【SQX】14-7 かくて錠は開く

「──ネロ?」

 急な音に驚いて暴れだした魔物を掃討し、ベースキャンプへ戻ってきたヘヴェルは、心許なげに辺りを見回した。魔物と戦っている内にネロとはぐれてしまった。先に戻っているかもしれないと思ってここまで来てみたが、当てが外れたようだ。

 彼は優秀な術師だが、魔物の蔓延る森に一人でいるのは危険だろう。それに、話の続きも聞かねばならない。捜して合流しようと再び森へと踏み出そうとした足が、ふと止まった。

 振り返った彼の目に止まったのは、開けっ放しの小屋の扉だ。出入口から射し込んだ陽の光が室内を朧気に照らしている。何かに引っ張られるようにそちらへ足を運ぶ──机の前に立ち、ゆっくりと手に取ったのはネロの手帳だ。

 ごくりと唾を呑む。少しの逡巡の後、彼は微かに震える指先で使い古された黒皮の表紙を開く。


   ◆


「……あらかた片付いたかな?」

「そうみたいだな」

 少年が槍を下ろしたのを見て、エノクもようやく肩の力を抜いた。辺りに転がる魔物の死骸の数は両手で数えられる量を超えている。戦いながら何度か場所を移したため、実際に倒した数はもっと多いだろう。

「……いや、多すぎない?」

 わざと誘き寄せていたとはいえ、こんなに集まってくるものだろうか。首を傾げるエノクの隣に、刀を収めたチエリがひょこひょこと近付いてくる。

「こんなものじゃない? ほら、迷宮に近い場所だし」

「そうかなあ……」

「いや、エノクの言う通りかも。最近は魔物の動きがちょっと変だからな」

 と、急に割り込んできたのはクチナだ。相変わらず上半身は裸だが怪我のひとつも負っていない彼に、エノクはどういう事ですか、と問う。クチナはうーんと顎を擦りながら答える。

「何て言うのか……凶暴化してるというか、怯えてる感じだな。いつもより警戒心が強くなってるから、ちょっとした刺激で襲ってくるんだ」

「……それ、司令部にちゃんと報告した方が良いやつじゃない?」

「そうか? そうかも。でも原因はもう分かってるしな」

「原因?」

 クチナはひとつ頷いて、それから暫し首を傾げて考え込むような仕草をした後、そっと人差し指を地面の方向へと向けた。

「……下?」

「おいお前ら、何してる。移動するぞ」

 魔物から剥ぎ取った素材を両手に抱えたヘンリエッタがずんずん歩いてくる。少年がモモコはどうした、と訊けば、回収し損ねた矢を取りに戻ったと返ってくる。

「そんな事よりノワールを追いかけるぞ。怪我人に無茶をさせる訳にはいかない」

「サヤさんもついてるし、大丈夫じゃない?」

「大丈夫な筈があるか。そもそもこんな無茶な作戦を立てたのはあいつだぞ」

「まあ……それはそうだけど」

「サヤ君の事はさておき、ノワールさんが心配ですからね。行きましょう」

 木の高い所に突き刺さった矢を抜き取り、枝から飛び下りてきたモモコの言葉に一同も頷く。

 さて、手筈通りならばマナを拐ったネロという術師はあの轟音が聞こえた後ベースキャンプを出て様子を見に来ている筈──これはノワールの見立てだ。仮にも双子、どういう動きをするかは何となく予想がつく、との事だ──だが、そうなると森の中で鉢合わせる可能性がある。『スターゲイザー』は気を引き締め直して道なき道を行く。

「……いやに静かだな」

 少年がぽつりと呟いた。

「あんな騒ぎだったのに急に落ち着く筈がないんだが」

「ええ、私も気になっているんですが……」

 油断なく周囲を警戒しながらモモコが応える。二人の言う通り、先程までの騒乱は嘘のように消え、森の空気は静かに凪いでいる。これが正常な姿だと言えばその通りなのだが、それにしても不自然だ。

「興奮してた魔物は全部倒した……という可能性も無くはないですけれど」

「ちょっと考えづらいなあ。それより、可能性っていうなら──」

 その時、どこからか聞こえてきた破壊音がクチナの言葉を遮る。『スターゲイザー』はすぐさま隊列を整えて警戒体勢を取った。……森の奥から、何かが近付いてくる気配がある。それも、かなりの速度で。まずいと思ったが逃げの一手を打つ暇も無かった。激しい足音が段々と近くなり、森の奥から音の主が姿を現す。

 巨躯を覆う紫色の鱗、発達した両の腕、頭上で揺れる二本の尾……ワニ、だろうか。二足歩行のワニのような姿をした見たこともない魔物が木々をかき分けてこちらを覗いている。

 己を見て呆然とする冒険者達の姿を認めた魔物は、ぎゃおお、と形容しがたい声を上げてぐっと姿勢を低くした。ぎょっとして盾を構えるエノクに少年が叫ぶ。

「無理だ! 避けろ!」

「え!?」

 慌てて横に跳んだ次の瞬間、勢いよく駆け出した魔物が先程までエノクがいた場所を突っ切る。目に見えて力強い突進だ。巨体に激突された木がめきめきと嫌な音を立てて折れる。ヒエッ……と小さく漏らしたのはチエリだろうか。そこまで確認する余裕は、無い。

「退避!!」

 モモコが叫ぶ。一目散に駆け出した五人と残像一体を見た魔物はぎゃおお、と嬉しそうな──と言うのも変だが、本当にそうとしか聞こえなかったのである──声を上げて彼らの後を追い始めた。これより数十分にわたって続く地獄の追いかけっこの始まりである。


   ◆


 ベースキャンプに辿り着いたサヤは、目に入ってきた光景にひとまず安堵する。地面に膝をついた男の肩は荒く上下しているが、今すぐにでも死んでしまうような容態ではなさそうだ。彼の腕の中でもぞもぞ動いている子供にも目に見えた異常は無い。

「ノワール殿」

「……ああ」

 掠れた声で応えると、ノワールは抱き締めていたマナを放してゆっくりと立ち上がった。

「マナ、お前はサヤとここを離れろ。私にはまだ仕事がある」

「やだ! ノワールといる……」

「駄目だ。……心配しなくてもすぐに追い付く」

 ふとサヤが背後を振り向いて眉をひそめる。再度自分を呼ぶ声にちらりと視線を寄越して応えつつ、ノワールは腰に縋りつくマナの頭を撫でた。

「帰ったらケーキでも買うか。絵本を売ってる店にも連れていってやる。他にやりたい事はあるか」

「いっしょにねる……ノワールと……」

「よし、約束だ。……頼んだ」

「頼まれた。マナ殿、ちゃんと掴まってろよ~」

 サヤに素早く抱きかかえられても、マナは抵抗する素振りを見せなかった。駆け出したサヤの姿が木々の隙間に消えていくのを見送り、ノワールはひとつ息を吐いて振り返る──背後の森から、駆け出てくる人影がひとつ。

 だらりと下がった左手には剥ぎ取ったらしい帽子。全身は土埃で薄汚れている。荒く息を吐きながら、男は信じられないものを見るような目でノワールを見つめた。

「貴様、」

 自分と同じ顔が怒りに歪むのを見た。激情を抑えきれない様子のネロとは逆に、ノワールは至極冷静だった。傷の具合を悟られないよう、何とでもないという風に口を開く。

「……つくづくお前とは反りが合わなかったな。……だが、血を分けた兄弟だ。言い訳くらいは聞いてやる」

「──言い訳、言い訳だと?」

 言葉の端が震えている。そっと剣の柄に手をかけるノワールを強く睨みつけ、ネロは地の底から響くような声を絞り出した。

「何も知らない身でよくもぬけぬけと、そんな事が言えたものだな……!」

「それはこちらの台詞だ。私には何も教えなかった分際で」

「教えたところでどうなった! 無駄な事にかける時間も無い、余力も無い、残された猶予はもう少ないというのに!!」

 ノワールの脳裏に疑問符が浮かぶ。こいつは何を言っている?言葉の意味ではない。なにを指して猶予だの何だのと宣っているのか。

 ……重大な見落としがある気がする。記憶の箱をひっくり返して問題の根本を探ろうとする彼の目の前で、ぱちりと閃光が散った。淡く鋭い術式の光だ。所々欠けて抉れた星術器を起動させ、その瞳の奥に憤怒の炎を宿したネロは吼える。

「滅茶苦茶だッ!! 貴様のせいで! 何もかもが!」

 掲げた左の掌を標に放たれた光が瞬間的に爆ぜる。放射状に地を覆う分厚い氷を避け、ノワールは強く地を蹴った。踏み込んだ左足に骨まで響く痛み。気にせず得物を逆手に抜いた。

 低級術式は発動が速い。代わりに威力が弱いという風潮があるが、それは対魔物戦闘での話だ。柔らかく脆いヒトの身体で術式など受ければ、掠めただけでも命に関わる。連続して射出される氷の弾幕を寸でのところで避けながら回り込むように距離を詰める。

 氷柱の生成に巻き込まれたマントの裾が音を立てて千切れる。引き止められる感覚に一瞬だけ脚の動きが鈍った。狙い済ましたかのように飛んできた投刃は掲げた剣で弾く。その間にネロは次の術式を練り始めていたが、ノワールの判断は速かった。勢いのままにその懐へ飛び込んでいく。

 まともな感性をしている術師なら、至近距離にいる相手に術式は撃てない。ネロはまともな術師だった。咄嗟に術式の装填をやめ、星術器の下に隠していた剣を抜く。刃がぶつかる重い音。脚を狙った蹴りが飛ぶ前に身体を反転させて避ける。軸になった左脚と捻った脇腹がじくじくと痛む。しかしここで退く訳にはいかない。間合いを離れたら、今度こそ術式の餌食になる。

「ノワールッ……!」

 恨めしげな声。視界に入った男の顔は酷いものだった。髪を振り乱し、ぎっと目を剥いた、自分と同じ顔。本当に、酷いものだ。昔から仲は悪かったが、こんなにどうしようもない兄弟喧嘩は初めてだ。

 三十年の禍根も、いま絶つ。

 振り抜いた一撃は掲げた剣に軌道を逸らされた。ここから刃の向きは変えず、鋒をずらして刺突へ持ち込む。幼少期に兄弟揃って習った剣術の、基礎の基礎だ。当然ネロにもその動きが染みついている。回避行動は半ば無意識に行われる。刺突に備える体勢へ移る様子がいやにはっきりと、緩慢に見える。

 ──私はその上を行く。

 掌の内で柄を回し、剣を順手に持ち変える。予想外の行動にネロの瞳が見開かれた。鋭く息を吸い込み腕を振り抜く──思い描くのは、何十回と受け止めたあの一撃!

 放たれた斬撃が、星術器ごとネロの身体を弾き飛ばす。転がった男はすぐさま立ち上がろうと地面に腕をつこうとしたが、それは叶わず爪で土を掻くばかりに終わった。ノワールは身体の痛みを堪えながらネロの元へ近付き、星術器の動力部に剣を突き立てて破壊する。

 『アクトブレイカー』というらしい。少なくとも本来の使い手であるエノクはそう呼んでいた。鍛練の中で見た技を真似ただけの付け焼き刃の技だが、それでも上手く働いてくれた。……あの青年には感謝しなければならない。

 地に伏したネロが苦しげに呻いた。近くに落ちていた剣を遠くへ蹴り飛ばしていたノワールへ、彼は途切れ途切れに問う。

「殺……せた、筈、だろう」

「お前と私を同じにするな」

 言葉を切って溜息をひとつ。そろそろ立っているのも辛くなってきた。それでもなお剣を握り続けながらノワールは答える。

「私は『ヒーロー』になるためにここへ来た」

「…………」

「絵本の中のヒーローは寛大だ。たとえ世界一嫌いな男が相手でも」

「……大馬鹿者め」

 吐き捨てる声。

「貴様のせいで取り返しのつかない事になる」

「……何だと?」

「私が怨恨で動いているとでも思ったか。小娘ひとりとその他大勢を秤にかけただけの事だ……私には、これしか方法が思い付かなかった」

 ノワールは脱力したようにぽつりぽつりと続ける片割れの胸ぐらを掴み上げた。軋む全身を叱咤しながら声をふり絞る。

「ネロ、何を隠してる? 全て吐け」

 同じ色をした視線が真っ直ぐにかち合う。暫しの沈黙を挟み、ネロは血の気のない唇をゆっくりと開く。


   ◆


 洟をすする音がようやく聞こえなくなった。辺りの様子を二度、三度と確認し、サヤは足を止める。流石に森の外れ、枯レ森との境界近くまではあちらの騒動も届かないだろう。

「マナ殿、一回下ろすぞ。大丈夫か?」

「……ぅん……」

「怪我は無さそうだな。どこか痛むところは」

「だいじょぶ……」

 声はか細いが、受け答えそのものはしっかりしている。頭を撫でてやれば、マナはぎゅうと彼の腰にしがみついてきた。いくら人の心が無い傭兵として育てられてきたといっても、子供があんな目に遭えば怯えて当然だという事くらいは理解できる。したいようにさせておきながら、サヤは背後の森を振り返った。ノワールが追いかけてきている気配は無い。

 ここで取れる選択肢は二つだ。このままここでノワール達を待つか、それとも先にマナを街へ帰してしまうか。サヤとしては後者を推したい。まず優先されるべきは保護対象の安全確保だ。しかし足元のマナはというと元来た方向をじっと見つめていて、明らかにノワールの姿を探している。

「ノワール殿が心配か」

「…………」

「だよなあ。……ここでちょっと待ってみるか?」

 マナがこくりと頷く。サヤは手近な木の根本に彼女を座らせ、自分はその傍らに立った。魔物の姿は無いが警戒するに越した事はない。

 座り込んだマナは膝を抱えてじっとしている。沈黙を振り払うように、サヤは口を開く。

「マナ殿は、ネロが何をしようとしてたのか知ってるのか?」

「うん」

「え、知ってるのか」

 思わず驚いた声を上げるサヤを、大きな丸い目が見上げた。小首を傾げ、少し迷うような素振りを見せてから少女はあのね、と話し始める。

「マナね、みえるの。チミャク? エーテル? がねえ、いろんなとこにきらきらーって」

「……ほう」

「それでね、ジュジュツとか、フジュツのねーかたち(・・・)がわかるから、それでいろんなジッケンしたの。ホージンでジュツシキをフーインするんだって。だから、ハカセは、またジッケンしたかったのかなって、マナおもった」

「…………」

 サヤの顔がみるみる曇る。続けて問おうと口を開いた瞬間、彼はばっと顔を上げた。不安げに見つめてくるマナを木陰に押し込み、周囲を見回す。

 嫌な気配がする。見られている?いや、それとはまた違う……肌を刺すようなこの感覚は……。脳裏を過った記憶にサヤは舌打ちをひとつ漏らした。口布を引き上げ、叫ぶ。

「マナ殿! 口を塞……ッ!!」

 言い終わらないうちに、どこからともなく押し寄せてきた黒い霧の奔流がサヤを呑み込んだ。急激に力が抜ける感覚に思わずよろめく彼の視界に近付いてくる人影が映る。あ、と思った時にはもう遅かった。鳩尾に鈍い衝撃。蹴り飛ばされたサヤの身体は地面を跳ねて転がった。

「サヤ!」

 身を縮めてじっとしていたマナが声を上げる。霧を裂くようにして現れた男はゆっくりとサヤへ近付き、動かなくなった彼の首筋に槍を添えた。

 冷たい金色の目でサヤを見下ろしながら、男は──ヘヴェルは呟く。

「エレオノーラを裏切ったから、殺そうと思ってたが」

 言いながら彼は背後のマナを振り返った。びくりと肩を揺らして後退る彼女に、どこか思い詰めたような声で告げる。

「お前は俺のなにかを封印するために連れて来られたんだってな」

「……!」

「ネロの手帳は、難しい言葉ばかりであまり読めなかったけど。お前がその逆もできるって事くらいは何とか分かった。……できるんだよな?」

 マナの瞳が揺れる。声なき返答にヘヴェルは少しばかり目を細めた。

「こいつの命と引き換えだ。俺にかかってる術式を、……記憶の封印を解け」

 槍の穂先がサヤの首元に押し付けられる。今にも薄いマフラーを裂いて皮膚に食い込みそうなそれを、マナは震えながら見つめている。

 この状況で盤面を丸ごとひっくり返すような打開策を思い付けるほど彼女は大人ではなかったし、ただ怯えて何もできずにいられるほど、幼くもなかった。


   ◆


「あ、」

 思いがけず漏れてしまったというような声だった。

 それが聞き慣れた少年のものだと気付いたエノクは静かに顔を上げる。あのワニの魔物からようやく逃げ切れた安堵感からか、他の仲間達が彼に注意を向けている様子は無かった。

 少年は東の方角、森の向こう側を見ていた。回り込んで横顔を覗き込めば、彼の顔には今まで見たことのない感情が浮かんでいる。その表情を何と形容すればいいだろう。寂寥、だろうか。エノクはたまらず声をかける。

「どうしたの?」

「──いいや、何でも」

 頭を振って振り返った少年の表情はいつもと同じものに戻っていた。軽く微笑んで横をすり抜けていった彼の後ろ姿を、エノクは不安げな眼差しで見つめる。

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