【SQX】決戦・ふたり見た夢の果て

 地の底から瘴気が噴き出している。槍を突き立てた魔物の息の根が止まった事を確認して、少年は辺りを見回した。

 世界樹の根本に張られた封印術式は悲鳴のような軋みを上げ、間もなく崩れ落ちようとしている。深淵の姫君の命はあともう少しで尽きるだろう。蛇はそれを察知している。人間達の動向などお構い無しに、外の世界へ飛び出そうと身を捩っている。古い皮膚を脱ぎ捨てるように、重苦しい封印を打ち破って。

 は、とひとつ息を吐き、彼は槍を手に取ってふわりと浮かび上がった。随分と時間をかけてしまった。だがこれで調子は万全だ。吸収した生命力は全身にみなぎり、実体の無い身体を守る鎧となっている。これで万事うまくいくなどとは思わないが、多少はマシになるだろう。一度目を伏せて心を落ち着けてから宙を蹴る。生い茂る木々を掻き分けながらまっすぐに進んでいくのは島の東、対岸に枯レ森を臨む開けた草原だ。

 そこに『彼』は居た。

 傾いた陽が草原を黄金色に照らしていた。断崖のすぐ傍に腰を下ろした男の影が、穏やかにそよぐ草花の上に長く尾を引いている。少年はゆっくりと降下し、影を踏んで草の絨毯の上に降り立った。暫し、沈黙の時間が流れた。足下から微かな波音が響いてくる。陽は少しずつ傾きを増していく。東の空は濃紫にその色を変えつつある。

「あの子供の事は、」

 ぽつりと落ちた声は至って落ち着いていた。少年は長い黒髪に覆われた彼の背中をじっと見る。

「もういいのか」

「……ああ。俺がいなくても、上手くやるだろう」

「そうか」

 呟くように言って、ヘヴェルと呼ばれていた男はゆっくりと立ち上がった。翻った髪の隙間から金の瞳が覗く。自分と同じ色をしたそれを、少年は随分と前からずっと、憎らしく思っていた。

 槍を握り、重苦しい声で告げる。

「この時を十七年待った。……今日ですべて終わりにしよう」

「律儀な事だな。どうせ俺はこの島を出るつもりは無い。放っておいてくれても良いんじゃないか」

「それはできない」

「何故」

「お前の存在そのものが、あってはならないものだからだ」

 ヘヴェルの口許に微かな笑みが浮かぶ。下ろしていた腕を握った槍ごとゆるりと掲げた彼は、何もかもを悟ったかのような、あるいは見透かしたかのような──静かな口調で応える。

「俺が生まれたのもお前のせいなのにな」

 槍の穂先に鈍く照り返った夕陽が目を灼く。呼吸ひとつ分の間を置いて、男を中心に生まれた瘴気がぐるりと渦を巻いた。少年は自身を呑み込もうとする黒い奔流を、槍を薙いで振り払う。視界を瘴気の黒が埋める。夕景の赤が塗り潰された暗黒の中、男の金の瞳だけが煌々と輝いている。

 こうして、誰も知らない物語に幕を下ろす戦いは、誰に知られる事もなく始まった。これ以上二人が言葉を交わす事もなかった。瘴気に煙る草原に、微かな闘争の響きだけが谺する。


   ◆


 はじまり島の平原に設置された磁軸はミッション開始に備えて立ち入りが制限されているが、迷宮そのものは封鎖されていない。衛兵に見つからないようこっそりと平原を横切り、森を抜けたエノクとエレオノーラは東土ノ霊堂へ足を踏み入れる。遺跡の内部は無人である。魔物の息遣いひとつすら聞こえない静かな空間に、二人分の足音が響く。

「迷宮の主はいないのね」

「うん、何回か復活してるけど、その度にどこかのギルドが倒してるみたいで」

「野蛮ね、冒険者って」

「否定はできないかな……」

 割れた石畳を踏み、生い茂った草木を掻き分けて二人は霊堂の奥へ奥へと進んでいく。目指すは最奥部、幽寂ノ孤島へと繋がる樹海磁軸だ。そこから磁軸で転移しつつ各島の霊堂を巡り、最終的に世界樹の麓へ向かう。

 何故世界樹の麓へ?と訊かれれば、それはもう直感だと答えるしかない。実際にエレオノーラに問われた時にもエノクはそう答えた。しかし直感と言っても、それは半ば確信めいた感覚であった。確かに呼ばれている。あの場所に必ず彼はいる。……どうせ他に手がかりも無い。それならば、この感覚に従ってみるより他はあるまい。初めは難色を示していたエレオノーラも結局は彼の言葉に頷いた。

 幽寂ノ孤島はレムリアを構成する五つの島の中で最も東西に長い。磁軸と磁軸との距離が最も遠いのもこの島だ。徐々に夜の色が濃くなり始めた空を見上げ、エレオノーラは眉をひそめる。

「……どんなに急いでも、夜までに着くのは無理そうね」

「そうだね。でも、急ごう」

 点在する迷宮を避け、西へ西へと進む。いつも人で賑わっている迷宮の出入口や採集場所には、今日に限っては人影のひとつも存在しない。エノク達にとっては不気味に思える光景だが、本来ならばこの静謐こそがレムリアのあるべき姿だ。

 足下を確かめながら進むエノクの後ろを、エレオノーラは数歩分の距離を置いて着いてきた。足音すら控えめな彼女を振り返らないままエノクは口を開く。

「きみって、歳はいくつだっけ」

「……急に、何?」

「いや……聞いたことないなって思って」

 エレオノーラは暫し顔をしかめたまま沈黙し、やがて盛大な溜息と共に答える。

「十七よ」

「あ、僕と同じだ」

「そうなの? 年下かと思ってた」

「そ、そう……」

 それはつまり、子供っぽく思われていたという事か。何とも言えない気分になるエノクの後頭部に向かって、今度はエレオノーラが声をかける。

「貴方は試練のためにレムリアに来たって聞いたわ」

「うん。成人の儀のね」

「……ハイランドには、他にどんな風習があるの?」

 今度はエノクが目を丸くした。少しの間を置き、彼はぽつりぽつりと答える。例えば豊穣を祈る祭りや、狩った動物達の魂を祀る儀式。普段食べている物は何か、どんな建物で暮らしているのか、服装はどんなか。エレオノーラはそれらに耳を傾け、時折質問を返した。エノクもそれに答える。そうしている内に気付けば西方ノ霊堂の最深部まで辿り着いていた。聳える光の柱に触れ、飛泉ノ水島へ渡る。

 二人は歩きながら他愛もない会話をゆっくりと続けた。故郷の事、家族の事、小さい頃の思い出。何も特別ではない話を、噛みしめるように。

「故郷には変わった花が咲いていたの」

 エレオノーラは言う。

「私のいた街の、近くの山にしか咲かない花よ」

「どんな花?」

「黄色くて小さくて……独特の甘い香りがするの。山の中に花畑があって、よく連れていってもらったわ。私、あの場所が一番好きだった」

「へえ……きみにとって、特別な花なんだね」

「……そうね」

 一度言葉を切り、それから彼女は小さな声で呟いた。

「一緒に見に行くって約束したの。山ごと燃えてしまって、もう残ってもいないのに」

 エノクは応えなかった。手元のランプを掲げ、少し先を照らす。そこにあったのは巨大な石造りの扉だ。大きさのわりに重量を感じない不可思議なそれに手をかける。扉の先の部屋にあるのは、三つ目の磁軸だ。

「行こう」

 振り返りざまに告げれば、少女はひとつ頷いた。ランプの光に照らされたその白い頬には、くっきりとした陰が落ちている。


   ◆


 火花が散る。金属どうしが擦れる不快な音が耳を突き刺す。弾かれた槍が手を離れる前に掴んで引き戻し、少年は身を屈めて足下の草を蹴る。懐に潜り込んで槍を跳ね上げた──が、躱された。大きく仰け反った男はしかし、常人ではあり得ないような体幹でもって姿勢を立て直すと、少年のがら空きの腹部へ穂先を突き出す。すぐさま宙を蹴る。高く浮かび上がった少年の、爪先のほんの下を槍が通過する。

 ──速い。

 あの肉体が生前の錬度をそのまま保っている事を差し引いても、反応速度が速すぎる。理由は明らかだ。男の四肢を防具のように覆う瘴気の塊……『瘴気兵装』とでも呼べばいいだろうか。どういった原理かは分からないが、あれがヘヴェルの身体能力を引き上げている。

「届いていないぞ」

 事も無げにヘヴェルが言う。少年は舌打ちしたい衝動に駆られたが、衝動は衝動のままで終わった。広がった瘴気の波が足首を捕らえようとした瞬間、彼は再び宙を蹴ってその場を離れる。すべて避けきって難なく着地したものの、踏みつけた草花がひどく萎れている事に気付いて彼は顔をしかめた。

 瘴気は生物の生命力を奪い、怪物はその生命力を喰らって自らの力とする。

「草木程度では腹の足しにもならないな」

 ヘヴェルが槍を構え直しながら呟く。そうだろうな、と少年は口には出さずに応えた。

 ──そもそも、腹の足しにできるものが無いからこそ、こんな場所に座っていたんだろう。

 どれだけ厭っていても元は同じ人間から生まれた存在だ。そのくらいは容易に想像がつく。だからといって、手心を加えるつもりも……加えられる余裕も無いが。

 ヘヴェルが槍を振りかぶった。繰り出される瘴気の波動に備えて防御の姿勢を取る──その前に、頭上から響いてきた破壊音が二人の間に割って入った。見上げれば、空を覆っていた世界樹の枝葉が、粉々に砕けている様子が見える。

 幹から崩れた枝がめきめきと音を立てながら落下し、空中で瓦解して塵となる。雪のように降り注いだ塵が視界を枯木色に染めた。

 突然の異変に気を取られ、ほんの一瞬反応が遅れる。咄嗟に反らした顔のすぐ横を瘴気が掠めた。全身に纏った生命力の鎧が削れる。丹念に練り上げた防御はこの程度では破れないが、それに胡座をかいてもいられない。

 少年は目の前の相手に意識を集中させる。振り返るな。泣く子を置き去りにした自分に、今更あちらを心配する権利は無いだろう。

 広がっていた瘴気を再び四肢へ収束させたヘヴェルが、ふと足下に目をやって眉根を寄せた。

「動き出した」

「お前がそっちを気にするとはな」

「蛇が出てくれば、この島全体が巻き込まれる」

「……エレオノーラはマギニアにいる」

 少年が告げればヘヴェルは僅かに肩を揺らし、小さな声でそうか、とだけ呟いた。少年は唇を噛みしめる。どうしても、解せない。

「どうして……そんな人間みたいな顔をするんだ」

「…………」

「彼女の何がお前をそうさせた?誰かを想う心を得たところで、在り方は変えられない。息をするだけですべてを害するお前に……人を愛せる筈もないのに」

 苦々しく吐き捨てる少年とは対照的に、ヘヴェルの表情は凪いだままだった。彼は少年の言葉には応えないまま手の内で槍をぐるりと回す。柄を伝って穂先に絡み付いた瘴気が刃を覆い、一回り大きな刃へ変化させた。黒く蠢く瘴気の槍を構え、男は地を蹴る。

 少年は反射的に自らの得物を掲げた。受け止めた一撃は先程のそれよりも、重い。

「っ……!」

「もう、お喋りは良いだろう」

 終わりにしよう。

 ヘヴェルが槍を思いきり薙ぐ。柄越しの重みに引きずられるようにして、少年の身体も横へと傾いだ。体勢を立て直す暇もなく、返す刃の一撃が腹を一文字に裂く。

「ッぐ、」

「開いた(・・・)」

 何重にも重ねた防御にびしりとヒビが入る感覚。実体の無い身体は守りを失ったところで傷を負う事も血を流す事もない。だが、攻撃を受ければそこから身体を構成する生命力が溢れ出す。そうなれば最早勝ち目は無い。

 ヘヴェルが不可視の鎧の切れ目に向かって槍を繰り出す。寸前で躱した。だが、躱したからといって反撃に転じられる訳ではない。槍の軌道上に残った瘴気の残滓を振り払い、数歩下がって距離を取る。追撃の手はすぐに迫ってくる。少年の腹を抉ったのは投擲されたナイフだった。仮初の身体を貫いて背後の地面に落下したナイフは、練り上げた鎧に確かな穴を開ける。

 侵入した瘴気が皮膚を這う。肉体を削り取られる感覚に少年は呻いた。ヘヴェルは槍を下ろしてじっと彼を見つめている。もう勝った気でいるのか──少年は奥歯を噛む。

 そもそもの条件が不利な事くらい承知の上だった。奴は捕食者で自分は被食者……力の差には絶対的な開きがある。せいぜい短時間渡り合う程度で精一杯だ。

 だが、それでもやって来たのはただひとつの勝算があるからで。

 槍を強く握る。掌に灯った熱が柄を伝ってじわりと広がる。どう足掻いても生命力を削り取られるならば、そうなる前に全ての力を一撃に乗せてしまえばいい。自身の持つ何もかもを懸けた『ゲイボルグ』だけが、少年に許された逆転の方法だった。──ただ、その代償として、彼の存在は。

 ヘヴェルが少しばかり顔をしかめた。少年をまっすぐに見据えて彼は言う。

「どうするつもりだ」

「どうもこうも。初めから言ってるだろ、すべて終わりにするって」

「────……」

 何か言おうとしたのか口を開いたヘヴェルはしかし、結局黙ったまま息を吐いた。代わりに槍を構え直す。瘴気が渦巻く。少年は細く息を吐いた。避けきれるか──否、元より避けきるしか道は無い。

 しかし、身構えた彼の元に攻撃が飛んでくることはなかった。ヘヴェルが顔を上げる。明後日の方向を見つめて口を僅かに開ける彼の視線を追い、少年は愕然とした。同時に泣きたくなった。結局、何もかもが──自分ごときの思い通りにはならない。

 視線の先に、枯れ落ちた葉を掻き分けて現れた子供が二人。少なくとも、今この場にいる少年とヘヴェルにとって、疑うまでもなく。彼と彼女は、招かれざる客人だった。


 駆け寄ろうとしたエノクの腕を、エレオノーラがぐっと引いた。彼女の視線の先で男が静かに口を開く。

「どうして来た」

「……自分の責任を放り出して逃げるほど、私は愚かじゃないわ」

「……お前はもっと愚かになるべきだった。その考えこそが間違っていると気付く前に……」

 目を伏せ、嘆息し。ヘヴェルは槍の柄を地面に突き立てる。次の瞬間、エノクとエレオノーラを囲うようにして瘴気の壁が立ち上った。エレオノーラは半歩後ずさる。

「ヘヴィ」

 男は応えない。もう一度槍を握り直し、今度こそ少年へと向かって振りかぶる。少年もすぐさま応戦する。槍と槍がぶつかり、刃が噛み合っては離れていく──打ち合いの形にはなっているが、傍目から見ても明らかに少年の方が押されている。

 目まぐるしく繰り広げられる応酬をうごめく瘴気の壁越しに見ていたエノクが、そっと得物に手をかけた。目を見開くエレオノーラと視線を交わし、ひとつ頷くと、彼は呼吸を整えて剣を振り抜く。

 斬り払った瘴気が霧散しきるのを待たずにエノクは駆け出した。はっと振り向く少年に迫る槍を、盾を突き出して受け止める。重さで押し切られる前に盾を薙ぐようにして振り払い、何とか距離を取った。追撃は飛んでこない。

 細く息を吐いて眼前の男を見据えるエノクの耳に、背後からの声が届く。

「お前……どうして……」

 喉の奥からぎりぎりと絞り出すような声だった。エノクは振り返らずに応える。

「きみを放っておけない」

「そんな事を言ってる場合か! ミッションはどうした、まだヨルムンガンドは……!」

「僕にとってはきみだって大事だ!」

 息を呑む音。少年が震える言葉を吐き出すより先にヘヴェルが動く。力強く振り下ろされた槍を受け止めた、次の瞬間に脇腹に走った衝撃にエノクはなす術なく吹き飛んだ。蹴り飛ばされたのだと気付いたのは裂けた額から流れた血が視界に滴り始めてからだ。

「エノク、」

 少年が手を伸ばそうとする……が、鞭のようにしなる瘴気の束が目の前を掠めたためにそれは叶わなかった。少年の動きが止まる。ヘヴェルがその隙を見逃す筈もない。

 ほんの一瞬の出来事だった。瘴気が足首に絡みつく。守りに入る猶予すら無いまま、逆手に持ち替えられた槍が少年の身体の中心へまっすぐに突き立てられる──しかし。

 彼の代わりに刃を受けたのは、再び割り込んできた後ろ姿で。

 ヘヴェルが目を見開く。僅かに軌道を逸れた穂先はしかし、青い胸当てを難なく砕いて鎧に守られた皮膚を深く抉った。離れた場所にいたエレオノーラが駆けてくる。槍を受け止めたそのままの勢いで仰向けに倒れ込む青年の、その口許が鮮血に汚れたのを見て初めて、少年は声を出す方法を思い出した。そうして、擦り切れるような悲鳴が上がる。

「──エノク!!」


 エレオノーラは血に沈むエノクと、彼に縋る少年とをヘヴェルから隠すようにして立ちはだかった。左手は腰に下げた剣の柄にかかっている。

「そいつを守るのか」

 ヘヴェルが呟くように言った。エレオノーラは一瞬だけ目をきつく閉じ、ひとつ深呼吸をして彼を見据える。まっすぐに、睨むような眼で。

「ええ、そうよ。あの戦争の時も……貴方がそうして人を殺すのを見てた。だから私、もう見過ごすのはやめにしたの」

「……俺もそいつを殺すつもりなんて無かった」

「そんな事は無いでしょう、へヴィ。人を食い物(・・・)にしないと生きていけない貴方に、そんな逡巡ができるというの?」

「…………」

「それとも、彼の存在が貴方の何かを変えた? ……教えてへヴィ。貴方にとって私や彼は何?」

 ……張り詰めたやり取りを他人事のように聞きながら、少年は震える手で傷を押さえる。彼は気付いている。地面に淡く走る術式の光が少しずつエノクの傷を癒している事に。エレオノーラがこちらへやって来る時、こっそりと巫術を発動していたのだ。対面した二人が答えの無い問答を続けている今も、掌の下で裂傷は少しずつ閉じていっている。

 彼女は時間を稼いでいる。

 だが、と少年は荒い息を無理やり呑み下す。間に合わない。巫術は対象の治癒力を高める事で傷を治す術だ。治療を受ける側が死にかけているような状況では、そもそもの効力が弱い。このままでは治りきる前に死ぬ。

 苦痛に閉ざされていたエノクの瞼が薄く開いた。何か言おうとしたようだが、言葉は喉奥からせり上がってくる血と混ざって粘ついた水音にしかならなかった。唇から漏れる息が徐々に弱まっているのが分かる。少年は必死に己を叱咤する。考えろ、何か方法があるはずだ、考えろ、考えろ!!

「……エレオノーラ。マギニアに戻ってくれ」

「無茶を言わないで。逃げろというの?貴方も彼も置いて、全て放り出して!」

「エレオノーラ」

「何を変える力も無いならせめて意地くらいは貫いて死ぬわ。『ヒーロー』になれなくたって、肉壁くらいにはなれるでしょう」

「……お前は……」

 聞こえてくる会話にも耳を貸さず、必死に記憶の箱をひっくり返す。薬はどこだ。メディカやネクタルがあれば多少はマシになる……否、どちらにせよ医学的処置が必要だ。応急手当ての道具が鞄の中にあるのは知っている。だが待て、恐らく臓器まで達している傷を、素人がどう縫い留めると?

 思考を巡らせるその間にも血は流れ続ける。傷を押さえる指の隙間から滲むように溢れる赤に眩暈がした。先程まで僅かながら開いていた瞼は既に重く閉ざされている。腹の底から冷たいものが這い上がってくる。結局何もできない。こんな偽物の存在では、紛い物の身体では何も。

 ──いや、待て。

 はっと自らの両手を見下ろす。温度のない身体は魔物から、はたまた地脈から吸い取った生命力の塊だ。不可視のエネルギーである筈のそれを、視認できるまでに濃縮して作り上げた『残像』。かたちを解けば、この肉体を構成する生命力は他の場所へ還る。大地へ、空気中へ、別の生命へ。

 そして。巫術は対象の治癒力に依存した術式だ。治癒力、生きようとする力、つまりは……生命力。

 ああ、と声を漏らし、少年は表情を歪める。横たわる青年の色のない横顔を見た。力の入らない指先で冷えた頬を撫でた。そして、大きく息を吸い込むと砕けた鎧の上に両手をつく。

 ──お前のためならば。

 ──俺の使命など、存在理由など。

 ぐっと指先に力を込めれば、その身体が解けて光の帯へと変わっていく。少年の姿はみるみるうちに消え、後に残った光は束になってエノクの胸へと飛び込んでいった。

 目に見えない姿となった少年の意識に導かれ、生命力の光は温もりを失いかけていた身体を駆け巡る。今まさに燃え付きようとしている魂の薪に、再び火を灯すために。


 ヘヴェルの眉が上がる。エレオノーラも背後で何かが起こった事には気付いていた。振り返って確かめるまでもない。あの少年が動いたのだ。エノクを救うために。

 ならば自分のすべき事はひとつだ。彼が戻ってくるまでの時間を稼ぐ。戻ってきたところでどうなるか、そんな事を考える余裕も無いが、それでもやらねばならない。

「……話の続きをしましょう、へヴィ」

「…………」

 言葉をかければ男は長い息を吐いて目を伏せた。何かを堪えるように槍を握りしめ、彼は重々しく語り始める。

「お前を……殺したくない」

「────」

「だが抗えない。腹が減って仕方がない……いっそ、身を投げようかとも思ったが」

 そう言いながら視線を向けたのは平原の切れ端、波立つ海を眼下に臨む断崖だ。落ちれば無事では済まないそこをヘヴェルは眩しいものを見るような目で見る。

「俺にはそれができないらしい。自ら死を選ぶなんて人間みたいな上等な真似は許されない。生まれたからには生きろと……誰かに命じられているような……」

「……それが『呪い』なのね」

「そう、かもしれない。だから……」

 まるで何もかも諦めたかのように嘆息し、ヘヴェルは力無く垂らしていた腕を持ち上げた。その手に握られた槍をゆっくりと少女へ向けながら、彼は静かに告げる。

「マギニアに戻ってくれ……エレオノーラ」

「…………」

「お前には、生きていてほしいんだ」

 それは悲痛な懇願だった。エレオノーラは応えない。夜風が揺らした前髪の隙間、月明かりの陰が落ちた赤い瞳で彼女はまっすぐにヘヴェルを見つめている。


   ◆


 深く、深く、潜っていく。

 身体に行き渡った生命力と、エレオノーラの巫術と。二つの力があれば間もなく傷は塞がるだろう。だがそれだけでは足りない。死の淵にある魂を引き上げてやらねば、あちらへ戻る事はできない。

 思えば随分遠くまで来た。死にゆく魂から切り分けられるようにして生まれて、『本体』の記憶だけしか持たない状態から僅かな自我を得て。引き寄せられるように辿り着いた山里で彼を見つけた。

 自分が『自分』になった後の、原初の記憶。その赤ん坊は、両手を天へ突き上げて、懸命に泣き声を上げていた。

 ──俺は知っている。

 彼を慈しむべき存在がどこへいってしまったのかも。彼をあやす女の腕がどれだけの悲哀を抱えているのかも。彼を取り巻くあらゆる不幸の元凶が誰なのかも。全て知っている。知っていて、それなのに何もできない。自分は何もかも失って取り残された『残像』でしかないからだ。

 ──俺は憶えている。

 初めて喋った言葉はご飯を要求する言葉だった。歩けるようになった頃、盛大に転んで顔を擦りむいて大騒ぎになった。よく熱を出して大人たちを心配させた。怖がりなくせに夜に外に出て空を眺めるのが好きだった。槍の扱いが上手くいかず、鍛練の後はいつも一人で泣いていた。

 ずっと傍で見てきた。楽しい時も、悲しい時も……見ている事しかできなかったが、それでも構わなかった。何もできないお化けもどきにとって、彼は世界を照らす光そのもので、その成長を見守る事だけが唯一の喜びだった。

 十七年の間ずっとそうしてきて……この島にやって来て。そこで何もかもが変わった。肉体を得た。言葉を交わす機会を得た。懐かしい人に出会って、多くの仲間と触れあって……そして自分がこの世界に取り残された意味を知った。全ては、罪の清算のためだった。

 呪いに支配されたかつての肉体と……そこに宿ってしまった『ヘヴェル』を解放する事。それが、自分に与えられた使命だ。けれど……けれど今は、それよりも。

 ──俺は、

 ──お前の未来を守りたかった。

 悲しみ惑い泣くのなら、その涙を拭ってやりたかった。路に迷うというのなら、行く先を示す標になってやりたかった。その頭上に振りかかる災いを、総て払い除けてやりたかった。

 だから。

 自分の存在を、使命ごとなげうってでも。必ず救い出す。ただひとつ、これから先の未来で成長していく姿を見られない事だけが、心残りだが──もう構わない。

 生きて、笑っていてくれれば、それだけで。

「──それが、きみの本音?」

 ふと気付けばそこは何もない空間だった。上も下も右も左も判然としないその場所に、エノクがぽつんと立っている。鎧姿ではなく、普段着のキルトを身に纏った姿だ。少年は彼と対面して浮かんでいるようだった。自分を見つめてくるエノクの瞳は澄んでいて、少年は理由もなく泣きたいような気持ちになる。

「すまなかった」

 エノクの目が丸くなる。少年は俯いた。

「お前を、こんな目に遭わせてしまうなんて」

「きみのせいじゃないよ」

「だが……」

「僕が選んだ。きみが僕を助けてくれたみたいに、僕だってきみを助けたかったんだ。だから、僕の責任だ」

「…………」

「ああ……でも、結局こうやって迎えに来てもらってるから、そんなこと言えた立場でもないな……」

 エノクは困ったように頭を掻く。うーん、と唸って考え込む彼をよそに、少年は辺りを見回した。ここはどこだろう。どこ、と断定できるような場所でない事だけは分かる。精神世界とでも呼ぶべきだろうか。意識だけで言葉を交わすというのはなかなか不思議な気分だ。お互いに、全てが筒抜けになってしまっているような感覚がある。

「絶対に後悔するって思ったんだ」

 ぽつりと呟く声。視線をやれば、エノクはばつの悪そうな顔で少年を見ている。

「だから来た。僕の方こそごめん。きみのやらなきゃいけない事、邪魔しちゃって」

「ああ……もう良いんだ。お前が無事なら、それで」

「そっか。……あのさ、……僕が代わりにやるよ」

 それも、予想していた言葉だ。少年は本当に天なのかも分からない天をそっと仰いだ。

「巻き込みたくないと言っただろ……」

「今更そんな事言われてももう遅いよ」

「いや……ここに来る前にちゃんと言ったんだが……」

「……僕も一人でやれるなんて思ってないよ。力を貸してほしい」

 エノクはそう言うと一歩踏み出した。すると、瞬きひとつする暇もなく、まるで頁を捲ったかのように彼の姿が変わる。普段着から鎧姿へ──戦う者の装いへ。一面の白に映える青い鎧を鳴らし、赤いマントを翻して、彼はまた一歩少年へ近付く。

「巻き込むとか巻き込まないとか……そういう話はもうやめにしよう。きみがあの人を解放しなきゃいけないって言うんなら、僕も一緒に戦う。ぜんぶ終わらせよう、僕達ふたりで」

「エノク」

 少年のすぐ傍まで歩み寄り、エノクは足を止める。そこでようやく少年はエノクの顔をまっすぐに見返した。……この青年は、こんなに精悍な顔つきをしていただろうか。

 手甲に覆われた腕がゆっくりと伸ばされる。差し出された掌を戸惑ったような目で見る少年に、エノクは静かに、しかし力強く言う。

「僕を信じてくれ」

 橙の瞳の奥で決意の炎が燃えているのが見える。は、と息を吐いた。その目には覚えがある。自分の選択を、胸に秘めた覚悟を、貫き通す者──かつて共にあった仲間達と同じ目だ。

 小さく弱い羽ばたきで、されど高みへ上り詰め、世界を変える……気高い冒険者の目。

 ──ああ、本当に。

「……大きくなったなあ……」

「まあね。里に帰ったら成人するし」

「そうだったな。そうだったな……」

 少年は微かな苦笑を浮かべて目を伏せる。何かを噛み締めるように暫し沈黙していた彼は、やがて大きく頷いて晴れやかに笑った。

 エノクの差しのべた手に、少年の手が触れる。重ねた掌から伝わる熱が混ざり合ってひとつになる。白い世界が二人の人影ごと融けてすべての境界を呑み込み、そして──。


   ◆


「私はどこへも行かない」

 静かな空間にひとつ落ちた声に、ヘヴェルは目を伏せた。エレオノーラは腰の鞘からゆっくりと剣を引き抜く。

「言ったでしょう。私は責任を放り出して逃げるほど愚かではありたくないの」

「……お前に責任なんて初めから無かった。お前ひとりが国を背負う理由は……」

「そういう事じゃない!」

 声を荒げ、少女は男を睨みつける。

「私が貴方を拾ってここまで連れてきた……私が貴方を苦しませた」

「…………」

「だから……自分で飛べない(・・・・)と言うのなら、私が突き落としてあげる。全部ここで終わりなのよ、へヴィ」

 右手に盾を、左手に剣を携えてエレオノーラは告げる。刃の向こう側に立つヘヴェルは槍を持つ手を下げて俯いている。長い前髪に隠れた表情は窺えない。しかし、引き結ばれた唇が僅かに歪むのが確かに見えた。

 剣を強く握りしめ、彼女は宣言する。

「ここが、私達の終着点よ」

「……お前が俺に勝てるとでも?」

 返った声は低く、冷たい響きを纏っている。ヘヴェルが顔を上げ、エレオノーラを睨んだ……その刹那、噴き出した瘴気が二人を間を怒濤のごとく埋めた。咄嗟に発動した結界が黒い波を割り、エレオノーラと背後の青年とを守る空白を作り出す。

 結界の効力は長くは持たない。破れそうになるそれをすぐに張り替え、エレオノーラは唇を噛む。勝てるだなんて思うものか。彼がその気になれば、こんな小娘ひとり、一突きで殺せるだろう。だが、それでも──それでも!

 勢いよく吹きつけた黒い風がエレオノーラの足下を掬う。思わず体勢を崩した。途切れた術の隙間、結界の綻びから滲み出すように襲いかかる瘴気を、よろめく彼女は防げない。衝撃に備えてぐっと目を瞑る──。

 その肩を抱き止める、青を纏った腕。

 はっと目を開く。脇から伸びたもう片方の手に、大振りの槍が握られている。淡い光を放つそれが空を裂けば、すぐそこまで迫っていた瘴気が瞬きひとつの間に霧散した。薄まった黒の向こう側でヘヴェルが目を細める。エレオノーラはゆっくりと振り向き、そして見た。そこに立つ青年の横顔を、まっすぐに前を見据える瞳を。

 ふと青年の顔がエレオノーラの方を向いた。唖然と自分を見上げる彼女に軽く微笑みかけ、エノクは改めてヘヴェルへと向き直る。

「あなたの事を、彼から聞きました」

「……何と言っていた? 許されざる存在だと?」

「解き放たなければならないと。……そのために僕は戻ってきた」

 眉をひそめて圧し黙るヘヴェルから、彼は目を逸らさない。右手に握った得物を……生命力で構成された槍を掲げ、エノクは凛と響く声で告げた。

「あなたを解放する」

 冷たい風が、三人の間を吹き抜ける。青年の言葉を受けたヘヴェルは槍を下げたままじっと立ち尽くしていた。その四肢に纏わりつく瘴気の兵装が、じわりじわりと濃くなっていく。

「随分と、……好き勝手言ってくれる」

 生命力を吸われて萎れた草を踏み潰し、彼は一歩踏み出す。ゆっくりと顔を上げ、目の前の「敵」を睨んだその瞳は、炎のように烈しい光を湛えている。

「調子に乗るなよ、人間──!」

 激情を圧し殺した声が始まりの合図だった。爆ぜるような勢いで肉薄したヘヴェルの槍に、エノクもまた掲げた槍でもって応じた。鈍い金属音が響く。

 鍔迫り合いの時間は数秒にも満たなかった。ヘヴェルはすぐさま槍を引き、恐るべき速度で刺突を繰り出す。穂先が肩当てを掠めた。渾身の一突きを避けたエノクは二、三歩後退し、槍を構え直してヘヴェルに向き直る。そこでヘヴェルは気付いた。青年の背で揺れるマントが、先程までの赤い無地のそれとは異なっている。

 赤地に這う無数の直線。嫌というほど見慣れたその模様は、キルトと呼ばれる民族衣装のそれだ。ヘヴェルは苦々しく呟く。

「まだいるのか」

「彼はずっとここにいますよ。これまでも、これからも」

「…………」

 男の槍が瘴気を纏う。ぐねぐねと蠢きながら形作られた刃は穂先を覆うだけに留まらず、大鎌のような形状となって黒く艶めいていた。巨大な刃が周囲を薙ぐ。軌道にそって三日月状に残った瘴気がエノクの頬を撫でる。触れたそばから生命力を奪う筈のそれはしかし、彼の肌に触れた途端に霧散した。術者の魂と肉体を守護する生命力の鎧だ。それだけでない。エレオノーラの発動した巫術が、青年の身体を絶えず癒している。

 再度斬りかかったヘヴェルを、エノクもまた再度受け止める。瘴気の刃が槍の柄に弾かれる。ヘヴェルは今度は引かず、続けて二度、三度と斬撃を繰り出した。連撃を受け止めたエノクはその合間を縫って半減に出る。攻防が続く。ヘヴェルが得物を振り抜くたび瘴気が広がり、エノクが身を翻るたびに淡い光が散る。いっそ幻想的ですらある光景だが、刃が擦れ合う音が美しい白と黒の色彩の邪魔をする。

「あなたに、」

 応酬の合間にエノクが口を開く。

「伝えなきゃいけないことが、残ってた」

「……恨み言なら好きに言え」

「違う」

 噛み合っていた刃を思いきり振って弾く。予想外に力強いその動きに引きずられ、ヘヴェルの体勢が崩れる。エノクは背後へ跳んだ。槍を構えたまま、僅かに眉を下げて言う。

「第十三迷宮で……助けてくれて、ありがとう」

「────」

「それと……ごめんなさい。僕達はまたあなたを置いていく」

「言うな。……余計に惨めになる」

 エノクは唇を閉ざす。一度目を閉じ、再び開けた時にはその顔から憂いの色は消えていた。呼吸を整え、柄を強く握る。掌から溢れた光が槍全体を包み、眩い光の矛へその姿を変える。

「終わりにしましょう」

 右腕を高く掲げ、振りかぶる──ヘヴェルは辺りに漂っていた瘴気を自らの元へ集めた。止めるには、間に合わない。

「──エレオノーラ(・・・・・・)!!」

 少女を呼ぶと同時に、エノクは槍を投擲した。雲を割る稲妻のごとき速さで飛来した『ゲイボルグ』を、ヘヴェルは瘴気を纏わせた大鎌で防ぐ。黒い盾越しに感じる、じりじりと焼かれるような熱。自分を灼くこの光こそが、生命の輝き──何より憎み妬み、焦がれてやまないもの。

 ──この肉体に宿る『呪い』は、多くの人間の負の感情で出来ている。

 例えばそれは絶望だったかもしれない。嫉妬だったかもしれない。憤怒、失望、憎悪……あるいは、渇望。叶えられなかった願いに、未練がましく手を伸ばし続ける、そんな感情。

 頭の奥で叫び声がずっと聞こえている。「生きたい」と。「死にたくない」と。そう叫ぶ声の主が誰なのかも知っている。だから──だから──俺は──。

 何かが砕ける音。槍を覆っていた瘴気の刃が剥がれて消えていく。ヘヴェルは掌に力を込める。更に多くの瘴気を生むため、『呪い』を強く燃え上がらせる。渇望する。力を……未来を……自由を!

 手の内から生まれた瘴気が渦巻く。全身全霊をかけて、槍を振り抜いた──高い金属音。生命力の槍に入ったヒビはみるみる広がり、やがて末端から雪のように溶けて消えていく。視界いっぱいに広がっていた光が薄まる。は、と息を吐いた。

 そして、彼は見る。目前に迫る赤い刃を。

 使い得るすべての力を使いきったヘヴェルの懐へ、エレオノーラはまっすぐに飛び込んでいた。その手には大剣。盾を刃に変えた赤い剣は、宙に漂う生命力の残滓を受けてまばゆく煌めいている。

 その刃と同じ色をした瞳が、潤んでいるのがよく見えた。

 ──ああ、

 両手に握られた剣の切っ先が。弧を描いて自分の胸元へ向かってくる。ひどくゆっくりに感じられるその景色を見て、ヘヴェルは──花が咲くように笑った。

「──エレオノーラ!」

 まるで、愛しいひとを呼ぶような。

 明るい声を残して、ヘヴェルの胸は刃を受け入れる。傷口から血の代わりに瘴気が散った。穴の開いた風船が空気を吐き出すように、縁まで満ちたワインがグラスから溢れるように。男の肉体を巡っていた瘴気が空気中へ解き放たれ、辺り一面が黒く染まる。エノクもエレオノーラも、黒い流れの中に呑み込まれていく。


 黒い世界の中で、エレオノーラは夢を見た。

 頬に風を感じ、恐る恐る目を開ける。すると彼女は一面の花畑の中に立っていた。視界いっぱいに広がる黄色と、漂う甘い香り。見紛うはずもない。懐かしい故郷の花畑だ。戦争で燃えて無くなった、かつて大好きだった場所だ。

 ──じゃあ、ぜんぶ終わったら一緒に行こう。

 レムリアに来る前、気紛れに話して聞かせた流れでそんな約束をした。自分は何と答えたのだっけ。適当な事を言ってはぐらかしたような気がする。素っ気ない自分に、それでも彼は笑って続けた。

 ──エレオノーラが好きなものとか、好きな場所とか、ぜんぶ見に行くんだ。きっと楽しいぞ。

 ひときわ強く風が吹く。花弁が舞い上がって青い空と遠景の山々を染める。鮮やかな黄色の花吹雪の向こう側に人影が立っているのが見える。ヘヴェルだ。彼は右腕いっぱいに花を抱いて、もう片方の腕を上げてこちらに向かって大きく手を振っている。

 ヘヴィ、と呼びかけようとしたが、声が出ない。風が吹く。甘い香りが強くなる。舞い散る黄色が辺りの景色を染め上げて、花畑が徐々に遠くなっていく。薄まる感覚の中で手を伸ばした。その手すらもすぐに見えなくなる。遠くに立つ男の影だけがぼんやりと浮かび上がる。彼は笑顔だった。嬉しげに笑って、ただ手を振っていた。

 ついにすべての感覚が無くなり、黄色い視界すらも黒く閉ざされ始める。エレオノーラは、自分で言った筈の言葉の意味を、今になってようやく噛み締めた。

 ──ここが。この場所こそが。

 ──私と貴方の、旅の終着点だ。

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