【SQX】序章
船体の揺れはいよいよ無視できない規模にまで達していた。思わず転びそうになるのを手摺に掴まって堪え、分厚い窓の向こうに視線を送る。一面に灰色の雲が渦巻き、その内側に稲光が走るのが確認できたところでエノクは慌てて目を逸らした。外がこんな状況では、さしもの飛行都市マギニアも無事では済まないのではないだろうか──脳裏に過った悪い空想を振り払い、彼はひとつ息を吐いて金属製の管が這う天井を見上げた。まだ何も始まっていないというのに、ひどく憂鬱な気分だ。故郷の空が恋しい。
郷愁に浸るエノクと対照的に、モモコは落ち着き払った様子で窓の外を眺めていた。エノクがそわそわと、不安げに辺りを見回している事に気付いた彼女は静かに口を開く。
「そう簡単には墜ちませんよ。マギニアは現代科学よりも余程高等な技術で造られていると聞きます。ラガードの天空の城と同じようなものでしょう」
「雲の上の城と一般市民を乗せた飛行船とじゃ話が……うわ!?」
空を裂くように走った閃光と激しい雷鳴に思わず身を竦ませたエノクを静かに見やり、モモコは小さな笑みをこぼした。非難めいた視線を向けてくる青年を諭すように彼女は言う。
「この程度の危険は序の口です。歩く自然災害のような生き物が自分から突撃してくるような場所に行こうとしているんですから、こんな事で寿命を縮めていては命がいくつあっても足りませんよ」
「そ……そんな……」
「……まあ、あまり気を張りすぎるのも良くないですから。気楽にいきましょう、気楽に」
──いや、気を張っている理由は他でもないあなたの言葉なんですけどね!
ちらりと目をやった窓の外には相も変わらず暗雲が立ち込めている。不思議と込み上げてくる涙を堪えつつ、エノクは自分がこの飛行都市マギニアへ乗り込むまでの経緯を思い返していた。
◇
エノク・アイオライトはラガード領ハイランド地方の出身である。ハイランド地方といえば傭兵部族として名高いハイランダーの住まう土地であるが、彼の故郷はハイランドの端の端、流入人口の増加により民族の伝統的な文化が形骸化しつつある土地であった。比較的緑が豊かな場所という事もあり、人々は傭兵業ではなく狩猟や農耕によって生計を立てて生活している。
エノクはそんな小さな里の、首長の孫息子として育てられた。長の孫、と言ってもこれといった権力がある訳ではない。扱いは同年代の他の子供とこれといって変わらないものであったし、里の一員として果たす義務についてもまた然りであった。
「あなたの試練が決まったわ」
と、母がそう告げてきたのはエノクが十七歳の誕生日を迎える直前の事で、その言葉を聞いて彼は心底複雑な表情を浮かべた。試練というのはこの里における成人の儀の事だ。適齢期を迎えた子供に対して里の『星読み』が占いを行い、その結果に応じた試練を与え、無事試練を乗り越えた者のみを大人──すなわち正統なハイランダーとして認めるというものである。
本来ならば十五歳になる年に与えられる筈のその試練を、エノクは十七歳になる今の今まで受ける事なく過ごしてきた。幼い頃から病弱であった彼の身体を慮っての措置である。しかし先延ばしにされて二年も経ってしまったものを今更突き付けられても困るというもの。エノクは正直この試練に対して乗り気ではなかった。
ひとつ溜息を吐き、彼は母に問い返す。
「そう……どんな内容?」
試練は里を取り囲む山々で行うのが一般的である。槍一本で一ヶ月間山籠りをしたり、身一つで崖を上ったりなど、内容は違えど己の力だけで大自然に挑むというのが成人の儀の慣例なのだ。
息子の問いかけに母は思わずといったように口をつぐんだ。怪訝な表情を浮かべるエノクをよそに暫し沈黙した後、重い口調で答える。
「……あなた、レムリアって知ってる? 絶海の孤島って呼ばれてる島なんだけど」
「いや、知らないけど……」
「そこに行ってもらうわ」
「は?」
呆然とするエノクの胸にずっしりと重い旅行鞄が押し付けられる。鞄を抱えて立ち竦むエノクを真っ直ぐに見据え、真剣な表情で母は言う。
「あなたに下った託宣はこうよ。『レムリアは大いなる空虚に呑まれようとしている。黒き霧は数多の生命を喰らい尽くし、怒りは世界の全てを飲み込むまで尽きる事がないだろう。深淵に眠る獣を打ち倒し、島を覆う闇を祓え』──正直、こんな事は初めてで私達も混乱してるの。でも何度やり直しても同じ結果だった以上、あなたはこの試練に挑まなきゃいけない」
「ま……待ってよ母さん! だからってそんな、いきなり……」
「西の港に飛行都市マギニアが停泊してるの。ちょうど一週間後にレムリアへ向けて出発するそうよ。港までは街から馬車で三日……早めに準備をしないと間に合わなくなるわ」
自分の知らぬ間に話がトントン拍子に進んでいるらしい事を察し、エノクは目の前が真っ暗になるような心地がした。試練とはいえ最悪でも熊と戦う程度だろうと高を括っていたところにこの仕打ちである。レムリアという島に行かなければならないのは何とか理解できた。しかし、その世界がどうこうだとか、闇がどうこうだとかは一体何の事なのか。そんな壮大な話は身に覚えがない。
生まれてこのかたラガード領から出たことすら無いというのに、聞いたこともない島に送り込まれて判然としない試練に挑むなど、あまりにも悪い冗談だ。考えるだけで眩暈がする。青い顔で俯くエノクの肩を抱き、母は大丈夫よ、と小さな声で告げる。
「託宣なんて、よくある事を大げさに言ってるだけよ。要はそれっぽい事を成し遂げて帰ってこれればそれでいいの」
「それっぽい事って何さ……」
「それは自分で考えて頂戴」
「酷い……」
ますます深く項垂れる息子に母はひとつ息を吐き出し、抱いていた彼の肩を叩くとどこからか取り出した一振りの剣を差し出す。青く輝く刃を持つ細身の剣だ。
「これはあなたの先生から。成人祝いの予定だったけど、持っていきなさい」
言われるがまま剣を受け取るエノクの目に光は無い。その後も母は何か言っていたような気もするが、そんな事を気にする余裕は彼には無かった。現実のあまりの厳しさに思考が追い付いていなかったのである。成人を認められるためだけの試練だというのに、何故ここまでの難題が用意されているのだろう。母はこんな事は初めてだと言ったが、それならば何故エノク一人だけがこんな託宣を受けたのか。何かはっきりとした原因があるようにしか思えない。
例えば、エノクが本当のハイランダーの子ではないから、だとか。
◆
マギニア居住区の中央広場、設えられた舞台の上に一人の女性が立っている。白銀の鎧を身に纏い、凛と佇む彼女の名はペルセフォネ・マギニアス。飛行都市マギニアの国家元首であり、マギニア探索司令部の長を務める女性である。召集に応じこの場所へ集ってきた大陸各地の冒険者達を前に、彼女は高らかに告げる。
「世界全土より集いし勇者たちよ! 今より我らは前人未踏の大地へ挑む。互いに名も知らぬ冒険者なれど、未知なるものへ挑む心を持つ同志と思え」
一度言葉を切り、ペルセフォネは身を翻すと自身の背後、遥か遠方に聳え立つ巨大な樹を指し示す。圧倒的な存在感をもって佇むその大樹こそ、世に名高い『世界樹』であった。
「目指すは大いなる世界樹の麓、古代文明レムリアが残した伝説の秘宝。汝らの求める富や名誉、あるいは未知なる冒険そのものがそこに眠っているのだ!」
ペルセフォネの青い瞳が眼下にひしめく冒険者達の表情を映す。真剣な顔で演説に耳を傾ける者、仲間と言葉を交わす者、興味なさげに辺りを見回す者。一括りに冒険者と言えど彼らの態度はまちまちだ。同じように、その内心も必ずしも同じとは限らない。純粋な冒険心、富や名誉への欲、もしくはまた別の野望を秘めてこの場所へ集まった者もいるかもしれない。彼らがマギニアにとっての希望の星となるか、はたまた獅子身中の虫となるか──ペルセフォネにとっても、この召集は大きな賭けであった。
願わくば、この有象無象の中からマギニアの英雄となってくれる勇者が現れるよう。祈りにも似た心境でペルセフォネは声を上げる。
「──冒険者たちよ! 己が誇りを胸に秘め、いざ進むのだ!」
◆
演説台から下り、衛士達と共に広場を立ち去るペルセフォネの姿を遠目に見つつ、エノクは思わず感嘆の声を漏らした。
「何だか格好いい人でしたね」
「お若いとはいえ一国を背負うお方ですから。……さあ、私達も行きましょう。冒険者ギルドで登録をしないと」
広場にひしめいていた冒険者達の大半は既に衛士の誘導に従って移動を始めていた。二人もその列に並び、冒険者ギルドを目指す事にする。
何百という冒険者が一度に詰めかけていることもあり、列の進行はひどく遅い。人混みに揉まれながらエノクは傍らのモモコに声をかける。
「ええと、ギルドって新しく作った方が良いんでしょうか」
「エノク君が決めてくれて構いませんよ。私はあくまでサポート役ですから」
そう言いながらモモコはにこりと笑う。言葉通り、彼女はエノクの母の旧知であり、今回の試練にあたってエノクをサポートするために同行した熟練冒険者であった。若い頃はラガードで有名なギルドに所属していたという話だが、エノクも詳しくは聞いていない。
ううんと唸って考え込むエノクを横目に見て、でも、とモモコは続ける。
「今回の目的はあくまでエノク君の試練ですから。それに納得してくれるギルドを探すよりも、新しく立ち上げてメンバーを募る方が楽かもしれませんね」
「あっ、そうですね」
エノクはほっと胸を撫で下ろした。何もかもが初体験の自分が考えるより、経験者のモモコの言葉に従う方が正しいだろう。
世界樹を目的に集まってきた冒険者達に混ざってギルドを立ち上げるというのは少々後ろめたい気もしたが、そこは仕方がない。島を探索して『レムリアを覆う闇』とやらを探さなければ、試練に挑む事すらできないのである。
暫く時間が経ったが、列の先頭にはまだまだ辿り着きそうもない。これだけ多くの冒険者が大陸各地から集ったというのだから、『世界樹の迷宮』とはそれだけ魅力的な場所なのだろう。かくいうエノクも幼い頃は母が語ってくれた世界樹の物語にたいそう夢中になったものである。確かに先行きは不安だが、ここまで来たら腹を括るしかないだろう。それに、エノクの心には不安だけでなくほんの少しの期待も息づいていた。未知の樹海、古代文明の眠る場所。天を衝く巨木に潜むロマンは内向的な青年のささやかな冒険心をも揺さぶっていたのである。
──あの樹の麓まで辿り着く頃には、僕は立派なハイランダーになれているだろうか。
街並みの向こう側に見える世界樹の姿をじっと見つめるエノクにモモコがくすりと笑って声をかける。
「迷宮に入るのが楽しみですか?」
「えっ!? いや、そんな……」
「いいんですよ。私も初めて探索に出たときはそんな気持ちでしたから。でも、迷宮は……」
その時である。どこからか聞こえてきた高い悲鳴に列に並んでいた冒険者達の空気がざわつく。何事かと辺りを見回すエノクの耳に飛び込んできたのは大通りの向こうから駆けてきた衛士の声だった。
「大変です! 向こうの区画に魔物が……!」
「魔物!? 先見隊の調査ではこの辺りに魔物なんて……」
人々の間に動揺が広がる。状況がどうなっているのかも分からないまま、隊長格らしい衛士の指示で避難誘導が始まった。周囲の冒険者達が移動するその流れのままにエノクとモモコも歩き出す。街のどこかからつんざくような謎の音が聞こえてくる。モモコが顔をしかめて警報……と呟いた。
「……大丈夫でしょうか?」
「どうでしょう……魔物が縄張りから離れてわざわざ大群でやって来るとは思えませんし、少数なら衛士隊で対処できると思いますが……とにかく今は指示に従いましょう」
モモコの返答にひとつ頷き、エノクは前にいる冒険者の背中を追う。慌ただしく行き来する衛士達の声に耳を傾ける限り、どうやら昆虫に似た魔物が二、三体街へ侵入してきたらしい。今は姿を隠してしまっているようだが、ここから程近い場所にいる可能性が高いという。早く見付けて対処できればいいが、と思いつつ、ふと視界の端にあるものを捉えた彼はぎょっと目を剥いた。
路地裏の先、向こう側の通りを歩く白い人影がはっきりと見える。小さな子供だろうか、何かを探すような仕草を見せながらてくてくと歩いて視界から消えていく。向かっていく方向にあるのはちょうど現在封鎖されている区域だ。衛士が子供の姿に気付いた様子は、無い。
「ッすいません! 僕ちょっと行ってきます!」
「えっ……エノク君!?」
一声叫び、咄嗟に駆け出した。背後からモモコの呼び止める声が聞こえてくるが、返事をするだけの余裕は無い。重い鎧をガシャガシャと鳴らしながら狭い通路駆け抜け人影を追う。路地裏を抜けて辺りを見回してみれば、少し離れた場所に白い服を着た子供の姿が見えた。きょろきょろと周囲を窺う子供の背後、向こう側の路地から顔を出しているのは、丸々とした蝿のような魔物だ。
「危ない!!」
驚いた子供が振り向いたのと、魔物が子供に向かって飛び掛かったのと、エノクがその間に割り込んで盾を構えたのとはほぼ同時の事だった。 石畳を強く踏みしめて盾にかかる重みを押し返し、エノクは背後に視線を送る。尻餅をついたらしい、へたりと座り込んだ女の子が目を丸くして目の前の攻防を見つめていた。
「きみ! 大丈……うわっ!」
言葉を遮るように再び突撃してきた魔物の一撃を受け、思わず盾を取り落とす。魔物の無機質な視線は、防御の姿勢が取れなくなったエノクを真っ直ぐに捉えている。魔物が背中の羽を広げて獲物に向かって飛び掛かろうとするのを認め、エノクはせめて背後の少女だけでも守ろうと両手を広げた。
攻撃に備え、目を瞑る──が、しかし。いつまで経っても予想していたような衝撃は無く、代わりに何かが地面に叩き付けられる音が聞こえてきた。恐る恐る目を開けてみれば魔物は石畳の上に倒れ伏しており、その背中には一本の矢が刺さっている。その向こうから歩いてくる人物を見て、エノクは全身の力が抜けていくのを感じた。
「モモコさん……」
「まったく……あまり驚かせないでください」
溜息混じりにそう言ってモモコは魔物に刺さった矢を抜き取る。そして座り込んだまま目を瞬かせていた少女に歩み寄り、手を取って立ち上がらせた。
「怪我は……ありませんね。どこか痛いところは?」
少女はふるふると首を振る。よく見てみれば少女の肌は血の気が感じられない不思議な色をしており、おまけに耳は長く柔らかな毛に覆われていた。エノクは怪訝に思ったが、モモコはさも気にしていないという風に微笑んで彼女の頭を撫でる。
「良かった。……エノク君も無事ですね? まずは衛士隊に報告をしましょう。丁度来たようですし」
「はい……」
通りの向こうから向かってくる衛士達の足音を聞きつつ、エノクは転がっていた盾を拾い上げて表面についた傷を確かめる。深い傷がない事にほっと肩の力を抜いたところで、唐突に羽織っていたマントをぐいと引かれ、彼は驚いて振り向いた。視線を下にやってみれば、そこには長い前髪の奥で目を輝かせる少女の姿がある。
戸惑うエノクのマントを小さな手で強く握ったまま、少女は言う。
「ヒーロー……かっこいい……!」
◆
衛士の案内で辿り着いた冒険者ギルドの中は、避難してきた冒険者達の姿で溢れかえっていた。仲間と談笑する者、現在の状況を衛士に訊ねる者、受付で冒険者名簿に登録をしている者。大陸各地から集ってきただけあって、彼らの身なりはどれも個性的で多種多様だ。豪奢な金装飾の鎧を纏った王族風の人物や東国の伝統衣装を着込んだ剣士、果てには本当に服と呼べるのか怪しい布切れのような衣装の者まで平然と辺りを闊歩している。物珍しげに辺りを見回し、エノクは自分が身に纏っている青い鎧を見下ろした。旅立ちの前に母が買ってきてくれたこの鎧、流石に目立ちすぎるのではないかと心配していたのだが、どうやら杞憂だったようである。
「ギルド長をお呼びしますので、少々お待ち下さい」
そう言って衛士はエノク達を置いて部屋の奥へと歩いていった。さて、と気を取り直し、エノクは自身のマントにもぞもぞと隠れる少女を見やる。どうやら懐かれてしまったようだが、いつまでも連れ歩いている訳にもいかない。モモコが困ったように呟く。
「保護者を探さないといけませんね」
「はい。とりあえず、衛士さんに……」
そう言いながら近くにいた衛士へ近付くため一歩踏み出した次の瞬間、尋常ならざる速さで飛来してきた何かがエノクの後頭部を掠めて壁に突き刺さった。恐る恐る壁の方向を見てみれば、そこにあったのは小型のナイフである。顔を青くして呆然と立ち尽くすエノクに、地を這うようなドスの効いた声がかかる。
「お前……その子供をどうするつもりだ」
声のした方へ恐る恐る目をやると、剣呑な表情を浮かべた黒いコートの男が人混みを掻き分けてずんずんと近付いてくるところであった。その手には壁に刺さっているものと同じナイフが握られている。男の金の目が、竦み上がるエノクをじろりと睨む。
「答えろ。場合によっては……」
「あ! ノワール」
張り詰めた空気を切り裂いたのはエノクのマントから顔を出した少女だった。少女は男の姿を見てぱっと笑うと、一目散に駆け出して彼の腰にしがみつく。ノワールと呼ばれた男はますます険しい顔を浮かべて少女に問いかける。
「マナ……どこへ行っていた? 勝手に出歩くなとあれほど……」
「あのねー、マナたすけてもらったの。かっこよかったよ」
「何……?」
少女……マナの言葉にノワールは怪訝な表情でエノクを見る。硬直しているエノクの代わりに、腰の短剣に手を添えたままモモコが静かに口を開く。
「その子が魔物に襲われているところを彼が助けたんです。貴方は何か誤解をされているようですが」
「…………」
ノワールはモモコとエノクを見比べて閉口し、足元に纏わりつくマナをそっと抱き上げた。そしてずんずんとエノクに近付くと壁に突き刺さっていたナイフを抜き取り、静かに頭を下げる。
「礼を言う。連れが世話になった」
「えっ……あ、はい……」
「まものをね、たてでどーん! って。それでゆみやがぴゅぴゅぴゅーって、すごかったー」
「分かったから少し黙っていろ。……いきなり姿が見えなくなったから誘拐かと勘違いした。悪かった」
少々ばつの悪そうな顔で言うノワールの声に先程のような棘は無い。エノクは未だ早鐘のようにどくどくと鳴り続ける心臓を押さえながら曖昧な笑みを返した。声を掛けるより先にナイフを投げるのはどうかと思うが、子供の事を心配していたのなら彼の行動にも納得できなくはない。それにしたって流石に過激すぎるが。短剣から手を離したモモコが問う。
「マナちゃん……というんですね。娘さんですか?」
「ちがうよー。マナ、ムスメじゃないもん」
「……娘ではないが、事情があって私が預かっている」
それだけ言ってノワールは口をつぐみ、マナの頭に上着のフードを被せる。モモコもそうですか、とだけ応え、それ以上の追及はしなかった。
緊張が解け、辺りの空気が元の賑わいを取り戻し始めたところでエノク達に近付いてくる人影があった。黒い鎧を身に纏った壮年の男性──冒険者ギルドの長、ギュンター・ミュラーである。
「すまない、待たせたな。君達が魔物を倒してくれた冒険者だな?衛士隊を代表して礼を言おう。協力、感謝する」
「礼には及びません。……ね、エノク君?」
「あ、はい! 街の人に被害が出なくて安心しました」
二人の返事にミュラーは微笑んで頷き、言葉を続ける。
「ギルド登録はまだ済ませていないと聞いた。こちらで手続きを案内しよう……よければ、君達も一緒に」
言いながらミュラーが視線をやったのはノワールとマナだ。ノワールは暫し考え込んでから頷き、それを見たミュラーは身を翻して受付へと向かう……前に、壁に残った傷を見て目を瞬かせた。
「この傷は?」
「……あー……」
エノクが頬を掻き、ノワールが渋い顔で視線を彷徨わせる。ひとつ息を吐いたモモコによる状況説明は割愛するとして、ミュラーが寛大な性格であったのはノワールにとっては大変な幸運と言えるだろう。
修繕費は出世払いという事になった。
冒険者ギルドへの登録は冒険者達にとっての義務だ。ギルドへ登録していない冒険者は探索時にトラブルに見舞われたとしても探索司令部のサポートが受けられず、宿屋や商店などの街の施設の利用もできなくなる。そもそもそれ以前に登録がなされていない者は未登録と知られた時点で違法冒険者としてしょっぴかれる事になるのだが。
必要事項を書き込み終え、エノクはペンをそっと置いて申込用紙をミュラーへと差し出した。受け取ったミュラーは書かれている内容を一通り確認してエノクに向き直る。
「これで間違いは無いかね?」
「はい、大丈夫です」
「良し。それでは、冒険者ギルド長の名において、ギルド『スターゲイザー』の結成を認めよう」
ミュラーは頷き、申込用紙を他の職員に渡して新たな紙を卓上に並べる。
「次は君達の登録だ。名前と装備……使用する武器と防具の種類、それから職業名を記入してくれ」
「職業の種類って決まってますか?」
「職業名については自主申告制だ。前衛・後衛の区別や武器と防具の組み合せ、本人の素質によってこちらで十九のタイプに分類はさせてもらうが、個人が名乗る分には自由になっている。変更は不可能なので気を付けるように」
「へえ、そうなんですか」
感心したように呟くエノクの隣で、モモコは淀みなくペンを動かしてあっという間に記入を終える。覗いてみれば、職業の欄には整った文字で『レンジャー』と書かれていた。
「生まれてこの方ずっとレンジャーなもので」
そう言って微笑むモモコの向こう側ではノワールが二人分の申込用紙と睨み合っている。どうやらマナの分も登録するつもりらしい。エノクも慌ててペンを取り、ひとつひとつ記入欄を埋めていく。名前はエノク・アイオライト、武器は剣、防具は重鎧と盾……。
「ショクギョーはなんにするの?」
突然脇のあたりから聞こえた声にぎょっとして目をやれば、背伸びしたマナが机の上を覗き込んで申込用紙をじっと見つめていた。ノワールがこら、と声を上げるのも気にせず、マナは再度問う。
「たてもってるからー、きし?」
「騎士……ではないかな。あくまで剣がメインで、盾はサブみたいなものだし……」
「じゃあ、けんし?」
「剣士か……」
「ハイランダーでは駄目なんですか?」
モモコの問いにエノクは静かに首を振る。そもそも彼がこの場所にやって来たのは『一人前のハイランダーになるため』だ。未熟者の立場でハイランダーを名乗る事は、他でもない自分自身が許せなかった。
「そう焦らずとも、ゆっくり考えれば良い」
苦笑混じりのミュラーの言葉に甘え、エノクはじっくりと考えてみる事にした。彼の故郷で重鎧の剣士といえば、一般的にソードマンと呼ばれていた。エノクの剣の師匠もソードマンであるが、実のところエノクは剣の扱い自体はさほど達者ではない。盾の技術と併せてようやく実践で扱える程度の腕前だ。そう考えるとソードマンと名乗るのも何となく憚られる。となると……。
熟考するエノクを横目に、大人達は世間話に興じている。
「最初はどこの迷宮に行くのが良いでしょうか」
「新米ギルドには迷宮に入る前に幾つかクエストをこなしてもらう事になっている。テストのような物だ」
「そうなんですか。ラガードとは逆ですね」
「今回の礼という程ではないが、クエストは私が斡旋しよう。酒場に話をつけておくよ」
「助かります。……ノワールさん、マナちゃんの分も登録するんですね」
「ああ……迷宮には連れて行かないつもりだが」
「一人で迷宮に入るつもりか? ギルドには所属しないのか」
「うちに入ります?」
「いや、暫くは一人でやらせてもらう」
「そうですか。まあ無理強いはできませんからね」
「冒険者ギルドとしては、単身での探索はお勧めできないが……」
「かみもってきたー」
「あら、ありがとうございます」
「書き終えたか。では承ろう」
横から聞こえてくる会話を聞き流しながら目を閉じて思案していたエノクは、ようやく結論を出してうんと頷いた。ソードマンにしよう。腕前は置いておくとして、本業のソードマンから剣を習ったのだからそう名乗るのは間違っていないだろう。
決まったところでさて記入しよう、とエノクは机の上を見て、そして驚きの声を上げた。申込用紙が無い。
「あれ……紙は!?」
「紙? さっきマナちゃんが持ってきましたけど」
「えっ!? 僕、まだ書き終わって……!」
「これでギルドカードの発行は完了だ」
エノクが言い終わる前に、受付の奥に引っ込んでいたミュラーが掌大のカードを手に戻ってきた。カードをモモコに渡し、彼はエノクの方を見てくすりと笑う。
「しかし……大きく出たな。こんな職業で登録する者は初めて見たぞ」
「ええ!? だから僕まだ書いて……」
「かっこいいでしょー」
「……まさか、お前が書いたのか?」
うん! と元気いっぱいに頷くマナにノワールが頭を抱える。一体何が書いてあるのか。苦笑を浮かべたモモコが差し出してきたギルドカードを慌てて覗き込み、エノクは絶句した。
エノク・アイオライト。職業は……『ヒーロー』。
「え、え、ええええええ!!!!」
冒険者ギルドに絶叫が響く。かくして、エノクの一人前のハイランダーを目指す旅は始まったのである──その身に余る、『ヒーロー』の名を背負いながら。
0コメント