【SQ3】17 同じ空を見るひと

──マキナ、自由にしなさい。

 病床の老人はそう言った。呼びかけられたアンドロは枕元に佇み、彼の顔をじっと見つめている。

 青い瞳の奥で微かな駆動音が鳴る。簡易的なサーチをかけただけでも、老人の体がそう長くは持たない程に衰弱している事が分かった。アンドロは僅かに首を傾げ、視覚センサーから得られた情報を解析して適切な医療的処置を検索する。まずは桶に新しい水を汲んでこようとしたアンドロの鋼鉄の指先を、唐突に老人の手が掴んだ。

 指先から伝わる感触は思いのほか強かった。アンドロはぴたりと足を止めて振り返る。自身を見下ろす無機質の瞳に、老人はもう一度、諭すような調子で告げる。

 ──後はすべて、お前の自由にしなさい。

 アンドロはしばし考え込む様子を見せ、それから老人に言葉を返した。お言葉ですが、自由にするというとは、どういった行動を指すのでしょうか。老人はかさついた唇を歪め、喉の奥で苦しげな音を鳴らした。アンドロは重ねて訊ねる。マキナは可笑しな事を言いましたか。

 ──おかしくなどないとも。ただ、お前の質問に答える事はとても難しい。

 ──私はな、マキナ。お前に、誰のものでもない「お前」であってほしいだけなのだよ。

 老人の言葉はアンドロの理解の範疇の外にあった。答える言葉を持たず、ただ立ち尽くすアンドロに老人は苦笑を浮かべた。骨と皮ばかりの手が、硬く冷たい指を撫でる。

 ──いつかお前が、お前自身の意志で何かを選べるように……そのためにお前を「そのように」造った。

 ──青空の下、潮騒を聞きながら友と語らう時間の、素晴らしさが……お前にも分かる日が、きっと来る。私がその日を迎える事は、叶わないが……。

 寂しげな言葉と共に、老人の手がアンドロの指からそっと離れていく。以前より随分と冷たい、それでも自分の鋼の四肢よりはずっと温もりのあるその手を、アンドロは「好ましい」と認識していた。好ましいものが離れていくのは、「悲しい」。けれどその感情を表現する方法を、アンドロは知らなかったのである。

 知らないが故に黙り込むしかできないアンドロを、老人はしばし見上げていたが、ふと思い出したように口を開く。

 ──ああ、そうだ、いつか海都に行く事があったら、私の父祖が眠る墓に、花を供えてくれないか。それで最後だ。私がお前に与える命は、それで最後……。

 そう呟いて、老人は静かに目を閉じる。どうやらしばし休息を取るようだ。呼吸を整えて入眠しようとする老人の邪魔にならないようにと、アンドロは枕元を照らしていたランプの光を消す。灯りを落としてしまえば部屋は薄ぼんやりとした暗闇に包まれた。視覚センサーを暗視モードに切り替え、ベッドの上の老人を見下ろす。眠る彼の表情は穏やかだ。

 ……彼女は知っている。これは「夢」だ。スリーブモード中に行われる記憶装置のデータ整理に伴い、過去の記憶メモリがさながら走馬灯のごとく再生されているのだ。今までにも何千回、何万回と再生した筈であるにも関わらず、この記憶を思い起こすたび、彼女の胸には暖かな痛みが生まれる。

 暗闇の中で老人を見つめるかつての自分が次に口にする言葉を、彼女はもう一度繰り返す。当時はただの確認作業でしかなかった一言を、今度こそ、万感の想いを込めて。

「はい、マスター。マキナはきっと、アナタの望みを叶えます」

 そう願うのは、ただ命じられたからではなく。紛れもない、彼女自身の意志だ。


   ◆


 視界を埋め尽くしていた紫電が搔き消える。力尽きて倒れた雷獣が動かなくなった事を確認し、息も絶え絶えの『セレスト・ブルー』はようやく武器を下ろした。

 深都より先に転移装置を見つけ出し制圧するという元老院の目論見は失敗に終わった。『セレスト・ブルー』が第四層の最奥に辿りついた時、そこには既に深王とオランピアがいたのである。転移装置を前にして深王は言った。これ以上海都の危機を放置するのであれば、自分がこの手でその災いを狩ろう、と。

 そのままどこかへと転移していった深王を、一行は見送る事しかできなかった。その場に残ったオランピアが殺気と共に迫ってきたためである。オランピアの相手は加勢に来たクジュラが請け負ってくれたが、代わりに『セレスト・ブルー』は彼女によって喚び出された魔物と戦う羽目になった。戦いは熾烈を極めた。何度も倒れそうになりながら、それでも何とか応戦を続け……そして今、ようやく彼らは雷の獣に打ち勝ったのだ。

 安堵の息を吐く一行だったが、はっと我に返ると弾かれるように背後を振り返る。オランピアとクジュラの戦いはまだ終わっていなかった。互いに手傷を負いながらも一歩も譲らず睨み合っていたふたりだったが、戦いを終えた『セレスト・ブルー』に気付くとその表情を僅かに変化させた。

 腕から突き出した刃を剥き出しにしたまま、オランピアは小さく口を開く。

「……ここまでの強さとは計算外。そして雷獣すら討たれるとは……」

 仕方ありません──と。オランピアがそう呟いた瞬間、辺りが眩い光に包まれた。視界が白く染まる。閃光に灼かれた目が元の調子を取り戻す頃には、アンドロの姿はその場から消え失せていた。

「……さすがに不利を悟ったようだな。逃げるが勝ちともいうが……」

 端正な顔を歪めたクジュラがそう言いながらゆっくりと歩み寄ってくる。見た目以上に深手を負っているらしい彼にレイファが治療を施そうするが、力無く掲げられた掌に阻まれた。

「俺の事は良い。それより早く元老院へ……深王が転移装置を使った事を、伝えなければ」

 クジュラの言葉には隠し切れない焦りが滲んでいた。彼らしくないその態度を怪訝に思ったインディゴが、自身の顔にこびりついた血を拭いながら問う。

「あの転移装置は王家の森に繋がってるんだったか。森には何がある?」

「姫様がおられる」

 咄嗟に返せる言葉が見つからなかった。顔をしかめて黙り込むインディゴに、クジュラはもう一度、はっきりとした口調で告げる。

「海都に戻れ『セレスト・ブルー』。元老院に状況を伝えろ……もう、うかうかしていられる暇は無い」


   ◆


 元老院と深都とを取り巻く切羽詰まった事情などお構いなしに、今日もアーモロードの街にはいつもと変わらない平穏な時間が流れている。大通りの喧騒、荷車を曳いたロバが坂道を行く音、どこかの酒場から聞こえてくる盛大な怒鳴り声。何とも穏やかなものだ。こんな空気に包まれていると、白亜の森に迫る脅威も、深海に潜む怪物も、全てが嘘のように思えてくる。

「……何やってんだ? そんなとこで」

 玄関先に座り込んでぼんやりと通りを眺めていたベロニカに、屋内から出てきたウィリーが声をかけてくる。ベロニカはそのままの姿勢で首を反らし、背後に立つ彼を見た。さかさまの視界に映る髭面に怪訝な表情が浮かんでいるのを確かめ、なんにもしてな~い。と少女は間延びした声で答える。

「そっちこそ何してるの。仕事は?」

「今日は昼で上がり。今日は祝日みたいなもんで、色んな作業場やら港やらが午後には閉まっちまうんだってよ」

「ふーん。じゃあ皆もうすぐ帰ってくるんだ」

「そ。今夜は宴会だぞ。今のうちに買い出し行くからお前も手伝いな」

「はーい」

 ベロニカはひとつ伸びをして立ち上がると、先に通りへ歩き出したウィリーの後を追う。人混みを掻き分けて買い出しへ向かっていく二人の姿を部屋の中から窓越しに見つめていたレイファは、ふうと息を吐いて腰に手を当てた。

「あたしたちも準備しようか。夕飯の仕込みと……その前にまず食堂の片付けか。ティル、手伝ってくれる?」

「テツダイやるぞー!」

 レイファの隣で窓の外を眺めていたティルが両の拳を掲げて溌剌と応える。ふんふんと鼻息を荒くして気合十分な彼であったが、ふと何かに気付くと不思議そうに辺りを見回した。

「インディゴいないのか?」

「んー? インディゴはね、元老院に報告に行ってる。もうしばらく帰ってこないかもね」

「……サボリだ!」

「あはは、そう言ってやらないの。あいつにも色々あるんだから……あ、カゲチヨ!」

 レイファの声に、部屋の向こう側の廊下を歩いていたカゲチヨが足を止めて振り向く。安酒の瓶を抱えて買い出しから戻ってきたばかりの彼に、レイファは少々申し訳なさげにしつつも迷いなく次の指示を出す。

「倉庫にしまってある食器、あるだけ取ってきて。入ってすぐの棚に置いてある筈だから」

「分かった」

 素直に頷き、抱えていた酒瓶を調理場に置いてカゲチヨは倉庫へと向かっていく。廊下の先へ消えていく彼の背中を見送り、レイファは袖をまくって気合を入れ直すと部屋の隅に置いてあった掃除道具に手をかけた。どうせ掃除したところで野郎どもが飲んで食って騒げば元通りどころかより汚れる事になるのだが、だからといって手を抜くのは海賊団の衣食住を管理する身としてのプライドが許さないのである。

 本当はこんな事をしている場合ではないのだ。廊下をのしのし歩きながら、カゲチヨは考える。

 元老院から自分たちに課せられた任務は、深王の侵攻を阻止してグートルーネ姫を守る事だ。いくら白亜の森が神秘の力に守られた領域だとはいえ、今こうしている間にも深王とオランピアは姫君のいる最奥部へ着々と足を進めている事だろう。そして『カーテンコール』の言葉通りグートルーネがフカビト憑きの姫君であるというのなら、深王は決して彼女に対して容赦はしない筈だ。残された猶予は少ない。

 だが、待ってほしい。自分たちは元老院に与する冒険者ではあるが、姫君に忠誠を捧げた騎士ではない。一度ミッションを受領した以上は最後まで付き合うつもりではあるが、それだけに全てを捧げる事はできないのである。プライベートの時間は当然必要だ。そういう訳で今日は遊ぶ。誰が何と言おうが俺たちは酒を飲む。邪魔はさせねえ!

 ……というのが船長兼ギルドリーダー様の言い分であった。カゲチヨにはその言い分は理解こそすれ納得はあまりできなかったが、そういうものだと言うからにはそうなのだろう……とぼんやり受け入れる事にした。彼は酒を飲まないので宴会が開かれたところであまり関係は無いのだが。

 倉庫は廊下の突き当たりに位置している。少し埃っぽい扉を押し開け、食器がしまわれた箱を探す……より先に目に飛び込んできた光景に彼は目を瞬かせた。倉庫の真ん中で、マキナが直立不動の姿勢で静止している。

「……何をしているんだ?」

「休息を取っていました」

「そうか」

 それならせめて座ればいいものを。釈然としない顔をしながらもひとつ頷き、カゲチヨは乱雑に物が詰まれた棚に手を伸ばした。目当ての物はそう深いところには埋まっていない筈だ。山を崩さないようにひとつひとつ荷物を取り除きつつ、食器の詰め込まれた箱を探す。

 床に膝をついて黙々と作業するカゲチヨの姿を、マキナはその場に立ったままじっと眺めていた。細かい傷の刻まれた指先が薄く積もった埃を払っては物を退かしていく様子を、瞬きをしない目で見つめ続けていた彼女だったが、やがてふと口を開く。

「カゲチヨ。アナタにお願いしたい事が」

「何だ」

「マキナを深都へ連れて行ってください」

 カゲチヨの手が止まった。視線を上げた彼の金の瞳に、まっすぐに背を伸ばして立つアンドロの姿が映り込む。カゲチヨは一度、開けっ放しの出入口から廊下を覗き見た。話を聞いている者がいない事を確認し、改めてマキナへ向き直る。

「深都に行って何をする」

「ルル・ベルに謝罪をします。経緯がどうであれ、マキナが自身の立場を隠して彼女に近付いたのは事実です。ですので、欺いてしまった事への謝罪をしなければなりません」

「…………」

 黙り込んだカゲチヨに、マキナは淡々と、それでいて語りかけるように告げる。

「マキナにはアナタ方の考えは完全には理解できません。また倫理、人道、正義といった概念はあらゆる要因によって変動し得るものですので、アナタ方の行動の是非を判断する事も不可能です。ですがそういった議論より先にまず、相手を傷付けたのならば、謝罪をするべきではありませんか」

 応える声は無い。マキナはしばし口を閉ざして、自らの掌を見下ろした。鋼鉄の指を何度か握っては開き、ぽつりと呟く。

「マキナのマスターは、本当はニンゲンを造りたかったのです」

 静かに語る彼女の声は、喉の奥で合成された作り物の音声だ。宝石のような瞳で彼女はじっとカゲチヨを見る。カゲチヨもまた、無表情にどこか物憂げな色を宿しながらその視線に応えた。無機質な声の調子を崩さないまま、マキナは続ける。

「ですが人工的にニンゲンを造り出す事は、深都の技術をもってしても不可能でした。そこでマスターは考えました。本物のニンゲンを創造できずとも、ニンゲンに限りなく近いアンドロを造る事は可能なのでは、と。そうして造られたのがマキナでした」

「…………」

「マスターの望みはマキナの望みでもありました。ではニンゲンとは何か? マキナは考えました。造り出され、マスターを失い、あの倉庫で過ごしていた数十年、何百回何千回と繰り返し思考し……ひとまずの結論を得ました。ニンゲンとは自らを自らの手で変えられるものです」

 カゲチヨの表情が僅かに変化した。彼の鼻梁に刻まれた傷が歪んだ事に気付きながらも、マキナは言葉を紡ぎ続ける。

「アンドロはフカビトと戦うために造り出された兵器です。その存在意義は生まれたその時から決まっています。ですがニンゲンはそうではない。己の在り様を己の手で変えられる。そして自らを顧み、過ちを正す事のできる存在……それがニンゲンだとマキナは考えます」

「……人とはそこまで高尚なものではない」

「そうかもしれません。ですがマキナは、マキナが活動を停止するその時まで、マキナの思うニンゲンでありたいのです。自らの過ちを認め、向き合う事の出来る存在に、なりたいのです」

 ですから、どうかお願いします。

 懇願する声は真摯そのものだった。カゲチヨはそこで初めて彼女から視線を外す。棚の奥にそっと手を伸ばし、食器が詰め込まれた箱に触れた。表面を薄く覆う埃に指先で線を引きながら彼は言う。

「主張は理解できる。だが、そう上手くいくとも思えない」

「全ての事象は起きてみるまで結果を確定できません。……しかし、本当の事を言いますと、マキナも希望的観測はあまり抱いていないのです」

「それでも彼女の元へ向かうのか」

「肯定します。迷いを消したいのならば、全ての記憶(メモリ)を消去し、関係を無かった事にするのが最も容易な解決策でしょう。ですが、マキナは「そうしたくない」。アナタにもありませんか、迷いや苦悩を生むと分かっていながらも忘れがたい、価値ある記憶が」

 カゲチヨはただ黙って俯いた。埃っぽい空気を沈黙が満たす。窓の外から通りを行く人々の声が漏れ聞こえてくる。今日もアーモロードは平和そのものだ。燦々と輝く太陽が、漣の立つ青い海が、街の景色を鮮やかに浮かび上がらせている。まるで額縁ひとつ隔てたような、他人事のような美しさだった。

 マキナの足下、分厚いカーテンの隙間から床に落ちた光の筋に目を伏せ、シノビはぽつりと呟く。

「お前の純真は、俺たちには眩しすぎる」

 淡々としながらもどこか寂しげな響きの言葉にマキナは静かに首を傾げた。カゲチヨは彼女の様子を見て詰めていた息を細く吐き、棚から箱を取り出してそっと立ち上がる。そのまま横目に廊下の方向を窺いつつマキナの元へ近付くと、聴覚センサーに唇を寄せて囁いた。

「今夜七時、この部屋で待て。用意ができたら外から合図する」

 マキナは顔を上げてカゲチヨを見つめる。垂れた前髪の影に覆われた顔に浮かぶ表情はいつもより幾分か険しさの増したそれで、彼女もつられるように唇を引き結んで、承知しました──と神妙に応えた。

 マキナの返事に小さく頷き返すと、カゲチヨは踵を返して足早に倉庫を出ていく。しばらくの間その場に立ち尽くしていたマキナだったが、やがてゆっくりとした足取りで彼の背中を負った。いつまでも倉庫で佇んでいる訳にはいかない。宴会の準備を手伝わなければ。

 調理場からレイファの明るい声が響いてくる。高い窓から廊下に射し込む陽は明るく、日没はまだ遠い。


   ◆


「じゃあ、行ってきます。すぐに戻りますから」

 荷物を抱えたパーニャがそう言って部屋を出る。そのまま早足で階下へ向かっていく……かと思いきや、扉からひょっこりと顔を出した彼女はベッドに腰かけたルル・ベルへ念を押すように言う。

「何かあったらライディーンを呼んでくださいね。間違ってもアルフレッドやタマキを頼っちゃ駄目ですよ!」

「分かった分かった、それより早く行かぬか。シナトベを待たせているのだろう」

 苦笑しつつ応えれば、パーニャはむむ、と唇を尖らせる。しかしすぐに笑顔になると、改めて行ってきます! と宣言して今度こそ部屋を後にした。残されたルル・ベルはひとつ息を吐き、シワの寄った部屋着の裾を直した。パーニャとシナトベが二人で買い出しに行く間にひとりで留守番をするというのは、別段初めての事ではない。とはいえ、やはり三人で使っている客室にひとりでいると妙に静けさが気になってそわそわしてしまう。特に用事は無いが、男性陣の部屋へ行ってみようか。しかし部屋着のままで異性の前に出るというのは気が引ける。

 悩んだ挙句、ルル・ベルは部屋に留まる事にした。どうせ一時間もせずに帰ってくるのだ、多少の人恋しさは我慢しよう。腰かける位置を直し、天井を見上げて思案に耽る。

 これからどうするべきだろう──幾度となく浮かんでは結論を出せなかった問いが、また頭の中を巡りだす。今更こんな事を考えても無意味なのは分かっているのだ。既にミッションは発動している。深王は誰に何を言われようと白亜の森を進み続けるだろうし、元老院はそれを防ごうとするだろう。その未来はもはや覆らない。

 だが、頭ではそうと分かっていても覚悟が追いついていない。この先に待ち受けるものに思いを馳せる度に、様々な記憶が脳裏を過ってしまう。

 アーモロードの街並み、魔物に追われて逃げ惑った泥濘の道、船上から見た水平線、懐かしい王城の自室。そして、桃色の薔薇を差し出す、濃藍の髪の、……。

 泥沼に引きずり込まれそうになったルル・ベルの意識を戻したのは、唐突に聞こえてきた音だった。規則的なノックのようなそれに、何事かと辺りを見回す。よくよく耳を澄ましてみればどうやら音は窓の外から発せられているらしい。恐る恐るそちらへ近付き、窓を覆うカーテンの隙間からそっと様子を窺う──瞬間、目に飛び込んできた光景に彼女はぎょっと目を剥いた。

 窓の外に、白い人影が浮いている。

 喉から出かけた悲鳴を、ルル・ベルは寸でのところで呑み込む。夜の時間帯になってますます暗い深都の街並みを背に浮くその人影は、よくよく見てみれば見覚えのある姿形をしていた。人体を模した白い装甲と、頭部を覆う青いパーツを持つ彼女は。

「マキナ……」

 思わず呟けば、窓の向こうのアンドロはもう一度ガラスを叩いた。ルル・ベルは少し迷ったが、やがてゆっくりと窓の鍵に手を伸ばす。施錠の解かれた窓が音もなく開く。流れ込む外の空気の温度がひやりと頬を撫でた。

 ガラス越しでなく直に顔を合わせたふたりの間に、しばし会話は無かった。部屋の隅で鳴る時計の秒針が半周を越えた頃に、ようやくマキナが口を開く。

「アナタに、謝罪をしに来ました」

 響く声は平坦だが、決して無感情ではない。応えないルル・ベルを見つめながらマキナは続ける。

「マキナは『セレスト・ブルー』の元に身を寄せるアンドロです。その事実を意図して隠し、アナタに接触した訳ではありません。けれど、結果的にマキナはアナタの信用を裏切った。ですので、謝罪を」

「……良い。気にしておらぬ」

 自身をまっすぐに捉える青い瞳からそっと目を逸らし、ルル・ベルは小さく頭を振った。何か言いたげに首を傾げたマキナに、静かに告げる。

「そなたも妾たちと『セレスト・ブルー』の関係は知らなかったのであろう。責めたとて詮無き事だ……それより、ひとりでここに来たのか? 妾に会っている事が知られればそなたが危ういのではないか」

「肯定します。現在の状況でアナタと接触する事の危険性はマキナも承知しています。ですが、それでもアナタと話がしたかったのです」

 ルル・ベルは目を伏せる。たった一度話しただけの相手に、そこまでするのか。流石に呆れの感情が先に立つが、その愚直なまでの姿勢は少し羨ましくもあるし──できる事ならば、素直にそれに応えたかった。だが、自分たちを取り巻く環境がそれを許さない。

 己の爪先を見下ろしながら、少女は弱々しい声でアンドロへ問う。

「マキナよ……妾はどうすればよいのだろう。妾は、そなたらの事を……」

 続く言葉が何だったのか、ルル・ベル自身にも分からなかった。口ごもる彼女に、マキナは首を傾げたまま応える。

「現時点でアナタの問いに最適な答えを返す事は非常に困難である、とだけお答えします。より正確には、マキナもその答えを探すためにアナタと話をしに来たのです」

「話してどうする? 妾とそなたが言葉を尽くしたところで、事態が好転するとも……」

「その事なのですが。幾つか気になる点が……ところで、部屋に失礼してもよろしいですか?」

 このままですと、外からマキナの姿が見えてしまう可能性がありますので。と、マキナは逆側に首を傾けた。ルル・ベルは少し迷う素振りを見せたが、小さく息を吐くと無言で窓を大きく開け、何歩か横にずれる。狭いバルコニーに立っていたマキナは一言礼を述べると窓枠を乗り越えて床に降り立った。

 部屋の外の状況を気にしつつカーテンを閉め直すルル・ベルに改めて向き直り、マキナは言う。

「海都の姫君はフカビトの手先だと、そう仰っていましたが。それは確かな情報でしょうか」

「……「世界樹の意思」とやらはそう言っていた。それがどこまで信頼できるのかは我々には判断はつかぬ。だが深王には確信があるようであったな」

「そうでしたか。ですが、そうだとして、グートルーネ姫は何故海都にフカビトや「魔」の存在を広めなかったのでしょう。魔の糧となる感情をより多く生み出すには、魔の脅威を民衆に知らしめるのが最も効率的である筈です」

「それは……」

 それは、ルル・ベルたちも何となく思い至っていた事だった。「海都の全市民が魔の存在を知った時、世界樹ですら魔を止められない」と言ったのは、他でもない深王自身だ。しかし今の時点でそうはなっていない。そもそも最近まで海都の民はフカビトや魔どころか、深都の存在すら現実のものとは認識していなかったのだ。そこが、引っかかる。

「……まだ、我々の知らない情報があるのだろうな。フカビトとグートルーネ姫の関係と、その思惑と……」

 口許に手を添えて呟いたルル・ベルにマキナも頷く。

「マキナはその情報こそが状況を打開する鍵になり得ると推測しています」

「そうは言うが、簡単に辿り着けるものでもあるまい。元老院がどうかは知らぬが、とかく深王には隠し事が多い……」

「ではお互いの持つ情報を参照し合うというのはどうでしょう。深都と海都、それぞれの陣営でしか得られない情報があったと思いますので」

 マキナの提案に、ルル・ベルはすぐには答えられなかった。このアンドロが自分を騙そうとしているとは思っていない。だが、それでも彼女は『セレスト・ブルー』の一員だ。彼女に心を許せば、それが巡り巡ってあの海賊につけ入る隙を与える結果になるかもしれない。そしてもしその時が来れば、次に奪われるのは深都発見の功などではなく、それよりも更に重い何かだ。

 本当に、信じてもいいのか。

 黙り込むルル・ベルをじっと見守っていたマキナだったが、ふと思い出したように口を開いた。

「もうひとつ、アナタに言いたい事があったのです」

「……何だ?」

「ルル・ベル。マキナとトモダチになってくれませんか」

「は……」

 予想だにしていなかった言葉にルル・ベルの目が丸くなる。不意打ちの一撃に困惑する彼女に、マキナはどことなく興奮したような、僅かに弾んだ声でまくし立てる。

「マキナは故郷である深都が好きです。ですので、深都を好きだと仰ったアナタとは好きなものが共通している事になります。好みの合致している相手とは友好関係が築きやすいと以前書物で読みましたので、マキナとアナタはその条件を満たしている事になります。そして何よりマキナ自身もアナタに好意を抱いています。アナタとトモダチになれるのならばこれほど嬉しい事はありません」

「は、はあ」

「トモダチ同士が具体的に何をするのかマキナには分かりかねますが、もしアナタとトモダチになる事が叶ったならば、まずは深都の空を眺めて語らいましょう。いつもと同じ景色でも、特別な相手と見ると違った風に見える、と聞きましたので」

「……ふ、ふふふ」

 思わず吹き出せば、不思議そうな視線が返る。こちらに向いたマキナの顔があまりにも「きょとん」としていたものだから、それが何故だか余計におかしくてルル・ベルはひとしきり腹を抱えて笑った。笑っている場合ではないのは分かっているが、張り詰めた空気が逆に彼女の台詞のおかしさを際立たせている。

 ──よくもまあ、そんな真面目な顔で、恋愛詩のようなロマンチックな台詞を言えたものだ。

 やがて笑いが収まると少女はゆっくり息を吐き、すっかり毒気を抜かれた表情で苦笑する。

「そなた、それでは友人になるというより、プロポーズでもするような物言いではないか……」

「プロポーズ。……求婚の意でしょうか。マキナはアナタに求婚したつもりはありませんが」

「ああ、分かっている。……友人か。そうか……」

 噛みしめるように呟き、目を伏せる。「トモダチ」。それはとても、素敵な響きだった。その響きにすべてを委ねられるほど自分は幼くはない。けれど、その言葉が何かを変えてくれるのではないかと。そう信じたい気持ちも、確かにある。

 そういえば信頼できる従者はいても、対等な友人というのはいなかったな、と思い返しながら、ルル・ベルは応える。

「それでも、妾にはそなたを完全に信頼する事はできぬし、この先そなたを切り捨てる事が無いとも言い切れぬ。そなたはそれで構わぬのか」

「肯定します。……もしや、そうであったらトモダチにはなれませんか?」

 どこか窺うような問いを、ルル・ベルは頭を振って否定する。それから彼女はふむ、と小さく唸り、しばし考え込むように口を閉ざした。次の言葉を待つマキナが時計の音に合わせて小刻みに揺れるのを横目に見ながら、じっと思案する。

 白い指先が薄い唇を撫でる。神妙な表情でそうしていたルル・ベルだったが、やがて覚悟を決めた様子で顔を上げた。

「情報を交換しよう。そなたの言う通り、状況を打開せねばならぬ。このままでは我らも深都も海都も……そなたらも、総倒れになる事すらあり得る。それは誰も望まぬ結末だろう」

「承知しました。ですが、その前に」

 マキナは自身の右手をそっと差し出す。ルル・ベルはその手を見て何度か目を瞬かせ、ああ、と頷いて同じように手を伸ばした。硬い金属の指が壊れ物を扱うような力で少女の手を包む。アンドロの掌と五指は冷たく、鋼の硬さと鋭さは人の肌に刺々しい感覚ばかりを伝える。

 しかしルル・ベルはそのような感触だけで怯む程やわではなかったし、その白い指先もまた、鋼鉄の掌の内で簡単に壊れてしまうほど脆くはなかった。


「ルル・ベル様、ただいま戻りました!」

 騒々しく足音を立てながら廊下を駆けてきたパーニャが、勢いよく扉を開けて部屋に飛び込んでくる。出かけた時と変わらずベッドに腰かけて読書をしていたルル・ベルの姿を見て顔を綻ばせた彼女だったが、ある事に気付くとあれっと首を傾げた。

「窓、開けたんですか?」

 ルル・ベルは古い詩集のページを捲る手を止めてパーニャを見た。それから開けっ放しになっていた窓を振り返り、ああ……と微笑む。

「少し外の空気を吸いたくてな」

「あんまり大きく開けたら駄目ですよ。外から誰に見られるか、分かったものじゃないんですから」

「相変わらず心配性だな、そなたは……」

 さっさと窓とカーテンを閉め直してしまうパーニャに苦笑し、ルル・ベルは詩集を閉じて枕元に置いた。

 少し遅れて部屋に入ってきたシナトベが荷物を机に解いて物資を選り分け始める。並べられたメディカやアムリタの小瓶に反射する照明の色を視界の端に捉えながら、色のくすんだ詩集の表紙を撫でていたルル・ベルだったが、唐突に立ち上がると部屋の隅に置いていた自身の装備一式に手を伸ばした。パーニャが目を瞬かせる。

「どうしましたか? 不備は無かったと思いますけど」

「いや……どうという事は無い。ただ、妾も腹を括らねばと思ってな」

 パーニャとシナトベが揃って顔を見合わせる。怪訝そうな表情を浮かべる従者たちを前に、自身の剣を持ち上げたルル・ベルは柔らかい笑みを向けた。豪奢な装飾の施された柄を指先でなぞり、静かな声で言う。

「少し、話したい事がある。皆を集めてくれ」

 彼女の言葉は素朴でありながらも王の血統としての威厳に満ちていた。主の纏う空気が変わった事に気付いて背筋を伸ばす二人を、ルル・ベルは何も言わずそっと促す。

 考えなくてはならない。このまま深王に従属し、フカビトと戦うというのも、きっと間違ってはいない道だ。だが、まだ選択の余地はある筈だ。仲良く手を取り合って……などと甘い言葉を口にするつもりは無い。ただお互いに本意ではないだろう。こんな異国の地で、忠誠を捧げた訳でもない相手のために戦って死ぬというのは。

 あの男の言った通りだ、と。部屋を出て男たちを呼びに行くシナトベの後ろ姿を見ながら、ルル・ベルは内心で呟く。過去に足を取られて未来を奪われるのは、あまりにも下らない。となれば、どんな迷いも葛藤も、無理やりにでも呑み込んで前に進むしかあるまい──どれほど痛みを伴うとしても。

 しかし、それにしても。

「パーニャよ」

「はい」

「初恋とは得てして叶わぬものだというが、あれは本当の事らしいな……」

「は……はい!?」

 唐突な言葉に、パーニャは素っ頓狂な声を上げて振り向いた。が、その拍子に机に勢いよく腕をぶつけて悶絶する。ぶつけた箇所を押さえて呻きながらも困惑した目で自身を見つめてくる従者にルル・ベルは苦笑しつつ、言ってみただけだ、と告げた。

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