【SQX】14-8 前夜

 足音に気付けたのは、とても眠れるような心境ではなかったからだ。枕元のランプを手に取り、エレオノーラは急いでテントを飛び出す。

「ヘヴィ!」

 ……今宵の月は分厚い雲の向こう側だ。小さなランプの灯りではごく狭い範囲しか照らせない。橙色に浮かび上がった景色の向こう側にその人影はある。目を凝らせば見慣れたブーツとキルトの裾が見えた。けれど、胸から上がどうしても見えない。

「エレオノーラ」

 暗闇からヘヴェルの声が響く。静かな声だった。エレオノーラはテントの前に立ち尽くした。ランプを持つ右手が震える。ガラスの中の灯が揺れるのに合わせて、地面に落ちた彼女の影もゆらめく。

 乾いた唇を開いて、彼女は彼に問いかけた。

「どこへ行くの?」

「俺が居るべき場所へ」

 返る言葉は平坦で無機質だ。足下からじわじわと這い上がってくる冷たい感覚に呆然とするエレオノーラに彼は一言一言、ゆっくりと告げる。

「お前とはもう一緒にいられない。……全部思い出した。俺は初めから、俺じゃなかったんだな」

「へヴィ」

「マギニアへ行け。『スターゲイザー』を頼ればいい。上層部も『英雄』からの申し出は無視しない……事情を伝えれば話を通してくれる」

「そんな事を聞きたいんじゃない!」

 思わず声を荒げれば、闇の向こう側で圧し黙る気配がする。エレオノーラは一歩、彼へ近付いた。たしなめるように自分を呼ぶ声。ランプを掲げる。ようやく顔が見えた。ヘヴェルは冷たい静謐を湛えた目で彼女を見つめていた。エレオノーラの見たことのない目だ。そこでやっと気付いた。もうおしまいだ(・・・・・・・)。

「行かないで、」

 絞り出した声は霞のように空気に溶けていった。ヘヴェルは目を伏せて、それからエレオノーラの方へ手を伸ばす。掴まれた手首から伝わる冷たさに驚いたエレオノーラの手からランプが落ちた。鈍い音を立てて地面を跳ねたランプの内側で音もなく灯が消える。

 闇が彼女の視界を覆う。頬に一陣の風。はっとする間もなく、耳元で囁かれた。

「さよならだ、エレオノーラ。幸せに生きろ」

 待って、と言う暇もなく、すぐ傍にあった気配が嘘のように消えた。手首に残る冷えきった感触だけを残して男の姿は闇へと溶けていく。エレオノーラは思わず手を伸ばした。しかし指先は虚空を掻くばかりで、掴んだ風は指の隙間を冷ややかにすり抜ける。

 彼女はその場に踞った。脚が震えて立っていられない。眩む視界にいつかの光景がフラッシュバックする。燃え落ちる砦、遠ざかる父や友人の背中、誰もいなくなったかつての都。もう何もない。家族も帰る場所も、何も──何も。

「一人にしないで……」

 応える声は無い。


   ◆


 世界蛇ヨルムンガンドの討伐──それが『スターゲイザー』に与えられる最後のミッションだ。力を取り戻したヨルムンガンドの力は未知数だ。恐らく今まで経験した事もないような戦いになる。事前の準備と作戦の立案は入念に行わなくてはならない。

 マナを連れ戻し、拘束したネロを衛兵隊に引き渡してからすぐ、『スターゲイザー』は召集を受けてマギニア司令部へと赴いていた。いつもと同じ謁見の間ではなく隣接する会議室へ通された面々を、ペルセフォネとミュラーが迎える。

「よく来てくれた。……なぜ汝らを呼んだのかは、もう分かっているな?」

 問いかけるペルセフォネの表情は神妙だ。傍に立っていたミュラーが面々を見回し、おや、と声を上げる。

「二人ほどいないようだが」

「えっと、モモコさんはちょっと別の用事があって、サヤさんは怪我したから治療中なんです」

「怪我? こんな時にか……」

「そんな大した話じゃない。明日には復帰できる」

 ヘンリエッタが言えば、ミュラーは怪訝な顔をしながらも頷いた。

「それなら良いが。……話を始めようか」

「とは言っても、こちらから新しく話せる事はほとんど無い。実際に奴と戦い、かの『少女』から話を聞いた汝らの方がヨルムンガンドについては詳しいだろう」

 自らを『世界樹の意思』と名乗った謎の少女が言うには、ヨルムンガンドを完全に倒すには『世界樹のミ』を入手する必要があるという。『世界樹のミ』は世界樹の力の源であり、現在はかつてその身をもってヨルムンガンドを封印した古代レムリアの姫が所持している。しかし彼女は既にヨルムンガンドの支配下に置かれつつあり、討伐する事でしか『世界樹のミ』を回収できない──との事だった。

「しかし姫は封印そのものだ。彼女を倒せばヨルムンガンドは力を完全に取り戻す」

「ブツを回収したらすぐにヨルムンガンドの方に向かえと? 流石に無理があるぞ」

「こちらもお前達だけに負担を強いるつもりは無い。回収は別のギルドに任せる」

「別のギルド?」

「私達のことね」

 背後から聞こえてきた声に振り向いてみれば、そこに立っていたのは緑髪の女剣士だ。エノクがあっと声を上げる。

「ニーナさん!」

「……そういう事だ。今回は『ウルスラグナ』にも協力してもらう」

「事情を完全に把握できてる訳じゃないんだけどね」

 ニーナは困ったように笑って肩を竦めた。話を聞いてみれば、『スターゲイザー』がノワールに手を貸している間に彼女達も第十四迷宮の最深部まで到達していたらしい。

「変な女の子が急に出てきてびっくりしたけど、要は何か……魔物みたいなものを倒せば良いんでしょ? それなら私達にも協力できるからさ」

「心強いです」

「あはは、ありがと。……ギルド長、これ新しい装備にかかった分の領収書です」

 それじゃ、準備に戻るね──ミュラーに商店の印が押された紙切れを渡し、そう言ってニーナは会議室を出ていった。『ウルスラグナ』とも何だかんだと長い付き合いになるが、彼女達の実力は確かに折り紙付きだ。重要なミッションを任せるにはぴったりのギルドだろう。

「……えっと。という事は、まずニーナさん達が『世界樹のミ』を回収して、それから僕らにバトンタッチする流れですか」

「ああ。汝らも万全の準備を整えておいてほしい。必要経費はこちらで……」

「あ、その前にちょっと良いか?」

 机に並べられた資料──大半はヨルムンガンドと古代レムリア文明についての調査レポートだ──を捲っていたクチナが急に身を乗り出す。少々面食らったような表情を浮かべたペルセフォネが何事かと問い返せば、彼はいつになく真面目な顔をして、指先で紙の束を叩いた。

「多分、もっと込み入った事になる」

「……どういう事だ?」

「ヨルムンガンドが本格的に復活すると、魔物が暴れだす可能性がある。普通の魔物じゃなくてもっと強力なやつが」

「え!? それ、あたし達も聞いてないんだけど!」

 声を上げたチエリを片手で押し止めつつ、クチナは続ける。

「レムリアをあちこち見て回ってた時、竜の巣を見付けたんだ。迷宮の外に三つ。中の竜は眠っていたけどこれから起きてくるかもしれない」

「その根拠は?」

「ヨルムンガンドの『瘴気』だ」

「しょ……何?」

「うーん、ざっくり言うと……何だろうな。とにかく良くないものなんだ。魔物や人間の元気を奪ったり、逆に凶暴にさせたりする。おまえ達も見ただろ、世界樹の周りに黒い霧みたいなのが出てるの」

 クチナの言葉に他の面々は顔を見合わせる。詳しく話を聞こうとレムリアの地図を広げて彼を傍に呼び寄せるペルセフォネとミュラーの姿を横目に、ヘンリエッタがぽつりと呟いた。

「あのハイランダーの男も似たようなものを使ってた」

 はっとして振り向くエノクに視線を送りつつ、ヘンリエッタは彼にしか聞こえない声で言う。

「あっちはどんな話をしてるだろうな」

「…………」

 エノクは応えない。ふと視線を上に向ける。いつもそこにいる筈の少年は、今日に限っては一度も姿を見せていない。


   ◆


「瘴気とは呪いの具現だ」

 狭い密室に男の声は静かに響いた。モモコは対面に座る彼の金の瞳をじっと見る。無機質な壁に囲まれた面会室に二人以外の姿は無い。とはいえ男の足首は重い鎖で戒められているし、少しでも大きな物音を立てでもすれば扉越しに待機している衛兵が飛んでくるだろう。

 マナは書類上、冒険者という立場でマギニアに所属している。本来ならば冒険者がレムリア島内で何かしらの揉め事に巻き込まれた場合は各自で問題を解決するのが規則だ。しかし彼はマギニアの冒険者でも、海の一族でもない第三勢力である。敵意の有無はともかく、そのまま放置しておく訳にもいかない。

 拘置所へ連れていかれる間も彼は、一切抵抗しなかった。

「私の所属していたラボでは、形を持つ呪言、と定義していた。ただ、それも推測に基づくものでしかない。我々の技術では複雑な呪術を正確に解析する事は不可能だった」

 男──ネロは淡々と続ける。モモコは彼から視線を外して部屋を見回した。遥か頭上の小さな窓には鉄格子が嵌められている。格子の隙間から射す茜色の光が、床から壁にかけて長く伸びていた。

「あれ(・・)はそういうものの集合体だ。原型を失うほどに混ざりあった呪詛が独自の意思を持ち、己を封じ込めていた肉体を乗っ取って動き出した。今までは記憶を封印し、仮初の人格を植えつける事で行動を抑制していたが……己の本性を思い出した今、あれが何をしだすかは分からない」

「彼は人間ではないと?」

「動く死体を人間と言えるのなら、人間と呼んでも良いだろう」

「…………」

 そこでようやくネロはモモコと視線を合わせた。閉口する彼女を見つめ、目を細めて告げる。

「貴女が知りたいのは『彼』の事だろう」

「……私の事をご存知で?」

「ある程度は。第十一迷宮で名前を聞いた時から、もしやと思っていたが……これも因果というものか」

 ネロはそこで言葉を切り、ひとつ息を吐いた。窓から射した夕陽はいよいよその色を強め、部屋中を橙色に染め上げつつある。

「モモコ・オオホウリ」

 モモコの肩が僅かに揺れた。逆光を浴びたネロの顔は、彼女から見ると濃い陰に覆われているように見えた。痛いほど静かな空間に重々しい声が落ちる。

「私の知り得る事は全て教えよう。……貴女にはその権利がある」

 男の瞳は真っ直ぐに彼女を捉えていた。モモコは暫し、目を伏せた。その瞼が開く瞬間を、ネロは固く手を組んで待っていた。夕陽の落とす影がじりじりと薄く伸びていく。


   ◆


 ひとまず会議を終えて司令部を後にしたエノク達が向かったのは、マリアンヌの診療所だった。既に陽は沈んでいる。未だ灯りの点いている正面玄関を素通りし、裏庭に面した勝手口から中へ上がり込む。廊下を進んでいつもの応接室を覗けば捜し人はそこにいた。

「サヤ、大丈夫?」

「メチャメチャ元気~。ちょっと寝てたらすぐ良くなったわ」

 ソファーに腰かけて呑気に茶を啜りながら応えたサヤは確かに具合が悪いようには見えない。エノクとチエリがほっと息を吐いて、その後ろにいたヘンリエッタはむっと顔をしかめた。サヤが使っているティーカップは来客用のお高いものだったのである。

 詰め寄ってきたヘンリエッタの小言を軽く受け流しつつ、サヤはふと訊ねる。

「クチナ殿は?」

「司令部に残って話してる。なんかあたし達が知らない間にいろいろ調べてたみたい」

「ふうん? モモコ殿もまだ戻ってこないし、何か忙し……」

 その時、廊下から聞こえてきた大きな音がサヤの言葉を遮る。驚いた四人が振り返ると、ちょうど診察室の方から白衣の青年が姿を現したところだった。焦った顔でこちらへ向かってくる彼は、マリアンヌの弟……ジョゼフである。

「お前らいたのかよォ! ちょっとこっち来てくれ! 大変なんだよ姉さんが!!」

「マリアンヌ先生が?」

「何があった」

「いいから来やがれ!!」

 切羽詰まった様子のジョゼフに引きずられて廊下の奥へ向かう。診察室を通り抜けて、診療所の待合室に辿り着いたところで一行は各々驚きの声を上げた。

 玄関の前に立っていたマリアンヌが振り返る。その肩越しに見えたのは見覚えのある姿だ。拳闘士の装備を纏った赤毛の女性……名前はメルセデスといった筈だ。そのメルセデスが、玄関先に立ち尽くしている。彼女は『スターゲイザー』の姿を認めると、神妙な表情で口を開いた。

「すまない、厚かましいのは重々分かっているけれど……彼女の事を頼みたいんだ」

 そう言ったメルセデスの肩から覗くのは、傷んで艶の失われた金髪だ。張り詰めた空気が漂う。拳士の背中にぐったりと体重を預けるエレオノーラの、微かな寝息だけが辺りに響いていた。

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