけど……」
「あ!! おれちょっと買い物行ってくる!」
「え? あっ……」
だかだかと足音を立てて走り去っていくクチナの背中を見送り、マリアンヌは怪訝そうにチエリへ目をやる。
「……もしかして邪魔した?」
「あー……うーん。ちょっとだけ」
「それは済まなかったね……」
マリアンヌに否がある訳ではない。チエリはぺちぺちと頬を叩くと、居住まいを直して彼女に向き直った。
「聞きたいことって?」
「ああ、エノクを見なかったかい? 掃除してたら見つけたんだけど、これ彼のだろ」
そう言ってマリアンヌが掲げたのは何やら小さな羽根のついたアクセサリーであった。チエリはあーっと声を上げる。確かに、それはエノクの持ち物だ。
「鞄に付けてたお守りですね。知らないうちに取れちゃったのかな」
「無くしても困る物じゃないかもしれないけど、返した方が良いと思って。今どこにいるかな」
「そういえば、あたしも朝から見てないや」
どこ行ったんだろ? と顔を見合わせて首を傾げる二人のやり取りを、廊下で立ち聞きしている人物がいた。神妙な顔をしたモモコである。彼女はチエリとマリアンヌには聞こえないように静かに息を吐き出すと、音もなくその場を立ち去っていった。
◆
近頃、顔も名前も知らない両親について思いを馳せる事が増えた。目の前を通りすぎていく人の波をぼんやり見つめながらエノクは考える。十歳の誕生日に実の子ではないと教えられて以来、育ての母と祖父が本当の両親について触れる事は一度も無かった。だからエノクも何も訊けずにいた。
ただ一度だけ、同じ里の大人が自分について話しているのを聞いてしまった事がある。「大きくなるにつれ、少し父親に似てきた」と。その言葉を当時のエノクはとても不気味に思った。知りもしない人間に似ていると言われるのは、何だか居心地が悪かった。自分を通して別の誰かを見られているようでもあり、素直に嫌だと感じたのだ。
──なんて、とりとめも無い事ばかり考えるのも、どれもこれも現実逃避でしかない。ひとつ息を吐いて天を仰いだ。だだっ広い空もその上を流れる雲も、昼から夕方に移り変わる前の日差しに照らされて金色に光っている。
「さよならだ」と少年は言った。
二度と戻ってくる気は無いのだろう。そうでなくてはあんな事を言うものか。そして自分がそうであるように、彼にも為すべき事がある。理解はしている。しているが、納得できるかはまた別の問題だ。
不思議な存在だったと思う。見かけは幼い子供のようでいて、その実老成した大人のようでもあった。自分より余程頼りになって、戦いの場でもそうでない場でも何度も助けられた。第三迷宮で初めて現れてから時折顔を出すようになってから気付けばいつも傍にいた。したり顔で隣に浮いている彼の姿が日常に溶け込んだのはいつの頃だったか。どんなものでもいつか必ず別れの時が来る。分かっていた事だったが、それが今だとは、これっぽっちも。
自分にとって彼は何だったのだろう。単なる仲間と言うには近すぎて、身内と言うには遠すぎる。居もしない父親に重ねた事もあったが、よくよく考えてみればそれも少し違う気がする。答えが見付からないまま彼は行ってしまった。
──これで良いのか?
昨夜から何度も重ねた自問をまたも繰り返す。すぐそこに見えている答えに気付かないふりをするのもそろそろ限界だ。このまま彼と別れて、ヨルムンガンドとの戦いに向かって、勝利して……そうしなければならないのは分かっている。分かっているが──それでもやはり納得できない。
衝動は腹の内からじわじわと湧き上がって全身を駆け巡る。細胞の一片に至るまでが叫んでいる。ここで立ち止まってはいけないと。
つまらない意地で、下らない子供の駄々だ。そんな事は承知の上だ。それでも、「ここで諦めてしまったら絶対に後悔する」。かつての自分が言った言葉だ。彼が肯定してくれた言葉だ。それさえ曲げてしまって、誇り高いハイランドの戦士になどなれるものか。
深く息を吸う。吐く。思い出す。何度だって反芻する。胸に刻み付けたあの言葉を。
『何を信じ、何を否定するか、常に己に問い続けろ。そう在る限り、』
「総ての正義はここにある」
頬を叩いて走り出した。じきに陽が暮れる。エノクはもたれかかっていた鉄柵から腰を上げて駆け出した。道行く人は誰も彼を振り返らなかった。雑踏の中を前だけ見据え、彼は往く。心中でもう一度問う。
これで良いのか?
良くないに決まっている。だからこうして走っているのだ。
診療所の前まで戻ってきたエノクは、目の前の光景にあっと声を上げた。玄関前にモモコが立っている。彼女はエノクの姿を認めるとゆっくりと足を踏み出して彼の前に立った。
「モモコさん」
「行くんですね」
モモコは静かに問うた。エノクは目を見開いて、暫し迷った後そっと頷く。そうですか、と呟き、彼女は困ったように笑う。
「そうなる気はしていました。……これも運命というものですかね」
「あの……ごめんなさい、僕……」
「良いんです」
エノクがはっと顔を上げてみれば、モモコは予想に反して穏やかな瞳で彼を見つめていた。陽の光が彼女の背中越しにまばゆく射している。金色に照る街の陰が二人の足下を覆う。
モモコはもう一度、噛み締めるように言う。
「良いんです。好きなようにしなさい」
「…………」
「貴方の試練です。貴方が為す事に、貴方自身が納得できなければ、何も意味が無い」
ひとつ呼吸を置いて、目を伏せて。それからモモコは笑った。エノクはほんの一瞬、彼女が自分と同じ歳くらいの少女であるかのように錯覚した。それほどまでに、晴れやかな笑顔だった。
「世界の命運なんて、大人(わたしたち)に押し付けてしまいなさい! 貴方はまだ、自由で良いんです。私が許します」
「モモコさん……」
エノクは少しの間その場に立ち尽くしていたが、やがて自身の頬をぺちぺち! と叩くとモモコをまっすぐに見つめて応えた。
「絶対、すぐに戻ってきます。約束します」
そう言って診療所へ入っていこうとしたエノクを、モモコは再び呼び止めた。足を止めて振り返れば彼女は紫苑色の目を細めてこちらを見ている。
モモコは凪いだ水面を揺らすような声で言う。
「彼に訊ねておいてください。私は約束を守れましたか、と」
エノクは何度か瞬きをして、それから力強く頷いて玄関の扉を潜った。青年の背中が扉の向こうに消えていったのを確かめて、モモコは建物を囲む塀にそっと寄りかかる。長く息を吐き出して天を仰ぐ。街を覆う巨大な屋根の向こう側、水平線に接した場所から青い空がじわじわと橙に染まっているのが見える。
じきに日が沈む。
ギルドの仲間達は丁度どこかへ出かけてしまっているらしかった。間借りしている病室で装備を整え、急いで廊下に出たエノクだったが、そこで待っていたものを見て足を止めた。
所々に傷の走る赤い鎧を纏ったエレオノーラは、街角ではぐれた親を待つ子供のような顔でそこに立っていた。どうしたのかと訊きたげなエノクの胸のあたりを見つめながら彼女は掠れた声で言う。
「一緒に連れていって」
それきりエレオノーラは唇を噛みしめて俯いた。エノクは彼女の赤く腫れた目元に気付かないふりをしながら問い返す。
「良いの?」
「……あれ(・・)をここまで連れてきたのは、私だもの」
少女の真紅の瞳がエノクを捉える。切羽詰まった目だ、と思った。むかし故郷で檻越しに見た、手負いの若い狼と似ている。
「何かあったら、捨て置いて良いから」
「…………」
呟くような、それでいて有無を言わせない声色で言うエレオノーラにエノクは僅かに眉をひそめ、考えるような素振りを見せた後でそっと右手を差し出した。エレオノーラはグローブに包まれた掌を戸惑ったように見下ろす。しばしそうしていた彼女だったが、やがて意を決したようにその手を取った。思っていたよりも幾分か小さいエレオノーラの手を引き、エノクは告げる。
「行こう」
そうして診療所を飛び出した若者達を誰が見咎める事もなかった。マギニアを下りた二人は平原を抜けて真っ直ぐに磁軸を目指す。向かう先はレムリア島の中心、聳え立つ世界樹の、その麓だ。
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