【SSQ2】23b 煉獄
「……セト、どうしたのかな。最近ずっとおかしかったけど、ここのところ輪をかけて変よ」
ぽつりと呟いたロレッタの言葉に、彼女の隣に腰を下ろして荷物の整理をしていたチアキが眉を下げる。
「そうだな……前のおれみたいに、変に思い詰めなければいいが」
「セトがいないと戦力的に困るしね」
「そういう問題じゃないだろう」
たしなめるように言ったロアにセルジュは肩を竦める。
「そういう問題だよ。今このギルドでマチルダの役割を補えるのは術式弾を扱えるセトだけだ。セトが抜けたら誰も穴を埋められなくなる。ナギやモモコは実戦向きとは言えないし、アベルは……本来なら探索に出るべきじゃないだろう」
淡々とした言葉に、さしものロアも押し黙る。確かに、今こうして探索に出ている五人が現在の『白妙の花冠』が天空の城攻略に宛てられる最良のメンバーだ。危険な魔物の徘徊する城内を下手なメンバーで進む訳にはいかない。
苦い表情で黙り込んでしまったロアを横目で見つつ、セルジュは溜息をひとつ吐いてぼやくように言う。
「というか彼、何を訊いても何でもないとしか答えてくれないんだよな。相談にも乗らせてくれないんじゃ……」
彼の言葉を遮るように、扉を隔てた向こうから銃声がひとつ聞こえてきたのはその時だった。咄嗟に全員が武器に手をかけ、息を殺して部屋の外の様子を窺う。セトからの呼びかけは無い。魔物に襲われて声も出せない状況なのかとも思ったが、それにしてはあまりにも静かだ。
目で合図を送るロアに、他の三人はそっと頷き返す。剣を抜き、ロアは扉に手をかざす。軽い音を立てて扉が開いたその先には──誰もいなかった。魔物どころかセトの姿すら無い。微かに漂う硝煙の匂いから、ここで一度発砲がなされたのは間違いないようだが。セルジュが弓に矢をつがえたまま、光の柱の陰を覗き込んで首を傾げるロアの元へやってくる。
「……セトはどこに?」
「分からん。血痕も見当たらないし、魔物に襲われた訳ではなさそうだが……」
「用でも足しに行ったのか?」
チアキが怪訝な表情で呟く。その可能性も無いではないが、先の発砲音が気がかりだ。暫し考え込んでいたロアは、扉の近くにいたチアキとロレッタを振り返って指示を出す。
「荷物を纏めておこう。少し待ってみて戻らなかったらセトを探しに行く」
「了解」
大部屋の中に丸々残されていた荷物を回収しに向かう二人を横目に、屈んで床を調べていたセルジュが小さな声を上げた。何事かと近付いたロアに彼は渋い表情のまま言う。
「ここ、弾痕が残ってる」
「本当だ。……この感じだと、扉の方から階段に向けて撃ったのか?」
二人は銃に関しては素人だ。床に当たった弾がどのような痕を残すのか詳しくは分からないが、ここにある痕跡を見る限りではそのように思える。ひとつ頷き、セルジュは呟く。
「セトは扉の前から階段の方向にあった何かに向かって発砲した。……その何かを下の階まで追いかけていった、っていうのはどうだろう?」
「うーん……そうだな、この階にいるならもう少し気配が……」
言い終わる前に、はっと何かに気付いたロアがセルジュの首根っこを掴んで勢いよく飛び退く。一瞬の間の後、先程まで彼らがいた場所を爆炎が包んだ。部屋を斜めに分断するように、めらめらと燃え盛る炎の壁が立ちふさがっている。
「な、炎……!?」
「っロア!セルジュ!」
炎の向こう側からチアキとロレッタの悲鳴じみた叫びが谺する。返事をしようと口を開いたロアだったが、それが叶わなかったのは見覚えのある人影を視界の隅に捉えたためだ。黒い影は炎の向こう側を悠然と歩き、開きっ放しになっていた扉から大部屋の中へと入っていく。唖然とする彼女の腕を引きながらセルジュが叫ぶ。
「ロア!この炎消えないぞ!どこか回り込める道を……ロア?」
「……弟、……マチルダの弟だ!」
間違いない。黒髪に赤い目、青いマフラー。錬金術師の青年は以前街で見た時とまったく同じ格好をしていた。見間違う筈もない。セルジュが困惑したように叫ぶ。
「弟……って、どうしてその弟くんが僕らを攻撃してくるんだ!?」
「分からん!だが、このままだと二人が……」
二人が危ない、と言いかけたところでロアはぐっと言葉を飲み込んだ。チアキとロレッタも危険だが、姿を消したセトがまだ戻ってきていない。どちらも放っておく訳にはいかないが、かといってロアとセルジュがそれぞれ分担して行動しても更に危険が増すだけだ。表情を歪めて考え込む彼女の名を、傍らのセルジュが気遣わしげに呼ぶ。
「ロア」
「……大部屋の外周沿いを回って抜けられそうな場所を探す。獣避けの鈴はお前が持ってたな?」
どこにいるか分からず状況も不明なセトと、すぐそこにいて明確な危機が迫っている二人と。どちらを優先すべきかは明白だ。セルジュは一瞬躊躇った様子を見せたが、すぐに懐から獣避けの鈴を取り出して封を切った。
術式による不思議な力のためか、背後では未だ炎の壁が最初の勢いを保ったまま時折爆ぜながら燃え続けている。武器を構え直し、二人は西側の扉を潜り抜けて走り出す。もはや、一刻の猶予もない。
◆
部屋の出口を塞ぐように放たれた炎と、それを背に立つ青年。ロレッタを背後に庇いながらチアキは動揺を抑え込んで彼をじっと見据えていた。先程炎の向こう側から聞こえた微かなロアの声は、確かにこう言っていた。『マチルダの弟だ』と。マチルダの弟、名前は何といっただろうか。確か……。
「キリル・アスティン」
チアキの思考を汲んだかのように、ロレッタが小さな声で呟く。彼女の声が聞こえたのか聞こえなかったのか、俯きがちに佇んでいた青年はふと顔を上げて二人に目をやった。その瞳はどこか虚ろで、覗き込めば吸い込まれてしまいそうな程深い闇を湛えていた。
「…………『白妙の花冠』。聖杯に最も近いギルド」
呟くように言いながら、キリルはそっと右腕の錬金籠手を撫でる。チアキは少しばかり目を細め、腰の刀に手をかけた。何の意図があって自分達を分断したのかは分からないが、術式を放った以上話し合いができるとも思えない。戦闘は避けられないだろう。この距離ならば居合の型で先手を取って斬りかかる事もそう難しくはない。だが、相手は術式使いだ。しかも様子を見る限り、キリルが放った炎の術式はかなりの威力があるように見える。一度攻撃を受けてしまえば致命傷は避けられない。
背後でロレッタが息を呑む気配がする。チアキは腰を低く落とし、居合の構えを取りながら青年の一挙一動を注意深く観察する。慎重に動かなければならない。一手誤れば、そこで終わりだ。
キリルがじろりと二人を睨みながら静かに問う。
「お前達は何のために聖杯を探す?富か、名誉か、それとも……」
チアキは唇を引き結んだまま彼を見返す。彼に代わるように、ロレッタが答えた。
「聖杯は頼まれて探してるだけよ。私達の目的はそこじゃない」
「そうか」
自分から訊いたにも関わらず興味はないといった風に呟くと、キリルは小さく息を吐いて言う。
「じゃあ死ね」
瞬間、掲げた掌から放出された炎の渦に、チアキは鞘から刀を抜いた勢いのままに一閃を浴びせる。斬撃によって切り裂かれた炎は宙に溶けて掻き消えた。
「ロレッタ!下がってろ!」
一声叫べば、ロレッタはすぐさま駆け出して距離を取る。その背中に術式を浴びせようとしたキリルへ、チアキは一気に距離を詰めて斬りかかった。咄嗟に杖を構えて寸でのところで斬撃を受け流し、キリルは赤い光の灯った掌をチアキへ向かって繰り出す。身を退いて避けるが、掌が掠めた着物の一部がじゅう、と音を立てて焼け焦げた。見た事のない戦い方だ。近接攻撃に対応した術式、といったところだろうか。
体勢を立て直し、キリルの右腕を狙って次の一撃を加えようとしたチアキだったが、即座に放たれた火炎の術式によって阻まれた。キリルの周囲を回り込むようにして走って距離を取る彼を追いかけ、炎は着弾した箇所からみるみるうちに拡散して床を焦がす。
「ちょこまかと……これだからブシドーは嫌なんだ……黙って死んでろ自殺志願者ども……」
ぶつぶつと呟きながら右腕を斜め下方向に向かって掲げ、キリルは先の高位術式からそう時間も経たない内に大爆炎の術式を放った。辺り一面に広がる火の海に足を取られぬよう、チアキは少し離れた場所で再び刀を鞘に収めて居合で斬りかかる機会を窺う。しかし、術式の再装填が早すぎる。今まで見てきたマチルダの術式は準備にもう少し時間がかかった筈だが。
ここは別の方面から攻めてみるべきかもしれない。ひとつ息を吐き、口を開く。
「何故おれ達を殺そうとする?目的は何だ」
問いかけにキリルは微かに肩を揺らす。
「……何故?そんなの決まってる……姉ちゃんを助けるためだ」
「…………」
さも当然のように吐き捨てられたその言葉にチアキは思わず閉口する。どこか虚ろな、しかし強い決意に満ちた瞳でキリルは続けた。
「諸王の聖杯はヒトに永遠の命を与える。人智を超えた超古代の錬金術……エリクシル……賢者の石……それさえあれば姉ちゃんは助かる……また笑ってくれる」
「死者は戻ってはこない。万一甦ったとして、それはもはや人間じゃない」
堅い口調で言い切ったチアキの脳裏に浮かぶのは三層で見た光景だ。微笑みを浮かべる異形の美女、立ち塞がる銃士と巫医、少女の涙。天空の城に捧げられ『永遠の命』を与えられた冒険者がどうなるのかは嫌と言うほど知っている。だからこそ、これまで共に戦ってきた仲間を理性を失い死ぬ事すらできず永遠に生かされ続ける目に遭わせようとするなど、見過ごす訳にはいかなかった。
たとえ彼が実の弟で、自分達より深く強くマチルダを想っていたとしても、それだけは許す訳にはいかない。
チアキの言葉にキリルは暫し呆然と目を見開き、やがてぐっと歯を噛み締めて全身を震わせると絶叫する。
「お前らが見捨てたくせに!!知ったような口で!!姉ちゃんを語るなッ!!!」
すっと表情を消すチアキの目の前で、青年はポーチから取り出した小瓶を床に叩き付け──広がった液体に向かって火を放った。ファイアオイルの恩恵を受け瞬間的に燃え上がった豪炎は、天井近くまで立ち上る巨大な炎柱となってチアキを呑み込もうと音を立てて広がる。
「ッ……」
「姉ちゃんは死んでなんかない……姉ちゃんはそこにいる、俺を呼んでる!助けを求めてる!!お前らさえいなくなれば聖杯は手に入る……!!俺が姉ちゃんを助けるんだ……邪魔を!するな!!」
悲鳴じみた叫びを上げ、キリルが熱風と光に動きの鈍ったチアキへと術式を撃とうとしたその時、物陰から飛び出してきたロレッタが握り込んでいたそれを辺りへ思いきりぶちまけた。気化して広がった耐熱ミストが周囲の温度を奪い、炎を徐々に鎮めていく。
舌打ちをひとつ漏らし、キリルは火の術式の装填を中断して核熱の術式を編み始める。霧を吹き飛ばそうとしているらしい彼から離れ、チアキはロレッタの首根っこを掴んで柱の陰に滑り込んだ。空気が爆ぜる音を聞きながら、ロレッタが回収していた荷物の中身を確認する。
「ミストは残ってるか」
「もう無いわ。他は起動符が二枚と糸と……」
「おまえに預ける。もしもの時はおまえ一人で逃げろ」
ロレッタの手にアリアドネの糸を握らせてチアキは言う。ロレッタは何か言い返そうと口を開いたが、結局何も言わないまま俯いた。その頬をそっと撫で、チアキは刀を構え直して再び物陰から飛び出していく。
こちらに背を向け、肩で息をしながら立っていたキリルは足音にぐるりと振り向くとアタノールを掲げて術式を放とうとするが、錬金炉は微かな駆動音を立てたきり沈黙してその掌の内に炎が生まれる事はなかった。表情が歪む。その隙にとチアキが刀に手をかけ斬りかかるより早く、彼は懐から取り出した球体を素早く床に叩き付けた。軽い音を立てて爆ぜたそれの内側から広がったのは、黒い煙だ。煙幕が広がりきる前にチアキは刀を抜いてキリルに一閃を浴びせる。煙の向こうからくぐもった悲鳴が聞こえた。手応えはあったが、浅い。
煙る視界の中で慎重に気配を探りつつ、チアキは刀を握り直す。
黒い煙は柱の陰でじっとしていたロレッタの元まで急速に広がり、彼女の視界を奪いつつあった。錬金術を用いた煙玉か何かだろうか、辺りを漂うそれはある程度の濃さを保ったまま広い部屋の中に充満していた。ロレッタは手の内にあるアリアドネの糸を強く握り締める。チアキは無事だろうか。先程聞こえた声は彼のものでは無かったようだが。
その時、祈るような気持ちでじっと息を潜めていたロレッタは突如聞こえた軽い音に身を竦ませた。恐る恐る音の聞こえた方を見てみれば、コロコロと小さな音を立てて床に転がっていたのは一本の試験管だ。ラベルに書いてある文字から察するにアムリタが入っていたようだが、今問題なのはそこではない。問題は、あの錬金術師がなぜ今この試験管を落としたのかだ。
ぐっと身を縮め、口元を押さえてロレッタは気配を絶とうと努める。恐らくキリルは煙に紛れて近くに潜みながらこちらの出方を窺っている。もし先程ロレッタが驚いて物音を立てていれば、今頃彼女は死んでいただろう。チアキを後回しにして戦闘能力のないこちらから仕留める算段だろうか。だが、それなら先程のように大規模術式で辺りを焼いてしまえばいい筈だ。それをしないのは何故か?……恐らく、彼には大規模術式を発動できるほどの力が残っていない。
ロレッタは考える。キリルはできるだけ自分に近付き、小規模な術式で止めを刺すつもりだろう。何にせよ彼女には相手を退けるだけの力は無い。ならばどうするべきか。このまま息を殺し続けていても煙が晴れればやがてこちらの場所は知られてしまうだろう。……その前に脱出するなんて事は、言語道断だ。
それならば、やるべき事はひとつしかない。ロレッタは大きく息を吸い込み、叫んだ。
「──チアキ!!」
声を上げた瞬間、どこかから足音が響く。はっとする間もなく、煙の向こうから駆けてきたキリルの脚がロレッタの脇腹を横薙ぎに蹴り飛ばした。思いきり吹き飛ばされ、地面に叩き付けられるその直前に彼女は確かに視界の端でちらつく濃紺の髪を見た。
苦しい事を押し付けてしまう。それでも、こうして呼べば彼がすぐに駆けつけてきてくれる事がロレッタはどうしようもなく嬉しかった。
「──ロレッタ!!」
地面を二度、三度と跳ねて転がり、動かなくなった少女の姿にチアキは視界がぐらつくのを感じる。すぐさま駆け寄って抱き起こすが、ロレッタは額から血を流して気を失ったまま目覚める気配は無い。彼女を蹴り飛ばしたキリルはどこか虚ろな表情を歪めて小さく笑った。
「はは、女子供はよく飛ぶ……」
その言葉に何の反応もできない程には、チアキは焦っていた。もしもの時はロレッタだけでも逃がすつもりだったのに、この状態ではそれも叶わない。アリアドネの糸はまだ手元にあるが、煙が晴れつつある今となっては身を隠して脱出する事は不可能に近いだろう。
アタノールを駆動させながらキリルはゆっくりと歩いて近付いてくる。先の一撃はやはり浅すぎたらしい、左の上腕に残った傷は既に止血がなされていた。掲げられた掌の内に小さな火が灯るのを見てチアキは奥歯を噛みしめた。ロレッタを置いていけばキリルは間違いなく彼女を先に殺すだろう。人ひとりを抱えたままであの術式を避けきれるだろうか。
「姉ちゃん、もうすぐだ……もうすぐ助けるから、だから泣かないで……」
うわ言のように呟き、青年は右腕を掲げる。手の内の赤い光が膨れ上がっていく。炎が撃ち出されようとしたその瞬間、チアキは咄嗟に抱えていたロレッタの身体を投げ出して素早く動いた。術式から逃げるのではなく、自らアタノールへと突っ込むような形で。キリルが目を剥くのが見えた。チアキは歯を食いしばる。
これが最後の賭けだ。
炎が渦巻いて辺りに広がるより先に、チアキの左腕が射出孔を塞ぐようにしてその掌の内に滑り込んだ。刹那、行き場をなくした術式がキリルの掌とチアキの腕の間で盛大に爆ぜる──腕が一瞬にして焼かれるその熱と痛みと様々な感覚が混ざりあった苦痛にチアキの脳が掻き回される。
「ぐ、が、っぁあああああああッ!!!!」
漏れそうになった絶叫を咆哮に変え、彼は刀を振りかぶる。構えも何もないがむしゃらな一閃は、術式の反動でよろめいていたキリルの胴を袈裟懸けに斬り裂いた。しかし、まだ足りない。その一撃は彼の動きを鈍らせはしたが行動を完全に奪うには程遠い。傷口から血が溢れるのにも構わず、キリルは再びアタノールを掲げて術式の装填を始める。その掌の先にあるのはチアキではなくその背後に横たわるロレッタだ。身を翻して助けに向かうには、時間があまりにも足りない。チアキは動けない。射出孔に炎が灯る──。
それより先に、飛び出してきた影がキリルの右腕をアタノールごと斬り落とした。
ごろりと転がる腕を見て、幼い子供のような表情でぱちりと目を瞬かせるキリルの背中に、今度は鋭い音を立てて飛んできた矢がとすり、と刺さる。バランスを失ってくずおれる彼を横目に、それぞれ剣と弓矢を構えたロアとセルジュが二人の元へ駆け寄ってくる。
「帰るぞ」
ロアはそれだけ言い、ロレッタを抱き上げるとすぐさま部屋の出口へと向かう。チアキもセルジュに肩を借りて左腕から這い上がってくる苦痛に耐えながらその背中を追う。開けっ放しになっていた扉の向こう、下り階段の方から服を血で汚したセトと、不思議な事にアベルの姿が見えた。仲間が全員揃った。これで、心置きなく街へと帰還できる。助かった、と回らない頭でぼんやりと考えた。まだ、死なずに済んだ。
前の事も先の事も、捨て置かれたキリルの事も、考える余裕は誰にもなかった。ただ全員が生きて街へ帰れるという安堵感だけが胸を埋めていた。チアキは目を伏せる。
己の内側でこれが正しい事だったのかと問う声に、彼は聞こえないふりをした。
◆
どうして、どうして。じわじわと広がる赤を虚ろな瞳で眺めながら彼は繰り返す。どうして駄目だったんだ。どうして誰も彼も邪魔をするんだ。
視界の先、射し込む光に照らされて金色に輝くその場所に影もなく立つ姿がひとつ見える。絹のような金の髪は汚れ綺麗な青い瞳もどろりと濁って輝きを失っていて、身体は傷だらけで朱色の衣は汚い赤で斑に染まっている。乾いた血のこびりついた頬に伝う涙の雫を見て彼は刺すような痛みを覚えた。泣かないで、笑っていてほしい。だから助けたいと思ったのに、もはやそれすら叶わない。
冷えきって感覚をなくしていく腕を動かして、彼は手を伸ばす。滲んで歪む視界の中、陽炎のように揺らめく姉の姿は瞬く間に溶けて消えていった。どうしてこんな事になってしまったんだろう。大好きだった。愛していた。何よりも大切だった。多くは望まない。それ以上のものは何もいらないから、ただ俺は、あのひとに。
幸せに、生きていてほしかっただけなのに。
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