【SQ5】15 血の宿業

 結論から言えば、リリは晦冥ノ墓所にいた。

 『カレイドスコープ』が迷宮十五階でリリを見つけた時、彼女はソロルと何事か言い争っている様子だった。声をかけようとしたが、それより早くリリは感情的な叫びを上げてその場から走り去っていってしまう。

 魔物の襲撃に阻まれてリリを見失い、彼女を追って先へ進んでしまったソロルとも別れた一行は、ひとまず迷宮の奥を目指して探索を続けていた。奥――第三層の最奥部。そこに必ずいるはずだ。リリも、彼女が捜す指輪の持ち主……自らをアンデッドキングと名乗った、かのネクロマンサーも。

「それにしても、キングを自称するの、すごいね……」

 足下の小さな毒沼を跳び越えながらエスメラルダがぽつりと呟く。

「クロウって名前だって聞かなかったっけ? わざわざ改名したのかな……」

「いや、まあ、うーん……色々あったんだろう……」

 マリウスが曖昧にぼかしてそう応えるが、エスメラルダは尚も納得いってなさそうな顔で首をひねっている。まあ確かに、ソロルも「ふざけた名前のヤロー」と言っていたし、その感想にはおおむね同意せざるを得ないが……。

「けど、あの言葉……わたしたちを監視しているようでした。きっと今も」

「自ら葬るとか言ってたし、俺たちを倒す自信があるんだろうな……」

 ケイナの呟きに他の四人も黙り込む。アンデッドキングは自分たち冒険者を排除するつもりでいるようであるし、リリもまた、使命を果たすために彼に立ち向かうだろう。戦いは避けられない。ならばせめて、リリが一人で行ってしまわないよう止めなければならないだろう。ミッションがどうこうという話ではなく、彼女に何度も世話になった冒険者として。

「はやく行こ」

 棺を背負い直したリズが言う。この迷宮に入ってから随分と気合が入っている彼女に促されるまま、一行は歩きだした。時折、通路の先の薄暗がりから何者かの視線を感じる。しかし五人はそれに知らないふりをした。ここで怯んでしまっては、それこそ相手の思うつぼだ。


     ◆


 ようやくリリとソロルに追いついたのは、フロアの最奥部へ近い場所へと辿り着いた頃だった。二人は迷宮の片隅で、少し距離を置いて向かい合わせに立っていた。リリはほぼ無傷だが、一心不乱に彼女を追ってきたソロルの身体にはいくつもの生傷が刻まれている。

 だから一人でどうにかしなきゃいけなかったのに、と、少女は瞳を潤ませて言った。おずおずと伸ばされたソロルの指先が、彼女の涙を拭う事なく空を切るのと時を同じくして、『カレイドスコープ』は二人の元へ辿り着く。

 驚いた様子で振り返る二人に、先頭にいたエールが告げる。

「ご無事でよかった。わたしたち、街の皆さんの依頼でリリさんを捜しに来たんです」

「え?」

 リリは目を丸くした。なぜ街の人が、と戸惑いを隠せない彼女に、僅かに表情を緩めたソロルが声をかける。

「今までお前自身がやっていた事と同じさ。目の前で困っている人がいたら手を差し伸べる。……当然だろ?」

 リリは俯いた。途方に暮れた様子で立ち尽くす彼女に、リズがちょこちょこと近付いていく。頼りなげに垂れていた手を握り、リリの顔をまっすぐに見て語りかけた。

「リリが頑張ってることみんな知ってる。リズたちも力になりたい」

「でも……」

「甘えてくれよ、リリ。確かにお前の狙う相手は手強い。戦って無事で済むとは限らない……でも一人でも二人でもなく、それ以上ならどうだ」

 は、とソロルは息を吐き、背後を振り返る。

「そうだろ? 『カレイドスコープ』」

「……! はい! 力を合わせれば、きっと大丈夫です! ねっ?」

「あっ……と、うん……!」

 笑顔のエールと彼女の問いにこくこくと頷くケイナとを見て、ソロルは少しだけ笑った。

「オレもこいつらもお前に助けられて、そして今、お前を助けにきた。……素直に言ってみな。お前がして欲しいことを」

 リリはゆっくりと顔を上げた。優しく自分を見つめるソロルの表情と、じっと次の言葉を待つ『カレイドスコープ』の様子を見回し、目を伏せる。しかし意を決したようにひとつ頷くと瞳を開き、いつもより僅かに強張った……しかし迷いのない声で話しだす。

「アンデッドキングが私の目指す相手なら……必ず倒して、失われた指輪を取り戻さないといけない。だけど、私とソロルだけじゃアイツには勝てそうもなくて」

 ひとつ深呼吸を挟み、リリは深く頭を下げる。

「だから、迷惑かもしれないけど、みんなに手伝って欲しいの。お願いします!」

 ――答えは、既に決まっていた。


 幸い、物資は潤沢に持ち込んでいる。傷を負ったソロルの治療を行っても、強敵との戦いに堪えうるだけの薬品は残るだろう。

 料理による腹ごしらえも含めて可能な限りコンディションを整えつつ、一行は情報のすり合わせを行う。

「結局そのアンデッドキングってやつはネクロマンサーなんですよね? 死霊で戦うってこと?」

「魔物のこと、我がしもべ……とか言ってたな」

「そう、だね。あれだけの数の死霊を同時に操れるなんて、人間業じゃない。私たちと同じように考えちゃ……」

「……いや、同じで良いんじゃないか?」

「え?」

 目を丸くしたリリに、専門家の意見に口を挟むわけじゃないけど、と苦笑してマリウスが告げる。

「ネクロマンサーが使う術式は死霊を召喚するか、召喚した死霊に何かをさせるか、死霊そのものを術式に換えるかのどれかだろう? それはクロウ(・・・)の時代でも同じだったんじゃないか?」

「……そ、う……だね。そうだよ。私たちの戦い方は、いつの時代も変わらない」

「なら、死霊を先に倒せば行動を制限できますね。でも……」

「死霊だけ倒してたって、アンデッドキング自体を倒せなきゃ意味がねえ」

 ソロルの指摘にマリウスも頷いた。先の戦いからみて、アンデッドキングが喚び出す死霊たちはそれぞれが高い戦闘能力を持っている筈だ。それらを先に仕留めるのは良いとして、そちらばかり狙っていては肝心のアンデッドキングには手傷を負わせられない。それどころか倒したそばから延々と死霊を召喚されてしまえばこちらのスタミナが尽きてしまう。

「短期決戦に持ち込むしかない……」

 ケイナの呟きに異論を唱える者はいなかった。黙って話を聞いていたリズが急に手を挙げ、リリに目をやる。

「リリ。炎爆弾使える」

「? うん」

「リズも使える。死霊まとめてやっつけれる、かも」

「……えーと」

「ああ、つまり……協力して炎爆弾を撃ち出して、死霊を一気に倒そうって事だよね?」

 エスメラルダの要約にリズはこくこくと頷く。リリは納得がいったというような表情で彼女に応えようとし……ふと肩を揺らして背後に視線をやった。同時に隣に座っていたソロルが立ち上がる。二人が見つめる先、西へ伸びる通路の向こうから近付いてくるのは、いくつもの足音だ。

「アンデッドキングのヤロー、いよいよ痺れを切らしたらしいな」

 鼻で笑いながら言い、ソロルは担いでいた大鎌を勢いよく振り下ろす。空を裂く音が響いた。戦闘の構えを取った彼女は振り返らないまま、鋭い声を背後に投げる。

「リリを任せたぜ、『カレイドスコープ』。オレはここに残ってヤツらを食い止める」

「ソロル……!」

「心配すんな。……待ってるぜ。お前が勝って戻るのを」

 そう言い残し、ソロルは魔物の群れへ突っ込んでいく。『カレイドスコープ』はどう動くべきか一瞬迷ったが、その間に荷物を担ぎ直したリリが踵を返した。北側の扉……このフロアで唯一踏破していない区画へ繋がるそれに手をかけ、真剣な表情で言う。

「行こう」

 彼女の言葉に応えるように、増え続ける魔物に対抗するソロルが、周囲に瘴気を振り撒いた。狭い通路で瘴気を使えば仲間まで巻き込む。それを分からない彼女ではない――これは意思表示だ。「はやく行け」と、ソロルは言っている。

 迷っている時間は無かった。促されるまま扉の向こうへ飛び込む。目の前に広がるのは先が見えない広い空間だ。いやに静まり返った空気の中、マリウスがリリへ囁く。

「リリさん。ああは言ったが、作戦が無駄になったら……」

「大丈夫。……もしそうなっても、みんなは生きて返すよ」

 冗談には聞こえない調子の言葉にマリウスが顔をしかめた、その時だった。

 広間の奥に滞留する暗がりに不気味な影が浮かび上がる。やがて漂う瘴気を裂くように現れたそれは、黄金の装飾を身に纏った骸骨だった。だが、それが放つ妖気はそこらに埋まっている骸骨剣士とは、あまりにも格が違う。

「不死者の指輪は、持ち主の魂を肉体に留める力を持つ」

 リリが微かに震える声で言う。

「けど、作用するのは魂にだけ。人としての寿命を超えればやがて朽ち果てる……肉体も、精神も。アンデッドキング……あなたは指輪の力を使ったのね?」

 返ったのは邪悪な笑い声だけだった。聞いているだけで総毛立つような感覚のする声が、六人の頭の中に響き渡る。

『我ハ死者ノ王ニシテコノ地ノ支配者、アンデッドキング』

 アンデッドキングの頭蓋がぐるりと動いた。不気味な光の灯った空洞の眼窩がリリを向く。

『アノ追手ノ子孫カ。我ガ力ノ源タル不死者ノ指輪ヲ奪イニ来ルトハ……不届キ者ニハ、死ヲ!』

 その声に呼応するように、どこかから異形の翼に似た物体が飛来する。翼がら伸びた触手のその先端にぶら下がっていた死霊が地面に降り立ち、カタカタと身体を震わせながら起き上がった。死霊の王の白く鋭い骨ばかりの指が、『カレイドスコープ』とリリを指す。

『王ノ土地ニ許シナク侵入スル不届キ者共ヨ、オ前タチニ与エヨウ! 美シク甘美ナル死ヲッ!!』

 空気を震わせる咆哮。飛来した翼を背に、アンデッドキングは宙に浮かび上がる。剣を手に襲いかかってきた死霊をケイナの刀が貫いた。喉元に突き刺した刃を強引にひねり、力ずくで頭と胴を分離させる。

 頭部を失ってもなお動く骸骨に、リズの召喚した死霊が組みついた。一瞬の間を置いて炎爆弾と化したしの炎に焼かれ、亡者の兵士は塵となって消えていく。物理より術式の方が効きがいい。ならば……と、重砲に弾丸を込めながらマリウスは叫ぶ。

「エスメラルダ!」

「はいっ!」

 鋭く答え、エスメラルダは手に持っていた小瓶を二つ、同時に放り投げた。瓶から溢れたスモークが死霊たちの周囲を覆う。同時に再度術式の準備を終えたリズが炎爆弾を繰り出す。先程と同じように爆ぜた炎はしかし、一度目より幾分か火力を増して周囲に渦巻いた。

 ネクロマンサー二人がスモークロットの力を借りて死霊の兵士たちを焼き尽くそうとしている間、エールとケイナはアンデッドキング本体を相手取っていた。装備品か、それとも身体の一部なのかも分からない異様な見た目の翼で宙に浮かびながら、アンデッドキングは背から伸びた触手でこちらを薙ぎ払おうとしてくる。先端についている不気味な鳥の顔がじろりとエールを見る。一瞬怯んだ彼女に炎から逃れた死霊が剣を振り上げた瞬間、ケイナがその手首を斬り払った。

 バランスを崩す骸骨を蹴り倒して炎の中に叩き込みながら、彼は自身を狙う触手を斬りつける。先端の嘴から甲高い叫びが上がった。上空のアンデッドキングが身をよじり、翼を切り離して着地した。同時に新たな死霊が毒沼から這い出てくる。

 弓を構えた死霊がリリに向かって矢を放つ。まっすぐに飛んできたそれを寸でのところで防ぎ、マリウスは重砲の照準器を覗く。弾丸を放った――が、アンデッドキングに大きな傷を負わせる事はできなかった。弾を込め直しつつ体勢を整える。弾丸では骨だけの身体にダメージを与える事は難しい。ここは素直に、援護に専念した方が良さそうだ。

 アンデッドキングの指先が術式を紡ぐ。主の命令に応えるように死霊のうち一体が深緑色をした魔力の塊に姿を変え、冒険者たちの頭上で花火のように弾けた。毒々しい雨粒と化したそれが肌に触れた途端、嫌な痺れと胸のつかえがこみ上げてくる。毒爆弾だ。

 エスメラルダが急いでリフレッシュハーブを取り出すのを横目に、ケイナがアンデッドキングへ向かって踏み込む。彼は援護を仲閒に任せて攻撃だけに集中している。実際、その選択は正しかった。ネクロマンサー二人に死霊の相手を任せ、エスメラルダが治療を、マリウスが防御を担うとなれば、アンデッドキングを直に叩けるのはケイナとエールのみ。ただしエールには陽動を行って相手の攻撃をある程度誘導する役目もある。先に言ったとおりの短期決戦を狙うなら、ケイナが攻撃の手を休めている暇は無い。

 大振りの一撃がアンデッドキングの胸から腹にかけて振り下ろされる。砕けた肋骨の欠片が地面を跳ねた。だが刀が命中した範囲に対して傷があまりにも小さい。何らかの魔法で身を守っているのか――答えが出るより先に反撃が飛んできた。白い拳を受け流しつつケイナは数歩後退する。代わりにエールが前に出た。注意が疎かになっていた右側面から回り込み、脚の付け根に剣先をねじ込む。骨が削れる鈍い音。

 同時に残っていた死霊が倒れて塵に還る。アンデッドキングが呻く。その声に滲むのは苦痛ではなく、怒りだ。

『矮小ナッ、ヒト風情ノ、分際デッ……!』

 どこかへ消えていた翼が再び飛来し、主を中空へと引き上げる。新たな死霊が暗闇の中から現れた。毒と傷の治療のために駆け回っていたエスメラルダが突如目の前に飛び出してきた骸骨剣士の姿に声を上げる。彼を後ろに下げながら盾を構えたマリウスは、斬撃を受け止めるとそのまま骸骨の眉間に弾丸を叩き込んだ。死霊が大きく仰け反る。悲鳴が聞こえたのはその時だった。

「きゃあッ――」

 振り返れば、リリが頭から血を流して地に伏せている。その頭上で揺れる触手。倒れたリリを引き起こそうとするリズの背後に死霊が迫る。

「危ない!」

 咄嗟に飛び込んできたエールが死霊の攻撃をいなし、骨ばかりの身体を思いきり突き飛ばす。そのまま後ろに倒れたかと思ったのも束の間、死霊は人体の構造ではありえない動きで起き上がるとそのままエールに組みついてきた。予想だにしない反撃に反応が遅れた。死霊の腕がエールの腕に絡む。

 もう一体の死霊を相手取っていたケイナが駆け戻って彼女を助けに向かう。その間に治療を受けて体勢を立て直したリリが術式の準備に入った。手薄になった前衛を味方側の死霊が埋める。ケイナがエールを拘束する死霊の腕を引き千切った。敵陣に突っ込ませていた死霊が炎爆弾と化して爆ぜる。

 アンデッドキングに近い場所にいた一体が炎にまかれて倒れた。が、もう一体が倒しきれない。背を焼かれながらも剣を振り上げる死霊に重砲を向けようとしたマリウスだったが、視界の端にあるものを捉えてはっと動きを止めた。アンデッドキングの指先が動いている。先程の毒爆弾の時と、同じように。

「リズッ! 守りを、」

 自身も盾に刻まれた防御魔法を発動しながらそう叫んだマリウスだったが、間に合わなかった。死霊が火球に姿を変える。視界が熱と光で埋め尽くされるまで数秒もかからなかった。悲鳴――瞬く間に周囲を呑み込んだ炎の威力は、死霊大爆発と呼ばれる術式のそれだ。

 衝撃が収まる。盾の陰で身を屈めながら、マリウスは眩む視界で必死に仲閒の姿を探した。ケイナとエールが倒れている。リリは死霊に庇われて何とか無事なようだ。彼女から少し離れた位置、転がった棺の陰でエスメラルダが動いている。彼はどうやらリズを治療しているようだった。

 アンデッドキングが翼を切り離して地面に下りる。同時にまた新たな死霊が湧いてきた。マリウスは前衛にバンカーを放り、エールとケイナを引きずってエスメラルダの元まで運ぶ。リズの治療に専念する彼自身も、浅くはない傷を負っている。

「“ヒギエイアの杯”を、」

 細く震えた声でエスメラルダは言う。

「発動するので……リズが起きたら。それまで、お願いします……」

「っ、ああ……!」

 力強く頷き、盾を構え直す。身を起こしたリリが死霊を召喚して守りに向かわせた。死霊が放つ矢はバンカーが防いでいるが、このまま攻撃を受け続ければ長くは保たないだろう。

『無駄ナ足掻キダ』

 せせら笑い、アンデッドキングは指先を掲げる。死霊の一体が冷たい色をした魔力塊へと変化した。衝撃と共に冷気が拡散する。腹の底まで凍りつくような感覚に膝をつきそうになったマリウスを、リリの細い腕が支える。

「頑張って! ……お願いっ!」

 彼女の指示に応え、前衛で盾になっていた死霊が癒やしの術式に姿を変える。身体に温もりが戻るのを感じながら、マリウスは深く息を入れて構えを取り直した。背後からエスメラルダの声。どうやらリズが目を覚ましたらしい。エスメラルダがヒギエイアの杯の発動準備に入る。

 ヒギエイアの杯は発動に相応の魔力を必要とする大規模な回復魔法だが、そのぶん効果は絶大だ。エールとケイナもすぐに目を覚ますだろう。そう思ったマリウスは一瞬、ほんの一瞬だけ、気を抜いた。安心してしまった。

 たった数秒意識が逸れたその隙に眼前の影が動いた。大きく踏み込んで肉薄してきたアンデッドキングに、真っ先にリリが気付いた。彼女は何事か叫んでマリウスの前に出る。彼を庇うように両手を広げた少女へ、刃物じみた鈍い光を湛える白い爪が、振り下ろされる――いやにゆっくりと流れるその光景を、マリウスは見た。何も考えずに手を伸ばした。最悪の想像が脳裏を過る。いいや、駄目だ、そんな事はあってはならない……もう、二度と!!

 ――胸の奥で何かが弾ける音がした。

 瞬間、視界を覆う黒。アンデッドキングの動きが鈍った。はっと息を呑むリリを無意識に引き寄せた。避けきれない筈の攻撃が自身を貫かないのを認め、マリウスはようやく目の前の光景を見た。波にように渦巻いて消えていく黒い霧。見覚えのある、しかし今ここで見られる筈のないそれが自身の掌から発生している事実に、すぐには気付く事ができなかった。

 瘴気、だ。紛れもなく。

 何故……などと思う暇も無く、エスメラルダが発動した治療術の光が辺りを包んだ。弾かれたように身を起こしたケイナがふらつきながらも刀を手に立ち上がる。持ち上げた刃を全力で振り下ろせば、発生した衝撃波が瘴気をまともに浴びて後退していたアンデッドキングを襲った。

 死霊の召喚を終えたリズが術式を発動する。拡散した炎がアンデッドキングを焼く。体勢を立て直したリリがそれに続いた。死霊二体分の炎爆弾が一面を眩く照らし出す。咆哮じみた絶叫を上げ、翼を呼び寄せて空へ逃げようとする死霊の王の下へエールが駆け込んだ。魔法の炎を載せた剣が胸元を貫く。返す刃でもう一撃。砕けた骨の欠片が散らばる。今度は正しく、貫いた勢いそのままの傷が通った。もがくように振るわれた手を避け、後退。代わりにケイナが前に出た。渾身の力で、冷たい身体を叩き割る。

 終焉は予想以上にあっけなかった。低く唸るような呻きと共に大きく傾いだアンデッドキングが地面に叩きつけられる。しかしその瞬間、その身体は宙に溶けるように消え、存在そのものが幻であったかのように姿を消してしまった。静寂に包まれた空間に小さな金属音が響く。リリが目を見開いて駆け出した。いまだ炎のくすぶる地面に膝をつき、アンデッドキングの懐から転がり落ちたそれを微かに震える指先で拾い上げる。

 妖しく光る小さな指輪が、少女の掌に収まる。

「おい! お前ら無事か、……!」

 ボロボロのソロルが扉を蹴破って部屋へ入ってくる。彼女は荒く息を吐きながら辺りを見回し、広間の中央に座り込むリリを見て言葉を失った。鬼気迫る表情でリリの元へ走り寄り、ソロルは彼女の細い肩を抱く。

 すん、と洟をすすり、リリはうわごとのように呟く。

「盗まれた秘宝が……あたしたちの一族の悲願が、やっと……」

「ああ、……ああ!」

「これで、これであたしは……」

 続く言葉は形にはならなかった。ぐっと嗚咽を呑み込んで目元を拭い、リリは『カレイドスコープ』を振り返る。

「ご、ごめんね。泣くつもりは無かったんだけど、油断したら、へへ…」

 ソロルの手を借りて立ち上がり、ひとつ深呼吸をして。いつもと同じ屈託のない笑顔を浮かべて少女は告げる。

「みんな、本当にありがとう! みんなのお陰で私……、私の使命は無事、果たせました!」

 返事は無かった。なにしろ全員疲弊しきっている。座り込んだまま頷くなり親指を掲げるなりして応える『カレイドスコープ』の面々を見て、リリとソロルは顔を見合わせて苦笑する。

「ひとまず、これでこの件は無事終了だな。街へ戻って、さっさと休もうぜ」

 ソロルの言葉を合図に、一行はゆっくりと帰還の準備を始める。離れた場所でひとり立ち尽くしていたマリウスもまた、動き出した仲間達の姿を見て強張った肩から力を抜いた。いつの間にか取り落としていた重砲を拾い上げ、弾を抜いて荷物をまとめる彼の元に、そっとリリが近付いてくる。

「マリウスさん。あの、大丈夫……? さっきの……」

 心配そうに覗き込んでくる彼女に、マリウスは曖昧に微笑んでみせる。それから自信の掌に視線を落とした。何度か握っては開いてを繰り返してみるが、これといった異常は見受けられない。

 リリは彼の表情から言わんとしている事を読み取ったらしい。しばし何か言いたそうにしていたが、やがてそっか、と頷くとソロルの元へ戻っていった。最後まで心配そうな様子を崩さなかった彼女の背中を内心申し訳ない気持ちになりながら見送り、ひとつ息を吐くとマリウスも仲閒たちの元へと歩いていく。


     ◆


 アンデッドキングの討伐から数日間の休息を経て。『カレイドスコープ』は主のいなくなった第三迷宮を再び訪れていた。

 リリとソロルを巡る一件に片がつき、無事にミッションも完了して肩の荷が下りたところではあるが、探索を再開する前にひとつ解決しなければならない問題があった。次の階へ繋がる上り階段が見つかっていないのである。

「隅々まで探したよね? おかしいなあ」

「ま、まさか、ここから先には進めないんでしょうか……?」

「どうだろう……とにかくもう一度探してみようか。ここは薄暗いし、見落としている場所があるかもしれない」

 と、ひとまずフロア内を歩き回ってそれらしき場所を探してはみるが、それでも見つからない。一行はいよいよ途方に暮れてしまった。まさか、本当にここで打ち止めなのだろうか。

 見つからないものを探し続けるには体力が要る。いつまでも歩き続ける事はできないし、何よりここは世界樹の迷宮だ。歩けば歩くだけ魔物とはち合わせる確率は上がり、それを倒すにのも体力を使う。そろそろ休憩しようという話になったのはフロアを一周してもうじき最初の場所に戻るという頃だった。

 日光の当たる場所で荷物を下ろし、各々適当な場所に座って脚を休める。歩き通しでご機嫌斜めになっていたリズが棺からフルーツサンドを取り出して頬張り始めた。顔をしかめたまま口いっぱいにパンとクリームとフルーツを詰め込む彼女の姿に苦笑しつつ、他の面々から少し距離を置いたマリウスが周囲を見回して呟く。

「にしても、この辺りまで来ているのは私たちだけか」

「意外と少ないですよね、三層を探索してるギルド。他に知ってる人とかいたら一緒に探せたのに」

「『ヴォルドゥニュイ』は……」

「二層をうろついてるらしいよ」

「ああ、やっぱり……」

 魔物にいちいち悲鳴を上げては無駄に息を切らしていたステファンの姿を思い出し、一行は苦笑する。今こそ約束どおり力を借りられたら良かったのだが、彼の精神の健康を思えば無理強いはできないだろう。

 その時だった。干した月リンゴを口に運んでいたケイナが、ふと耳をぴんと立てる。怪訝な表情で辺りを見回し、彼はぽつりと呟いた。

「喋り声がした」

「え、何、やめてよそういうの……」

「あいやその、多分生きてる人だと思うけど……あっちの方角かな」

「あら、わたしちょっと見てきますね」

 ケイナは西に延びる通路を指さす。偶然いちばん近い場所にいたエールがそれとなく剣に手をやりつつ、そちらを覗き込んだ――瞬間、彼女は弾かれたように走り出した。

 角を曲がって通路の奥へ駆けていくエールに一瞬呆気に取られた四人だったが、はっと我に返ると慌てて得物を手にその後を追った。いったい何があったのか。嫌な想像が脳裏を過ったが、予想に反して通路には誰もおらず、また何かの痕跡が残っているという事もなかった。ただ一点、先程通りかかった際はただの壁しか無かった北側の突き当たりに、人ひとりが通れそうな大きさの亀裂が入っている。

 エールはその亀裂の目の前に立っていた。追いついた四人が彼女の肩越しに向こう側を覗いてみれば、なんと亀裂の先には開けた空間が広がっている。

「こ、こんな所に隠し部屋が……」

「階段ここ?」

「もしかしたらそうかもしれないな。それにしても、どうして急に……いったい何があったんだ? エール……エール?」

 マリウスが声をかけてもエールは亀裂の向こうを見つめたままぴくりとも動かない。よく見てみればその横顔は青く、唇は微かに震えているように見えた。

 心配になったマリウスが次の言葉をかけようとしたその時、エールは小さく息を吸い込んだ。まるで仲閒たちの存在に気付いていないかのように。呆然とした表情のまま、うわごとのように彼女は呟く。

「兄さま」

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