【SQ5】9 私の望みは
エールが負傷のためパーティーを抜けてから既に二週間が経過している。『カレイドスコープ』はしばし慣れないメンバーである事を考慮して歩き慣れた一層に赴いて戦闘訓練を行ったり、いつもより慎重に探索したりする日々が続いていたが、数日前になってようやく九階にまで辿り着いた。
迷宮九階……奇岩ノ山道を抜けた次の階層を山頂だとすると、おおよそ七合目を越えたあたりだ。標高が高いせいか下層より冷たく感じられる風の温度に腕をさすりながら、ジュディスは少し離れた壁際で何やらごそごそしているマリウスとエスメラルダに声をかける。
「終わったか?」
「はい! これ、中においしい果汁が詰まってるので、ジュディスさんもよかったらどうぞ」
駆け戻ったエスメラルダがそう言いながら片手に持っていた何かを差し出してくる。受け取ってみればどうやらそれは植物だ。分厚く水分を蓄えた果肉……サボテン、だろうか。見れば、エスメラルダは顎まわりを種子か何かで満遍なく汚しながら果肉に口をつけて果汁を啜っている。
ジュディスは渋い表情を浮かべてしばし手の中のサボテンを見下ろし、やがて意を決したように唇をつけた。軽く歯を立てれば、みるみるうちにあふれ出した甘い果汁が口内を満たす。これはなかなか、と思った瞬間、流れ込んできた感触に彼女は思わず口を離す。拍子にこぼれた液体がドレスに染みを作った。
顔をしかめて口に入った種子を吐き出すジュディスを見て、リズとケイナにサボテンを渡して戻ってきたマリウスがぎょっと目を剥く。
「姉上!? 胸元に垂れてます!」
「分かっているから、大声で言うんじゃない……」
半ば押しつけられるように渡されたハンカチで汚れた口元と胸周りを拭く。流石に慌てすぎだろう。はしたない姿を晒したところで、咎める者は誰にもいないというのに。
エールが抜けて前衛に姉弟が揃って以降も、探索でも戦闘でもこれといった問題は起きていない。当初は明らかに緊張していたマリウスもここ最近は随分と慣れたらしく、元のように……どころか、今まで以上に調子が良さそうにしている。その事を指摘されると、彼は虚を突かれたような顔をして、それからばつが悪そうに視線を逸らした。
「姉上がいるとつい安心してしまって……良くないとは思っているんだが……」
と、本人は気にしているようであるが、プレッシャーで動けなくなるよりは適度な安心感で精神的に安定している方が良いに決まっている。問題は、対するジュディス本人がどう思っているのかだが……そちらはまだ誰も訊いた事がないようだ。
ともかく事前に懸念していたようなひりついた空気感も無く、一行は緩慢な歩みながらも着実に探索を進めていた。走り回る首の長い獣を避け、サソリの監視をかいくぐり、乾いた山道を歩いていく。周囲に冒険者の姿はほとんど見られない。それもその筈である、どうやらこの階層まで辿り着いているギルドは自分たちを含めてもそらで数えられる程度の数しかいないらしい。
「まあ、メリーナさんから聞いた話だから、実際にはもっといるかもしれないけど」
「でも少ないのは本当なんだろ? なんだかすごい所まで来ちゃったな……」
ケイナが困ったように首をひねる。エスメラルダは苦笑した。確かに、気付いたら随分と見晴らしのいいところまで来てしまった。
「僕なんてまだ新人気分が抜けてないよ。そろそろ後輩に道具あげたりするべきかな? リリさんみたいに……」
「リリさんのは半分くらい本人の趣味という気がするけどな」
マリウスがそう応える。顔を合わせるたびになにかと世話を焼いてくれる先輩冒険者は、先達としての立場を示すためというよりは、本人の意向で行動しているように見えた。どちらにせよ彼女が立派な志の持ち主であるという事に変わりはないが。
とにかく、今の自分たちにはリリのように他の冒険者を支援している余裕は無さそうだ。つい先程も死角から襲いかかってきた稲妻リスに危うく黒焦げにされそうになったところである。現にケイナの装備の端は妙に黒ずんで穴があいている。帰ったら買い換えねばなるまい。
雑談に花を咲かせているうちに一行は崖に挟まれた細い道から少し開けた空間に出ていた。目前の曲がり角を覗き込めば、行く手を岩の柱が塞いでいる。これまでの道中でも何度も目にした、押し倒せそうな岩だ。その向こう側には首の長い獣……『驀進の大麒麟』が二頭、常のごとく全力疾走している姿が見える。騒々しい足音と舞い立つ土埃に顔をしかめながらケイナが一歩前に出た。
「倒していいか?」
「ああ、やってくれ」
マリウスの返答に頷きかえし、ケイナはよいしょ。と岩を押す。それは両の手のひらで軽く小突いただけの動作であるように見えたが、軽い動きとは裏腹に岩柱の根元はミシミシと音を立ててみるみるひび割れ、やがて反対側に倒れた。
手を叩いて土埃を払い落とすケイナを見てリズが問う。
「セリアンはみんな力持ち?」
「え? どうだろう……でも、たぶん皆こんなものだと思う」
「そうかなあ……」
エスメラルダの怪訝な呟きは大麒麟の足音にかき消されたお陰で鋭敏な獣の耳には届かなかったようである。不思議そうな表情で振り返ったケイナに何でもないと応えつつ、倒れた岩の向こうの様子を窺う。二頭の魔物は相変わらず、何が楽しいのか同じ場所をぐるぐると回り続けていたが、岩が崩れたおかげでそのルートが少し変わったらしい。来た道を戻って回り込めば、まだ探索できていない道へと進めそうだ。
狭い場所を揃って周回し始める大麒麟を横目に元来た狭い道を引き返していく。山道を上がってくるにつれ、こうした険しい道や崖に面した危険な道が増えてきた。現に、先程まで魔物が爆走していた道もよく見てみれば中央にぽっかりと崖が口を開ける危険な地帯だ。
危ないとは分かっていつつも好奇心に駆られたらしい。そっと崖下を覗き込もうとしたリズの腕をジュディスが掴む。
「駄目だ。……地面は随分下のようだ。落ちたら……分かるな?」
背負った棺を指先で小突きながら告げられた言葉にリズはこくこくと頷く。
足下が崩れないか細心の注意を払って確かめつつ、魔物によって踏み固められた道を辿っていく。左右からせり出す壁によって狭まった箇所を抜ければ、四方を囲まれた空間に出た。ここでは滑落の心配はしなくても良さそうだ……と一行は肩の力を抜く。と同時に、グゥと気の抜けた音が辺りに響いた。音の出所に目をやれば、僅かに顔をしかめたリズが唇を尖らせている。
「おやつ」
「ああ……近くに焚火できそうな場所、あるかな?」
「少し探してみるか」
と、マリウスが進行方向にあった扉に手をかける――その向こうに広がっていた光景に、その場の全員が凍りついた。
宝石のような塊がついた尾を掲げた巨大なサソリが一体、そこにいる。無機質な光を宿す眼がこちらを見た。鋭く地面に食い込む脚の節々には赤黒い血がこびりついている。カチリ、と牙が鳴る音。呆気に取られていたマリウスが我に返って動き始めるより、相手が鋏を振り下ろす方が早かった。
受け身も取れないまま殴り倒されたマリウスの身体が地面を跳ねる。乾いた土に点々と赤が落ちた。小部屋の隅にまで転がって止まったマリウスが起き上がる気配は無い。エスメラルダが弾かれたようにそちらへ駆けだす。彼をサソリから庇うようにケイナが前に出た……が、すぐに異変に気付く。
それは黒い霧だった。どこからともなく漂ってきたそれが『見据える捕食者』を呑み込めば、獲物を求めて宙を彷徨っていた鋏や尾の動きが途端に鈍った。大きく仰け反って苦しみだす魔物の懐に、黒い影が飛び込む。ジュディスだ。その身に黒霧を纏わせた彼女は斬り上げるように振り抜いた大鎌の一撃ひとつでサソリの首筋を深く切り裂く。勢いを殺さぬままもう一閃。横薙ぎに胴を抉られた魔物はなす術もなく仰向けに倒れ伏す。
魔物を打ち倒したジュディスはしばし肩で息を繰り返していたが、やがて糸が切れたようにその場に膝をつくと鎌にすがるように蹲った。はっとしたケイナが思わず一歩踏み出した、瞬間怒声が飛ぶ。
「近付くなッ!!」
びくりと肩を跳ねさせる彼の背中にリズが抱きつく。反射的に足を止めたケイナの眼前を黒が覆った。ジュディスを中心に渦巻くそれは敵がいなくなったにも関わらず収まる気配が無い。そしてそれは、彼女の意思によるものではないようだった。
荒い呼吸の合間に、ジュディスは絞り出すように言う。
「来ないでくれ、……頼む……」
「で、も」
彼女の様子はいかにも苦しげだ。放っておく事はできない。だがどうすればいいと言うのか。ケイナの背にしがみついたリズが、彼の帯をぎゅうと握る。
背後から驚きの声が聞こえてきたのはその時だった。振り返れば、マリウスがエスメラルダの制止を押し退けて身を起こしている。
「――ぅ、ぇ、……姉上……」
げほ、と咳き込み、彼は緩慢に頭を振る。額の切り傷は治療術によって既に塞がっているが、流れた血は乾ききっていない。髪に染み込んでいた雫が振り落とされて地面に新たな痕を残した。再び顔を上げ、マリウスはジュディスを見る。その顔に浮かぶのは紛れもなく焦りの表情だ。
「私は平気です……何ともありません、大丈夫です……大丈夫」
ですから、と掠れた声で呟いた、その続きは言葉にはならなかった。何かが喉に絡んだのか再び激しく咳き込みだすマリウスを鬼気迫る顔のエスメラルダが支えた。小声で何事か叱りつけて治療を再開する彼だが、その様子から見るに怪我そのものはさほど重篤ではないようだった。
ケイナはジュディスを見る。彼の不安げな顔を目にしたジュディスは表情を歪め、小さく頭を振る。気付けば辺りを漂っていた霧はすっかり消え失せていた。リズがケイナの背中を離れて彼女の元へ駆け寄っていく。
手を差し出してくる少女をそっと拒みながらゆっくりと立ち上がり、ジュディスは改めて周囲を見回した。心配そうに見上げてくるリズと、立ち尽くしたまま動けないケイナと、渋い表情で治療を続けながらもこちらを窺うエスメラルダと、俯いたまま大人しくしている弟と。それぞれの姿を噛みしめるように眺た彼女は、細く震えた息を吐くときつく眼を瞑った。
◆
入院生活というのはとかく退屈である。窓の外、上空を流れる雲を寝転んだままぼんやりと眺めていたエールは、ふと病室に誰かが入ってくる音に気付いて枕から頭を上げた。これからリハビリなのだと言って出ていった隣のベッドの患者が戻ってきたのだろうか、と彼女はしばし間仕切りの向こうの様子を窺っていたが、予想は外れであった。
「エール、元気ー?」
と、聞こえてきた間延びした声にエールはぱっと表情を明るくする。はあいと返事をすれば、仕切りの向こうからリズがひょっこり顔を出した。
「お見舞い」
「いらっしゃいませ! ……あれ、ジュディスさんもいらっしゃったんですね!」
リズの背後から少し距離を置いた場所に立っていた彼女に声をかければ、ジュディスは神妙な顔で頷いて間仕切りの中に入る。その間にリズが片手に持っていた包みをおみやげ~と言って布団の上に置いた。中身を確認したエールは眼を瞬かせる。小さな桃色の鉱石……確かロザフェルゼンと呼ばれる品だ。
「おまもりの代わり」
「えっ……くださるんですか? えへへ、ありがとうございます」
嬉しそうな表情を浮かべて抱きついてくるリズを受け止め、エールは鉱石を包み直すと枕元に安置する。失くさないよう大事に取っておかないと……と決意しつつ顔を上げれば、ジュディスと目が合った。彼女の表情を見て、エールは思わず閉口する。
しばし迷い、何度か口を開いては閉じを繰り返したエールだったが、やがて意を決してジュディスへ問いかけた。
「あの、何かありましたか……?」
「…………」
「その、わたしで良ければお聞きしますよ。お力になれるかどうかは、分かりませんけど……」
苦笑混じりにごまかしながらそう告げれば、ジュディスは僅かに眉をひそめて目を伏せる。何も答えないままその場に佇み続ける彼女の手をリズが引いた。控えめな力で指先を握る少女の手を軽く握り返し、深い溜息を吐いたジュディスは観念した様子でベッド脇に置いてあった椅子に腰を下ろす。
部屋の前を誰かが小走りに横切っていく気配がする。複数人の患者が寝泊まりする病室には、今は彼女らの他には誰もいないようだ。ベッドの上、ちょうどエールの負傷した右脚がある辺りをどこか遠い目で見つめながら、ジュディスはゆっくりと口を開く。
「瘴気、というんだ。あの力のことを」
包帯が巻かれた額をしきりに気にしながらマリウスは呟いた。備えつけの家具と荷物で床がほとんど埋まってしまうような狭い客室で、『カレイドスコープ』の男性陣三人はぽつぽつと今日の出来事について話し合っていた。迷宮から戻ってから今の今まであえて避けていた話題に自ら踏み込んだマリウスを、エスメラルダとケイナはどこか張り詰めた表情でじっと見つめている。
「生まれつきのもので……特定の血筋にだけ、ああいった能力を持つ子どもが突然変異的に生まれる。姉上はそれ(・・)なんだ」
「瘴気使い……ですよね。聞いた事はありますけど……」
エスメラルダが口ごもれば、マリウスは困ったように微笑んだ。その唇の端は僅かに引きつっている。
瘴気と呼ばれる力をその身に宿す「瘴気使い」は、一般的に死神(リーパー)と称され忌避される事が多い。彼ら彼女らは戦闘能力に長け、戦乱の時代には兵士として無類の強さを誇ったとも言われるが……現代において瘴気使いが忌み嫌われるのは、その力の源である瘴気があまりに危険であるためだ。
「生きとし生けるもの総てを蝕む力だ」
低い声でマリウスが言う。
「霧に触れれば力を奪われる。長く曝されていればそのうち生命までも。だから瘴気使いは疎まれる」
「でも……でもジュディスはそうじゃないだろ? 俺たちずっと一緒にいたけど、そんな事、一度も……」
「そうだ。私だって一度もない」
やや語調を強めてそう答えるとマリウスは一度言葉を切って俯いた。組んだ両手の指を所在なげに擦り合わせながら、続ける。
「幼い頃からずっと鍛錬していらっしゃった。もしもの事が無いようにと、瘴気を完全に制御するために……昔は私も傍に近付くなと言われていたんだ。辛い思いをしていたのは姉上ご自身なのに、いったいどんな気持ちでああ仰ったのか」
はあ、と重い溜息。顔を上げれば唇を引き結んで黙り込むエスメラルダと耳を伏せて俯くケイナの姿が目に入った。二人を見て僅かに瞳を細め、マリウスは蚊の鳴くような声でぽつりとこぼす。
「責めないで差し上げてほしいんだ。あの力を誰より憎んでいるのは、あのひと自身だから」
「結局のところ、一番気負っていたのは弟ではなく私だったという訳だ」
ジュディスは苦々しくそう言った。額に手をやり、少女たちの顔を見ないまま彼女は続ける。
「昂ぶれば制御が効かなくなると知っていながら、つい頭に血が昇った……すまなかったな、怖い思いをしただろう」
「……ん! ん!」
自身に向けられた言葉にリズは首を激しく横に振って応える。必死な様子の少女を見たジュディスの口元に微かな笑みが浮かぶ。どこか自嘲するような笑い方だった。
「お前たちを危険に曝すまいと思っていたのだが。思い通りにはならないな。……何も、私の思う通りには」
「ジュディスも苦しそうだった」
リズが訴えかけるように声を上げる。ジュディスは唇を引き結び、僅かに瞳を細めて呟くように応えた。
「使い手の命まで喰らおうとする、欲深な力だ。だが心配は要らない」
「でもお……」
「ジュディスさん、ギルドを抜けたりしないでくださいね」
尚も食い下がろうとするリズの言葉を遮るように、硬い声が響く。その響を耳にしてジュディスは初めて顔を上げた。声の主ははこれまで見た事のないような真剣な表情を浮かべて、ベッドの上からじっと彼女を見ている。
青い瞳でまっすぐにジュディスを見据えながら、エールははもう一度繰り返す。
「ギルドは抜けないでください。あなたが必要です」
ジュディスは思わず眉をひそめた。奇妙な圧のある声だ。だがその圧の真意が分からない。エールは口を閉ざして、ただ彼女を見つめている。
不安げに二人の顔を見比べていたリズが細い肩を揺らして下を向く。今にも泣き出しそうな顔をした彼女の髪を撫でてやりながら、ジュディスは一度、深く息を吸って吐いた。
「ギルドは……抜けない。無理を言って入ったのだ、自分の都合で勝手に抜けるのは筋が通らないだろう」
「……はい。ありがとうございます」
静かにそう言ってエールは小さく笑う。だが何故そこまで、とジュディスが続けて問おうとしたが、ちょうど部屋の外から聞こえてきた誰かの大声によってそれは遮られた。続いて騒がしい足音が響いて、それから辺りは元のような静けさを取り戻す。エールがジュディスを小さく呼んだ。振り向けば、彼女は先程とはうって変わって柔らかな表情を浮かべていた。
まず顔を上げたのはエスメラルダだった。彼はふと顔を上げると、神妙な表情であの、と切り出す。
「瘴気の害に薬草術って効くんですかね?」
「……ん?」
「いや、だってもしもの事があったら……いや無いとは思いますけど、その時に治療するのはたぶん僕だし、その辺りちゃんと把握しておかないとなって」
祈祷術みたいなアプローチの方が効くのかなあ、と考え込むエスメラルダを見てマリウスは呆気に取られた顔をして、それから気が抜けたように笑った。
「効くんじゃないか? 呪いなんかも治せるんだし」
「そうですかね……」
顎に手をあてて考え込むエスメラルダを横目に、マリウスはケイナに目をやった。頭上の耳をすっかり見慣れた角度にして困り果てた様子で固まっていた彼だったが、マリウスの視線に気付くと途端に慌ただしく視線を彷徨わせ、弱々しい声で喋りだす。
「俺……何もできなかった……」
「ああ……いや気にしなくても大丈夫だ。あの状況で近付けば大変な事になるし」
「でもそれじゃあんまりだ」
耳の角度は既に床とほぼ平行になっている。ケイナが自ら生み出した瘴気の中で苦しむジュディスを見たために心を痛めている事はマリウスにも理解できた。だがあそこで無理に接近しようものなら先に倒れるのはこちらであるし、そうなった時に傷つくのはジュディスだ。という事をどうにか落ち込んでいる彼にも納得できるように伝えようとしたマリウスだったが、それより先にしんなりとしたままのケイナがぽつりと呟く。
「もっと強くなる……瘴気が効かないくらいに……」
「え、いやそれは難しいのでは……」
努力の方向性が違っている気がするが、ともかくケイナも彼なりに今日の出来事にひとまずの区切りをつけたらしい。各々想定していたものとは少し違う方向に考え込む仲間たちを見ながら、マリウスは内心ほっと胸を撫で下ろす。仲間たちが姉を――内心どう思っているかはともかく、態度に出さないという意味で――邪険に扱うような人たちでなくて良かった。そもそも今までも戦闘で最低限使用する分には瘴気を扱っていたようであるし、彼らにとってはすべて今更な事なのかもしれないが。
自分が逃げ回っているうちに、『カレイドスコープ』はジュディスも含めてひとつのギルドとして纏まっていたようだ。それはマリウスにとって嬉しい事ではあったが、同時にその事実が重石のように胸にのし掛かってくる。
姉がアイオリスにまで来たのは、自分を追いかけてきたからだ。冒険者になったのも、自分が帰らないと駄々を捏ねたせいだ。つまり今日の事も元を辿れば自分に責任がある……それなのに、何も語らないままでいるのは不誠実なのではないか。
『何故だ、マリー……』
『何故よりにもよって、世界樹などを……』
――そこまで分かっていてなお問いに答えられないのは、ひとえに自分の弱さのためだ。
「知ってますか? 世界樹の伝説。頂に辿り着いたものは、どんな夢も叶える事ができる」
「……四種族の伝承か? まさか、そう都合の良いものが眠っているはずもあるまいに」
ジュディスはかぶりを振り、呆れた調子で応える。
前人未踏の世界樹の頂上にいったい何があるのか。伝承には様々なレパートリーが存在するが、その内容は大きく四大種族ごとに伝わるもので共通している。アースラン族は「この世界を支配する権力」を、ルナリア族は「世界の謎」を、セリアン族は「最強の武」を、ブラニー族は「莫大な富」を、それぞれあの樹の頂に見た。だが、それを本気で信じている者が、今アイオリスにいる冒険者の中にいったいどれだけ存在しているのか。
エールもまた、苦笑しながら続ける。
「でも、わたしはこう思うんです。きっとそこには、人々にそう思わせるだけの何かがあるんだと」
そう言って彼女は窓の外に目をやる。世界樹の麓に位置するアイオリスの街からは、天高い場所にある頂は目にする事ができない。鎮守の森の向こう、壁のごとく聳える幹をじっと見つめながらエールは呟く。
「わたし、どうしても世界樹の頂上に行きたいんです」
独り言のような、それでいて重みをもって響く声だった。調子を変えないまま、続ける。
「きっとこのアイオリスに集まった冒険者の皆さん全員が、何か望みを抱いてここまでやって来たんだと思います。それが大きなものでも、些細なものでも、伝説通りでもそうでなくても、誰もが何かを望んでいる。私も……きっとマリウスさんも」
ジュディスが顔を上げる。少し遅れて、エールも彼女の方を振り向く。
口元に微かな笑みを浮かべ、少女は静かに問うた。
「ジュディスさんの望みは、何ですか?」
「……私の、望み……」
その意味を確かめるように、ジュディスは投げかけられた言葉を舌の上で転がす。隣でじっと話を聞いていたリズがごしごしと目元を擦って元気よく手を挙げ、身を乗り出してエールに告げる。
「リズはみんなと冒険したい」
「ふふ、じゃあもう叶ってますね。……じゃなくて! これからもこのギルドの全員で冒険を続けられるよう、頑張らないと! ですね」
「うん」
嬉しげに笑い合うエールとリズを横目にジュディスは一人、窓の外をやる。先程までエールが見つめていた景色を自らの瞳に映しながら、もう一度唇の動きだけで呟いた。
「私の望みは……」
続く言葉は無い。清潔な病室の床に落ちたジュディスの影だけが、微動だにしないままその場にわだかまり続けている。
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