【SQX】14-5 MANA
初めて見る景色だ。半ば引きずられるようにして歩きながら、マナは視線を彷徨わせる。
ここがどこなのかも、どうやって来たのかも分からない。大きな袋に詰められて運ばれ、やっと外に出された時には既に知らない場所にいた。見たことのない木々、知らない色の花々、不気味な鳥の声。時折見える岩壁は鋭く尖っていて恐ろしい。周囲を取り巻く何もかもが怯える少女の心に怪しく忍び寄り、細い足を竦ませる。
僅かに砂の混じった地面をざりざりと踏みながら森の中を進んでいく。やがて開けた場所に出た。木と荒々しく聳える岩に囲まれた空間に、木造りの小屋がぽつんと建っている。周りには何本かの丸太や削りかけの柱のようなものも転がっていた。マナの手首を掴みながら先を歩いていたネロは、小屋へ近付くと頑丈そうな造りの扉を開け放つ。
小屋の中は存外に小綺麗だ。立ち竦んでいたマナだったが、突然背中を押されて思わずよろめいた。転びそうになるのを堪えて二、三歩室内に踏み出したところで振り向いたマナを、金の瞳が冷たく見下ろす。
「ここで大人しくしていろ」
それだけ言い捨てて踵を返すと、ネロは小屋を出ていく。閉ざされた扉の向こう側で何か重いものを移動させるような音。しかし暫くするとその音も止み、辺りは静寂に包まれた。
マナは部屋を見回す。小さな部屋、簡素なベッド、塞がれた窓、慰めのように積まれた絵本。全く違うのに何もかもが同じだ。
膝を抱えて蹲る。誰も来てくれないのは分かっている。それでも繰り返し名前を呼んだ。それしか縋れるものが無かったからだ。
◆
──子供の泣き声が聞こえる……。
は、と目を開けたノワールの視界に飛び込んできたのは見覚えのありすぎる白い天井で、それを認識した瞬間に彼は弾かれるように飛び起きた。身体を覆う布団を剥ぎ取り、寝台を下りようとした彼の肩を、横から伸びてきた手が押さえつける。何かが床に落ちて散らばる音。ノワールは表情を歪めて白衣に包まれた腕に手をかけた。
「退け」
「それはできない」
いつになく険しい表情を浮かべたマリアンヌはそう応えると腕の力をぐっと強める。歯噛みして拘束を振り払おうとしたノワールだったが、身体に力を込めた瞬間、脇腹に広がった痛みに思わず呻いた。踞る彼を見て重い息を吐いたマリアンヌは、手を離して床に散らばったカルテを拾い始めた。
「頼むから大人しくしてくれ。深い傷じゃないんだ、安静にしていればすぐ治るから」
「……私は……あいつはどうなった」
「…………」
圧し黙るマリアンヌにノワールが詰め寄ろうとした瞬間、部屋のドアが勢いよく開く。
「先生、今よろしいですか。……目が覚めましたか、ノワールさん」
足早に部屋へ入ってきたモモコが、これはお見舞いの品です、と言いながら菓子の箱をサイドテーブルに置く。彼女を追って姿を現したのはサヤだ。いつものように人好きのする笑みを浮かべて片手を挙げた彼は、遠慮の欠片も無い動きでベッドの隅に腰かけるとノワールへと目を向ける。
「やあノワール殿。大変だったらしいな」
「…………」
「先に弁明しておくが、某があちらに流していたのは司令部の動きとヨルムンガンドの情報だけだ。あの男が貴殿を探しているという話も、チエリから聞いて初めて知った」
ひらりと手を振りながらそう言ったサヤに、ノワールはああ、と吐息を漏らして力無く首を振ってみせた。項垂れて額を押さえ、呻くように呟く。
「それは知っていた」
お前が情報を流していたならば、もっと早く事は終わっていた──掠れた声を聞いて、サヤは青い瞳を僅かに細めた。
カルテを拾って揃え直したマリアンヌが、モモコにひとつ視線を寄越す。モモコが頷き返せば彼女はそのまま廊下へ出ていった。ドアが音を立てて閉まると、部屋は重い沈黙に包まれる。俯いて顔を覆ったまま動かないノワールに、ふうと息を吐いたサヤが再び声をかける。
「単刀直入にいこうか。マナ殿を連れ戻しに行く手筈が整っている」
「……は?」
「貴方が丸一日眠っている間、色々と調べさせて貰いました。詳しい話はまた後ほどしますが、とにかくいま重要なのは貴方の決断です。どうしますか、行きますか」
何やら多くの走り書きがなされた紙の束を突きつけてくるモモコを、ノワールは思わず両手で押し留めた。話が読めない。つまり、どういう事だ。
「貴殿にその気があるんなら某らも手伝うって話。どのみちその怪我で単機特攻は無理だろ」
「待……、……待て、整理させ……」
「もう一日も経っているんです。待っている暇がありますか」
ぴしゃりと叩きつけるようなモモコの言葉に、サヤも同意するように肩を竦めた。ノワールはひとつ、ふたつ息をすると苦々しい表情で応える。
「……私に助力して、どうするつもりだ……」
他人の事情にわざわざ首を突っ込むなど、理解できない、とでも言いたげな口ぶりだ。モモコとサヤは顔を見合わせ、揃って心底呆れたような表情を浮かべた。やれやれといったように首を振り、まずはサヤが口を開く。
「依頼を果たせていないから、だ。スリケン(・・・・)を教えるという契約だったが、まだ完遂できていないからな」
依頼人の保護も仕事のうちだ──とウインクを飛ばすシノビの表情はわざとらしい程に明るい。かち合った視線をノワールが思わず逸らせば、その先にいたモモコが眉をひそめたまま淡々と告げる。
「私のほうは別に大した事ではありません。ただ、マナちゃんには恩のようなものがあるというか」
「恩?」
「私の事を『ヒーローだ』と言ってくれましたから」
ノワールは息を呑んだ。はっとしたような表情を浮かべる彼を真っ直ぐに見つめ返し、モモコは強ばっていた口許を僅かに緩める。
「それでは不足ですか」
「……いや、十分だ」
頭を振り、ノワールはきつく目を閉じる。包帯に覆われた脇腹を撫で、意を決したように顔を上げた彼はベッドの上で居住まいを正すと二人に向かって深々と頭を下げた。
「手を貸してくれ」
「先に確認しておきたいんだけど、ネロの目的はマナ殿を殺す事ではないんだよな?」
「……そうだな。もしそうなら連れ去る意味が無い」
「了解。とりあえずこっちで得た情報から推測するに、奴はマナ殿を連れ去ったあと磁軸を使って絶崖ノ岩島に渡ってる」
「これは複数の証言を得られたのでほぼ間違いは無いと思われます。協力者がいれば別ですが、とりあえずいないと見て良いでしょう」
「何故そう言い切れる?」
「スペードがこっそり言いに来た。『あいつが一人でどっか行ったけどオレ達は関係無ぇから巻き込むな』ってな」
「どこまで信じられたものだか……痛っ!?」
悲鳴を上げたノワールが、腿の傷を手当てしていたマリアンヌに非難めいた視線を送る。しかしノワールの視線よりもマリアンヌの眼光の方が鋭かった。射殺さんばかりの目で睨んでくる女医の表情が医者と言うにはあまりにも殺意に満ちていたものだから、ノワールは思わず閉口する。
「……マリアンヌ先生、すごい顔になってますよ」
「お気になさらず。話を続けてくれ」
「じゃあ続けるぞ。問題は島のどこに潜伏してるかなんだが、まあ恐らく枯レ森周辺は無いだろう。襲撃を受けてからモリビト達は警戒を強めてるし、警備の手伝いに衛兵も派遣されてる」
「あの辺りの地理は分からん。洞窟の周りは潜伏には向いてな……っぐぉ!?」
「そうですね。となると残りは霊堂周辺ですが、丁度この辺りに……」
「ぐああっ!! ……っマリアンヌ! わざとやってるな!!」
「わざとじゃないよ。本来治癒に時間がかかる傷を無理やり閉じてるんだから負荷がかかるに決まってるだろ!」
急に声を荒げたマリアンヌにノワールは目を白黒させる。すっかり閉じて歪な赤い線を残すばかりになった傷痕に包帯を巻きつけ、彼女は修羅のごとき気迫で今度は上半身の病衣に手をかける。
「次は脇腹だほら脱げ!」
「何をそんなにキレているんだお前!」
「軽率に君達を送り出した自分に腹が立ってるんだよ! あとこれから怪我人を無理やり治してまた送り出さなきゃならないって事にもね!!」
まあ、その怒りはもっともだ。モモコとサヤが揃って深く頷くのを見たノワールはこの世の苦虫という苦虫を一気に噛み潰したような顔をして、それから沈鬱な溜息を吐き出しながら応えた。
「私の問題だ。お前が気に病む事では……」
「そうやって、今さら他人面をするのを止めろと言っているんだ」
憤怒の声が憂いを帯びたそれに変わった。血の滲んだ包帯を脇に避け、脇腹に走る痛々しい傷を睨み付けながらマリアンヌは呟く。
「この際だから全部白状してくれよ。あの娘は何なんだ、どうしてこんな目に遭わなきゃならない」
沈黙が下りる。
ノワールは一度きつく目を閉じた。顔を伏せる彼の横顔を傷んだ銀髪が覆い、固く引き結ばれた口許を隠す。その唇が開かれるのを、マリアンヌは治療の準備を進めながらも待っている。モモコが手にしていた紙束を机に置き、そっと壁に凭れた。肌にのしかかるような重い空気に満たされた室内で、時間ばかりが流れていく。
「──もう隠し立てはできんか」
壁掛け時計の秒針が二周目に差し掛かろうとしたところで、ようやくノワールは口を開いた。喉の奥から絞り出すような、重々しい口調で彼は語り始める。
◇
今から数年前の事である。タルシス近郊、秘境めいた森の奥深くで、未知の亜人種が発見された。
見付かったのは三体。夫婦と思しき二個体は魔物に襲われでもしたのか既に死亡しており、生存していたのはたった一体……まだ言葉も満足に喋れないような、女の子供だけだった。
不幸な事に、亜人を発見したのはタルシスの公的な調査団ではなく、私設の研究所の職員達であった。夫婦の死体も遺された幼子も公の機関には存在を伝えられないまま秘密裏に回収され、そのまま研究の材料とされた。死体を隅々まで調べ上げ、子供に数々の実験を施した結果、彼女には特殊な能力がある事が分かった。
大地を巡るエーテルの流れ……地脈と呼ばれるそれを視る事のできる力。そしてそれらを操って周囲の環境に様々な効果を与える『方陣』と呼ばれる技術。いずれもヒトには無い特異なものだ。
その事実が明らかになると、子供の能力は軍事利用される事になった。奇しくも近隣国家で戦争が起きようとしてきた頃の話である。研究を主導していたのは赤い瞳の貴族だったという。
研究所の雑用係に過ぎなかったノワールには、詳しい研究内容はよく分からない。ただ、いわゆる落ちこぼれの彼に与えられた仕事が、実験体となった子供の世話だったというだけの話だ。
……本当にありふれた話だった。剣ばかりにかまけてろくに事務仕事もできない劣等生の彼だけが、幽閉された孤独な子供と心を通わせる事ができたという、それだけの。
子供はただの子供だった。彼女に必要なのは慰めにもならない絵本や玩具ではなく、人の温もりだった。空の青さだった。安心できる居場所だった。
だから。
研究所が戦火に巻き込まれた時、ノワールは混乱に乗じて子供を連れ出した。同僚たちの悲鳴を背中越しに聞きながら、双子の兄弟をその場に残して。逃げ出した、と言っても良い。ネロに恨まれる理由もよく分かる──だが、どうしても彼は止まれなかった。仕事もできないろくでなしではあっても、独りぼっちの子供を見捨てるような人でなしにはなりたくなかったからだ。
◆
エノクがノワールの元を訪れたのはその日の夕刻の事だった。彼は朝からずっとレムリアの各地を回ってマナを捜していたため、見舞いに訪れる事ができていなかったのである。
部屋に入って見てみれば、ノワールはベッドから身を起こして床に落ちた橙色の光をじっと見つめていた。カーテン越しに射し込んだ夕陽の色が、灯りの消えた室内を淡く染めている。
「いやに静かだな」
傍らに浮かんでいた少年がそう声をかければ、男はゆっくりと振り返り、常よりも幾分か力の無い調子で応える。
「……英気を養っているんだ。これでも怪我人なものでな」
「喋る元気はあるようで安心したぞ」
「あの、ノワールさん。その……大丈夫ですか?」
気遣わしげに訊ねたエノクだったが、答える声は返ってこなかった。代わりに金色の眼差しがこちらへ向けられる。
カーテン越しの夕陽がノワールの顔に濃い陰を落としている。表情さえ判然としない逆光の中で、エノクは確かに見た。自分に向けられた彼の瞳の奥には、強い意志が宿っている。
「エノク」
「……はい」
「頼みがある」
そう言うとノワールはベッドを下りる。閉じたばかりの傷が痛むのか少しばかりふらついたが、それを気にした風もなくベッド脇に立てかけてあった剣に手を伸ばす。
「手合わせを。……稽古もこれで最後だ」
エノクは頷いた。ノワールの唇が少し歪んで、瞳が懐かしいものを見るように細められる。初めて見る彼のその表情は、笑顔と呼ぶにはあまりにも不器用だった。
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