【SQ5】Sleepy Hollow 序章
聞くところによると。
地上から見上げる空の遙か上方にはあまねく生命の生存が許されない領域というものが存在するらしく、その場所では辺りはいつも「夜」なのだという。より正しくは生命が存在できる領域……このアルカディアを覆うバリア――と形容しているが、魔法による防壁とはまったく異なる、言うなれば空気の層のようなものであるそうだ――の外は常に暗く、「星」ばかりが浮かぶ果てしなく広大な空間であり、その星海の中では自分たちのよく知る青い空の方が稀少で特別なものであるそうだ。正直そんな事を聞いたところでまったく意味が分からないのでこれ以上は聞かない事にしたが、とにかくそんな感じらしい。
とはいえ、とステファン・デュヴァラは頭上に広がる濃紺を見上げる。理解の追いつかない事実というのは往々にして何の前触れもなく目の前に現れるものである。人伝(ひとづて)にしか聞いたことのなかった景色が、今、彼の目の前に広がっていた。
見たこともないような原生種たちが生い茂る森、鋼にも似た光沢の未知の金属で造られた構造体、そしてそれらをくぐり抜けた先で辿り着いた迷宮の最奥……。
至上初となる迷宮の「踏破」から早数ヶ月。細々と探索を続けていた『ヴォルドゥニュイ』は、本日ついに世界樹の頂上へと到達したのである。
「どうという事はありませんでしたね」
と、事もなげに呟いたステファンであったが、勿論そんなわけはない。お馴染みのロングコートは血やら土埃やらで汚れて所々引き裂かれているし、彼自身の顔や髪もとても綺麗な状態とはいえない。それでも彼の表情は晴れやかであった。詳しい理由は割愛するが、彼はこうして五体満足で世界樹の最上階に辿り着いたというだけで満足しているのである。
「さて……焼きますかね、パンケーキでも」
「どういう理屈だ?」
少し離れた場所で冷えた目玉焼きパンを頬張っていたジャンが首を傾げる。世界樹登頂とパンケーキにいったい何の因果関係があるというのか。ステファンは小馬鹿にしたような目でジャンを振り返り、やれやれと首を振る。
「パンケーキを食べる事に理由はいらないんですよ。こんなものなんぼ食べても良いですからね」
「そう……」
祖母直伝のパンケーキがステファンの得意料理かつ好物である事はジャンもよく知っているが、わざわざこんな所でまで焼かずとも。ただ、まあ、確かに疲労が溜まって甘い物を食べたくなっているという事なら分からなくもない。ここへ至るまでの道中にも散々魔物に追い回されたり妙な装置のせいで吐きかけたり巨大カマキリに遭遇して死を覚悟したりと色々あったのだ。正直、早く帰って寝たい。
「パンケーキは宿でも焼けるだろ。帰って着替えて休もうぜ」
「仕方ないですねえ。その前にこの辺りの植物を少々」
「よく来たな、冒険者たちよ」
「持って帰ってなにすんだ?」
「いえ、評議会から植生のサンプルがもう少し欲しいと言われていて……誰ですか今の」
思わず振り返ると同時にステファンは悲鳴を上げた。つられて拳を構えかけたジャンだったが、予想に反してそこにいたのは魔物ではなかった。少女である。僅かに浮いていて髪色も肌色もまるで見た事のない色彩をしているが、少なくとも姿は少女だ。そして彼女はどうやらこちらに敵意は無いらしい。むしろ、盛大な悲鳴を響かせたステファンに申し訳なさげな表情をしている。
虹を映した水晶の色に輝く、不可思議な色彩を纏った少女――覚えのある特徴に、首を傾げてジャンは彼女に問う。
「もしかしてあんたが「アルコン」?」
「あ、ああ。……驚かせてしまったようですまない」
「すまないで済んだら第三階層はあんな事になってないんですけど!?」
混乱のあまり意味の分からないことを口走っているステファンはさておき、ジャンは改めて目の前に浮かぶ少女の姿を見る。話には聞いていたが、こうして実際に目の当たりにすると確かに頭から爪先まで異様な風貌だ。事前情報がなければ勢いのままぶん殴っていたかもしれない……と思いつつ、彼は口を開く。
「はじめまして、オレら『ヴォルドゥニュイ』。オレがジャンで、あっちがステファン」
「ああ、汝らの事は知っている。『カレイドスコープ』の友人だな。汝らも、私の事は既に知っているようだな」
「まあな。実際見ると、なんかすげーな。派手で」
ジャンの雑な感想に、アルコンはどこか釈然としていない表情で頷いた。風もないのに髪がうねうねと波打っているのはいったいどういう仕組みなのだろう? と疑問に思いながら、ジャンはそれはそうと、と彼女に訊ねる。
「なんか用か? この迷宮のゴタゴタはもう片付いたって聞いてんだけど」
「ゴタゴタ……確かに、大きな問題は解決した。汝らの友人たちのお陰でな」
「だよな。じゃあ何だ? もしかして迷宮踏破祝いに記念品くれるとか?」
「記念品……も……渡してしまったので、今すぐに用意できそうなものは無い……すまない……」
そう答えてしゅんと落ち込んだ様子を見せるアルコンを見て、落ち着きを取り戻したステファンが肘でジャンを小突く。ジャンは何とも言えない表情で肩をすくめた。まさか、真面目に返答されるとは思っていなかった。これも話に聞いていたとおりだが、この少女、相当律儀な性格をしているらしい。
「あー、いや、冗談だって。そんでオレらに何の用なんだよ」
「……そうだ。実は汝らに、頼みたいことがあるのだ」
気を取り直し、アルコンは居住まいを正して二人に向き直る。頼みとは。予想もつかず黙り込んで次の言葉を待つしかないステファンとジャンに、彼女は先程より幾分か固い声で告げる。
「説明するより、実際に見てもらった方が早いだろう。着いてきてくれ」
アルコンはそう言って踵を返し、先導するように歩き出す。二人は顔を見合わせてしばし見つめ合った後、どちらからともなく荷物を背負って彼女の後に続いた。ここで無視して帰るのも何だか後味が悪いし、頼みとやらの内容くらいは聞いておいてもいいだろう。引き受けるかどうかは置いておいて。
円環ノ原生林は歩いても歩いても果てがなく、永遠に鬱蒼とした原初の森が続いているような気さえする。地図と現在地を比べつつ慎重についてくる『ヴォルドゥニュイ』の様子を気にしながら、アルコンはぽつりぽつりと話しだす。
「滅びの化身は去り、世界樹は元の力を取り戻した。これからは未来永劫、アルカディアを守り、この地の民に恵みをもたらし続けるだろう」
言葉に反して、彼女の声色はどこか強張っている。近くの水面で魚がちゃぷりと跳ねた。一度そちらに向いた視線を前に戻し、アルコンはどこか寂しげな面持ちで話を続ける。
「私自身の望みも、もう無い。あとはこの星を去るのみだ……しかし、どうしても放置してはおけない問題がひとつ見つかった。汝らにも関係のある事だ」
「私たちにも?」
「そうだ。それ(・・)は汝らにとっても大きな障害であった筈だ。かの冒険者たちにとってそうであったように」
……なんだかきな臭くなってきた。みるみる表情を曇らせる相棒の横顔を見上げていたジャンが、何か訊ねようと口を開くのと同時に、アルコンの足が止まる。辿り着いたのは森の奥、周囲を茂みと木々に囲まれた突き当たりだ。そこに佇んでいた人物を見て、二人は思わず絶句する。
驚愕と困惑で言葉が出ずにいる『ヴォルドゥニュイ』をまっすぐに見つめて。アルコンはごく真剣な声で、告げる。
「汝らに頼みたい。……どうか、彼をしかるべき場所へ導いてはくれないか」
原生林の最奥でひとり佇んでいた人物がゆっくりと振り返る。不安の滲む、頼りなさげな表情を浮かべた彼の顔はしかし、どこからどう見ても見覚えのある――『ヴォルドゥニュイ』にとっても、仇敵とすら呼べるほどの関係にある男のそれだった。
メレディス・コーディア。多くの人を巻き込み、傷付けながら「理想郷」を目指し……この森で行方知れずとなった筈の男が、確かにそこに立っている。
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