【D2】1 セレスト・ブルー海賊団は休暇を楽しむ筈だった。
船が難破した。
いや、難破というには、それはあまりにも穏やかなものだったかもしれない。長年修築を繰り返しながら七つの海を渡ってきた愛すべき家族は、港に辿り着こうかというその直前にその生涯を終えた――いつの間にか船底に口を開けていた、大きな一つの穴によって。
「まあ、無事に目的地まで辿り着けただけまだマシか……」
そう嘆息したのは副船長のレイファで、悩み多そうな彼女の様子にティルも息を吐いた。レイファが眉間に寄った皺を指で揉みほぐしながら見下ろしているのは数日前にいちばん近い港町の造船所から貰ってきた新しい船の見積書だ。ティルは金勘定が苦手なため、自分たちの懐事情がどうなっているのかいまいち掴めていない。しかしそれを差し引いても、その紙に記された金額はあまりにも膨大だった。
「困ったね……静養に来たのに、余計な心労が増えてちゃ堪らないよ。どうしたもんか……」
再び大きな溜息を吐きながら机に突っ伏したレイファを慰める言葉をティルは持たなかった。代わりに先程街で買ってきた甘い焼き菓子を彼女の口許にそっと差し出す。焼き菓子がレイファの口の中に消えていったのを見届けてから、ティルは焼き菓子と共に抱えていたチラシに視線を落とした。全体をひととおり眺めてから隅に書かれた文字に目を走らせる。
湖畔の街オーベルフェ。ティルには聞き慣れない名前だったが、聞くところによると観光業によって発展した街らしい。ティルたちが慣れ親しんだ海を離れてこんな内陸部にわざわざ足を運んだのも、言ってしまえば休暇のためだ――肝心の仕事道具はお釈迦になってしまったのだが。美しい湖と澄んだ空気、豊かな自然。それらの資源を最大限に活用し、多くの観光客を呼び込み大きな発展を遂げているオーベルフェだが、しかし、この街の最大の目玉は他にある。
「世界樹の迷宮があるらしいな」
ティルの言葉に、レイファが顔を上げた。持っていたチラシを見せながらティルは続ける。
「けど、前の世界樹とは少し違うらしい。不思議のダンジョンという、特殊な造りをしてるとか」
「……確かに、世界樹は金になる」
呟くレイファの顔は苦々しい。チラシに描かれたドーム状に聳える巨大な樹を睨み付けながら、更に続ける。
「でも、二度と行かせないよ。……運が良かったんだ、アーモロードでのあたしたちは」
ティルは何も言わずに肩を竦めた。
彼ら「セレスト・ブルー海賊団」が海都アーモロードの世界樹を踏破してから、十四年が経つ。
考えてみれば、本当に運が良かっただけなのだろう。その当時ティルは言葉も覚束ないような子供だったが、それでもあの冒険の日々のことはよく覚えている。魔物や人間に似たフカビトなる生き物との戦いの中で命を落としかけたことも一度や二度ではない。ティルとて再び世界樹に挑むなどまっぴら御免だった。前は何とか誰も死なずに済んだが、次も無事でいられる保証などどこにもない。
レイファが身を起こし、大きな伸びをする。
「……まあ、今回は無一文ってわけじゃ無いんだ!宿も押さえたし、すぐに決めなくても大丈夫さ」
「そうだな。……ちょっとカゲチヨを見てくる」
「はーい。ついでにインディゴ呼んできてくれる?」
「分かった」
チラシを机に置いて部屋を出ていくティルを見送り、レイファはごきごきと首を鳴らした。チラシを手に取り、大きく書かれた「冒険者募集」の文字を見て顔をしかめる。冒険者、冒険者、と、さも夢を追う素晴らしい職業みたいに言うが、あんな血に塗れた職業のどこに夢があるものか。
静かにチラシを眺めていたレイファの背後で、つい先程部屋を出ていった筈のティルが困った様子で顔を出す。
「レイファ……」
「ん?どうしたの」
「いや……インディゴがいないんだ」
「…………」
……勝手なことをしやがって、あの野郎!レイファは本日三度目の大きな溜息を吐いた。
◆
「パパ! 見てくださいまし! あの方々、あんな貧相な船に乗ってますわ! お金が無いのかしら?」
「あれはゴンドラって言うんだぜ、セリカ」
石畳の街を連れ立って歩く男と少女に、道行く人は怪訝な視線を向ける。石橋の上に立つ二人が眺めているのは水路をゆっくりと進む観光用のゴンドラだ。
「水路は海ほど波が無いから、あんなちゃちな造りの小さい船でも十分なんだよ」
「なるほど、あの方々が貧乏というわけではありませんのね」
覚えましたわ。と呟いてうんうんと頷くセリカの姿に笑みを浮かべ、インディゴは頑丈そうな石造りの欄干に寄りかかって空を仰いだ。息を深く吸い込めば、清涼な空気が肺を充たす。道行く人々は皆明るい表情で各々の行き先へと歩みを進めている。海が見えないのが残念だが、なかなか良い場所だ。これで船が生きていれば更に言うこと無しだったのだが。セリカがインディゴの腕を引いて言う。
「わたくし、住むならこんな街が良いですわ。とても綺麗だし、ここならお父さまの病気も良くなりそうですもの。ねえ、どうかしら?」
「俺もそう思うけど、このまま住むには野郎どもがなあ……何十人も面倒見きれねえぞ」
愉快な荒くれものどもの姿を思い浮かべながら、インディゴは溜息を吐いた。部下たちが新たな職にありつけるとは限らないこの状況で海賊稼業をやめることは、彼らを見捨てることと等しい。それはインディゴとしても本意では無かった。セリカが頬に手を当て、困った顔をする。
「船長のお仕事も大変ですのね」
「そうそう、大変なんだよ。……さ、行くぞ。レイファやベロニカにバレる前に」
「もうバレてるよ」
背後から突然割り込んできた声にインディゴの肩がぎくりと強張る。インディゴの身体越しに声の主を見たセリカがあら!と声を上げた。
「ベロニカお姉さま」
「ハーイ、セリカ。……ねえ船長。ティルやレイファに黙って出ていくなんてどういうつもり? まさか、前みたいに金稼ぎしようなんて思ってないでしょうね」
底冷えするような声にインディゴは恐る恐るといった様子で振り返る。ベロニカは激怒していた。その怒り具合たるや自慢の艶やかな紫髪が天を衝くのではないかという程である。インディゴは目を泳がせ、言い訳できる材料を探した。
「いや、金があるに越したこた無えだろ?」
「ふーん、金と命どっちが大事なわけ?百歩……いや千歩譲って船長はいいけど、セリカまで連れてきて何がしたいのよ」
「あら、違いますわお姉さま。わたくしがパパに頼んで連れてきてもらいましたの!」
「ああ、ちょっと静かにしててくれやセリカ……」
何だか楽しそうな様子の娘を制しながら、インディゴは頭を抱える。これはまずい。ベロニカの正論に対抗しうる屁理屈が見付からない。かくなる上は、強行手段しかあるまい。
「これを見ろベロニカ!」
言いながら、インディゴはベロニカに一枚の紙を突き付けた。怪訝な様子でそこに書かれている文字を追っていたベロニカの表情が、段々と険しいものに変わっていく。
「……ギルドの登録証明書? ……『セレスト・ブルー』……まさか、もう登録したの?」
じろり、と紫色の瞳が睨み付けてくるより先に、インディゴは口を開く。何を話すのかは全く考えていないが、こういうのは勢いが大事なのだ。
「知ってるかベロニカ。オーベルフェの世界樹の迷宮は、冒険者の死亡率が劇的に低い。『不思議のダンジョン』という迷宮の特性上地図を作ることは難しいがその代わりに小型の樹海磁軸とも言える緊急脱出装置が普及してるからだ。どういうことか分かるか?糸を忘れた状態でパーティが壊滅したら生還はほぼ絶望的だったアーモロードの迷宮とは話が違うんだよ。それにオオヤマネコがいない。あと迷宮に砦なんかを作ってて探索の拠点にもできるらしいぜ。時代は進化したよなあ。そして何よりオオヤマネコがいない。という訳でオーベルフェの世界樹は金になる上に安全、セリカを連れて行って社会勉強させてもいいんじゃないかと俺は思うんだがお前はどう思う?」
一息に言い切ったインディゴにセリカが目を瞬かせ、ベロニカはげんなりした表情で重い息を吐いた。
「何が船長をそこまで駆り立てるの……」
そりゃ、真面目に働いて稼ぐのが嫌だからに決まってる。というのが本音だったが、流石にそれを言ったらまずいのでインディゴは黙り込んだまま何も応えなかった。既に話を追うことを諦めたらしいセリカは橋の下を覗き込んで水鳥の観察をしている。暫しの睨み合いの後、ベロニカがあー、もう! という声と共に頭を掻く。彼女はインディゴがこうなると人の話を全く聞かないことをよく知っていたのだ。
「はいはい分かりました! もう何も言いません! でもレイファやティルの説得は自分でしてよね!」
「サンキューベロニカ!」
「お姉さまは一緒に行きませんの?」
「私はちゃんと仕事見付けてお金を稼ぐから。セリカ、あなただけでも無事で帰ってくるのよ? 何なら船長を盾にしたって良いわ」
「分かりましたわ!」
何だか自分にやたら辛辣な会話を交わすベロニカとセリカには敢えて何も言わず、インディゴはギルド証明書をしまって息をひとつ吐いた。さて、まずはピクニック気分で第一迷宮とやらに向かってみよう。言い訳は後から考えればいい。それに、一度結果を出してしまえばレイファやティルも文句は言えないだろう。
「んじゃ、ちょっと行ってくる。まあ楽しみに待っとけよ~」
軽い調子で手を振り、セリカを連れて歩き出したインディゴの背中を見つめてベロニカはがっくりと項垂れた。止められなかった自分も自分だが、インディゴもインディゴだ。
「冒険者なんて……馬鹿げてるわ。自殺志願者じゃあるまいし……」
呟いた声は誰の耳にも届かず、ベロニカはあーあ! と声を漏らすと踵を返してレイファたちの待つ借家へと戻っていった。
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