【SQ3】19 ALIVE
久々に訪れた第三層は相も変わらず茹だるような熱気に包まれている。無尽蔵に吹き出してくる汗を拭い、インディゴは水筒に残った水を一気にあおった。隣を歩いていたティルがむっと唇を尖らせて彼の腕を引く。
「オレもみずほしい!」
「ああ? そういう事は先に言えよ」
「うううー!」
「……良ければこれ、飲むかい? まだ口はつけてないから」
膨れるティルにそっと水筒を差し出たのはライディーンだ。控えめな笑みを浮かべる騎士の顔をはっと見上げたティルは、しばしモジモジと肩を揺らしていたが、辺りを見回して誰も咎める者がいないらしい事を確かめると慎重な手つきで水筒を受け取る。
「……ありがと!」
「どういたしまして」
喉を鳴らして水を飲む少年に肩を竦めつつ、インディゴは前方に視線を向けた。パーニャと並んで先頭を歩くルル・ベルは、灼熱の迷宮の中を迷いの無い足取りで進んでいる。
一行が向かっているのは断罪の間と呼ばれる場所だ。ルル・ベル曰くそこに「フカビトの真祖」が囚われているらしいが、『セレスト・ブルー』には正直何の事かまったく分からない。ただついて来いと言われたから同行しているだけだ。負傷したベロニカと付き添いのレイファは街へ帰したため、この場にいるのは男三人のみだが。
インディゴはこっそりと溜息を吐く。主導権を握られた上に丸め込まれた形ではあるが、実際ルル・ベルの言った事は正しい。自分たちだってこんな所で死ぬつもりは毛頭無いのだ。ギルド間で殺し合いをする危険が減った事は素直に喜ぶべきだろう──理屈でそう理解できるからといって、感情で素直に受け入れられるとは限らないが。
と、そこまで考えて彼は乱雑な手つきで頭を掻いた。疲れているせいかどうにも頭が回らない。気を紛らわせるため隣にいたカゲチヨに話しかけようとしたインディゴだったが、ふと彼の様子がおかしい事に気付いて顔をしかめる。
「チヨ? どうした、ぼんやりして……」
「……、……いや……」
返った声もどうも歯切れが悪い。いつぞやのアユタヤ行きの船の上での事を思い出してますます眉間のシワを深くしたインディゴが次の言葉を口にするより先に、前方から少女の声が飛んでくる。
「着いたぞ」
足を止める。数歩先で立ち止まり振り返ったルル・ベルの前には、岩壁に半ば埋もれるようにして一枚の扉が鎮座している。その扉の向こう、炎の海に囲まれた岩の牢獄、肺を焦がすような灼熱に包まれた小部屋こそが、「断罪の間」だ。
封印の術式か何かだろうか、不思議な文様の刻まれた扉の表面を撫でながら、インディゴが呟く。
「フカビトの王、だったか? そんなもんがいるとはな」
「先程も言ったが、そなたらは後ろに控えておくように」
「あーはいはい、分かってるよ……」
少し離れた場所から射殺さんばかりの視線を送ってくるパーニャを横目に見つつ、インディゴはうんざりしたように応える。ルル・ベルはひとつ頷き、荷物から月の鍵を取り出すと扉の中心に向かってかざした。表面を走っていた文様が収束し、石壁の中から何かが外れるような音が響く。
扉の封印が解けた事を確認し、ひとつ深呼吸を置き。ルル・ベルは真剣な面持ちで石の扉に手をかける。
「誰かと思えばお前たちか……」
小部屋の中に入った一行を、「真祖」は僅かな驚きと好奇心の浮かんだ表情で迎えた、年齢も性別も判然としないしゃがれた声で、彼──それとも彼女か、もしくはそのどちらでもないのか──は先頭に立っていたルル・ベルに話しかける。
「またここに来るとは……。僕と話をしたくて来たのか? 物好きな連中だな……」
「……配下をけしかけてはこないのだな」
固い声で呟いたルル・ベルに、真祖は小さく笑う。どうやら今回は食事(・・)を摂るつもりは無いらしい。
ルル・ベルは小さく息を吐いた。一度だけ背後の仲間と同行者とを振り返り、警戒は解かないまま彼女は問う。
「そなたに訊きたい事がある。フカビトと化した人間を、元に戻す事は可能か」
「……。そうか、そこまで辿り着いたか」
真祖は小さく呟くとふと笑みを消し、何か懐かしいものを思い出すように目を細めた。どこか遠い場所を見る赤い瞳は異形のそれだが、その奥に滲んで見える感情は人間のそれと同じに見える。
足下から噴き上げる熱が頬を撫でた。ルル・ベルの額から伝った汗が顎の輪郭に沿って滑り落ちるのと同時に、真祖は真剣な面持ちで口を開く。
「フカビトにとって人は餌。逆に人にとっては脅威であろう。されど……それだけであろうか?」
慎重に、窺うような声色の問いかけだった。質問の真意が理解できず答えあぐねる一行をじっと見つめていた真祖は、ふと視線を落として何か懐かしいものを思い出すような目をする。
「……僕は昔、ひとりの少女と出会った。フカビトの真祖たる僕を恐れず声をかけてくる子とね……」
「……! それは……」
「さて、聞こう人の仔らよ。人とフカビトが理解し合う事……友となる事はできるであろうか?」
再びの問いにルル・ベルは黙り込んだ。背後に控えている同行者たちが口を──あるいは手を出そうとしてくる様子は無い。全ての返答を任された事を感じ取った彼女は、しばし唇を噛んで思案すると、慎重に口を開く。
「……妾はそなたの事をなにも知らぬ。そなたらフカビトの事は実際に目にする前から危険な存在だと教えられ、出会ってからは幾度となく剣を交えてきた。しかし……」
「…………」
「……なれる。友にも、きっとなれる」
「僕らはお前たちを食らい、命を脅かすぞ。それでもか」
「殺し合いなど人間同士でもする。その口は噛みつくだけでなく想いを伝える事もできる筈だし、その手は武器を振るうだけでなく握手を交わす事もできる筈だ。我々も、そなたらも」
ルル・ベルはそこで言葉を切り、ふと息を吐き出した。目を伏せ、静かに、しかしはっきりと告げる。
「妾はそう信じたい」
少女の答えを、真祖は黙って聞いていた。静まり返る空間に噴き出す熱風の温度だけが満ちる。
やがて、真祖が小さく唇を開いた。どこか満足げな──それでいて呆れたような──しかしやはり微かな喜びを湛えた苦笑を漏らし、深い溜息を吐いて彼は呟く。
「……お前たちなら、そう答える気がしていた。……なのに問いかけた僕が、本当は期待していたのであろう」
真祖の異形の腕がゆっくりと持ち上がる。思わず身構えた一行だったが、予想に反してその指先はただ一点を指すのみで、それ以上の事は何も起こらない。指さされた先にいたインディゴが目を丸くする。思わずたじろぐ彼には構わず、真祖は静かに言葉を続けた。
「……何処で手にしたか知らぬが、お前たちの持つ空の玉碗。それは僕の手にあったもの。この世のモノでないモノをこの世に保つための力を持つ冠だ」
「……え? あ、これか……」
インディゴが荷物を下ろし、中から黄金色の碗を取り出した。真祖は小さく頷き、次にライディーンへ視線をやる。
「そして……星海の欠片を持つか。お前たちは僕の期待に応えるために来たようだ」
ライディーンもまたその言葉の意図を正しく察した。荷物から小石のような物体を取り出してそっと差し出す。それを確かめると真祖はそっと目を伏せ、何やら正確には聞き取れない、呪文のような言葉をぶつぶつと呟き始めた。
呪文に呼応するように、インディゴが持っていた空の玉碗とライディーンが持っていた星海の欠片がふわりと宙へ舞い上がる。まっすぐに飛んでいった二つが空中で合流し、ゆっくりと、星海の欠片が空の玉碗の中へ収まる──瞬間、辺りが眩い光に包まれた。
数秒のあいだ周囲を覆っていたその光が収まると同時に、思わず目を閉じていたルル・ベルの頬に何か温かい風が風が触れた。見てみれば、目の前に空の玉碗が浮いている。恐る恐る手に取る。碗の中に入った星海の欠片は淡く光り、どこか懐かしさを感じるような温もりを放っている。
もしかしなくとも。これが「白亜の供物」なのだろうか。
「……さぁ、それを泣き虫の姫に渡してやってくれ。真祖たる王から百年越しの届け物だとな」
聞こえてきた言葉にはっと顔を上げる。しかしその時には既に真祖は静かに目を閉じ、壁にもたれ座り込んでしまっていた。いったい何をしたのかと問うより先に、彼はぽつりと呟く。
「僕の目論見の一つは潰れるが……それでも悪い気持ちではない」
その言葉にはどこか満ち足りた響きがある。その真意を訊ねるべきか、迷ったルル・ベルが思わず背後へ視線を送るのと同時に、真祖は再び口を開く。
「さぁ急げ、あの世界樹に憑かれた王と遭遇すれば、姫には悲劇的な結末しか訪れない……。お前たちがそこに供物を届けることで……あの二人の事態は好転するであろう」
「……そなたは……グートルーネ姫を救いたかったのか」
「どうであろうな。だが、玉碗と星海の欠片を持つお前たちがこの場を訪れるのを……おそらく僕は、百年待った」
そう語った真祖だったが、ふと真紅の瞳を見開くと目前の人間たちを強い眼差しで見つめた。子供のように丸く大きな、しかしおぞましいまでに赤く異様な雰囲気を湛えた双眼に見据えられてぎょっとする一行へ、真祖は例のごとくしわがれた声で告げる。
「ただし人の仔らよ。僕が再び全能と化すとき人は最も絶望に近くなる……」
鋭く尖った指先がルル・ベルの手元を向く。瞬間、手袋に覆われた手の甲に鋭い痛みが走った。熱く焼けたものを押しつけられたかのような痛みはしかし、一瞬のうちに肌の上を駆け抜けたかと思うと嘘のように消え去る。
「痛っ……?」
「その手に印を与えおく。供物を届け終えたら、急ぎ来い。……姫の未来の為にもな」
慌てて手袋を外して手の甲を確かめるルル・ベルだったが、確かめたところ異変はひとつも見られない。痛みもすっかり無くなっている。真祖を見てみれば、彼は今度こそ壁に寄りかかって完全に沈黙している。
目を伏せたまま微動だにしないその姿を横目に見つつ、ルル・ベルは仲間たちをそっと促して後ろに下がった。ゆっくりと断罪の間を出て扉を閉じ、鍵がかかった事を確認し……そこでようやく、一行は詰めていた息を吐いた。
額に冷や汗を滲ませたルル・ベルが、その手の中にある白亜の供物を掲げ、半ば困惑したように呟く。
「まさか本当に何とかなるとは……」
「やっぱり考え無しだったんじゃねえか!!」
インディゴの叫びが石と溶岩に囲まれた部屋に響く。ルル・ベルはあからさまに面倒臭そうな顔をしつつ、いよいよ鬼の形相を浮かべて弩を構えだしたパーニャを押し止めた。確かに当たって砕けろの精神でここまでやって来たところは無いでもないが、結局のところ終わり良ければすべて良いのである。そういう事にしておいてほしい。
◆
さて、事態を解決する鍵となりそうな物──白亜の供物を入手したはいいが、このまま姫君と深王の元へ向かうというのは流石に無理がある。巨大カマキリを相手にした際の傷と疲労も癒えていない状態で探索を続ける訳にはいかないし、何よりお互いに頭の中を整理をする時間が必要だ。
そういう訳で『セレスト・ブルー』と『カーテンコール』はひとまずそれぞれの拠点に戻る事にした。今日は休息を取り、また明日合流して今後どうするかを話し合うという事で纏まった、のだが。はいそうですか、じゃあ今までの事は水に流して協力しましょう、とすんなりと受け入れられるようであれば、そもそも今までのいざこざが起こる事もなかったのである。
そして、そういう訳で。
「決して嘘を吐いていた訳ではないのです。マキナは不要な誤解を避けたいがためにですね」
「うるせえ~! 黙って正座してな!!」
インディゴが吼えれば、マキナは言われた通り口をつぐんで動きを止める。人間とは構造も太さのバランスも材質も違う脚はただ畳んで座っているだけでも上体がグラグラと揺れて妙に不安になる。おまけに床に傷もつきそうだ。
迷宮から戻ってきたインディゴがまず向かったのが、いつも通り掃除やら洗濯やらを片付けつつ留守番をしていたマキナの元だった。理由はもちろん、彼女とルル・ベルとの諸々を問いただすためである。
「もう良いじゃないの。マキナが正座したところで今更どうにもならないでしょ」
見かねたレイファがそう言って諫めるが、インディゴが態度を改める気配は無い。むしろますます険しい表情で振り返り、彼はレイファをきっと睨みつける。
「どうにもならないでどうにかなるようなら人と人との間に争いは起こらねえんだよ!!」
「うわ声でか……あんたどうしたの急に、……あ! なんで酒なんか持ってるの! 渡しな!!」
「やめろーっ!! 酒飲んで何が悪いってんだ! 何が悪いってんだよ!!」
「悪いのはあんたの酔い方だよ!」
インディゴがいつの間にか隠し持っていた酒のボトルを巡って争いを繰り広げる二人を横目に、ちょこちょこと歩いてきたティルが正座を続けるマキナの傍に寄る。
「セーザだいじょぶか?」
「実を言うと、関節部分に過剰な負荷がかかっています。この体勢を長時間維持すれば脚部パーツの不具合を招きかねません」
「ムリならやめるといいぞ」
「そうですか。ではお言葉に甘えて」
正座を解いて立ち上がったマキナは、小首を傾げると改めて周囲の様子を窺った。
いつの間にかギルド間の関係が好転しているらしい事はマキナにとって嬉しい誤算だった。探索から戻った途端にインディゴが怒鳴り散らしてきた時は驚いたが、勝手に深都へ出かけてルル・ベルと密談をしていた事については確かに自分に否がある。という事で、彼女は大人しく怒鳴られる身に甘んじていたのであった。正座は流石に無理だったが。
しかし今日の探索でいったい何があったのだろう。まだ詳しく聞いていないが、どうやら深王とグートルーネの関係を修復できるような手立ても見つかったという。一体何がどうなってそうなったのか気になるところではあるが、インディゴがこの調子では話を聞くのもしばらくは無理そうだ。
傍らで大人たちの争いを眺めていたティルを見下ろし、マキナは彼に訊ねる。
「ベロニカの様子はどうでしたか。怪我をしたと聞きましたが」
「んー、ケガニンだからおかしいっぱいたべるってワガママゆってた」
「元気なようですね。安心しました」
と、そこでマキナはある事に気付く。きょろきょろと見まわし、彼女は首を傾げてもう一度ティルへ問うた。
「カゲチヨはどこへ? アナタ方が帰還してから一度も姿を見ていませんが」
ティルは赤い瞳をぱちりと瞬かせ、んーぅと唸ると威勢よく答える。
「わからん!」
「そうですか。彼ならこの状況をどうにか収めてくれると思ったのですが」
そう言うマキナの視線の先ではインディゴとレイファの争いが小競り合いの域を超えて乱闘へと発展しかけている。ティルは話を分かっているのかいないのか、曖昧に頷くとあくびをひとつ漏らして胸元の首飾りを弄り始めた。どうやら彼は大人たちを止めに入る気は無いようである。
マキナはしばし思案し、二人の間に割って入るために最適な第一声を検索し始めた。だが彼女はまだ知らない、結局二人が落ち着いて互いに拳を収めるまで小一時間はかかる事を。そして喧嘩が終わったら終わったで再びインディゴにルル・ベルとの関係についてネチネチ言われる事を……。
◆
黒々とした水面に、白く輝く月光が絵の具でも垂らしたかのように落ちている。砂の上に投げ出した爪先のその向こうから聞こえる波音を聞きながら、沖合にぼんやりと浮かぶ船の影を眺めていたカゲチヨは、背後から聞こえる足音に気付くと一度瞼を閉じた。
戸惑うようにゆっくりと近付いてきた足音が背後で止まっても、彼は振り返らなかった。足音の主はしばしその場で立ち止まっていたが、やがてそっと一歩を踏み出すとカゲチヨの隣、少し距離を置いた場所に腰を下ろす。
広い砂浜には彼らの他には誰もいない。寄せては返す波の音の中で、二人は顔を合わせる事もなく、ただ隣り合って座っていた。沈黙はあまりに重く、指先ひとつ動かすことさえ躊躇われるような心地がする。だがいつまでもそうしている訳にはいかなかった。
どこか遠くの海面で魚が跳ねた。飛沫が散る小さな音を待っていたかのように、カゲチヨは口を開く。
「互いのギルドが、」
隣の男が振り向く気配がした。カゲチヨは顔を上げず、視線の先で泡立つ波の名残を見つめながら続けた。
「和解するというのに、俺とお前だけが……顔を合わせない訳にもいかない。だから、お前をここへ呼び出した」
「……わざわざこんな、懐かしいものを使って?」
返った声の端には僅かな震えが残っている。そこでカゲチヨは初めて自身の隣へ目をやった。膝を立てて俯きがちに座るタマキの指先に、小さな紙切れが挟まっている。それはカゲチヨが彼の荷物に滑り込ませていた手紙で、中に書いてあるのはいつかタマキが寄越したものと同じ、幼い頃に二人で決めた暗号だ。
カゲチヨは彼の言葉に僅かに眉根を寄せた。しかし一瞬浮かんだ表情もすぐに消え、どこか困ったように唇を引き結ぶ男の横顔だけが残る。彼は、言葉を選んでいるようだった。タマキはその横顔を見ながら、続く言葉を静かに待っている。
細く開いた唇から長い吐息が漏れた。いつもより強張った、しかしどこか弱々しいようにも聞こえる声で、カゲチヨは呟くようにタマキへ告げる。
「前にここで話した時、お前に……強く言い過ぎた。だから……すまなかった」
「…………」
「お前が俺を解放(・・)しようとした事は、分かる。そうするまでにどれだけ悩んだかも、分かっているつもりだ。だが、それでも俺は、あの時、アイエイアの港に置き去られた時……」
そこで彼は一度口ごもる。タマキは何も言わない。ただ、黙ってカゲチヨの話を聞いている。
ひときわ強く押し寄せた波が爪先を撫でた。冷ややかな感触が染みた靴の先端を僅かに持ち上げ、カゲチヨは目を伏せる。
「……棄てられたと思った。お前にとって俺はもう、要らないものになったのだと。お前にそんなつもりは無いと、知っていた筈だったのに」
「チヨ」
「今もそう思っている。恐らくどれだけ時間が経っても許せない」
だから、と何か言おうとしたカゲチヨだったが、その先に続く言葉が形になる事は無かった。黙り込んで俯いてしまう彼をじっと見ていたタマキは、繰り返し口を開いては視線を彷徨わせ、やがてカゲチヨから顔を背けて深く息を吐いた。
「……謝らなければいけないのは、俺の方だ。お前が言った事は何も間違っていない。俺はいつも、いつも……」
言葉を切り、潮風に吹かれて乱れた前髪ごと額を掻いたタマキの表情は、こみ上げる何かを堪えるように歪められている。少しのあいだ瞳を閉じていた彼は、やがて静かに告げた。
「なあチヨ、訊きたい事がある。……俺が国を出たのは、やはり俺が弱かったからだろうか」
カゲチヨは顔を上げてタマキを見た。薄く世界を覆う夜闇の中で彼の金の瞳だけが淡く浮かび上がっている。タマキはそれを直視できなかった。誤魔化すように、首筋を覆う襟巻を凝視する。
少し驚いたようにタマキを見つめていたカゲチヨは、やがて静かに答える。諭すような、慰めるような、気遣わしげな響きをその声に滲ませて。
「お前には政まつりごとは向いていなかった。だがそれはお前だけが負うべき責ではない」
「では、戦況を見誤って臣下を無駄死にさせた事は」
「戦場では確実な事など何一つ無い。人の命の行く先ともあれば猶更」
「……許嫁を身代わりにして生きながらえた事は?」
冷ややかな風が二人の間を吹き抜ける。まっすぐにこちらを向いていた金色が僅かに揺れたのを見た。
「お前のせいではない」
ひとつ、ふたつと呼吸を置いて返った声は重く沈んでいた。タマキは力無く笑った。視線を落とし、立てた膝の間を覗く。にわかに夜風が吹き抜け、さらさらと転がった砂の粒が濃い影の落ちる砂の上に波紋を描いた。
ぎこちなく笑みを浮かべたまま、彼はぽつりと呟く。
「俺は……お前がそう言ってくれる事が、何より辛くて苦しかった……」
「……、……」
「このまま一緒に居続ければ駄目になると思った。自分が犯した罪も忘れて、お前に頼りきりの愚図になってしまうと。だから距離を置きたくて……同じくらい、お前を自由にしてやりたいとも思っていたんだ」
なのに、と彼は表情を歪める。
「こうして再会してみたら、お前が新しい居場所を見つけていた事に腹が立った。嫉妬してたんだ。お前にも、お前の仲間にも。自由にしろと言ったのは俺自身なのに、友を奪われたと思うのを止められなくて……俺は……」
風に浚われるかのように細く消えていく独白を、カゲチヨは僅かに目を見開いて聞いていた。は、と小さく口を開け、何かを言おうとした彼だったが、戸惑うように視線を彷徨わせると石のように黙り込んでしまう。
波音が痛いばかりの静寂を二人の間に運んでくる。隣に並んで話をした事など何度もある筈なのに、改めて向かい合ってみれば飛び出してくるのは互いに知らない事実ばかりだ。カゲチヨはタマキと出会ってからの十数年を思い返す。あの頃は幸せだった。きっとタマキもそう思っているだろう。だが、もう幸せだった時には戻れない。先へ進まなければならない。過去にしがみつくのはやめて、歩き出さなければ。
──本当にそうだろうか?
深く、息を吸った。肺まで入り込んでいた沈黙を吸い込んだ夜風ごと吐き出し、意を決してカゲチヨは口を開く。
「人とは、過ちを正し、自らを変えられる生き物なのだそうだ」
借り物の言葉にタマキの肩が揺れた。静かな呼吸の音を聞きながら、散らばった感情をひとつに纏めて言葉を紡いでいく。それが本当に正しい選択なのかは分からない。だが、今しかない。今言わなければ何もかもここで終わりだと、そう思ったから。
伝えなければいけない。そうでなくては分からないままだ。相手の事も、自分の事も、何もかも。
「俺たちもそう在れる筈だ。諦めて投げ出すにはまだ早い、と、思う。だから話をしよう、タマキ。これまでどうしてきて、これからどうしたいのか……俺も、今度は自分で考えられるよう、努力する」
そうしたら、と、言葉と共にこぼれた吐息が微かに震えた。いつの間にか顔を上げたタマキの視線が頬に注がれているのを感じる。その顔を、カゲチヨは見なかった。
シノビにはいらない余計なものを、胸の奥から掬い上げて。ただひとりの人間として彼は告げる。
「そうしたら、またともだちになれるか」
返った沈黙は長く続いた。
やがて、波音に紛れていた呼吸音がつかえたような音に変わる。押し殺した嗚咽の合間に、震えた声が途切れ途切れに聞こえてくる。
「お、俺は……お前をシノビの任務から、解放してやりたくて……」
「ああ」
「でもともだちになれと命令(・・)した事が、お前を縛りつけていると……思っていたんだ。ずっと……そう思って……」
「俺はあの時、お前の言葉が嬉しかった」
返事の代わりに喉の奥からくぐもった音が漏れた。膝を抱えた腕に顔を押しつけ、しばし着物の袖に水分を吸わせていたタマキだったが、やがてゆっくりと顔を上げてカゲチヨを見た。ここに来て初めて、二人の視線がまっすぐに交わる。
赤く潤んだ目許もそのままに、タマキは掠れて上擦った声で問いかけた。
「俺たち、本当のともだちになれるか?」
「分からない。そうであったら嬉しいと思う」
「ああ、うん、そうだな……そうだな」
カゲチヨの答えにタマキは控えめな苦笑を浮かべる。すん、と洟をすすり、目許を擦った。涙の痕が消えた顔に浮かぶのは晴れやかな笑顔だ。
「お前に話したい事がたくさんあるんだ……」
その言葉に応えるように、カゲチヨは穏やかに瞳を細めた。引き結ばれた唇の端がぎこちなく緩む。僅かに頬が引きつったようにしか見えないその仕草が下手くそな笑みである事を、世界でただ一人、タマキだけが知っていた。
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