【SQ5】Sleepy Hollow1

『ああ、気持ちいい場所だ! この可愛い置物はなんだろう? 守り神みたいなものかな』
『おいおい、気を抜くなよ……ここは「世界樹の迷宮」だぞ』
『そうだけど。でも、迷宮で気を抜けるのなんて最初のほうの階層くらいしかないじゃないか。ほら見てよ、あそこにリンゴが生ってる。食べられるかな?』
『お前ってやつは……ああもう待ってろ、落としてきてやるから』
『あはは、やっぱりきみがいてくれると助かるよ』


     ★


「記憶がない?」

 僅かに裏返った声でおうむ返しに応えたハルに、ジャンは黙って肩をすくめた。

 『ヴォルドゥニュイ』が第五層からメレディスを連れ帰った後、アイオリスの街は一部騒然とした。それもそうだろう、彼は殺人未遂、誘拐、強盗、死体損壊、その他さまざまな罪によりお尋ね者として捜索されていた身だ。『ヴォルドゥニュイ』の二人もそれは重々承知している。だからわざわざ人目につかないようこっそりと評議会まで連れてきて、衛兵に身柄を引き渡したのだ。

 ハルは苦々しい顔で眉間に手をやる。いつも彼を心配してくれる相棒の白い猟犬は、今はここにはいない。流石に評議会の応接間に動物を連れて入ることはできなかったのだ。彼女は今ごろステファンと一緒に外でのんびりおやつでも食べていることだろう。

 ふわふわの相棒がいない分、普段より三割増しで近寄りがたい雰囲気をかもし出しながら、ハルは口を開く。

「信用できると思うわけ?」

「思うわけねーだろ。オレらだってヒヤヒヤで街まで連れてきたんだぞ」

「レイチェルは何て?」

「いま面会してる。ただ……」

「ただ?」

「……ここまで連れて戻ってくる時、拘束もなかったのに大人しく着いてきた。それはマジだぜ」

 ジャンの言葉にハルは何か反論しようとしたようだったが、結局何も言わずに黙り込んだ。沈黙が落ちる。窓の外から表通りの喧噪が聞こえてくる――少し前と比べると、街の活気も少し落ち着いた。

 世界樹の迷宮が「踏破」されてから間もなく半年が経過しようとしている。

 一躍時の人となった英雄ギルド『カレイドスコープ』が解散し、メンバーたちがそれぞれ別の場所へ旅立っていってからも、既に数ヶ月が経っている。街を挙げてのお祭り騒ぎが落ち着き、人々が元の暮らしに戻り、先行したギルドたちが持ち帰った情報を元に評議会が本格的な迷宮の調査に取り組み始めた今、アイオリスを訪れる人は随分減った。正確には、冒険者が減った。栄光や富を求めて世界樹の頂上を目指していた冒険者の何割かが街を去り、何割かが探索をやめて他の仕事を始め、残っている何割かも、多くは既に「終わり」を見据えている。

 世界樹の迷宮の謎も、それを解き明かすため集まった冒険者たちの存在も、過去のものになりつつある。そして、そんな冒険者たちを巻き込んで好き勝手していた死霊遣いの存在もまた、既に失われたものだと。ジャンたちは思っていた……はずだったのだが。

「なんで今更現れた?」

 ハルが呟く。

「何度も探した。『カレイドスコープ』も……ボクだって、五層を何度も回った。それで持ち物のひとつも見つからなかったのに、どうして今更……しかも、あんな五体満足の状態で」

「そんなのオレだって訊きてえよ。ていうかそもそも、アレ……」

 と、言いかけたジャンの言葉を遮るようにノックの音が響く。二人が振り返ると同時に部屋に入ってきたのは、氷のような無表情のルナリア女性……レイチェルである。彼女はメレディスの一味の一員ではあったが事情を汲まれて情状酌量を受け、現在は服役の代わりに奉仕活動に従事する日々を送っている。今日も衛兵隊に同行して魔物の討伐に赴いていたが、状況が状況だけに急いで呼び戻されたようだ。ジャンがよお、と片手を挙げて彼女に問う。

「どうだった」

「本当のことを言っているようです」

「何が。まさか記憶喪失だって話?」

「ええ。私の顔を知らないと……件の冒険者の事も、覚えていないと」

 淡々と告げるレイチェルの声にも幾分か困惑が滲んでいるように聞こえる。ハルはますます顔をしかめた。ジャンは腕を組んでうーんと唸る。

「しかし、良くねえな。記憶が無いって事は事件についての証言もできないだろ」

「当たり前でしょ。それがどうしたの」

「罪状どおりの罪が問えなくなるかもしれねえ。オレらが襲われたりした分はともかく、それ以外……それこそ墓掘り返して死体持ち出しただとか、あの瘴気使い……トトつったか。あいつの殺人容疑は、本人じゃないと立証できない」

「あんた、そんな知識あったんだ」

「いや実家の仕事が……まあとにかく、それはそれでけっこうな問題だろ」

 ハルは肩をすくめる。確かに問題である……自分たちに対する蛮行だけでも重い刑罰を科されるには十分な罪であろうが、だからといってそれで済ませてしまっては他の犠牲者が報われないというものだ。特に死霊として使役されていたトトという瘴気遣いは、「急に行方が分からなくなった」と親しい人から捜索願いが出されていた事が分かっている。彼がどのように命を落としてメレディスの死霊となるに至ったのか、証言できるのはメレディス本人だけだ。それも分からないまま事件が終わってしまうというのは、あまりにも残酷すぎる。

「ぶん殴ったら戻らねえかな、記憶」

「無茶だろ……魔法や治療術でどうにかできないの?」

「不可能に近いですね。何かしらの魔法や薬で記憶に異常が出ているならそういった手法で治療できる可能性もありますが、他の要因であれば対処できないでしょう」

 三人は揃って沈黙する。揃って同じような渋い表情を浮かべて顔を見合わせるが、誰も次の言葉は出てこなかった。

 しばらくそうしていた。窓の外を巡回警備している衛兵の足音が近付いてきて、再び遠ざかっていく頃、またもノックの音が響く。控えめなそれの後に続いて部屋へ入ってきたのは、この評議会の主……アースラン王族のレムスであった。

 ジャンが立ち上がってひとつ礼をする。貴族らしいごく自然な仕草を軽く手を挙げて諫めながら、レムスは一同を見回す。

「急にすまないね。どうしても急いで話がしたくて、私の方から足を運ばせてもらったよ」

「メレディスの事ですか」

 ハルの問いかけにレムスはひとつ頷く。

「今も取り調べは続いているのだけれど、ひとつ相談したい事があってね。これを見てほしい」

 そう言って彼が取り出したのは、何枚かの紙切れだった。小さく折りたたまれたそれは所々がちぎれかかっており、一部には血の染みがついている。

 レムスから紙を受け取ったジャンが慎重な手つきで折り目を開く。内側から現れたのは、よく見知った図形だった。

「地図?」

「メレディスが持っていたものだ。ここを見てくれ」

 レムスが示した場所には、小さな印がついている。ジャンの横から紙面を覗き込んでいたハルが、腰のポーチから自身の地図を取り出した。束から抜き取った一枚を広げて見比べ、首を傾げる。

「三階だ。フクロウみたいな顔の熊がうろついてるところ。ここ、描き残すような何かがあるの?」

 印は第一層三階の南東、水場に囲まれた広い空間の一部分につけてある。この辺りは上下の階に移動する際に通ることが無く、またFOEの縄張りであるという事もあってほとんど人の寄りつかない場所だ。覚えている限り、わざわざ地図に描き残しておくべきものも無いはずだが。

 ハルに地図を見せられたジャンはうーんと唸る。

「心当たりねえな……お前は?」

 問いかけられたレイチェルも首を横に振る。彼女の反応を見て、レムスもそうか、と呟いた。

「私も同じ意見だ。数々のギルドの地図や衛兵隊の調査記録を見ても、ここに特筆すべき点は無い。他の四枚の地図も、同じように何でもない場所に印がつけてある」

 その言葉を受けて、ジャンが残りの地図を順に開いていく。よく見てみれば五枚の地図はそれぞれ異なる階層のものであるようだ。各階層のうち一階の、これといって何でもなさそうな……それでいて人通りのあまり無い場所に、ひとつずつ印がついている。

 メレディスが所持していたということは、この地図にも何かしらの意味があるのだろう。だがこの印がいったい何を示すのか、とんと見当がつかない。せっかく本人の身柄を確保したのだから訊いてみたいところだが、残念なことに彼は記憶喪失なのだ。問いただしたところで答えは返ってこないだろう。

「ただ、ひとつ重大な事を思い出してね」

 指先を顎にあて、レムスは重々しく続ける。

「以前、メレディスたちの拠点を捜索した際、残されていた荷物や金品を全て押収しただろう? あの時、「見当たらない物がいくつかある」と。君はそう言っていたね、レイチェル」

「……はい。例の地図と、メレディスが持ち歩いていた資料のいくつかが」

「だが、彼が最後に滞在していた筈の二十五階ではそれらは見つからなかった。ならば……こうは考えられないかい? メレディスは迷宮の各所に所持品を隠していた、と」

 ジャンとハルが思わずといったように顔を見合わせた。レイチェルの眉が僅かに寄る。三人は、すぐには答えを返せなかった。

 ここまでくればもう、レムスの言わんとしていることは何となく理解できる。そもそも彼は、事件が終息する前からメレディスが持っていた地図や手記の行方を知りたがっていたのだ。それもそうだろう、今のところ彼らが知り得る「十二年前の冒険者」の情報は、レイチェルのように実際に会ったことのある者や、亡き両親から地図を受け継いだハルのように彼ゆかりの品を所持していた者から得られる断片的な伝聞だけだ。それだけでは不十分なのは明らかである。迷宮探索を推し進めてきた立場として、そして今後も世界樹の調査を進めていく立場として、「本当の初踏破者」かもしれない例の冒険者のことを深く調べたいというのは、評議会としては当然のことだ。

 そしてそのためにレムスが取れる手は、おおよそひとつしかない。申し訳なさげな表情で溜息を吐き、彼はよく通る声で切り出す。

「君たちに、ミッションを発令する。どうか頼まれてはくれないか」

 そして、もうひとつ。そう言ってレムスは整った顔をわずかに歪める。

「彼について……とても大事な話がある」


     ◆


 迷宮の踏破がなされたとはいえ、第一層には変わらず多くの人が行き交っている。衛兵隊の手である程度の整備がなされ、棲息している魔物への対処も比較的容易なこの階層は、冒険者だけでなくアイオリス住民、そして世界樹見物にやってきた観光客にとっても足を運びやすい場所なのだ。……たまにFOEと出くわしてしまって何人か死んだという話も聞くが。まあ致し方のないことである。そもそも本来、迷宮に入るということはそういう事なので。

「しっかし、三階ですか。本当に滅多に来ないところですねえ……」

 と、収穫したばかりの樹海コムギの穂を振りながらステファンが呟く。彼は今日、あまり出る幕が無くて暇をしていた。なにせ発動機を展開して詠唱を始める前に、拳やら弓矢やらが魔物を粉砕してしまうのだ。

「たまにジェネッタさんがパン焼いてる時は人がいますけど。それ以外だとほとんどの人がまっすぐ上り階段か採集場所まで行くでしょう。こんな所に物を隠すなんて、なかなか冴えてますねえ。ねえ?」

「ん? あー、うん。何の話だっけ? ジェネッタのパンがうめえって話?」

「耳にお化けドングリでも詰まってるんですか? もう黙ってなさい貴方は。話している時間が無駄なので」

 鋭く切り捨てるステファンに、ジャンはしゅんと肩を落とす。二人の呑気なやりとりを少し離れた場所から眺めていたハルは溜息を吐いた。初の踏破を成し遂げた『カレイドスコープ』に続いて世界樹の頂上まで登り詰めたギルドはいくつかあるが、少人数編成までそこまで到達したのは彼ら二人だけだった筈である。もしや、これまでの探索でもこの調子でいたのだろうか。そうだったとしたら驚きを禁じ得ない。

 足元に座り込むカザハナがしきりにこちらを見上げてくる。何だかそわそわしている彼女に、ハルは「よし」のサインを出してやった。今は休憩中だ。周囲に魔物の気配は無いようであるし、多少遊んでも問題は無いだろう。途端に尻尾を振って跳ねるような足取りで『ヴォルドゥニュイ』の二人の元へ向かっていく相棒を横目に、彼は背後を振り向く。そこに佇んでいるのは、もうひとりの同行者……もとい、今回のミッションの、主役だ。

 メレディスは、何をするでもなくぼんやりと宙を見上げていた。頭上から射す木漏れ日が、彼の視線の先できらきらと揺らめいている。

「……ねえ、ちょっと」

「!」

 声をかければ男は弾かれたように振り返る。その顔には明らかに不安と緊張が滲んでいたので、ハルは腹立たしいような気味が悪いような複雑な気分になった。

 そういう反応をするのはやめろ、まるでこちらが悪い事をしているかのような気がしてくる――喉まで出かかったそんな文句を飲み込み、ハルは彼に話しかける。

「何してるの。それとも何か思い出した?」

「ああ……いやその」

 メレディスはしばし口ごもった。それからちらりとハルを見て、困ったような表情で俯く。

「何も思い出せないです……すみません」

「……そう」

 それなら、ハルも特に言うことは無かった。申し訳なさげに目を伏せるメレディスから視線を外し、『ヴォルドゥニュイ』がいる方向へ目を向ける。カザハナはしゃがみ込んで撫で回してくるステファンに興奮した様子でじゃれついていた。彼女は遊んでくれる相手が大好きなのだ。中でもステファンは顔を合わせるたび積極的に構ってくれるので特に懐いているようだった。ふわふわの尻尾がはち切れんばかりに振られている。たいへん良いことである。

 顔面をべちゃべちゃに舐められながら笑い声を上げるステファンと彼にハンカチを差し出すジャンの姿を見つめていたハルの耳に、あのう、と小さな声が届く。顔をしかめて振り返れば、メレディスは先程と変わらない表情でこちらを見ていた。

「なに」

「ハルさんは俺のこと知ってるんですよね。その、どういう関係だったんでしょうか……俺と……」

 ハルは押し黙る。どういう関係と言われれば、形見の地図を強奪されたり両親の遺骸を死霊にされたり、その後も迷宮でのいざこざのせいであちこち走り回る羽目になってとことん迷惑をかけられた最悪な相手……とした良いようがない。だがそれを面と向かって言うのは流石に気が引ける。

 というのも、見てのとおり今のメレディスは評議会での取り調べの過程で衛兵たちにさんざん絞られたおかげですっかり参ってしまっているようなのだ。……これがもし演技だとしたら、とんでもない名俳優だが。

 実際に経験したことが無いので一切共感はできないが、一切の記憶を失って頼れるものもなく、自分が誰かすらも分からない……そんな状況で覚えのない罪のことで責め立てられるというのは、まあ辛いだろう。そして、そんな相手に対してきつく当たることについ罪悪感を抱いてしまうくらいには、ハルは真面目だった。

「……別に。ちょっと話したことあるってくらい」

「そうですか……良い話ではないですよね、やっぱり。俺はものすごくいろんな人に迷惑をかけたと聞いたので……」

「それは本当。一番迷惑かけた相手は、皆もうこの街にはいないけど」

 肩を縮こめてそうなんですね……と呟くメレディスに、以前の悪辣な犯罪者の面影はない。ハルは、「一番迷惑かけた相手」がこの場にいないことに心底安堵した。せっかくアイオリスでの生活に区切りをつけてそれぞれ別の道へ進んでいるのに、いつまでもこの男に振り回され続けるのではあんまりだ。いや、それを言うなら自分や『ヴォルドゥニュイ』もそうなのだが。せっかく諸々が落ち着いてきたのにこの仕打ち、あんまりである。

 そう考えると、レイチェルがレムスの頼みを固辞した気持ちもよく分かる。彼女はもう、メレディスに関わりたくないのだろう。ちょうどミルドレッド――レイチェルの相方である。メレディスたちに人質に取られて昏睡状態にあった――のリハビリも軌道に乗ってきたと聞く。ようやくこれからの事を考えられるようになってきたのに、終わったはずの事件に足を引っ張られたくないと考えるのはごく自然なことだ。レムスも彼女に対して無理を押しつけるような事はしなかった……逆に、彼女が最初に断ってしまったせいでハルやジャンは頼みを引き受けざるを得なくなってしまったところがあるのだが。

 こんな事なら、さっさとアイオリスを離れておけばよかった――そう思うごとに、押し殺したはずの苛立ちが再び滲んでくる。つい無意識に爪先で地面を叩くハルとそんな彼を見てますます小さくなるメレディスの元に、ジャンが歩み寄ってくる。

「そろそろ行こうぜ。ちょっと遊びすぎた」

「だから別に良いじゃないですか。時間に制限があるわけでもないし、急いだって事態が良くなるわけでもないし……ねえ?」

 遅れてやってきたステファンがそう言いながらカザハナを見下ろす。同意を求められた猟犬は尻尾を振って、わん! と元気に吼えた。ご機嫌である。ハルは溜息を吐いて置いていた荷物を拾い上げた。相棒には悪いが今はジャンの言い分に賛成だ。時間制限が無いからといって、いつまでも迷宮でダラダラしているわけにはいかない。

 ジャンに急かされたステファンがぶうぶう文句を言いながらも装備を整えて探索再開の準備を始める。ハルは彼らを呼びながら地図を広げた。第一層とはいえ迷宮は迷宮だ。メレディスは戦闘技能に関する記憶も失っているらしく、実質的には一般人を連れているのと変わらない。万が一に備えるためにもルートの確認は入念に行っておくべきだ。

 話し合いの合間にメレディスの様子を窺ってみた。彼は戸惑った表情で、三人から少し離れた場所にじっと佇み続けている。


 目的のものは、意外なことにあっさりと見つかった。地図に記されていた場所、水場に面した茂みの奥のひときわ大きな樹の根元に、それは隠されていた――片手で持ち上げられる程度の大きさの金属製の箱である。無骨でしっかりした造りではあるが、見た限りでは凝った仕掛けのようなものも無さそうな、シンプルな箱だ。

「鍵……は無いっぽいな。どうやって開けんだこれ」

 付着していた土を払って箱を持ち上げたジャンが首を傾げる。隣に立っていたステファンが顔をしかめて彼の腕を掴んだ。

「置きなさい。魔法がかかってます」

「マジ?」

「ああー……罠ではなさそうですけど、また複雑な……少し待っててください」

 ジャンが地面に置き直した箱をまじまじと眺め、ステファンは何やら発動機の調整を始める。魔法に関することは専門家に任せるほかない。邪魔をしないよう少し距離を取りつつ、門外漢たちは改めて地図を広げる。

「これでもし全然関係ないゴミとかだったら、お笑いだけどね」

「どうだろうな。お前なんか見覚えあったりしねえの?」

 と、急に話を振られたメレディスがぎくりと肩を強張らせる。しばし視線を泳がせていた彼だったが、やがて力なく頭を振った。

「すみません、何も……」

「ふーん。まあ何隠してたかなんて開けてみれば分かるしな」

「……はい、開きました。複雑な術式ではありますけど、ひとつひとつ解いていけばそう難しくはなかったですね」

 ステファンが立ち上がり、箱を三人の元へ持ってきた。ひとつ視線を送ってくる彼にジャンとハルも頷き返す。

 薄汚れた蓋をゆっくりと持ち上げる――中を覗いてみれば、そこにあったのは一冊の小さな手帳だ。ハルが丁重な手つきでそれを持ち上げてページをめくる。中に書かれていた文字列を追った彼は、思わずといったように声を漏らした。

「これ……解読表だ。あの地図にあった字の……!」

「字? 例の冒険者の地図に書いてあったっていう?」

 ハルが頷いて手帳の内容をジャンとステファンに見せる。狭いページにみっちりと書き込まれたメモは、半分が見慣れない文字で書かれたものだ。十二年前の冒険者が残した迷宮の地図……そこに書かれていた、アルカディアには存在しない言語。二人は実物を見たことがないので何とも言えないが、実際に地図を所有していたハルが言うのだから間違いはないだろう。メレディスは、地図を解読するためのヒントをこの手帳に書き溜めていたのだ。

「他には何も入ってない?」

「無いですね。さっきの封印以外に魔法がかかってる様子もありませんし」

「どうしてこれ置いてったんだろうな。大事なもんだろ」

「ぜんぶ解読したからメモも必要なくなったんじゃないの。でも、これではっきりした。他の階層の印の場所にも、これと同じようなものがあるってことでしょ」

 そう言うハルの表情は渋い。足元で伏せているカザハナも、こころなしか不安げな様子で主人を見上げている。『ヴォルドゥニュイ』の二人も彼らと似たような顔をしていた。つまり、レムスの予想は正しかったということだ。そしてメレディスが所持品を隠したであろう場所は、あと四カ所残っている。それら全てを回収しなければ、メレディスが犯した罪の詳細も……そして十二年前に「この世界」を去ったという冒険者の謎も、解明できないだろう。

 まだ事件は終わっていないのだ。

 ともかく、今はこの手帳について評議会に報告しなければなるまい。誰からともなく帰り支度を始める三人と一匹の様子を、メレディスは少し離れた場所で俯きがちに見つめていた。


     ◆


 自分の名は、メレディス・コーディア、というらしい。

 何度聞いても耳に馴染むような馴染まないような奇妙な感覚がするその名前を脳内で反芻しながら、青年はベッドの上で縮こまって膝を抱える。彼が今いるのは評議会の敷地内に存在する留置施設の一室だ。ここはまだ罪状が確定していない嫌疑者が取り調べ期間中に収容される施設であり、先程まで迷宮の中にいたような人間の待機場所としてはまったく相応しくないのだが、彼がそんな事を知るよしもない。

 何故なら、彼には過去の記憶が無いのだ。気付いた時には森――円環ノ原生林だ――に倒れていて、あのアルコンというらしい少女が自分の顔を覗き込んでいた。それからしばらくの間あの場所で過ごして、アルコンが『ヴォルドゥニュイ』を連れてきて、こうして街まで連れてこられたが……それからの出来事とそこで受けた衝撃を、どう形容すればいいだろう。

 自分は犯罪者なのだという。我欲を満たすため、多くの人に犠牲を強いたのだという。

 信じられなかった。記憶を失っているとはいえ、社会規範や倫理といった知識は頭の中に残っている。人を傷付け利用するのも、誰かの大事なものを奪うのも、とんでもない悪事だ。それを、記憶を失う前の自分は行っていた、と、そう聞いた。そしてその罪のために、自分はお尋ね者として捜索されていたのだとも。にわかには信じられなかったが、周囲の自分に対する態度を知ってしまえば信じるほか無かった。取り調べを担当した衛兵たちも、彼らの指揮を執る役人も、そして自分を迷宮まで連れていった三人も、自分を見る目はひどく厳しい。

 本当なのだろうと思う。本当に自分はとんでもない犯罪者で、取り返しのつかない何かをしでかしてしまったのだ。それが何なのかは、まったく記憶にないけれど。

 メレディスは溜息を吐く。憂鬱な気分だったが、果たして憂鬱になる資格が自分にはあるのだろうか。きつい取り調べをされるのも、訳もわからぬまま樹海を連れ回されるのも、恐らく犯した罪への罰である。たとえ記憶になくとも自分が犯罪者であるのは確かなのだから、それだけ辛くとも全て受け入れるのが義務ではないか――そんなことを延々考えてしまう程度には、彼は参っていた。いっそ考える余裕も無いような状況であれば良かったが、残念なことに腹が減っているわけでも眠気があるわけでもなかったので、意識がはっきりしたまま終わりのない思案を脳内で巡らせ続けることしかできない。囚人への責め苦と言って遜色のない状況であった。彼をここに連れてきた誰もが、そんな事は想定していなかったが。

 部屋の扉が開いたのは、鉄格子の嵌められた高窓から射し込む日光が幾分か傾いて赤みを増した頃だった。はっと顔を上げるメレディスを、扉の向こうに立っていた衛兵が呼ぶ。拘束されるのかと思ったが、予想に反して枷も縄もかけられなかった。

 無言の衛兵たちに脇を固められながら静かな廊下を歩く。時折周囲から注がれる視線に背中を丸めて耐えながら、メレディスは努めて無心になりながらひたすら足を進めた。行き先はどこだろう。牢獄か……はたまた処刑場か……どちらだとしても、逃げることはできない。どんな処遇だとしても、受け入れるほか無いのだ。

 衛兵たちが足を止める。辿り着いたその場所で伏せていた顔を上げ、メレディスは思わず周囲を見回した。彼が立っているのは予想していたどちらでもない、豪奢な造りの扉の前である。扉をノックした衛兵が、向こう側からの返事を確かめてからメレディスを促す。戸惑いながら取っ手を引いた。その先にいたのは昼間に自分を迷宮まで連れていった三人の冒険者と、きちんとした身なりの少年……確かレムスという名の、評議会の「偉い人」だ。

「よく来てくれたね。どうしてここに呼ばれたか、分かるかい?」

 問いかけの意図も自身が置かれている状況もよく分からないが、とにかく答えねばならないと思ってメレディスは首を横に振った。レムスはそうか、と頷き、重々しい口調で続ける。

「君の処遇が決まった。……本来であれば、メレディス・コーディアに対しては極刑をもって臨むほかないと思われていた。複数の冒険者に対する恐喝や暴行、地図を含む資産の強奪、ミルドレッド・オークウッドの監禁……その他、この場で立証できない罪も含めれば罪状は数十にも及ぶ。そこまでの罪を重ねた人間を、無罪放免とする事はできない。たとえ君自身に、自らが犯した罪の自覚がなくとも」

 凜としたレムスの声は静まりかえった部屋によく響いた。冒険者たちも、背後の衛兵たちも、無言で事の成り行きを見守っている。メレディスはじわじわと首を絞められるような息苦しさを覚えながら言葉の続きを待った。

 ひとつ、溜息を吐く――どこか苦渋の色が滲む表情で、レムスは告げる。

「評議会の代表として、君に命ずる。メレディス・コーディアが迷宮に遺した遺物を、ここにいる冒険者たちと共に回収したまえ。それが、今の君にできる贖罪の方法だ」

0コメント

  • 1000 / 1000