【SQX】1-1 ハローレムリア
盾越しの重みを受け流し、剣を思い切り振り抜く──目の前に迫っていた魔物は、傷口から濁った血を吹き出しながら声もなく地面に落下した。エノクはほっと息を吐き、額から垂れてきた汗を手甲で拭い取る。
「お疲れ様です、エノク君」
帽子を被り直しながら近付いてくるモモコの手には魔物の体液に濡れた矢が握られていて、どうやらあちらは一足早く片付いていたようだとエノクはようやく悟った。
「これで終わり……ですかね」
「恐らく。さあ、依頼人の所へ戻りましょう」
彼も一緒に。とモモコが示した先では、立派な角を持ったヤギが一頭、呑気に草を食んではメエエと鳴いていた。
「いやあ、本当に助かった! 私一人だったらどうなっていた事か……」
メエメエと鳴く集団を引き連れた衛士がそう言って頭を下げる。エノクはそれに笑顔で応えようとし、群れから離れて突っ込んできたヤギの頭突きを受けてウグッと呻いた。
ミュラーの斡旋でエノク達『スターゲイザー』が最初に引き受ける事になった依頼は山羊の放牧の護衛であった。マギニアで飼育されている家畜達は、飛行船そのものが都市であるという都合上こうして放牧できる機会が少ない。豊かな自然の中で過ごすのはヤギ達にとって良い事ではあるが、レムリアは魔物の多く生息する危険な大地。安全に放牧するには魔物を退ける術が必要不可欠なのである。
「獣避けの鈴が増産できればこうして護衛を頼む必要も無いんだが。今は資源の確保が最優先だからな……」
「何はともあれ、街の人達の生活が一番大事ですからね。仕方ありません」
申し訳無さげな衛士にモモコがそう応える。生活用水や食糧、木材等の確保は、限られた資源しか持てないマギニアにとっての最重要事項だ。それらに追われて働き手が足りなくなってしまうのも無理はない。そして冒険者達が一時的とはいえマギニアで生活する以上、住民達の代わりに足りない部分を補うのもまた当然の事である。
「もう一つの依頼も水場を使えるようにするためでしたね」
「ああ、あの池のヌシの事か? あれも中々手強いと……」
「……! 止まって下さい」
先行していたモモコが急に立ち止まり、背後にいたエノクと衛士を制した。彼女がじっと見つめる先は鬱蒼とした林がある。
「今……何か聞こえました」
「魔物か?」
衛士が不安げに呟き、ヤギ達を一ヶ所に集めようとする。モモコが小首を傾げ、矢を構えつつ林の奥の暗がりを覗き込んだその瞬間であった。何か大きな影が、茂みを掻き分けて悲鳴と共に飛び出してくる。
「嫌ぁーー!! 助っ、助けてぇ!!」
つんざくような高い声色で、その影がどうやら人間でしかも少女である事が分かる。モモコが目を見開いてそのまま走り去ろうとした少女の首根っこを引っ掴むのを横目に、エノクは衛士を庇うように前に出て剣を振りかぶる。少女を追って現れた魔物は頭上からの一閃を受けて倒れ伏し、そのまま動きを止めた。
「……っと。こいつ、さっきと同じ──」
「どうして、貴女がここにいるんですか」
ふうと息を吐いて他に魔物がいないかと辺りを見回したエノクは、ふと聞こえてきたモモコの声に思わず肩を強張らせた。静かで、それでいて嫌に響く声が周囲の空気を一変させる。背後では衛士が息を呑む音が聞こえた。恐る恐る見てみれば、モモコは捕まえた少女の肩を掴んで詰め寄っている。表情は見えないが、少女の様子を見る限り相当恐ろしい顔をしているのだろう。小動物のようにぷるぷると震えながら、少女はか細い声で呟く。
「も……モモコさ……」
「答えなさい。どうしてここにいるんですか、チエリちゃん」
エノクと衛士は顔を見合わせる。チエリと呼ばれた少女は目尻に涙を浮かべ、ふええ、と微かな悲鳴を漏らした。
◆
マギニアに戻る頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。衛士とヤギ達と別れ、エノク達は酒場へ足を運ぶと依頼の完了報告ついでに夕食をとっていた──ディナーと言うには、あまりにも重い雰囲気であったが。
エノクの真向かいに座っているのは、先程魔物に終われていた少女である。道中聞いたところによると名前はチエリ・ウィンフィールドというらしい。彼女はモモコの旧知の娘で、ハイ・ラガード近郊の街に住んでいるのだという。だが、そのチエリが何故レムリアで一人魔物に追われていたのか。
並べられた料理に手をつける事もなくじっと俯くチエリに、エノクから見て斜め前に座っているモモコが控えめな、それでいて圧のある声で再度問いかける。
「どうして貴女がマギニアにいるんですか? ご両親はどこにいらっしゃるんです」
「…………」
チエリは一度顔を上げて視線を彷徨わせ、何度か口を開けたり閉じたりを繰り返すと再び俯いてしまう。エノクは重苦しい空気に息が詰まりそうな感覚を抱きながら、手付かずのまま冷えていこうとしていた料理に手を伸ばす。塩がたっぷりかかっている筈のフライドポテトはしかし、不思議と味がしないように感じられた。
時計の長身が二、三回動いた頃だろうか。チエリは下を向いたまま、ようやく口を開く。
「あたし……一人で来たから、お父さんとお母さんはいません……」
モモコは頭を抱え、深い深い溜息を吐いた。チエリはうう、と呻いて身を縮こめる。
「……何という……。子供だけでマギニアに乗り込むなんて……」
「あ、いや……ここまで連れてきてくれた人がいて」
「誘拐ですか」
「違います! 違います! あたしがワガママ言って連れてきてもらったの! さっき、はぐれちゃったけど……」
慌てて弁解するも、モモコは変わらず訝しげな様子だ。チエリは縋るような目でエノクを見た。エノクは骨付きチキンを頬張りながらそそくさと目を逸らす。少し可哀想なようではあるが助けを求められても困るのだ。
「……それで、どうしてマギニアに?まさか世界樹探索に来たなんて言いませんよね」
「それは、そのお……」
言い淀み、チエリは抱えていた細長い包みを抱き締める。そのまま沈黙したところを見るにどうやら図星であるらしい。モモコは明らかに疲れた表情を浮かべながら続けて問う。
「どこかのギルドには入ってるんですか?」
「入ってないです……」
「冒険者登録は?」
「とうろく」
「登録をしていない冒険者は不法滞在者と見なされて牢屋に入れられる事になるんですが、それは知ってます?」
「…………」
チエリの顔がだんだんと青くなっていく。モモコはもう一度大きく息を吐くと、今度はエノクに向き直った。
「エノク君。彼女をギルドに入れても?」
「僕は構いませんけど……」
「え!?」
少女が目を丸くする。どうしたのかと問えば、彼女はおずおずと答えた。
「モモコさん怒ってたから、このままラガードに帰れって言うかと思った……」
「一人で帰すわけにもいかないでしょう。大陸への連絡航路は危険だと聞きますし……それなら目の届く場所にいてくれた方が余程安心です。貴女に何かあったら私はご両親に合わせる顔がありませんから……それに、」
怒ってたではなく、今も怒ってます。とてつもなく低い声にチエリの肩がびくりと跳ねた。モモコは不気味なまでの無表情のまま、やけくそ気味にスプーンを引っ掴んで冷えかけのスープを啜り始める。
空気は重いままだが、一応話は纏まったらしい。骨付きチキンを食べ終えたエノクはおしぼりで手を拭き、意を決して対面にいるチエリに声をかける。
「えっと……僕はエノク。一応、剣士なんだけど……きみは?」
「……あたしは、これ……」
小さな声で呟き、チエリは抱えていた包みを解いて中のものをそっと見せる。そこにあったのは一振りの刀だ。エノクはへえ、と頷いた。自分よりも年下で華奢に見えるが、重い刀を扱えるという事は力もそれなりにあるのだろう。
「刀ってことはブシドー?」
「うん、お父さんがブシドーだから……あたしも剣術を習ってるの」
そこで一度言葉を切り、困ったように視線を泳がせると、チエリは居住まいを正してぺこりと頭を下げた。
「あの……あたし、実戦とかぜんぜん慣れてないし……ふつつかものですが、よろしくお願いします」
「えっ、ああいや……そんな畏まらなくても。僕も全然ひよっこだし、分からない事ばっかりだし……」
だから、とエノクはチエリに向かって右手を差し出した。きょとんと見返してくる黄緑色の瞳に、できるだけ自然な微笑みを浮かべながら言う。
「これから一緒に頑張ろう。よろしく、チエリ」
「……うん。よろしく、エノクくん!」
出会ってから初めての笑顔を見せ、チエリはエノクの手を握り返す。女の子に握手を求めるなんて初めてだ。緊張したが、何とか上手くいったと胸を撫で下ろすエノクに、何やら元気を取り戻したらしいチエリはウフフと笑う。
「エノクくん、あたしのお父さんにちょっと似てる」
「え……それどういう……」
「ちょっと情けなさそうなところとか!」
「えええ……」
すっかり明るい調子できゃいきゃいと騒ぐチエリとエノクを横目に、スープを飲み干したモモコは肩の力を抜いて天井を仰ぎ見た。思いがけず守るべき対象が増えてしまった。だがまあ、チエリの身に何か悪い事が起きる前に保護できただけでも良しとしよう。
明日はレターセットを買って、ラガードへ向けて手紙を出しましょう……そう決意し、モモコはもう一度深い溜息を吐いたのだった。
0コメント