【SSQ2】24 右手に剣を 心に歌を
チアキの左腕は切断する事になった。指先から肘の下まで黒く焼け焦げた腕はもはや治療できる見込みはなく、放っておけば壊死が広がってしまうだろうという診断だった。担ぎ込まれた薬泉院でツキモリ医師からそれを聞かされたチアキは、一瞬も躊躇わずにならば切ってください、と応えたそうだ。
昏倒していたロレッタの意識もその日の内に戻った。目覚めた彼女が看護師の制止を振り切ってチアキの元へ向かった時、彼の左腕は既に切断の処置がなされた後だった。自身にすがり付いてわあわあと泣きじゃくるロレッタの背を擦り、チアキは穏やかな声で言う。
「腕一本なんて、おまえの命に比べたら安いものだ」
顔を上げた少女の涙に濡れた頬を拭ってやりながら、彼はそっと笑みを浮かべる。
「無事で良かった」
その表情はひどく晴れやかだ。ロレッタはぐっと唇を引き結んでチアキの胸に顔を埋める。驚く彼の服の裾を強く握りしめ、掠れた声で彼女は言った。
「私があなたの腕になる」
チアキはきょとんと目を瞬かせ、やがて小さく声を上げて笑うとロレッタの頭を優しく抱き寄せた。
◆
薬泉院の屋上からは世界樹がよく見えた。薄雲のかかった空を背に聳える大樹はいつもと変わらぬ様子で悠然と佇み続けている。たとえ迷宮内部で何が起ころうと、その姿はいつ如何なる時も変わる事はないのだろう。
手すりに寄りかかり流れる雲をじっと眺めていたロアの背中に、セルジュはゆっくりと近付いていく。足音に振り向いたロアの茶髪が翻り、風に煽られて心許なげに宙を舞う。橙色の瞳に自分の姿が映り込むのを見ながらセルジュは音もなく彼女の隣に寄り添った。眼下に広がる街並みのどこかから、子供達の歓声が聞こえる。暫しの沈黙の後、彼はぽつりと呟いた。
「アベルが前衛に入ってくれるそうだ」
その言葉にロアは少しばかり目を細めた。
左腕を失ったチアキを戦闘に出す事はできない。控えのメンバーで前衛をこなせるのはアベルだけだが、果たして体調を崩しがちな彼を探索に連れていっても良いものかと仲間内で話し合っていたのだ。ロアは言葉を探すように視線を泳がせ、あー、と声を漏らして躊躇いがちに訊ねる。
「大丈夫なのか」
「それが、本人が行くって言って聞かないらしくてさ。ゼピュロス先生は無理しすぎなければ大丈夫って言ってたよ。ロレッタの負担が少し増えるかもしれないけど……」
「……そうか。それならそこは私達もできる限りカバーしよう。アベル自身がそう言うなら、信じてやらないと」
「はは、そうだな。折角ここまで来たんだもんな」
大きく伸びをし、手すりに肘をついてセルジュは街の向こう側、世界樹へと目をやった。
「長かったような、短かったような、不思議な感じだよ。……色々あったね」
「ああ、色々な」
それは例えば、これまでに出会った人々との楽しい記憶だとか、迷宮での血沸き肉踊る冒険の数々だとか、……経験してしまった悲しい別れだとか。それらをひとつひとつ思い浮かべるロアの隣で彼は呟く。
「……ここだけの話、僕はこれまでの旅はそうそう悪いものじゃなかったって思うんだよ。勿論、辛い事もたくさんあったけど……皆と一緒に過ごすのは楽しかった。最初は君を連れ出す事しか考えてなかったんだけどね。いやあ、人生何が起こるか分からないものだな……」
神妙な様子で一人ごちたセルジュにロアはくすりと笑みを溢す。返ってくる怪訝な表情にますます口角を上げながら、彼女はからかうような口調で言った。
「お前がそう言ってくれて安心したよ」
「何だい、藪から棒に」
「ずっとヒヤヒヤしてたんだ。いつ自棄になって死のうとするかと」
息を呑む音がいやに大きく聞こえた。驚愕の表情を浮かべるセルジュをロアは微笑んだまま真っ直ぐに見つめている。全てを包み込むようなその眼差しに、セルジュはようやく悟る。
──何だ、君は全部お見通しだったのか。
思わず頭を掻いた。情けないやら恥ずかしいやら嬉しいやらで顔が熱くなってくる。だが、白状するには良い機会だ。咳払いをひとつしてから彼は改めてロアに向き直る。
「……あー、……知ってるかもしれないけどさ」
「ああ」
「僕、本当はこの樹海で死のうとしてたんだ。……君と一緒に」
「うん、知ってた」
事も無げに応えるロアはどこか楽しそうだ。セルジュは思わず顔を覆う。
うだうだと悩んでいたのは最初から自分だけで、彼女はとうの昔から全て知っていた。知っていて、それでも自分を信じたのだ。きっとこの街で生きていくための理由を見付けるだろう、一緒に死ぬのではなく一緒に生きていく道を選ぶだろう、と。今更気付いた。セルジュが思い悩んで、仲間を失って、あの白銀の樹海でスキュレーとの戦いの最中にようやく辿り着いた結論にロアは最初から至っていたのだ。
やはり、彼女には敵わない。気恥ずかしさを堪えて顔を上げると、そこには相も変わらずの微笑みがあった。
「ちょうどいい理由は見付かったか?」
問いかける声は穏やかだ。セルジュもまた苦笑混じりの笑みを浮かべ、彼女を見つめ返す。
「そうだなあ、当面のところは……って感じかな」
「またそうやって煮え切らない事を」
「ははは。僕らしいだろ」
「まったく仕様のない奴め。……久々に、お前の歌が聞きたいな」
溜息のような吐息と共に告げられた言葉にセルジュは目を瞬かせる。
「いつも聞いてるだろ。迷宮で」
「戦ってる最中にな。あんな状況でゆっくり聞ける筈もないだろう?歌ってくれないか、何でもいいから」
「仕方ないなあ」
とはいえ、今日は愛用のリュートは宿屋に預けてきてしまっている。伴奏なしで歌うなど吟遊詩人としては少々格好がつかないような気もするが、まあ、たまには悪くないだろう。
何度か発声練習を繰り返した後、セルジュはすうと息を吸い込むとどこか控えめな声で歌い始めた。戦闘の喧騒の最中で耳にする張り上げるような歌声ではなく、ささやかで優しい歌声。鼓膜を震わせて胸に沁み入るその旋律にロアはそっと目を伏せた。彼の歌が好きだ。ずっと昔、二人きりの静かな花畑で初めて出会ったその時から。
まるで野に咲く純白の花を摘み取って、少女の額を飾るような。優しく甘酸っぱい、懐かしい記憶を思い起こさせる、この曲の名は『白妙の花冠』だ。
◆
どこからか、風に乗って微かな旋律が聞こえてくる。アベルはぱちりと目を瞬かせ、揺れるカーテン越しに窓の外を眺めた。薄い雲の切れ間には青い空が見える。穏やかな陽光が灯りのない病室に射し込み、白い床に柔らかな影を落とした。
ほうと息を吐き、アベルは窓から視線を外して部屋の奥を見やる。銃器や弾薬が並べられた机の傍ら、こちらに背を向けるように座った弟はだらりと腕を垂らして項垂れたまま動く気配がない。あまりにも動かないものだから少し心配になったが、時折身じろいだり肩が揺れたりするところを見るとどうやら意識はしっかりしているらしい。アベルはベッドから下り、裸足のままでその背中にそっと近付いた。病衣に包まれた身体は軽く、思考もすっきりしている。
「セト」
声をかけてもセトは振り返らなかった。ただ、背中を預けていた椅子だけがぎしりと微かな軋みを上げる。
「セト」
もう一度名を呼んだ。今度は、少しだけ顔を上げたようだった。垂れた髪の陰に隠れた頬には湿布が貼ってある。その下に広がる痣は確かナギに殴られてできたものの筈だ。彼は随分とセトの事を案じていたようだから、事のあらましを聞いた時も一番に怒っていた。アベルにはナギの手の動きは読めなかったが、殴られっぱなしのセトに声もなく何かを捲し立てる彼の目に涙が浮かんでいた事は確かに覚えている。
栗色の頭へ手を伸ばす。硬く跳ねた髪は記憶にあるより随分と傷んでしまっていた。
「どこか痛むのか?」
静かな問いに答える声はない。アベルは目を伏せ、弟の髪を静かに梳いた。伝えたい事は多いのに、どれも言葉にするにはあまりに頼りない。上手く伝わるかも分からない。それでも、言わなければならない事がひとつある。
髪に指を入れては滑らせながら、アベルは優しい声で言う。
「誰も、お前を責めたりしていないよ」
緑のコートに包まれた肩が跳ねた。セトは身体を震わせると、折角上げていた顔を再び深く深く俯かせてしまう。たじろぐアベルの気配を感じ取ったのか、彼は掠れた声で呟いた。
「……アベル。……ごめん、俺……」
重い息をひとつ吐き出してセトは頭に置かれたアベルの手をそっと退ける。行き場のなくなった手を宙に彷徨わせるアベルをよそに彼は椅子から立ち上がると机の上の銃器を纏め、絞り出すような声で言う。
「大丈夫、探索にはちゃんと出るよ。ちゃんとするから……だから、今は一人にして欲しい……」
言い終わるや否や自身の横をすり抜けて足早に部屋を出ていってしまうセトの背中を、アベルは呆然と見送った。伸ばしかけていた手を下ろし、緩慢な足取りでベッドへ近付くとおざなりに身体を投げ出す。
──間違っていた。すべて間違っていたのだ。ラガードに来た事、セトに連れられて各地を渡り歩いた事……いや、それよりももっと前、兄弟のためと我が身を差し出したその時から自分は既に間違いを犯していた。もっと話をすれば良かった。三人で力を合わせていればきっとこうはならなかった筈なのに、それをしようとしなかった。兄弟のため、家族のためなどと言いながら、結局は自分の考えこそが正しいものだと思い込んでいただけだ。
だから、罰が当たったのだ。自分一人が犠牲になれば何もかも上手くいくなどと思い上がっていた愚か者への天罰が。
「……総ての……正義の、…………」
呟いた言葉は夢幻のように頼りない。アベルはそっと目を伏せる。閉じた視界は闇に覆われ、引きずられるようにして意識は深い眠りに沈んでいく。
セトは自分の方を振り返ってくれなかった。それが、どうしようもなく寂しかった。
◆
何故、世界樹の迷宮へと挑んだのか。その切欠すら今となっては意味をなさない。ただ仲間と共にあの樹の頂上に立ちたい──その意志こそが、長く険しい道を歩く足取りを支える唯一の杖だった。
各々の武器を手に、冒険者達は扉の前に立つ。向こう側で待ちかまえているのは天空の城の主、暁の上帝だ。不思議なことに不安や恐怖といった感情は無かった。ただ、長い冒険譚がその終わりを迎えようとしている事に、楽しい夢が終わってしまうかのような寂寥感が胸を満たしていた。それでも、この先へと往かねばならない。
散っていった者達の遺志も、自分達を信じて待つ大勢の声援も。全てを背に受けて彼らは扉を開く。蒼い蒼い空へと続く路の果て、永劫を謳う天の支配者を打ち砕くために。
剣を取る。恐れる事はない。心にはいつでも、この手を支える勇気の歌が響いている。
0コメント