【SSQ2】23a 総ての正義のために
崩れ落ちた巨獣の身体は力なく硬い床に横たわっている。全身に大小様々な傷を負い、血を流す獣の顔は苦悶の表情のまま固まっていてぴくりとも動かない。オーバロードとやらの口ぶりからすると、この獣も三層に住まう氷姫と同じくかつては人間で、冒険者であったらしい。彼か、それとも彼女か。城の主の目に敵う実力者であった筈の冒険者の、その最期が果たして如何程のものであったのか、もはや知る術はない。ただ、魔獣ジャガーノートは倒れ、城の上層へと繋がる道は開かれた。それだけが紛れもない事実だった。
「……これで良し。治療終わり」
負傷していたロアの腕に包帯を巻き終え、ロレッタはほっと息を吐く。ジャガーノートは強敵だったが、何とか全員無事に戦いを終える事ができた。仲間達はみな疲労困憊といった様子だ。歩いて街まで帰る事ができる程度まで回復するには、もう少し時間がかかるだろう。
ロレッタに礼を言い、仲間達の様子を見回したロアは思わずといったように苦笑する。
「……あー……もう少し休んでから帰るか。セルジュなんかまだダレてるし」
「うう……慣れない技ばかり使った……高揚させるでも落ち込ませるでもなく、平常心を保たせるって難しいだろ……すごいな王家の血ってやつは……」
「はいはい……」
膝に顔を埋めてぼやくセルジュに呆れた様子で肩を竦め、ロレッタは鞄から携帯食糧を取り出して食べ始める。戦闘中に脱ぎ捨ててそのままになっていた着物──奇跡的にほぼ無事な状態で残っていた──を拾って羽織りながら戻ってきたチアキが、もぐもぐと携帯食糧を貪るロレッタを見て困ったような顔をした。
「もう少し警戒した方がいい」
「そう?この部屋、魔物いないじゃない」
縄張りの主であるジャガーノートを恐れてか、しんと静まり返った大部屋に魔物が姿を見せる気配はない。しかしそのジャガーノートも今や物言わぬ身となって倒れ伏すばかりだ。うーむ、とロアが唸る。
「奴が死んだ以上、魔物が入り込んでくる可能性も無くはないか。入口はすぐそこにしかないが……」
「……俺、外を哨戒してくるよ。そんなに疲れてないし」
壁に背中を預けて銃を弄んでいたセトがそう言って立ち上がる。急な行動に四人は顔を見合わせた。確かに狙撃による安全な場所からの攻撃を担っていたセトは攻撃に支援に回復にと駆け回る他の面々よりは疲れていないかもしれないが。
「……一人だと危ないぞ?」
「大丈夫、扉の前で警戒するだけだし。何かあったらすぐに呼ぶよ」
何か言葉を返す暇もなく、銃を手につかつかと出ていってしまうセトを仲間達は唖然と見送る。
◆
丁度良かった。一人になって考えたい気分だったのだ。手をかざしただけで開く不思議な扉の前に腰を下ろし、セトはふうと息を吐いた。魔物の気配を見逃さないよう周囲に気を配りながら、彼はこの階に足を踏み入れた際に聴いた話を思い返していた。
永遠の命。人を越えた力。諸王の聖杯とやらは、それを人間に与えるのだという。それはすなわち、人を人でないもの……魔物に変化させるという事だ。それこそ氷姫スキュレーや先程倒した狂獣のように。だが、しかし。万が一本当に聖杯にそんな力があるのならば、アベルの身体を治す事もできるのではないか。
そもそも公宮で聞いた限りでは、諸王の聖杯は大公の病を治すために必要であるという話だった。使い方次第で呪いに蝕まれたアベルを救ってやる事もできる可能性は否定できない。何にせよ、それを確かめるにはこの城の最上階まで行かなければならないが。
その時、ふと耳に入った小さな音にセトは顔を上げる。魔物の足音だろうか?聞こえた限り、アイアンアーマーやノヅチのそれではないようだが。銃を構えながらそっと辺りを見回す。
それの姿が見えたのは、部屋の中央、立ち上る青い光の柱の向こう側だ。
反射的に放った弾丸は狙いを外れ、金色の床を跳ねて硬質な音を響かせた。さっと身を翻して下り階段へ駆け込んでいく後ろ姿をすぐさま追いかける。
鼓動がいやにうるさく聞こえる。眼の裏側が急激に熱を帯び、視界がぐらつく。待ち望んだ瞬間が思いがけずやってきた事に体の奥から熱が込み上げてくるが、それに反して思考は冷めていた。残っている弾薬の数と種類を思い浮かべながら階段を一気に駆け下りる。大部屋の中で待っている仲間達の事は、もはや頭から抜け落ちてしまっていた。
ようやく辿り着いた二十二階、それは階段を下りてきたセトを待ち構えるようにしてそこに立っていた。そっと銃を掲げるセトに彼はにやりと唇を歪める。
「三年ぶりだな馬鹿弟」
「お前は俺の兄じゃない」
鋭い返答にも表情を崩さず、はは、と声を上げてカインは笑った。
よくある家族だった。父と母と、二人の息子と一人の養子。余所者の一家は山里の者達にも暖かく受け入れられ、移民の一家に一人紛れ込んだ原住民の子は実子と変わらぬ愛を注がれて育った。彼らは愛すべき家族と里の友人達と共に時に笑い、時に泣き、ありふれた日常を過ごしてきた。
すべてが狂いだしたのは、父と母が土砂崩れに巻き込まれて帰らぬ人となった時だ。この里で新たな事業を始めようとしていた父は方々に借金を作っていた。莫大に膨れ上がったそれは遺された息子達へと降りかかる。手持ちの財産をすべて手放しても、返すべき金額には遠く及ばない。家財道具、家、土地、両親が遺したありとあらゆる物。金貸し達は年若い息子達から全てを奪い去ろうとしていた。そんな時、追い詰められた息子達の目の前に現れたのは怪しい巫医と呪言師の二人組だった。無害そうな笑みを浮かべて巫医は言う。
『そこにいるハイランダーと引き換えに我々が借金を肩代わりしよう』
長男は考えた。次男は何も言わなかった。三男は、何も知らないままでいた。そして──。
「ずっとこの時を待っていた……お前を殺せるこの瞬間を」
照準越しにカインを睨み付けながらセトは言う。銃口を向けられても彼は動じず、ただじっとセトの顔を見つめてその口元に笑みを浮かべていた。余裕すら窺えるその表情に苛立つようにセトは唇を噛み、掲げた銃はそのままに問いかけた。
「今までどこに隠れてた?」
「さあな。……俺を追ってラガードまで戻ってきたのか?難儀な事だなお前も」
からかうように言うカインの姿に、思わず引金に延びそうになった指を抑えつつセトは細く息を吐き出す。まだ殺してはいけない。この男には、まだ訊きたい事が残っているのだ。
「どうしてアベルを売った?血が繋がってないからか?あいつはお前の事を信じてたのに、裏切ったのか」
「…………どうだろうな。ま、お前にそう見えてるんなら否定はしねえよ」
どこか含みのあるカインの言葉にセトは目を細める。その言葉の裏に隠された真意を読み取ろうと思考を巡らせている間に、カインは背中に下げていた斧をするりと引き抜いて両手に構えた。磨かれた刃にステンドグラスから射し込む光が反射してまばゆいばかりに煌めく。
「ああ、そうだ。俺もお前にひとつ訊きたい事があったんだ。……お前、例の金貸し共を殺して回ってたらしいな?」
セトは何も言わない。しかし、代わりにぴくりと眉が動いたのをカインは見逃さなかった。肩に下げた盾を空いている左手で弄びながら、続けて問う。
「一人でやったのか?よくもまあ、鈍臭いお前が今まで上手く捕まらずにやってこれたもんだ」
「…………」
「冒険者になってギルドを隠れ蓑にするって考えも上等だったんじゃねえの?公国は冒険者の過去を詮索しない。おまけに迷宮で起こった事は自己責任ときたもんだ。身を潜めながら俺を探して殺すには丁度良かっただろうよ……ところで、ギルドの仲間はこの事知ってんのか?」
「黙れ」
「……ムキになんなよ。自分で選んだ事だろ?」
低い声で呟いたセトにカインは笑みを消し、どこか気だるげな様子で肩を竦める。セトは改めて引金に指をかけた。もはや語るべき事はない。後は、三年間に渡った復讐劇に幕を下ろすだけだ。
破裂音と共に放たれた弾丸は左手の盾に防がれた。斧を肩に担いで駆け出したカインを追い、すぐさま次の弾を込めて撃ち出す。重い斧を担いだ重装備であるにも関わらず、カインの足は存外に早い。脚を封じたいところだが、相手が走っている以上狙うべきはブレの少ない胴だ。だが相手もそれ承知の上だろう。右肩から下げた盾はちょうど左脇腹を隠す位置にあり、セトのいる場所からでは狙いをつけ辛い。
ならば、と取り出したのはチャージショット用の弾薬だ。距離を取りながら装填し、狙いをつける。盾や鎧が邪魔ならば、諸共撃ち抜いてしまえばいいのだ。
狙いをつけ、引金を引く──鈍い音を立てて肩当てが砕け、カインは痛みにか眉をひそめた。動きが止まったその隙に畳み掛けようとセトはすかさず次の弾を込めて引金に指をかける。脚を狙ったレッグスナイプは命中とはいかずとも、防具に守られていないふくらはぎの肉を確かに抉り取った。これで先程のようには走れまい。もう一撃、今度はもう片方の脚を狙おうとするセトだったが、カインは彼より先に手を打っていた。
腰に下げていた短剣を引き抜き、思いきり投擲する。狙いを逸れたのかはたまた最初から当てるつもりなど無かったのか、短剣はセトの脇をすり抜けて真っ直ぐに壁へと突き刺さった。セトが思わずそちらに気を取られたその刹那、カインはふくらはぎから血が噴き出すのも構わず大きく踏み込みその懐へと滑り込んだ。空いていた左手で銃を叩き落とし、首を掴んでその体を壁に叩き付ける。衝撃にかふ、と息を吐き出すセトを見てカインは少し笑った。
「は、……どうした、俺を殺すんだろ?」
「……っ……!」
首を締め上げる手を振りほどこうともがきながら、セトはぐっと表情を歪める。拘束された息苦しさのためではない。気付きたくなかった事実に気付いてしまったためだ。先程のカインの戦い方は、アベルのそれとそっくりだ、と。
「、……んで、お前……が……同じ……!」
「当たり前だろ。あいつと一番手合わせしてたのは俺で、真面目なあいつに不意の突き方を教えたのも俺なんだから」
そこで言葉を切り、カインは小さく息を吐いて目を伏せた。拘束は緩めないまま、暫しの沈黙の後で彼は口を開く。
「お前……本当に俺がアベルを売ったと思ってるのか」
当然だ。ボロボロになったアベルがあの巫医に引きずられて戻ってきた時、巫医はカインの方を向いて確かに言ったのだ。『契約は成立だ』と。セトだって何もそう思いたくて思った訳ではない。実の兄が金に困って身内を売ったなど誰が信じたいと思うものか。だが、彼がアベルを売ったのかと問いかけたその時、カインは何も答えずに黙り込んだままだった。あれが沈黙の肯定でなければ何だったというのか。
「……そうかよ。じゃあ本当の事を教えてやる」
静かな眼差しでセトを見つめ、カインは言う。
「そもそも、だ。よく考えてもみろ。アベルを売ったなら確かに借金は返せただろうが、そんな事をすれば俺は里にいられなくなる。折角味方でいてくれる里の奴を自分から敵に回す程俺は馬鹿じゃないぜ?……俺はあの時な、金貸し共を殺して借金を帳消しにしようって考えてたのさ」
セトは困惑した。そんな話は初耳だ。身じろぐ彼を見下ろしながらカインは淡々と語り続ける。
「その様子じゃ知らなかったな?ラファエラのやつ、お前には伝えてなかったのか。……ユディトと俺の二人でずっと計画してたんだよ。金貸しをふんじばって山の中にでも捨てちまおうってな。それで借金は帳消しだ。貸してた本人がいなくなるんだからな」
だが、と彼は目を細める。
「それを止めようとした馬鹿がいたんだよ。……分かるだろ?アベルだ。あいつ、俺達のやろうとしてる事に気付いてやがった」
静かに紡がれる言葉に血の気が引いていくのを感じる。青ざめた顔で、怯えるような視線を向けてくる弟にカインは告げた。
「あいつは自分から犠牲になった。俺が手を汚すのを嫌ったんだ」
どこか遠くで何かが爆ぜるような音がする。それに構わず、実弟の首に指を食い込ませながら、彼は自嘲するような笑みを浮かべてもう一度問いかける。
「なあ……お前、金貸し共を殺して回ってたらしいな?」
──そんな、まさか。
セトは自身の鼓動が逸るのを感じながらカインの言葉を頭の中で何度も反芻する。カインは金貸しを殺そうとしていた。アベルはそれを止めようとした。カインは実際にアベルを売り飛ばした訳ではなく、その原因を作っただけだった。果たしてそれをカインのせいだと言えるのか。……いや、違う。問題はそこではない。アベルが自身を犠牲にしたのが、カインに殺人を犯させないためだったならば。
自分は一体、何をした?
冒険者になったのは経歴を知られずに身を隠すためだ。ハイ・ラガードまで戻ってきたのは探していた仇の尻尾を掴んだからだ。各地を回っていたのは、金貸し達とあの巫医と呪言師、そしてカインを殺すためだ。奴等を殺すのだ、アベルの仇を取るのだ、と。そう思ってこの三年間旅を続けてきた。だが、カインの話が本当ならば、そもそも自分は最初から間違っていたのではないか?果たしてあの優しい兄は、本当に復讐などという物を望んでいただろうか?
ならば、この三年は、一体何のために。
「……馬鹿だよな」
カインがぽつりと呟く。
「俺達兄弟の全員が、自分が正しいと思ってやった事で他の奴の首も自分の首も絞めてんだ。本当、何なんだろうな……何が間違ってたのか……だけどな」
詰めていた息を吐き出し、彼は右手の斧を手放した。重い音を立てて床に転がるそれには目もくれず、実の弟を強く睨み付けてカインは言う。
「お前、ユディトを殺したろ」
セトの肩が跳ねる。いつの間にか緩んでいた指が再び彼の首を絞めつける。抵抗するだけの力など、ある筈もなかった。
「お前の考えてた事は分かるが、好きな女殺されてハイそうですかで流せる程俺は優しくねえぞ。……お前が憎いよセト。お前がアベルを壊した俺を憎んだのと同じように」
言葉とは裏腹に、カインの口調はひどく静かだ。セトは何も言えないまま彼の声を聞いている。どこか遠くで聞こえる爆発音も、機械音も、まるで別の世界の出来事であるかのような感覚だ。何も考えられない。ただ、頭の中でこの三年の間見てきた風景だけがぐるぐると回っていた。幾度も手を汚した。アベルのためだと信じて、何人も手にかけた。時には無関係の人までも巻き込んで。それが正義だと信じていたからだ。けれど、それすらも間違っていた。
殺されても仕方がないと思った。それだけの事をしたのだから。
「こんな終わり方で本当に残念だ、セト」
呟き、カインは腰に下げていたもう一本の短剣を引き抜いてそっと構えた。ステンドグラス越しに射し込む光を受けてその刃が淡く輝くのをセトはぼんやりと眺めている。
「先に地獄で待ってろ」
刃が翻る。その切っ先はセトの胸を真っ直ぐに捉えている。一瞬である筈のその光景が、やけにゆっくりとしたものに思えた。彼は裁きを待つ被告人のような思いで数秒後の痛みを待つ。
──しかし、それが訪れる事はなかった。
落下した短剣は、床を跳ねて軽い音を立て転がった。声を無くすセトの目の前で、カインもまたどこか呆けたように目を見開き、そっと自身の胸へ視線を落とした。そこに生えていたのは、赤々とした血に濡れた黒い穂先だ。
カインの胸を装甲ごと貫いていた刃が、ずるりと引き抜かれる。悲鳴もなく膝から崩れ落ちて倒れる彼の向こう側に立っていたのは、病衣の上にキルトを纏っただけの簡素な格好をしたアベルだ。ここまで走ってきたのだろうか、呼吸は乱れて頬を汗が伝っている。なぜ、という問いはついに声にはならずに腹の中で溶けて消えていった。
血の海に沈みながら彼の姿を見上げたカインが、溢れてくる鮮血と共にああ、と吐息を漏らして唇を歪めた。
「そうか……そうだな……お前はいつも、セトの……味方……ばっか……」
アベルは何も言わず、そっと彼の傍らに跪く。長い前髪の向こう、金色の瞳からぽろりぽろりと汗ではない雫が溢れている。静かに涙を溢すアベルと呆然と立ち尽くすセトを見て、カインは呟く。
「本当に……馬鹿な弟ども──」
ひゅう、と掠れた息を吐き出してそれきり動かなくなった兄の傍らで、アベルは槍を手放すとそっと手を組んで目を伏せた。ぽつりぽつりと呟くのは葬送の言葉だ。
「──天にまします我らの父よ、願わくは──」
小さな祈りの声だけが辺りに谺する。立ち尽くしていたセトは、ずるずると崩れ落ちるようにして床に膝をついた。一面に広がった血がコートを赤く染め上げる。内側にまで染み込んできたそれはまだ確かな熱を持っていたが、じきに冷えきってしまうだろう。先程まで生きた人間の内側に流れていた事が嘘であるかのように。
横たわって微動だにしない長兄を眺め、セトはふと昔の事を思い出す。幼い頃、一人で遊んでいる最中に森の中へ迷い込んでしまった自分を迎えにきてくれたのは他でもないカインだった。びいびいと泣く自分をしょうがねえな、と背負うその背中の温かさは今でもありありと浮かんでくる。カインは不真面目で面倒臭がりでいつもフラフラしているどうしようもない男だったが、それでも──兄だった。家族だったのに。
ああ、やはり何もかもが間違っていた。
正義など、最初からどこにも無かったのだ。
「──あるじよ、永遠の安息を彼に与えたまえ──」
沈黙が下りる。跪くアベルとセトの頭上に、淡い光が降り注ぐ。まるで祝福のヴェールのようなそれが熱を失いつつある血溜まりを照らし、きらきらと輝かせた。まるで天が復讐の完遂を祝っているかのような光景だった。
爆発音も機械音も、もう聞こえない。そこにはかつて三兄弟だった二人と一つが音もなくあるだけだった。
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