【SQ5】23 あの丘の向こうへ

「おいおい! 見つかったのか! 見張りは何してる!?」

 ラクライが上ずった声を上げる。足元を駆けるカザハナとレイチェルの動きに気を取られて正面から注意が逸れたその隙に、ケイナが彼女の懐へ飛び込んだ。刀の先が顎を突き上げる寸前で大きく仰け反って避けたラクライだったが無理な回避のせいで体勢が大きく崩れた。すかさず追撃へ向かうケイナを死霊が援護する。

 瘴気を纏い、再び攻勢に出ようとしていたトトはしかし、ハルが放った矢に脚を撃ち抜かれて動きを止める。レイチェルが唇で何かを呟き、杖を振るった。呼応するように現れた祈祷術の光がトトを取り囲む。彼を中心に渦巻いていた瘴気は、光に触れた瞬間に萎むようにその勢いを失って霧散した。

 ハルの指示を受けて戻ってきたカザハナがマリウスの傷を舐める。彼女の持つ癒しの力が体中の傷を少しずつ塞いでいくのを感じながら、マリウスはひとつ咳き込んで重砲に弾を込め直す。今度はしっかりと狙いをつけてトトの腕を撃ち抜けば、取り落とされた鎌が地面に転がった。得物を失った状態でぴくりとも動かない彼から視線を外さないままマリウスはリズを呼び寄せる。

 ふらつきながら駆け寄ってきた少女に、彼は静かな声で問いかけた。

「解放できるか」

 リズは目を丸くして、それから大きく頷いた。そろそろと慎重な足取りでトトの元へ向かうと、俯いた姿勢のまま動かない彼の頬に手を伸ばす。男の視線が僅かに上がった。虚ろな目で見つめてくる男にリズは小さく囁きかける。

「おやすみなさい……」

 リズの指先が触れた男の頬に微かな光が走った。次の瞬間、トトの身体が末端から砂のように崩れて消えていく。身体の内側に残っていた瘴気ごと、目に見えないほど細かく崩れ去るその間際に、男はそっと目を伏せた。

 やがて最後に残った一筋の黒い霧も薄れて幻のように消えていった。それを見送ったマリウスは、ひとつ息を吐くと重砲をラクライの方へと向ける。刀を一本失ったままケイナと渡り合っていた彼女だが、ここにきてついに押されている。息を止め、狙いをつけて弾丸を放つ。飛び出した瘴気弾はラクライではなく、彼女のすぐ傍にあった樹の幹に当たって弾けた。拡散した瘴気を浴びた女の動きが僅かに鈍る。

 マリウスへの傷舐めを終えたカザハナが再び駆けだした。同時にハルが矢を射る。主の放った矢に追随するように肉薄したカザハナは、瘴気に気を取られて疎かになっていたラクライの足首へ噛みついた。鈍い悲鳴。間合いを取って隙を伺っていたケイナが大きく踏み込む。

 彼が振り上げた刀を叩きつけようとしたその瞬間、ラクライが叫んだ。

「わーっ! 降参降参! 参った! だからもうこのくらいにして!!」

「……え!?」

 動揺して攻撃の手を止めたケイナだったが、足首から牙を離したカザハナが彼の代わりにラクライへ組みついた。逞しい猟犬の前脚で踏みつけられ、女はグエエと呻きを漏らす。その手からは既に刀がこぼれ落ちていた。

 困惑しつつも地面に落ちた刀を手の届かない位置まで蹴り飛ばすケイナを見上げて、ラクライはひらひらと両手を振ってみせる。

「私、メレディスから雇われてここまで来ただけだし。あいつのためにここで死ぬなんて御免だよ……だから降参。お助け~」

「お助けと言われても……」

「情報は渡すし、ふん縛って衛兵に突き出してくれても構わないからさあ。……いや、あの、本当にそろそろこの子どけてくれない? 背中に爪が食い込んで……あ痛たた! あこれわざとやってるな!?」

「カザハナ、しばらくそのまま」

 歩いて近付いてきたハルが冷たく言い放てば、カザハナはお行儀よく姿勢を正してラクライの上に座り込む。下から聞こえてくる鬼~人でなし~などの恨み言は無視し、彼は状況が呑み込めていない様子のケイナに声をかける。

「怪我。後で手当てするから、先にこいつ縛るよ」

「え? あ、ええと、うん」

 取り出した縺れ糸と縄でラクライを縛りあげていく二人を横目に、マリウスは背後から聞こえてくる足音の主を振り返った。杖を下したレイチェルは振り向いたマリウスに頭を下げる。

 マリウスがしばし迷っている間に、戻ってきたリズが彼に飛びついてきた。リズはマリウスの背中に抱きつきながらレイチェルを見上げて首を傾げる。

「敵? 味方?」

「……どうでしょう。正直なところ、どちらの味方もするつもりは無かったのですが」

 静かな声で答え、レイチェルは顔の横に垂れた髪を耳にかけた。少し考え込む様子を見せた後、マリウスの肩越しに拘束されるラクライの姿を確かめた彼女はゆっくりと口を開く。

「人質を、取られていまして」

「……!」

「『ヴォルドゥニュイ』でしたか。あの拳闘士(セスタス)の方に事情を話していたのですが」

「……ああ、だからステファンさんが……」

 そこでようやくマリウスも状況を理解した。どうやら自分たちの知らないうちに、事は大きく動いていたらしい。

 先日、エールとエスメラルダがステファンが受け取った紙切れ……そこには、メレディスたちと接触したらどうにか自分たちに報せてほしい旨が書いてあった。理由も詳細も記されていない、半ば走り書きに近い伝言ではあったが、わざわざこうして伝えてくるという事は相応の事情がある筈だ。そう考えてリズの死霊を街へ向かわせたのだが、どうにか上手くいったようである。

「大変だったよ。アイオリスの端から端までカザハナに捜させてさ……」

 拘束したラクライをケイナとカザハナに預けたハルが、そう言いながら近付いてくる。

「見つけたら見つけたで、ちょうど報せが来たから今度は五層まで走れって。人遣い荒いとかそういう次元じゃないでしょ」

「ああー……それは、なんだ、お疲れ様……」

「いいよ別に。……これ、返す」

 ハルが腰のポーチから取り出したハンカチをレイチェルへ差し出す。レイチェルは小さく頷き、それを受け取った。不思議そうにしていたリズがそれは何かと訊けば、このハンカチに染み込ませた香水の匂いを手がかりに人質を捜索していたらしい。

 受け取ったハンカチをじっと見つめながら、レイチェルはハルに問いかける。

「彼女はどうしていますか」

「治療院に運んでる。ボクはすぐにこっちに向かったから詳しくは分からない。意識は無かった」

「……見張り番の薬草師が薬品で昏睡させ続けていました。医師の治療を受けられるなら、取り返しのつかない事にはならないでしょう」

 そこで言葉を切り、レイチェルはようやく肩の力を抜いた。僅かに表情を緩めて安堵の息を吐いた彼女だったが、すぐに元の無表情に戻った。南の方向へ視線を向け、硬い声色で言う。

「お仲間が危険です。今すぐに向かった方が良いでしょう」

「エールたちか。やはりメレディスが?」

「ええ。メレディスの狙いは彼女です」

 リズが不安げに見上げてくる。彼女の頭を撫でてやりつつ、マリウスは辺りを見回した。全員で向かいたいところだが、拘束したラクライを連れたままでは不安が残る。

「ケイナ!」

 呼びかければ、カザハナに嘗め回されてベタベタになった顔が振り返った。こちらへ近付いてこようとした彼を止め、マリウスはラクライを指さして告げる。

「一度脱出して彼女を衛兵に引き渡してきてくれ。その後は『ヴォルドゥニュイ』と合流して、二人が動けそうならこっちに戻ってきてほしい。無理そうなら絶対に動くな」

「う……分かった」

「ハル君、着いてきてくれるか」

「はいはい」

 肩をすくめるハルと彼の足元でワンと吼えたカザハナに頷き返し、マリウスはレイチェルに視線を向ける。レイチェルは無表情に彼を見返して、ごく冷静な声で応えた。

「どうぞ、お好きなように」

「……あー、それなら同行してほしい。時間も戦力も惜しい……」

「ええ、承知しました」

 そう言ってレイチェルは右手の杖を握り直す。その仕草を見ながら、マリウスは何気なく盾を重砲を担ぎ直した。まだ彼女を完全に信用する事はできないものの、ハルの話と、それからラクライの反応を見る限り囚われていた人質がいた事は確からしい。これで気を許した瞬間に背中から刺されるようならとんだ名役者だが……今はとにかく、使えるものはすべて使ってでもエールとエスメラルダを探したい。ラクライとレイチェル、それにトトを失ったところで、魔物を死霊に変えて手駒を増やせるメレディスにとって大きな痛手にはならないだろう。一刻も早く、二人の元へ向かわなければならない。

 リズが背中から離れ、棺を背負ってむん! と気合を入れる。視界の端でハルがケイナに地図を渡しに行くのを見ながらマリウスは進行方向を南に定めた。まだ、気を抜くには早すぎる。


 これではキリが無い――足下まで寄ってきていたアイアンドングリを蹴り飛ばし、氷雪リスの氷撃を盾で弾き飛ばしながら、エールは背後を振り返った。エスメラルダは必死に魔物の攻撃を避けたりスモークを焚いたり弓で攪乱したりと立ち回っているが、このまま魔物の隙間を縫って回避し続けるのは無理があるだろう。何故なら、メレディスの使い魔として喚び出された死霊すべてがエスメラルダひとりを狙って襲ってきているのだ。

「エスメラルダさん! 糸っ! 脱出してください! 時間を稼ぎますから……!」

「できないよっ! 僕がいなくなったら、ほんとにエールが殺されちゃうだろ!!」

「そんな事言ってる場合じゃ……!」

 確かにエスメラルダがいなくなれば、どこかで見ている筈のメレディスはすぐさまエールに標的を移すだろう。この魔物たちに嬲らせるのか、それとも先程から茂みの奥で佇んだままの兄をけしかけてくるのかは分からないが、少なくともろくな事にはならない筈だ。

 だが、だからといってこのまま防戦を続けても、最悪死体がひとつ増えるだけだ。エールは歯噛みする。どうにかエスメラルダだけでも守りきらなければ。だがアリアドネの糸を取り出すのにもまずは次々と押し寄せてくる魔物を凌がなければならない。脱出準備をしている途中で襲われでもしたら、あるいは攻撃の余波で糸を失くしでもしたら、それこそ一巻の終わりだ。

「エール! 変なこと考えないでいいから!」

 必死に活路を探すエールの背後でエスメラルダが叫ぶ。

「どっか一点突破して! 退路を拓こう! 僕の事は気にしないで!」

「ですから、……っ!」

 頭から突っ込んできたドングリに盾ごと押し倒され、エールは尻餅をつく。エスメラルダがハーブを手に駆け寄ってくるがその背中にも魔物が迫っている。アイアンドングリを跳ね除け、体をよじって剣を突き出す。顎を広げてエスメラルダに咬みつこうとしていたパンダアントを串刺しのまま放り投げ、腰の痛みに耐えながら立ち上がる。

「エール!」

「大丈夫です……大丈夫」

 ひとりならここで折れてもまったく構わないが、今はまだ耐えなければならない。顔を上げた彼女の目に、魔物の群れの向こうにひとり立つ男の姿が映る。虚ろな表情をしていた。その顔は記憶にある兄のものとはとても似つかなくて、エールは無性に泣きたい気持ちになった。だが今はそんな場合ではない。そんな場合では、ないのだ。


 エールとエスメラルダの奮闘を横目に、メレディスはひとりその場を離れて樹海の奥――円状に繋がるこの迷宮の、いったいどこが「奥」と言えるのかはともかくとして――へと歩いていた。木立を抜け、細い通路を抜けた先、戦闘の気配が微かにしか聞こえない場所に辿り着いたところで彼は足を止める。

「騒ぎを起こせば出てきてくれると信じてたよ。……どうも、こんにちは」

 話しかけたのは、人目を憚るように木陰に立つ少女だ。彼女はメレディスを鋭い目で見つめ、呟くように問いかける。

「私を捜していたのか」

「うん。ああでも、悪いけど名前は知らないんだ。流石に固有名詞は訳せないから……意味合いとしては、「星の人」とか、そういった言葉が添えてあったけれど」

 少女……アルコンは、メレディスの返答に怪訝な表情で黙り込む。メレディスは小さく笑って一歩彼女へと近付いた。

「それにしても驚いたな。世界がこの森から始まっただなんてね。この場所もひとりで探索してただなんて、やっぱりあの人はすごいなあ……」

「あの冒険者の縁者か」

「そうだよ。息子なんだ。俺はあの人の痕跡を辿ってここまで辿り着いた。でも、ここが終着点じゃない」

 メレディスはふと視線を頭上へと向けた。透明な天井越しに広がる一面の星空をじっと眺め、彼は僅かに目を細める。遠くで爆発音。凪いだ森の空気が揺らぐ。アルコンが口を開いて何かを言おうとした、それを遮るようにメレディスが告げる。

「頼みがあるんだ」

 アルコンの肩が僅かに揺れる。目深に被ったフードの下から張り詰めた眼差しを向けてくる彼女に、青年は微笑みながら続けた。

「十二年前、彼を元の世界(・・・・)へ帰しただろ?」

「…………」

「俺の望みは、彼と同じだ」

 少女の水晶色の瞳が見開かれる。メレディスはまた一歩彼女へ詰め寄る。懐から取り出したのはエールから奪ったネックレスだ。光を反射して淡く輝くそれを掲げ、青年は昂りを抑えきれない様子で高らかに言う。

「さあ、俺を連れていってくれ。遥か星の海を越えて、あの人の世界へ……本当の理想郷(アルカディア)へ!」


 剣を握る右腕が嫌な軋みを上げている。体中の痛みを歯を食いしばって堪えながら、エールは必死に息を吐いて体勢を立て直す。エスメラルダは彼女の背に負われたきり、時折呻きを漏らすばかりで動く気配が無い。先程アイアンドングリの体当たりを食らって倒れて以降ずっとこの調子なのだ。

 どうしよう、とエールは足元にすがってきたカラカルの脳天に剣を振り下ろしながら考える。脱出しなければならない。アリアドネの糸を使う余裕は無い。体力が限界に近い。魔物たちは変わらず押し寄せてくる。どれが死霊でどれがそうでないのかも分からない。腕が重い――どうすればいい、どうすれば。

 はっと我に返る。突き刺したカラカルの、その内側から漏れる光に寸前で気付いたエールは、咄嗟にカラカルの身体を思いきり放り投げた。放られた小動物は空中で光に包まれ、盛大な音と熱と共に爆散する。炎爆弾だ。エスメラルダを抱きかかえて弾かれるように地に伏せたエールだったが、拡散した炎は容赦なく彼女の肌を焼く。

 苦悶の呻きを漏らし、エールは顔を上げる。爆発に巻き込まれて何体かの魔物は倒れたようだ。今なら包囲を突破できる……だが体が重くて起き上がる事ができない。視界にかかる靄を振り払うようにゆっくりと頭を振った。手元に剣が見当たらない。一度は拓けかけた退路も、もう見当たらない。

 あの時死んでおけばよかった、と、覚束ない意識の中で彼女は思った。だがあの時とはいつだろう。誘いに乗ってひとりでメレディスの元へ行った時か、それともオリファントの足下で動けなくなった時か、……もっと前、兄が死んだ時か。

 正直なところ、世界樹を目指したのは本当に兄のためだったのか、もう彼女自身にもよく分からないのだ。本当は両親も兄もいなくなった街で、重罪人の妹という誹りを受けるのが耐えられずに逃げ出しただけなのかもしれない。それとも何かを成し遂げたかったのだろうか。わたしは兄のような人間ではないと、知らしめたかったのだろうか――救われたかったのだろうか。

 けれど、その兄も、両親も、本当の家族ではなかったのだという。メレディスの言葉がどこまで真実かなど分かる筈もないが、あの状況であんな嘘をつく必要があるとも思えない。だから、きっとそうなのだろう。

 彼は滑稽だと笑っただろうか、憎い相手が血の繋がりもない男にかき乱される様子を。それだけなら良かった。自分が辱められるだけならば甘んじて受け入れられた。それだけで済むのならここで膝を屈しても良かったが、腕の中の重みがそれを許さない。ここで死ぬわけには――死なせるわけには。

 だが、それでもひとりで立つにはあまりに覚束ないのだ。杖が必要だった。よろめく脚を支えてくれる信念が。自分はいったい何のために、誰のために、…………。

『もっと簡単に考えてもいいんじゃないかって、僕は思うけどね』

 ふと、エスメラルダの横顔が瞼の裏に浮かんだ。見た事もない場所へ行ってみたいのだと語る弾んだ声が脳裏をよぎった。瞬きをひとつ。記憶の中の景色が切り替わる。きらめく水晶の迷宮の中、ひとまわり大きな手の感触が蘇る。ステファンは問う。必死に、離れゆくものを繋ぎとめるように。

『貴女は何のために世界樹の迷宮に来たんですか』

 ――わたしは。

 喉の奥につかえる湿った呼気を吐き出し、ゆっくりと身を起こす。抱えたエスメラルダを落とさないようバランスを取りながら顔を上げた。魔物たちは少し遠巻きに自分たちを観察しているようだった。標的が死んだかどうか判断しかねていたのかもしれない。剣は手を伸ばしても届かない距離に転がっていた。這うように移動し、やっとの思いで掴み取る。

 魔物たちの空気が変わる。再び動きだす彼らの後ろに、男は変わらず立っている。いつの間にかその手には抜き身の剣が握られていた。彼を見つめながら絞り出すようにエールは呟く。

「兄さま……わたし……」

 何を言っても兄は返事をしない。当然だ、あそこにいるのは兄の死体を器にして動いているだけの、意志の無い使い魔なのだ。今になってやっと、その事実がすんなりと胸に落ちた。それでもエールは彼へ語りかける。今の彼女に必要な「杖」を、決別の仕方を、息も絶え絶えに、囁くように。

「わたし……わたしも、あの丘の向こうへ行ってみたいの……」

 ――たとえそこに、愛した人がいないとしても。

 パンダアントが一体顎を鳴らして近付いてくる。無機質な瞳にボロボロの自分の姿が映るのを、エールは見る。

「――エール!!」


「それは……できない」

 強張った声でアルコンは答える。

「汝はこの世界の民だ。星海の世界樹の辿った道から偶然迷い込んできた彼とは、事情が違う」

「事情なんてどうでもいい。俺はそのためにここまで来たんだ。道標もここにある」

 メレディスが掲げたネックレスを揺らす。アルコンは知っている。先端で揺れる鉱石の中に閉じ込められた魔力はこの世界のものではない。最果ての世界で生まれたそれが、星海の向こうに青く輝く故郷を指し示す羅針盤として機能する事も、当然彼女は知っている――だが、道を指し示すものがあるとしても、メレディスの望みを叶える事はどうしてもできないのだ。アルコンは苦々しい表情で、呻くように告げる。

「機構を動かす事ができない」

 メレディスの眉が上がった。彼を諭すように、慎重に言葉を選びながらアルコンは続ける。

「転移を行うに足るリソースが足りない。転移装置は世界樹と連動している。封印(・・)に力を割かれている今、汝の望みを叶える事はどうあっても不可能だ」

「……封印、封印ね。そうか、そうきたか……」

 呟きを舌の上で転がすメレディスを、アルコンは焦りの籠った眼差しで見つめる。遠くで再び爆発音。一度、音の聞こえた方向に視線をやったメレディスは、何かに納得した様子でひとつ頷くとにこりと笑って両手を広げた。

「じゃ、こうしよう!」

 弾んだ声でそう言って、メレディスは両手を大きく打ち鳴らす。弾けるような音を境に周囲の空気が静まり返った――次の瞬間、二人の足下に光が走った。地面の下を這う光の筋は瞬く間に周囲を駆け巡り、樹海を端から端まで駆け巡る。アルコンが弾かれたように振り返った。彼女の表情を見て、せせら笑うように青年は言う。

「大事な封印なら接続くらい切っておきなよ。俺程度の術師に干渉されるなんて、相当余裕が無いんだな?」

「何を……!」

「訊くまでもないだろ? 封印があるから転移できないなら、封印を無くせばいいだけじゃないか!」

 哄笑。合わせた手の内側で火花が散る。アルコンが止めに入るよりも早く、メレディスは素早く掴み取ったそれを掲げて告げる。

「さあ! 二つにひとつだ「星の人」! このまま何もせず滅びを待つか、俺の望みを叶えて滅ぶか! 選ぶがいい!!」

 ガラスが割れるような甲高い音。知識のあるものが聞けば、それが繊細に紡がれた魔法が砕け散る音だと分かっただろう。周囲の空気が一変する。天井の星空が揺らぐ。途端に暗闇に包まれる樹海の中で、ただひとり、メレディスだけが笑っている。


 駆け込んだマリウスがエールたちに迫るパンダアントを盾で殴り飛ばしたのと、周囲の魔物たちが前触れもなく崩れ落ちはじめたのとはほぼ同時だった。攻撃の予兆かと身構えた一行の前で死霊たちは次々に原型を失い、淡い魔力の光へと姿を変えていく。それらが弾けて地面に吸い込まれるように消えていくのを横目に、ハルがエールとエスメラルダの元へ駆け寄った。エスメラルダをエールの背中から引き下ろしながら声をかける。

「しっかり。ボクの事わかる?」

「ぅ、…………」

「ダメそうだ。カザハナ」

 主の呼びかけに応え、カザハナが二人の近くに寄って治癒術を発動する。リズもその傍らに膝をついて心配そうに見守る。少し離れて立っていたレイチェルが辺りを見回し、何事か考え込みながら足下の地面を杖でなぞった。死霊の消失と共にそこに走った光の筋は、既に跡形もなく消え失せている。

「……いない。メレディスはどこへ?」

 残った死霊がいないか警戒しながらマリウスが問う。当然、答えられる者はいない……が、次の瞬間、不意に周囲が暗くなった。驚いて頭上を見てみれば、先ほどまで星空が広がっていた筈の天井がいやに暗い。夜が来たのかとも思ったが、薄暗く広がる黒はよくよく見てみれば微かに動いている。霧か雲に見えなくもないが、これは、むしろ。

「……瘴気?」

 リズの呟きを遮ったのは茂みの奥で何かが動く音だった。はっと見てみれば、青い影が森の奥に消えていくのが目に映る。咄嗟に追おうとしたマリウスだったが、寸前で踏み止まると背後を振り返った。エールとエスメラルダはまだ起きる気配が無い。

「マリー……」

 どうするのかと問いかけるように見つめてくるリズに小さく頭を振って答え、マリウスは重砲を下ろすと彼女たちの元へ戻っていく。

「一度、街へ戻ろう。手当てと……下の様子を確認したい」

「了解。こっち背負うからそっち運んで」

 ハルがそう言い、てきぱきとエールを背負上げる。「そっち」を指示されたマリウスは急いでエスメラルダを抱えた。ちょこちょこと近寄ってきたリズがハルに重くないの? と問いかけたが、返ってきた返答は「別に……」の一言だけだった。膂力に長けたセリアンにそんな事をわざわざ訊くのも野暮だったようである。

 頭上の瘴気が徐々にその濃さを増していく。一行は逃げるように迷宮を脱出する。人影のなくなった原生林は、不気味なまでの静けさで満ちていた。

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