【SQX】14-6 ヒーロー

 例えば彼女が、囚われの姫君であったり、優しく献身的な村娘であったなら、何かが変わっていたのかもしれないけれど。

 残念な事に彼女はそのどれでもなくて、世界の誰も彼女を顧みなかったものだから、そんな素敵な物語はいつも絵本の中の線のあつまりでしかなかった。高い窓から見える青が、重い扉の向こうから聞こえる声が、彼女にとっての数少ない現実で、それらはみんな冷たくていつもちくちくと彼女の胸を突き刺した。

 白馬に乗った王子様も、強く賢い勇者も、紙の中から出てこない。

 この狭い部屋には、絵本の中の『ヒーロー』はやって来ない。


   ◆


 極北ノ霊堂付近には、建設途中で遺棄されたベースキャンプがある。元々極北ノ霊堂はペルセフォネの失踪からヨルムンガンド討伐までのいざこざで詳しい調査があまり進んでいなかったため、どうせなら近くに拠点を作って泊まり込みで調査をしてしまおう、と建設されていたものである。が、様々な要因が重なった事により建設作業は中断され、そのまま今に至る。

 辛うじて残された二軒の小屋──そのうち一軒の中で、二人の人物が対峙している。一人は椅子代わりの木箱に腰かけたネロ、もう一人は……槍を手に佇むヘヴェルだ。品定めするような目で自身を見つめてくるヘヴェルに向かって、ネロは淡々と語りかける。

「話を聞けと言っているだろう。……私はエレオノーラに害をなすつもりは無いし、裏切った訳でもない」

「でも勝手に子供を拐ったんだろう」

「彼女が秘宝を求めたように、私にも求めるものがあったというだけの話だ。……それより」

 静かに立ち上がったネロに、ヘヴェルは僅かに右手の槍を傾けた。今にも飛びかかってきそうな気配さえ見える彼へ向けられるネロの瞳は、あくまでも冷静な光を湛えている。

「過去の記憶を取り戻したくはないか」

 ヘヴェルの肩が跳ねた。動揺する彼の返事は待たず、畳みかけるようにネロは続ける。

「お前の記憶は失われたのではない。封じられているのだ」

「封じ……」

「そうだ。錠のかかった箱に仕舞われているだけで、無くなってしまった訳ではない。鍵さえ差し込めばすぐにでも錠を外す事ができる。……そして私はその鍵を持っている」

 ネロの指先が膝の上に置いてあった手帳の背表紙を撫でた。その軌跡を目で追ったヘヴェルは何度か視線を彷徨わせ、やがて乾いて張り付いた唇をゆっくりと開く──。

 しかし彼の喉元まで出かかっていた言葉が形になる事はついに無かった。木々のざわめき、空気の震え。何らかの異常事態を意味するそれらの音が小屋を揺らし、二人は揃って顔を上げた。

 閉ざされた扉越しに外を睨んだネロの表情がみるみる内に険しく変わっていく。

「……まさか……」

「見てくる」

 それだけ言って小屋を出ていこうとしたヘヴェルの腕をネロが掴んだ。強く食い込む指の感触に顔をしかめながら振り返れば、ネロはこれ以上無い程の苦い表情で呻くように呟く。

「私も行こう」

 何故そんな、まるで苦渋の決断でもするような顔をしているのか。ヘヴェルには分からなかったが、ひとまず頷いて応える。掴まれた手首は指が離れても少しの間じんじんとした痛みを持ち続けていた。


   ◇


 ネロとヘヴェルが小屋を飛び出す数分前。

 ベースキャンプ付近の林の中に『スターゲイザー』とノワールは集まっていた。周囲には張り詰めた空気が漂っている。

 作戦の最終確認は既に終えている。あとは各々がそれぞれの役割を想定通りにこなすだけ……だが、それにしたって上手くいくとは限らない。

「久々に戻ってきたら、随分無茶なことしようとしてるなあ」

 と、言葉に反してのんびりとした口調で呟いたのはクチナである。ここ暫く街を留守にしていた彼だが、たまたま帰ってきたのを良い事にこうして駆り出されているのだ。

「勝算は?」

「五分五分ですかね」

「まあ、あのマナって子が生きてる保証も無いもんな」

 隣にいたヘンリエッタの眉が寄る。クチナはすぐに両手で口許を覆った。しゅんと身を縮める彼をちらりと見やったモモコが肩を竦める。

 何とも言えない空気が流れる中、空高くに浮かんで辺りの様子を窺っていた少年がふわりと降下してくる。

「近くに人がいる気配は無いぞ」

「ベースキャンプにも?」

「距離がありすぎてそこまでは。ただ、ベースキャンプの辺りには動物が近付こうとする様子が無かったな。獣避けの鈴でも鳴らしてるんじゃないか?」

「ま、そうだよねー。術師ひとりしかいないのに魔物に襲われたりしたら大変だもんね」

 チエリの言葉に少年はうんうんと頷き、エノクの傍──右肩のすぐ上である。彼の定位置だ──に寄る。エノクは視界を横切る赤いマント越しに周囲を見回した。ギルドの面々の表情はいつもとあまり変わり無い。ミッションや迷宮の主に挑む前の、緊張と冷静が混じったような感情がそれぞれの顔に滲んでいるように見える。これまで数々の修羅場を潜ってきた仲間達だ。不安も無い訳ではないが、こうしていると安心感がある。

 そんな中で、ノワールは一人俯いてじっとしていた。樹の幹に寄りかかり、抱えた剣を睨むように見つめている。頬の前に垂れた銀髪の陰に引き結ばれた唇が見えた。

 エノクの視線に気付いたのか、ノワールがふと顔を上げる。自分を見る青年の視線に応えるように目を細めた彼は、ひとつ息を吐くと立ち上がる。

「頃合いだ。……行こう」

 それとなく左脚を庇う立ち姿の彼に、誰が何を言う事もなかった。

 森から少し外れた岩場にサヤが立っている。木々の隙間に見える仲間達が合図を送ってきたのを認めると、彼は素早く口許を布で覆い、抱えていたそれの留め具を引き抜いて地面へ叩きつけた。一呼吸ぶんの間。サヤが飛び退くように距離を取って耳を塞いだ瞬間、地面を跳ねた火薬が盛大な音を立てて爆ぜた。鼓膜を直に掻き回されるような爆音に反して煙も火も生まないそれは、『驚忍』と呼ばれる撹乱術に用いられる特殊な火薬であった。

 自然界において、轟音は異常のしるしだ。突如訪れた異常事態に森がざわめく。野生動物の怯えが、魔物の警戒と殺気が、無数の棘のように背筋に刺さるのが分かった。一変した空気の中で、弓を構えたモモコが呟く。

「近いですね。こちらへ来ます」

「了解」

 一言だけ応え、ノワールは戻ってきたサヤと共に森の奥へ向かおうとする。エノクが翻ったマントに覆われた背中へ抑えた声を投げた。

「ご武運を!」

 返事は無かった。けれど、視界の端で掲げられた親指は力強く天を向いていた。構えろ、と鋭い声。駆け出した二人の無事を祈る暇も無く、エノクは草陰から飛び出してきた魔物へ剣を振りかぶる。


 脚が上手く動かないのを、これほど憎く思った事は無い。塞がったばかりの傷が周囲の肉や皮にじりじりとした違和感を伝えている。思ったとおりに持ち上がらなかった左脚が突き出た樹の根に引っ掛かり、思わずバランスを崩した。つんのめった身体を、先を行っていた筈のサヤが支える。

「こんな所で躓いてる場合じゃないだろ」

「、悪い」

 謝罪の言葉は予想外にするりと出た。体勢を直したノワールは呼吸を整えて腰の剣に手をやる。辺りには魔物のものらしき気配が増えてきていた。

「相手してる暇は無いな。突っ切るぞ」

 そう言って駆け出すサヤをノワールも追う。時折茂みから顔を出す魔物は投擲された苦無に急所を貫かれて悶え転げた。かの傭兵一族の技に感服できる程の余裕は無い。入り組んだ木々と棘のように突き出た岩壁を避けながら走る──森の向こう側まではまだ少し距離がある。

 ふとサヤが足を止めた。怪訝に思ったノワールがその視線を追えば、突き出た岩のちょうど下、陽の光が遮られた暗がりに行き着く。何かあるのかと目を凝らした瞬間、木々の隙間を縫うように走った閃光に彼は思わず眉をひそめた。あれは、星術を放った時の光だ。

「ノワール殿、先に行け。適当に引き付けてから追う」

「良いのか」

「構わん。何なら殺せるが」

「……いや、それは」

 言い澱んだノワールにサヤは口布の下で小さく笑った。では後程──と囁くように言い残し、シノビは躍るように木々の隙間へ消えていく。ノワールも再び走り出した。

 遠くで何かが弾けるような音。戦いの音だ。一人になった途端に周りの状況がいやにはっきりと目や耳に入ってくる。心臓が早鐘のように打っているのが分かる。

 ──この期に及んで焦っているのか。

 本当に、いつもいつもこうだ。何もかもが遅すぎる。ネロの奴に馬鹿にされるのも頷ける。自嘲を噛み殺し、足下に転がる倒木を飛び越える。靴の裏で小枝が潰れる湿った感覚。煩わしいと思う一瞬さえ惜しい。もっと速く前へ。前へ!

 足音に驚いた鳥が頭上を飛び立っていく。進行方向に開けた場所が見えてきた、と思った瞬間、視界の端で動いた気配にほぼ反射的に剣を振り抜いた。弾かれた氷の塊が茂みを跳ねる。茂みから顔を出した魔物に投刃を放てば、反撃を喰らった氷雪リスは痛みに悶えて四方八方に氷を散らした。避けようと身体を捩ったその時、脇腹に内から裂けるような痛みが走る。小さな氷柱が左の二の腕を擦る。

 再度放った投刃が魔物の息の根を止めるのを見届ける前にノワールは先へと進み始める。脇腹の傷がよくない事になっている。左脚の違和感もいっそう強まり、腿の内側ではじりじりとした質量のある熱が脈打っている。だが、傷がどうこう言っている場合ではない。

 転けそうになるのを堪えながらようやく森を抜けた時、彼の衣服の内側は滲んだ血でじとりと濡れ始めていた。ぞんざいな手つきで腰のポーチに指を突っ込み、つまみ上げた鎮痛剤を口に含んでそのまま噛み砕く。口腔に広がるひどい苦味を感じながら周囲を見渡せば、目当ての場所はもう目の前だった。

 ベースキャンプに小屋は二軒しか無い。そのうち一軒は扉が開けっ放しになっていて、ノワールはそちらは無視して通りすぎた。目指すのはもう一軒、閉ざされた扉の前に木材が積まれた小屋だ。

 扉を塞ぐようにきっちりと置かれた木材に手をかける。頬を伝った汗を拭いながら重い木材を動かしていく。ささくれ立った節が手袋越しに指を刺したが、そんな事はどうだっていい。

 胸の奥で形にならない衝動が烈しく波打っている。どうしようもなく熱く、鳴動するようなそれの名前を、彼はもうずっと前から知っている。


 大きな音がして、それから足音が外を通り抜けていって、壁の向こうが静かになってからもマナは部屋の隅から動かなかった。何かから身を隠すように膝を抱えて縮こまる。

 ひとりぼっちが怖くて寂しいものだと、外の世界に出て初めて知った。厚い扉を隔てた先の世界はあまりにも明るくて彩りに満ちていたものだから、それに比べて自分がずっと居たあの部屋はなんて暗くて冷たいのだろうと思ってしまったのだ。そして今、あの部屋での記憶は現実になってしきりに鼻の奥をつんとさせている。

 外になんて出ないほうが良かったのかもしれない。そしたらこんなに悲しい気持ちになんてならなかったし、ノワールだって痛い思いはしなかったのに。みんながつらい思いをするなら、いっそ──でも──でも──だって──……。

 その時だった。固く閉ざされた扉の向こう側で物音がして、マナは思わず肩を跳ねさせた。誰だろう。ネロが帰ってきたのだろうか。もしそうなら、今度こそ自分は……。ぎゅうと膝を抱き寄せて壁に頬を擦り付ける彼女の耳に、何か重いものを引きずるような音が届く。ずり、ずり、と暫くのあいだ鳴り続けていたそれは、少女が震える指先を強く握りしめたのと時を同じくして止まった。

 扉がゆっくりと開く。恐る恐る目を開けた彼女は、逆光に浮かび上がる影の中にいつか目にした光景を再び見た。

 木々のざわめきを背負った男は。

 ──破壊音と悲鳴を背負った男は。

 所々裂けた黒いコートを振り乱して。

 ──薄汚れた白衣を振り乱して。

 ……今にも泣きそうな顔で、そこに立っていた。

 男は部屋の隅で縮こまる少女の姿を認めると、ゆっくりと地面に膝をついた。荒れた呼吸もそのままに、大きく手を広げて静かな声で彼女を呼ぶ。

「マナ」

 あ、と思うより先に体が動いた。冷たい床を蹴って駆け出した──足首を絡め取る重い逡巡はすべて振り払って。

「ノワール!」

 狭い部屋を飛び出す。体当たりするようにしがみついた胸板は熱く、服越しに響くような鼓動を感じた。畳まれた腕が少女の背を抱く。強く、決して離さないとでも言うように。

「ノワール、ノワール……!」

「お前、勝手に行くなと、あれほど……」

 途切れた言葉は震えた吐息に変わった。マナは応える代わりにノワールの首筋へ鼻先を擦りつけた。汗と土と血のにおいがする。お世辞にも好きとは言えないそのにおいを、胸いっぱいに吸い込んだ。

 絵本の中のキャラクターは決して助けにきてくれない。けれど、それでも構わなかった。白馬の王子でなくても、気高い勇者でなくても、彼女にとってノワールこそが世界でいちばんの『ヒーロー』なのだ。

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