【SQ3】14 もう、昔の話

 随分と昔、シノビの技に憧れていた事がある。

 というのも、いつも傍らにいたのが軽々と木に登り、音もなく野を駆るシノビの者であったがためで、当時ようやくまともに刀を振れるようになった時分の己にはそういった芸当がたいそう羨ましく思えたのだ。

 当然、世間知らずの子供に、彼らがどれだけ過酷な鍛錬を乗り越えてその技を身につけたかなど分かる筈もなく。ある時、己にもその身のこなしを教えてほしいと駄々を捏ねた。あいつは困った顔をして俺の頼みを断った。しかし当時の俺は恥も外聞も無い童であったものだから何度も何度も頼み込み、ようやく折れたあいつは俺にひとつの「シノビの知恵」を教えた。

「俺たちは仲間に文を送る時、身内にしか分からない符号を使う」

「どんな符号だ?」

「それは言えない。里の者以外には知られてはならないものだ」

 俺は拗ねた。盛大に拗ねた。あいつが俺に隠し事をしているのが気に食わなかったのだ。今思い出すと恥ずかしくなるほど稚拙極まりない俺の苛立ちを、あいつは困り顔で受け止めた。何を考えていたのだろう。俺に呆れていただろうか。今となってはもう分からないし、知ったところで何の意味も無いが。

 しばし考え、では、とあいつは言った。

「では俺とお前だけの符号を作ろう。二人だけしか知らぬものなら、何も困る事はない」

「良いのか!?」

 伏せていた畳から顔を上げた俺に、あいつはひとつ頷いた。あの時見たあいつの表情を今もまだ覚えている。少し呆れたような、しかし穏やかな微笑みだった。そういう顔を見るたびに、俺は心から思ったものだ。こいつが一緒にいてくれて良かった。仲良くなれて良かった……と。

 そうして二人、頭を突き合わせて文机に向かった春の風の匂いが、今となってはひどく懐かしい。もう戻れない、哀しくなるほどに昔の話だ。


   ◆


 深王からの依頼の内容は不明瞭ではっきりとしなかった。オランピアの話によれば第四層を進んだ先……地下十五階を目指せばいいらしいが、果たしてそこで何をするのか、『カーテンコール』は未だ知らされていない。何でも、渡された「イブン・ガジの粉」を使って「碑文」を読めとの事だが。

「指示がはっきりしないのよ。不親切だわ、アイツ……」

 不機嫌そうにぼやくパーニャに、ルル・ベルは思わず苦笑した。ベッドの上に並べた装備を順に身につけながら彼女を振り返り、応える。

「まあ、仕方ない。話を聞く限り、我々が行おうとしているのは何かの儀式に近いもののようだ。内容を詳しく教えられない事情があるのやもしれぬ」

「それにしたって……」

「説明不足はともかくとして、気になる事はありますよね。苦い真実を知る……とか」

 急に廊下から現れて口を挟んできたアルフレッドにパーニャはむっと眉間にシワを寄せる。しかし文句を言わなかったところを見るに、彼女もアルフレッドの言葉そのものには同意らしい。深王が自分たちに知らせたがっている事実……それが何なのか、今の時点では見当もつかない。しかしオランピアの言葉を信じるならば、それは決して喜ばしい事ではないのだろう。自分たちにとっても、深都にとっても。

「……とはいえ、隠されたままの真実などに価値はあるまい。まずはそれが何なのかを知らねば」

「まあ、そうですね。今日中に十五階に辿り着けると良いんですが」

 そう言ってアルフレッドは肩を竦めた。同時に彼の背後からシナトベが顔を出し、探索に向かう準備が終了した事を告げる。荷物を抱えて部屋を出る。先に行ったシナトベの後を追って廊下の奥へ向かう……その前に、ルル・ベルは自身の客室の隣、男性陣が使用している部屋を振り返った。閉ざされたドアの向こう側からは、何の物音もしない。

「タマキなら相変わらずですよ。多少は元気になったと思ったんですが、まだ探索には出たくないようで」

 私も元気って訳じゃないんですけどねえ……と呟くアルフレッドの脇腹に、パーニャが何の前触れもなく肘をめり込ませた。鈍い呻きを漏らしてしゃがみ込む星術師を横目に、彼女はルル・ベルの元へ歩み寄ってくる。

「行きましょう、ルル・ベル様。たぶん放っておいても大丈夫ですよ」

「うむ……」

 ドア越しの空間にいるであろう男を気にかけつつも、促されるまま階下へと向かう。タマキの事は心配だが、中途半端に首を突っ込んでもお互いに傷を残すだけの結果に終わるだろう。何故なら自分たちは、彼とあのシノビの関係すら知らないのだ。

 先に一階へ下りていたライディーンとシナトベと合流して宿を出る。ふと見上げれば、頭上から射す光が僅かに赤みを帯びているのが分かった。どうやら地上では夕暮れ時であるようだ。明るさの変化が少ないせいか、深都に長くいると時間の感覚が鈍っていけない。

「海底神殿の中も、昼でも夜でもそう変わらないものね」

「確かに。地上なら夜は避けるけど……あれ?」

 パーニャが急に言葉を切る。その視線を追ってみると、通りの向こうに見覚えのある人影が佇んでいるのが見えた。

「……オランピア?」

 思わず口に出せば、オランピアは顔を上げてゆっくりとこちらへ向かってくる。先程陰口を叩いていた手前顔を合わせづらいのか、パーニャが顔をしかめて一歩退いた。その様子を横目にルル・ベルは首を傾げる。はて、彼女がわざわざここまでやって来るとは、ミッション関係で何かあったのだろうか。少なくとも注意を受けるような事はしていない筈だが。

 一行の思案をよそに、オランピアは『カーテンコール』の目の前で足を止めるとおもむろに口を開く。

「……あなたたち、受け取って欲しい。それが、きっと……深王さまのためにもなるはずだから……」

 そう言いながら彼女が差し出したのは、掌に収まる大きさの石だった。……否、ただの石にしてはただならぬ雰囲気を纏っているように感じる。受け取ったルル・ベルがこれは何なのかと問う前に、オランピアが淡々と続ける。

「それは星海の欠片。かつて世界樹から零れ落ちた星の結晶」

 聞き覚えのない単語だ。怪訝な表情を浮かべる『カーテンコール』の面々を見回し、ひとつ呼吸を置いてオランピアは語り始める。

「あの御方はかつて白亜の供物を探しておられた。大切な人との約束だから手に入れなければ……と」

「…………」

「白亜の供物は星の結晶からなるもの。深王さまはフカビトとの戦いの合間それを集めておられた」

 アンドロの橙色の目が伏せられる。その瞳の奥に浮かぶ感情は寂寥のようにも諦観のようにも、はたまた僅かな歓喜のようにも見えた。たとえるならば、枯れかけた木の枝の先に、弱々しく芽吹く新芽を見つけた時のような。

 けれど、と。静かな声で彼女は言う。

「それは過去の話。深王さまは全てを忘れ戦いに没頭されている。だから、それはもういらない……。けれど、本当はきっと……深王さまは、それを渡したかった」

 だから持っていって。私からの話はそれだけ……。

 無機質な視線がルル・ベルの掌の内に注がれる。星海の欠片、といったか。一見ただの小石にしか見えないそれを握ってみると、不思議と淡い温もりを感じた。オランピアが何の話をしているのか、どういった意図でその話を自分たちに聞かせたのか。それは分からないが……恐らく、これは大事なものだった・・・のだろう。深王にとって、あるいはオランピアにとっても。

 ルル・ベルは顔を上げ、オランピアを見つめて応える。

「承知した。これは、妾たちが預かっておこう」

「……ありがとう」

 小さく呟き、オランピアはもう用は無いというように踵を返して足早に去っていく。あっという間に通りの向こうに消えていく背中を見送りつつ、ルル・ベルはもう一度手の中の石を見る。さて、預かったはいいが、これはいったい何なのだろう。

「……変なものじゃないわよね?」

「星の結晶って言ってましたね。世界樹由来の物質なら、エーテルを多く含んでるのかも……」

「何か分かるのか?」

「いえ、憶測です」

 アルフレッドが肩を竦める。ルル・ベルは首を傾げつつ星海の欠片を荷物にしまった。まあ、恐らく害があるものではないだろう。……これを渡してきたオランピアを手放しで信じられるかというと、少し怪しいが。

 気を取り直し、樹海入口へと向かう。今日の目標は十四階の踏破だ。そのためには開閉式の檻の罠を抜け、襲ってくるフカビトたちを退けて進んでいかねばならない。地図とにらめっこしながら探索のルートを見直している間に、一行の頭から不思議な石の事はすっかり抜け落ちてしまっていた。


   ◆


「クジュラから預かりものだあ?」

 振り返ったインディゴが素っ頓狂な声で問い返した。ベロニカはうんと頷いて胸に抱えていたものを差し出す。

「空の玉碗、っていうんだって」

「碗……? 何かの装飾品かと思ったんだが、碗ねえ……」

 インディゴは受け取った品を怪訝な表情で眺めた。黄金色の器のようなそれは、碗と言うには妙に物々しい佇まいをしているように思える。百歩譲って本当に碗だったとして、何故クジュラがこんなものを渡してくるのか。

 首を傾げるインディゴに、ベロニカは肩を竦めて言う。

「ある方からの依頼……とか言ってたよ」

「その物言いだと元老院の上の人間か? ばあさん……は、お使いを頼むようなタイプじゃねえか。となると姫君くらいしか思いつかねえが」

「あと何か昔話もしてたけど、聞きたい?」

「じゃあ聞くわ、ちょうど地図の整理終わったし……ていうか頼まれてたモン買ってきたか?」

「買ってきたよ。カゲチヨが下に持っていってる」

「ふーん。ならいいけど」

 インディゴは気の抜けた返事をして握っていたペンを机に放った。ベロニカはベッドに飛び乗って膝を抱え、クジュラから聞いた話を彼に語り始める。古い時代の、とある兄妹の物語を。


 レイファに頼まれて買ってきた日用品を一階の倉庫に運び終え、手持ち無沙汰になったカゲチヨは屋敷の裏庭に出て洗濯物を取り込んでいた。海賊団は男ばかりの大所帯である。当然洗濯物の量はかなりのものだし、汗やら潮水やらの染み込んだ衣類を洗って干して取り込むには相応の手間がかかる。マキナがやって来てからはその手間も随分と減ったが、何でも彼女に頼りきりという訳にもいくまい。

 取り込んだ衣類を畳み、一緒くたにして籠に放り込んでいく。途中で選り分けたのはレイファとベロニカの服だ。ガサツな野郎どもは服を取り違えたところで一切気にしないが、女性陣はそうはいかないのである。

 作業にさほど時間はかからなかった。畳み終えた洗濯物が詰まった籠を抱えて屋内に入ったカゲチヨを迎えたのは、いつの間にか職場から帰ってきていたらしい船員たちだった。まだ陽も落ちきっていないというのに酒盛りを始めているらしい彼らは、戻ってきたカゲチヨを見ると陽気に手を挙げる。

「よ~お疲れ! ちょっとその中に拭くもんあるか? 酒こぼした」

「これでいいか」

「おお、助かった!」

「……あ、そうだ。カゲチヨに渡すもんあったんだわ」

 つまみの乾燥豆をつまんでいた船員のひとりが、そう言って懐に手を突っ込む。彼が取り出したのは折り畳まれた紙切れだった。少し湿ってシワのついたそれを、カゲチヨは促されるまま受け取った。丁重な手つきで紙を広げて中身を確認する彼に、酒をあおりながら船員が告げる。

「なんか帰ってくる時に知らねえヤツに声かけられたんだ。お前に渡せってよ」

「お? もしかして女か!?」

「いや、男だった。帽子みたいなもん被ってたから顔見えなかったんだけどな」

「ふーん、知り合いかよ?」

「……ああ、そうだ」

 淡々と答え、籠を抱え直してカゲチヨはその場を立ち去っていく。船員たちはしばらくやれ仕事仲間だやれ昔の男だと好き勝手言っていたが、すぐに興味が失せたらしい。別の話題で盛り上がり始める野郎どもの騒ぎ声を背中越しに聞きながら、カゲチヨは掌の内の紙切れを強く握り込んだ。


 視界いっぱいに広がる海の向こうに、赤い夕陽がその半身だけを覗かせている。

 海水浴の季節を外れた郊外の砂浜は閑散とした空気ばかりが漂っている。人のいない浜辺の夕景は静かな美しさを湛えているが、深みを増す赤い光の中に身を浸していると何か良くない予感が胸中に滲んでくるようにも思える。踏みしめた砂が軋むような音を立てた。規則的な波音と自らの微かな足音を聞きながら、カゲチヨはひとり砂浜を歩いていく。

 彼がこの砂浜を訪れるのは、初めてアーモロードに辿り着いた日……セレスト・ブルー海賊団の船が難破し、漂着したあの時以来だ。本当ならば今日この場所に来るつもりなど無かったし、今日どころかこの先二度と来る予定は無かっただろう。しかし彼はここに来た。仲間の誰にも告げず、ただひとりで。

 延々と続く砂浜の中にぽつりと佇んでいる人影がある。男だ。男がひとり、夕景に溶け込むようにじっと立っている。俯きがちに波打ち際を見つめるその姿を見て、カゲチヨはすっと目を細めた。さくさくと砂を踏む速度を緩めないまま彼は男の元へ歩いていく。

 男が顔を上げたのは、カゲチヨが本気で斬りかかれば一撃でその首を落とせるような、そんな距離まで近付いた頃の事だった。振り向いたその顔に浮かぶ表情を見て、カゲチヨの眉間に微かなシワが刻まれる。

「チヨ……」

 男が苦々しく呟くように彼を呼んだ。カゲチヨは応える代わりに腰のポーチから萎びた紙切れを取り出した。指先で折り目をなぞりながら、静かに口を開く。

「こんなものを、よく覚えていたものだ」

 彼の唇から漏れた言葉はこの街や大陸で広く用いられているものではなく、彼ら・・の故郷のものだ。男は一度目を伏せ、同じ言葉で溜息混じりに応える。

「お前こそ。……もうすっかり忘れてしまったものだと」

 カゲチヨは黙り込み、折り畳まれた紙の内側に覗く文字と記号の羅列に目を落とす。現存するどの言語とも合致しないそれは、かつて彼らが二人で考えた符号だった。世界で二人だけしか知らない、秘密の暗号。わざわざ伝える必要もない事ばかり書き留めた手紙を送り合うような、そんな児戯の中でしか使われなかったそれを紙切れごと手の内で握り、改めて目の前の彼に向き直る。

「こんな懐かしいものを使ってまで呼び出して、何の用だ」

「…………」

「俺たちはもう他人だと──そう言ったのはお前だろう、タマキ」

 タマキはその言葉を受けて何か言おうとして、それからぐっと表情を歪めて唇を噛んだ。

 砂浜に二つ、濃い影が伸びている。夕陽に照らされた二人の姿は濃い赤に染まり、前髪が落とした影も相まって互いの顔はよく見えない。しばしどちらも黙り込んだまま、波の音ばかりが響く時間が流れる。

 鉛のように重い唇を先に開いたのはタマキだった。ひとつ、ふたつと呼吸を置き、喉の奥から振り絞るような声で彼は言う。

「第四層の探索を……諦めてほしい」

「…………」

「いや、いや……違う。勝手な事を言っているのは分かっているし、迷宮から去れと、言いたいのではなくて……俺はただ、お前と争いたくないだけなんだ……」

 苦悶の滲む声がだんだんと小さくなっていくのを、カゲチヨは黙って聞いている。タマキの言葉には懇願の響きが含まれていた。それに気付かないカゲチヨではなかったが、それでも敢えて彼は至って冷静に、淡々と応える。

「今のセレスト・ブルー海賊団に、ミッションを破棄して撤退するという選択肢は無い」

「だが彼らは、」

「そうでなくとも、お前の頼みは聞けない。俺はもうお前のシノビではない」

 静かな、それでいて有無を言わせない口調で告げれば、タマキは深く呼吸して俯いた。何も言い返せなくなった時にこうして黙り込むのは彼の昔からの癖だ。御家を継ぐのだからそのような調子ではいけないと幾度となく言われてきたというのに、結局今に至るまで直らなかった。懐かしい記憶だ。あの頃から何も変わっていないのに、何もかもが変わってしまった。

 この男を、かつて主と呼んだ事がある。

 だがそれは、もう、昔の話だ。

「……、違う……違うんだ、チヨ」

 俯いたまま、震える声でタマキは言う。

「お前を従わせたい訳では……だが俺はお前と戦うなどとても、」

「それならばお前がギルドを抜ければいい」

「それは……そうだ。本当にそうだ……だが、俺にも返すべき恩がある」

「だからといって俺にだけ要求を突きつける、それを傲慢と言わずして何と言う」

 言葉を紡ぐたび、夕陽に照らされたタマキの頬が血の気を失っていく。見るからに平静を失いつつある彼の姿を見るカゲチヨもまた、胸の内に荒波が立つような感覚にじっと耐えていた。ようやく忘れられたと思っていた記憶ばかりが脳裏に過っては頭の中を搔き乱す。

 シノビにこのような感情の揺らぎは不要だ。要らないものは全て捨て去るべきだ──そうは分かっていても捨てきれなかった過去の残滓は澱おりのように積もり積もって、その結果がこのざまだ。それを悪しきものだ、要らないものだと断じてしまえたならば随分と楽だったのだろうが、もはやそれすら叶わない。

 ひとつ息を吐き出し、カゲチヨは渦巻く思考の海から慎重に言葉を取り出していく。半ば自分に言い聞かせるようにしながら、彼はぽつりぽつりと呟いた。

「三年前にお前とアイエイアの港で別れた後も、俺は結局汚れ仕事ばかりして生きてきた。二束三文と引き換えに知らない人間を殺し、情報を売り……しくじって殺される手前で、海賊団に拾われた。あの場所は居心地が良い。為すべき事が与えられ、中途半端に放り出される事もない」

「────」

「あの時お前は言ったな、「これからは自由だ」と。だがその自由が俺にとってどれだけ苦痛だったか、お前には分からないだろう。……俺もお前も、何も変わっていないな、タマキ。俺は使われるしか能の無い木偶の坊で──お前は善良なようでいて、いつも誰かに負担を強いている」

 応える声は無い。

 海の向こうから射し込む夕日は徐々にその色を失い、辺りは仄暗い夕闇に包まれつつある。二人は向かい合ったまま、しかしお互いに視線を逸らしてその場に佇み続けている。波の音だけが鼓膜を揺らす。

 カゲチヨは少し後悔した。思っていた事をそのまま言ったのは確かだが、そうしたからといって胸のつかえが取れる訳でもなく、ただただ虚しいばかりだ。それにタマキは、勝手なだけの人間では断じてない。優しい男だ。優しいが故に、抗えない時流の波に呑まれて深く傷付いた。同時にその優しさに救われた者も数多くいる。自分もそのひとりで、だがどうしても許せない。けれど。それでも。しかし。

 考えれば考えるほど、足下がおぼつかなくなる感覚がする。もう分からないのだ。彼を恨んでいるのか慕っているのか──憎みたいのか許したいのか、それすら、何も。だから考えるのを止めていたのに、どうして今になって目の前に現れるのだろう。

「お前は、」

 やがて口を開いたのはタマキだった。その声色は先程よりも随分と落ち着いている。静かな声に諦めと寂寥と、形容しがたい複雑な何かを滲ませながら、彼は言う。

「俺には分からない、と……そう言うが。お前にもきっと、俺の気持ちは分からないんだろうな……」

 顔を上げたカゲチヨの目に、ぎこちなく微笑んだタマキの顔が映る。宵闇が東から這い寄り始めた今、その表情は夕陽が照っていた時よりもはっきりと見えた。目元を僅かに細める彼の、結い上げた髪が潮風に揺れる。乱れた前髪もそのままにタマキは強張った口の端を少しだけ吊り上げた。

「すまなかった、チヨ。ここで俺が言った事はすべて忘れてほしい。……だが、お前と争いたくないというのは本当だ」

「……俺もそう思っている」

「そうか、……そうか」

 そこでタマキはひとつ呼吸を置く。伏せた瞼の上に薄墨色の陰が乗っていた。長らく同じ場所に置いていた靴底を僅かにずらし、そのまま彼は一歩後ずさる。

「俺はもう行く。他の皆が探索から帰って来る前に、深都に戻らないと」

「市街地は通るな。夕食を食べに出た連中と鉢合わせるかもしれない」

「分かった」

 頷いてからも彼はしばしそのまま立ち尽くしていた。数秒置いた後でようやく踵を返し、タマキはその場から立ち去っていく。

 砂浜に靴跡を残しながらゆっくりと遠ざかる後ろ姿をカゲチヨはじっと眺めた。やがてその姿も見えなくなって、本格的な夜が海岸を覆い尽くしてからも彼はその場に佇み続ける。規則的な波音の冷たい響きが黒い海から足首に手を伸ばしてくる。


   ◆


 予定通り下階に続く階段を発見し、十四階の地図を完成させて戻ってきた『カーテンコール』を迎えたのは、久々に部屋を出てきたタマキだった。玄関ロビーに置かれたソファーに腰かけ、宿屋の娘から貰ったらしいパンとコーヒーを口に運んでいた彼は、帰ってきた一行の姿を認めると神妙に頭を下げる。

「迷惑をかけて申し訳ない」

「いや、構わぬが……そなたはもう良いのか」

「ああ……いつまでもうだうだと思い悩んでいる訳にもいかないからな」

 そう言って微笑むタマキの顔にはまだ少し疲れが残っているように見えるが、それ以外はおおむね元気な時と変わらない様子だ。ルル・ベルが一歩前に出て彼に向き直る。

「では、明日の探索に加わってもらえるか? アルフレッドがそろそろ休みたいと言うのでな」

「それ言う必要あります?」

「了解した。どんな魔物が出てくるかだけ教えてくれ」

 不服げな様子のアルフレッドに苦笑しつつソファーから立ち上がるタマキを、ふとライディーンが呼び止める。目を瞬かせながら振り返れば、騎士は形容しがたい複雑な表情を浮かべて訊ねた。

「本当に大丈夫か?」

 タマキは一度、言葉を探すように視線を彷徨わせた。一瞬の沈黙を置き、誤魔化すように微笑んで彼は答える。

「ああ、心配ない。お前たちは何も気にしないでくれ」

「……そうか」

 ライディーンが何か言いたげにしながらも頷いて引き下がるのを見て、タマキは困ったように笑い、それきり何も言わなかった。一時不穏な空気が流れるが、気を取り直して探索について話し出すうちにその空気も次第に薄れていく。誰もタマキを深く追及しない。それが良い事なのか悪い事なのか、その場にいる誰にも分らなかったが。

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