【SQ3】20 いざゆけ冒険者

「……グートルーネ?」

 呆然と呟く王の声を聞いた。姫君の紅玉の瞳が潤むのを、桃色に染まった頬に雫が伝うのを、見た。


   ◆


「これでハッピーエンド、めでたしめでたしで十分だろ。何だって俺たちが半魚人どもの相手をしなきゃならないんだ?」

 苛立ちを隠そうともせずそう言った男に、ルル・ベルは盛大に肩を竦めてみせた。パーニャを下がらせておいて良かった、と内心溜息を吐きつつ、彼女は応える。

「ここまで来ておいて何を……と言っても聞かぬだろうな。そなたらが抜けても妾は一向に構わぬが、そうなればフカビト討伐の褒賞は『カーテンコール』が全て受け取る事になるぞ」

「他所から出る金で人を釣ろうとすんじゃねえ」

 吐き捨てるように言い、インディゴは手にしていた地図を机の上に放り投げた。

 そもそもインディゴがわざわざ深都を訪れてルル・ベルと向き合っているのは、報酬の分配について相談するためだ。海都と深都を巡る一連の事件が兄妹の再会という形で幕を閉じ、功労者である『セレスト・ブルー』と『カーテンコール』にも相応の報酬が与えられる事になったため、その額について話し合おうという事になったのである。相談そのものはものの数分で終わった。話が途切れ、何とも言えない空気が流れたところでルル・ベルが切り出したのが、フカビトとの決着についての話題だった。

 フカビトの真祖は、自分たちを──正確には、「印」を与えたルル・ベルを──深洋祭祀殿の奥で待っているのだという。届け物を無事に渡してくれてありがとうお礼を言わせてください……というような用向きではあるまい。何故なら彼は、人間を食らい魔を信奉するフカビトの王だ。

 決着をつけようと言うのだろう。自由になった身で人間たちを食い潰す前に、自分たちを直々に叩きのめすつもりなのだ。

 近頃の瞬く恒星亭は随分と空き部屋が少なくなった。床越しに響いてくる話し声や足音が、自分たち以外の冒険者の存在を否応なしに意識させる。彼ら彼女らが自分たちの代わりにどうにかしてくれれば良いのだが、流石にそうもいかない。

「そなたらがどうしようが、妾は行かねばならぬ。ここまで事を運んだのは他でもない妾なのだから」

「一体全体、何がお前をそこまでさせるって言うんだ? こんな僻地の島国なんかのために……」

「助けを求められているのだ。応えない理由は無いだろう」

 あっけらかんと言い切ったルル・ベルを見て、インディゴはもうお手上げだとでも言うように天を仰いで盛大な溜息を吐いた。しばしこの世の苦虫を一堂に集めて噛み潰したような顔で沈黙していた彼だったが、やがてこめかみを押さえて呟く。

「いちいち癇に触るな、お前の物言いは……」

「…………」

「ああクソ、その顔やめろ! はいはい俺が大人げないです、悪かったです!」

 舌打ちをひとつこぼしたインディゴの鋭い視線がルル・ベルを捉えた。彼は自身のこめかみをぐいぐいと圧しつつ、もう片方の手で投げ出した地図をもう一度引き寄せる。

「頭(・)が動くのに下が動かない事は無いだろ。ゲートキーパーがいない今、フカビト共が三層へ上ってくる可能性は十分すぎる程にある」

「……防衛が必要だと?」

「雑魚どもを殲滅するには手数が要る。弩のガキと星術師……あと女戦士を回せ。この際ギルドで纏まって動く必要は無えだろ。メンバーを編成し直す」

 思わぬ申し出にルル・ベルが困惑したように視線を彷徨わせる。

「つまり……我々とそなたらで共闘するという事か……?」

「そう言ってんだろ。それとも、指揮系統が変わったからって動けなくなるような役立たずを抱えてるってか?」

「……まさか。皆優秀な戦士だ。妾がおらずとも立派に働く」

「そうかい」

 小さく鼻で笑い、男は広げた地図をペン先で叩いた。真祖が指示した「フカビトの扉」は地下十六階の奥に存在している。そこまでの道のりは、獣避けの鈴なり何なりを使えば余計な戦闘をせずとも十分に乗り切れる。となれば、パーティーも探索ではなく戦闘に特化したものに調整すべきだ。

「ベロニカとレイファを行かせる。術式をぶち込むまで回復しつつ騎士に守らせろ」

「残りのひとりは」

「……俺が入る」

「…………」

 思わず黙り込んだルル・ベルの表情を見て、インディゴもただでさえ険しかった顔を殊更に歪める。

「そっちに「メテオ」以上の火力が出せる奴がいるか、お前がベロニカの仕込み時間と術式の発動タイミングを把握して正確な指示を出せるってんなら、他の奴でも良いんだがな!」

「いや、それは、確かに無理だが……」

「は~あ……別に心配しなくても後ろから刺したりなんかしねえよ……」

 心からうんざりした表情で呟いたインディゴを、ルル・ベルは複雑な表情のまま見つめた。この男の事が少しずつ分かってきた。つまるところ、彼はできる限りリスクを負わずに利益を得たいのだ。先程ルル・ベル自身が言った通り、フカビトとの戦いに勝利すれば海都からも深都からも追加の褒賞が出る。インディゴはそれを欲しがっているのだ。そのために『カーテンコール』と共闘して少しでも勝率を上げようとしている。

 成程、こうしてみると分かりやすい動機だ。後ろから刺したところで戦力が減るだけで旨味は何ひとつ無いし、そもそも今更事に及べば間違いなく足がつく。もはや彼にその選択肢は無いのだ──ルル・ベルに対する感情がどうであったとしても。

 しばし黙り込んでいたルル・ベルだったが、やがて小さく溜息を吐くと一度だけ廊下の様子を窺い、それから声を潜めてインディゴに向き直った。

「そなた……嫡子を失ったキングストン家がどうなったか知っているか」

 唐突な言葉に青い瞳が僅かに揺れた。薄く開いた唇が言葉を紡がないまま閉ざされるのを確かめ、ルル・ベルは静かに続ける。

「領主の座を継いだのは血縁があるかも分からぬ遠戚の小貴族だった。初めは上手くいっていたが……やはり、奴には才覚が足りなかったようだ。キングストンの領地は国境に接する防衛の要。統治に綻びが生じれば、そこにつけ込もうとする輩はすぐに現れる」

 机の上に投げ出されていたインディゴの指先が天板を引っ掻いた。立てた爪が木目につかえて微かな音を立てるのを聞いたルル・ベルの瞳が物憂げに伏せられる。

「本当の事は妾にも分からぬのだ。妾を放逐したのは弟の意思なのか、それとも隣国から入り込んだ間者の陰謀によるものか……だが何度も思った。もし、そなたが──」

「それ以上言ってみろ、今ここで殺してやる……」

 返った声の温度に、身体が腹の底から冷え切っていくような思いがした。ルル・ベルは彼の方を見なかった。ただそっと溜息を吐き、己の中にほんの少しだけ残っていた過去への執着を踏み消す。今度こそひとかけらも残さないよう、噛みしめるように丁寧に。

「……そうだな、妾が悪かった。今の話は無かった事にしてほしい」

 そう告げ、ルル・ベルは足早に部屋を出ていこうとした。どこかに行く用事がある訳でもなく、ただその場を立ち去りたい一心でドアノブに手をかけた彼女の背中に、男の声がかかる。

「屋敷の中庭に、」

 はっと振り返りかけたルル・ベルを、インディゴは見るな、と低く呟いて止める。そのままの姿勢で息を呑む少女の背中越しに、彼はぽつぽつと語った。

「父が造った庭園があった。お前もあそこで茶を飲んだ覚えくらいはあるだろうが……まあ、植えられてたのは繁殖力の弱い園芸種ばかりだったから、手入れする奴がいなくなったならもう全部枯れてるだろう。お前が受け取った薔薇も全て」

「…………」

「あれは母のお気に入りで、当時の俺もあれが好きだった。だから渡した。他にこれといった理由がある訳でもない」

 だが、と彼は至って静かな、何の感情も読み取れない声で呟く。

「もう存在しない物に囚われたって何の意味も無い。こんなくだらない事さっさと忘れろ。俺も忘れる」

 それきりインディゴは沈黙する。そなた、覚えていたのではないか、と返そうとしたルル・ベルは、寸前で言葉を呑み込んで俯いた。扉の向こうから知らない冒険者たちの笑い声が聞こえてくる。手の内で握ったままのドアノブが、柔らかな手袋の生地と擦れて細い悲鳴のような音を立てた。

 は、と息を吐き、重く張りついていた唇を開く。声が震えなかった事を自分で褒めてやりたいと、そう思いながらルル・ベルは振り返らないまま告げる。

「──ああ、そうしよう。だが、だが……ありがとう」

 吐き捨てるように言い残し、少女は今度こそ部屋を出ていった。軽い足音がぱたぱたと遠ざかっていくのを聞きながら、インディゴは重く息を吐いて天を仰いだ。白く清潔な天井の角をじっと見つめ、誰に言うでもなく呟く。

「殺しときゃ良かったな。本当に」


 足早に階段を下りてきたのはどうやらルル・ベルだったようだ。しかしロビーで読書をしていたアルフレッドが顔を上げてそちらに目を向けた時には彼女は既に宿を出て外へ向かってしまっていた。怪訝そうな表情を浮かべ、彼は呟く。

「ひとりで行っちゃったみたいですけど、良いんですか?」

「良くないわ。私、追いかけるわね」

 足元に寝ころぶ獅子王を構っていたシナトベが颯爽と立ち上がってルル・ベルの後を追う。遠ざかっていく彼女の背を見送ったアルフレッドは、少し距離を置いて隣に座っているティルをちらりと見やった。……少年は背もたれに体を預けてすやすやと寝息を立てている。しばらく起きる気配は無さそうだ。

 遊び相手を失って暇になった獅子王が足首に猫パンチを浴びせてくるのをおっかなびっくりいなしながら、アルフレッドはひとつ溜息を吐いて手元の小説本を閉じた。さて、ひとり取り残されてしまったがどうするべきか。この子供と猛獣を置いて客室に戻る訳にもいかないし、しばらく待っている他ないだろう。

 と、そこでふと我に返り、アルフレッドは今日何度目か知れない溜息を吐く。仲間や『セレスト・ブルー』の面々は来たる真祖との戦いに備えて色々忙しくしているようだが、正直なところアルフレッドはそれどころではない。彼にはそれより大事な問題があるのだ。言うまでもなく、生き別れの妹──ベロニカの事である。

 ギルド間が敵対関係に置かれてしまった時は気が気ではなかったが、どうにか殺し合いになるような事態は避けてここまでやってこれた……のは良いとして、問題はこれからどうするかだ。自分の素性を明かすべきか。黙っていた方が事を荒立てずには済むだろうが、それはそれでこちらの精神衛生上よろしくない。現状、とにかく辛いのだ。特にいったい何が辛いのかを誰にも説明できない事が。

 床をごろごろと転がってへそを丸出しにしている獅子王をぼんやり眺めながらアルフレッドは小さく唸る。そろそろ勇気を出さねばならない。過去の諸々で悩みがち仲間だったタマキもカゲチヨと仲直りをしたようであるし、自分も後に続くべきだ。

 ──この戦いが終わったら、ベロニカに本当の事を言おう……。

 そう決意するアルフレッドだったが、彼は知らない。ちょうどいま彼の手元にある小説にもまったく同じ台詞が登場する事を。そして、そうしたいわゆる「フラグ」的な台詞を吐いたキャラクターにはおおよその場合同じ結末が待ち受けているという事を……。


   ◆


 迷宮内を徘徊するF.O.Eが何度倒してもいつの間にか元の場所に戻ってくるというのは知っての通りだが、経験則からするとその間隔はおよそ七日から十四日程度のようである。何故どの魔物も同じような間隔で再び姿を現すのか、何故その場所に固執するのか、原理は明らかでないが、ともかく重要なのはせっかく苦労して倒した魔物も時間が経てばまた元の場所に戻ってしまうという事だ。

「……つまり、邪魔だから定期的に倒しておこうって事か……」

 ライディーンが神妙に頷く。彼が見つめる先には毒々しい色の表皮を持つ巨大なトカゲの魔物の死骸がある。地下十二階をうろつくF.O.E、嗅ぎ回る毒竜だ。

「もっと上の階層なら他の冒険者が勝手に倒してくれるから、放っておいても邪魔にはならないんだけどね。三層だとまだ深いところまで進んでる人は少ないし」

「加えて、きみたちの場合は資金調達も兼ねてると」

「そういう事!」

 にっこりと笑みを浮かべてトカゲの角を掲げるベロニカにライディーンも苦笑を漏らす。彼女たちが商売道具である船を手に入れるために元手を必要としているというのは周知の事実だ。海賊船の相場がどの程度なのかライディーンには想像がつかないが、恐らくかなりの金額が必要になるのだろう。

「ま、事が終わったら追加でお金くれるって言うし、今そこまで躍起になる必要は無いんだけど」

「……意外だったな。きみたちも戦いに参加するなんて」

「私もそう思う。でも船長が行くって言うんだから付き合ってあげないとね」

 どこか呆れた調子で言い、少女は肩を竦める。ライディーンは続けて何か声をかけようとしたが、遠くから聞こえてきた声がそれを遮った。

「ごめんけど、そっち終わったならこっち手伝って!」

 少し離れた場所で魔物──トカゲと戦う前に倒した雑魚たちだ──から素材を剥いでいたレイファの呼びかけに、ベロニカとライディーンは顔を見合わせる。荷物を抱え直して彼女の元へ向かってみれば、そこには解体しかけのアクビノハシの死骸がいくつか並べてあった。

「知ってる? カモノハシって卵産むんだって」

「え? じゃあこいつらは鳥か何かなのか……?」

「さあ……でも確かに嘴あるよね」

「だから手伝ってってば!」

 先程より怒気の強まった声で急かされ、二人は慌てて手伝いを始める。死骸から嘴を外して荷物に詰め込んでいると、その間に周囲の警戒に出ていたカゲチヨとパーニャが何事か話し込みながら戻ってきた。その緊張感の無い様子を見るに、周囲に魔物の気配は無いらしい。

 レイファたちへの報告もそこそこに、二人は言葉を交わし続ける。

「そりゃ確かに人間相手なら頸を切れば死ぬでしょうけど。魔物はそうはいかないでしょ」

「刃さえ入れば毒は効く」

「ああ、あの神経毒? よく効くみたいだけど、あれ何から採ってるの」

「製法は教えられないが、原料はそう珍しい物でもない」

 ……これまでいざこざの事もあって心配していたが、どうやらそう悪い空気でもないようである。聞こえてくる会話の内容は妙に不穏だが。

 漏れ聞こえてくる毒がどうだとか急所がどうだとかの会話に眉をひそめつつ素材を荷物に詰め終え、レイファはよいしょ、と立ち上がる。ちょうどバッグも一杯になった事であるし、早く深都に戻ってインディゴたちと合流すべきだろう。

 ここ数日はギルド間の連携を図るため混成パーティーで探索に出ていたが、それももう十分な頃合いだ。そろそろ本格的にメンバーを編成し直し、フカビトの真祖との戦いに向けて準備を始めなければならない。正直なところレイファには真祖とやらが何なのかいまいち分かっていないが、恐らくそれが四層をうろついているフカビトどもより何倍も恐ろしい存在であろう事は理解できる。万一の事も考え、できる限りの用意をして挑まなければならない。

 と、そこでふとレイファは振り返り、近くにいたライディーンへ問う。

「そういえば、あたしたち以外は全員十六階で待機なんだっけ?」

「ああ。ルル・ベル様はそのおつもりだと仰っていたし、オランピアにもそう頼まれた」

「四層のフカビトたちがどう動くのか予測できないからとか言ってたわね。ほんと、なんでアタシがルル・ベル様と離れなきゃいけないのよ……」

 パーニャが心底不服そうな表情でブツブツとぼやき始める。ライディーンが視線だけで伝えてくる「気にしないでくれ」のメッセージを受け取って苦笑しつつ、レイファは続けて問いかけた。

「そっちの方の指揮は誰が取るの? うちのやつもルル・ベルさんもいないけど……」

「それは……」

 ライディーンはそこで言葉を切り、そっと視線を横へ向けた。レイファもつられて同じ方向を見る。

 揃って視線を向けられたカゲチヨは、相変わらずの無表情でそっと二人の方を二度見した。それから何度か視線を彷徨わせ、普段よりいくらか控えめな声量で応える。

「俺ではないが」

「ああいや、そうではなくて。サポートを任せられたと聞いたから……」

「サポート、というよりは」

 一度言葉を切り、カゲチヨは僅かに──ライディーンたちにそう見えただけで、実際どうだったかは分からないが──眉をひそめた。

「目付け役か、あるいはお守りか」

「あ、ああ……そう……」

「まあ、あれも引き受けたからには上手くやるだろう」

 そう言ったきり視線を外し、カゲチヨは隣にいたベロニカに荷物を預けると一人で先へ進んでいく。話題が宙に浮いたまま取り残されたライディーンとレイファは何も言わず顔を見合わせた。そこに浮かぶのはお互いに似たような困り顔である。すぐ後ろを歩いていたパーニャがふんと鼻を鳴らし、言う。

「放っておけばいいわよ。どうせアタシたちが相手するのなんて雑魚フカビトだけなんだから」

「それはそうかもしれないが」

「それより大事なのはルル・ベル様の事よ! ライディーン、アンタがしっかりしないといけないのよ。もしルル・ベル様の御身に何かあったら……」

 鬼気迫る表情で詰め寄ってくるパーニャをライディーンは心底困り果てた表情で押し止める。その話はもう何十回も聞いた。ライディーンも真面目とはいえ、同じことばかり繰り返しネチネチ言われては話を聞く気も失せてくるというものだ。

「分かってる分かってる。ルル・ベルの事はしっかりお守りするから、おまえもしっかりしてくれよ」

「は? 言われなくてもするわよ」

 冷たい声で返したパーニャにライディーンはいよいよがっくりと肩を落とす。こうも理不尽な対応をされてはあんまりだ。

 二人のやりとりを横目にレイファは大きく伸びをした。大きな戦いを控えているというのに、どうも緊張感が抜けてしまっていけない。果たしてこの調子で本当に大丈夫なのか。

 彼女の思考を読んだのか、荷物を抱えたベロニカが呑気な口調で言う。

「まあ大丈夫じゃない? 駄目だったら死ぬだけでしょ!」

 ……いや、それはまったく大丈夫ではないのだが。


   ◆


 一方、呑気すぎて不安な者たちとは逆に、悩みすぎて不安な者もいた。

 ネイピア支店が間借りしている家屋の奥、分解されたマキナが放置されていた倉庫で、タマキは何やら唸りながら頭を抱えていた。その手元にはいくつかのメモと迷宮地下十三階の地図がある。うんうん唸ってはメモにペンを走らせ、納得いかないような表情でメモを横にどけてはまたうんうん唸り……と誰が見ても明らかに思いつめた様子の彼に、傍らで自身の機体をメンテナンスしていたマキナが声をかける。

「タマキ。失礼ですが、今のアナタはたいへん疲れているように見えます。作業を進める前に一度休息を取る事をおすすめします」

「え!? い、いや大丈夫だ。問題ない」

「もう一点指摘させていただくと、先程書いたメモのインクが着物の袖に擦れて染みになっています」

「うわあ! 卸したてだったのに!?」

 慌ててインクの染みを擦り始めるタマキをマキナは僅かに首を傾げて見つめる。

 タマキがこうも平静を欠いているのは、彼がフカビトへの対応をするパーティーの指揮官として任命されたがためだ。つまり真祖の元へ向かうルル・ベルもインディゴの代わりに他の面子を動かせ、という事である。とはいえこちらのパーティーが相手にするのは基本的にフロアを徘徊しているような低級フカビトであろうし、深都が所有するアンドロ軍団も海底神殿内の警備に参加する予定であるため、それほど負担は大きくない筈……なのだが。

「ルル・ベル殿は俺の力を信頼して任せてくれたんだ……将として最大限の成果で応えなければ……」

 なんとも生きづらそうな男である。人がいない所で色々と作戦を考えたいから倉庫を貸してほしいとわざわざマキナに頼み込んできた事からもその生きづらさは十分すぎるほどに窺えるだろう。

 とはいえ複雑な情緒に疎いマキナがそんな事を思う筈もない。傾げていた首を反対側に傾け、淡々と彼へ問いかける。

「しかしアナタがひとりで思い悩まずとも、サポートをしてくれるヒトがいるのではないですか。カゲチヨが同じパーティーに配属されると聞きましたが」

「いや、あいつはサポートというより目付け役か……あるいはお守りか……」

「そうなのですか。それは失礼いたしました」

 当然、このやり取りに突っ込みを入れる者など存在しない。タマキは空ろな表情で虚空を見つめるばかりであるし、マキナは宝石のような瞳で彼を眺めるばかりである。

 と、その時であった。ノックの音が倉庫の中に響く。マキナがどうぞと応えれば静かな音を立てて扉が開いた。その向こうに立っていた姿を見て、タマキは思わず目を丸くする。

「……オランピア? 何故ここに……」

「用があって来た。あなたではなく、そちらに」

 機械の身体をマントで隠したオランピアはそう言ってマキナに目をやる。マキナも彼女とまっすぐに視線を合わせると、おなじみの動作で首を傾げた。

「マキナに用ですか。いったいどういった用向きでしょう」

 答えはすぐには返らなかった。オランピアはアンドロらしからぬどこか含みのある視線でマキナを頭から爪先までじっくり眺め、やがて独り言のような声で話し始める。

「あなたは深王さまの兵ではない。世界樹から授けられた技術を模倣し、かつての海都の住民が作り上げたアンドロ……それがあなた」

「肯定します。マキナは「ヒトの創造」を最終目標としてマスターにより設計された個人所有のアンドロです」

「そう。あなたは本来フカビトとの戦闘を想定されていない存在。だから、その機能には足りない部分がある」

 静かな声で告げ、オランピアはそっと右手をマキナへ差し出す。マキナはしばし鋼鉄の掌を見下ろし、やがて自らの手をそこに重ねた。瞬間、オランピアの瞳の奥がちかちか瞬き、マキナの瞳もまた呼応するように光を宿す。

 タマキは手を重ねたまま動かなくなった二体のアンドロを困惑した様子で見つめていたが、やがて小さく息を吐いて首筋を掻くと広げた地図に向き直った。どうやら彼も少しばかり気持ちが落ち着いたようだ。頬を叩いて気合を入れ直し、ペンを手に取って作業を再開する。

 それぞれがそれぞれの思惑を抱いたまま、戦いの始まりは刻一刻と近付いてくる。

 この状況に至ってもまだ、『セレスト・ブルー』も『カーテンコール』もこの戦いが普段の探索の延長線上にあるのだと思っている。しかし彼らを待つのはただの魔物などではない。静まり返った海の底、人智を超えた暗闇の向こう側にいるのは名状しがたき魔の眷属、恐ろしき深きものだ。

 その真の脅威も、世界樹の奥深くに根付く魔の姿も、その忌むべき名も。冒険者たちは何も知らない。

 何も知らないからこそ立ち向かっていける。愚かな欲望と蛮勇を胸に、未踏の海の底へ。

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