【SQ3】序

 遥か遠くの水平線の上に白い雲が城郭のように聳え立っている。流れる風を受けて緩やかに形を変えていくそれを、ベロニカは膝を抱えてぼんやりと眺めていた。

 ぽかんと口を開けたまま動かない彼女の頬には濡れた髪の毛が不快な粘性を伴って張りついており、更に言うならば髪どころではなく頭の先から爪先まで全身が濡れていた。ずぶ濡れであった。そのうえ砂浜に腰を下ろしたせいで身体のいたるところに白い砂がこびりついている。しかし不快なそれらを払う気力は今の彼女には、無い。

 彼女の視線の先には、浅瀬にゆらゆらと浮かぶ茶色の物体があった。それはよく目を凝らして見てみると加工された木材の塊、正しくは船舶の側部に使用される緩やかに婉曲した木板の残骸で、更に言うならばつい昨日までベロニカたちが乗っていた船の成れの果てだった。造りは少し古いが丈夫で速いと評判だった船である。横っ腹に大穴を開けられて、ものの見事に崩壊したが。

 遠くでカモメの鳴き声──それと、野太い、しかし覇気の無い男たちの声。積み荷がひとつ上がったようだ。しかし、中身を確かめに行くのも億劫である。せめて金になる物であったらいいのだけれど、と内心独りごち、膝を抱えなおす。

 静かに砂を踏む足音がベロニカの隣までやって来て立ち止まる。彼女と同じく全身を濡らしたカゲチヨは、海水を吸って随分重くなった襟巻きを絞りながらぽつりと呟いた。

「この状況は、大陸の言葉で何と呼ぶ?」

 ベロニカはその問いにしばし考え込み、やがて溜息混じりに答える。

「遭難とか……漂流、かな……」

 カゲチヨは成程と頷く。見知らぬ砂浜の景色と騒ぎを聞きつけてやって来た人々のざわめきを聞きながら、ベロニカはもう一度重い息を吐いた。

 そう、漂流をしたのである。彼女たち『セレスト・ブルー海賊団』は。


 セレスト・ブルー海賊団は厳密には海賊ではない。某国の海軍から正式な認可を受け、国に害を及ぼす船舶への公的な略奪(・・・・・)を許された私掠船と呼ばれる一団である。よって彼らには一般的な「海賊」という語から想像されるような奔放さは無く、その背後には常に公的権力の存在が付き纏う。此度の航海も、雇い主である将校の命を受けてのものであった。

 目的地は海都アーモロード。ここ最近、南海に面する諸都市の間で話題となっている都市だ。というのも、海都への渡航を望む者がここ数ヶ月で劇的に増えているのである。周辺諸国から、はたまた遥か遠い大陸の内地から、多くの旅人が海都へ向かう船を求めてやって来る。しかし大きな問題があった。海都へ向かう安全な航路は未だ見付かっていないのだ。

 百年前の大異変に起因する海流の大幅な変化は海都と周辺港との連絡を長く阻害していた。潮目は安定せず、ごく僅かに残った安全な海域には魔物が周遊する。どれだけ装備を整えて出港しても実際に海都へ辿り着けるかは運次第……海都への航路の確立は全ての港が抱える課題だった。何故なら今は「海都特需」の時期だ。他港に先んじて海都との連絡を繋ぎ、海都へ向かう旅人たちを独占して受け入れられれば、当然港は経済的に潤う。降って湧いた好機を逃したくないのはどこも同じなのである。

 セレスト・ブルー海賊団の駐留する港町にも、その波は当たり前のように訪れていた。そこから先は容易に想像がつくだろう。航路の開拓に人員を割けない海軍の代わりに私掠船たる彼らが駆り出され、その道中で運悪く魔物の襲撃を受け……その結果がこの様だ。

「結果的には辿り着けてるってところが逆に悲しいね……」

 溜息混じりにレイファが言う。海賊団の副船長として日常的に荒くれ者どもの尻を引っ叩いている彼女も、今回ばかりは完全に気力を失っている。彼女がどこか虚ろな視線を向けるのは少し離れた場所に見える街並み……そしてその向こう側に聳える巨大な影だ。天を支える柱とも見紛うほどの大樹──「世界樹」。あの樹こそ海都の象徴であり、長く閉ざされた海域にあった小都市が今になって注目を浴びている最大の理由だった。

 つまり。彼女たちが漂着したのは海都アーモロードだったのである。

「まあ、船と積み荷以外は無事だったのは幸運だけどさ。あのデカいの、急に襲ってくるから……」

「灯台から飛んできたように見えたが」

「でも船のどてっ腹に穴開けてくる鳥なんている? 普通……」

 ベロニカの言葉にレイファとカゲチヨは圧し黙る。三人の間に流れる神妙な空気を取り払うように、軽い足音が勢いよく近付いてくる。振り返れば、奇妙な青いお面を被った半裸の少年が駆け寄ってくるところだった。

「うおー、レイファー」

「ティル。あっちはどうなった?」

「ケガしたヤツ、ビョーインにつれてくって。ウィリーがレイファよんでた」

「ああ、病院は使わせてくれそうなんだ。良かった良かった……」

 ティルに手を引かれてその場を離れるレイファの背中を見送りつつ、ベロニカは改めて辺りを見回した。気付けば砂浜に残っているのは自分たちを含め数人で、他の船員たちは既に街へ向かっているようだった。カゲチヨが視線だけで彼女を促す。ベロニカはひとつ頷き返し、街の方角へ向けて歩き出した。とにもかくにも、今は動かなければ。

 砂浜から街まではさほど離れていない。足の裏に伝わる感触が柔らかな砂のそれから固い石畳のそれへと変わるのにそう時間はかからなかった。靴に張り付いてざらつく砂粒を足下のタイルに擦りつけながらベロニカは辺りを見回す。道行く人々が頭からじっとり濡れた二人連れの様子を気にしている様子は無いが、それはそれでどこか心許ないものがある。

「これからどうするんだろうね」

「分からない」

「だよねえ。あーあ、野宿とかになんなきゃいいけど……」

 少女のぼやきにカゲチヨは何を考えているのかよく分からない無表情で相槌を打つ。いつもと同じ調子を崩さない彼の姿を見ていたらベロニカも少しずつ気持ちが落ち着いてきた。不安なことには変わりないが、とにかく何かしらの行動を起こさなくてはならない。できれば、法には触れない方法で。

 アーモロードの市街地は予想以上の人で賑わっていた。海都を目指す旅人が異様に増加している事は知っての通りだが、それにしても人が多い。通りかかった大通りは交易都市もかくやという活気に満ちている。すれ違った若者たちの姿を横目に見たベロニカが、ふと小首を傾げた。

「剣を持ってる」

「……武装が必要なほど荒れた街には見えないが」

「ね。何なんだろ……」

「お! お前らやっと来たか。こっちだ、こっち」

 聞こえてきた声に振り向いてみれば、そこに立っていたのは眼鏡をかけた髭面の男だ。海賊団の航海士・ウィリーである。

 彼はベロニカとカゲチヨを呼び寄せると背後に建つ一軒家へ入っていく。二人もそれに続いた。年季の入った床板を踏み、廊下を進みながらウィリーが気だるげに言う。

「ここの家がちょうど空いてるってんで、ギリギリ残った金で借りれそうだって話になってんだ。ちと古いが広さは十分だし、寝泊まりする分には問題無いだろ」

「ふーん。空き家にしては綺麗な家だね」

「いや、ついこの間ここで強盗殺人があって住人みんな死んだらしい」

「…………」

 すっと表情を消すベロニカの事は気にも留めず、ウィリーは廊下の突き当りまで進むと建てつけの悪そうな扉を開けて部屋へ入った。中で待っていたのは先んじて到着していたレイファとティルだ。あれ、とウィリーが首を傾げる。

「インディゴはどこ行った」

「さっき出て行ったけど……一緒じゃなかったの?」

「オレは見てねえぞ」

「私たちも見てないよ」

「また勝手にどっか行って……」

 レイファのぼやきにまったくだ、とウィリーとベロニカも肩を竦める。

「……で? これからどうするって?」

「ああ、そうそう。とりあえず一ヶ月、この家は借りられるって事になったんだけど」

「一ヶ月だけか」

「そ。だから、それまでに家賃を貯めるか新しい船を手に入れるかしなきゃいけないわけ」

「こんな流れの海賊を何人も雇ってくれるような働き口があるの?」

「無いなら仕方ない、とはならないからねえ」

「街に造船所の人員募集の張り紙がしてあるのを見たが」

「本当? 後で問い合わせてみるかな」

「何十人も雇ってくれるかなあ」

「よそからの客が増えてるならその分雇用も……と信じたいね」

「っつーか、この人数だぞ? ただ働いたって生活費だけであっぷあっぷじゃねえのか。新しい船なんて夢のまた夢だぞ」

「でもそれ以外にまともな方法があるとは……」

「あるぜ」

 背後から聞こえた声に一同が振り向く。開けっ放しの扉の向こうから部屋を覗き込んでいたのは黒髪の男で、レイファの隣でじっとしていたティルがその姿を見てあーと声を上げる。

「インディゴかえってきた」

「おう、帰ったぜ。金稼ぎの話だろ? 良い話持ってきたから聞けよ」

 インディゴはそう言い、にこりと笑って懐に手を入れる。嫌な予感しかしない。ベロニカとレイファが揃って顔をしかめ、ウィリーが慌てて話を遮ろうとする……が、遅かった。

 インディゴが懐から取り出して掲げたのは一枚の紙だった。しっかりとした作りの羊皮紙に記された文字を、カゲチヨが小さな声で読み上げる。

「……『冒険者ギルド仮登録証』?」

「そう! 俺たちは今日から──「冒険者」だ」

 自信満々に言い切ったインディゴに、はあ、とカゲチヨは気の抜けた声を返す。ウィリーがついに頭を抱え、レイファの盛大な溜息が部屋に響き渡った。何と勝手な真似をしてくれたのか。彼女の拳がぐっと握られるのを見た少年と少女がこっそりと身を寄せ合う。

 副船長の本気の怒りに勝てるものはこの海賊団にはいない。正座を命じられた成人男性がいい歳こいてごね始め、あえなく敗北するまであと数分である。


   ◆


 港には度々、旅人たちを乗せた船がやって来る。アーモロード周辺の海域は潮流が複雑に入り組み、強大な魔物がいたる所に棲息する恐ろしい場所であるが、こうして未開の航路を乗り越えてやって来る船も多くはないながらも存在している。それらは大抵が手練れの操舵手や航海士を乗せた経験豊富な船団で、それでもなお海都へ無事に到着できるかどうかはその日の運によるというのだから恐ろしい。大きすぎるリスクを抱えてまで彼らがアーモロードを目指すのは当然、「海都特需」のためである。

 大陸の沿岸部に位置する某国からやって来たその交易船も、数十日に及ぶ危険な航海を乗り越えてようやくアーモロードへ辿り着いたところだった。長旅を終えた旅人たちは安堵したような表情を浮かべ、それぞれの荷物を抱えて次々と船を下りていく。

 微かな軋みを立てる甲板を通り過ぎていく乗客たちを見送りながら、一人の船員が船倉から積み荷を運び出していた。重い木箱を看板に下ろし、一息つく──と、小さな悲鳴と共に何かがぶつかる感覚に、彼は背後を振り返った。そこにいたのは小柄な──ちょうど彼の肩ほどの背丈の──、フードを目深に被った人物だ。あ、と思う暇もなく、厚い布の下に僅かに覗いた唇が開く。

「すまない。大事は無いか」

 静かながらもはっきりとしたその声は若い女性らしきそれである。船員は一瞬呆気にとられたが、すぐに気を取り直して応えた。

「ああ、いえ。こっちこそすいませんね、不注意で……。怪我とかしてないです?」

「問題ない。気遣い感謝する」

 それと、と彼女……と思わしきフードの人物は懐に手を入れる。数秒の間を置いてするりと伸びてきたのは白い長手袋に包まれた華奢な腕で、その指先で光るのは数枚の金貨だ。

「心ばかりの額だが、これを。今宵の酒宴の足しにでもするといい」

「は、はあ」

「世話になったな」

 と、彼女が顔を上げた瞬間に見えたフードの中身に、船員は思わず目を瞬かせる。濃い陰に覆われた彼女の顔は、見目麗しい少女のものだ。赤い瞳を銀の睫毛が縁取っている。薄い唇は緩やかな弧を描き、薄い笑みを浮かべたその容貌はまるで絵画の世界から抜け出てきたかのように浮世離れしていた。

 表情が見えたのも一瞬の事だった。彼女はすぐに顔を伏せ、今度こそ連れと共に船を下りていく。残された船員はしばし呆然とその背中を見つめ、されるがままに受け取った金貨数枚を見つめ、やがて他の船員にどやされるまでその場に佇み続けていた。


「姫様。ああいった事はお控えください」

 たしなめるような声に、彼女は小さな吐息を漏らした。もう一度懐に手を入れて、忍ばせていた財布を探る。中身が随分と寂しくなってしまった。けれど、もう良いだろう。どうせ民草に施しを与える事などこれで最後だ。

 振り返り、声の主を仰ぎ見る。体格のいい長身の男が困ったような顔でこちらを見下ろしていた。

「許せ、ライディーン。それから……姫とは呼ぶな」

「……申し訳ございません」

「構わん。お前の心配も尤もだ……宿はどちらの方角にあるか分かったか?」

「シナトベを先に街へ向かわせました。すぐに戻ってくると思います!」

 もう一人、傍に控えていた少女が意気揚々と告げる。彼女はそうか、と呟き、港の向こうに見えるアーモロードの街並みに目をやった。

 仕事を終えた船乗りたちだろうか、大通りに面した酒場からは昼間だというのに賑やかな声が響いてくる。人々の纏う衣装はどれも見覚えの無い異国のそれで、漏れ聞こえてくる会話には時折まったく異なる訛りが混じる。ひっくり返した道具箱のような街だ。そしてその混沌でもって、海都はこの地に降り立ったものすべてを迎え入れる。

 人種、身分、経歴、思想や理想──あらゆる事柄がこの街では覆い隠される。かの名高い世界樹の迷宮に挑む者……「冒険者」である限り。

「姫──ルル・ベル様! 今夜の宿を確保いたしました。どうぞこちらへ」

「ああ、大儀であった」

 通りの向こうから駆けてきた女は紛れもなく連れのひとりだ。呼びかけに応え、彼女はゆっくりと歩き出す。傍らの男と少女もそれに追随する……と、その前に少女が足を止めて港の方を振り返った。盛大に顔をしかめ、声を上げる。

「ちょっと、何してるの! 置いてくわよ!!」

「……ああ、はいはい、分かってるよ」

 少女が呼んだのは少し離れた場所でじっと海の向こうを眺めていた痩躯の男だ。気だるげに返答しながら振り返ってこちらへ歩いてくる彼を、少女はきっと睨みつけた。剣呑な視線だけを残して先を行く三人の元へ駆けていく彼女の背中を、男は肩を竦めて追いかける。

 顔を隠した少女を先頭に五人の旅人が大通りへと足を踏み出し、やがてその姿は人混みに紛れて消えていく。彼女らを気に留める者も、その素性を知る者も、この街にはまだいない。

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