【SQ3】幕引きの鐘よ誰が為に

 まさか魔物まで使役してくるとは思わなかった。『カーテンコール』が海洋祭祀殿の最奥、転移装置の安置された場所に辿り着いたその時、そこには手負いのクジュラがいた。彼は一行の姿を認めると、僅かに眼差しを鋭くして言った。お前たちも・王家の森へ侵入するつもりか、と。

 言葉を返す間も無く、彼は擦り切れた袖の中に手を入れると何かを取り出して『カーテンコール』の目の前へ放り投げた。よく見ればそれは殻を閉じた二枚貝だった──が、その貝が床を跳ねて口を開いた瞬間、辺りを白い霧が包んだ。煙る視界の中、みるみるうちに巨大化した貝の影が幻のように揺らぎ……そして、戦いが始まった。

 眼前に立つ異形の女は立ち込めた霧の向こうで艶やかに微笑んでいる。彼女が翳した掌にふ、と吐息を吹きかければ、紫色の煙が周囲に立ち込める。肌に纏わりつくようなそれは呪いの込められた魔性の吐息だ。矢弾を放とうとしていたパーニャが慌てて引金から指を退き、テリアカを取り出す。

「く、くそ……折角狙いつけてたのに!」

「落ち着け。体勢を立て直したらもう一度だ」

「はい!」

 威勢よく返事をして構えを取り直すパーニャから視線を外し、ルル・ベルは敵の様子をじっと観察する。黒髪の女は戦闘が始まった時と変わらず優雅に佇んでいるが、その輪郭が時折揺らいでいるのを彼女は見逃さなかった。霧に紛れて見えづらいが、女の立つ巨大な貝にも所々が欠けてヒビが入っている。

 恐らく、あちらもかなり追い詰められている。ルル・ベルは剣と盾を握り直し、相手の動きに意識を集中させた。

 女の眼が怪しく輝く。降り注いだ氷の雨はライディーンが防いだ。砕けた氷の破片がきらきらと宙を舞う。矢弾の再装填を終えたパーニャが、バラージで周囲を一掃した。弾薬が爆ぜ、霧のヴェールに無数の穴が開く。女が両手を大きく広げた。翻った衣の内からまた霧が漂いだすその前に、ルル・ベルが声を上げる。

「今だ、叩け!」

 刹那、視界の端でじっとしていたシナトベが弾丸のように駆け出した。振り抜いた槌が確かに魔物の胴を捉える。返す勢いでもう一発、二発、三発……がむしゃらにも見える連撃は、五度命中した。いくら殴っても女の肌には傷ひとつ残らないが、それも全てまやかしだ。素足の下、足下を支える二枚貝が音を立てて割れる。砕けた破片が崩れ落ちるのに従って、女の体勢もぐらりと崩れた。その背後、音も無く女の傍まで忍び寄っていたタマキが、刀をすっと振り上げた。

 一刀の下に落ちた首は、胴から離れた瞬間に血飛沫のひとつも残さず掻き消えた。同時に巨大な貝も、漂っていた霧も、幻のように消え失せる。

 後に残されたのは掌に収まる大きさの貝殻だ。割れて尖ったそれを慎重な手つきで拾い上げ、辺りを見回す。クジュラの姿は既に消えていた。相変わらず退き時をわきまえた男だ。ただ、直に手を合わせていなくとも彼が手練れの剣士である事は容易に想像がつく。もし相手取る事になればかなりの苦戦を強いられる事だろう。

「ルル・ベル様。あちらに……」

 歩み寄ってきたライディーンが広間の奥を指す。彼が示しているものが何なのか、ルル・ベルにも分かっていた。薄暗い通路の奥、突き当たりに見えるそれこそが、彼女らの捜していたもの……アーモロード王家の森へ繋がる転移装置だ。


   ◆


 最近は深都にも冒険者の姿が増えてきた。深王は海都との──正確には元老院との──交流は一切断つとしたが、海都からの冒険者の受け入れは中止しなかったのである。その真意を窺い知る事は『カーテンコール』にはできないが、とにかく人が増える事そのものは決して悪い事ではない。

 窓の外から漏れ聞こえてくる冒険者たちの話し声に耳を傾けながら、ルル・ベルは机に広げた包みの上からクッキーを一枚取って口に運んだ。宿屋の娘が差し入れてくれたおやつは素朴な味ながらほのかな甘みが絶妙で、ぼうっとしているとつい手が伸びてしまう。

「ルル・ベル様、紅茶のおかわり淹れましょうか?」

「ん……いや、もう十分だ。そなたこそ、妾に茶を注ぐばかりで喉が渇いてはおらぬか」

「アタシは大丈夫です。必要になったらすぐに言ってくださいね!」

 にこやかに言って茶器を机の隅に除けるパーニャに苦笑し、ルル・ベルは広げた地図に視線を落とした。

 白亜の森の探索を開始してしばらく経つ。彼女らに課せられたミッションはあの森のどこかにいるというグートルーネ姫を見つけ出し、あわよくば討伐する事だが、現時点では姫君の姿どころか人がいる痕跡すら見つけられていない。自分たちより先に森に入った深王とオランピアも捜索には手こずっているようだった。とにかく今はしらみ潰しに探索していくしかないだろう。

「十七階の中央にまだ行っていない場所がいくつかあったな。明日はそこから探索しよう」

「はい。そういえば、一昨日持って帰った蜂蜜で新しい薬ができたそうなので買ってみました。何でも、アムリタの改良品だとか」

「アムリタか、ではアルフレッドに渡しておこう」

 そう返せば、パーニャは分かりました、と頷きながらも何とも言えない表情を浮かべた。どうしたのかと振り向いたルル・ベルに、彼女は少々口ごもりながら告げる。

「アルフレッドは……奴ら(・・)と会っても、戦うつもりが無いって」

「……そうか」

「良いんですか? やる気がない奴なんかいても、邪魔になるだけじゃ……」

「パーニャ」

 静かに呼べば、パーニャはすぐに圧し黙って口を閉じる。ルル・ベルは彼女の眼をまっすぐに見つめて、一言一言を確かめるように語りかけた。

「妾は誰かの心を支配したい訳ではない。そなたが妾を心配してくれているのは分かるが、彼がどうしても譲れないと言うのであれば、それを無理やり改めさせる訳にはいかぬ」

「でも……」

「すまぬな、パーニャ。妾はそなたに不安ばかり抱かせてしまう、不甲斐ない主だ」

「そんな! そんな事……」

 ありません、と消え入りそうな声で呟き、パーニャは表情を歪めて俯く。ルル・ベルもまた目を伏せた。悪いと思っているのは本心だ。けれど、どうしても甘えてしまう。結局のところ自分は彼女の献身を利用しているだけではないかと、そう思う時は何度もあるが……それでもだ。

 何故なら、ルル・ベルにとってこうして寄り添い合える相手は、もうパーニャひとりしかいないからだ。

 俯いて黙り込んでいたパーニャが、ふと顔を上げてルル・ベルを見つめ返した。どこか悲しげな、痛みに耐えるような表情で──しかし瞳には確固たる決意の光を宿しながら、彼女は口を開く。

「姫様……アタシ、絶対に姫様を守りますから。絶対に……」

「……、ありがとう、パーニャ」

 ルル・ベルがそっと手を伸ばせば、パーニャの手がその指先を優しく包んだ。寄り添う二人の少女を置き去りにして、時計の針だけが刻々と音を響かせ続ける。


 ライディーンが騎士になりたいと思ったのは、騎士という言葉の高潔な響きに憧れていたからだ。

 実際の騎士の生きざまがそう綺麗なものではない事くらい、当然分かっていた。だがそれでも騎士になる事は彼の夢だった。騎士になって、誰かのために戦いたかった。叶うならば、傷付けられ虐げられる人々や、何かに抗いたくとも力の及ばない人々のために命を使いたいと、彼は本気でそう思っていたのだ。

 今のライディーンの命はルル・ベルのためにある。ルル・ベルを守り、苦難の道を行く彼女の道行きを支える事が彼の望みだ。そのためならば、目の前に立ち塞がるものなど全て切り捨てられる──たとえそれが何の罪も無い弱き人々であっても。

 己の信念が大いなる矛盾をはらんでいる事にも、彼は気付いている。二律背反の中、軋みを上げて擦り潰される心を抱いて、それでもライディーンはここまでやって来た。やって来れてしまった。だから、もう戻れない。

「だが、おまえは違う」

 そう告げれば、黒衣に包まれた星術師の肩は僅かに揺れた。それ以上の反応が無い事を確かめ、ライディーンはもう一度彼に懇願じみた声を投げる。

「アルフレッド。今ならまだ間に合う。……抜けるのなら、今しかない」

「…………」

「おまえがどう考えていようが、必ず衝突は起きる。その時におまえを庇ってやれる余裕は、たぶん無い」

 ベッドに腰かけて俯いていたアルフレッドが顔を上げてライディーンを見た。僅かに細められた右目の縁を隈が彩っている。自身を見つめるライディーンの青い瞳に何を思ったのか、物憂げに溜息を吐いてもう一度俯き、彼は呟く。

「抜けたって、行くところなんてありませんよ」

 静かで、それでいて何もかもを諦めたような声だった。圧し黙るライディーンへもう一度視線をやり、アルフレッドは淡々と続ける。

「私はね、ライディーン。あなたたちに感謝してるんです。行き場も無く、せっかく習った星術も活かせず、何もできず燻っていた私を、あなたたちはここまで連れてきてくれた。それは本当に、奇跡みたいな巡り合わせだったと思うから」

「アルフレッド……」

「だから、あなたたちの行く末を見届けたい気持ちも、確かにあるんです。けれどそのために彼らを手にかける覚悟は私には無いし、……ああ、違うな。そういう難しい話じゃなくて」

 細く吐息を漏らしながら、彼は目許を擦る。その拍子に前髪の奥に隠されていた顔の左半分前が一瞬だけあらわになった。額から頬までを覆う引き攣れた火傷痕がどういった経緯で刻まれたものなのか、ライディーンは知らない。けれどアルフレッドはそれをいつも隠して、誰の目にも触れさせたがらないでいる。それだけが重要で、確かな事実だ。

 目許を掌で押さえたまま、アルフレッドは弱々しく言った。

「役立たずだからって、捨てないでくださいよ。もうどこにも無いんです。行く場所も、帰る場所も」

 ライディーンの顔がいよいよ歪んだ。言葉を発した本人より悲痛な表情で、騎士は唇を震わせる。

「そういう事を、……言わせるつもりじゃなかったんだ。すまない……」

「分かってますよ。あなたは良い人だ」

 そう言うと、アルフレッドは一呼吸置いて顔を上げた。目の前に立つライディーンの表情を確かめ、彼は血色の悪い顔に力無い笑みを浮かべる。次に口を開いた彼の言葉は、単調な響きながらも僅かな自嘲が滲んでいた。

「戦う覚悟が無いと言いましたけど……私は、もし実際に目の前で戦いが起こったとしても、それを止めようとはしないし……あっちの人たちが死にかけてたとしても助けようとはしないような、そんなどうしようもない奴なんです」

 ──だから、そんな顔するのはやめてくださいよ。それから……本当に、ごめんなさい。

 部屋を出たライディーンは、閉めたばかりの扉にもたれかかると天井を仰ぐ。どうしてこうなってしまったのだろう、という思いばかりが胸を占めている。アルフレッドだって必ずしも間違っている訳ではないのだ。けれど状況が悪すぎる。もし予想した通りの戦いが起こったとしても、きっと自分の盾は彼を守れない。

 ままならない事ばかりだ。叶うならば、誰も不幸せになどなってほしくないというのに。

「酷い顔ね」

 そう声をかけてきたのは、廊下の向こうからやってきたシナトベだ。彼女は振り向いたライディーンへにこやかに笑いかけると、そっと彼の胸に手を当てる。

「また他人の事で悩んでいるのね。あなたっていつもそう」

「……すまない」

「良いのよ。私、あなたのそういうところが好きよ。だから好きなだけ悩んでいて? その間に私が全員殺しておくわ」

 シナトベの顔には言っている内容とは真逆の穏やかな微笑みが浮かんでいる。ライディーンは僅かに顔をしかめた。彼が何か応えるより先に、胸元に添えられていた手が離れていく。うふふ、と小さな笑いを残して立ち去っていくシナトベの背中を見送り、騎士は思わず項垂れた。自分を思いやってくれているのは分かるが、だからといって勢いのまま敵陣に突っ込んで行かれるのは困る。自分のように思い悩めとまでは言わないが、せめてもう少し自重というものを覚えてはくれないものだろうか。

 ……だが、今は彼女の事が、少し羨ましい。


   ◆


 足を踏み入れた王家の森の空気は涼やかで静謐としている。

足下には周囲の景色が反射して見えるが、どうやら薄らと張った水の表面が鏡のように風景を映している、というような具合らしい。この世のものとは思えない美しい風景だが、いざ探索を始めるとこの風景のせいで平衡感覚が狂って仕方ない。上下左右にどこまでも白い森が広がっているかのような錯覚を覚えながら、『カーテンコール』は着々と迷宮を進んでいた。

「いくら歩いてもぜんぜん慣れませんね……なんかフワフワする感じで、ちょっと気持ち悪いです」

 と、靴の裏についた汚れを拭い落としながらパーニャが言う。隣で地図を描き込んでいたルル・ベルもまったくの同意見だと深く頷いた。

「この霧や床もそうだが、あの……鳥居? も厄介だ。侵入者を阻む機構としては、これほど有効なものもあるまい」

「単純に魔物も強いし、簡単には進めないですもんね」

「二人とも、素材採り終わったぞ」

 そう呼びかけてきたのは巨大なサソリの尾針を抱えたタマキだ。二人は顔を見合わせて頷き合うと彼の元へと歩いていく。

 一行が探索している地下十九階──と、便宜上呼ばれている場所──は、潜ると別の場所へ転移する不思議な鳥居の乱立するフロアだ。初めこそ戸惑った仕掛けだが、よくよく検証してみた限りこの鳥居はあくまで特定の方向から潜った時にだけ、直線上に存在する決まった位置へと転移させる仕組みになっているらしい。

 転移する先が決まっているのなら、ひとつひとつ時間をかけて確かめていけばいつかは必ず先へ進む道を見つけられる筈だ。そういう訳で『カーテンコール』は地道に鳥居を潜っては探索し、時に先へ進んだり元来た道を戻ったりを繰り返していた。当然地図も簡単には描けず、鳥居の位置と転移先をメモしては他の通路や鳥居との位置関係を割り出して確定させ……を繰り返して少しずつ描き進める形になる。

「ここ、さっきも来たわね」

 何十回目かの転移の後、シナトベが小首を傾げて呟く。霧やら鏡のような床やらのせいで分かりづらいが、確かにこの三方を鳥居に囲まれた風景には見覚えがある。ルル・ベルは荷物から羊皮紙を引っ張り出し、前にこの場所を訪れた際のメモを探す。

「……ああ、これだな。北の鳥居はまだ通っていないようだ」

「じゃあそっちに行きますか?」

「それも良いが……その前に一度休憩しておかぬか。西の方向に野営に使えそうな場所があったな」

 彼女の提案に反対する者はいなかった。ちょうど朝から歩きとおしで疲れが溜まってきたところだ。早く探索を進めなければならないというのは確かにそうだが、休める時に休んでおいて悪い事は無い。

 西側の鳥居を潜って小部屋へ移動する。部屋の中は静かで魔物の気配も無く、野営をするには丁度いい様子だ。改めて安全を確認した後、さっそくテントの設営を始める。

 テントの組み立てを前衛の三人に任せたルル・ベルは、焚き火に使えそうな薪を拾い上げながら呟く。

「王宮で暮らしていた頃は野宿など考えた事もなかったが……こうして慣れてみると、これはこれで悪いものではないな」

「えええ!?」

「ふふ……勿論、ふかふかのベッドの方が好きだがな」

 歌うように告げれば、パーニャの表情が安堵のそれに変わる。ルル・ベルは小さく笑って薪拾いに戻った。折れた枝のかさついた感触を手袋越しに確かめながら、彼女はふと思い出す。そういえば王宮の自室のベッドはどんな感触だっただろう。迷宮の床や船の客室のハンモックや宿屋のベッドよりずっと上等なベッドだったのだろうが、まったく思い出せない。

 パーニャに訊ねようとして、やめた。また要らない心配をさせてしまうし、今そんな話をしたところで無意味だ。湧き上がった郷愁を手の内の枝と一緒に握り込む。細く乾いた薪は軽い音を立て、あっさりと二つに折れた。


 随分と静かだ。勢いの弱まり始めた焚き火に薪を放り入れつつ、タマキはじっと耳を澄ます。森の中にいるのだから木々のざわめきくらいは聞こえるだろうと思っていたが、どうやら白亜の森にはあまり風が吹かないようだ。聞こえてきたのは眼前の炎の中で枝が爆ぜる音と、どこか遠くから聞こえた鳥の囀りのような音だけだった。

 静けさに耐えかねた心を誤魔化すように空を見上げる。枝葉に阻まれてしまって太陽の傾きは正確には分からないが、もうすぐ休憩を終える予定の時間の筈だ。大きく伸びをして息を吐く。早く時間が過ぎないだろうか。こうして静かな場所でひとりでいると、余計な事ばかり考えてしまっていけない。

 どう足掻いても解決しようのない悩みを抱く彼だが、ここ最近は以前よりほんの少し、僅かばかりながら調子が良い。どうやらあの四層での騒動の際、あのアンドロに勢いで色々とぶちまけてしまったのが効いたようだ。悩みは人に話すと良い、というのは本当らしい。だからといって、仲間にまで身の上話を聞かせるつもりは無いが。

 もう一度、息を吐いた。拍子に、脳裏から離れないその人の名も思わずこぼれ落ちる。

「チヨ……」

 彼もこの森にいるのだろうか。今までの探索では、それらしき気配は見られなかったが……きっと、どこかにはいるのだろう。そして彼らもまた、自分たちと同じように探索をしている筈だ。時には美しい景色に目を奪われながら、不可思議な仕掛けに頭を悩ませて。

 みるみるうちに泥沼に沈んでいく思考を引き上げたのは、唐突に聞こえてきたごそごそという物音だった。はっと振り向いて見てみれば、テントの中からゆっくりと出てくる者がいる。

「……ルル・ベル殿?」

 声をかければ、ルル・ベルは困ったような表情で人差し指を立てて唇に添えた。彼女の意図に気付いたタマキも慌てて口を塞ぐ。しばしそのまま様子を窺ってみるが、テントの中で仮眠を取っている三人が目を覚ました様子は無いようだ。ほっとした表情を浮かべ、抜き足差し足で歩いてきたルル・ベルは、タマキの隣に腰を下ろすと彼へこっそりと耳打ちした。

「目が覚めてしまってな。寝直す気にもなれなかった故、起きてきた」

「ああ……もう少しで時間だし、それが良いかもな」

 タマキの返答にルル・ベルはいつもより少し気の抜けた顔で微笑む。

 寝起きのルル・ベルは鎧を身につけていない。少々くたびれてはいるが上等な生地のドレスだけが今の彼女の肌を守っていて、その事に気付いたタマキは弾かれるように視線を逸らした。いくら仲間とはいえ、婦女の無防備な姿をまじまじと見つめるのは流石に良くない。

「そう顔を背けずとも……」

 とルル・ベルは呆れたように言い、傍らに置いてあった荷物からカップとコーヒー豆の粉末を取り出した。タマキが視線を遠くに固定しながらも焚き火にかけていた湯を渡せば、彼女はありがとうと囁いてそれを受け取る。

 程なくして、香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。目の覚める苦味を一口啜ったルル・ベルはほうと吐息を漏らし、改めてタマキの方を向く。

「そなたは……アルフレッドのように、戦いたくないとは言わなかったな」

 小さな、しかしはっきりとした声でそう言った少女を、タマキは思わず振り返った。ルル・ベルは真剣な眼差しで彼を見上げていた。宝石のような赤い瞳とまっすぐに視線が合う。瞬間、射抜かれたかのように目が逸らせなくなった。タマキはせり上がってきた動揺をどうにか呑み下し、呼吸を落ち着けてようやく応える。

「俺は、……もしそういう状況になったのなら、剣を取るしかないと思っている」

「旧知の相手を敵に回しても、か」

「──ああ。……俺がどう思っていようが、きっとあちらは容赦なく襲ってくるだろうし……俺もまだ、死ぬのは嫌だからな」

「そうか。……すまぬな」

 ルル・ベルの言葉に、タマキは曖昧な微笑みを返す。それからしばし沈黙が流れた。痛いまでの静寂の中を、焚き火の音だけが軽やかに跳ねる。

 ふと、ルル・ベルが顔を上げた。彼女は何かを思い出したように口を開けて瞬きをすると、先程よりも幾分か明るい声で言う。

「……そうだ、前々から言おうと思っていたのだが……そなた、妾についてくる気はないか?」

「え?」

「色々な事が片付いたら、の話だ。妾はいつか祖国に戻り、弟から王位を取り戻したいと思っているが……今の状態では、それは叶わぬ。だが、いずれその日が来た時……そなたも力を貸してくれるのなら、心強いと思ってな」

 勿論、無理にとは言わぬが、と苦笑し、ルル・ベルはカップに口をつける。タマキはどこか呆けたような表情で固まっていたが、はっと我に返って表情を緩めると、そうか……と呟いて自身の手元を見つめた。

 彼女たちの祖国がどこにあるのかも知らないが、どこか遠い国で、ただの異邦人として生きていくのも……きっと、悪くないだろう。そもそも元からそのつもりでいたのだ。過去を捨て、ただの旅人として生きて、死ぬつもりでいた。……彼(・)と再会したがために、何もかも狂ってしまったが。

 あるかもしれない未来の自分の姿に思いを馳せながら、彼は応える。

「……そう、だな。前向きに考えておく」

「前向きに、か。では妾も前向きに期待して待っておこう」

「だが俺がついていくとなると、パーニャなんかは怒りそうだな」

「あー……その、彼女も悪意があってあんな態度を取っている訳ではないのだ。昔から心配性で……国を出てからは、それがいっそう酷くなってしまっていてな。小動物の威嚇のようなものというか……」

 と言うと聞こえが悪いがな……と苦笑するルル・ベルにタマキも苦笑を返す。確かにパーニャの警戒心が強いところや主君への忠誠心が篤いところは、犬か何かに似ているかもしれない。……などと本人に言ったら容赦なく蜂の巣にされるだろうが。

「彼女とは長い付き合いなのか?」

「ん? そなたには言っていなかったか。パーニャは乳母の娘だ。妾にとっては乳姉妹だな」

「ああ、仲が良いとは思っていたが、道理で」

「幼い頃から仕えてくれていることもあって、つい甘えてしまうのだ。良くないとは分かっているのだが……」

「はは……でも、俺はそれでも良いと思うぞ」

 ルル・ベルが目を瞬かせる。不思議そうな表情を浮かべた彼女に、タマキはどこか遠い目をしながらしみじみと告げる。

「気の置けない相手が傍にいるというのは、良いものだ」

 彼が見つめる先では、随分と火勢の弱くなった焚き火の炎が最後の薪を焼き尽くそうとしているところだった。橙色の熱の中、微かな破裂音を上げて燃え朽ちていく枝たちをじっと見るタマキの横顔に、ルル・ベルは僅かに目を細める。

 その時、テントの中から物音が聞こえてきた。んうう、と声を眠たげな声を漏らして伸びをしているのは恐らくシナトベだ。ライディーンがパーニャを揺り起こしているらしい声も聞こえる。タマキが立ち上がり、焚き火の処理を始めた。ルル・ベルも手元に残っていたコーヒーを一気に飲み干して荷物を纏め始める。

「鎧を着なければ。いい加減そなたも目のやり場に困るだろうしな」

「い、いや……別にやましい気持ちがある訳ではないからな……?」

 死線を泳がせながら応えたタマキにからかうような笑みを向け、ルル・ベルは鎧を着るためテントの中へ入っていく。残されたタマキは困り果てた表情で焚き火の炎を踏み消した。ブーツの裏と湿った土に押し込められた炎はジュウ、と最期の音を立て、やがて僅かな白い煙の筋を残して消え失せた。


 仮眠を取って疲れを癒し、探索を再開した『カーテンコール』だったが、結局その足はすぐに止まる事になった。

「あ、あ、アタシの弩……」

 がっくりと項垂れて声を震わせるパーニャの目の前に転がっているのは、軸が曲がってはいけない方向に曲がってひしゃげた弩だ。素人目でもこれは良くないと分かる程に破壊されたそれはパーニャがアーモロードに来るより前から使っていた得物で、彼女の相棒とも言える品であった。

 何故、こんな事になってしまったのか。原因は野営場所を出た直後に魔物が襲ってきた事だった。交戦中、攻撃を食らったパーニャは思わず弩を盾にしてしまい……その結果がこれだ。本人に怪我が無かったのは幸いだったが、それを喜んでいられる程の余裕は無い。

 頭が地面に埋まるのではないかという程に項垂れたまま動かないパーニャに寄り添っていたルル・ベルが、困り果てた顔で口を開く。

「とにかく、今日はもう帰還しよう。……これ、直るのか?」

「どうでしょう……ネイピア支店には武具の修理の設備が無いので、一度海都に送らないといけない、と店主に聞きましたが……」

「それは……うーむ……」

 どうにも悪い予感しかしない。

 とにかく、いつまでもこの場に留まっている訳にもいかない。すっかり気力を失ったパーニャを半ば引きずるようにして立ち上がらせ、アリアドネの糸を広げる……と、そこでふとシナトベが背後を振りむいた。怪訝に辺りを見回す彼女にどうしたのかと問えば、いえ……と釈然としない呟きが返る。

「話し声が聞こえた気がしたけれど……きっと気のせいですね。行きましょう」

 そう言いながら彼女は改めて糸を広げる。仲間たちが帰還の体勢に入る中、タマキはひとり刀に手をかけて元来た道を振り返った。野営場所へ続く扉をじっと見つめる彼をライディーンが呼ぶ。

「タマキ、早く」

「あ……ああ。すまない」

 はっと我に返ったタマキは慌てて四人の元へ向かい、最後にもう一度だけ扉を振り返った。直後、帰還術式が発動して五人の姿はその場から掻き消える。


   ◆


 探索を進めて白亜の森の最深部まで辿り着いた『カーテンコール』だったが、未だグートルーネを見つける事はできていない。ここまで来ても姿が見えないという事は、恐らく彼女はこの森の更に奥に身を隠しているのだろう。

「よく考えてみたら、私たちはグートルーネ姫の姿を見た事がありませんね」

 アルフレッドがふと呟いたのは、宿の一室に集まって作戦会議をしている最中の事だった。彼の言葉に他の五人も顔を見合わせる。言われてみればその通りだ。海都で寝泊まりしていた頃から「白亜の姫君」の噂はかねがね聞いてはいたが、実際に姿を見た事は一度も無い。聞くところによればそれはそれは美しい姫君であるそうだが。

「でも、どれだけ綺麗でもフカビトに憑かれてたんじゃな……」

「それにしても、フカビトに憑かれてるってどういう状態なのかしら。人の姿をしているけど中身はフカビトって事?」

 シナトベが首を傾げるが、彼女の疑問に答えられる者はいない。確かミッションを受領する際に深王がそんな事を言っていたような気もするが……実際のところはどうなのだろう。

「……まあ、何にせよグートルーネ姫に直接会って確かめればいい話だ」

 ルル・ベルの言葉に、隣に座っていたパーニャがうんうんと頷いた。もうここまで来たら、本当にフカビトと関係があるのかも含めて、実際に見聞きして確かめる他ない──深王が先に姫君の元へ辿り着き、決着をつけていなければ、の話だが。

 ……しかし、とルル・ベルは考え込む。グートルーネがフカビトの手先だったとして、なぜ今の今までこれといった行動も起こさず海都に潜伏していたのだろう。何かが引っかかる。だが彼女がその違和感を言語化する前に、廊下から聞こえてきた声が思考を遮った。

「皆さん、お客様がお見えです!」


 宿屋の娘に促されるまま部屋を出て階下へ向かった『カーテンコール』を待っていたのは、今となってはすっかり見慣れた人影だった。水色のマントを纏って佇む彼女に、先頭を歩いていたライディーンが声をかける。

「オランピア」

「……あなたたちに、伝えなければならない事がある」

 開口一番そう言った機械兵は、瞬きをしない丸い瞳で五人の顔を見回す。

「海都の冒険者が、フカビト憑きの姫を守るため……深王さまを討つため、白亜の森を探索している」

「……『セレスト・ブルー』の事か」

「彼らも森の奥へ辿り着き、あの姫の元へ向かおうとしている。このままでは深王さまの目的の障害となるかもしれない」

 淡々と語っていたオランピアはそこで一度言葉を切った。ルル・ベルの顔を見つめ、彼女は少しばかり声色を変えて続ける。

「私も、できる限りの対処はするつもり。けれど、あなたたちにも頼みたい。……彼らを止めて」

 ルル・ベルは目を伏せる。言葉そのものは穏当だが、オランピアの真意がそのように生易しいものではない事に彼女は気付いていた。オランピアは果たすべき目的のため、深王のためならば手段を選ばない。もし『セレスト・ブルー』と顔を合わせれば、彼女は容赦なく「対処」するのだろう──第二層に辿り着いた冒険者たちを、あの血塗れの墓場に送り込んだ時のように。

 オランピアは静かにこちらの様子を窺っている。ひとつ息を吐き、ルル・ベルは顔を上げて応えた。

「承った。……深王は今どこに?」

「あの森に。……元老院の剣士から妨害を受けている。深王さまが万全の状態で敵を討つには、まだ時間が必要……」

「そうか」

 溜息混じりに頷くルル・ベルと、その後ろに控える五人とを順番に見て、オランピアはほんの僅かに表情を歪めて黙り込む。少しのあいだそのままじっとしていた彼女だったが、ふと口を開くとどこか物憂げな声で告げた。

「……協力してくれて、感謝している。どうか……深王さまを助けて」

 宿を出て立ち去っていくオランピアの背中を、六人は揃って見送り、そして顔を見合わせた。見てみれば、全員の顔に同じような渋い表情が浮かんでいる。

「ルル・ベル様……よろしかったのですか」

「ああ。こちらとしても、彼らを放っておく訳にはいかぬ」

 噛みしめるように呟くルル・ベルの傍で、パーニャががっくりと肩を落とす。

「ごめんなさいルル・ベル様……こんな大事な時に使い物にならないなんて……」

「そう落ち込むな。そなたに責任は無いし、仕方のない事だ」

 ルル・ベルの返答には精一杯の気遣いが込められていたが、それを聞いたパーニャはますます顔を歪めて項垂れる。

 破損してしまった彼女の弩は、やはりすぐには直らないようだった。ネイピア支店の店主に事情を話して特別に対応してはもらったが、やはり修理にはどれだけ早くとも数日かかるらしい。その間は他の弩で代用するという手もあったが、やはり手に馴染んでいない得物だと調子が出ないようで、そんな状態で無理に連れて行くよりは素直に控えと交代した方が良いという結論に達したのだ。

 見た事もないほど落ち込んだ様子のパーニャを宥めつつ、ルル・ベルは他の四人を見た。いち早く彼女の意図を察したシナトベが男たちを促して客室へと戻っていく。その場に残されたルル・ベルは、努めて明るい声でパーニャに声をかけた。

「パーニャよ、少し外に出ぬか。妾も気晴らしをしたくてな」

「……はい……」

 力の抜けきった返事に苦笑しながら、彼女の手を取って外へ出る。扉を押し開けて石畳を踏んだ瞬間、眼下の街のどこかから陽気な笑い声が聞こえてきた。どこかの道端で冒険者たちが世間話でもしているのだろうか。

 パーニャの手を引いたルル・ベルが向かったのは宿の裏、街を一望できる階段がある場所だ。短い階段の最上段に二人の少女は並んで腰かける。どこか古ぼけた青い街並みを見下して息を吐いたルル・ベルは、俯いたままのパーニャに向き直ると穏やかに語りかける。

「そう落ち込まないでくれ。もしや、妾を守ると言ったのが嘘になってしまうと気にしているのか?」

「…………」

「守るというのは傍にいて戦う事だけを指すのではないぞ。妾たちが迷宮にいる間、そなたは留守を頼む。妾が無事にここに帰ってこられるように」

 ふとパーニャが顔を上げた。潤んだ瞳でルル・ベルを見つめ、彼女は言う。

「……帰ってきてくださいね。絶対ですよ」

「無論だ。妾は生きて帰り……必ずや祖国へ凱旋する。そなたらと共にな」

 ルル・ベルが威厳たっぷりにそう断言すれば、ようやくパーニャは表情を緩めた。何とか元気を取り戻してくれたようである。ほっと胸を撫で下ろす主君を横目に、従者は大きく伸びをしては~あ! と声を漏らす。

「でも、戦うんならやっぱり行きたかったです。あの海賊、いっぺん懲らしめてやらなきゃって思ってたんだけどなあ」

「そなたはずっとそう言っているな……」

 それこそ、初めて『セレスト・ブルー』と出会ったような頃……彼らの船に乗ってサエーナ鳥を討伐しに行った時からずっと同じような事を言っている。あの男、ほんとふざけてる……とぼやき続けるパーニャに肩を竦め、ふとルル・ベルは己の膝に視線を落とす。

「パーニャよ。キングストンの息子の事は覚えているか?」

 唐突な問いかけに、パーニャはぱちぱちと瞬きをして首を傾げる。

「キングストン? ……ああ、思い出した! ルル・ベル様、お屋敷を訊ねた時に花を頂いてましたよね。覚えてますよ、すごく嬉しそうだったんですもん。枯れてしまった時もずっと泣いてて……」

「そ、その話はもういいだろう!」

「あはは。えっと、ご令息……確か、アーチボルド様でしたっけ? ずっと前に亡くなられたって聞いた気がしますけど……その方がどうかしました?」

「いや……」

 言葉を濁し、不思議そうに訊ねてくるパーニャから目を逸らした。街並みの更に向こう、白い砂浜の奥に広がる深海の闇を眺め、ルル・ベルは独り言のように呟く。

「懐かしいな、と思っただけだ」


   ◆


 ライディーンが地図にペンを走らせる手を止め、ふうと肩の力を抜く。横から覗き込んできていたシナトベが彼の手元から地図を抜き取り、感嘆の声を上げた。

「これでこの階の地図もあらかた完成かしら。今思うとよく描けたわね、こんな複雑な地図」

「そうだな。……だが、おれたちの目的は地図を完成させる事じゃない」

 羊皮紙の束を丸めながらそう言うライディーンの声はいつもより硬い。シナトベは困ったような笑みを浮かべて肩を竦め、傍らに置いていた槌の柄をそっと撫でた。

 白亜の森の探索を続けていた『カーテンコール』がやがて辿り着いたのは、これまでこの森で見てきたどの場所より広く、静かな空間だった。白い大樹の根が柱のごとく立つその大広間の西側には、白い花々で彩られた巨大な扉がひとつ、ひっそりと佇んでいる。

 地図がほぼ完成した今、探索していない場所はこの扉の先だけだった。常ならばすぐに押し開けて向こう側の様子を確かめるところだったが……今回に限っては、それができなかった。扉の向こうから伝わってくる張り詰めたような威圧感が、先へ進むのを躊躇わせたのである。

「妙な感じがする。一度退いて、準備を整えてから進んだ方が良いだろう」

 とはルル・ベルの言だ。他の面々もその意見に従い、ひとまず今は立ち止まって周辺の探索を行っている。

「……とはいえ、この辺りにはもう目ぼしいものは無さそうだな」

 広間の中央、鳥居を挟むように伸びた樹の柱を撫でながらルル・ベルが呟く。傍らに控えていたシナトベがそうですねと頷いて辺りを見回した。

「タマキとアルフレッドが壁沿いを見て回っています。あちらには何かあるかもしれませんね」

「うむ。……壁越しに野営に使えそうな部屋があったな。その辺りに抜け道があれば良いのだが」

「ともかく、二人が戻ってくるのを待ちましょう」

 穏やかに微笑むシナトベだが、その右手は槌をしっかりと握っている。彼女の背後で荷物の整理をしていたライディーンが静かに立ち上がった。槍と盾をしっかりと持ち直す彼の姿を横目に、ルル・ベルは目を伏せて手元のそれを見た。手鏡のような形状の透明なガラス板は、簡易遠眼鏡と呼ばれる道具の一種だ。

「ああ、待とう」

 静かな声で応え、ガラスごと掌を握り込む。指の隙間から淡い光が漏れた。ちかちかと明滅するそれは遠眼鏡の表面を滑るように少しずつ移動している。その行き先は、もう、確かめるまでもない。


「……あ、ここ通れそうですね」

 アルフレッドが指さした木立の隙間を覗き込み、タマキはそっと刀を抜いた。上から下から茂って通行を阻む草木を切り落とし、ひとまず人ひとりが通れそうな空間を確保する。

「これで大丈夫か?」

「大丈夫じゃないですか? ちょっと通ってみてくださいよ」

「俺が……?」

「いや私でも良いですけど、向こう側に魔物とかいたら死ぬので……」

 それは確かにそうである。納得した顔で頷いたタマキは単身茂みを掻き分けて木々の向こう側へ抜けた。

 抜け道の先にあったのは見覚えのある場所だった。少し前に訪れた、野営場所として使えそうな小部屋である。手元に地図が無いため断言はできないが、確かこの部屋は階段にも比較的近い位置にある筈だ。一度街に戻ってから大広間に来るとなると、この抜け道を通ればかなりの近道になるだろう。

「タマキ? 様子はどうですか?」

 アルフレッドが心配そうに声をかけてきた。慌てて振り向き、応える。

「ああ、問題ない。今戻る」

 もう一度茂みを踏み越え、元いた場所へ引き返す──その直前で、タマキはふと足を止めた。空気が妙だ。無意識に息を潜め、片手の刀を握り直して慎重に周囲の様子を窺う。

 ゆっくりと一歩踏み出し、身を乗り出して開けた空間を覗き込んだ彼の目に飛び込んできたのは、倒れ伏したアルフレッドの姿だった。警戒しつつそちらに近付いて様子を確かめる。どうやら息はしているようだ。だが意識は無い。目立った外傷は確認できないが、ひとつだけ。

 長い針が一本、肩に深々と刺さっている。

 その時だった。何かが風を切る鋭い音が耳に届く。反射的に刀を振り抜けば、弾かれた針が二本、音を立てて足下に転がった。そちらに目を向ける事もなく、タマキは木立の中に目をやった。薄暗がりの中に、ぼんやりと浮かぶ人影がひとつある。

「チヨ」

 小さく呼べば、彼はするりと枝葉の間を抜けて音も無く鏡面の上に降り立つ。頭巾の下から覗く瞳がまっすぐにこちらを見据えている。ひどく凪いだ昏い瞳だった。タマキはそっと体を反転させ、アルフレッドを庇うように彼と対面する。

「退く気は無いのか」

 カゲチヨが静かな声で問う。その手は既に短刀の柄にかかっており、恐らくその気になれば一息でタマキの首を落とせるであろう間合いに入っている。だが彼はそれをしない。彫像のように佇んだまま、カゲチヨはタマキの返答を待っている。

 タマキは静かに首を振った。そっと目を伏せ、右手の刀をカゲチヨへ向ける。

「それを──訊かねばならないのは、こちらだ」

「…………」

「お前たちがそうであるように、俺たちも機を窺っていた。迷宮を捜し回るより……待つ方が余程確実だから」

 カゲチヨの表情が僅かに変わった。は、と顔を上げて身を翻そうとした彼の足許にクナイが一本突き刺さる。振り向いた金の視線がタマキを射抜いた。口布の下で唇が僅かに動くのが見える。何を言おうとしたのだろう。暗器の扱いがなっていないと諭しでもするつもりだっただろうか。懐かしい、あの頃のように。

 小さく発せられた彼の言葉はしかし、突如聞こえてきた爆発音に掻き消された。術式の熱と光を頬に感じながら、タマキは腰に差していたもう一本の刀を抜き放つ。

 懇願するように、告げる。

「退いてくれ、チヨ。お前が死ぬのは見たくない」

 返事は無い。カゲチヨは何も応えないまま、一度だけ目を伏せ──ゆっくりと、腰の短刀を引き抜いた。


 高位の起動符を盛大に使ってはみたが、元よりこれだけで仕留めきれるとは思っていない。黒煙を切り裂いて突っ込んできた男の姿をはっきり確かめるより先に、ルル・ベルは左手の盾を突き出した。胸元めがけて繰り出された刺突が軌道を逸れて袖を掠る。

 吸い込んだ煙を咳と共に吐き出したインディゴが声を荒げる。

「張って(・・・)やがったな、てめえ! 王女様がそんな小賢しい手ェ使って良いのか、ええ!?」

「戦いに身分が、」

 関係あるものか、と言い切る前に、返した突剣の切っ先が目前に迫る。ぐっと頭を逸らして避け、胴を狙って剣を振るう。数歩後退して反撃を避けたインディゴは、舌打ちをひとつこぼすと得物を構え直した。

 背後でも戦いが始まった気配がする。鼓膜を震わせる咆哮は獅子王のそれだろうか。様子を窺う事はできないが、シナトベとライディーンならば後れを取る事は無いだろう。それよりも今案じるべきは、己の身だ。

 剣と盾を握り直し、呼吸を整えて目の前の相手を見つめる。海賊は僅かに目を細め、冷たい声で吐き捨てた。

「まあ、いい大義名分ができて良かったよ。大人しくここで死ねや」

「……そうはいかぬ。妾は生きて祖国へ帰る……ここでそなたを討ち果たしてな」

「帰る? 実の弟に追い出されてこんな僻地まで逃げてきたお前が、今更どこに帰れるって?」

 あからさまな悪意をあらわにして唇を歪める男の言葉に、ルル・ベルは何も応えなかった。構えた剣の柄で、埋め込まれた宝石が淡く輝く。インディゴもまた肩を竦め、突剣を掲げる──その構えが祖国に伝わる剣術のそれである事に、ルル・ベルは今になってようやく気付いた。


 唸り声を上げて飛びかかってきた獅子王の爪と牙が手甲に食い込む。ライディーンが渾身の力で振り払えば、猛獣の巨体は予想よりあっけなく離れていった。追うか待つか、一瞬迷った間に視界の端で捉えたのは赤い光で、彼はすぐさま盾の裏に刻まれた術式を起動させる。瞬く間に盾を覆った淡い光が、浮遊する不思議な物体から放たれた炎を弾いた。

 物体──ボットの傍に立つマキナが、首を傾げて跳び退く。

「対象による術式の無効化を確認。追加のボットを起動します」

 アンドロの無機質な瞳がちかちかと光る。彼女が何をしようとしているのか、確かめる前に再び獅子王が駆け込んできた。盾を構え直そうとしたその時、飛び込んできた影がライディーンと獣との間に割って入る。三つ編みを翻したシナトベは、突撃してくる獅子王の脳天を狙って槌を振りかぶる。

「とまれー!」

 甲高い声が響いた。瞬間、獅子王はぐっと脚を突っ張って減速した。タイミングがずれて着地点を失った槌の先端が空を切る。進行方向を変えた獅子王が向かった先には、獣の仮面を被った少年が立っている。槍を構えて唸るティルの姿を見て、シナトベはあら、と眉を下げた。

「子供がこんな所にいちゃ駄目じゃない。……でも、戦うつもりなのね?」

「うーっ!」

「それなら私も容赦しないわ。いくわよ」

 槌を構え直してそう告げたシナトベを、ライディーンは信じられないと言いたげな目で見た。そのまま駆け出していく彼女に、彼は思わずといったように手を伸ばす。

「待ッ……!」

 続く言葉は形にならなかった。シナトベに気を取られていた彼に、死角から飛び出してきた赤い影が迫る。

 防御に入る暇も無かった。一瞬の隙を突いて騎士の懐に入ったレイファは、気合の声と共に拳を繰り出す。練り上げた「気」の乗った拳が鎧の隙間を縫って脇腹に突き刺さった。腹の中で火花が散ったかと思うような衝撃。全身が痺れて動かなくなる。

 得物を取り落としてうずくまるライディーンを見下ろし、レイファは険しい顔で言う。

「あの子の事、気にしてくれてありがとう。……ごめんよ」

「────」

 そのまま腰に下げていた短剣を引き抜き、動けないライディーンへ向かって振り下ろそうとした彼女だったが、突如聞こえてきたインディゴの声がそれを阻む。

「避けろ!!」

「……!」

 はっと飛び退いた刹那、辺り一帯に巨大な氷柱が発生する。一瞬戸惑ったレイファの視界の端で、マキナがボットを射出した。氷柱が盛大な音を立てて砕け、その陰に隠れて忍び寄ろうとしていたシナトベの姿があらわになる。

 氷結術の起動符を地面に叩きつけたルル・ベルが剣を構え直す前に、インディゴが彼女の元へ肉薄する。突き出した突剣が二の腕を裂いた。すかさず追撃しようとした彼の目の前で、ルル・ベルが不自然に剣を掲げた。危険を感じて退こうとしたが、間に合わない。剣を覆っていた術式の淡い光が収束し、弾ける。拡散した炎が男の髪を焼いた。

 インディゴが僅かに怯んだ隙に、ルル・ベルは渾身の力で斬りかかる。振り下ろされた剣は咄嗟に掲げた突剣で受け止められた。だが、体勢が悪い。妙な角度のついた手首が軋む。顔を歪めたインディゴが空いていたもう片方の手で柄を支えようとした瞬間、ルル・ベルは剣を引いた。バランスが崩れる。構えを取り直せない彼に、返す刃を振りかざす。

 致命傷を与える筈だった一閃はしかし、すぐそばで轟いた咆哮によって僅かに軌道がずれた。剣の切っ先は男の額から鼻梁にかけてを浅く斬り裂く。思わず振り向いたルル・ベルの目に牙を剥いた獅子王の姿が映る。だがその牙は彼女へは届かなかった。

「──備えて(・・・)!」

 掠れた声。同時にルル・ベルの足許に掌大の何かが音を立てて転がってくる。半透明の円筒に覆われたそれはやがて減速して止まり──次の瞬間、視界を真っ白に埋め尽くすほどの光を発した。

 暴力的なまでに眩い閃光の中、そこにいた全員の動きがぴたりと止まる。ほんの一瞬、視界どころか聴覚までも奪われたかのような静寂が辺りを包んだ。だが、光を放った物体がアルフレッドがいつも携帯している照明弾だと──『カーテンコール』のメンバーは知っていた。知っていたのだから……当然、対処できる。

 静寂を破ったのは獅子王の悲鳴だった。視界を奪われ怯え固まっていた獣を殴りつけたシナトベは、唇の端に薄ら笑いを浮かべてもう一度槌を振り上げる。同時にティルの叫びが響いた。パートナーの声に鼓舞されてか、逃げ腰だった獅子王は一転吼え声を上げてシナトベへと躍りかかる。

 眼前に迫った牙を、シナトベは突き出した左腕で受け止めた。牙が食い込むのも気にせずそのまま喉奥まで腕を突っ込めば、獅子王は戸惑ったように動きを止める。その無防備な横っ面に槌がめり込んだ。ぐらりと傾ぐ獣の口から腕を引き抜き、槌を構え直して思いきり殴り飛ばす。

 巨体が床を跳ねた。たてがみを血で濡らしながらなす術も無く転がった、その先にいたのは呆然と立ち竦むティルだ。思わぬ光景に動けずにいた彼に獅子王の重い体が激突する。自身の十倍はあろうかという重量の下敷きになる形で巻き込まれた少年は、床に叩きつけられるようにして倒れると微かな呻きを残したきり動かなくなった。

「……ティル!!」

 レイファが悲痛な声を上げてティルの元へ駆け寄ろうとする。振り向いたシナトベがそちらに向かおうとしたが、その前にマキナが立ち塞がった。ボットから放たれた炎が戦士の行く手を阻む。

 ティルの元へ辿り着いたレイファは震える手で彼の体をかき抱く。ぐったりと投げ出された四肢が揺れた。治療を、と気功術を発動させるため呼吸を整えようとした彼女の元に、影が落ちる。見上げればそこには、逆光を背負って立つ騎士の姿があった。

 よろめきながら立つライディーンは、この世の終わりでも目にしたかのような顔で、それでも槍を振り上げる。

「すまない……」

 悲鳴は無かった。何かが床に崩れ落ちる音。マキナが思わずといったように振り向いたその隙に、鋼鉄の肉体を槌が砕いた。千切れた頭部が転がり落ちる。頭を失ってもなお動く手足を、シナトベは丹念に叩き壊していく。

 ルル・ベルはしばし我を失ったようにシナトベの姿を見ていた。が、急に襟首を捕まれる感覚に正気を取り戻す。少女を乱雑に引き倒したインディゴは、は、と苦しげな息を吐き出すと、ぎらぎらとした瞳で彼女を見下ろした。顔面に走った傷から血が滴ってはシャツを濡らしている。

「よくも、」

 言葉が途切れた。急に胸元を押さえて背を丸めた彼は、重く濡れた咳を何度か繰り返すとやがて赤々とした血の塊を吐き出す。唐突な事態の中、それでも状況を正しく把握したらしい。覚束ない指先がテリアカを求めてベルトに括られた袋へ伸び、結局探し当てられずに空を切った。

 男の下から抜け出して身を起こし、ルル・ベルは床に落としていた剣を手に取る。

「毒の香を」

 呟く少女の声も掠れていた。溺れたような呼吸を繰り返しながら焦点の合わない目で見上げてくるインディゴに、ルル・ベルは静かに告げる。

「水に溶いて、刃に塗った。……濃度をかなり高くしてある。まともに受ければどうなるか……分かるだろう」

 返事は無かった。本当はあったのかもしれないが、ごぼ、と大量の血を吐く音で掻き消された。平衡感覚を失ってぐらりと揺れた上体を、男は突剣を杖にかろうじて支える。だがそれだけだ。もはや彼にはそれしかできない。

 もはや呼吸の音すらまともに聞こえない。粘着質の水音だけが喉の奥から溢れて床を汚すのを、ルル・ベルは静かに見た。放っておいてもいずれ力尽きるだろうが──誰が相手であろうと、長く苦しませるのは忍びない。

 両手で握った剣をそっと振り上げた。震える掌を叱咤するようにぐっと握り込み、狙いを澄ます。しかし、やはり。弱々しく上下する背中に切っ先を突き立てるその瞬間を、彼女はどうしても、直視する事ができなかった。

 血溜まりに沈んだ男の姿を見ないままに踵を返したルル・ベルは、ひとまずライディーンとシナトベの様子を窺った。どちらも傷を負ってはいるが無事だ。少し離れた場所にアルフレッドの姿も見える。タマキは、と辺りを見回そうとしたところで、彼女はあるものに気付く。

 転がり落ちたマキナの首がじっとこちらを見ている。首から伸びた管は引き千切れて火花が散っており、薄く開いた唇からはザザザ、だがジジジ、だかの奇妙な音が漏れていた。ルル・ベルは何も言わず、彼女の傍を通り過ぎる。一度だけ、歩みを止めかけたが、それでも。彼女が振り返る事は、なかった。

 靴音を踏み鳴らし、ルル・ベルはまっすぐに歩いていく。背後から聞こえていた奇妙な音は、やがて途切れた。


 何人死んだか、この位置からでは確認できない。だが事はもう終わる。直接見ずとも確認できる。これは、勝ち戦だ。

 もう何度目かも分からない鍔迫り合いを振り払い、タマキは血でぬめる柄をぐっと握り直す。すかさず飛んできた追撃は当然のように速く、重い。短刀の向こう側に見えるカゲチヨの表情をはっきりと窺う事はできない。だが、恐らく彼も仲間たちがどうなったか気付いているだろう。

 止まってくれ、とタマキは祈った。戦いをやめて降参してくれと。だがそれは叶わぬ願いだった。飛び退いてタマキから距離を取ったカゲチヨは僅かに動きを止め、素早い動作で腰のポーチに手を伸ばす。

 取り出したものが何だったのか。確認するより早く、タマキの体は動いていた。ほぼ脊髄反射と言っても差し支えない速さで踏み込んだ彼は刀を振るってカゲチヨの持つそれを──彼の腕ごと、弾き飛ばす。切断された右腕が宙を舞った。その掌から短刀と共に滑り落ちて床を転がったのは、発破(・・)だ。

 自爆の手段を片腕ごと奪われたカゲチヨはしかし、すぐさま体勢を立て直すと残った左腕にクナイを構えてタマキの懐へ飛び込んだ。逆手に振るわれた刃を二度、三度といなすが、四度目で追いつかなくなる。刀では至近距離での打ち合いは分が悪い。

 弾き損ねた刃が首筋に突き立てられる……否、狙いが逸れた。正しくはカゲチヨがバランスを崩したがためにクナイの軌道がずれた。見れば、彼の脇腹に尖った氷の塊が刺さっている。タマキは一瞬だけ視線を余所にやった。いつの間に身を起こしたのか、星術機を展開したアルフレッドが必死の形相でこちらを見ている。

 深々と刺さった氷もそのままに、カゲチヨはまた一歩踏み出す。今度の一撃は簡単に弾けた。キレを失いつつある斬撃をいなしながら、タマキは荒い息を吐く。心臓が早鐘のように打っている。ただただ焦りと混乱ばかりが頭の中を満たしているのに、刀を下げる事はできない。牽制のために繰り出した突きが二の腕を抉った。流れた血で全身をしとどに濡らしながら、それでもカゲチヨは足を止めない。また一歩、踏み込む。

 ──止まれ、止まれ、止まれ、頼むから止まってくれ!!

 祈りは届かない。

 視界の端でクナイの切っ先が黒くきらめいたその瞬間にタマキは大きく刀を振るった。それは攻撃を予期した反射的なもので、彼にはそのつもりは無かったが、しかし。その一閃はついに力を失って大きく傾いだカゲチヨの胴を、袈裟懸けに斬り伏せた。

「あ、」

 小さく漏れた声はどちらのものだっただろう。倒れ伏したカゲチヨは徐々に広がっていく血の海の中で僅かに身じろいだ。緩慢に視線を上げ、離れた場所に転がった仲間たちの亡骸を見た彼は、微かな吐息をこぼす。

 声も無く、誰かの名を呼んだようだった。

 それが誰に向けての呼びかけだったのかも分からないまま、それきりカゲチヨは沈黙する。タマキはただ爪先に染みた赤を見下ろした。白く輝く森を染め上げるいのちの色は痛いまでに鮮烈だ。眩暈がして立っていられなくなる。膝をついた彼の袴にも生暖かい温度が染み込んでいく。

「お、俺は──」

 こぼれ落ちた声はひどく震えていた。熱を失いつつある男の顔に手を伸ばし、呆然とタマキは呟く。

「お前と、ともだちに──」

 返る声は、無い。

 背後から彼を呼びに来たライディーンの重い足音が近付いてくる。戦いは、終わった。


   ◆


 夜陰に紛れて樹海入口に降り立ったアルフレッドは、久方ぶりに見るアーモロードの景色を眩しいものを見るような目で眺めた。こうして地上に出るのはいつ振りだろうか。随分と久しぶりに見る本物の夜空の高さに少しくらくらしながら、彼は足音を殺して歩き出す。

 星術機の維持に必要な消耗品が切れてしまっている事に気付いたのは、事を終えて宿に帰った後の事だった。すぐにネイピア支店へ向かったが、運の悪い事にちょうど求めていた品だけが品切れになってしまっていた。その上、次の入荷は数日後になる予定だという。困り果てたアルフレッドは、悩んだ末に海都へ買い出しへ向かう事にした。どうせまた明日か明後日には探索に出なければいけなくなるのだ。数日も待っている余裕は無い。

 既に日没後という事もあり、周囲に冒険者の姿はほとんど無い。たまにすれ違う知らない人影から顔を隠しつつアルフレッドは足早に街へ向かった。目当ての物を扱っている店はまだ開いている時間の筈だが、急ぐに越した事は無い。

 他に何か買っておくものは無かっただろうか……考え込みながら歩いていたせいか、唐突に何も無いところでつまずく。転ぶ直前で何とか留まったが、妙な風に体重がかかってしまったらしい。鈍い痛みを伝えてくる足首に思わず顔をしかめ、アルフレッドは溜息を吐いた。ここ数時間、どうもぼんやりしてしまう状態が続いている。原因は分かっている。あの戦いだ。

 人に向かって星術を放ったのは初めてだ。あの時自分が何を思ってあのシノビに攻撃したのか……頭に靄がかかったようでよく思い出せない。何を考えるのも億劫だ。ひどく疲れている自覚はあるが、何かしていなければ気が狂いそうになる。

 ともかく早く用を済ませて深都へ戻ろう──そう思いつつ目的の店へ足を進めようとした、その時だった。

 最悪の展開は彼の目の前に、気配のひとつも無く顔を出す。

「……アルフレッドさん?」

 呟くような声が耳に届いた瞬間、アルフレッドは己の姿形を思い出せなくなった。呼吸も、二本の脚での立ち方も、何もかもを忘失しかけた彼は、それでも何とか声のして方向へ顔を向けた。市街地へ続く階段の片隅に、少女がひとり座っている。

 寝間着らしきワンピースに上着を羽織っただけの姿のベロニカは、よろめきながら立ち上がると困惑したように呟く。

「どうして……? 私、皆を……」

 言いながら、彼女も何かに気付いたらしい。どこか呆然と立ち尽くす彼女を、アルフレッドは荒い呼吸を抑えながらただ見ている。彼は完全にパニックに陥っていた。頭の中ではっきりと像を結ばない記憶の欠片だけがぐるぐると回っている。白亜の森を汚す血の色、焼き捨てたフカビトの断末魔、二人で食べた氷菓の味、幼い日を過ごした薄汚い家の景色、左目を焼く灼熱の、……。

 正常な判断力を失っていたアルフレッドは、己が何を考えているのかすらもよく分からなくなっていた。故に彼は止められなかった。自分の口が開くのを、震えた舌が言葉を紡ぐのを。

「君、だけでも──生きていてくれて……良かった……」

 ──それは今この場において、最も口にしてはならない言葉だった。

 ベロニカの顔色が変わった。丸い瞳がみるみるうちに見開かれていく。彼女は細い肩を震わせ、ゆっくりと、アルフレッドの方へ一歩踏み出した。

「なに言って……どうして、だって帰ってくるって、私……ずっと待って、」

「……、……」

「……死んだの? どうして? ……殺したの?」

 アルフレッドは返事をする事ができない。しかし、彼女はその様子を見て全てを察したようだった。

 は、と息を吐いたベロニカは一瞬だけ呆気に取られた幼子のような表情を浮かべた。しかし途端にその顔を歪め、地を蹴ってアルフレッドへ飛びかかる。我を失っていたアルフレッドは少女の体重に押し倒されてなす術無く地面に転がった。衝撃に呻く彼へ馬乗りになって掴みかかり、ベロニカは狂乱して叫ぶ。

「なんで! なんでよ! なんで私たちなの! なんであなたが死ななかったの!!」

「────」

「返して──私の家族を返せ! 返せッ!!」

 少女の爪が、拳が、繰り返し顔を叩く。咄嗟に腕を掲げたが今度は袖越しに爪が食い込むばかりだった。鈍い痛みと恐慌の中、身を裂くような絶叫を聞くアルフレッドの脳裏に、ある情景が閃光のように過る。

 すべてお前が悪いのだと母は言い、繰り返し自分を殴りつけた。金が無いのも、仕事を失ったのも、全てお前のせいだと。金切り声がうるさい。濃い酒気が鼻につく。見上げた母は怪物のような真っ赤な顔をしている。

 どうして殴られなければならないのだろう。できる事は精一杯やった。けどどうにもならなかったんだ、仕方ないじゃないか。仕方ない。仕方ない──だから──。

「僕は悪くない(・・・・・・)!!」

 一声叫び、記憶の中の母を突き飛ばした。小さな悲鳴。あ、と思った時にはもう、何もかもが遅かった。

 勢いよく突き飛ばされたベロニカのちょうど背後には階段の角があった。仰向けに倒れ、後頭部から血を流して動かなくなった少女を、アルフレッドは呆然と見る。辺りは静かだ。ささやかに鳴く虫の声だけが木立の中から響いている。

 しばしその場でじっとしていた彼だったが、やがてふらりと立ち上がると夢遊病者のような足取りでふらふらと歩き始めた。そうだ、買い物に来たのだ。はやく用を済ませて深都に戻らなければ。そう、戻らなければ……。

 口の中で小さく呟きながら異様な目つきでその場を立ち去っていく男の姿を、誰が見る事も無かった。その場には横たわるベロニカだけが残される。開いたままの瞳が夜風に吹かれて冷たく濁っていく。


   ◇


「姉上、

 貴女は私が何を思っているか、理解できないでしょう。弟である私がなぜ貴女から王座を奪おうとしているのか……貴女にはきっと、理解できない。

 ですが姉上、私はそれを責めはしません。貴女は誰も疑わないし、誰も貶めようとしない……それは紛れもなく貴女の美徳で、できる事ならば、私もその気高さを尊重したかった。けれど、やはり、貴女を見過ごす事はできない。

 気付いていましたか、姉上。貴女を傀儡として権力を得ようとしている逆臣たちがいた事に。貴女の婿の座を巡って何年も前から秘密裡に争いが続いている事に。無知が罪だとは言いません。ですが、これがもし政(まつりごと)に関わる事であったなら、知らなかったでは済まないのです。貴女の在り方は人として正しくはあるけれど、それが王として正しいかはまた別の問題だ。貴女では、この国は守れない。

 これからは私が父上の遺志を継ぎ、国を……民を守ります。私を恨むならば恨めばよろしい。ですが今一度お考え下さい。私がああも大規模な粛清を行ってまで貴女を追いやった、その理由を。

 ……私が貴女より先に生まれていたならば。貴女がただの姫君であれる世界だったなら。そう願わない日はありませんでした。

 姉上。貴女は、貴女である限り──王にはなれないのです」


   ◆


「……姫様を討つ気なら、まずは当然俺を乗り越えてからにしろ!」

「ただ……あの蒼い海の底に一度、行きたかった……」

「卿らへの指示はもうない。これまでの比類無き働きと忠誠に、海都の王として礼を言おう!」


   ◆


 絶好の出航日和だ。頭上を旋回する海鳥たちの影を見上げたルル・ベルは、燦々と照る太陽の眩しさに目を細めた。

 深王の指令の下、白亜の森の最奥……グートルーネ姫の元へ辿り着いた『カーテンコール』は、死闘の果てに魔物と化した姫君と彼女を守るクジュラとを討ち果たした。その身に宿るフカビトの力を開放したグートルーネの姿は既に人間のそれではなく──しかしそれでも、彼女は最後まで人間だった。少なくともルル・ベルの目には、そう見えた。

 兄妹である筈の深王とグートルーネに、何があったのか。それを知る事はもうできない。

 少々のわだかまりは残ったものの、とにかくこれで『カーテンコール』に課されたミッションは全て達成された。これからどうするか。深王の言葉によれば、迷宮にはまだ先があるとの事だったが……話し合いの結果、これ以上の探索は行わない事に決めた。探索を完全に切り上げ、海都を発つと。

 そうして今、一行はインバーの港でアイエイア行きの船の出航準備が完了するのを待っている。目の前に停泊した船はかなり豪勢な造りのそれで、乗船を待つ他の客も皆、身なりの整った者ばかりだ。それもその筈、深王から餞別だと渡された金一封──ルル・ベルから見てもかなりの金額だった──を使って上等な客船を予約したのである。

「わあ……何かすごいですね、私こういう船は間近で見るのも初めてですよ」

 傍らで船体を見上げていたアルフレッドが感嘆したように呟く。ルル・ベルたちにとってはこういった上流階級御用達のような空気も慣れたものだが、市井で生まれ育った彼にはそうではないようだ。ルル・ベルは苦笑しつつ応える。

「乗ってみるともっと驚くぞ。客室などもベッドがあって宿屋のような造りをしているからな……雑魚寝でも、ハンモックでもなく」

「そうなんですか? 宿が船に乗ってるみたいなもんですね。ちょっと楽しみだな……」

 そう言うアルフレッドの表情はやけに明るい。

 例の一件が終わってからというもの、彼の様子はどこかおかしくなった。何をするにも明るく楽しそうにしていて、これまで見せていた暗い表情を一切しなくなったのだ。それは一見すると良い事かもしれないが、あの戦いがあった後で急に態度が変わったというのは、あまりに不穏すぎる。

「この樹海での出来事は、私にとっては夢みたいな経験でした」

 何かあったのかと訊ねられたアルフレッドは、笑ってそう答えた。その顔に浮かぶ笑顔はまるで子供のように無邪気だったが、瞳だけはまるでぽっかりと口を開けた深淵のように深い闇を湛えていた。だから、と彼は言う。

「ぜんぶ夢だったんですよ。何もかもぜんぶ、夢なんです」

 港に水夫たちのけたたましい声が響く。船上から縄梯子が下りてくるまでにはまだ時間がかかりそうだ。興味深そうに船や他の乗客の姿を眺めていたアルフレッドだったが、ふと辺りを見回すとにっこりと笑って船首の方向を指さした。

「私、あっちの方を見てきますね」

「……ああ。折角だ、思う存分見学すると良い」

 ひとつ頷いて軽やかな足取りで歩いていくアルフレッドの背中を見送り、ルル・ベルは小さく息を吐いた。アルフレッドの豹変について思いを巡らそうとした彼女だったが、それを阻むように軽い足音が駆け寄ってくる。

「ルル・ベル様! 立ちっぱなしでお疲れでしょう。椅子になるもの持ってきましょうか?」

「いや、構わぬ。妾も迷宮で鍛えられたのだ、この程度は苦にもならぬ」

「そうですか……」

 大人しく引き下がったパーニャだがその表情には不満が滲んでいる。ルル・ベルはくつくつと笑い、彼女に向き直る。

「パーニャ。他の皆はどうしている?」

「シナトベとライディーンはあっちの小屋で港の管理人と話してます。タマキは……あそこにいますね」

 パーニャが示した先へ目をやれば、タマキは桟橋の端に佇んでじっと海を見つめていた。異様に明るくなったアルフレッドとは対照的に、彼はここしばらくずっと沈んだ表情をしている。とはいえ時を経るにつれ次第に笑顔も見せてくれるようにはなったし、何よりこれからも旅に同行したいと言ってくれた。今はそれで十分だろうとルル・ベルは思っている。

 微かに吹いた潮風に揺れるタマキの髪を眺めながら、ルル・ベルはぽつりと呟く。

「色々な事があったな」

 パーニャは驚いたように目を丸くし、それから眉を下げて応える。

「そう……ですね。良い事もあったけど、……」

「……妾は自分で選んだ道に後悔は無いが……そなたらを付き合わせてしまった事が、ただ申し訳ない」

 パーニャがますます悲し気な顔をして俯く。ルル・ベルはそっと目を伏せた。アルフレッドやタマキだけでない。シナトベは平然としていたが体に深い傷跡がいくつか残ったし、ライディーンは母子を貫いた槍の感触が手から消えないのだと嘆いていた。どの傷もすべて、責任は主君である自分にある。

 物思いに沈むルル・ベルの腕を、パーニャが引く。

「ルル・ベル様……自分を責めないでください。誰もルル・ベル様のせいだなんて思ってないです」

「…………」

「それに皆だけじゃなくて、ルル・ベル様だって……辛かったでしょう」

 パーニャの声は心から自分を案じるそれだ。ルル・ベルはしばし沈黙し、そうだな、と呟いた。

 船の上から大きな声が聞こえてくる。どうやらそろそろ乗船の時間らしい。ルル・ベルは顔を上げて微かな笑みを浮かべると、努めて明るい声でパーニャに告げる。

「さあ、我々も準備をせねばな。シナトベとライディーンを呼んできてくれ」

「……はい!」

 元気に応え、パーニャは二人のいる小屋へと駆けていく。ルル・ベルもさて、と気を取り直し、足許に置いていた荷物を拾い上げる。とはいえほとんどの持ち物は従者たちが「自分が持ちます」と持って行ってしまったため、今のルル・ベルの手元にあるのは僅かばかりの日用品と紐で縛った剣と盾くらいのものだが。

 港の景色を眺めつつ仲間たちが戻ってくるのを待っていたルル・ベルは、ふと近付いてくる人影に気付いて背後を振り返った。見れば、見知らぬ男性がゆっくりとした足取りでこちらに向かってきている。港で働いている者だろうか、動きやすい服装にハンチング帽を被った彼は、ルル・ベルに向かって気さくに片手を挙げて話しかけてくる。

「どうも。お嬢ちゃん、この船に乗るのか?」

「ああ。連れと共にな」

「そうかい。まあ、最近はアーモロードも何かと騒がしいからな。今の内に出ていくのが賢いかもしれねえなあ」

 ルル・ベルは思わず黙り込んだ。その騒ぎの原因は紛れもなく、グートルーネを倒した自分たちだ。

 急に口を閉ざしたルル・ベルを怪訝に思っているような様子も無く、男は続けて問う。

「にしても、世の中ってのは理不尽だよなあ。あれだけ慕われてたお姫様がこんなあっけなく死ぬなんてよ」

「そう……だな」

「王家がどんな恨みを買ってたとか、どんな諍いに巻き込まれたのかもオレはよく知らねえけどよ。こういう事が起こると他人事じゃねえんだなって思うよ。いつ不幸が降りかかるかなんて分からないし……それが、誰かに責任を求められるものかってのも、定かじゃない」

 ルル・ベルは怪訝に眉をひそめる。いったい何の話をしているのか。疑問に思いながらもじっと耳を傾けるルル・ベルに、男は淡々と続ける。

「けどなあ、オレはやっぱり、奪われたもんは取り返しておきたいのよ。たとえ誰にも責任が無いとしても、はいそうですかで流せる程、オレはできた人間じゃねえ」

 だから、と。男は少女をまっすぐに見る。

「これでおあいこだ(・・・・・・・・)」

 胸元で、何がが弾けた。

「……あ……」

 熱い、と思ったのは一瞬だった。確かに感じた熱は感じた事もないような痛みによって押し流され、後には何も残らなかった。ドレスがじわじわと重く湿っていく。火薬の匂いがする、と呆然と思った。次の瞬間、ルル・ベルは膝から崩れ落ちてなす術なく倒れる。

 そうして初めて、ルル・ベルは帽子に隠されていた男の顔をまじまじと見た。その顔には見覚えがある。あの時──ゲートキーパーが討伐された時。『セレスト・ブルー』の面々の中に、確かに彼の顔があった。……ルル・ベルには彼の名前がウィリーである事も、海賊団の航海士である事も、知るよしも無かったが、それでも理解できた。ああ、そうか、海賊団の仲間(かぞく)か。

 徐々に血の海に沈んでいくルル・ベルを男はしばし冷たい瞳で見下ろしていたが、やがて手にしていた銃を静かに持ち上げると、自ら口に咥えて──引き金を引いた。その肢体が倒れ伏すのと同時に、遠くから呼び声が聞こえてくる。

「……姫様! 姫様っ!!」

 駆け寄ってきた誰かに抱き起される感触。だがルル・ベルには、そこにいるのが誰なのかももう分からなかった。悲鳴じみた呼びかけが次第に遠ざかっていく。暗く霞んでいく視界には一面の青空が映っている。太陽が眩しい。白い雲が高く、高く浮かんでいる。いい天気だ、と思った。それきり思考は闇に融ける。

 彼女を呼ぶ声が遠く、遠く響いている──。


Bルート『幕引きの鐘よ誰が為に』 終

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