【SQ5】序章

 重い足を引きずり、必死の思いで一歩踏み出す。体に力が入らない──頭の中にかかった靄を振り払おうと首を振るがそれは叶わず、霞んだ視界が僅かに左右へ揺れるばかりだった。

 微かに聞こえてきた苦しげな声が誰のものかという事すら、すぐには分からなかった。そうか、今のはわたしの……そう気付いた瞬間、張り詰めていた糸が切れた。僅かに残っていた力すら失った彼女の肢体は儚くもその場に崩れ落ちる。冷たい石畳の感触を腹に、胸に、頬に感じながら彼女は呻き声を漏らした。

 ここで倒れる訳にはいかない。なのに、もう指一本も動かせない。全身を押し潰す倦怠感と苦痛にいよいよ瞼すらも下りてきた。暗くなる視界の中、絶望と共に旅を終えようとしていた彼女の耳に、知らない声が届く。

「だ、大丈夫ですかっ!?」

 次の瞬間、身体が浮く感覚がした。薄らと目を開ければ、すぐ傍に誰かがいるらしい事だけ分かった。彼女はその人物に話しかけるため口を開こうとする。しかし、紡ごうとした言葉は何ひとつ形にはならなかった。

「……ぅ、……」

 乾いた唇の隙間から漏れた声に、傍にいる誰かは焦りの滲んだ声を返す。

「大丈夫です心配しないで! ええと、そうだ、今お医者様を……!」

 違う──動かない腕を必死に持ち上げ、彼女はその人物へ手を伸ばす。僅かに曲がった指先が服に引っかかった。はっと息を呑む音──そして、優しく手を握られる感触。久しぶりの温もりに他人事のように驚きながら、彼女は声を振り絞る。

「……ぅぅ……お、お……」

「お?」

「おなか……すいた……」

 彼女がそう告げたのと、ぐぎゅるるる、と盛大な音が辺りに響いたのとはほぼ同時だった。


     ◆


 「アルカディア」。それがこの世界の名だ。

 平和な世界、なのだろう。豊穣の化身たる大樹を中心に広がる広大な大地にはこの数百年大きな戦火の影は無く、四大種族をはじめとした多くの人々は至って平凡に争い、いがみ合い、混ざり合いながら日々を送っている。

 大陸の中央部、イシス平原を横断する赤の街道沿いに存在するこの小都市も、ありふれた平穏を享受する街のひとつだった。農具を背負って通りを行くアースランに大量の本を抱えた顔色の悪いルナリア、立派な馬車を見張る帯剣したセリアン、そして道端に商品を並べて行商するブラニー……いずれも多くの種族混合都市で見られる、よくある光景だ。

 ただここ一年ほどで、その光景の中に見慣れないものが増えた。例えば見慣れない民族衣装を纏った異邦人。あるいは衛兵でもないのに武具を買い求めていく一般市民。またあるいは旅の用意を整えて街を出ていったきり帰ってこない若者。そして……彼女のような、素性も知れぬ旅人。

「ありがとうございます! お陰で飢え死にせずに済みました!」

 眩いばかりの笑顔でそう言った少女に、青年は曖昧な笑みを返した。

 ここは街の片隅にある医院である。言うまでもないが、満面の笑みを浮かべるこの少女は今この場においては患者という立場だ。そして青年は道端で倒れていた彼女をここに担ぎ込んだ通りすがりの善良な市民である。

 人通りの少ない路地裏で倒れ込む少女……そんな異様な光景を発見した時、青年は思わず事件性を疑った。何故なら近頃この街はある理由のために余所からやって来る旅人の数が急増しており、それに伴って少しばかり治安が悪くなってきているのだ。

 年若い婦女が、こんな人目のない路地で。青年は最悪の事態を想像した。しかし次の瞬間、彼の推測は見事に外れる事となる。というのも、息も絶え絶えの少女から聞こえてきたのは紛れもなく腹の虫で、そして慌てて駆け込んだ医院で下された診断は「空腹」──つまり少女は腹を空かせて行き倒れていただけだったのである。

 とはいえ空腹を侮る訳にはいかない。自力で動けなくなる程の空腹ともなれば命に関わる可能性も十分にある。幸い、少女の状態はそこまで重篤ではなかった。

 机を挟んで向かい合わせに座る二人の間には空になった食器の数々が並べられている。当然ながら、それらは全てこの少女に向けて出されたものだ。腕利きと評判の薬草師(ハーバリスト)お手製の胃腸に優しい薬草粥や薬草スープの数々は、すっからかんになった彼女のお腹を十分に満たしてくれたらしい。

「このご恩をどうお返ししたら良いか……何かご用があれば仰ってください! わたし、何でもいたします! あっ、身ぐるみ剥がすとか、そういうのはちょっと遠慮しますが」

「いや、別にそこまで言われる程の事では……それに、何でもとか軽々しく言うのは良くないと思うな……」

「そうですか?」

 きょとんと眼を丸くする少女を見て青年は何とも言えない表情を浮かべる。彼は年端もいかない女性が一人で旅をしているらしいという事実を遠回しに咎めたつもりだったのだが、少女はそれには気付かなかったようだ。向けられた視線を一切気にする事なくナプキンで口元に残ったお粥の跡を拭いていた彼女は、突如あっと顔を上げて青年をまっすぐに見つめる。

「そうでした、まだ名乗っていませんでしたね。わたしの事は、エール。エールと呼んでください」

「ああ、私はマリウス。どうぞよろしく……?」

 エールがにこりと笑って右手を差し出せば、マリウスもおずおずとそれに応えた。方や眩いばかりの笑顔で、方やどこか不思議そうな表情で、控えめな握手を交わす二人の視界の外で小さなノックの音が響く。手を離してそちらの方向に目を向ければ、エールを診てくれたブラニーの薬草師がドアを開けて部屋に入ってくるところだった。少し高い──他の種族にとっては、かなり低い──位置にあるドアノブをよいしょと回してやって来た彼は、エールの姿を見ると安心したように丸い頬を緩める。

「やあ、元気になったかい」

「はい! おかげさまで。どうもありがとうございました」

「どういたしまして。もう一晩はここで休んでてね」

 椅子によじ登って空になった食器を確認し、薬草師はのんびりとした口調でエールに告げる。

「本当は空腹の時に食べ物を入れるのってあんまり良くないんだ。混ぜた薬草が体に合ってない可能性もあるし、しばらく様子を見たいからね」

「分かりました。ご迷惑をおかけします」

「で、治療費はそちらに請求すれば良いんだよね?」

 そう言いながら彼は眼鏡の奥の温和な瞳をマリウスに向ける。はいと頷いて懐から財布らしき小袋を取り出したマリウスを見て、エールは目を丸くした。彼女は慌てて立ち上がると二人の間に割って入る。

「ま、待ってください! 助けてくださった上にお金まで払ってもらうなんて、申し訳ないです!」

「でも君、失礼だけどお金あるのか……?」

 マリウスの問いにエールはうっと言葉に詰まった。いそいそと椅子の傍に置いてあった荷物を漁り、財布を開いて中身を確認する。当然ながらすっからかんだ。底の方に小銭がいくつか入っているがこれでは黒パンのひとつさえ買えない。それでも彼女は僅かばかりの硬貨を掌に乗せ、震えながら薬草師に差し出す。

「これでなんとか……」

「うん、無理だね」

 にべもない。しゅんと肩を落とすエールを見上げ、薬草師はふうむと唸ると顎に手を当てて何やら考え始める。

「そんなに自分で払いたいのかい?」

「はい! マリウスさんにこれ以上ご迷惑をおかけするわけには……!」

 エールの言葉を受け、薬草師はマリウスに視線をやる。彼は財布を握ったまま困った表情で突っ立っている。それはそうだろう、当の本人は最初から治療費を肩代わりするつもりでいたのだ。今更ごねられてもむしろ困るというものである。

 視線だけで助けを求めてくる青年の姿に溜息を吐き、わしわしと頭を掻くと薬草師はエールへ向き直って告げる。

「じゃあ、代わりに肉体労働で返してもらおうかな」

「肉体労働……?」

「ちょ、ちょっとそれは……!」

「違う違う。変な意味じゃなくて」

 さっと顔色を変えたマリウスに苦笑しつつ、薬草師は詳しく語り始める。

 曰く、彼は商売道具である薬草をしばしばこの街から少し離れたにある森から採取してくるのだが、近頃はその森に入った者が獣に襲われる事件が増えているのだという。いつもなら護衛を雇って採りに行くが今はそういった事情もあってか中々望みの金額で引き受けてくれる人がおらず、たいへん困っている。そこでエールが護衛として採取に同行してくれるのなら、その働きをもって治療費の代わりにしてもいい、と。

 話を一通り聞き終えたエールはしばし考えこみ、やがて力強く頷く。

「分かりました。その依頼、お受けします」

「良いのかい? こっちから言っておいてなんだけど、本当に危ないって話だよ」

「それでご恩が返せるなら、安いものです! それにわたし、剣の腕には少し覚えがありますので」

 言われてみれば確かに、彼女の荷物の中には使い込まれた様子の細身の剣がある。ぐっと拳を握ってやる気に満ちた様子を見せるエールに薬草師は少々気圧されたように相槌を打った。

 と、そこで静かに話を聞いていたマリウスが口を開く。

「すみません。その採取、私も同行して良いですか?」

「ん……? お兄さんも? でも……」

「そんな、マリウスさんにまで着いてきてもらったら本末転倒です」

 エールが困ったように言う。薬草師も彼女と同じような表情を浮かべていた。そもそもこれまでのやり取りは彼に金を払わせずに場を収めるためのものだったというのに、いったい何を言い出すのか。

 エールの訴えにいやいやと首を振り、薬草師の咎めるような視線をそれとなくいなしながらマリウスは応える。

「じつは私も例の森に行きたくて」

「それまた、どうして」

「ああ、そのー、絵を描くのが趣味なんですが……あの森に自生している植物から良い顔料が採れるんです。この街ではあまり流通していない物なので、自分で採集した方が早くて」

 早口で言いながらマリウスは困ったように笑い、頬を掻く。

「最近は獣の話もあって一人では行きづらかったんですが、エールさんが同行してくれるなら丁度いいと思って。ただ乗りのようで申し訳ないけれど……」

「いえ、大丈夫です。つまりわたしがマリウスさんを護衛するという事ですね! お安い御用です!」

 溌剌と頷くエールにマリウスもほっとした表情を浮かべる。話がまとまったところで、こちらも安堵した様子の薬草師が採取の詳しい内容について説明し始めた。机に広げられた森の地図を覗き込みながら薬草師の話を熱心に聞くエールの横顔を、マリウスはこっそりと眺める。


     ◆


 翌日。太陽も高くなり、活気づき始めた大通りを前にしてエールは忙しなく辺りに視線を巡らせていた。彼女が立っているのは医院の玄関の前である。薬草師の看病の下で一晩過ごし、すっかり元気を取り戻した彼女は、昨日の約束通り薬草を取りに出発しようとしていた。

 異郷からの流れ者だろうか、すぐ傍を通り抜けていったこの地方では見かけない衣装の集団を物珍しげに眺め、少女はぽつりと独りごちる。

「あの人たちも、あちら(・・・)へ行くのかしら」

「──あっ、いたいた! エールさんですよね?」

 突如背後から聞こえてきた声にエールは驚いて振り返る。視線を下にやれば、そこにいたのは大きな鞄を肩から下げたブラニーだ。

 彼は振り返ったエールの顔を見ると、人懐っこい笑顔を浮かべる。

「はじめまして、僕はエスメラルダ。薬草の採取に同行させてもらいます。よろしくお願いします」

「まあ! こちらこそよろしくお願いします!」

 ぺこりと頭を下げたブラニーに、エールも元気よくお辞儀を返す。依頼主の薬草師からは「採取には助手を同行させる」とあらかじめ伝えられていた。話の流れからして、エスメラルダがその助手なのだろう。

 エスメラルダは鞄のベルトを直しながらエールの隣に並ぶ。癖のついた茶色い頭を見下ろしながら、エールは彼に訊ねた。

「先生は採取はなさらないんですね」

「たまに出たりはするんですけど、今日は別の用事で忙しくて」

「あら……! お忙しいのに助手さんをお借りしてよろしかったんですか?」

「あ、大丈夫です。僕、今日でこの医院辞めるので」

「えっ!?」

 予想外の一言にエールが驚愕しているその間に、エスメラルダはあっと声を上げて大通りの人混みを指さす。

「あの方がマリウスさんですか?」

 反射的にそちらを見てみれば、人の波に揉まれながら近づいてくる人影は確かにマリウスだ。昨日は着ていなかった臙脂色のコートを羽織り、何やら細長い荷物を背負った彼はエールたちの姿を見ると表情を緩めて駆け寄ってきた。

 初対面のエスメラルダとの挨拶もそこそこに、マリウスは二人を急かすように通りの向こう側を示す。

「馬車を取ってきたんだ。早速出発しよう」


 目的地の森は街から少し離れた場所にあり、マリウス曰く「歩いて行けなくもないが、できれば歩いて行きたくはない」程度の距離を移動する必要があるらしい。エールは馬車代を出させてしまった事に難色を示していたが、マリウスはいやいやと苦笑して彼女に応えた。

「私が歩きたくなかっただけだから気にしないでくれ。それに護衛が往路で疲れて戦えなくなってしまったら、こちらも困るわけだし」

「確かに。先生にもそんな気遣いができれば良かったんですけど」

 馬車の揺れのせいで跳ねる体を押し留めながらエスメラルダが言う。エールとマリウスは何も言わず誤魔化すようにはにかんだ。気遣いができないというよりは、倹約家なのだろう。あの薬草師は。

 馬車はしばし街道に沿って西へ進んでいたが、途中の分かれ道で南へと進路を変えた。周囲の風景を見ようと窓に頭を寄せたエールが、唐突にあっと声を上げる。

「あの、あれ……!」

「え? ……ああ、ここからだと全景がよく見えるな」

 エールの視線を追ったマリウスが得心いったように頷く。少女がどこか気圧された様子で見つめるのは、進行方向の遥か先にそびえる巨大な樹だ。その大きさは言葉で表せるようなものではない。アルカディア中のどこを探しても同じものは二つとない、もしあの樹が身ひとつで天を支えているのだと言われても違和感のないような、圧倒的な威容でもってアルカディアの中心に鎮座するそれを──人々は、世界樹と呼んでいる。

「こんなに近くで見たのは初めてです……」

「麓に行けばもっと近くで見られますよ。僕も近いうちにそっちに行くんです」

 座席に膝立ちになって外を見ていたエスメラルダが言う。驚いた表情で振り向く二人に、彼は照れくさそうに視線をさまよわせながら告げた。

「冒険者になるんです。アイオリスで……だから今日があの医院での最後の仕事ですね」

「本当ですか!?」

 少女が一声叫び、がばりと身を乗り出してエスメラルダに詰め寄った。目を白黒させる彼の手を取るとエールは興奮した様子でまくし立てる。

「わたしも! わたしも冒険者になるために旅してきたんです! でも途中で路銀が尽きて行き倒れてしまって、それで助けていただいたご恩を返すためにこうして働かせてもらってるんですけどねエヘヘ」

「そ、そうだったんですか」

「エスメラルダさんさえよろしければ、アイオリスまで一緒に行きませんか!? あ、無理にとは言いませんけど……」

 エスメラルダはにじり寄ってくるエールから逃れるように身を捩りつつ、ちらりとマリウスに目をやった。助けを求める視線を受けた青年はしかし、困ったような笑顔を浮かべるばかりで何も反応する気配がない。

 鼻息荒く返事を待つエールに、エスメラルダはか細い声で応える。

「考えておきます……」


 もうすぐ着きますよ、と御者が声をかけてきたのは、いよいよ世間話のネタも尽きつつあった頃だった。窓から三人揃って外を覗き込めば、進行方向に鬱蒼とした森林が存在しているのが見える。

「あそこですか?」

「そうです。薬草が生えているのは道のない奥まった場所なので、降りてから少し歩かないといけませんね」

 そう言いながら鞄を開けて荷物の整理を始めるエスメラルダに倣い、残りの二人も馬車を降りる準備に取りかかる。ほどなくして座席の下から伝わってくる揺れが止まった。御者の声に従って馬車を降りれば、そこは先ほど見えた森の目の前である。

 マリウスが御者の元へ近づいて何やら話している間、エールとエスメラルダは森の中の様子をじっと窺う。外から見る限りこれといった異常は確認できないが、危険な獣とやらは一体どこにいるのだろうか。噂によれば、その獣はとても獰猛な四つ脚の何からしいが……。

「待たせてすまない。行こうか」

 話を終えたらしいマリウスが二人の元へ戻ってくる。同時に馬車は再び走り出し、道の向こうへと去っていった。どうやら帰りまで待ってくれるわけではなかったようだ。

 まあ、復路の事は用事を済ませてから考えれば良い。三人は頷きあうと、慎重に森の中へ足を踏み入れる。

 辺りは静謐な空気で満ちていた。時折頭上で微かな鳥のさえずりや木々のざわめきが聞こえてくるが、その他にこれといった生物の気配は無い。エールが剣を抜いて周囲を警戒しながら呟く。

「静かですね。人を襲うような獣がいれば、すぐに分かるような気もしますけど……」

「どうだろう。聞いた話だと猪くらいの大きさだったそうだが……とにかく早く薬草を採ってしまおう」

「じゃあ採取できる場所まで移動しますね。こっちです」

 そう言ってエスメラルダが地図を手に歩き出す。思いのほか迷いのない足取りで進んでいく彼を、エールが慌てて追った。数歩距離を置いてマリウスも続く。

 まとわりつくような静寂が耳に痛い。三人分の足音だけでは掻き消せないそれを誤魔化すように、マリウスが口を開く。

「エールさんは剣士のようだけど、どこかで騎士か何かをしていたのか?」

「えっ。ええと……違いますよ」

「そうなんですか? 鎧とか良い物みたいですし、僕はてっきり騎士さまなのかと」

 エスメラルダの言葉にエールは曖昧に微笑む。不思議そうに首を傾げたマリウスが再び問いを投げようとした、その時だった。右手の茂みから微かな物音が響く。はっとしたエールが剣を抜いて構えた次の瞬間、草の間から飛び出した何かが唸り声を上げて飛びかかってくる。

 明らかにまともには受けきれない大きさのそれを、エールは寸前で身を捩って避けた。標的を失い地面を跳ねるようにして着地したその正体は、猪のような大きさの……犬、だろうか。凶悪な牙を持つ垂れ耳の赤犬は、獰猛な表情でこちらを睨みつけている。

「あれが……例の獣ですか」

 マリウスのコートの陰に隠れながらエスメラルダが呟く。マリウスはひとつ頷き、背負っていた細長い荷物に手をかけた。が、同時に赤犬も再び地を蹴って襲いかかってくる。

 エールは獣の突進をまたもひらりと躱すと、振り返りざまに厚い筋肉に覆われた背へ剣を突き立てた。弾かれたように暴れだす赤犬の毛皮を血の色が染めていく。もう一度、今度は頸を狙って突きを繰り出そうとしたエールだったが、もがく赤犬が不意に跳ね上げた土が彼女の意識を逸らした。

 目許にかかった土を払い落とそうとしたエールの脚に、暴れる獣の頭が激突する。

「わっ……!」

「エールさん!」

 バランスを崩して尻餅をついたエールを見て、エスメラルダが思わずといった様子でマリウスの陰から飛び出した。だがエスメラルダが行動を起こす前に獣は暴れ狂った勢いのままエールへと牙を剥く。

 瞬間、破裂音が響き渡った。咄嗟に腕を掲げて身を守ろうとしていたエールの目の間で、赤犬がキャン! と悲鳴を上げてよろめく。そのままおぼつかない足取りで駆け去っていく獣の姿を見送り、エールとエスメラルダは顔を見合わせた。

 二人が揃って背後を振り向けば、マリウスは小さく息を吐いて構えを解いた。いまだ薄く硝煙を上げる銃口を地面に向けて彼はエールに問う。

「怪我はしてないか?」

「あ! えっと、転んだ時に腰を少し……あ痛!」

「僕が治療します。手持ちの薬草じゃ痛み止めくらいしかできませんけど」

 そう言いながらエスメラルダが鞄から薬草らしき植物をいくつか取り出し、エールの腰のあたりに添える。そして口の中で何事か呟くと薬草が淡い光を放ちだした。驚いて身じろぎするエールにエスメラルダは笑いながら告げる。

「ハーブ治療を見るのは初めてですか? まあ、普通は街ではこういう方法は使いませんからね」

「さて……悪いけど、治療が終わったら移動しよう。あいつを追いかけたい」

 重砲に弾を込め直しながらマリウスが言う。警戒した様子で辺りを見回す彼の表情は真剣だ。大人しく治療されていたエールは暫しぽかんとその横顔を見つめていたが、やがてはっと我に返ると剣を手に立ち上がった。腰の痛みはすっかり引いた様子で、彼女はむん! と威勢よく拳を握る。

「行きましょう! 危険な獣ですから、他の皆さんのためにもきっちり仕留めないとですね!」


 結果から先に言えばエールの気合は完全に空回りする事になった。というのも、点々と残った血痕を辿って獣の行方を追った三人が森の奥で見たものは、既に事切れた赤犬の姿だったのである。

 そして、その場にはもうひとつ目を引くものがあった。木々の隙間に隠れるように置かれた、黒く光る鉄の檻……内側から無理やり破られたかのように破壊されたそれを見て、マリウスが深い溜息を吐いた。

「やっぱりか……」

「やっぱりってどういう事ですか?」

「うーん、色々とややこしい話になるんだが」

 その前に、とマリウスは懐から一発の弾丸を取り出すと、重砲に込めて空中へ向けて引き金をひいた。それから少し間を置いて頭上から軽い破裂音が聞こえてくる。目を丸くする二人にマリウスは信号弾だ、と苦笑してみせた。

「近場に騎士団が駐屯しているんだ。この森の事はそれなりに問題になっていたし、勝手に片付けるのはまずいだろう」

「そうなんですか?」

「そうなんだ。それで、ええと……この獣の事だな。こいつは恐らく、密輸入されてきた魔物だ」

「魔物……」

 倒れ伏したまま微動だにしない犬を横目にエスメラルダが呟く。確かにこの獣の姿形はただの動物と言うには少し違和感がある。それが特異な力場の影響を受け、通常の動物にはない強大な力を持って生まれた生物……魔物なのだと言われれば、納得はできるが。

 再び溜息を吐き、マリウスは話を続ける。

「最近増えているんだ。アイオリスから運ばれてきた魔物が別の街に放される事件が」

「アイオリス……って事は」

「そう、世界樹の迷宮……だな」

 エールとエスメラルダの表情が曇る。世界樹の迷宮──かの世界樹の内部に存在する未知の迷宮を、人々はそう呼ぶ。この迷宮こそ現在アルカディア各地でにわかに「世界樹ブーム」が巻き起こっている原因であり、多くの冒険者たちがアイオリスに向かっている理由でもある。

 マリウスの話が本当なら、この赤犬は世界樹の迷宮から遥々この森まで連れてこられ、挙句の果てに何らかの理由で放置されたという事になる。それはそれで気の毒な話であるが……。

 神妙な表情で黙り込む二人に、マリウスがおずおずと訊ねる。

「本当にアイオリスに行くのか?」

 顔を上げたエールがぱちりと目を瞬かせた。

「こんな魔物が山ほどいるんだろう。既に多くの犠牲者が出ているとも聞くし……それでも冒険者になるのか」

 その言葉は揶揄や皮肉というよりは、純粋な疑問のようだった。どこか困ったような表情を浮かべて見つめてくるマリウスの問いに、エスメラルダが先んじて答える。

「そうですね……まあ怖くはありますけど、もう決めてしまったので。僕、仕事辞めましたし」

「そういえば君はそうだったな……」

「呑気でいられるのは本当の危険を知らないからだ、なんて言われたら何も言い返せないですけど。……エールさんはどうですか?」

 エスメラルダに話を振られたエールは、一瞬言葉に詰まった様子で視線を彷徨わせた。しかしすぐに笑顔を浮かべると明るい声で応える。

「わたしもエスメラルダさんと同じようなものです。ご存知のとおり一文無しですし、剣くらいしか取り柄のないわたしが生活するには、危険を恐れてはいられませんから」

「そうか……」

 少女の言葉を聞いたマリウスは俯いて何事か考えだす。その間にエスメラルダがエールに向き直った。大きな鞄のベルトを握りしめながら、彼は照れ臭そうに微笑む。

「あの、エールさん。行きがけに言ってたアイオリスに一緒に行くって話、あれ、お願いしてもいいですか?」

「え! こちらこそ良いんですか!?」

「エールさんは腕が立つみたいですし……ひとりで仲間を探すより二人の方が良いと思うので。僕も治療術でお役に立つので、よろしくお願いします」

「はい! お願いしますね!」

 にこやかに握手を交わす二人を見ていたマリウスが、ふと顔を上げて何事か話しだそうとした……が、突如聞こえてきた軽い破裂音に遮られた。三人揃って空を見上げれば、木々の隙間に先程マリウスが撃ち上げたものと同じ信号弾が見える。

「『これより救援に向かう』だそうだ」

 マリウスが呟く。彼は赤犬の死骸と壊れた檻をちらりと見やり、それからエールとエスメラルダに小さく笑いかけた。

「その……私もひとつお願いしたいんだけど、良いかな」

 急な申し出に二人は目を丸くする。しかし続いて告げられたマリウスの「お願い」に、二人の目はますます丸くなる事になるのだった。


     ◆


 数日後の事である。

 街は常のごとく行き交う人の姿で埋め尽くされている。数日前と同じように大通りを歩く見知らぬ集団をじっと見つめていたエールは、目の前を通り過ぎていったブラニーの集団を見送りながらぽつりと独りごちる。

「あの人たちが全員アイオリスに行くとしたら、馬車が足りなくなってしまうのではないかしら……」

「いや、あれはたぶん商隊なので冒険者ではないですね……」

 隣に立つエスメラルダが静かに突っ込みを入れる。彼は薬草の入った肩かけ鞄の他に大きなリュックも背負っており、どちらかというと荷物を持っているというよりは荷物に持たれているというような様相になっていた。見兼ねたエールはひとつ持ちましょうかと提案したが、見た目ほど重くないのでと遠慮されてしまった。明らかに重そうなのだが、小さなブラニーの体のどこにそんな膂力があるのだろうか。

「これからは荷物がどうなんて言ってられなくなりますからね。鍛えておくに越した事はありません」

 そう言うエスメラルダの表情は平然としている。エールはむむと唸った。わたしも荷物を多くしておくべきだったかしら……と考え込む彼女をよそに、エスメラルダがあっと声を上げて大通りの人混みを指さす。

「来ましたね」

 エールがそちらを見てみれば、いつぞやと同じようにマリウスが人の波に揉まれながら近づいてくるところだった。エスメラルダに負けず劣らずの大荷物を背負った彼は、人混みから脱出すると少しほっとしたような表情を浮かべて二人の元へ駆け寄ってくる。

「待たせてすまない」

「いいえ、大丈夫です。行きましょう!」

 アイオリス行きの馬車の発着場はすぐそこだ。意気揚々と一歩踏み出したエールに続き、エスメラルダとマリウスも歩き出す。


 さて、この一歩がやがてアルカディア中を震撼させる大事件のはじめの一歩になるとは、本人たちどころかこの世界に生きる誰もが思いもしなかっただろう。今はただ冒険者が三人、時勢の波に乗って旅立ったというだけの話である。彼ら彼女らの長い物語はまだ始まったばかり。となればここは、お決まりのフレーズで締めくくっておく他はないだろう。

 ──これは、理想郷(アルカディア)と呼ばれし世界の物語り。

0コメント

  • 1000 / 1000