【SQ5】16 輝きの向こう側

 エールの様子がおかしい。

 おかしい、と言っても明らかに挙動が不審であるとか、言動や嗜好が大幅に変わったとか、そういった事ではない。常の様子は今までと何ひとつ変わらないし、探索中も戦闘中も至極落ち着いている。ただ、時折いやに思い詰めた顔をするのだ。それにどことなく焦っているような……そんな雰囲気がある。彼女が勢いに任せて先に進みたがるのは今に始まった事ではないし、いつも通りだと言われてしまえば、そのとおりなのだが……。

「訊いても話してくれないんだもんなあ……」

 ぼやくように呟いたエスメラルダの隣で、ケイナも耳を伏せて唸る。そのまた隣に座っているリズはゆらゆらと身体を揺らして先程頼んだ料理が運ばれてくるのを待っていた。

 夕暮れ時の魔女の黄昏亭は探索帰りの冒険者でごった返している。店主も忙しなく動き回っている事であるし、リズの元に食事が運ばれてくるのはもう少し先になるだろう。先に出された飲み物――エスメラルダとケイナは水、リズはジュースである――をちびちび飲みつつ、三人は会話を続ける。

「でもやっぱり、あの時からだよな? 四層に上がる階段を見つけた……」

「多分ね。知り合いがいた、って事でいいのかな」

「会いたくないひと?」

「ううん……そうかもしれない。俺もハルと会った時すごく動揺したし」

「でも、それだけであんな精彩を欠くかなあ」

「じゃあ、会っちゃいけないひと?」

 リズの何気ない言葉に二人は思わず顔をしかめて視線を交わす。「会ってはいけない人に会ってしまった」……随分と不穏な予想だが、あながち無いとも言い切れないのが恐ろしい。

 何故なら、エールが行き倒れてマリウスに助けられる前にいったいどこで何をしていたのか、誰も知らないのだ。ギルドを組んでからそれなりの時間を共に過ごしてきたが、記憶にある限り彼女の身の上話は一度たりとも聞いた事がない。

「でも、悪意があって隠してるとか、そんな訳じゃないと思うんだよね」

 そう言ったエスメラルダだったが、ふと中空に目を凝らして何事か考え込む様子を見せる。ケイナとリズの視線を受けつつ、彼はひとつ溜息を吐くとグラスに手を伸ばしながら小さな声で呟いた。

「ごめん、僕がそう信じたいだけかも」

 持ち上げられたグラスの中で随分と小さくなった氷が軽やかな音を立てた。カウンターの向こうから両手に皿を載せたメリーナが歩いてくる。待ちに待った食事だというのにリズの表情は曇っていたし、それはエスメラルダもケイナ同じだった。

 結局この日の話し合いも、結論は出ないままだった。


 エスメラルダたちが少し早い夕食に手を付け始めていたその頃、マリウスは鎮守ノ樹海にいた。一人で探索……という訳ではない。少し離れた場所、彼と向かい合うように立つのは大鎌を担いだソロルだ。

 周囲には人の姿も、強力な魔物の気配も無い。ひとまずの安全を確認したソロルはよし、とひとつ頷き、葡萄色の視線をマリウスへ向ける。

「改めて、だ。オレたち瘴気使いは大きく分けて三つの形で瘴気を使ってる」

 言いながら、ソロルは自身の指を一本ずつ順に立てていく。

「まずは一番の基本、瘴気を気体のまま相手に向かってブチ撒ける方法。二つ目は鎌に纏わせて攻撃する方法。そして最後に、」

 三本目の指を立てていた手を下ろし、担いでいた大鎌をくるりと回して地面に突き立てる――瞬間、彼女の周囲を瘴気が渦巻いた。しかし術者の意思の下に統御されたそれは拡散せず、生きているかのような滑らかな動きでソロルの四肢を包み込んだ。その様子はまるで黒い鎧を身に纏っているようにも見える。

 小さく息を吐き、ソロルは淡々と続ける。

「瘴気兵装、だ。こいつは使いこなせれば強力だが、使いすぎた時の反動もデカい。そう簡単には修得できねえ」

 そう言いながらソロルが鎌の柄尻で地面を叩けば、兵装は解けるように霧散して消えていく。薄く漂う瘴気の残滓を目で追うマリウスを見て彼女は肩をすくめ、ただし、と続ける。

「元より、お前に兵装は無理だ。その瘴気の量じゃな」

「それは……仰るとおりだな……」

 苦笑混じりに呟き、マリウスは片手を宙に掲げる。広げた掌から滲んだ黒はソロルの瘴気と比べるとかなり薄く、少ない。

 アンデッドキングとの戦いの中で突如目覚めたこの力は、リーパーたちがその身に宿す瘴気とまったく同じものだった。何人かの専門家に意見を求めたところ、事例こそ少ないがこういった事象は歴史上いくつか確認されているという。つまり、生まれ持った瘴気の力が何らかの要因によって発現しないまま成長し、何十年も経ってから急に覚醒する……という話だ。

 仲間たちにも、それから目の前で一部始終を見たリリにも随分と心配されたが、マリウスはこの事実を――自身が瘴気使いになってしまったという現実を、存外冷静に受け止めていた。そもそも瘴気は血によって受け継がれるのだから、瘴気使いの姉と同じ血を引く自身にその素質があったとしても何らおかしくはなかったのだ。ただ、その素質が本当に目覚める日が来るとは、夢にも思っていなかったが……。

 そして、手に入れた力をわざわざ無駄にする理由もない。紫煙にも似た瘴気の流れを手の内に握りこみ、マリウスはソロルに向き直る。

「私は竜騎士だし、仮に瘴気兵装が可能だったとしても有効利用はできなかったと思う。どちらかというと、必要なのは瘴気を瘴気のまま扱う術だな」

「だが、それはそれで大変だと思うぜ。魔物に浴びせて弱らせるにしても、濃度が低けりゃ思うような効果は得られねえ」

「そこを何とか克服したくて君に頼ったんだ。どうか知恵を貸してほしい」

 そう言って頭を下げるマリウスを見て、ソロルは盛大に顔をしかめた。うんざりしたような表情で大きな溜息を吐き、片手の鎌を担ぎ直すと彼女は呆れの滲んだ声で応える。

「分かってるよ。お前らには借りがある」

 そこで一度言葉を切り、ソロルはまっすぐにマリウスを見た。真剣な眼差しで彼女は問う。

「本当にいいんだな」

 マリウスもソロルを見つめ返す。半ば睨んでいるようにも見える彼女の瞳には、わずかに彼を咎めるような色が宿っている。マリウスは小さく笑った。彼女の心配を無碍にしてしまうのは心苦しいが――心配された程度で考えを改めるようなら、初めからこうして教えを乞うたりはしていないのだ。

 疎まれ、憎まれるほどに強力な力だ。きっと、これから先へ進むのに役立つ。

 マリウスの様子を見てソロルはもう一度、盛大な溜息を吐いた。そうかよ、と呟いた彼女に、マリウスもまた曖昧な苦笑を返す。


     ◆


 迷宮第四層は、虹霓ノ晶洞と名付けられた。外から見た位置としては世界樹の半ばを超えたあたりだろうか。大樹の周囲を囲む岩壁のそのさらに上方、幹の内部に広がるこの洞窟は、驚くべきことに地面から天井までびっしりと水晶で覆われている。その中には竜水晶と呼ばれる希少で高価な鉱石も存在しているらしく、街では冒険者のみならず一般市民までもがこの水晶の迷宮の噂に夢中になっているという。分かりやすい金の匂いがし始めた途端に飛びついてくるというのは単純というか、がめついというか、たいへん人間臭い挙動ではあるのだが……。

「どうする? もし一般人が迷宮まで入り込んできたら」

「そんな事になったら、俺たちが救助に駆り出されるんだろうな……」

 ケイナの苦々しい返答にエスメラルダは肩をすくめた。いかにもあり得そうな未来である。できれば評議会にはそんな事になる前に樹海への立ち入り規制の厳格化などに踏み切ってほしいものだが。

「お二人とも、そろそろ出発しますよ」

 マリウスとリズと共に通路の先を見に行っていたエールがそう言って二人を呼ぶ。腰かけていた水晶から立ち上がり、エスメラルダとケイナは足早に彼女の元へ向かった。

 静まり返った水色の迷宮は洞窟の中とは思えないほど明るい光で満ちている。日光が射しこんでいるような様子もないのにこうも明るいのは不可思議極まりないが、察するに何かしらの光源から発せられた光が各所に生えている水晶の内部を通過して拡散しているためではないか、とマリウスは考察していた。他の四人にはまったく意味が分からなかったが……とにかく灯りが無くとも探索できるというのはありがたい事である。

 迷宮内部に『カレイドスコープ』以外の冒険者の姿は見えない。そもそも彼らが辿り着くまでこの迷宮は「発見」されていなかったのだから、当然と言えば当然なのだが。

「メンバー集めにも困ってた新人ギルドが、気付けば樹海開拓の最前線を走ってるのか。不思議な感じだ」

 光の反射で見えづらい曲がり角の向こうに注意を向けながら、マリウスが呟く。彼の背中にくっついて辺りを見回していたリズがしみじみと応える。

「いろいろあったね」

「色々……色々と言うにはありすぎた気もするが……」

「まだ振り返るには早くないですか? 世界樹が何層まであるのかも分からないし」

「そうですね。でもきっと、近付いてはいますよ」

 エールが静かに言う。いつものように笑ってはいるが、その声はどこか固い。一度彼女の顔を見上げ、何とも言えない表情を浮かべて視線を逸らしたエスメラルダに気付いた風もなく、エールは噛みしめるように続けた。

「絶対に頂上まで行きましょうね……」

 リズが小さく、おー、と呼応した。間を置かず、弾かれるように振り返ったケイナが刀を抜く。彼の視線の先、翼をはためかせて飛来するのはサイミンコウモリの群れだ。

 各々武器を構えて魔物たちを迎撃する。しばしの時間を経てやがて剣戟は止んだが、辺りが静かになった後も先の話題の続きを口にしようとする者はいなかった。


 探索を終えて街に戻っても聞こえてくるのは四層の噂ばかりだ。水晶の市場価格がどうだの、既にツルハシやシャベルがバカ売れしているだの、危惧していたのとまったく同じ話題があちこちを飛び交っているのは聞こえないふりをしつつ、一行は宿へと帰り着いた。ジェネッタの明るい出迎えに応じるのもそこそこに二階の客室へと上がる。

 時刻は完全に陽が落ちきって数時間は経とうかという頃だ。今日は遅い時間から探索を始めたため、帰ってくるのも随分と遅くなってしまった。代わりに明日の探索は休みである。一層をうろついていた頃は毎日ドングリたちの素材から得られる僅かな金銭でその日その日を凌ぐので精一杯だったが、今はギルドの財布にもかなり余裕がある。一日くらい稼ぎが無い日があってもまったく問題ないのだ。

「お金の余裕は心の余裕! 貯蓄が無いと歪んじゃうからね、人って」

「そうなのか? 清貧という言葉もあるし、逆では……」

「マリーさんは元々お金持ちでしょ。世の中そんな上手くいかないんですよ」

「ああ、うーん……それはすまない……」

 世の中を知らないお坊ちゃまが落ち込んだ様子で黙り込むのを見て、刀の手入れをしていたケイナが見兼ねたように話題を変える。

「ええと、そういえば特訓の調子はどうなんだ?」

 特訓とは言うまでもなく、マリウスがソロルと共に行っている瘴気を扱うための訓練の事である。俯いて床の木目を端から順に追っていたマリウスは顔を上げ、頬を掻きながら答える。

「ぼちぼちだな……一応、筋は悪くないと言われたが」

「ソロルさんってやっぱり厳しいですか?」

「厳しいというか、習うより慣れろという感じかな。あまり時間も無いし」

 ソロルは近々アイオリスを発つ予定になっている。相方であるリリがアンデッドキングから回収した不死の指輪と共にシドニアへと帰還するため、彼女もその旅に同行するのだ。出立の予定日は数日後。つまり特訓ができるのも残り数日だ。

「それまでにある程度使える形にはしたいな。折角頼んで指導してもらってるわけだし」

「俺たちも楽しみにしてる」

「いや、そこまで期待は……」

 マリウスの言葉を遮ったのはノックの音だった。三人が扉の方を向けば、同時に細く開いた扉からリズの顔が覗く。小首を傾げて客室を見回す彼女にどうしたのかと訊ねれば、リズはどこか不安げな様子で口を開く。

「エールいる?」

「エール? 見てないけど……」

「戻ってこない。お水汲みにいくって言ったのに」

 男性陣は顔を見合わせる。飲用水の井戸は宿のすぐ裏手だ。一度外に出なければならないとはいえ、ただ水を汲んで戻るだけならそう時間はかからない筈だが。

「見に行ってくる」

 と、ケイナが立ち上がった。ついて行こうとしたリズを押し止め、彼は控えめに微笑んで言う。

「変なやつとかいた時、俺なら素手で何とかできるから……もし手に負えそうになかったら呼ぶから、待っててくれ」

 そう言い残し、ケイナは軽やかな足取りで部屋を出ていく。マリウスとエスメラルダは顔を見合わせた。ケイナと入れ違いで入ってきたリズがマリウスの膝の上にごろんと転がるのを横目にエスメラルダが呟く。

「なんかケイナ……最近は自分の腕力に開き直ってきてない?」

「ま、まあ自信がついたなら良い事だ……」

 冒険者ギルドでティーカップを破壊して縮こまっていたのが遠い昔の事のようである。だがそれはそれとしてあの膂力が人間に向けられればタダでは済まない。彼の手に負えるような事態が起こっていない事を祈るばかりだ――いや、そもそも、何も起こっていないのが一番なのだが。


 汲み上げたばかりの井戸水は、一息に飲み干せば脳の髄まで氷のように冷えていくような心地がした。顔をしかめながらほうと一息つき、エールは改めて水筒を満たすため水を汲み始める。

 どこか遠くで犬が吠える声が聞こえてくる。周囲には既に明かりが消えている建物も多い。きっとあの窓の向こうで暮らしている住人たちは、明日の仕事や探索に備えて早く床に就いたのだろう。自分も早く部屋に戻って眠る準備をしなければならない。明日は休みだが、休みだからといって昼まで惰眠を貪るわけにはいかないし、……。

 ふと顔を上げる。そのまま何気なく背後を振り返ったエールは、ある事に気付いて息を呑んだ。建物の陰の暗がりに誰かが立っている。

 見覚えのない人物だ。灯りが届かない位置にいるせいで顔はよく見えないが、女性のようだった。背格好からしてブラニー族でも、他種族の子どもでもない。思わず護身用のナイフに手が伸びた。先日のディアマンテとハルの一件が脳裏を過る。

 相手が警戒を強めているのに気付いているのかいないのか、人影は微動だにしないまま暫しエールを見つめていた。エールが滲んだ汗の感触に耐えかねてナイフの柄に置いた指をそっと動かした頃、ようやく彼女は口を開く。

「明日の正午、」

 静かな、何の感情も読み取れない声だった。息を呑むエールに、女は淡々と告げる。

「迷宮四層で待っている、と。貴女に伝言です」

「……どちら様、ですか?」

「予想はついているのではありませんか」

 エールは答えなかった。女はひとつ呼吸を置き、再び告げる。

「もうひとつ。明日、もし来なければそれきりだ(・・・・・)と。……私からは以上です」

 そうして踵を返し、女はその場から立ち去ろうとする……が、ふと足を止めると首だけでエールを振り返った。夜の底のような暗がりの中、女は低く呟くように言う。

「彼も貴女を、待っているようですよ」

 ……そして、辺りには静寂が戻る。エールは少しの間立ち尽くしていたが、やがて僅かによろめくと背後の井戸に腰かけるように寄りかかった。小石か何かが井戸の底に落ちたのか、軽いものが水面を叩く微かな音。水で満たされた地の底は暗く吞み込まれそうな色を湛えてぽっかりと口を開けている。

「……エール?」

 意識を引き戻したのは馴染み深い声だった。見れば、先ほどまで女がいた場所にケイナが立っている。彼はエールの姿を見て目を丸くし、慌てた様子で駆け寄ってきた。井戸の縁に体重を預けるエールが倒れてしまわないよう背中に手を添え、ケイナは戸惑いながら彼女に声をかける。

「えっと、リズが心配してた。なかなか戻ってこないから……何かあったのか?」

「何でも。何でもありません……少し、疲れていたのかも」

「そう、か……」

 ケイナは何か言いたげに視線を彷徨わせた。彼の言葉を待たず、エールは立ち上がって握ったままになっていた水筒を揺らす。中の水がたぷりと音を立てる音を聞きながら、彼女はケイナに声をかける。

「帰りましょう。夜は少し冷えますね」

 ケイナは少し迷ったようだった。しかし結局何も言わず、ひとつ頷いて元来た道を引き返していく。客室に帰りつくまでの間、二人に会話は無かった。


     ◆


「あ~! 霊魂が存在しないだけで世界はこんなに快適! 四層、最高~!!」

 イヤッホーイ! と諸手を上げて威勢よく叫んだステファンを、ジャンは呆れたように見つめる。

 彼ら『ヴォルドゥニュイ』が四層の探索は始めたのはここ数日の事だ。三層での『カレイドスコープ』との協力体制を終えてからはしばし二層をうろついていた彼らだったが、資金も装備も整ったしそろそろ先に進もうというという事でついに十六階まで上がってきたのである。三層の後半をすっ飛ばす形になるがそこは仕方ない。なにせ五人パーティーならともかく、二人しかいない状態でステファンをなだめつつ探索するのは不可能だ。

「いえ、そもそもあんな所探索する価値ないので。あんな陰気で性格悪そうな迷宮、無かった事にする方が世界樹の名誉のためになりますよ」

「やめとけって……どこに対しての悪口なのか分かんねえけど……」

 相方の暴言を諫めつつ、ジャンは手元の地図に目を落とした。現在二人はフロアの北西部、鉱石のような樹木が数多く自生する地点にいる。休息も十分に取ったところであるし、そろそろ先に進みたいのはやまやまなのだが、ちょうど進行方向に魔物がいてなかなか動く事ができないのだ。

 進路を塞ぐ亀に似た魔物は、同じ場所を同じ軌道でぐるぐると巡回し続けている。あの調子ならば隙を見計らえば接触せずに通過できそうではあるが……。

「もう少し様子を見てからで良いでしょう。焦ったところで実になるわけでもなし」

「そうだな。あーあ、焚き火ができりゃ良かったのに。小腹空いたわ」

「誰があなたの小腹を満たすために料理する羽目になると思ってるんです? 仕方ないですねえ……」

 そう言いながらステファンが取り出した目玉焼きパンを、ジャンは喜色を浮かべて受け取った。冷えたパンに勢いよくかぶりつく彼の手から地図を引ったくり、これまでに歩いてきた道筋を確かめていたステファンだったが、微かに聞こえてきた音に気付いて顔を上げた。鈴の音だ。聞き間違いでなければ、獣避けの鈴の。

 誰かいるのだろうか。水晶の噂につられて入り込んできた一般人でなければいいが……とこっそり通路の先を覗き込んだステファンは、視界に入った人物の姿を見るなり身を翻してジャンの元へ駆け戻った。その様子を見たジャンも残っていたパンの欠片を口に押し込んで立ち上がる。

「後を追いましょう」

「一般市民か?」

「いいえ」

 荷物を背負い、周囲を警戒しながら通路へと出ていく。先程の人物が向かっていった方向を険しい表情で見つめながら、ステファンは苦々しい声色で続けた。

「エールさんです」

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