【SQ3】18 勝利宣言

「では、行こう」

 固く閉ざされた扉を前に、少女は小さく呟いた。


   ◇


 迷宮第五層──正確には迷宮とは別の場所、世界樹の麓に位置するのだが、便宜上五層と呼ばれている──の探索は困難を極めていた。辺りを覆う霧と平衡感覚を奪う鏡面のような床。更には潜り抜けた瞬間に別の場所で瞬間移動する不思議な門……いずれも王家の森を守るための仕掛けなのだろうが、それにしても面倒が過ぎる。

「なんでわざわざ磁軸経由で行かなきゃならねえのかね。海都側から森に入る道もあるのによ……」

 刺し殺した白狐の死骸を茂みに放り込みながらインディゴが呟く。その声色からは苛立ちや不満よりも濃い疲労の色が見て取れた。

 この迷宮で遭遇する魔物は、これまでの階層と比べても格段に強力なように思える。先程の白狐などはその最たる例で、特に緑のウサギと一緒に出てきた時などはただでさえ強力な雷を殊更に強化して放ってくるため手に負えなくなる。厄介な連携を防ぐためには敵の行動を潰しつつ攻撃を食らわないよう手早く倒すのが一番だが、それが簡単にできれば苦労はしない。

 うんざりしたように突剣に付いた血を払うインディゴの腕をレイファが捕まえ、手首に走っていた傷を治療し始める。幸い深い傷ではない。すぐに癒えて薄い線のような傷跡を残すばかりになったそこをぽんと叩き、レイファは肩を竦めた。

「まあ仕方ないよ。ここって王族しか入れない森なんでしょ? いくら協力者とはいえ、お姫様が使う通路に冒険者を立ち入らせるのはまずいんじゃないの」

「んな事は俺も分かってるよ。愚痴りたくなっただけだ」

 はーあ、と息を吐き、インディゴはいかにもやる気のなさそうな足取りで歩き出す。レイファはやれやれと首を振った。獅子王を連れて駆け寄ってきたティルと手を繋ぎ、彼女も先を行く船長の背を追う。

 『セレスト・ブルー』が今いる場所は地下十八階……と、されているフロアだ。この階の探索は既に終えており、今日から下階の探索を始める予定だったのだが、思いがけず戦闘が続いてしまったせいで消耗が激しい。今すぐ帰還しなければいけないというような状況ではないものの、探索は程々にして早めに切り上げた方が良いだろう。

 あらかじめ見つけてあった抜け道を駆使し、最短距離で下り階段を目指す。道中で現れた魔物の相手もそこそこに通路を進み、階段のすぐ傍に繋がる二つ目の抜け道を通ろうとした時だった。大人しくしていたティルが急に顔をしかめてレイファの手をぐいと引く。

「ティル?」

「なんかヘンだ」

「変? ……何が?」

「うー……」

 抜け道の先を睨んで唸り声を上げるティルの頬を獅子王がべろべろと舐める。明らかに警戒している様子の少年をなだめながら、レイファはインディゴを振り返った。神妙な表情で彼女の視線を受け止めたインディゴは、抜け道を隠す茂みをそっと掻き分けると首を傾げる。

「魔物がいる様子は無いけどな」

「でもティルのこういう勘って当たるよね」

 ベロニカの言葉にインディゴはうーんと顎を擦る。ティルがたまに発揮する野生の本能ともいうべき直感は、不思議な事にかなり高い精度で的中するのだ。そしてその直感は大抵の場合魔物の襲撃を予見したものである。ここから視認はできないが抜け道の先に魔物がいるのかもしれない。

 考え込むインディゴの傍らでカゲチヨが短刀に手をかける。

「先行するか」

「……いや、お前がやられるのが一番まずい。纏まって行く」

 殿(しんがり)を頼む、と告げ、インディゴが抜け道に足を踏み入れた。次いでレイファが、そしてティルと獅子王、最後にベロニカが先に進んでいくのを見送り、カゲチヨも仲間たちの後に続く。

 予想に反して、抜け道の先でも魔物が襲ってくる様子は無かった。念のためにと広間の隅から隅まで確かめてみたがそれでも魔物の気配は無い。にも関わらず、ティルの表情は晴れないままだ。……何やら、嫌な予感がする。

 インディゴが険しい表情で踵を返し、下り階段へ向かう。

「行くぞ。これ以上長居は──」

「待って! 何か来る!」

 星体観測を起動させたベロニカがインディゴの言葉を遮って叫ぶ。しかしもはや遅かった。星術による観測に頼らずともはっきりと分かる程の強大な気配が、木立を突っ切ってこちらへ向かってきている。

 戦闘の構えを取る、暇も無かった。激しく草葉を掻き分け千切り取る音を撒き散らしながらその気配は西側の林から姿を現す。

 お伽話の死神かと見紛うような大鎌を携えた、巨大なその姿──。

「す……『全てを狩るもの』……」

 半ば呆然と呟いたのは、果たして誰だったか。それを認識する間も無く、金色の複眼で『セレスト・ブルー』を捉えたカマキリが大きく体を仰け反らせた。振り下ろされた大鎌に巻き込まれかけたレイファをカゲチヨが思いきり突き飛ばす。咄嗟の事で受け身を取れず床に叩きつけられた彼女の頭上すれすれを暴風のような一撃が掠めた。あと少しタイミングがずれていたら頭がまるごと無くなっていただろうが、だからといって胆を冷やしている暇は、無い。

 突剣を構え直したインディゴが巨虫の顔面へ刺突を繰り出す。命中こそしたが狙いは僅かに逸れた。眼の横に走った裂傷は気にも留めず、『全てを狩るもの』は身を捩って背の翅と全身の突起を振り回す。硬質の翅に弾かれる前に後退したインディゴは、素早く周囲の状況を確かめて歯噛みした。

 相手との距離が近すぎる。階段までの距離はそう遠くないが、だからといって背を向けて退避に転じればたちまちに首を獲られるだろう。身を隠せそうな遮蔽物も無い。逃走などもってのほかだ。そんな隙も余裕も場所も無い。

 応戦より他に手は無い。幸い搦め手を使ってくるような様子は無いし、堅実に回避しつつ攻撃を重ねれば勝てない相手ではない筈だ。ベロニカの放った雷の星術が鈍く光る装甲を焼く。焦げた肩を気にした様子もなく大鎌を振り上げたカマキリに獅子王が吼える。脳を直接揺らすような咆哮に空気がぴしりと音を立てて固まる。

 鎌を振り上げたまま戸惑ったように動きを止めた魔物の足許に滑り込んだカゲチヨが、脚関節の隙間にクナイを捻じ込んだ。ごきり、と固い手応え。途端に翅を震わせて暴れる『全てを狩るもの』だったが、脚を封じられたためにその動きは先程より格段に鈍い。

 もう一度、インディゴが突剣を振るう。今度は狙いを外さなかった。右の複眼を潰されたカマキリが大きく鎌を振るって暴れ狂う。攻撃の直後で回避が遅れたインディゴが弾き飛ばされた。ティルを庇った獅子王の腹に傷が走る。風圧で体勢を崩したベロニカをカゲチヨが抱き込んでその場を退く。

 猛攻が止み、少女を下ろしたカゲチヨが含針を携えて駆けていくのを横目に、レイファが離れた場所に倒れているインディゴへ駆け寄った。小さく呻いて身を起こそうとする彼に治療を施してやりつつ、彼女は油断なく前線の様子を窺う。

「このまま押し切れそう」

「……っ、あー……にしても痛えわ、クソ……終わったら街に帰るぞ……」

「そうだね。立てる? 折れてないか診せ──」

 その時だった。突如響いてきた衝撃音にその場にいる全員がはっとそちらを振り返り、そして言葉を失った。片脚と片眼を潰されて悶えるカマキリの肩越し、木々をなぎ倒し、木の葉を撒き散らしながら現れたのは、もう一体の『全てを狩るもの』だ。

「は、」

 動揺したベロニカの動きが止まる。はっと我に返ったカゲチヨが彼女の元に駆け寄ろうとしたが、遅かった。手負いの『全てを狩るもの』がすばやく伸ばした鎌が、少女の脚を抉る。

「……!!」

「ベロニカ!!」

 悲鳴を上げる間もなく、もう一方の鎌がベロニカに迫る──瞬間、獅子王が轟と吼えた。ベロニカに襲いかかろうとしていた一体とその背後からこちらへ近付いてきていたもう一体が吼え声に揃って身を竦ませる。その隙にカゲチヨがベロニカを回収して引きずるようにレイファの元へ連れていく。

 鬼気迫った面持ちのレイファに治療されながら、ベロニカは苦しげに呻いた。額に脂汗を滲ませつつ、それでも彼女は体を起こして星術機を起動させる。

「動かないで!」

「今……っここで、抑えなきゃ……全員死ぬ!」

 絞り出すように叫びながら放った氷の星術は軌道を逸れて床に着弾した。床を覆った氷柱の向こう、片脚をだらりと投げ出しながら立ち上がろうとするカマキリの隣に、先程現れた個体が並ぶ。同朋を傷付けられて怒っているのだろうか、かちかちと顎を鳴らしてこちらを見据えるその姿からは、明確な殺意が窺える。

「畜生が……」

 咳と共に悪態を吐き出したインディゴが突剣を杖に立ち上がろうとするが、軋む体がそれを許さなかった。これは本当にまずい事態だ。一体だけならば何とか凌げただろうが、この状況でF.O.Eを二体も相手にするのは、あまりにも無理がある。

 獅子王がぐるると牙を剥き出して魔物たちを足止めしている。だが彼も手負いだ。いつまで時間が稼げるか……体の節々が痛むのを堪えつつ次の一手を模索するインディゴの隣に、カゲチヨがするりと並んだ。

「退避しろ」

「……お前を置いて?」

「そうしなければ間に合わない」

 インディゴは苦々しい表情を浮かべた。それは確かにそうだ。この面子の中ではカゲチヨが最も戦闘慣れしていて、陽動に長けていて、機動力がある。しかしそれはインディゴの本意とするところではない。生き延びた先の事を考えるならば、ここで彼という手札を切る事はできない。だがそもそも、この状況下で全員無事に生き延びる事ができるのか。

 獅子王が圧され始めた。二体目の『全てを狩るもの』がじりじりと距離を詰めてくる。ベロニカはまだ立ち上がれない。レイファの気功も無限に使えるわけではない。手元にある物資はどれも状況を一変させるには至らない。カゲチヨが静かに短刀を握り直した。決断を下す時間は、無い。

 薄緑の翅がざわりと広がる。鋭い鎌を翻した魔物が、身を低くして獲物に飛びかかろうとする──が、突如響いた轟音がそれを阻んだ。

「……!?」

 空気が揺れる。突然の異変に動きを止めた『全てを狩るもの』に飛びかかる影があった。大きく槌を振りかぶる、緑色をしたそれは、見た事のある姿形をしている。編み込んだ髪を翻し先陣を切る戦士──シナトベだ。

 振り抜かれた槌が魔物の肩口に直撃した。巨体が吹き飛ぶ。鏡面を跳ねる魔物を追いながら、女戦士は高らかに笑う。

「殺していいのよね? 殺すわ!」

「待てシナトベ! こら! 突っ込むんじゃない!!」

 嬉々として駆けだすシナトベを、盾を構えたライディーンが鎧を鳴らして必死に追う。事態が呑み込めない『セレスト・ブルー』の目の前で、目と足を潰された方のカマキリが蠢く。最期の抵抗とばかりに振り上げられた鎌からインディゴを守ろうとカゲチヨが前に出る……が、その時には既に事は終わっていた。

 カマキリの頭が、何の前触れもなくごとりと落ちる。床に転がり落ちた首の切断面はまるで初めから切れ目が入っていたかのように整っている。ごぽりと体液を溢れさせて崩れ落ちる巨体のその向こうに立っていたのは、形容しがたい表情を浮かべた和装の剣士だ。口許を覆う布の下で声も無くその名を呼んだカゲチヨと、刀を両手に佇む彼の視線がかち合う。

 だがそれも数秒の事だった。彼の背後からやってきた足音が、二人の間に流れる空気を掻き消す。

「タマキよ、仕留めたか」

「……ああ。確かに」

「ご苦労だった。……さて、」

 かつん、と踵を鳴らして目の前に立ちはだかったその姿に、インディゴの表情が盛大に歪んだ。反射的に立ち上がろうとし、痛みに呻いて腰を折る彼を静かな瞳で見下ろし、彼女はゆっくりと唇を開く。

「随分な姿だな、海賊よ。傷に響くであろう、そのまま聞くがいい」

「っ……てめえ、」

「そなたと話をしに来た。断ると言うのならばそれでも構わぬが、その時はそなたらがあちら(・・・)の相手をする事になろう」

 赤い視線が示した先では彼女の忠実な従者たちが『全てを狩るもの』相手に大立ち回りしている。主に先陣を切るシナトベのおかげでかなり押しているが、魔物側もまだまだ余力は有り余っている様子だ。矛先がこちらに向けば、『セレスト・ブルー』は簡単に真っ二つにされるだろう。

 インディゴは何も答えない。ただ険しい表情のまま、重い息をひとつ吐いた。警戒を緩めない男を前に、何もかもを見透かしたような佇まいでルル・ベルは告げる。

「選ぶがいい、インディゴ。そなたらの運命はそなたの選択の先にある」


 伏した獅子王の尾がぱしぱしと床を叩いている。傷の治療をしてやっていたレイファは思わず手を止め、目の前の猛獣の動向を確かめた。彼女にくっついていたティルがむっと眉を吊り上げ、たてがみに覆われた背を叩くが、獅子王の緊張が緩む気配は無い。硬い尾は一定のリズムで足下の鏡面を叩き続ける。

 むむむ……と唸って更に強く獅子王を諫めようとするティルを押し止め、レイファは治療を再開した。彼がピリピリしている理由も痛いほど分かる。それにしても人間たちの不穏な空気を感じ取るなんて、やはり賢い獣だ。

 傷を癒す手を止めないまま、少し離れた場所にある姿を横目に窺う。少女と男は、まっすぐに向かい合って立っていた。

「先に言った通り、妾はそなたと話をしに来たのだ。結論から言おう。そなたらと手を組み、事態の円満な解決に向けて動きたい……『カーテンコール』と『セレスト・ブルー』だけでなく、海都と深都を取り巻く全ての問題の解決を、妾は望んでいる」

 ルル・ベルの凛とした声が響く。対するインディゴはぐっと奥歯を噛み、吐き捨てるように応える。

「……よくもまあ……そんな台詞を、吐けたもんだ」

 言いながら指さしたのは、床に崩れ落ちたまま動かなくなった二体目の『全てを狩るもの』だ。まだ腕が痛むらしい、ただでさえ歪んだ表情をますます険しくしながら彼は続ける。

「背中に矢が刺さってたな。……追い立てて(・・・・・)きたんだろう。初めから、俺たちの居場所を分かった上で」

 ルル・ベルは僅かに目を逸らし、小さく息を吐いた。舌打ちをこぼしたインディゴが口を開くが、彼女はそれを遮ると先程より低い声で畳みかける。

「そうだとして、どうする? 妾を糾弾したところでそなたの立場は変わらぬ。それでも争うと言うのなら仕方のない事だが、妾が倒れるのとそなたの首が落ちるのと、どちらが先だろうな」

「…………」

「弁えよ、海賊。今この場において、妾はそなたより上に立っている」

 重い沈黙が場を満たす。ルル・ベルの数歩後ろに控えていたタマキは、ふと少女の後ろ姿に視線を移した。後れ毛とドレスの襟の陰、白いうなじに汗が滲んでいるのが見える。彼女にとってもこれは大きな賭けだ。ここで決裂すれば、いよいよもって事態の解決は不可能となる。無理やり舞台を整えたのはそのためだ。同じ土俵に立たなければ、交渉も話し合いもできる筈がない。

 タマキが数歩踏み込みさえすれば、あの海賊の首など容易に叩き落とす事ができる。だが命運を握られているのはインディゴだけではない。ここで『セレスト・ブルー』を排除する事になってしまえば、それこそ『カーテンコール』は深王の命じる通り白亜の姫君を討つしかなくなる。

 ルル・ベルは先んじて仲間たちに告げていた。妾は彼らを殺すつもりで会いに行くのではない。互いにわだかまりはあるだろうが、それでも応じてくれるよう祈っている。だがもし奴が感情を優先して事を見誤るようであれば、躊躇う必要は無い、と。その言葉を違えるつもりは彼女には無い。しかし、それは最悪の結末だ。

 男を諭すように、ルル・ベルは続ける。

「妾はそなたに難しい要求をしている訳ではない。ただ、こんな異国の地のお家騒動やら得体の知れない怪物やらのいざこざに首を突っ込んで争った挙句に倒れるというのは、よく考えてみればあまりに不毛ではないか、という話をしているのだ」

「…………」

「ここで航海を終えて良いのか、海賊。そなたはまた(・・)、争いに巻き込まれて命を奪われる事になるぞ」

 は、と息を吸い込み、インディゴは射殺さんばかりの目でルル・ベルを見る。タマキの手が刀の柄にかかった。腰を落として抜刀の構えを取る彼を、ルル・ベルがさりげなく制する。

 低く僅かに震える声でインディゴは言う。

「丸め込もうってのか……この俺を」

「捉え方はそなたの勝手だ。だが、苦渋の決断をしているのがそちらだけとは思うな」

 そこで初めてルル・ベルは僅かに表情を緩める。僅かな嫌悪感を滲ませながら、しかしどこか懐かしいものを思い出すような複雑な顔をして、彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「妾も……そなたが嫌いだ。だが大局を見ず、自らの感情に固執して選択を誤るのは愚か者の為す事だ。しがらみを断ち切り、未来を掴み取らねばなるまい。過ぎた事に足を取られて、未来を奪われる前に」

 インディゴは眉間に刻まれたシワをいっそう深くし、唇を噛んで目を伏せた。ひとつ、ふたつと深呼吸して掌でそっと額を覆う。

「意趣返しのつもりか」

「どうであろうな」

 返る声は至って落ち着いていて、その裏にある感情を読む事はできない。インディゴはもう一度舌打ちをした。それから長く重い息をひとつ吐き出す。力無く首を振り、ひらりと両手を掲げた彼の顔には、疲れ果てた表情が浮かんでいた。

「分かったよ……降参だ。話とやらを聞こうじゃねえか」

「……そなたの決断に感謝を。ひとまず手短に話すが……その前に」

「何だよ」

「彼女の事は怒らないでやってくれ」

「は?」

 何の事を言っているのかまったく分からないという顔をするインディゴに曖昧な頷きを返し、ルル・ベルは彼の傍に寄ってぽつぽつと事のいきさつを語り始める。恐らくどう頼んだところでマキナにお叱りが飛ぶのは避けられないが、まあそれは『セレスト・ブルー』の問題であってルル・ベルにはどうしようもないのだ。


 出血は止まった。だがこの場ではこれ以上の治療は難しそうだ。脚に巻いてやった包帯をきっちりと締め直しつつ、カゲチヨはベロニカの調子を確かめる。顔色は悪く疲れた表情をしているが、それ以上の変調は無い様子である。傷も深くはあるものの神経がやられている様子は無い。適切に処置をして静養すれば程なく完治するだろう。

 処置のために切り裂いたレギンスの切れ端──怪我の処置に必要とはいえうら若い婦女の脚から衣類を剥ぐのはどうかと思ったが、本人が全く気にしていないのでひとまず良しとした──を何とも言えない表情でつまむカゲチヨに、ベロニカはあいててて……と漏らしながら寄りかかる。

「歩いて帰るの無理かも。やだなあ……」

「俺が背負う」

「いいの? なんかごめんね。……あ、待って。浮かんだらちょっとは軽くなるかも」

 これっぽっちも悪いとは思ってなさそうな表情でいそいそと星術機を起動し、浮遊の術式を起動しようとするベロニカだったが、ふと首を傾げてカゲチヨを振り返った。静かに視線を返してくる彼に、少女は声を潜めて問う。

「あれ、いいの?」

 彼女の示す先にいるのは、何やら剣呑な雰囲気で話し込むルル・ベルとインディゴ……ではなく、二人から少し距離を置いて佇むタマキだ。

「いい、とは」

「放っといてもいいのって事。すーごい見てるよ。何か話とかあるんじゃないの」

「話……」

 オウム返しに呟いて黙り込んだカゲチヨの顔を見上げて、ベロニカは普段より血の気の失せた顔を思いきりしかめた。あのねえ、と呆れと怒りが半々といった調子で前置き、彼女は言う。

「いざこざがあったのは知ってるし、顔を合わせたくない気持ちも分かるけどさあ、それならいい加減スパッと切り替えてよ。引きずってるのが見え見えでイライラするの。あなたも、あの人も!」

「ベロニカ……声が……」

「あっちにも聞こえるように言ってるの!! ほんと、どうしてうちの周りってウジウジした男ばっかりなんだろ。やっぱ船長がそうだからかな。ほんと嫌になっちゃう……」

 何故か急にご機嫌斜めになったベロニカを、カゲチヨは僅かに眉を下げて見つめた。が、少女は唇を尖らせて星術機を弄るばかりで何も応えない。無表情の下に隠し切れない困惑を滲ませつつ、彼はついに顔を上げてもうひとりの「ウジウジした男」に目をやる。案の定、やりとりはあちらの耳にも届いていたらしい。返った視線は驚きと戸惑いとがない交ぜになった色を湛えている。

 タマキが慌てたように顔を背ける姿を見届け、カゲチヨはもう一度ベロニカを振り返った。脚を投げ出して座ったままの姿勢では星術機を動かしづらいらしい。ますます険しい表情で肩の機械に手を伸ばす彼女を支えてやりながらしばし黙り込んでいたカゲチヨだったが、やがて意を決したように小さく息を吐き、小さな声で訊ねた。

「そんなにウジウジして見えるか」

「見えるー。ていうか何? 喧嘩とかしたの?」

「そうかもしれない」

「かもしれないってどういう事……? そんな悩んでるんならいっそ腰を据えて話し合ってみればいいんじゃないの。知らないけど」

 突き放すような響きの言葉に、カゲチヨはそうだろうか、と呟いて沈黙する。

 ベロニカは彼の様子を見てちょっと無責任に言いすぎたかも、と多少反省しかけたが、すぐにその考えを取り消した。ウジウジしているのは事実だし、どうせ人に言われなければ何もしない男なのだ。強めに引っ叩くくらいで丁度いいだろう。……と、棘の生えた言葉ばかりが思い浮かんでしまうほどには、ベロニカはイライラしていた。脚は痛いし疲れているし星術機はなかなか動かないし、その上ひと回りも年上の男たちがモダモダ悩んでいるのを見せられては仕方ない事かもしれないが。

 微かな駆動音を立てた星術機がようやく浮遊の術式を起動させ始めた。うんざりしたように機械の表面を叩いて両腕を広げたベロニカを背中にしがみつかせ、カゲチヨはゆっくりと立ち上がる。

「レイファのとこ行こ」

 うなじのすぐ横から聞こえた声に頷き、歩き出す。向かう先では獅子王の治療を終えたレイファがライディーンと言葉を交わしていた。両者とも疲れ切った顔をしている。大変そ~。と呟くベロニカに神妙な顔をしつつ、カゲチヨは二人へ歩み寄っていく。


 インディゴは頭を抱えた。深都側が持つ情報と、海都側が持つ情報と、それらを統合して得られるひとまずの結論と。ルル・ベルが語った事情を彼はすぐに呑み込んだが、それはそれとして言いたい事が山ほどある。

「マキナ……やっぱりあいつか……」

「責めてやるなと言っているだろう……」

「本人以外にも問題があるんだよ。誰が連れ出した……? ……いや、まさか……」

 何やらぶつぶつ言っていたインディゴであったが、呆れたように見つめてくるルル・ベルの視線に気付くとひとつ咳払いをして彼女に向き直る。

「深王がグートルーネの兄貴で、深王自身はそれに気付いてないってのはこっちも薄々分かってた。グートルーネがフカビト憑きとやらになったのも、まあ多分、本気で兄貴に会いたいってだけの理由なんだろうな」

「深王もまた妹君のために白亜の供物を探していたという。オランピア曰く、それも忘れてしまっているそうだが……」

「白亜の……ん? ああ、何か聞いた事あると思ったら、あれか」

 思い出したように言い、インディゴは少し離れた場所に落ちていた自分の荷物へ手を伸ばす。いてて、と漏らしつつ取り出したのは鈍い輝きを放つ杯のような何かだ。ルル・ベルが怪訝に首を傾げれば、彼も肩を竦めて応える。

「クジュラからの預かりもんだ。何て言ったかな、確か……空の玉碗」

「……白亜の供物に関係がある物なのか? そういえば我々もオランピアによく分からない石を渡されたが……」

 二人して碗を見つめて考え込むが、答えは出ない。よくよく考えてみれば、自分たちは白亜の供物なるものが一体何なのかすらよく分かっていないのだ。まともに知っている事といえば大昔に空から降ってきたものであるらしい事くらいだろうか。

 貴重な物ではあるのだろうが、今のところはこれについて深く考えても時間の無駄だろう。インディゴがやれやれといったように首を振って碗を荷物に戻し、ルル・ベルも微妙な表情でそれを見守った。気を取り直して話を戻す。

「……で、これからどうするって? 大見得切ったからには、深王をどうにかできるような手があるんだろうな」

「いや、実はまったく思いついていない」

「……はああ!?」

 ルル・ベルのあっけらかんとした返答に、インディゴは思わず裏返った声を上げた。離れた場所にいた仲間たちが何だ何だと視線を向けてくるのも気にせず、彼は鬼気迫る表情で少女に詰め寄る。

「てめえ……ふざけんなよ、俺は勝ち筋の無い賭けには乗らねえぞ。ていうか、よくもまあ考え無しの分際であんな大それた事言えたもんだな!」

「ああもう、分かった分かった。分かっているから少し黙っていろ」

 心底嫌そうな顔で溜息を吐き、ルル・ベルは腰に下げたポーチに手を伸ばす。

「事情が分かったとはいえ、解決策は思いつかぬ。しかし深王があくまで「フカビト憑きの姫」を討伐するつもりである以上、グートルーネ姫が人間に戻る事ができれば、どうにかなる可能性はあるだろう」

「そんな方法あるのかよ」

「それを今から訊きに行く。それこそ、そなたを相手にするより分の悪い賭けかもしれぬがな」

 そう言いながら、彼女はポーチからあるものを取り出すとインディゴに向かって掲げる。白亜の森の清らかな光を浴びて白く光るそれは、月の意匠が施された一本の鍵だ。

 訝しげに鍵を見つめるインディゴに、ルル・ベルはよく通る声で告げる。

「フカビトの事なら、フカビトに訊くのが手っ取り早い。──行くぞ、「真祖」の元へ」

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