【SQ5】22 お前がいなければ
第五層は円環ノ原生林と命名された。なにせその成り立ちからして何もかもが謎の樹海であるため名付けには相当苦慮したらしいが、最終的には『カレイドスコープ』が持ち帰った採集品の一部が決め手になったようだ。
「持ち帰ってくれた植物のいくつかが、評議会で所蔵している古代の植物の化石標本と一致してね」
とはレムスの言である。古代のアルカディアの植生を保ったままであるという事と、その他いくつかの特徴から円環ノ原生林という名に辿り着いたらしい。今のところあの階層を探索しているギルドは他にはいないのだから、『カレイドスコープ』としては正式な呼び名が無くともさほど問題は無いのだが、評議会としてはそうもいかなかったようだ。なかなか難儀な事である。
そんな樹海の中を、『カレイドスコープ』は今日も進んでいた。鬱蒼とした樹海は広く複雑で探索するにも時間がかかる。第四層の小部屋から繋がる二十一階をひとまず踏破したのもつい昨日の事である。いちおう、初めてこの階層の足を踏み入れてから十日ほど経っているのだが。
ともかく、時間がかかったとはいえ少しずつ前進しているのは事実だ。今日からは二十二階の探索である。
「ここも広そうだな……」
階段の最後の段に足をかけながら辺りを見回したケイナが呟く。どこからどこまで森が広がっているのかは木々に阻まれてよく見えないが、このフロアの探索も一筋縄ではいかなそうだ。
それよりも、と地図の整理をしていたエスメラルダが苦々しい表情で声を上げる。
「やっぱりおかしくない? 二十一階のあれ、やっぱり端から端に移動してたって。何なの? 魔法?」
彼の問いに答える者はいない。エスメラルダが言っているのは、つい先日判明した二十一階の地形についての謎の事だ。地図における東端へまっすぐ伸びる通路を進んでいくと、いつの間にか西端へと移動している……説明しただけでは分かりづらいが、とにかく端と端がまるで円のように繋がっているのだ。
つまるところ、円環ノ原生林の「円環」はここから取られたようである。回廊のような円形の地形になっているというならそれで説明がつくが、歩いたり景色を見たりしている限りとてもそのようには感じられない。こうなってくるとおかしいのは自分たちの認識か、それともこの空間そのものかのどちらかだが、それを判別する術を持たない以上実際にどうなっているのかは分からないのである。背中の棺桶を揺すって重心を直しながらリズが言う。
「魔法かも」
「あるんですか? そういう魔法」
「魔法じゃないかも」
「どっちだ……?」
「まあ何にせよ、対応しないと先に進めないからな。どうにかやっていこう。地図の描き直しは増えるかもしれないが……」
マリウスの言葉にエスメラルダががっくりと肩を落とす。東西の横軸を合わせて地図を描くのはとんでもない手間だ。いっそ初めからマス目でも描かれた、ペンひとつで簡単に描き直しができる地図があればいいのだが。
などと、夢物語を言っている場合ではない。とにかく探索を続けてアルコンを捜すか、メレディスたちの行方を追わなくては。階段を上ってきてすぐの場所にある野営に丁度いい広さの空間を通り抜け、北へと進んでいく。
狭い通路の先には扉がひとつあった。近付くだけで開く不可思議な扉をくぐったところで、ケイナが耳をぴんと立てて四人を呼び止める。
「何かいる」
「魔物?」
「多分。そっちの木立の向こうから……足音だな。ひとつしか聞こえないから……」
耳をしきりに揺らしながらそう言ってケイナは東の方向を指さす。気配の主は木々が密集して生えている地帯を挟んだ先にいるようであるため、このまま距離を取って西へ進路を取れば接触せずに済みそうだ。ケイナにひとつ頷き返し、先頭のマリウスが通路の続く北へ爪先を向けた、その時だった。進行方向から物音が響く。はっと戦闘の構えを取った瞬間、茂みをかき分けて現れた姿に一行は言葉を失った。
青く頭をもたげる巨体――残響に集う蟲だ。第四層に棲息する筈の魔物がどうしてここに、などと思うより早く、相手が動いた。凶悪な牙に飾られた口からおぞましい叫びが上がる。
耳をつんざく声量に平衡感覚が失われる。唯一混乱から逃れたエールが、鞄から引っ張り出した起動符をすぐ傍に広がる木立の中に叩きつけた。速やかに発動した物理術式が周囲の木々を根元から刈り取る。茂みの中から生物が逃げ出す音。幹が倒れる轟音が辺りに響く。だが、魔物の注意はこちらから外れない。
「っどうして……!?」
あの魔物は音に反応する性質がある筈だ。こちらの息遣いよりも明らかに大きい破壊音に引きつけられない筈がない。という事は、まさか。
体勢を立て直したエスメラルダがスモークを複数個まとめて放り投げる。大量に噴き出した煙が辺りを覆うと、こちらを追跡しようとしていた残響に集う蟲の動きもにわかに鈍った。その隙を突き、五人は一斉に駆けだす。顔にかかるスモークを振り払いながらケイナが叫んだ。
「あれってもしかして!」
「死霊!」
マリウスに手を引かれて走りながらリズが応える。あの魔物は階層を越えて迷い込んできたのではなく、死霊にされた上で持ち込まれたのだ。だが、生前の肉体を維持したまま死霊化している以上、その行動が肉体のスペックを超える事はない。あの蟲も聴覚を頼りに動くしかない筈だ。そうではないという事はあの死霊の行動全てが術者の支配下にある――つまり、こちらの動きを視認した上で死霊を操作している者が、どこかに潜んでいる。
そして、こんな場所で襲撃をかけてくる死霊遣いなど、知る限り一人しかいない。
「いたんだ!? 魔物に襲われて倒れててくれてるの期待してたんだけど!」
「そう上手くはいかないだろう!」
「扉開けるぞ!」
先頭を走るケイナが刀を抜きながら叫ぶ。自動で開く扉を蹴破らんばかりの勢いでくぐり抜け、そのまま西へ進む。まだ探索した事のない場所だが、この状況で地図にペンを走らせる余裕がある筈がない。何の気配も無い方向へ、勘を頼りに進んでいく。
道中、マリウスが小声でリズに指示を出した。ひとつ頷いたリズは素早く死霊を召喚し、何事か呪文を呟いてどこかへと向かわせる。同時に進行方向から木が倒れる音が聞こえてくる。慌ててケイナが足を止めれば、飛んできた空刃が彼の横髪を掠った。こんな攻撃をしてくる心当たりもひとつしか無い。
斬り倒した大木を踏み越えて姿を現したラクライは、『カレイドスコープ』に向かって軽い調子で手を振ってみせる。
「やっほ~。なかなかしぶといねえ君たちも。でも、そろそろ年貢の納め時じゃない?」
「……収める年貢、無いけど」
「それはそうだ! まあ、そこはもう自分の巡り合わせの悪さを呪ってもらって」
にこやかに笑い、ラクライは両の腰に下げた刀を抜く。鞘から抜け出た切っ先が閃くのと同時に、ケイナも刀に手を伸ばした。疾風が吹き抜ける。瞬きひとつの内に踏み込んできたラクライの一閃を受け止め、ケイナは叫ぶ。
「リズ!」
「あいっ!」
合図を受け、リズが術式を発動する。彼女の指示を受けた死霊がケイナの傍らへ移動した。顔をしかめて背後に跳ぼうとしたラクライに死霊が追随する。肉体の軛を外れた死霊の動きの速さは武を極めたセリアンにも劣らない。予想外の角度から振り下ろされた爪がラクライの二の腕を抉った。
二、三歩と後退し、腕を伝う血を見てラクライはうええ、と舌を出す。
「やっぱ死霊術って陰湿だね。苦手だ」
そう言うと彼女は勢いよく踵を鳴らす。背後から足音――呼び寄せられるように現れたのは、大鎌を携えた虚ろな目のルナリアの男だ。彼は佇まいに反して機敏な動作で鎌を高く掲げると、刃に纏わりつくように発生した瘴気ごと勢いよく振りぬいた。黒い波が辺りを覆う。足を取られかけたエスメラルダをエールが支えた。
再び構えを取った瘴気使いがいちばん近くにいたマリウスへ突っ込んでいく。はっとしたケイナが駆け戻る素振りを見せた瞬間、再び肉薄してきたラクライの斬撃が彼を襲った。振り下ろされた双刀を咄嗟に突き出した刀の鍔で受け、押し切られないうちに力ずくで跳ね返す。弾かれた刀をすぐさま握り直してケイナの追撃を弾いたラクライは、周囲に広がる瘴気を見て肩をすくめる。
「トトがいたら私も巻き込まれそうだね。危ないし場所変えようぜ」
「場、……!!」
言い終わる前に、ラクライの回し蹴りがケイナの腹に突き刺さる。なす術もなく吹き飛んでいったケイナが転がる方へ歩いていくラクライをエールが追おうとする。が、それを遮るように背後から叫び声が響いた。見れば、一度は撒いたはずの残響に集う蟲がこちらに追いつこうとしている。
トトと呼ばれた瘴気使いは絶えずマリウスに向かって攻撃を続けている。リズを背後に庇いながら瘴気を纏った斬撃をいなす彼だが、盾で受けるには至近距離での応酬はあまりに分が悪い。ついに防御が追いつかなくなった一撃がマリウスの頭を捉えかける。
「だめーっ!」
咄嗟に叫んだリズに呼応した死霊がマリウスと鎌との間に割って入る。斬り裂かれて霧散した死霊の残滓を顔面に受けながらマリウスは重砲を放つ。無理な角度での一発だったがこの距離でならば外す筈がない。弾丸がトトの胸を貫く。だが傷口からは血飛沫のひとつも上がらず、痛みに怯んだ様子も見られない。やはり、とマリウスは歯噛みする。こうして肉体を持って動いていても、彼は生きている人間ではない。冷え切った死体なのだ。
遠くまで蹴り飛ばされたケイナが起き上がり、ラクライに応戦し始めた。体勢を立て直したマリウスも死霊の援護を受けながら大鎌をいなしている。エールは唇を噛み、剣を抜いた。そのまま踵を返すと彼女は大声で叫ぶ。
「蟲はわたしが引きつけます!!」
「! エール待って!」
傍らにいたエスメラルダが止めようとするが、エールはそのまま残響に集う蟲の方へと走っていってしまう。一瞬迷う素振りを見せたエスメラルダだったが、すぐに彼女の後を追った。ケイナが慌てて二人の方を向くが、そこにすぐさまラクライが斬り込んでくる。反射的に構えた刀の鍔越しに女がにやりと笑ったのを見て、ケイナは表情を歪めた。
絶え間ない攻防の合間にマリウスは深く息を吐く。分断された――だが、メンバーがそれぞれ孤立しなかっただけ幾分かマシだ。トトの瘴気は恐ろしくはあるが、リズの死霊術は防護魔法にもある程度転用できる。このまま防御に専念して、隙を見て鎌を振るう腕を潰してしまえば無力化できる筈だ。
それまでケイナが無事に保ってくれればいいが……と考えつつ重砲に弾を込め直した、その時だった。視界の端に閃光が走る。リズが小さく悲鳴を上げる。弾かれるように動いた死霊が術者を守ったその隙に、マリウスの眼前を大鎌が薙いだ。コートの襟の切れ端が宙を舞う。
盾を押し出す形で無理やりにトトから距離を取り、マリウスは背後へ視線をやる。少し離れた場所、元来た扉を塞ぐように立つのはルナリアの女だ。
彼女が杖を掲げる――その動作を見届けないうちに、マリウスはリズの手を取って駆けだした。ケイナとラクライの斬り合いに巻き込まれないよう注意を払いながら距離を取った、その背中を青い光が追う。魔法とは異なる光を放つ術式を盾で弾き、体勢を立て直した。トトがゆっくりとこちらへ近付いてくる。その四肢を覆うのは瘴気兵装だ。女は動く気配が無い。しかし手に構えた杖の先はこちらを向いている。
「……間に合うか……?」
思わず漏れた呟きに応えるようにリズが彼の手を強く握り返す。見てみれば、少女の横顔には強い意志が宿っていた。マリウスもまた呼吸を整え、目前に迫る相手をまっすぐに見据える。
残響に集う蟲とつかず離れずの距離を維持しつつ、エールは細い通路を抜けて南へと向かっていた。短い脚で必死についてきたエスメラルダが、息を切らしながら彼女に問う。
「あいつ、どうするつもり!?」
「分かりません!」
「無計画なんだからなあもう!!」
ヤケ気味に叫び、エスメラルダは背後にスモークを放る。煙幕に包まれた蟲の動きが僅かに鈍った。その隙に二人は一気に通路を駆け抜ける。
道中、唐突に落ちた巨大な影にぎょっとして足を止めかけた。影の出どころ、北へ延びる通路の先を覗き込めば、見慣れない魔物が一体仁王立ちをしてこちらを睨みつけている。獅子のような頭と馬のような下肢、人間のような腕を持つその魔物はエールとエスメラルダの元へとまっすぐに近付いてきている。二人は慌てて足を速めた。その途中でエスメラルダがはっと鞄を漁り、探し当てたものをエールに渡した。一瞬面食らったエールだが、すぐにその意図を理解すると受け取ったものを背後へ思いきり放り投げる。
投げつけられた小瓶の中身が、追ってきていた獅子の魔物の胸元にぶつかって拡散した。瞬く間に霧となって広がった混乱の香に、魔物は少しの間、我を失ったようだった。
もがくように腕と腹から生えた触腕をばたつかせる魔物に予想だにしない速度でぶつかってきたものがあった。残響に集う蟲である。突如現れた――蟲からしてみればむしろ、あの魔物の方が進行方向に突然現れたのだが――乱入者に驚いたのか、標的を残響に集う蟲に変える魔物を横目に、エールとエスメラルダは更に南へ続く道へ逃げ込む。背後から響く戦闘の気配を聞きながら突き当たりの扉に飛び込んだところでようやく二人はほっと息を吐いた。このまま魔物同士でうまく潰し合ってくれれば助かるのだが。
「でも、僕らもしばらく戻れなくなっちゃったね」
「はい。いざとなったら、このあいだ決めたように糸で……」
そう言いかけたところで、エールは勢いよく顔を上げて自身の背後を振り返る。壮絶な表情で剣を構え直す彼女の視線の先を見て、エスメラルダも息を呑んだ。
木立の陰に立つ、アースランの青年――。
「やあ、奇遇だね」
表情にそぐわない軽やかな口調でそう言い、メレディスは静かに笑った。
全身が妙に軋む。どう考えても先程蹴りを喰らったのが響いているが、響いているからといって相手が攻撃の手を緩めてくれる筈もない。
剣戟の合間に必死に呼吸を整えるケイナを嘲笑うかのように、ラクライは次々と技を繰り出してくる。上段からの一閃を避けたと思えば空いた腹めがけて突きが飛んでくる。距離を取れば空刃が。かといって詰めれば逆にこちらが回避できるだけの余裕が無くなって連続攻撃をそのまま受けるだけだ。マリウスたちからの支援は期待できない。打開策が見つからない。このままでは獲られる。
追い詰められるケイナと同様に、マリウスたちもまた窮地に陥っていた。ルナリアの女――レイチェルは扉の前に陣取ったまま動く気配は無いが、彼女が現れてからトトの動きが明らかに一段上のものに変わっている。祈祷術による能力強化だろうか。そうなるとまず彼女の支援を絶たなければ勝ち目はないが、トトが間に陣取っているせいであちらに攻撃を加える事ができない。
リズの死霊術ならばレイチェルを直接叩く事も可能かもしれないが、今のマリウスは死霊の援護があってようやくトトの猛攻をいなせている状態だ。リズ自身も攻撃の余波の瘴気を浴びたせいか目に見えて元気を失ってきている。多少無理をしてでも突破口を見つけなければこのまま持ちこたえる事すら難しい。
身を低くして大振りの一閃を避け、そのまま重砲を構える。狙いをつける余裕もないまま放った弾丸はトトの左肩を掠めて背中になびく長髪に穴をあけた。焦げつく匂いが辺りに漂う。
気にした風もなく再び鎌を構えるトトに、マリウスは半ばヤケクソじみた動きで盾をぶん投げた。ちょうど高く構えを取っていたために空いていた脇腹に、渾身の力で投げられた盾が横薙ぎに食い込む。そのまま倒れるトトを盾越しに押さえつけながらマリウスは叫んだ。
「リズ! ケイナを!!」
はっとしたリズが死霊を治癒術へ変換しケイナの元へ向かわせる。木を背後にして追い詰められた状態でラクライと鍔迫り合いをしていたケイナは、僅かに活力を取り戻すとぐっと歯を食いしばって目前に迫っていた刃を押し返した。すぐさま刀を振り上げ、鋭く打ち下ろす。反応が一拍遅れた。ラクライの手から刀が叩き落とされる。地面を跳ねたそれをすかさず蹴り飛ばして呼吸を整えるケイナをラクライはどこかつまらなそうな目で見る。
その間、盾の下でもがくトトを押さえ続けていたマリウスだったが、掌に感じた嫌な気配に思わず思考が白く染まった。対応を思いつくより先に盾と地面の隙間から黒いものが噴き出す。瘴気だ。自分が操る事のできるそれより遥かに高濃度のそれをまともに浴びたマリウスの視界がぐるりと回る。
強烈な不快感に耐えながらも盾を押さえ続けようとしたが、レイチェルの支援を受けたトトが力強く身を起こしたがためにそれは叶わなかった。マリウスが体勢を崩したその隙にトトは大鎌を握り直して立ち上がる。渦巻く瘴気を従えて己を見下ろす男の顔を、マリウスは必死の形相で見上げた。手元に重砲が見つからない。リズの悲鳴じみた呼び声が聞こえる。鎌の切っ先が持ち上がった。これは、駄目かもしれない――。
その時だった。瘴気を切り裂くように飛び込んできた白い影がトトを押し倒す。それが何なのか正しく把握するより先に、マリウスは懸命に伸ばした指先に触れた重砲を手繰り寄せて引き金をひいた。鎌を持つ右腕の肩を弾丸が砕く。
絶えず地面を這う瘴気を華麗に避けながら跳ね回り、白い影は――カザハナはケイナの元へ向かう。ラクライの足元を駆けて攪乱する彼女を目で追うだけの余裕は無かった。明らかに正常な関節の可動域では無理な動きで起き上がったトトが殊更に強く瘴気を振り撒く。気力を振り絞って盾を構え直すマリウスの耳に、覚えのある声が聞こえてくる。
「――レイチェル・アンブレラ!!」
仮面のような無表情を貫いていたレイチェルの唇が僅かに開いた。顔を上げた彼女の視線の先では、木立を突っ切って現れたセリアンの青年が息を切らして立っている。
頬を伝う汗を手の甲で拭い取り、ハルは叫ぶ。
「伝言だ! 『あんたの宝は無事だ』と!」
その言葉を聞いた瞬間、レイチェルは動いた。彼女が杖を打ち鳴らせば、発生した光の矢が標的を目がけて飛んでいく。攻撃を受けたトトが膝をつく。ラクライがはっと振り返った。彼女の視線には応えず、レイチェルはもう一度杖を掲げる。
「あなたに……訊きたい事があります」
微かに揺れる剣先をメレディスに向けながらエールは張り詰めた声で言う。メレディスは何も応えなかったが、小さく肩をすくめた。その仕草を発言を促す合図と受け取ったエールは、ひとつ呼吸を置いてからゆっくりと口を開く。
「あなたはあの冒険者の地図を集めていた。けれどあの時四層にわたしを呼び出したのは、地図を手に入れるためではない。わたしを殺すつもりだった……わたしを、兄に殺させるつもりだった」
「……うん、続けて?」
「水晶竜との戦いの後にとどめを刺さなかったのは、わたしが気を失っていたから。今も、あなたはこうして孤立したわたしたちの前に現れた。……わたしに恨みがあるんですね? 地図や形見のネックレスでは釣り合わないほどの、何かが……」
メレディスは答えない。頬に不自然な微笑みを浮かべたまま、何か考え込んでいるようだった。
エールの背後に控えつつ、エスメラルダは彼女の投げた問いを噛みしめる。間違ってはいない筈だ。水晶竜戦後、命を奪うにはまたとないチャンスである筈のあの状況下で、彼はネックレスを奪うだけでエールには手出しをしなかった。見逃されたのではない。あの状態のエールを殺しても意味が無かったから、素通りしただけだ。
彼はエールを「もっと絶望させ」たいのだ。そのためにわざわざ彼女の兄の遺体を持ち出してからアイオリスにやってきた、と。そう考えるのが一番辻褄が合う。
沈黙が流れる。しばし黙り込んでいたメレディスは、やがて小さく笑うとエールに向き直った。
「うん、まあ、君の言う通りだね。俺は君が本当に憎いんだ。わざわざ手間のかかる準備をして、面倒な策を考えて殺そうとするくらいには」
「っ……、失礼ですけど、心当たりが無いんです。わたし、あなたに恨まれるような事をしましたか?」
「して(・・)はいないな。強いて言うなら存在している事だ。……昔話をしようか」
ぽんと手を打ち、メレディスはエールと、その背後にいるエスメラルダを見た。僅かに目を細めて彼は語り始める。
「俺は孤児でね。物心ついた時には親はいなくて、同じような子どもが集められた孤児院で暮らしてた。大した稼ぎも無いのに人数ばかり増えて困窮してたその孤児院に、急に多額の寄付を持ってきた人がいたんだ。……君たちの言う『冒険者』さ」
メレディスが懐に手を入れ、折りたたまれた紙の束を取り出す。色あせて古びたそれは、彼が手段を選ばず集め続けた「あの冒険者の地図」だ。
「彼は旅の合間に何度も孤児院に立ち寄って、俺に冒険譚を聞かせてくれた。俺は彼の事を父親みたいに思っていたんだ。憧れだった……いつか彼の冒険についていくのが夢だった。けど……」
地図の束を掴む指先に力がこもる。
「彼は旅に出たきり戻ってこなかった。俺が十二歳になった夏の事だった」
「……十二年前の……」
「孤児院を出た後、俺は彼の痕跡を追った。その中で手に入れたのがこの地図と……これだ」
再び懐を探り、今度は一冊の手帳を取り出す。地図と同様に年季の入ったそれをぱらぱらと捲って彼は続ける。
「冒険日誌だよ。中身はアルカディアに無い文字で書かれてるけど、俺はこの文字の読み方を少しだけ教わってた。そこから解読を重ねて……彼の事を知った。元いた場所から偶然この世界に迷い込んできた事、元の世界に戻る手がかりを探して世界樹に忍び込んでいた事」
ページを捲る手が止まった。記された文字をなぞりながら、メレディスは視線を上げてエールを見やる。
「当然、君の事も書いてあった」
「わたしの?」
エールは思わず怪訝な声で問い返した。確かに幼い頃に交流したのは事実だが、日記に書かれるような事があっただろうか。いつも冒険の話をせがんであの冒険者にじゃれついていた兄の話が出てくるのなら、まだ理解できるが……。
記憶を探って疑問の答えを探すエールを鼻で笑い、メレディスは手帳に視線を落とす。そして開いていたページに手をやってそこに書かれた内容を読み上げ始めた。
「笛鼠ノ月六日。昨日、子どもが産まれた。だが、彼女は助からなかった。引き取り手を探したいがこの村では難しい。遺言どおり彼女の親族を頼る事にする。街まではそう遠くない。食糧の調達が済み次第出発する」
ページを捲る音。読み上げられた内容を呑み込めない二人をよそに、メレディスは淡々と続ける。
「笛鼠ノ月二十二日。彼女の親戚に子どもを預けた。宿屋を営む夫婦で、事情を話したら快く引き受けてくれた。年の近い息子もいるようだし、きっと大事に育ててくれるだろう。次の探索が終わったら、得られた稼ぎを夫婦に渡す事にする。大金とまではいかないが、ミルクや衣類の分の代金はまかなえるだろう。……」
「……まさか!」
顔を青くしたエールが思わずといったように声を上げる。唇を震わせる彼女を見て、メレディスは乾いた笑い声を漏らした。手帳を閉じ、地図と共に懐にしまい直すと肩をすくめて告げる。
「言っただろ? 君の事だ。君が、この子どもだよ」
「え? じゃあつまり、エールの本当の……」
エスメラルダの困惑が滲んだ呟きにメレディスは押し殺すような笑みで応える。そのまま彼は片手を上げ、ひとつ指を鳴らした。乾いた音が響く。同時に周囲の茂みがざわめきだした。はっと剣を構え直すエールと鞄の中のスモークに手をやるエスメラルダへ、メレディスは変わらず微笑みを向けている。だが、その瞳に宿る光は昏く冷たい。
「俺の父さんだったのに……お前がいなければ……」
「っメレディス!!」
「君たちの予想は正しいよ。もっと絶望させたいんだ……だからまあ、そっちの彼には悪いけど、先に死んでもらわないとね」
茂みから次々に魔物が――死霊に変えられた魔物が現れる。その奥に立つのは鎧をまとった男の影だ。暗がりに立つ兄の姿に目を見開いたエールが口を開く前に、先頭にいたアリの魔物が飛びかかってくる。咄嗟に突き出した剣の先端が巨大な虫の胴を貫いた。
エスメラルダがスモークを投げる。広がる煙幕の向こうで、笑みを消したメレディスが鋭い目で二人を睨んでいる。
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