【SQ3】終
インバーの港には今日も多くの人が出入りしている。アーモロードと各都市を繋ぐ航路がほぼ復活した事により、海都にやって来る旅人の数はここ数か月で驚くほど増加していた──同じように、樹海に入る冒険者の数も。
「踏破されたら数が減るもんだと思ってたけど、違うんだねえ」
窓から大通りを見下ろしてしみじみと呟いたベロニカに、荷造りをしていたレイファが少々呆れた調子で応える。
「世界樹踏破の名誉や栄光は手に入らなくても、金は手に入るって事でしょ」
「ふーん。ところで、私たちの手には名誉も栄光もあるワケだけど」
何故か自信満々に振り返ってそう言うベロニカを見てレイファは眉間のシワを深くした。溜息を吐き、手元にあったタオルを少女の顔に向かって投げつける。
「わぷ!」
「いいから、あんたも荷物まとめな。忘れ物なんかしても簡単には取りに来れないんだから」
「えー、別にそこまで持っていきたい物とか、あんまり無いし……」
ベロニカはぶつくさ言いながら自分の荷物をまとめて箱に詰め始める。レイファはやれやれと肩を竦め、今度は不要品の分別に取りかかった。もう使い物にならない品はゴミ袋へ、まだ使える品はまとめておいて後で古道具屋へ。これからの事を考えると資金はいくらあっても困らないし、使えない・使えるの分別は甘めで構わないだろう。こんなもの買い取れないと言われてもちょっぴり「交渉」すればいいだけの話であるし。
物騒な事を考えながら作業を続けるレイファを横目に、ベロニカはおざなりな手つきで荷物を放り込むと窓の外に目をやった。今日のアーモロードは快晴だ。こんな天気がしばらく続いてくれれば、随分と楽になるのだが。ただ、まあ、もし多少の悪天候になったとしても今更予定は変えられない。何故ならば次の航海は海都での最後の大仕事になる。
セレスト・ブルー海賊団は、アーモロードからの出航を間近に控えていた。
◆
フカビトの存在も、白亜の姫と深都の王との関係も、ごくごく一部を除いて知る者はいない。これまで百年の間そうだったように、これから先もずっとそうあり続ける。ただひとつ異なるのは、アーモロードからただ一人の王族がいなくなり、同じように深都からも王の姿が無くなったという事だ。
港を出た船が徐々に沖へと遠ざかっていく。最後に挨拶をしたい、という要望に応えて見送りにやって来たインディゴとルル・ベルは揃って溜息を吐き、それから顔をしかめてお互いを見やった。微妙に険悪な空気が流れる中、ルル・ベルが周囲に聞こえない声で話の続き──船が出る前に話していた話題だ。出航時間が来てしまったために途中止めになってしまっていた──を切り出す。
「オランピアから協力を要請されたという話だったな。……フカビトの「神」との戦いへの」
「その調子だとそっちも断ったらしいな。ま、当然か……」
インディゴは潮風に吹かれて乱れた前髪を払いのけながら舌打ちをこぼす。そっちも、ということはつまり、彼もそうだという事だ。
「妾たちは十分に働いた。海都にも深都にも、これ以上返す義理は無い」
「同意見だ。…………」
急に黙り込んだインディゴにルル・ベルは怪訝そうな視線を向ける。しばし何事か考え込んでいた様子のインディゴは、小さく息を吐くと低い声で呟いた。
「お前、妙だと思わなかったか」
「妙……とは」
「深王の事だ。仲睦まじい兄妹の兄貴がわざわざ妹の記憶だけ失くすか? 自分が海都の王だって事は覚えてたくせによ」
ルル・ベルは眉をひそめた。確かに地上にいた頃の深王……ザイフリートは妹であるグートルーネと強く想い合っていたと聞く。それこそ、海都に残したグートルーネのために白亜の供物を探し求めるほどには。だというのに、いくら長い年月を経たとはいえ妹の事だけ綺麗さっぱり忘れてしまうものだろうか。
「確かに、少しおかしいとは思ったが」
「記憶を失ったんじゃなくて、消されたんじゃねえのか」
「……世界樹か」
「話が早くて助かるな。……まあ、そんな事ができる奴といえばそれくらいしか思いつかねえが」
やれやれと肩を竦め、インディゴは複雑な表情を浮かべる。その顔を見てルル・ベルは僅かに目を丸くした。
「意外だな、そなたがそのような事を気にするとは」
「いいように使われてたのが癪ってだけだ。結局俺たちも深王もグートルーネも全員、よく分からねえモン同士のでけえ戦いに利用されてたって事だろう」
「ふむ。だが我々にはもう関係あるまい。それに利用されていたとしても、結局のところ事態は丸く収まったのだから良いではないか」
ルル・ベルはそう言って視線を正面へ向ける。話し込んでいるうちに船はすっかり遠くへ行ってしまった。出航の直前、最後に見た兄妹の姿を思い浮かべる。二人は幸せそうだった。無論、その幸せを手放しで喜べるほど自分たちは呑気ではないが……それでも、運命に引き裂かれた二人がまた手を取り合えるようになったという事実は、素直に祝福すべきだ。
ルル・ベルがそう言えば、インディゴは苦々しい──本当に、これ以上無いほどに苦々しい表情を浮かべた。
「てめえ、本気で言ってんのか……?」
「? 一体何を……」
と、思わず聞き返しそうになったところで、ルル・ベルは小さく声を上げた。重々しく息を吐き出し、普段より一段階低い声で応える。
「別に妾とそなたの事を言っている訳ではないぞ、断じて。本当に心外だから勘違いするな」
「頼むから死んでくれ……」
明らかに生気を失ったインディゴが漏らしたその言葉は、今までルル・ベルが聞いた中で一番切実な声色でもって弱々しく響いた。一刻も早くこの場を立ち去りたいとでも言うようにさっと踵を返した彼の背中を、ルル・ベルはやれやれと首を振って追いかける。本当に面倒な男だ。だが、もう恐ろしくはない。
◆
大きな戦いがひとつ終わったからといってそれで全てが終わるという訳ではない。いくら嫌だと言っても歩みを止める事は許されないのが人生というものである。航海が終わればまた次の航海へ。船出は止められない。たとえ目の前に荒れ狂う波濤が押し寄せてきている事が分かっていたとしても、だ。
「本気か」
静かな、それでいて僅かに咎める色の滲む声で問いかけてきたカゲチヨに、タマキはひとつ頷いた。人通りの多いメインストリートに面したカフェのテラス席に座る二人の会話に、誰が耳を傾けている様子もない。何故なら二人の会話は彼らの母国語で行われているからだ。遠い辺境の国の言語を理解できる者は、少なくとも今この場には彼らの他に存在していない。
カゲチヨは僅かに目を細めて冷めかけの紅茶に口をつける。俺を説得する言葉を探しているのだな、とタマキは察した。自分を案じているらしい友人の行動に多少の引け目を感じつつも、タマキは自らの言葉を撤回するつもりは毛頭無かった。もう一度、確かめるように繰り返す。
「故郷くにへ帰る。出奔した俺の扱いがどうなっているのかは、分からないが……それでも戻らなければ。責任を投げ出してしまった贖罪のためにも」
「…………」
「ついていくなんて言ってくれるなよ。……「抜け」は死罪だ。お前が里に戻れば無事では済まない。そうだろう」
畳みかけるような言葉にカゲチヨの視線がわずかに逸れた。困り果てた様子で黙り込む彼に、タマキは手つかずのまま放置してあったケーキの皿を差し出す。宝石のように艶めくマスカットが乗ったそれにカゲチヨはゆっくりとフォークを伸ばす。
タマキがカゲチヨを伴って祖国を飛び出してから既に四年以上の年月が経過している。彼はいわゆる地方領主の嫡男ではあったが、元より権力争いが絶えない血筋であったし、恐らく現在は他の誰かが家を継いでいる事だろう。そもそもタマキが出奔した理由もそういったお家騒動に関係する部分にあるため、その事実についてはむしろ安堵する気持ちの方が大きいが……しかし、代わりがいるからといって全てを投げ出して逃げる事が許される筈もない。
タマキ自身、国に帰る事を恐れる気持ちは嫌というほどある。決断するまでにも随分時間をかけた。仲間とも散々話し合い、ようやく腹を括ったのがつい昨日の事だ。そしてこうして宣言した以上、撤回するつもりはもう無い。
絶品だと話題のケーキの欠片を口に運んでもカゲチヨの表情は神妙なまま、晴れる気配が無い。クリームの上から転げ落ちたマスカットをフォークの先端で突き刺しながらぽつりと呟く。
「腹を切れと言われるかもしれない」
「それは、まあ、俺もまだ死ぬつもりは無いからな。どうにかこう……回避できるといいなあ」
「生命に関わる事を願望で語るな」
正論である。タマキは誤魔化すようにはにかんで視線を逸らし、カップの底に僅かに残ったコーヒーを啜った。これ以上話題を深堀りされないよう急いで次の言葉を探す。
「ああー、そういえばお前はこれから、……いや、聞くまでもなかったな」
今度はカゲチヨが視線を逸らす番だった。彼の行く先など分かりきっている。何故なら彼はもう「セレスト・ブルー海賊団のカゲチヨ」だ。
困った様子で沈黙を続ける彼にタマキは慌てて責めている訳ではないのだと告げる。
「お互い好きにすればいい。海賊団は居心地が良いんだろう? ならきっとそれで良いんだ。それに、離れていても俺たちはともだちだ。……そうだよな?」
「ああ」
満足げに頷くタマキを見つめ、カゲチヨは小さく息を漏らした。マスカットとケーキの欠片とを一緒に口に運び、たっぷり時間をかけて咀嚼し飲み込んでから再び重々しく口を開く。
「送っていく」
「……お前たちの船で?」
「もし駄目であるようなら、また大陸に戻ればいい」
「さっきも言ったが、お前が戻れば……」
「それは、どうにか回避できるといいなあ、だ」
タマキは思わず眉間を押さえる。こう意趣返しされるともう何も言い返す事ができない。だが、それでもタマキは口をもごもごとさせながら食い下がる。
「だが最終的に決めるのは船長殿(・・・)だろう」
タマキの言葉にはあからさまな棘が含まれている。カゲチヨはその言葉に一度口を閉ざした。
『セレスト・ブルー』と『カーテンコール』が深く交流するようになって以降、タマキと「船長殿」は何かと折り合いが悪い。それはカゲチヨも理解している。だが、今の彼にはまあ大丈夫だろうという確信があった。何故ならあの男はカゲチヨには何かと甘いのだ。多少本気で頼み込めば恐らく受け入れるだろう。正直にそう言えば、タマキは僅かに顔をしかめてしみじみと呟く。
「お前、少し見ないうちに何というか……強かになったな」
まあ、それはそれで良い事か。そう苦笑して手元のコーヒーカップを掲げたタマキに、カゲチヨもティーカップを持ち上げて応える。二つのカップが小さな音を立ててぶつかる。未来の事はまだ何も分からないが、少なくとも今、二人の間に流れる時間は穏やかで優しいものだった。
◆
ライディーンは困り果てて頭を掻いた。相談に乗ってくれと言われて快く引き受けたは良いが、相談してきた本人が話もできない状態になってしまってはどうしようもない。
隣で突っ伏すアルフレッドの頭に、酒とつまみを運んできた酒場の女主人がこっそりとミントの葉を乗せる。ライディーンが顔をしかめて小声で咎めれば彼女は快活な笑い声を残してその場を去っていった。それでも微動だにしない頭から双葉をどけてやりつつ、ライディーンはアルフレッドにもう一度声をかける。
「事情は分かったが、おれからアドバイスできる事なんてもう腹を括れとしか……聞いてるか?」
「……もう少し……もう少し私の葛藤に寄り添った助言を……」
「そう言われても」
顔を上げないまま呻くように応えたアルフレッドに、いよいよライディーンはどうしようもなくなって手元のグラスを煽る。炭酸が弾ける微かな痛みを舌で転がせば甘い果実の香りが鼻まで抜けた。
アルフレッドの悩みとは、ベロニカとの関係についての事だ。なんと二人は生き別れの兄妹であるという。ライディーンは驚いたが、驚きが三周回って逆に冷静になった。アルフレッドの落ち込み具合がとてつもなさすぎてこちらは落ち着いてしまったとも言える。
曰く、真相をベロニカに打ち明けたいと思ったのだが、やはりどうしても勇気が出ないと。アルフレッドは今にも死にそうな顔でそう言ったがライディーンからしてみれば急にそんな事を聞かされても困るばかりだ。思いきって言えばいいだろうと答えても返ってくるのは先程のような煮えきらない言葉ばかり。ライディーンは疲れていた。ただでさえ旅支度で忙しいのに、新たな心労を持ち込まれて一体どうすればいいのだ。
「……まあ、その、なんだ。別に今日明日別れるわけでもないんだし、落ち着いてからまた考えてみればどうだ」
「でもそうしてる間も私は『セレスト・ブルー』の船で彼女と一緒に過ごさないといけないんですよ!?」
「め、面倒臭いな~……」
急に顔を上げて吼えるアルフレッドに思わず本音が出る。本当に面倒臭いが、だからといって放っておく訳にもいかない。何故なら出立はもう数日後だ。だというのに、アルフレッドはまったく荷造りをしていない。ただでさえ星術機関係の機材が多いというのに、だ。
そっと椅子に座り直し、ライディーンは本腰を入れてアルフレッドの説得にかかる。この際もう腹を括らなくても良いが、とにかく動いてくれないと困る。
◆
抱きしめられた獅子王が名残惜しそうに自らの顔を少年の顔に擦りつける。最後に大きな舌で彼の頬をべろりと舐め、それきり踵を返して森の向こうへ去っていく獅子王の後ろ姿を、ティルはじっと佇んだまま見送った。予想より遥かに静かな別れを見守りつつ、シナトベが困ったように笑って呟く。
「良かったの? あのまま樹海に放ってしまって」
「ご心配には及びません。獅子王は元々この周辺の森に棲息していた個体のようですので」
「それなら良いけれど」
獅子王は強い個体ほどメスにモテて大きな群れを率いる事ができるという話を聞いた事があるし、樹海で鍛えられた彼の将来はきっと安泰だろう。シナトベが獣が去っていった森の奥をしみじみ見つめていると、ティルがくるりと振り向いて元気よく両手を挙げた。
「かえるぞー」
「あら、もう良いの」
「ハラへった」
あっけらかんと言う少年に別れを悲しむような様子は見られない。シナトベは荷物から携帯食のビスケットを取り出して彼に分けてやった。嬉々としてビスケットをかじり始める少年を横目に、マキナがシナトベに向き直ってぺこりと頭を下げる。
「同行していただき、感謝します」
「気にしないで。『セレスト・ブルー』も色々忙しいでしょうし」
マキナは肯定します、と頷いた。彼女の言う通り、今の『セレスト・ブルー』はたいへん忙しい。というのも、彼ら海賊団は数日後にアーモロードを出て元々拠点としていた港へ帰る予定になっているのだ。誰も彼も準備に追われる中でティルが獅子王の見送りをしたいなどと言い出しても当然誰もついていってやれる筈がなく、仕方なく手が空いていたシナトベに同行を頼んだのだ。
「しかし、アナタ方も忙しいのは同じなのでは?」
「私たちには大した荷物は無いもの。あなたたちのお陰で船の手配をする必要も無くなったしね」
そう言ってシナトベは軽やかにウインクしてみせる。そう、一体何がどうなってそうなったのか、ルル・ベルたち一行もセレスト・ブルー海賊団の船に乗ってアーモロードを発つ事になったのだ。
事が決まるまでの詳しい経緯はシナトベもマキナもよく知らない。ただ最後まで運び屋かよ冗談じゃねえと嫌がるインディゴを説き伏せたのはカゲチヨらしいという事だけはルル・ベルから聞かされた。最初から最後まで何を考えているのかよく分からないシノビだったが、どうやら彼も彼なりに『カーテンコール』に対して思うところがあったようである。
「でも、そうなるとアーモロードで別れるのは……あなただけになるわね。マキナ」
僅かに表情を曇らせたシナトベの言葉に、マキナは肯定します、と頷く。
シナトベが言うとおり、彼女は両ギルドの出立には同行せず、アーモロードに……深都に残る事になっていた。否、より正確には彼女は同行しないのではなく同行できない。
「マキナたちアンドロは世界樹から供給される高濃度のエーテルをエネルギーとして稼働しています。アーモロードから離れればマキナたちは機能を停止せざるを得ません。これは覆せない事実です。確かに別れは悲しい事ですが」
「そう……ルル・ベル様が寂しがっていたわ。勿論、私もね」
「ありがとうございます。ですがご安心ください。つい先程、ルル・ベルにネイピア支店の住所をお教えしました。海都と深都の間でも郵便物のやりとりがなされるようになりましたので、マキナとアナタ方も文通が可能です。是非たくさん手紙を送ってください」
シナトベは曖昧な笑みを浮かべた。確かにマキナは今までと同じようにネイピア支店に留まるため手紙も簡単に受け取れるだろうが、こちらはこれからも旅を続ける身だ。文通もそう簡単にはいくまい。
しかし、便りが届くという事実は離れた場所にいても繋がっているという希望になる。今はそれだけでも十分だろう。
拾った枝を振り回しながら退屈そうに歩いていたティルが大きなあくびをした。少年のマイペースな様子に苦笑しつつ、三人は街へ帰る道をゆっくりと進んでいく。
◆
さて、数日後。
「野郎どもー、グダグダやってんじゃねえ! 点呼するぞー!」
ウィリーの声に応えるように上がった野太い歓声にパーニャは渋い表情を浮かべた。やはり、このようなむさ苦しい場所にルル・ベルを置くのは気が引ける。海賊なんて乱暴で野蛮だし、船長はアレだし、何も良い事がない。
とはいえ他の船を手配するよりも遥かに安価で目的地まで運んでくれるというのだから、あまり文句は言っていられない。こちらは立場としては客人である。あまり騒げば適当な港で下ろされるだけだろう。不機嫌極まりない顔のまま、パーニャはずんずん歩いて自分たちにあてがわれた船室へ向かっていく。
船内に部屋と部屋を区切る扉がわざわざ備えつけられている筈も無い。申し訳程度に設置された間仕切りを押しのけ、部屋に入る。
「ルル・ベル様! ……あれ?」
室内に目当ての姿が無い事を認めたパーニャの表情がみるみる険しくなる。思わずといったように舌打ちをこぼした彼女は、ずんずんと大股で歩を進めると部屋にひとりだけ残っていた男の背中を蹴飛ばす。
「あ痛ぁ!?」
「ルル・ベル様はどこ。さっきまでここにいらしたでしょ」
部屋の隅に向かって蹲るように座っていたアルフレッドは、そう言われて初めてパーニャの存在に気付いたようだった。涙目で振り返った彼は蹴られた箇所を撫でながら答える。
「さっき出ていったよ。外の空気を吸いたいって仰ってたから、甲板じゃないかな……」
「そう。まあアンタみたいな陰気なヤツの近くにいたら空気も悪くなるだろうし、風くらい浴びたくなるわよね」
「えっ……ご、ごめん……」
唐突な罵倒に困惑の表情を浮かべるアルフレッドをその場に放置し、パーニャは足早に部屋を出て甲板へ向かう。途中でレイファをとシナトベが話し込んでいるのを見かけた。声はかけなかったが、漏れ聞こえてきた会話を聞く限りどうやら今日の昼食はバカラオのスープらしい。パーニャにとってこの船で唯一楽しみにできるものはレイファの料理だ。滲んできた唾を飲み込み、梯子を伝って甲板へ上がる。
ルル・ベルの姿は船首側の端にあった。彼女の隣には何故かカゲチヨが立っていて、どうやら二人は何事か会話しているようである。パーニャはただでさえ強く刻まれていた眉間のシワをますます深くして二人の元へ近づいていく。
「ルル・ベル様」
「ん……パーニャ。どうした?」
「お姿が見えないので心配しました。……何を話していたんですか?」
「ああ、この船の事について色々聞いていたのだ。他の者はみな忙しそうだったが、カゲチヨは暇そうにしていたからな」
なあ? と問いかけられたカゲチヨがこくりと頷くのを、パーニャは複雑な表情で見た。他の船員たちが出航の準備に追われる中で彼ひとりが暇そうにしているというのはそこそこ問題ではないだろうか。
何とも言えない様子で見つめてくるパーニャの視線をそっと受け流し、カゲチヨは改めてルル・ベルへ向き直る。
「席を外した方がよろしいですか」
「いや、ここにいてくれ。勝手の分からぬ客人だけでこんな場所に立っていては、何を言われるか分からぬ」
承知しました、と応えたカゲチヨを見上げ、ルル・ベルはふと思い出したように訊ねる。
「そういえば。そなた、タマキがどこにいるか知っているか? 船に乗り込んでから見ていない気がするのだが」
素朴な質問にカゲチヨは一瞬視線を逸らした。彼らしくない反応にルル・ベルとパーニャが驚くよりも先に、彼は普段と同じ調子で簡潔に答える。
「船長室でインディゴとどこの港で降りるかを……揉め……相談しています」
「揉めているのだな……」
「相談です」
頑なである。
ともかく、そういう事なら今は船長室には近づかないのが吉だろう。ふうと息を吐き、ルル・ベルは船縁に手をついて目の前に広がる大海原を眺めた。海の果てまで続く空は雲ひとつ無い快晴で、絶好の航海日和である。ひとまずの寄港予定地であるアユタヤまでこの天気が続いてくれれば良いが。
──思えば不思議なものだ。漣の立つ広大な水面の果て、ともすれば終着点にも見える水平線の向こうにも、世界は限りなく続いている。懐かしい故郷やまだ見ぬ異国へ、そしてもっともっと向こうにはフカビトたちや世界樹がいたという空の果てのどことも知れない場所へ。
「……随分と遠くまで来たような気がしていたが、案外そうでもなかったのかもしれないな……」
「えっ、すごい詩的な独り言ってる」
「わーっ!?」
急に背後から聞こえてきた声にルル・ベルが慌てて振り返れば、そこにはいつの間にかベロニカが立っていた。まさか聞かれた上に突っ込みを入れられるとは思っておらず動揺するルル・ベルをよそに、彼女はパーニャを見て告げる。
「ライディーンさんから伝言。いちばん下の倉庫で作業してるから用があったら呼べって」
「ふーん」
「で、急に詩的なこと言ってどうしたの」
「深掘りするのか……」
ルル・ベルがげんなりしつつも思っていた事を素直に話せば、ベロニカは何が楽しいのか声を上げて笑った。
「すごいスケールの大きい事考えてるじゃん!」
「もしやそなた、妾を馬鹿にしているのか……?」
「馬鹿にはしてないけど。でもまあ分かるよ。私も星見てると空が広すぎて不気味に思えてくる事とかあるし」
と、そう言ってベロニカは空を見上げる。
「実際、何があるんだろうね? 空の果てって」
「知らないわよ。世界樹も空から来たとか言ってたし、他の世界樹もあったりするんじゃない?」
「それありそー。ま、私たちには関係ないか」
あっけらかんと言い残し、軽やかな足取りでその場を去っていくベロニカを見送って三人は顔を見合わせた。不満げに顔をしかめたパーニャが何か言おうとしたが、離れた場所から聞こえてきた大きな物音が彼女の声を遮る。何があったのかと音がした方向を覗き込もうとしたルル・ベルをカゲチヨが制した。
「船長室です」
「あ、ああ……」
彼の言わんとしている事を察し、ルル・ベルはやれやれと肩を竦めて船縁に頬杖をついた。では、荒波が収まるまでしばしここで時間を潰すとしよう。
再三眺めた海はもう一度見てもやはり青く美しかった。母なる大海原は恐ろしく広く、果てしない。この広さに比べれば人間同士の諍いも些細なものだ。だからといって今起こっている問題の程度が軽くなるという訳ではないが……そこは気の持ちようというやつである。
人間のひとりやふたり、たとえ恋したところで──あるいは相争ったところで、結局は世界の片隅で起こった小さな出来事にしか過ぎないのだ。過ぎ去った過去よりもっと広く、可能性に満ちた未来が、彼女の前には広がっている。
「ええいもう良い!! これ以上お前と話しても時間の無駄だ!」
「こっちの台詞だクソが! ぎゃあぎゃあ喚いてる暇があったら海でも泳いで頭冷やしてろ負け犬がよ!」
もはや揉めているどころの騒ぎではない。過剰な買い言葉に耐えかねていよいよ腰の刀に手をかけようとしたタマキの首根っこを、どこからか駆けてきたレイファがむんずと掴む。
海の荒くれものどもを尻に敷く彼女の腕力は伊達ではない。抗議の声を上げるタマキと神妙な表情を浮かべたレイファが部屋から出ていくのを眺めながら、インディゴは盛大な音を立てて椅子に腰を下ろす。同時に、騒ぎを聞きつけてやってきたのか、目を丸くしたティルが開きっぱなしの扉の陰から顔を出した。ちょこちょこと近寄ってくる少年の頭を雑な手つきで撫でた男の唇から、重々しい呻きが漏れる。
「隙を見て突き落とすか……夜の海に……」
「よくないぞ!」
「馬鹿、冗談だよ」
そして面白くない冗談を言っている場合でもない。そろそろ定刻だ──インディゴは緩慢な動作で立ち上がり、ティルを連れて部屋の外へ出た。あちこちを忙しなく駆け回る部下たちが彼の姿を見て声を上げ、顔を綻ばせていく。
作業の手を止めて視線を送ってくる野郎どもを見回し、インディゴは手を叩いて彼らに語りかける。
「お前ら、準備はいいか? 久しぶりの航海で興奮するのは良いが、この「お嬢さん」は今日が処女(はじめて)だからな。あんまがっつくなよ」
傷ひとつ無いマストを叩きながらそう言えば、ここ数ヶ月でもっとも気合いの乗った応答が返る。肩を竦めつつ改めて辺りを見回す。どこからか海鳥の鳴き声。眼下の港からは活気のある声が聞こえてくる。無風、快晴、一点の曇りも見当たらない、まるで航海のためにあるかのような日だ。
ああ、いい天気だ──と、どこか既視感のある感覚に目を細める。同時に傍らにいたティルがあーっと叫んで彼の袖を引いた。
「インディゴ! あれ! あれ!」
いったい何事かと彼の指す方向を向いたインディゴは、目に飛び込んできた光景にぽかんと口を開けて言葉を失った。晴れ渡った空を横切る、白い人影。マキナだ。例のごとく足裏のよく分からない機構から何かを射出して飛行する彼女は、こちらの視線に気付いたのかまっすぐに伸ばしていた腕を大きく振った。船首の方向から少女の歓声。無邪気なそれに思わず出かかった悪態を寸前で吞み下す。
何だかなあ、と頭を抱えたい気分になりつつインディゴは盛大な溜息をひとつ吐き出して、それからマキナが飛んでいった方向を見つめた。凄まじいスピードで上空を横切っていった彼女の軌道上には白い雲のような筋が一本、綺麗に残っている。しばし呆けたようにそれを眺めていたインディゴだったが、やがて頭上から視線を戻すと濃藍の髪を翻して部下たちの方へと向き直る。
「出航だ」
そうして、間もなく錨が上がった。真新しい帆を大きく広げた船は穏やかな風を浴びてゆっくりと動き出す。港から歓声にも似た声が上がった。自分たちを見送っているらしいそれを受け、船首に立つ少女が陸へ向かって大きく手を振る。海賊はその姿を横目に見てふんと鼻を鳴らした。けれど、それだけだった。
かくて船は往く。果てしなく広がる海のその先へ、どこまでも、どこまでも。
『最果てのセレスティアル』 完
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