【SQ3】21 海底に星の降る
死せる■■■■ ルルイエの館にて 夢見るままに待ちいたり
◇
一行を迎えた「真祖」は、以前とは見た目が随分と変わっていた。幼い子供の姿から、威厳ある大人の姿へ──あるいはこちらが本来の姿なのか。真相がどちらであれ、ひとつ確かなのはあの断罪の間の封印がもう意味をなさなくなったという事だ。
「……かくして姫君は救われ、僕は全能の父、異海の母へと戻った」
朗々と、謡うように真祖は語る。その声を聞いていると脳に何かが染み込んでくるような奇妙な心地になってくる。逸る心臓の音に意識を傾けて呼吸を整えたルル・ベルが、彼に向かって問いかける。
「そなたの望みは叶ったか」
真祖は一度口をつぐんだ。それから感情の読み取れない整った微笑を浮かべ、質問には答える事なく両腕を広げて宣言する。
「では終わりにしよう。お前たちの苦難に満ちた冒険の旅はここで結末を迎えるのだ!」
瞬間、真祖の身体は膨張を始めた。みるみるうちに肥大化して恐ろしい化け物へと変貌したフカビトの王を前に一行は武器を構える。ルル・ベルは一度だけ、横に立つインディゴの横顔を見た。彼は突剣を構えて真祖を睨むばかりでルル・ベルに視線を寄越す様子は無い。ひとつ息を吐き、吸い込み、声を張り上げる。
「行くぞ──!」
少女の号令と、真祖の名状しがたき叫びと。その二つを合図に戦いの幕は上がる。
◆
一方その頃、第四層の入口……地下十三階では残ったメンバーがフカビトたちの動きを見張っていた。つい先程、海底神殿全体を地震のような揺れが襲って以降、迷宮の空気がいやにざわついている。警戒は緩めないまま、手元の地図を指先でなぞりながらタマキが呟く。
「例の扉は十六階か……あちらも無事だといいが」
「あら。人の心配なんて、余裕ね」
シナトベの茶々にタマキはげんなりとした表情を浮かべた。余裕などある筈がない。こうして遠くの出来事に思いを馳せでもしていないと緊張で内臓がひっくり返りそうになるだけだ。
徐々に生気を失っていく男に苦笑を漏らしつつシナトベは周囲へ目を向ける。今のところ異変は無いが、じきに事が動く……そんな予感がする。確証は無い。ただの勘である。とはいえ彼女の勘はよく当たると評判なのだ。こと、戦いの気配を感じ取る勘については。
さて、ウォーミングアップがてらその辺りのライチョウでも殴り倒してくるかしら……と彼女が槌を握り直したその時、視界の端で固まっていた白い機体が動いた。彫像のように静止した状態から突如顔を上げたマキナは、くるりと振り向くとタマキを見る。
「報告します。十五階で待機中のアンドロたちがフカビトの活性化を感知したようです。上位個体を筆頭に上階へ向かってきています」
タマキの背筋がすっと伸びる。空気の変化を肌で感じつつ、シナトベはやれやれと肩を竦めた。ウォーミングアップをするまでも無かったようだ。
「位置は分かるか?」
「最も大きな一団は間もなく十五階の上り階段前に到着します。数体の下位個体で構成された軍団も複数感知していますが、そちらはアンドロ部隊で対処が可能とのこと」
そうか、とタマキは頷く。深王が──正確には、この国を去るつもりの深王に代わり対フカビト戦の指揮を執り始めたオランピアが派遣したアンドロ部隊は、神殿の各所に散らばって周囲の索敵と魔物・フカビトへの対処を行っている。つまり今のところ自分たちが優先して対応すべきなのは、先程マキナが言った大きな一団だ。
「階段から上ってこようとしているなら迎撃はまだ楽か……アルフレッド、パーニャ。下り階段へ行って一網打尽にしてくれるか」
「わ、私ですか……いや、良いですけど……」
「は? バカ? 前衛もつけなさいよ。弾幕を破られたら死ぬでしょ」
「うっ。じゃあシナトベ頼む……」
「分かったわ。こっちの物資持っていくわね」
医薬品が詰まったバッグを抱えたシナトベを先頭に、三人は急ぎ足で下り階段の方向へ向かっていく。いくらフカビトでも狭い空間で術式と矢弾の雨を食らえばタダでは済まないだろう。卑怯だのと言っている場合ではない。こちらは人数で劣っているのだから、戦法で有利を取らねば仕方がないのである。
後は、とタマキは顔を上げる。
「チヨ」
一声呼べば獅子王に跨ったティルにじゃれつかれていたカゲチヨが振り返る。理由も無く緊張しながら、既に短刀を抜いて戦闘準備に入っていた彼に指示を出す。
「この階にいるフカビトも……」
「分かった」
動き出しているかもしれないから、見てきてくれ──と続ける前にカゲチヨは頭巾を直しながら駆けていく。遠ざかる彼の背中をしばし呆然と眺めていたタマキは、やがて大きく息を吐くと肩を竦めた。相変わらず頼もしい。恐らく次に戻ってくる頃にはフカビトの首のひとつやふたつぶら下げているのだろうな……と物思いに耽るタマキの裾を、ティルがぐいぐいと引く。
「オレはなにする?」
「え、ああ……ここで待機かな。もし魔物が出てきたらやっつけてしまってくれ」
「んー! やるぞー!」
槍をぶんぶんと振り回す少年は随分とやる気満々のようだ。こちらも頼もしい限りである。
「マキナは引き続きアンドロたちと情報共有を行いつつ索敵を行います。周囲に反応がありましたら報告しますので」
「ああ、ありがとう。……」
ふと言葉を切ったタマキの顔に険しい表情が浮かぶ。マキナがどうかしましたかと問えば、彼は少々言いづらそうな様子で応える。
「思ったんだが、本当に真祖を倒せばアーモロードは平和になるのか?」
「『人の心配なんて、余裕ね』?」
「やめてくれやめてくれ! そういうのは!」
「冗談です。アンドロジョ~ク」
抑揚の少ない声のまま両手を広げて愉快なポーズをするマキナだったが、タマキは愉快どころではない。遠い目をして黙り込む彼にマキナはこてんと首を傾げ、咳払いに似た音声を発して話を戻す。
「アナタの懸念はもっともです。アーモロードを取り巻く問題の真の原因は「魔」であり、フカビトはその眷属でしかありません。抜本的な解決を目指すならば魔の討伐を視野に入れるべきでしょう。事実、深都の軍備は魔との決戦を最終目的として組織された軍勢です」
「……その魔という奴は、倒せるのか?」
「深都とフカビトとの戦いが百年のあいだ膠着状態に陥っていた事を見ればお分かりかと思いますが、現時点では難しいでしょう。しかし、今回の真祖との戦いが状況を変化させる可能性はあります」
と、そこでマキナは言葉を切ってタマキをじっと見つめる。どうやら長い話になるようだ。改めて周囲を見回し、魔物の気配が無い事を確認してからタマキは彼女に向き直ってひとつ頷いた。促されたマキナは先程とまったく同じ調子で話を続ける。
「魔が人の感情を糧としている事はご存じですか?」
「ああ。恐怖を「食う」んだろう?」
「肯定します。そしてその恐怖は多くの場合フカビトからもたらされるものです。地下深くに存在する見た事もない魔より、その場で襲ってくる現実的な脅威の方が「恐ろしい」というのは当然の事ですので」
「……それは、そうだな」
「ですが、今のアナタ方はどうでしょう。アナタはフカビトに恐怖を感じますか?」
その問いかけにタマキはうーんと唸る。恐怖……確かに感じないでもないが、それはフカビトに対してというよりは樹海に潜む魔物全般に対するものだ。それを除けばフカビトが特別恐ろしいというような感情は無い。何故なら奴らも斬れば死ぬのだ。物理的に排除できる脅威なら暴力で対処すれば済む。
「そうでしょう。アナタ方にとってもはやフカビトはもはや絶対的な脅威ではなく、樹海に棲息する他の魔物と変わりない存在です。つまり抜本的な解決に至らずとも人間がフカビトを制圧・・し、「魔恐るるに足らず」という認識がなされれば、それが魔の力を削ぐ可能性は十分にあります」
「そういうものか?」
「そういうものという事にしておきましょう」
よく分からないながらもタマキはふーんと頷く。同時に背後から聞こえてきた足音に振り返れば、見回りから戻ってきたらしいカゲチヨがそこに佇んでいた。事もなげな顔をしている彼の左手の先には予想通りフカビトの生首がぶら下げられていて、それを見たタマキは確かにこの調子だと魔とやらも大した事がないような気がしてくるな……と内心深く頷いたのだった。
◆
大した事がない、など、当然そんな気がするだけである。
喉の奥に突き刺さった痛いばかりの冷気にインディゴは膝をついたまま大きく咳き込んだ。放たれた氷の波は直撃こそ免れたが、どうやら避けきれなかった余波が手足を掠めたのが良くなかったらしい。妙に力の入らない指先を動かし、舌打ちをひとつこぼした彼は乱雑な手つきで胸元の首飾りを引っぱり出すとその表面を撫でる。
金色の首飾りの表面に灯った淡い癒しの光が脱力の呪術を消し去っていく。偶然近くでその光景を見ていたルル・ベルが、信じられないものを見るような目でぽつりと呟く。
「『リニューライフ』……」
「血筋(・・)なもんでなクソが……」
インディゴの実家──キングストン家は王家の遠い傍流に位置する家系だ。確かにルル・ベルのような直系でなくとも、王族の血を引いているならばいわゆるプリンスやプリンセスの力を多少使えてもおかしくはないが。
否、今はそんな事を考えている場合ではない。握り込んでいたメディカの瓶を一気に飲み干し、ルル・ベルは呼吸を整えて少し離れた場所で交戦を続ける残りの三人の姿を見る。
戦いが始まってどのくらいの時間が経っただろう。陽の差さないこの海底神殿では時の経過は感じづらいが、よくこれだけの時間食らいついていられたものだ、という事だけは分かる。最前列に立つライディーンの盾を暗がりから伸びてきた触手が薙ぎ払うように殴打する。衝撃に耐え、反対側から迫っていたもう一本を槍で突き刺した彼の傍らを今度は紫電が駆け抜けていく。瞬間、びくりと硬直したライディーンの陰にレイファが滑り込んだ。迅速な治療のおかげですぐさま体勢を立て直した騎士は努めて冷静に呼吸を整えると再び盾を構え直す。
「船長! はやく戻って、手が足りない!!」
振るわれた爪を星術で迎え撃ちながらベロニカが怒号を上げる。インディゴは思いきり顔を歪めると口に含みかけていたストナードを一気に咀嚼して呑み込み、彼女の元へと駆けていった。ルル・ベルはすぐには彼を追わず、一度落ち着いて戦況を見る。
見るもおぞましい容貌と化した真祖はその肉体から怒涛の攻撃を仕掛けてきていた。今までに見たどのような動物とも魔物とも異なる形状の触手や膨れ上がった上半身から繰り出される破壊の連打、加えて三属性のブレス──本当に口から出ているのか確かめていないが、便宜上ブレスという事にしておく──でこちらの動きを制限してくる戦い方は、そこらの魔物とは一線を画した知性を感じさせる。知性──そう、肉体の変化に伴って顔つきもすっかり魔物じみたものへ変貌してしまったが、姿に反して真祖にははっきりとした知性が残っている。彼は明確な目的をもって自分たちと戦っている。果たしてその目的に付随する想いを何と呼べば良いのだろう。だが彼の血肉の一滴から無尽蔵に生まれ出るはずの眷属たちは今この部屋にはいないのだ。その事実を、彼の「矜持」の顕れと言わずして何と言うべきか。
頭上の三つ目が怪しく輝く。瞬間、辺りを灼熱の炎が覆う。すぐさま防御を展開したライディーンを盾に前線へ駆け戻ったインディゴが迫っていた触手を叩き斬った。切り離された触手の先端は形容しがたい色の体液を飛び散らせながら床に転がったが、そこだけ時間を進めたかのように急速に腐敗を始めると黒い染みだけを残してその場から消え失せた。同時に先端を失った触手が泡立つように膨れ上がり、元通りの形に再生する。
ダマバンドの凶竜もかくやという光景に眩暈がするような心地を覚えたルル・ベルだったが、今はそんな場合ではない。視界の端で巨大な爪が持ち上がるのを捉えつつ剣を掲げ、叫ぶ。
「来るぞ!」
振り下ろされた爪が咄嗟に跳び退いたレイファの足下を抉る。すぐさま追撃を仕掛けてきた触手はベロニカが焼き払った。守りが手薄になったタイミングを見計らい、地を蹴ったインディゴが真祖の本体へ肉薄する。顔面を狙った刺突は正確な軌道で異形の左目を穿った。真祖の動きが止まる。
攻撃の手が緩んだ隙に十分な距離を取ったベロニカが術式の装填を始める。ライディーンが立ち位置を変え彼女を守る態勢に入った。「メテオ」を最大火力で起動するには入念な準備が必要だ。起動タイミングについてはルル・ベルのあずかり知らぬところであるため、そこはインディゴに任せるほか無いが。
ベロニカの守りに集中するライディーンの代わりにレイファが前に出る。ルル・ベルはその隣に並ぶと彼女の拳に杖を軽く当てた。己の拳を包む淡い光にレイファは驚いて振り返るが、ルル・ベルが無言で促せばすぐに頷き返して駆けだした。真祖を牽制し続けていたインディゴの元へ飛び込み、気合と共に拳を繰り出す。同時に弾けた光が硬い筋肉に覆われた胴を灼いた。
例のごとく、せっかく負わせた傷は見る間に癒えていく。だが再生のスピードは戦闘が始まった頃より遅くなっているように見える。畳みかけるなら今だ、と、そう思ったのはルル・ベルだけではなかった。
「──ベロニカ! やれ!!」
インディゴが叫ぶ。ベロニカが鋭く応えながら片手を掲げれば、神殿の天井近く、真祖の頭上に魔法陣のようなものが出現した。空気が鳴動する。物質化したエーテル塊がその名のごとく隕石のように降り注ぎ、動きを止めていた真祖へ直撃した。衝撃波が広がる。舞い上がった砂埃が頬にぶつかる。
やったか、などと。そう思う暇もなかった。
粉塵を裂いて目の前に現れた触手に、ルル・ベルは対応できなかった。体は動かないまま自身を貫こうとする触手の動きだけがいやに遅く見える中、襟首を強く引かれる感触と共に世界が一回転する。破壊音。衝撃は長く続いた。なにか重く速い何かがすぐ傍を嵐のように通り過ぎていく。状況を把握する暇も無い。強かに打ちつけた全身の痛みを堪えて腕を伸ばし、半ば這いずるようにその場を離れる。
何とか顔を上げたその時、まず目に入ったのは膝をつくライディーンの姿だった。比較的無傷のレイファが盾ごと彼を支えながら治療を施そうとしている。少しの間その光景をただ見ていたルル・ベルだったが、すぐに我に返った。荒く息を吐き、剣を支えに何とか立ち上がる。
邪魔な前髪を頭を振って払いのければ、視界の端にそれまで気付かなかった何かが転がっているのに気付いた。インディゴだ。彼は掠れた呻きを漏らしながら緩慢な動作で身を起こそうとしていた。その体から滴る、血。そこでルル・ベルは思い出す。先程自分を放り投げて触手から逃がしたのは、この男ではなかったか。
はっとしてインディゴの元に駆け寄ったルル・ベルは力の入っていない彼の腕を抱えて持ち上げようとした。だが自身より大きく重い男の身体を運ぶ事は、傷ついた少女の腕力では難しかった。苦闘する彼女に生まれた隙を、相手が見逃す筈もない。
瞬きひとつの間に放たれた眩いばかりの閃光が辺りを包む。回避できる余裕は無かった。咄嗟にインディゴに覆いかぶさるようにして伏せたルル・ベルを死の雷光が呑み込む。
◆
──仕事終えた獅子王がおやつ代わりのソードフィッシュを貪っている。彼のたてがみを退屈そうに弄んでいたティルが突如顔を上げて周囲を警戒し始めたのは、フカビトたちの侵攻をあらかた防いだシナトベたちが元の場所に帰ってきた直後の事だった。異変に気付いたカゲチヨがどうしたのかと訊ねるのをよそに、険しい表情を浮かべたティルはむむむと唸って床に寝転びだす。
「え、何よ急に……」
「どっかゆれた」
「揺れ……?」
そんなものは感じなかったが。しかしよく見てみれば床に耳をつけて警戒する彼の隣では獅子王が落ち着かない様子で小さく唸り声を上げている。アルフレッドが眉をひそめて星術機を起動し、星体観測で周囲の気配を探り始める。
「どうだ?」
「近くには何もありませんね。私たちが感じ取れなかったって事は、他の階なんじゃないですか?」
「肯定します。先程十六階に配備中のアンドロから通常のフカビトのものより強力なエネルギー波を感知したという通信が入りました。「扉」の向こうで真祖に何らかの激しい動きがあったものと思われます」
マキナの言葉に一同の表情が険しくなる。カゲチヨに視線だけで促されたタマキが素早く地図を広げ、現在地──地下十三階、地上へ繋がる磁軸の前から地下十六階の真祖の間までの道のりを確認し始める。
「さっき倒した以外のフカビトはどのくらい残ってる?」
「正確な数は把握できません。少なくとも先程のような軍勢が結成できるほどは残っていないと思われるが、かといってそう簡単に殲滅できるような数でもない、という表現がもっとも正確かと」
「ならあまり人員を割く訳にはいかないな。……」
物資の残数や迷宮の構造を確かめつつ救援に向かうメンバーを選定し始める一同の横で、マキナは直立したまま沈黙していた。青い瞳の奥がちかちかと光る。しばしそのままでいた彼女だったが、やがて小さく身じろぎすると話し合いに割って入るように口を開いた。
「マキナが行きましょう」
「え? でも他のアンドロとの連携は……」
「通信機能を搭載したボットを展開しておきます。こちらから発信はできませんが、フカビトに動きがあれば情報が送信される筈ですので」
そう言ってボットをその場に置き、簡単な機能を説明するマキナだったが、その内容を完全に理解できる者はその場にいる六人の中には存在しなかった。どう動いているのかよく分からない金属塊を少々遠巻きに見つめつつ、タマキは心配そうな表情でマキナに向き直る。
「ひとりで行くのか? 抜け道があるとはいえ、目的地みではそれなりに距離がある。単体行動は危険だ」
「肯定します。ですので、ひとりだけ同行していただきたいと考えています。よろしいですか? アルフレッド」
「……ん? 私!?」
まったく予想していなかったという風に驚愕するアルフレッドに、マキナは選定理由を事細かに説明した。星体観測で周囲の状況を探知できる事、接敵しても術式で魔物を一層できる事、ボットとの相性などなど。端的かつある程度の説得力がある理由の数々にアルフレッドはげんなりした様子で頷いた。渋々ながらも同意したらしい彼とマキナに十分な量の物資を渡し、シナトベがそれにしても、と頬に手を当てる。
「二人で行って間に合う? ほら、アルフレッドって足が遅いし、動きにくそうな服だし……」
「やめてください急に短所を指摘するのは」
「ご心配には及びません。その点については、マキナがこのように」
言うや否や、マキナは淀みない手つきでアルフレッドの身体を抱え上げる。相手を横向きに持ち上げ、両手で背中と膝裏を支える……いわゆる姫抱きの形で抱えられたアルフレッドは、事態が呑み込めていない様子で目を瞬かせた。
「…………えっ?」
「アルフレッドを運搬して目的地に向かいますので」
「成程それなら安心ね」
「えっ、ちょっ……」
「では、行って参ります。皆さんもどうかご無事で」
早口でそう告げるとマキナは足裏の謎の機構を起動して颯爽と滑るようにその場を駆け去っていく──アルフレッドの絹を裂くような悲鳴だけを残して。ふたりを見送った残りの五人はしばし顔を見合わせ、それから弾かれたように各々動き始めた。フカビトたちはまだ神殿内に残っている。ボケっとしている暇があるなら哨戒や見張りに向かった方が良い。
地図を畳んで戦闘の準備を整えていたタマキの隣にカゲチヨがやって来る。何か言われるのかと身構えたタマキだったが、予想に反してカゲチヨは黙ったままじっとこちらを見つめてくるばかりだ。怪訝に思って頭巾の下に覗く瞳を見つめ返せば、彼はごく控えめな声量で話しかけてくる。
「宿屋の通りに魚料理が旨い店がある」
「……う、うん?」
「事が済んだら連れていく」
それだけ言って踵を返す彼の背中をタマキは呆然と見送る。数秒間そのまま固まっていた彼だったが、はっとカゲチヨの真意に気付いて目を丸くした。魚料理はタマキの好物である。つまり、今のは「終わったらお前の好きな物食いに行こうぜ!」というお誘いだったのだ。誘い方が壊滅的に下手である。だが、まあ、分かってみればこれほど嬉しい事はない。なにせ、カゲチヨから食事に誘われたのは初めてだ!
タマキはテンションが上がった。上がったその勢いで、すぐ傍の壁際から飛び出してきたライチョウの首を叩き落とした。哀れ、一瞥もされていないというのに正確無比な一閃で頸を両断されたライチョウは、断末魔のひとつも無く床に崩れ落ちる。
満面の笑みで魔物の首を蹴り飛ばすタマキを、少し離れた場所にいたパーニャは信じられないものを見る目で眺めていた。だが彼女には彼に突っ込んでいる余裕が無い。彼女の脳内を占めるのは当然ルル・ベルの事である。
何か、嫌な予感がするのだ。だがパーニャも不安に駆られて己に与えられた任務をおろそかにするほど愚かではない。何度か深呼吸を繰り返し、気を引き締め直して弩に矢弾を装填する。祈りにも似た心境を抱きながら、彼女は曲がり角の向こうから近付いてくる金属音に狙いをつけた。
◆
熱を持った白に覆われた視界はしかし、一瞬のうちに夢のように掻き消える。ルル・ベルは停止した思考をすぐさま全力で回転させ、状況の把握に努めた。伏せた自分の背を支える手。顔の横に突き出された腕。よれたシャツに血の染みがついている。それが誰のものか、分かった瞬間に彼女は勢いよく身を起こした。
「なッ……!」
「勝手に被さってきてその反応とは良いご身分だな……」
返る声は地獄の底から響いているかのような重低音だ。支えていたルル・ベルの背から手を離し、インディゴは声色とは裏腹に至極落ち着いた動作で体勢を立て直す。その間に傷の治療が終わったライディーンが背後から駆け上がってきて、二人を守るように盾を構えた。真祖の触手が彼に襲いかかる。しかしその動きは先程よりも幾分か鈍い。続いて全力疾走で飛ぎ込んできたレイファが迫りくる触手を拳で弾く。
インディゴが立ち上がり、ルル・ベルを支えていなかった方の腕に持っていた何かを放り捨てる。鈍い音を立てて床を跳ねたそれは「耐雷ミスト」というラベルが貼られた小瓶だ。そちらに視線をやりながら、ルル・ベルもまた動悸を抑えつつ立ち上がり、彼に向かって問う。
「そなた、怪我は」
「あ? お前にも修行書読ませただろうが。「武息」だよ」
そう答える彼の声には疲労が滲んでいるが、破れたシャツの内側に覗く傷そのものは確かにすっかり塞がっているようだった。武息……その単語にはルル・ベルも覚えがある。確か、バタビアに伝わる治癒術だとか。
いつの間に……とルル・ベルが再度問いかけるより先に、インディゴが辺りを見回して声を上げる。
「ベロニカ! もう一回だ!」
その言葉に、少し離れた背後で座り込んでいた少女の肩がびくりと揺れた。顔を上げた彼女は近付いてきたインディゴに憔悴した表情を向ける。顔をしかめたインディゴがどうしたと問えば、返事の代わりに示されたのは細い肩を覆う星術機だ。
「おい、まさか……壊れたのか?」
「……エーテルを術式に変換する機構は生きてる。でも照準がつけられなくて……メテオは展開に座標指定が要るから、これじゃ発動できない……」
ぽつぽつと語る少女の声は今までに聞いたどんなものよりも弱々しい。インディゴはしばし顎に手を当てて考え込み、やがて大きく息を吸うとベロニカの腕を引いて半ば無理矢理立ち上がらせた。青い顔で自身を見上げてくる少女に、男は言い聞かせるように言う。
「メテオじゃなくても良い。狙いがつけられないなら連星術で一面焼き尽くせ。お前の力が必要だ。できるな?」
「……うん……うん!」
次第に瞳を潤ませながらも頷くベロニカの頭をぐしゃりと撫で、インディゴは踵を返して前衛へ駆け戻っていく。ルル・ベルは袖で目許を拭いながら術式の準備を始めたベロニカから少し距離を取り、奥歯を噛みしめて目前の光景を見つめる。
インディゴはああ言ったが、正直メテオ無しでは火力があまりにも足りない。そんなことは恐らくベロニカも分かっているのだ。だが、彼女は折れそうな自分を叱咤して戦おうとしている。ならばルル・ベルたちもまた、ここで諦める訳にはいかない。手立てを探さなければならない。圧倒的な破壊力以外で真祖の再生を封じる手立てを。
何かヒントは無いかとルル・ベルが血走った目で辺りを見回した、その時だった。背後から何か音が聞こえる。連続的な轟音のようなそれは明らかにこちらへ向かっているようで、彼女はぎょっとして弾かれたように振り返った。
赤い瞳に映ったのは、見覚えのありすぎる二人……否、ひとりと一機の姿。
「マキナ……アルフレッド!? どうしてここに……」
「話は後です。マキナも加勢しますので、どうか指示を。ルル・ベル」
マキナが足裏の謎の噴射を停止しながら淡々と告げる。ルル・ベルはしばし呆然と彼女を見つめ──自分を見つめる無機質の瞳の青さに我に返った。
「っああ……! では前衛の援護を頼めるか。奴は術式を使う。ライディーンが防御できなかった分をそなたのボットで防いでくれ」
「了解しました」
「アルフレッドは……」
「っぷ……ちょっ……と待ってくださ……よ、酔っ……」
どうやらマキナの運搬はよほど荒かったらしい。床に膝をついて口元を抑えるアルフレッドを見て、ルル・ベルは僅かに平静を取り戻した。戦場でグロッキーになっている人間を見ると一周回って冷静になる、という今後一切使わないであろう知見を得たルル・ベルは改めて真祖の姿を見る。
膨れ上がった異形の巨躯は所々が不自然に抉れている。インディゴや合流したマキナの攻撃によって負った傷はやはりすぐに塞がるが、塞がるだけ(・・・・・)だ。抉られて欠けた組織が埋まる事は無い。つまりそれは、真祖の再生力が失われてきているという事だ。それを確信したルル・ベルは呼吸を整えて再びアルフレッドを見る。どうにか吐き気を堪えきったらしい彼に、手短に指示を出す。
アルフレッドは一瞬だけ面食らったような顔をし、すぐに真剣な表情を浮かべて頷いた。
やっぱり駄目だ、と。ベロニカは今にも溢れそうになる嗚咽を呑み込みながら術式を練り続ける。どう考えても火力が足りない。連星術は確かに狙いをつけずに発動できるが、広範囲に拡散する分威力も下がる。これでは仕留めきれない。
戦場でこんな気持ちになるのは初めてだ──ベロニカには自信があった。自分の術式で敵を殲滅し、皆にすごいすごいと褒めそやされる自信が。しかし切り札のメテオが使えないのなら自分は中途半端な攻撃しかできないお荷物だ。でも、でも……と、彼女は鼻をすすってエーテルを圧縮する。
「──ベロニカ!」
唐突な呼びかけに振り返る。その拍子に堪えていた筈の涙が一粒こぼれた。いつにも増して顔色が悪いアルフレッドは泣いているベロニカを見て反射的に足を止め、一度目を泳がせてからぐっと拳を握って彼女の元へ駆け寄る。
「星術機が壊れたって?」
「……座標設定ができないの。どうやっても0,0,0で固定されちゃって……」
「見せて。……ここで修理するのは無理だな。でも他はほとんど生きてる」
ベロニカの星術機を検分し、アルフレッドは険しい表情で遠目に見える真祖に視線をやった。それから自分の星術機に手を伸ばし、機構を弄りながらベロニカに向き直る。
「ベロニカ。私が座標を指定する。君は何も考えず、最大火力でメテオをぶち込んでくれ」
「え?」
ベロニカは目を瞬かせた。何か言い返そうとした彼女はしかし、アルフレッドが星術機を起動したのを見て口をつぐみ、ぺちぺちと頬を叩いて術式の準備を始めた。ルル・ベルが前衛に号令を飛ばしているのが聞こえる。曰く、じきに星が降る(・・・・)と。
察しの良い前衛諸兄ならば余計な気を回さずとも存分に回避してくれる事だろう。そう信じてベロニカは宙を漂うエーテルを集めて術式へと変換していく。展開座標は既にアルフレッドが示している。その狙いが自分のものより正確な事に気付いて僅かに顔をしかめるベロニカだったが、そんな話は後で良い。
高く片手を掲げる。これで駄目ならそれはそれで仕方ない──そう思いながら彼女は術式を発動した。海底深くの薄暗い神殿に、星が降る。
最高火力のメテオは術式と言うよりもはや災害だ。訳の分からない熱量と衝撃に耐えながら後退したインディゴは額を伝う血を拭い、呼吸を整えた。治療をしにやってきたレイファを追い返してライディーンの方へ向かわせ、もうもうと立ち上る土煙の向こうに目を凝らす。終わったか。煙の中で何かが動いているような気配は無い。だが……。
「伏せてください!」
背後から鋭い声。反射的に床に張りつけば、頭上をマキナが文字通り飛んでいった。インディゴの前に躍り出た彼女に、煙を裂いて伸びてきた触手が絡む。
白む景色の中でぬっと姿を現した真祖は見るも無残な姿になり果てていた。フカビトとしても怪物としても、もはや形を留めていない。蠢く肉塊にしか見えないそれは、かろうじて残った瞳で目の前の敵を強く睨む。そこに宿るのは闘志だ。まだ終わっていない。彼は、彼の殺意は、まだ生きている。
嘘だろ、とインディゴは歯噛みした。回復やら薬やらで騙し騙しやってきたが、こちらの体力も限界だ。当初と比べれば本当に微々たる速度ではあるが、真祖の再生はまだ続いている。肉色の触手がライディーンとレイファに伸びた。寸前で避けられたとはいえ当然二人の動きも精彩を欠いている。もう一度メテオを叩き込もうとしても、恐らくそれまで前衛が保たない。
再生しきっていない触手がマキナを自らの元へ引き寄せようとしている。マキナは、抵抗しない。触手に斬りかかろうとしたインディゴを彼女は静かに制した。
「インディゴ。今すぐにここから離れてください。ライディーンとレイファを連れて、可能なかぎり早く」
インディゴははっと息を呑み、苦々しげに眉をひそめながらもすぐさま指示に従った。大声で二人を呼びつつ駆け足で後退していく。
マキナは足音が遠ざかっていくのを聞きながら遠隔でボットを操作する。インディゴたちに追いすがろうとした触手たちはボットに阻まれ、逃亡者たちの脚を止める事は叶わなかった。金属の胴に巻きついた触手は徐々に重い機体を引き込んでいく。
「……マキナ!? 何を……」
異変に気付いたルル・ベルが声を上げる。マキナは振り返らなかった。わざわざ振り返らずともセンサーによって仲間の位置は確認できるのだ。全員が無事に安全圏へ入った事を入念に確かめ、彼女はあるシステムを起動した。この戦いが始まる前、訪ねてきたオランピアによって転送された対フカビト用決戦システム──その名を「クルーエルティ」。
カウントダウンが始まる。マキナは真祖をじっと見つめながら、ルル・ベルに応えた。
「アナタ方と共に戦う事ができて光栄です。マキナはたいへん優秀なアンドロですが、同時にたいへん恵まれたアンドロでもあったのだと感じます」
「何を──」
「ですから。効率や理屈を抜きにして、自らを犠牲にしてでもかけがえのない仲間を助けたいと思うのは……ニンゲンとして当然のことではありませんか」
胸の奥に蓄積していた熱が膨張し、制御できないほどに膨れ上がっていく。思わず駆けだそうとしたルル・ベルをライディーンが抑えた。カウントダウンはもう片手で数えられる秒数に達している。彼女の思惑に気付いた真祖が最後に残った爪を振り上げてマキナを叩き潰そうとする。だがそれも、アルフレッドが咄嗟に放った星術に阻まれた。
その直前、辺りは痛いほどの静寂に包まれた。カウントダウンが終わる。三、二、一……ゼロ。
マキナの胸から閃光が放たれる。刹那、轟音。メテオもかくやという衝撃波が彼女を中心に一帯を包んだ。とても立っていられないそれを、身を縮めて、あるいはライディーンの盾に隠れてやり過ごす。
騎士の腕の中で守られながらルル・ベルは叫んだ。声の限り。
「マキナーーーっ!!」
だが、その名前も轟音に掻き消される。
すべてが終わった時、そこには何もなかった。否、円形に焦げた床の真ん中にバラバラになった金属の欠片と、真祖だったものが落ちている。足下に残る熱を踏みしめながら一行はそちらへ近付いていく。異形の巨躯も恐ろしい爪も不気味な触手も、もうどこにも無かった。
もはや生物とすら言えない物体と化した真祖は、それでも生きていた。
「……これで、滅びを避ける道が開いた」
その声に籠る威厳は変わらぬまま。しかしその肉体をゆっくりと崩れさせながら、真祖は、父にして母なる座は語る。
「聞け、人の仔ら……、父にして母なる座の最後の言葉を……」
彼は語る。古き時代の魔の降臨を。白亜の供物の真実を。……ひとりの少女の願いが叶った瞬間を。
「グートルーネから伝言だ」
真祖が語り終えたタイミングを見計らい、インディゴが静かに口を開く。
「『ありがとう』だとよ」
返ったのは小さな笑い声だけだった。
そうして、真祖の姿は跡形もなく溶けて消えていく。彼は満足げだった。だから、きっと……彼の望みも、叶ったのだろう。
静寂に満たされた広間で、六人は黙りこくったまま足元に転がっているものを見た。焼け焦げた金属片は間違いなくマキナの機体だ。その事実に誰も何も言えないまま、時間だけが流れていく。
「……あのー」
突如声を上げたのは、六人のうちの誰でもなかった。顔を見合わせ、慌てて辺りを見回す。
声の主は爆心地からかなり離れた床の上に転がっていた。それは生首であった。正確には人間のそれを模した、機械でできた頭部だ。
「申し訳ありませんが、運んでくださいませんか。見ての通り自分では動けなくなってしまいましたので」
いつもの淡々とした調子で、生首は──マキナは言う。他の五人に先んじて硬直が解けたインディゴが、裏返った声で彼女に声をかける。
「……え? いや、お前、自爆して……」
「肯定します。首から下のボディ部分を熱暴走させ、爆発させました。ですが電子頭脳は頭部パーツに搭載されていますので、爆発の直前でパーツを切り離せば、このように」
ところで運んでいただく事は可能でしょうか。と訊ねてくるマキナを見て、ルル・ベルが盛大な息を吐いて座り込んだ。他の面々もすっかり緊張の糸が切れたという様子で各々脱力する。この場でもっとも損傷しているくせにもっとも平然としたマキナだけが、不思議そうに仲間たちの様子を見上げていた。
ともあれこうして、長く続いたフカビトと人類との戦いは、ひとまずの決着を迎えたのであった。
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