【SQ5】10 それでも愛した
すぐ耳元を、雷鳴が通りすぎていく――眩いばかりの光を放ちながら拡散した紫電を寸でのところで避けきったマリウスは、すぐさま体勢を立て直すと重砲を構えて引き金をひく。放たれた弾丸は巨大な腕にも似た異形の翼に命中した。咆哮が上がる。反撃のつもりか、相手は鋭い爪をマリウスへ振り下ろしたが、エスメラルダが投擲したスモークに視界を奪われ空振りに終わった。
忍び寄った死霊が翼に脚に絡みつきその動きを封じる。豪腕の横薙ぎひとつで拘束は霧散したが、その数秒の隙さえあれば十分だった。瘴気の衣を纏ったジュディスがその懐に飛び込み、脚を斬り裂く。傷は深い。堪えきれずバランスを崩した巨体の、傾いた半身を足がかりに、ケイナが一足飛びで駆け上がる。
刀を振り上げ、気合いの声と共に突き刺す。喉元を貫かれた魔獣は傷から血を噴き出しながら身悶えした――だが、動きは徐々に弱まり、やがて巨体は血溜まりの中にくずおれた。
空の王が、地に墜ちた姿を目にして。
五人はしばし何も言えずにその場に立ち尽くしていた。荒い呼吸を整える音だけが響く中、もう動かない魔物の鮮やかな体毛が赤く染まっていく。
そんな中、初めに我に返ったエスメラルダは小さく声を漏らすとわなわなと肩を震わせる。手から滑り落ちた薬草の束が足元に散らばるのも構わず勢いよく振り返った彼は、仲間たちを仰ぎ見て上ずった声で言った。
「勝……った。勝ったよ、僕ら!」
「っあ、ああ……」
はっと顔を上げ辺りを見回すマリウスは、まだ状況を呑み込みきれていないようだ。後衛ではリズがいつもと全く変わらない調子でやったーと跳ねている。刀を構えたままでぼんやりしていたケイナが慌てて武器を収め、小ぶりなナイフに持ち替えて死骸から素材を剥ぎ取り始めた。翼の生えた逞しい腕を半ば力ずくで引っこ抜こうとする彼を見兼ねたのか、ようやく頭が回り出したらしいマリウスが慌ててそちらに駆け寄っていく。
切り取り終えた翼を囲んでワイワイ騒ぎだす他の面々を横目に、ジュディスもまた肩の力を抜いて天を仰いだ。澄みきった青空は地表から見るそれより幾分か寒々とした色のように見える。頭上を横切るものは白い雲ばかりで、縦横無尽に飛び回る王者のいなくなった高地には少しばかり物寂しい空気が漂っていた。
「ヒポグリフ」。それが、もはや物言わぬ身となって横たわる高地の王の名だ。そしてこの魔獣の討伐をもって、『カレイドスコープ』はアイオリスの冒険者の高みである「達人」の称号を手にする事となり……同時に、未だ未踏破の難関・迷宮第三層へ立ち入る権利を得たのだった。
◆
とはいえ『カレイドスコープ』はまだ三層に入る事はできない。否、実際には入ろうと思えばいつでも入る事はできるのだが。
「絶対に行かないでくださいね!? 絶対ですよ!!」
「分かったから! 分かったから松葉杖は下に向けてってば!」
エスメラルダが悲鳴じみた叫びを上げれば、エールは不承不承といった表情で振り上げていた片手の杖を下げた。彼女の骨折していた右脚は順調に快方へと向かっている。とはいえ未だ自身のみの力で立って歩く事はできないし、完治したとしても探索に戻るには相応のリハビリが必要になる。復帰はまだまだ先と言っていいだろう。そしてその間、他のメンバーは第三層には進まない……そういう約束である。
「うっうっ……もう少し待ってください……三日で治すので……」
「無理だと思うが」
ジュディスの冷静な突っ込みにエールはがっくりとうなだれる。ダンゴムシの如く丸まった背中にリズがのしかかって頬を押しつけた。どうやら慰めているつもりのようだ。その様子を見た男性陣は顔を見合わせて苦笑する。
エールが焦る気持ちも分かる。休養している間に置いて行かれてしまうのではないかと不安に思うのは当然の事であるし、自分を除いた面々が達人の認定試験を突破したとあっては尚更だろう。ちなみにレムス曰く達人認定はギルドごとに行われるらしいので、戦闘に参加していないエールもまとめて試験に合格した扱いになっているとの事である。その事実がエールを安心させたかといえば、まったくの逆効果だったのだが。
「このままじゃ剣の振り方も忘れてしまいそうなのに、達人だなんて……」
「そう悲観しなくても……」
「まあ、復帰までちゃんと待ってるから。それまで治療に専念すること! 返事は?」
「はあい……」
エールは今まで見た中でいちばん気力の籠もっていない声で応えると、不貞腐れたように寝転んで頭から毛布を被った。背中から引き離されたリズが悲しげにむーんと唸って毛布の端を引っ張るのをさりげなく諫めつつ、マリウスがところで、と切り出す。
「しばらくは二層で素材集めと魔物図鑑の情報収集だが……他に何かやっておく事はあるか?」
「特に思いつきませんね。今後に備えて貯蓄しておくとか?」
「斡旋したいクエストがいくつかあると酒場の主人が言っていた。手が回る程度に引き受けても良いかもしれんな」
「あ……ええと、そういえばそろそろ武器の新調とか」
「ごはんとおやつ」
「料理についてはレムス様が新しいレシピを考案なさるのを待つとして。そう考えると思ったより暇にはならなさそうだな……」
素材の売却による資金稼ぎ、依頼の受領、武具の新調……いずれも普段は探索の片手間に行っている事だが、それらそのものを目的として見てみると、こなすべきタスクは意外と多い。とはいえいずれも冒険者としての活動には必要な事柄ばかりだ。今後の探索をより盤石の状態で行うためにも、時間のある今のうちに諸々手を回しておくべきだろう。
「……そしたら、エールが復帰した時の助けにもなるだろうしな」
意識して声を張ってそう言えば、こんもりと膨らんだ毛布が僅かに揺れた。柔らかな布の下でしばしもぞもぞとしていたエールだったが、やがて目から上だけを外に出すと消え入るような声で言う。
「……アイオリスで一番いい剣と防具買ってください……」
なかなか図太い要求である。
拗ねるエールに思いつく限りのフォローの言葉をかけて病院を出た一行は、通りを出たところで見覚えのある二人連れに出くわした。小柄なルナリアの少女と、鋭い目つきのアースランの少女……先輩冒険者のリリとソロルだ。
『カレイドスコープ』の存在に気付いたリリが、嬉しげな笑顔を浮かべて大きく手を振る。
「みんな、試験に合格したんだってね! おめでとう!」
「ああいえ、お二人もその節はお世話になりました」
マリウスが代表して頭を下げる。何を隠そう、二層を探索していた『カレイドスコープ』に達人認定試験を受けるよう勧めたのがこの二人なのである。リリはぱたぱたと手を振って苦笑する。
「お礼なんていいよ。私がやりたくてお節介焼いてるんだもん。明日からは三層を探索するの?」
「いえ、もうしばらく二層に留まろうかと」
「そう……」
マリウスの返答に、リリはどこかほっとしたような表情を浮かべる。エスメラルダが首を傾げた。だが彼女にその反応の理由を問う前に、リリはぱっと表情を変えてそういえば! と声を上げる。
「みんな知ってる? 二層の様子、最近ちょっと変みたいなんだ」
「変?」
「『驀進の大麒麟』ってFOEがいるだろう。ヤツらが立て続けに迷宮から姿を消してる」
相変わらずの無表情でソロルが告げる。『カレイドスコープ』は何も言わず目配せをしあった。姿を消している、とはいったいどういう事だろう。誰かが討伐したために縄張りからいなくなった、とはまた違うのか。
一行の考えを読んだのか、ソロルは小さく首を振って続ける。
「倒されたなら死骸か戦闘の痕跡が残る筈だ。それすら無く、綺麗さっぱり消えやがった……オレとリリが実際に見て確かめたから間違いねえ」
「それは……確かに変ですね」
「評議会にも報告したらこんな事は初めてだって。何が起きてるのかはまだ分からないけど、とにかくみんなも気をつけてね」
「オレらはもう行く。じゃあな」
そう言って先に立ち去ろうとするソロルを追い、リリもまたね! と手を振り大通りの向こうへと歩き去っていく。残された『カレイドスコープ』は彼女たちの背中を見送りつつ、怪訝な表情で話し合う。
「魔物が急にいなくなるなんて、変な話だね」
「お引っ越し」
「引っ越すかな……魔物って……」
「どこかに移動したという可能性は無くはないな。別の場所で出くわすかもしれん」
基本的にFOEは迷宮内の同じ場所を縄張りにしており、その範囲は同種の別個体であっても同じであるとされているが……周辺環境の変化など、何らかの要因によってその法則が乱れるという事は十分にありえる。特に第二層は一帯の制空権を独占していたヒポグリフが倒されたばかりだ。迷宮の主の消失が魔物たちに影響を及ぼしている可能性も否定できない。
「気をつけて進むしかないな」
「何に気をつければいいんだ……?」
ケイナが首をひねって呟く。その疑問はもっともだが、『カレイドスコープ』は曲がりなりにも第二層を踏破したギルドである。これまで迷宮を探索して色々と経験を重ねる中で、そんな言葉が出てきたのも初めての事ではない。結論から言うと、具体的に何にとは言えずとも気をつけようとしか言いようがないのである。
◆
そうして、数日が経った。『カレイドスコープ』は日々素材を集め、魔物を倒し、カブトムシを捕らえ、クエストをこなし、カブトムシを戦わせ……などの活動を行い、それなりに充実した毎日を過ごしていた。特に誇りと昆虫の所有権を賭けて行われた衛兵との昆虫勝負は手に汗握る迫真のバトルであり、大いに盛り上がった――のは男性陣だけで、ジュディスとリズは終始どうでもよさそうな顔をしていたが。なお賞品として受け取った剣を土産代わりに渡されたエールも釈然としない顔をしていた。いつの時代もオトコノコとオンナノコの間には壁が立ちはだかるものである。
懸念していたFOEの異変についても特にこれといった影響は無かった。ただリリとソロルの言っていたとおり大麒麟が普段走り回っている場所からすっかり姿を消していたのは事実で、更に言うと『見据える捕食者』も何体かいなくなっていた。それが何を意味しているのかは分からないが……。
「でも、正直探索しやすくはありますよね」
困った顔でエスメラルダが言う。
「サソリなんて遠く離れてても見つけてくるし。いないならいないで助かるっていうか」
「それはそうだが、異変は異変に変わりないからな……」
マリウスの苦笑混じりの返答にエスメラルダは肩をすくめる。魔物がいない方が助かるというのは冒険者ならば必ず一度は思う事であろうが、世界樹の迷宮がそのような冒険者に優しい方向に変化するなどまずありえないだろう。
今日『カレイドスコープ』が探索しているのは迷宮十階である。目標は『傲慢の通仙坊』の討伐だ。この魔物を討伐すれば、第二層の魔物図鑑はひととおり埋まった事になる。
しかし『傲慢の通仙坊』は第二層の中でも最も強力とされているFOEだ。十分に準備を整え、気を引き締めて挑まねばならない。各々が装備の確認や道具の整理をする中、鞄をあさって中身を確かめていたケイナが、あれ、と声を上げる。
「糸、ひとつしか無かったか……?」
「え? いや、ひとつ僕が持ってるよ。そっちにもあるでしょ?」
「あ、そっか。なら大丈夫だな」
照れたようにはにかんで散らかした鞄の中を元に戻し始めるケイナを横目に、大鎌の点検を終えたジュディスがふとある事に気付く。リズの様子が少しおかしい。やけにせわしなくきょろきょろと辺りを見回す彼女にそっと歩み寄り、問いかける。
「どうした。何かあったか」
「んん……死霊、いるかも」
「死霊?」
「気のせいかも……幽霊かも……わかんない」
そう言ったきりリズは沈黙し、明後日の方向を見つめながら背負った棺の位置をもぞもぞ直し始める。ジュディスは僅かに顔をしかめ、近くにいたマリウスに視線を送る。彼も困惑の混じった何とも言えない表情をしている。リズの言葉はいまいち要領を得なかったが、気になる事はあれども差し迫った危機に直結するような事象ではない……という認識で良いのだろうか。
そうこうしている間に全員が準備を終えたようだ。隊列を組み、北の大広間へ通じる扉に手をかける。フロアの北東に位置するこの大広間には標的である『傲慢の通仙坊』が一体と『見据える捕食者』が二体存在している。前者は北側の奥の岩陰に潜んでいるため、その前に立ち塞がるサソリ二体を先に倒すか視線をかいくぐってすり抜けるかする必要が、あったのだが。
「……いない……」
ケイナの呟きがぽつりと響く。吹きさらしの広い空間には冷えた風が流れるばかりで、以前見た筈のサソリたちの姿はどこにも無い。しかし、遠くの岩陰にはずんぐりとした影が見える。どうやら『傲慢の通仙坊』は健在であるようだ。となると、いったい何故『見据える捕食者』だけがいなくなっているのか余計に謎だが……。
「どうする? 他の場所のやつにするか……?」
「でも、他の場所は狭いでしょ。こっちなら広いし、何かあった時にも退避しやすいんじゃないかな」
「何はともあれ、早く片付けた方が良いだろう」
大鎌を片手にそう言ったジュディスに他の四人も首肯する。『傲慢の通仙坊』は知恵の回る魔物だ。奴らは迷宮のあちこちに乱立する岩の柱の陰に潜み、反対側を通りかかる冒険者に向かって押し倒してくるのである。奇襲を受けずに近付くには岩から距離を取って回り込むしかない。
足音を殺し、魔物の縄張り目指して荒野を歩いて行く一行だが、道中で違和感に気付く。普段は獲物が近付いてくるのを岩陰で待機している事の多い『傲慢の通仙坊』が、何故か絶え間なく動いているのだ。そのうえ動作そのものはひどく緩慢だ。果たしてあのような鈍い動きの魔物だっただろうか――誰かが疑問を口に出すより先に、リズが声を上げた。
「死霊(・・)!」
「え? どういう……」
マリウスが困惑した様子で振り返った、その瞬間だった。ぐるり、と不自然な動作でこちらを向いた『傲慢の通仙坊』が勢いよく地を蹴って突っ込んでくる。あまりに咄嗟の事でまともに反応する事ができなかった。攻撃に備えて各々が防御の体勢を取る、が、予想に反して魔物は少し離れた場所でぴたりと足を止めた。
そのままぐっと身を丸めた『傲慢の通仙坊』の肉体の、その内側から光が溢れ出す。あ、と声を漏らしたのは誰だったか。誰も何もできなかった――偶然、本当にたまたま、瞬発力に長けたケイナだけが反射的に背後にいたリズとエスメラルダを思いきり後ろへ放り投げる事ができた。だが、それだけだった。
閃光と轟音、衝撃。一拍遅れて熱と痛みが押し寄せてくる。それが「死霊大爆発」だと把握できる者はこの場にはいなかった。ただ混乱の中、眩む視界と痺れる聴覚を必死に働かせて次の攻撃がいつ来るかと身構える。追撃は無かった。何故なら内側から魔力の塊と化して爆ぜた魔物は跡形も残らずその場から消え失せていたのだ。
代わりに足下が揺れる。不穏な震動の意味を理解する前に、爆発の衝撃に耐えきれなかった地面が悲鳴を上げ始める。それからはあっという間だった。ヒビの入った足場が崩れだす。砂塵を上げて崩壊する大地が前衛に立っていた三人を呑み込む。
足下が平衡を失い、体が空中に投げ出されるその直前。マリウスがジュディスに手を伸ばした。助けを求める――のではなく、突き飛ばそうとしたようだった。彼女を背後へ、安全な場所へ。
誰かが何かを叫ぶ声。呼び声だったかもしれない。どれもすべて破壊音に掻き消されて聞こえなくなった。すべて。
「マリー! ケイナあ! ジュディスー!」
棺を放り出し、足をもつれさせながら地面にあいた大穴へ駆け寄っていこうとしたリズを、ばっと身を起こしたエスメラルダが渾身の力で引き止めた。土埃と擦り傷に滲んだ血で汚れた顔が振り向く。責めるような視線を送ってくる少女に、駄目だ、と彼は叫ぶ。
「僕らまで落ちたら取り返しがつかなくなる! ……落ちたのは下の階のはずだ。一階分くらいの高さなら落ちても即死したりはしない」
「でも」
「助けを呼ぶんだ。どっちみち僕らの力じゃどうにもできない。糸はあるから、……はやく」
自分にも言い聞かせるような声色で言ってアリアドネの糸を取り出したエスメラルダの、その手は微かに震えている。リズは未だ土埃の立つ断崖を見て、それから再びエスメラルダの目を見て、血の気の失せた顔で頷いた。よし、とエスメラルダがアリアドネの糸を広げる。少しの間を置いて二人の姿が掻き消え、荒野には誰の気配も無くなる。静まり返った空間に冷えた風の音だけが響き渡っている。
――痛い。まだ生きてる。
目を開けるより先に浮かんだのはその二言だった。途端にその存在感を増す苦痛に息を詰めながら、ケイナはどうにか身を起こそうとする。右腕が動かせないと気付いたのは、重い上半身を支えるため曲げようとした瞬間に尋常ではない痛みが走ったためだ。呻きを漏らしながら左腕だけで起き上がり、ゆっくりと頭を振る。額から垂れた血が滴り落ちて地面に大きな染みを作った。
どこをどう打ちつけたのかも分からない程に全身くまなく痛むが、右腕以外は何とか動かせる。ひとまず視界を遮る血を拭って刀を探そうとした彼の目に二人分の人影が映った。一人はマリウスだ。彼は微動だにせず横たわっていて、どうやら気を失っているらしかった。その傍らにひざまずくもう一つの人影に、ケイナは掠れた声を投げる。
「ジュディス」
「……、起きたか。具合はどうだ」
振り向いた彼女の顔にも細かな傷と血を拭った痕が残っている。ケイナは黙って首を振った。その動作からどのような意図を読み取ったのか、そうか、と小さく呟き、ジュディスは再びマリウスに視線をやる。ケイナも緩慢な動きで立ち上がり、そちらへ歩み寄った。
重装に身を包んでいるせいで、マリウスがどこをどう負傷しているのかを確認する事はできない。だがどうやら頭を打ったようだ。側頭部が生乾きの血で濡れている。息は、している。その事に安堵したケイナだったが、はっと我に返って自身の背を探る。……荷物が無い。当然、その中に入れていた薬品やアリアドネの糸もどこにも無い。
さっと顔を青くする彼を見てジュディスは力なく笑う。
「仕方がない、あんな状況ではな。私が持っていた薬もほとんど駄目になってしまった」
「ど、う、しよう……このままじゃ……」
「……恐らくここは九階と十階の中間地点だ。あそこ、見えるか」
そう言ってジュディスが指さした先を、ケイナもじっと見る。先程の崩落によるものか、荒々しく尖った岩が積み重なった急勾配の下に、見覚えのある岩肌に囲まれた小部屋が見えた。ケイナは頭の中に九階の地図を思い浮かべる。あの空間の造りは恐らく北東部……焚火ができる場所のすぐ近くだ。
「野営地点の近くなら人が通りかかるかもしれん。それに、リズとエスメラルダが助けを呼びに行ってくれている筈だ……信じて待とう」
「そう……だな」
そう応え、ケイナは深呼吸をする。ジュディスの言葉で少し冷静になった。こういう時こそ落ち着かねばならない――そう思いながら改めて周囲を見回す。刀は少し離れた場所に落ちていた。鞘に収まったそれに破損が無い事を確かめて腰に差し、ひとつ息を吐いた。
崩落が起こったのは十階北西部の大部屋の、東側に面した崖の近くだ。下手をすれば下に地面が無くそのまま地表まで真っ逆様、という事もあり得たが、そうはならずに済んだのは幸いだった。頭上を見上げる。……気付かなかったがそれなりの距離を落下してきたようだ。そういえば落下中に衝撃を殺そうと必死に崖に身体を押しつけた記憶がある。えげつない擦り傷が多いのはそのせいか……と溜息を吐きながら腰のあたりを撫でた。ジュディスが気遣わしげに声をかけてくる。
「痛むか」
「え……いや、大丈夫。ちょっと休めば……」
「だが、その腕。折れているだろう。無理はするな」
そう言い、ジュディスは腰のポーチから取り出した小瓶をケイナに差し出す。メディカの瓶だ。落下の衝撃でヒビが入ってはいるが、中身は無事なようである。
「これだけ残っていた。お前が飲むといい」
「い、いや! 俺は……大丈夫だから」
「……私は落ちている途中に瘴気で衝撃を殺した。傷はそこまで深くない。こいつは脱がせてみない事には分からないが、お前よりは無事だろう」
ほら、とジュディスは一層強く促してメディカを押しつけてくる。ケイナはしばし呻きを漏らしながら耳を伏せ、やがて観念しておずおずと瓶を受け取った。蓋を取って飲み干せば各所の痛みが少しだけ和らぐ。
ケイナはジュディスの様子を窺いつつ、ゆっくりと彼女の隣に腰を下ろした。横たわるマリウスの頬にそれとなく手をやって温もりを確かめる。血の気が失せているというような事はなさそうだが、いつまでも目を覚まさないのは頭の怪我が原因だろうか。早く医者に診せたいところだが。
辺りは静かだ。人が通りかかる気配も無い。痛いほどの静寂に背筋がむずむずとしてくるのを感じる。もぞもぞと尻の位置を動かすケイナを横目に見ていたジュディスだったが、唐突に立ち上がると少し離れた場所に落ちていた何かを拾い上げて足早に戻ってくる。彼女が持っていたのは一本の枝だった。奇岩ノ山道全域で見られる、細いわりに丈夫な枝である。ジュディスは少し我慢しろ、と言うと、ケイナの折れた右腕に枝を副えてポーチから取り出した縺れ糸で固定し始めた。ヴ! と悲鳴を上げかけたケイナは咄嗟に奥歯を噛みしめて痛みを耐える。
手早く処置を終わらせ、他に大きな怪我が無いか確かめたジュディスは元のようにマリウスに目をやってしばし沈黙していたが、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば……お前は何のためにアイオリスに?」
「えっ?」
痛みに浮かんだ涙を拭っていたケイナが、脈絡のない問いかけに目を丸くして振り向く。ジュディスは視線を逸らしながら、普段より幾分か頼りなげな声で続ける。
「エールに言われてな。この街に集まった冒険者は、何かしらの望みを持って世界樹に挑んでいると」
その言葉にケイナは視線を彷徨わせた。今この状況でするような話ではない気がするが……それでも訊ねられたという事は、何かしらの意味がある筈だ。
しばし口をもごもごさせ、困り果てた表情で答える。
「俺……そんな大した事じゃなくて。小さい時、一緒に世界樹に行こうって……」
立てた膝の上に乗せた手が、所在なげに袴の生地を手繰った。次第にか細くなる声で、彼は続ける。
「でも、あいつ、勝手に行っちゃったから……俺ひとりでも、って……」
「……そうか」
ジュディスは静かに頷いた。少し間を置き、再び訊ねる。
「マリウスが何故冒険者になったのか、聞いた事はあるか?」
「えっと、無い……と思う……」
「そうか」
返った声に覇気がないように感じられ、ケイナは不安げな表情でジュディスの横顔を見た。青年の控えめで気遣わしげな視線を受け止めつつ、溜息混じりに弱音を吐き出す。
「私には弟が分からない」
ケイナは耳を伏せて渦中の男を見た。彼が目覚める気配は無い。目覚めていてくれれば、きっと随分と楽だっただろうに。
「きっとお前のように何かを志してここに来たのだろうが、悲しい事に私にはさっぱりだ。急に家を出ていった時は、ようやく私を見限ったものだと思ったが、それも違うらしい」
そこでジュディスは言葉を切る。固く唇を引き結んでじっと意識のない弟を見つめる彼女の姿は、いつもより小さく、儚く見えるような気がした。ケイナの脳裏に先日の出来事が過る。瘴気の奔流の中でうずくまる苦しげな姿が、今の彼女の横顔と重なった。
「なんで冒険者になったのかは、俺も分からないけど……」
慎重に言葉を選びながら、ケイナは可能な限り真摯にジュディスに伝える。
「マリウスはあなたの事、大切に思ってると思う」
「……そうだろうか」
「だって、この間の時も――」
続きの言葉を遮ったのは、はっと息を呑む音だった。ケイナが弾かれたように振り返って立ち上がる。一拍遅れてジュディスも彼と同じ方向を見やり、思わず唇を噛んだ。
細く続く断崖の先から、頭上から、こちらを覗くいくつもの眼光……続々と増え続けるそれらの中には一般の魔物だけではなく、『驀進の大麒麟』や『見据える捕食者』まで混ざっていた。そしてそのいずれもが普段とは異なる動きをしている。緩慢に身体を揺らしながらこちらをじっと見つめるその動作は、先程上階で見た『傲慢の通仙坊』のそれとよく似ていた。
上階の大穴から覗き込んでいた『驀進の大麒麟』の一体が崖に前脚をかける。ジュディスは立ち上がり、傍らに置いていた大鎌を手に取った。間断なく魔物たちに視線を向けながら、彼女は低く鋭い声でケイナに告げる。
「薬をお前に飲ませて正解だった。……ケイナ、マリウスを抱えて下まで走れるな? 私は奴らを食い止める」
「っ!? ……っめだ、そんな事……俺も、」
「いいや、お前は行くんだ。その腕では刀など振るえまい」
ケイナは動かない右腕を見下ろして表情を歪める。副え木に括られた腕からはいっこうに痛みが引かず、内出血でも起こしたのか腫れた患部から指先にかけての皮膚な見るからに危うい色へと変色しつつある。
魔物たちはじりじりと距離を詰めながらこちらの様子を窺っている。自身の腕の様子を確かめてそれでも尚、一歩踏み出そうとする青年を、ジュディスは強い口調で制止した。
「マリウスを連れて、少しでも早く人がいる場所へ向かえ。……お前も私も手負いだ。どちらかが足止めをしなければ追いつかれる。だが私の腕では鎧の重さを抱えきれない。だから、お前にしか頼めない」
「ぁ……う……ううう……!」
「お前ならきっと、必ずやれる。頼んだぞ――さあ行け! 走れッ!!」
一声叫び、ジュディスは大鎌を振り抜いた。先んじて飛び出してきていたロックフィッシュが地面に転がってのたうち回る。それを皮切りに続々と雪崩込んでくる魔物に、ケイナは背を向けた。ぐったりとしたマリウスを片手で抱え上げ、急斜面を半ば滑り落ちる形で九階へ下りる。
着地の衝撃で下半身が軋んだ。ぶり返す痛みを無理やり意識の外へと押し込めながら彼はただ地を蹴って駆けた。悲鳴じみた風の音以外には何の音も聞こえない迷宮を、振り返らずに。
まあ、無理だろう、と。
流れた血でぬめる感触ごと大鎌の柄を握り直しながら、ジュディスは他人事のように思った。いくら瘴気の力を使ったとて、単騎でこれだけの魔物を殲滅できる筈がない。
武器ごと腕を噛みちぎる勢いで飛びかかってきたオオマダライヌを払い除け、無防備になった脇腹を蹴り飛ばす。しかしその間に反対側から回り込んでいたクリフゴートの突進は避けきれなかった。咄嗟に突き出した鎌ごと突き飛ばされてよろめくジュディスの脇を、切り裂きモグラがすり抜けようとする――が、寸前でその首筋に刃が突き刺さった。刃先にぶら下げたモグラごと、大鎌をクリフゴートに向かって薙ぎ払う。瘴気を纏わせた刃の一撃を受けた魔物たちは血の海に沈んだが、その背後からは続々と別の魔物がやって来る。
衝撃で頬の内側が傷ついたらしい。口腔内に滲んだ血を吐き出し、ジュディスは呼吸を整える。先程のモグラの動きで確信できた。魔物たちはただ縄張りに入った冒険者を排除しようとしているのではなく、崩落に巻き込まれて落ちてきた自分たち三人を始末するために襲いかかってきている。
そうでなければ自分を無視してケイナたちが去っていった方角へ向かおうとする筈があるまい――思考が途切れる。咄嗟に跳び退けば、目の前の地面を大麒麟の頭突きが抉った。瘴気を撒いて視界を塞ぎ、一度距離を取る。その間に何体かの魔物が斜面を下りて九階へ向かってしまった。舌打ちをこぼす暇も、無い。
絶え間なく繰り出される攻撃を避けながら再び思考を巡らせる。問題はなぜ魔物が自分たちを狙うのかだが、それもある程度の想像はつく。確証は無いが……しかしあの時、死霊だ、とリズは言ったのだ。
ではいったい誰が、と次の疑問が浮かぶ前に脚から力が抜けた。見れば傷付いたオオマダライヌが左の足首に噛みついている。すぐさま引き剥がし牙を抜くが、傷は深い。とてもではないが元のようには動けないだろう。ジュディスは居住まいを直した。その場に立ったまま、得物を構え直す。
――ケイナは逃げおおせただろうか。
彼の膂力ならばマリウスを抱えて走るくらい造作もないだろうが、それより彼には鎧を着た成人男性よりも重いものを背負わせてしまった。気に病む事はないと、伝えられたら良かったのだが。
『見据える捕食者』の尾が肩を掠める。血を噴き出す傷口には目もくれず、痛む左脚を軸に一太刀浴びせる。脚を一本奪った。続けざまにもう一度鎌を振り抜こうとしたが、手の内で柄が滑った。刃の軌道が逸れ、斬撃は装甲に浅い傷を刻むだけで終わる。
マリウスは……弟は無事だろうか。意識のない彼の姿を見て、遠い日の思い出が重なった。幼い頃はよく体調を崩して寝込んでいたものだ。死の淵を彷徨った事も一度や二度ではない。弟は何かにつけて自分の後をついて回った。寝物語をせがまれては亡き母の代わりに枕元に座った。泣き止まない夜は抱いて眠った。随分昔の話だ。
刃がこぼれた大鎌はもう刃物としてはまともに使えない。『見据える捕食者』の胴に無理やり先端を捩じ込み、内部を抉るように掻き出す。四肢をばたつかせるサソリから目を離し、大麒麟へ向き直る。いくら息を吐いても呼吸が整わない。視界がぶれる。寒い――だがまだ動ける。得物を、構える。
本当の事を言うと。
弟には恨まれているものだと思っていた――だって、そうだろう。たとえば弟が小さく軽く、産声を上げる事もできないほど弱く生まれたとして。たとえば母が産褥から立ち直れず死に至ったとして。たとえば屈強な騎士であった父が流行り風邪ごときで命を落としたとして。それがこの身に宿る瘴気のせいではないと、果たして誰が言えるのか。
それに気付かないような子では無かった筈だ。だからこそ屋敷を出たのだと……頑なに顔を合わせないのだと……だがあの時、崩落の瞬間。弟は自分を突き飛ばそうとした。その理由が掴めずにいる。掴めずに、終わりそうだ。
なけなしの瘴気を振り撒く。獣の咆哮。衝撃。揺れているのが足下なのか自分自身なのかもはっきりしない。目の前にぼんやりと見える影へ重い腕を振り抜いた。誰のものか分からない血の色で視界が染まった。
ジュディスには弟が分からない。
分からなくとも愛していた。
それが、総てだった。
◆
先を行く白犬の足が早まった。軽やかに地面を蹴って進んでいくカザハナの背を、ハルもまた足早に追う。
彼は苛ついていた。今日の探索の予定が、樹海入り口で偶然出くわした騒ぎによって狂わされた事も、その騒ぎの渦中にいるのがよく見知った人物であった事も、この上なく腹立たしい。だが、だからといって無視して自身の探索を続ける事も、彼にとっては許しがたい事だった。
小部屋の突き当りに辿り着いた。カザハナは目の前の急斜面をしきりに気にしつつこちらを窺うように振り返る。ハルは目を細めた。斜面の途中に血痕が残っている。……そして、上から漂ってくる濃い血の匂い。
「行け」
短く命じれば、カザハナはすぐさま斜面を登り始めた。一切の躊躇なく跳ねるように登っていく彼女の後を、ハルは慎重に登攀しながらついていく。
斜面を登りきった瞬間に目に飛び込んできたのは惨憺たる光景だった。岩の破片がごろごろと転がる狭い空間に、夥しい量の魔物の死骸と体液が広がっている。カザハナの姿はその中央にあった。彼女は横たわる何かに寄り添うように身を伏せていた。
女性だ、とハルが気付いたのは、カザハナの元へ駆け寄ってからだった。そしてその女性の顔に見覚えがある事に気付くのにはそう時間はかからなかった。膝をついてそっと身体に触れる。まだ、かろうじて息はある。
カザハナは女性の頬を舐めてクンと細く鳴いた。彼女は利発だ。救うべき相手と倒すべき相手も……救える相手とそうでない相手も、しっかり区別する事ができる。そんな彼女がその身に宿る癒しの力を使わずただ寄り添う事を選んだのならば。
隙間から漏れるようなか細い呼気。血に濡れた指先が靴の先に触れた。はっとしたハルが咄嗟にその指を握れば、もはや声とも言えないような声が、色のない唇からこぼれ落ちる。
――おとうとを、たのむ。
それきり音は途切れた。持ち上げた指先の感触がじっとりと重く、鉛のように感じられる。ハルはしばし呆然と動かなくなった口元を見つめていたが、やがて強く唇を噛んで肩を震わせた。
「ボクに、」
カザハナが立ち上がり、ハルの傍に寄り添う。心配そうに鼻先を寄せてくる彼女に応える事もできないまま、震える声で呟いた。
「ボクにどうしろって言うんだ……」
答えは無い。
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