【SQX】決戦・我が魂の咆哮を聞け

 ──閃光。

 引き裂くような音を立てて地を走る雷が、焼けるような痛みと共に足首にまとわりついた。弾丸を装填し直そうとしていた銃士が唸るような声を漏らして膝をつこうとする。

「ロイ! 駄目! お立ちなさい!」

 凛と澄んだ声が辺りに響く。銃士はぐっと奥歯を噛みしめ、倒れそうになるのを堪えて眼前の『それ』を睨み付けた。

 美しいかんばせはそのままに、かつての姫君は人ならざるものへと変貌していた。彼女がその細腕を掲げれば、異形の玉座から突き出た鉤爪が呼応するように敵対者へと襲いかかる。刺突を避ければ、後を追うようにして打撃が。それに耐えたと思えば今度は地獄のような火炎が──戦闘が始まった頃と比べて、姫君の攻撃は明らかに苛烈さを増している。だがそれは予感でもあった。この戦いが間もなく終焉を迎える、そんな予感だ。

「ヴェンデリン!」

 隣に立つ銃士に治療を施しながらマルグレーテが鋭く叫ぶ。彼女の豪奢なドレスも裾は裂け、宝飾品も欠けた酷い様相だ。主の声を受けた砲剣士が駆ける。横薙ぎの一撃を潜り抜けて姫君の下へ肉薄した彼は、渾身の雄叫びを上げながら砲剣を振り抜いた。ただでさえ傷にまみれていた玉座から、何かが砕けるような致命的な音がする。

 姫君が悲鳴のような声を上げた。次の瞬間、辺りに淀んでいた霧が彼女の傍へ集束する。支配者の声に馳せ参じた魂たちを、銃士の放った弾丸が霧散させる。すぐさま弾を込め直してもう一発。その間にも攻撃の手は止まない。ぐ、と仰け反った鉤爪が勢いよく繰り出される。周囲の空間ごと引き裂こうかという斬撃の乱舞を、盾を手に立ち塞がった女騎士がすべて受け止める。

「エイミー……!」

「っ……構わん、行け!!」

 血が絡んで掠れた声で騎士は言った。その脇をすり抜けて今度はニーナが前へ出る。振り下ろされた鉤爪を踏みつけ、玉座の上へ。ぐらつく足場から振り落とされる前に高く跳ぶ。無数の頭蓋骨を蹴る。剣を振りかぶる。姫君がこちらを振り向く。虚ろな瞳が迫る刃を捉える。

 それでも、彼女は微笑みを崩さなかった。

 振り下ろした剣は胸元を斜めに裂いた。傷口から血を溢れさせた姫君が倒れ伏すと同時に、玉座もぎしりと軋んで崩壊を始める。一切の動きを止めた鉤爪から半ばずり落ちるように石畳に降り立ったニーナは、荒い息もそのままに剣を天へと突き上げて高らかに宣言する。

「見ろ! 勝利の女神(ウルスラグナ)は──私達に微笑んだ!!」


   ◆


 『世界樹のミ』を回収した『ウルスラグナ』がマギニアへ帰還してきたのは、陽が沈みきって間もなくの事だった。満身創痍の仲間達を先に病院へ送り出し、ひとり司令部へやって来たニーナは、戦闘の経過と『少女』とのやり取りを詳細に報告してくれたらしい。

 とは言え新たに得られた情報は少ない。『世界樹のミ』が世界樹を生む力を持つ種子であり、ヨルムンガンドとの戦いの切り札となる……少女の言葉から分かるのは、この程度だ。

「……まあ、その『ミ』とやらを使うにしても、隙ができるまでヨルムンガンドを弱らせなきゃって話だ」

 情報をまとめた資料を指先で叩きながらサヤが唸るように言う。

「瘴気対策はもう良いとして、寝起きの時点であんな固くて強いやつをどうやって叩くか……」

「何とかなるんじゃない? 刃は通ったし」

「……お主、変なとこで胆が据わってるよな……」

 そうかなあ? と首を傾げるチエリに溜息を吐き、サヤは資料を机の上に投げ出した。椅子に浅く腰かけて両脚を投げ出した彼の行儀は良いとは言えなかったが、それを咎める者は今の探索司令部にはいない。

 つい先程、世界樹に異変が起きた。島の中央に鎮座していた大樹が、みるみる内に枯れ始めたのである。

 朽ちた枝葉が幹を離れ、落下しきる前に風化して塵となる──異様な光景だ。予想だにしない事態に騒然とする司令部にすぐさま伝令が入った。モリビトの里のマキリからである。

 曰く、「ヨルムンガンドが世界樹の力を吸い尽くし、完全に復活しようとしている」と。

「つまり、姫君は『ミ』を通して世界樹から力を得て肉体を維持していたわけだが、その姫君はついさっき死んだ。行き場を無くした力の回路をヨルムンガンドに捕まえられて、そこから経由して力を吸い取られた……って感じだな。うーん、とんでもない蛇だ」

 うんうん、と勝手に納得した様子で頷くクチナは今日に限っては半裸ではない。普段着の着物の上にきちんとした防具を纏っている。……どうやら単独行動をしていた時に独断で手配していたらしい。奔放なようでいて存外に抜け目のない男である。

「決戦が近いなあ」

「クチナさん、既に戦う気満々だね」

「それは、もう! ……多分、エノクは間に合わないと思う」

 控えめな言葉にチエリの眉が寄った。何か言おうとした彼女の唇に指先を添え、クチナは真面目な顔で告げる。

「きっと、あいつはやるべき事を果たしに行ったんだ。世界はおれ達の手でも救える……と思う、けど、あいつが行ったのは、あいつにしか救えないものの所だから」

「…………」

「だから、頑張ろうな! 大丈夫、おれはちょっぴり特別だから、皆の事を守れるぞ」

 ふんす! と得意げに胸を張るクチナにチエリとサヤが神妙な様子で顔を見合わせた、その時だった。待機部屋の扉が音を立てて開く。廊下から顔を出したモモコは、よく通る声で手短に告げた。

「出撃準備を」


 平原に設置された磁軸から直接第十三迷宮へ飛ぶ。入口を見張っていた衛兵を街へ帰し、迷宮の奥へ。

 ……遺跡内部の空気は、以前と比べて明らかに淀んでいた。ヨルムンガンドの瘴気が辺りに充満しているのだろう。高台の上から見える遠くの景色が濃紫に濁っているのを確かめ、ヘンリエッタは舌打ちをひとつこぼした。

「やっぱり下り階段の方が濃い」

「瘴気が濃くなっても『お守り』は効くの?」

「効く。……が、万が一防具が剥がされて、印が機能しなくなったら……」

「その時はやばいって事だな」

「……まあ、そこまでいったら瘴気どうこう以前の問題ですね。何にせよ死にますから」

 モモコの言葉に他四人も頷いた。

 会話の最中も一行は足を止めない。徘徊する魔物を避け、抜け道を利用してするすると奥へ進んでいく。

 滞りなく迷宮を進み、地下五階へ下り立った時だった。不意に辺りの空気が揺らぎ、聞き覚えのある声が聞こえてくる。

『きをつけて。ヨルムンガンドはきみたちをみている』

 何もない空間に突如出現したのは、頭に角の生えた裸体の少女だ。『世界樹の意思』を自称する彼女は、どこか無機質な表情で一行を見下ろしている。

「見ているって?」

『しょうきをばいかいにきみたちをさっちしている。せいかくには、せかいじゅのミのそんざいを』

「……この瘴気そのものがヨルムンガンドの感覚器官という訳ですか」

『もちろん、せいめいたいにゆうがいなどくそもふくまれている。てきたいせいぶつをよわらせるとどうじにさくてきをおこない、ほんたいのかつどうりょういきをかくだいするためのシステムだ』

 それと、と付け加えるようにして少女は言う。

『ちじょうでたたかいがはじまった。しょうきにあてられたまものがあばれだしたみたい』

「クチナ殿の見立て通りだな。司令部が上手くやってくれてるといいが」

「そこは皆さんを信じましょう。最悪の場合はマギニアだけでも離脱できますし」

「……というかお前、世界樹が枯れたけど大丈夫なのか」

 何を言っているのかまったく分からんという顔をしたヘンリエッタが問う。少女は僅かに首を傾げ、もんだいない、と答える。

『もともと、せかいじゅはだいがわりすることをそうていしてせっけいされている。ミがそんざいするのもそのため。うまくいけば、ミからうまれたあらたなせかいじゅが……』

「そういう事じゃない。お前が大丈夫なのかと聞いてるんだ」

『わたしはまもなくきのうをていしする』

 ヘンリエッタの眉が盛大に寄った。少女は迷宮の奥を見やる。……封印の間に繋がる大広間が、そろそろ見えてくる頃だ。

『ずっとみてきた。せかいじゅがこのちにねづいてから、いままでのことをすべて。でも、わたしはみるだけでなにもできなかった。ならくのそこでかのじょがくるしみつづけるすがたをみていることしかできなかった』

「…………」

『かのじょがかいほうされたいま、ヨルムンガンドさえたおせば……わたしのやくめもおわる。けれどそれはおわりではなく、あたらしいじだいのはじまり』

 ……扉の前に辿り着いた。少女が手をかざせば、石の扉に彫られた紋様に淡い光が走る。次いで閂(かんぬき)が外れるような重い音。錠は外れた。あとは扉に手をかけさえすれば、最後の戦いが始まる。

『さあ、いって。きみたちなら、きっとできるよ』

 少女が言う。五人は顔を見合せて頷き、ゆっくりと足を踏み出す。扉に手をかければ、隙間から薄く瘴気が漏れてくる。得物に手をかけ、ひとつ深呼吸をして向こう側へと踏み込んだ。

 暗く濁る霊堂の空気を裂く、禍々しい蛇の声──。


   ◆


 島の中央を覆っていた世界樹の枝葉が無くなったことで、レムリアは随分と見晴らしが良くなった。天に浮かぶ満月の光は遮られることなく地表に届き、足下を明るく照らしてくれる。

 ──だが、明るい月すら霞むほどの光を発するものが、ここにひとつ。

 勢いよく身を捩った竜の尾が目前に迫る。咄嗟に回避の体勢を取るが、僅かに避けきれなかった先端がむき出しの頭皮を撫でた。生温い感覚がこめかみを伝う。背後から相棒の叫び声。

「オリバー! 退くんだ!」

 次いで頭上を熱の塊が走る。旋回してこちらへ向かってこようとしていた竜は、顔面に術式の炎を浴びて苦悶の声を上げた。

 早く、と急かすマルコにひとつ頷いて後方へ下がったオリバーの元に、薬瓶と包帯を抱えたビルギッタが駆け寄ってくる。下手な怪我人よりも真っ青な顔をした彼女に、オリバーは思わず苦笑を漏らした。

「おいおい、落ち着け。ちゃんと手当てしてくれよ?」

「はいぃっ! だい、大丈夫です! わ、私、治療だけは得意なのでっ……!」

 その言葉に違わず、ビルギッタは怯えた様子とは裏腹にてきぱきとした手つきで傷の手当てを行っていく。そんな彼女の背後には歯を剥き出して魔物を見据えるパンダが一匹。何故パンダがいるのか訊ねようとしたが、今はそれどころではないと思い直した。

 レムリアに突如現れた三体の竜の一体……雷鳴と共に出現した黄金の竜は、全身に裂傷や火傷を負いながらも未だ激しく暴れ回っている。長い戦いになりそうだ。今のところは衛士隊と冒険者達とがチームを組み、交代で補給や回復を行いながら戦線を維持しているが、今後どうなるかは分からない。

 包帯を巻く手を止め、ビルギッタが声を上げる。

「できましたっ!」

「おう! ありがとな」

 立ち上がったついでに頭をぽんと撫でてやれば、ビルギッタは強ばっていた表情を僅かに綻ばせた。剣と盾を構え直し、オリバーは再び相棒の待つ前線へ向かう。雷光で眩む目蓋の裏に故郷の妹の姿が浮かぶ。

 今夜がマギニアにとって一番長い夜になる。だが……負けるつもりは毛頭無い。自分を含め、ここに居る者達は皆、命を捨てるために戦っているのではない。生きてそれぞれの場所へ帰るために剣を振るっているのだ。


   ◆


 風を裂いて飛んでいった投刃は両翼の羽ばたきによって弾き落とされた。ロブは舌打ちをひとつこぼして地を蹴る。次の瞬間、先ほどまで立っていた場所を薄い氷が覆った。まともに食らえば心臓さえ凍てつきそうな氷の息吹──頭を封じられればあの攻撃も防げるが、そう簡単にはいくまい。次の一手を思案する彼の視界の端で黒い影が躍る。

 大鎌を手に絶え間なく動き続けるレオは陽動の役目を堅実にこなしているが、その顔には少々疲れの色が滲んでいる。そろそろ下がらせた方がいいだろう。レオが撤退する隙を作るため新たな投刃を構えたロブの背後で、がしゃりと金属が擦れる音がする。

「ロブ!」

「……お前、もう大丈夫なのか」

 治療班の手当てを受けてきたらしいカリスの頬には大きな絆創膏が貼られている。薄汚れた埃っぽい顔で、彼女はにっこりと笑った。

「はい! いつまでも休んでる訳にもいかないデスから。ロブこそ平気デスか?」

「ああ、他のヤツに比べたら……っ、今はそれどころじゃない!」

 咄嗟に駆け出したロブの視線の先で、防御を崩されたレオが思わずふらつく。ロブがその首根っこを掴んで引っ張ったのは竜の尻尾が彼を弾き飛ばす直前だった。直撃は避けた。

 だが、攻撃の勢いとレオの体重とに圧され、小柄なロブの身体は制御を失う。まずい、と思う間もなく、青い竜はぐっと仰け反ってブレスを吐き出す体勢を取る。レオがはっと身を起こしてロブの上に覆い被さろうとした。逃げる間もなく、すべてを凍てつかせる極寒の風が放たれる──。

 と、そこに割って入ったのは、うおおお! という気合いの声と騒がしい足音。

「ガードはぁ!! 冷、静、にぃっ!!」

 よく分からないかけ声と共に、ロブとレオの前に立ち塞がったカリスが盾を地面へ突き立てる。暴風のように襲いかかった氷のブレスは盾の表面を凍らせたものの、内側にいる三人には届かない。

 ロブはすぐさま立ち上がり、まだ少し呆然としているレオの背を押した。

「一度下がれ」

「ここはアタシ達に任せてください! 大丈夫デス、皆で頑張りましょう!」

「……分かった、ありがとう。すぐに戻ってくる!」

 力強く告げて駆けていくレオを見送り、ロブは改めて目の前の敵を見据える。氷を操る三つ首の竜は月光を背負って草原に鎮座し、足下の人間達を不快そうに睨みつけていた。周囲を吹く風は冷えきっている。竜の支配下に置かれたこの場所では、空気すらも戦士達を苛む。

 傍に立つカリスに視線をやった。鎧の一部と逆立った髪の先端を凍らせた彼女は、ロブの視線をまっすぐに受け止めてまた笑う。

 ──一緒に戦うんだ。これからも二人で共に生きていくために。

 背後から飛んでくる援護射撃が竜を怯ませる。剣を抜き、ロブは駆けた。刃に照り返る月光は眩く、曇りのひとつも浮かばない。


   ◆


「……じゃ、行ってくるから。戸締まりしっかりね」

 そう言い残してマリアンヌは部屋を出ていった。大荷物を抱えた彼女の足音が玄関の外へ消えていくのを聞きながら、ノワールはふうと息を吐く。視界の端では白い子供が所在なげに身体を揺らしていた。気になるものがあったのか、開いた窓から身を乗り出そうとする彼女に声をかける。

「マナ、落ちるぞ。そっちに座っていろ」

「……はあい」

 言われた通り大人しくベッドに腰かけて足をぶらぶらさせ始めたマナだが、その視線は相変わらず窓の外を向いている。ノワールは複雑な心境で丸い横顔を眺めた。存外に聡い子供だ。何が起きているのか理解はできずとも、事の重大さは分かっているらしい。

 手元の資料に目を落とす。『スターゲイザー』が置いていった──ホイホイこんな所に置いていっていいような物ではない気がするが──ヨルムンガンドと世界樹についての資料だ。折角だから見ておこう、見てはいけない資料だとしても放置していった方が悪いのだし……と手に取ってみたものの、読み進めれば進めるほど胸の内が毛羽立つような感覚を覚える。

 強大すぎはしないか。このヨルムンガンドという奴は。

 古代レムリアの科学力の粋、永遠の繁栄をもたらす秘法、最悪の生物兵器……成程その名に恥じない凶悪さだ。人間に太刀打ちできるのかも怪しい。一度倒したのは封印が解けきっていない状態の時だったらしいが……今はどうだろう。ノワールには想像する事しかできない。

 難しい顔をしつつ、資料を捲った。そこに書いてあるのはヨルムンガンドの封印についてのあれこれだ。一連の内容に目を通し、また紙を捲ろうとしたノワールだったが、その手がはたと止まった。

 改めて記された内容をもう一度読み返す。当該箇所を指でなぞって丹念に記憶と照らし合わせていけば、生まれた疑問はみるみるうちに確信へと変わっていった。心臓の音が妙に響いて聞こえる。思わず頭を抱えて重い息を吐く。

 ──気付いてしまったからには、無視する事はできない。

「マナ」

 一言呼べば、マナはぱっと振り向いてノワールの元へ駆けてきた。膝に上ってこようとする彼女を押し止めてノワールは静かに告げる。

「よく聞け。……今、レムリアでは『スターゲイザー』や冒険者達が戦ってる。とても強い敵がいて、そいつをやっつけないと世界が危ないからだ」

「うん……」

「……その手助けができるかもしれない」

 マナの目がぱちりと瞬いた。頬にかかる髪を払ってやりながら続ける。

「お前と私にしかできない事だ。だが……代わりに、お前にまた嫌な思いをさせるかもしれない」

「…………」

「お前を危険な目には遭わせない。何があっても私が守る。……手伝ってくれるか」

「んー……うん。いいよ」

 予想外に早い返事に虚を突かれたノワールに、マナはあのねえ、と言葉を紡ぐ。

「マナね、みんなにたすけてもらったから、マナもみんなをたすけたい。だからね、だから……がんばる」

「……そうか」

 囁くように応え、ノワールは立ち上がった。窓を閉め、クローゼットに掛けていたコートを手に取る。それから暫く使っていない剣と投刃も。マナにもお気に入りの白い上着を被せてやり、小さな身体を抱えてドアノブに手をかけた。

「行こう」


 伝令。モリビトの里南東の小島にて海の一族と赤竜が交戦を開始。伝令。黄竜の弱点が火と判明、炎の起動符不足の恐れあり。伝令。青竜戦線、回復物資の不足。至急補給部隊を派兵されたし。…………。

 目まぐるしく情報が錯綜する探索司令部を、ミュラーは半ば追い出される形で後にする。これから長丁場になるのだから今の内に休息を取っておいてください、というのが部下達の言い分だが、こんな状況で呑気に休んでなどいられるものか。

 ただ、マギニアの外の様子を見たかったのは事実だ。見るだけ見て早く司令部へ戻ろう、と艦橋へ足を進めていたミュラーは、遠目に見えた人影に思わず立ち止まった。

 眉間の皺をほぐし、息を整え、ゆっくりと歩み寄る。足音が耳に届いたらしい。彼女はミュラーを振り返り、その口許に微笑を浮かべた。

「ミュラー。汝も休憩か?」

「そのような所で。……姫様はどうしてこちらに?」

「レムリアを見ていた。遠目だが、皆が戦っている様子も見える」

 明るい艦橋からは外の様子は見えづらい。だが、ペルセフォネが指さした先で一度、二度と閃光が走ったのが分かった。険しい表情を浮かべるミュラーの横顔を見上げ、ペルセフォネは呟く。

「本来ならば、私が責任を持って全てを解決すべきだったのだろうが」

「姫様、」

「分かっている。……今更私が犠牲になれば全てが円満に解決するなどと言うつもりは無い。ただ、冒険者や兵達に命を懸けさせてしまうのが心苦しい」

 ミュラーは圧し黙った。人の上に立ち指揮を取る者と、実際に剣を取り戦う者。両者の役割ものしかかる責任もまったく違うもので、同じ天秤にかける事はできないが……ペルセフォネが言っているのは、そういう事ではない。なぜなら、彼女もマギニアの姫である前に一人の人間なのだ。

 だが、とペルセフォネは続ける。

「今は彼らを信じなければ。……私が祈ったところで、どれほど通じるかは分からないが」

「……王の末裔である貴女の祈りならば、レムリアの大地に届くでしょう。必ず届きますとも」

「そうだろうか。それなら、……?」

 ふと、ペルセフォネが怪訝な表情を浮かべて通路の奥に視線をやる。ミュラーもつられてそちらを見てみれば、ちょうど曲がり角から表れた人影がこちらへ向かってくるところだった。

 人影の正体は黒い外套を羽織った男だ。何かもぞもぞと動く白いものを背負っている彼を見て、ミュラーが目を丸くした。その顔には覚えがある。

「お前は……ノワール?」

 何の用かと訊ねる前に、ノワールは頭を振ってミュラーを見返した。どうやら走ってここまで来たらしい。荒い息を整え、彼は真剣な面持ちで告げる。

「ペルセフォネ陛下にお願いしたい事がある」


   ◆


 足下が波打っているかのようだ。ぐにゃぐにゃと曲がる石畳を踏み、サヤはどうにか辿り着いた瓦礫の陰に踞った。頭がぐらつき、脚が妙に痺れる。先程受けた炎の攻撃の効果だろうか。てっきり脚と髪を軽く焼いた程度で済んだかと思っていたのだが。

 少し離れた場所に身を潜めていたヘンリエッタが駆け寄ってくる。彼女が杖を鳴らして巫術を発動させれば、不調はみるみる治まっていった。

「悪いな」

「そんな事は良い。死なない程度に気張れ」

 それだけ言ってヘンリエッタはまた駆け出す。どうやら後退してきたチエリの手当てに向かったようだ。サヤは苦笑を漏らすと懐から取り出したメディカの瓶をあおった。その間も彼の視線は広間の中央……巨大な蛇へと向けられている。

 ヨルムンガンドとの戦闘は熾烈を極めていた。幸い今のところは五人とも生きているが、広間の惨状からしてこれからどうなるかは分からない。というのも、世界樹ノ迷宮地下五階にある筈のこの広間に、月の光が射しているのである。つまり天井がぶち抜かれている。その原因は言うまでもなくヨルムンガンドだ。

 何がどうなって天井に穴が空いたのかはサヤもあまり覚えていない。何しろ何もかも巻き込んで荒れ狂う尻尾と落ちてきた瓦礫とを避けるのに必死だったのだ。ともかく、風通しが格段に良くなった遺跡で彼ら『スターゲイザー』は必死にヨルムンガンドへ食らいついていた。

「サヤ君! 生きていますか!」

 頭上から呼び声。顔を上げて見てみれば、どうやら声の主であるモモコはぶち抜かれた天井の上、地下四階にいるようだった。手を振って応えればすぐさま次の指示が飛んでくる。

「上へ来てください!」

 言いながらモモコが指すのは天井だった瓦礫が積み上がった一角だ。階段というにはあまりに不安定だが、身軽なサヤならば上る事ができる。

「了解……っと」

「チエリちゃんとヘンリエッタさんは部屋を出て階段から回ってきなさい! 崩れたら危な……ッ!」

 続く言葉は破壊音に遮られた。身を屈めていたヨルムンガンドが鎌首をもたげ、上階への攻撃を始めたのだ。床を、壁を伝った振動が瓦礫を崩す前に不安定な足場を駆け上る。背後からはチエリとヘンリエッタが階段へ向かう足音が聞こえてくる。

 瓦礫を上って初めに見えたのはクチナの後ろ姿だ。人外じみた──実際のところ、本当にそうなのだろうが──持久力で戦闘開始時からヨルムンガンドの注意を引き続けている彼だが、流石に疲労の色が見える。

 気配を殺しつつ、足場にほど近い位置にある胴へ近付く。短刀を抜き、空を裂く閃光を避けざまに斬りつけた。刃に塗布した毒が効けばいいのだが、やはりそう上手くはいかない。

 モモコが放った矢が頭上を通り過ぎ、狙い通りヨルムンガンドの眼球へと突き刺さる。蛇は轟と吼えて身悶えた。衝撃でまた床が崩れ落ちる。

「っ……と、モモコ殿! これもっと上に行った方が良くないか!」

「できるならそうしたいんですけど、ね!」

 答える声に合わせてもう一矢。しかし今度は鱗に傷をつけただけで終わった。モモコが舌打ちを漏らして場所を変え始めたところでチエリとヘンリエッタがようやく合流した。サヤは懐に手を入れつつ声を上げる。

「クチナ殿! 下がれ!」

 反応は迅速だった。モモコがまた矢を放って気を逸らしている内に、クチナは踵を返して駆け戻ってくる。ヘンリエッタが巫術を発動する気配。サヤはクチナと入れ替わりに前へ出た。ヒレのような腕が薙ぎ払われるのを避け、視界を横切るように突っ切る。

 高低差のある通路が張り巡らされている分、下の広間よりは幾分か撹乱が効きやすい。放たれた炎を身を屈めて躱しつつ辺りの様子を窺う。

 細々とした攻撃でもきちんと効いているらしい。片目の矢傷はそのまま残っているし、死角へ潜り込んだチエリが刀を振るうたびに巨体がのたうっている。このまま体力を削りきり、回復する隙を与えない内に『世界樹のミ』を使えれば……などと、考えていた、その時だった。

 チエリが気合いと共に振り下ろした刀が、尾の付け根から生えた長大な突起を叩き落とした。断面から噴き出した体液が辺りを黒く染め、苦悶の声が谺する──同時にヨルムンガンドが素早く身をうねらせ、頭を地下へ潜らせる。代わりに現れたのは尻尾だ。刃のようなヒレがついたそれが、ぐ、と持ち上がる。

 まずいとサヤが壁の陰に身を寄せるのと同時に、クチナが咄嗟に駆け出した。回避行動に移るのが遅れた少女の首根っこを掴み、後ろへ放り投げる──数秒置いて、巨体な尻尾が勢いよく振り下ろされた。

 内臓を揺さぶる衝撃。上がった悲鳴は瓦礫の崩落に呑み込まれる。瘴気と土埃が斑に混じり合い、混沌とした空気が肺を灼く。

 戦いは、まだ終わらない。


   ◆


 何かが崩れるような音がした、気がする。しかし辺りを見回してみても音の出所は見つからない。気のせいだろうと断じ、彼は……ブロートは、改めて目の前に広がる光景へ目をやった。

 夜空に火の手が上がっている。涼やかな草原を橙に染める炎、その中心に立つのは赤い鱗を纏った竜だ。

 その周囲を取り囲むのは重装備で身を固めた水兵達である。彼らが隊列を組んで竜に立ち向かう様を、ブロートは小高い丘の上から眺めている。戦況は膠着状態といったところか。大きな被害は出ていないが、決定打を与える事もできていない。

「何だか皮肉ね」

 と、傍らから聞こえてきた声に振り返る。隣に並んいたエンリーカは、眼下の戦場から目を離さないまま続けた。

「あなたが……いいえ。あなたのお兄さんが言った通り、ヨルムンガンドが目覚めた事で私達はこうして一つになって戦ってる。……お兄さんは、この光景を見て喜んだかしら?」

「──……どうだろう。兄は……どう思っただろうか……」

「……でもね。言った通りになってるとしても……やっぱり私は、あんなやり方は正しくないと思うわ」

 ブロートは応えない。駆け寄ってきた兵士に指示を出し、その背中を見送ったところでエンリーカは隣の男を振り返った。俯く横顔を暫しの間まじまじと見つめ、やがて事も無げに彼女は言う

「ねえ。あなた、私と一緒に来ない?」

「……何だと?」

「海の一族の一員にならないかって訊いてるの。私達の懐は海と同じくらい広いの。あなた一人が混ざったところで、何も問題は無いんだから」

 そう言ってエンリーカは大きく胸を張った。ブロートは少女を困惑した表情で見つめる。どう返すべきか迷っているらしい彼に向かって、航海王女は堂々たる態度で演説を続けた。

「私は国元に帰ったらいずれ女王になるわ。その暁には、海の一族を……いいえ、この世界を! もっと平和で豊かにしてみせる。あなたにはその偉業を一番近くで見る権利をあげるわ。どう? 悪くないでしょう?」

「……そう簡単にいくものか」

「ええ、そうでしょうね。だからあなたが必要なの」

 ブロートが眉を寄せる。エンリーカは幼さの残る顔から自信満々な笑みを消し、至って真面目な表情を浮かべていた。

「私達と一緒に航海して、色んな場所で色んな人を見て……お兄さんが、じゃなくて、自分の頭で考えてほしいの。何が『正しい事』なのかって」

「…………」

「そうやって考えた上で、もし……もし女王になった私が道を踏み外したなら、その時は……」

「それ以上は良い。……あなたの覚悟は分かった」

 男の唇から溜息がひとつ。静寂が下りる。戦場の喧騒が壁一枚を隔てたかのように遠く聞こえる。エンリーカは石のように沈黙するブロートから視線を外し、戦う同胞達に目をやった。互いに鼓舞し合いながら竜に立ち向かう兵士達と、傷付いた者を治療する巫医と、最前線を駆けて仲間を守る黒い獣と。誰もが懸命に戦っている。

 ──彼らが必死に未来を繋ごうとしてくれているなら。王族たる自分には、その未来をより良いものにする義務がある。

 がしゃり、と小さな音。隣を見ればブロートが一歩前へ踏み出したところだった。どうしたの、と問うより先に彼の唇が開く。

「少し、考える時間が欲しい」

「……そうよね。答えが出るまで待つわ」

「そのためにも……今はこの場を切り抜けなければな」

 小さな、しかし芯の通った声で言い、彼は携えていた剣を抜く。エンリーカの目が丸くなった。炎を従えて鎮座する赤竜を見据えながら、ブロートは告げる。

「水兵達を下がらせてくれ。できれば、援護を頼む」

「……! ええ、任せて!」

 エンリーカが頷いたのを確かめ、ブロートは地を蹴った。擦り切れたマントが翻る。指揮はすぐさま行われたらしい。兵士達が続々と後退してくる。その中には見知った顔もいくつかあった。

 これからどうすべきか、どこへ向かうべきか……何もかもが判然としない。今までは兄が手を引いてくれていたが、今となってはそれも叶わない。もし、もしも新たに自分を導いてくれる道標が、彼女なのだとしたら──。

 迷路のような思考は竜の咆哮によって断ち切られた。剣士は感覚を研ぎ澄ませて戦地に立つ。右手に握った赤い刃がまっすぐに竜へ向けられた。どこにいようと迷わず北を指す、鋭い羅針のように。


   ◆


「よく考えたら無理があるだろ!」

 と、絶叫したのはスペードだった。少し後ろを走っていたメルセデスが顔をしかめて彼を諌める。

「静かに。魔物がいるかもしれないだろう」

「いや、でもさぁ、姐さんだってそう思うだろ!? なんでこんな時間に怪我人とガキ連れて迷宮突っ走らなきゃなんねぇんだよ!」

 そう言って彼が指さす先には数歩先を行くノワールの姿がある。その背中には上着でくるまれたマナがおぶられていて、彼女は喚き散らすスペードを怯えた目で見ていた。メルセデスは苦々しい表情を浮かべる。

「あんな小さい子を怖がらせるなんて……」

「ていうか人選もおかしいだろ! テメェら殺し合いしてたんじゃねぇのかよ!」

 なぁ! と問いかけたのはメルセデスと並走していたネロだ。ネロは走りながらスペードをちらりと見たが、すぐに手元の紙の束へ視線を戻して冷たく応えた。

「今すぐ黙るか帰るか死ぬかしろ」

「えっ……? そこまで……?」

「おい、じゃれてる場合か!」

 追い討ちをかけるように飛んできたノワールの叱咤にスペードはいよいよ覇気を失い、重い溜息を吐き出した。

 この世にも奇妙な組み合わせの一行が現在向かっているのは極北ノ霊堂の最深部である。他の三つの霊堂は回り終えており、ここが最後の目的地……なのだが、正直なところ既に体力は限界だった。誰のと言われれば、それは当然ノワールとネロである。

 前代未聞の兄弟喧嘩の傷も癒えていない筈の──しかも片方は拘置所にいた筈の──彼らがこうして迷宮を疾走しているのには、当然ながら理由がある。

 上げるのが辛くなってきた脚を引っかけないように注意しつつ抜け道を通り、ノワールは奥へ進んでいく。マナが声を上げたのは地下五階の中心部まで来たところだった。

「ここ! このさき!」

「……扉の向こうか」

 呟いて扉に手をかける。向こう側にあったのは大広間だ。マナが背中から飛び下りて部屋の真ん中へ駆けていく。ランプを持ったメルセデスがその後を追った。

「……分かるかい?」

「うん、みえるよー。あのね、ほかのところとおんなじ」

 そう言ってマナは石畳の上にチョークで線を引き始める。一行がここに来たのはこのためだ。ブロートの手引きによって解かれた霊堂の封印を、方陣の力でもう一度張り直すのである。

 報告書に目を通していたノワールが気付き、ペルセフォネに報告したのがこの封印を再利用してヨルムンガンドへの対抗策とするという案だった。元々ヨルムンガンドの封印は姫君と『杭』、そして霊堂による結界の三種が合わさったものだった。姫君は死に、肉体を封じる杭は砕かれたが……霊堂はまだ残っている。ならば方陣の力を応用してもう一度結界を張り直せるのではないか、とノワールは考えたのである。

 とはいえノワールもこういった手合いに詳しい訳ではない。そこで呼ばれたのがネロであった。身柄を拘束されている彼だが、恐らくマギニアで唯一方陣や封印に精通した専門家である。拘置所から連れ出され、説明も程々に資料を突き付けられた彼は一瞬の迷いもなく即答した。できる、と。

「……お前がここまで着いてくるとは思ってもいなかったが……」

「馬鹿を言え、世紀の大実験だぞ。こんな滅多に無い機会を逃すなど学者失格だ」

 壁を背に座り込むノワールの隣に立ち、ネロは平然と言う。

「こちらからすればお前の方が意外だったぞ、ノワール。よく私とあの娘を会わせようと思ったな」

「私は反対した。だが……」

「だが?」

「マナが、自分は構わないと言った。だから連れてきた」

 ネロが閉口する。ノワールはふんと鼻を鳴らして一心にチョークを走らせるマナを見た。彼女には霊堂を繋ぐ術式の回路が見えている。封印が解けた事でバラバラになってしまったそれを、陣を描いて繋ぎ直しているのだ。

 ふと、ノワールは傍らのネロを見上げた。できる限り感情を乗せない声で問う。

「今なら拐わなくてもあいつを利用できるぞ」

「…………」

 金の瞳が静かに見下ろしてくる。二人は黙ったまま、鏡に映したかのような顔を見合わせた。重く流れる沈黙を打ち破ったのは少女の明るい声である。

「できたー!」

 ノワールはひとつ息を吐いて立ち上がった。まだ最後の仕上げが残っている。マナの方へ近寄ろうとする彼の背中に声がかかる。

「私は世界の脅威を取り除きたかった」

 振り返ってみれば、片割れは気だるげな表情を浮かべて続けた。

「だが、私はその手段を失った。今更あの娘を利用したところで何もできない。だから、もう手出しをするつもりも無い」

「……そこは嘘でも罪滅ぼしのつもりだと言え」

 吐き捨てるように言えば、はは、と乾いた笑い声が返ってくる。もう一度溜息を吐き、気を取り直してマナの元へ向かう。彼女は小さな手には不釣り合いな、身の丈より長い杖を持ってノワールを待っていた。

「あのねー、あとはホージンすれば、チミャクがぐるぐるーってなって、まんなかにいくの」

「そうか。……やってくれ」

「うん。よいしょ……えーいっ!」

 マナがよろよろと杖を持ち上げ、方陣と思わしき線の中心に向かって振り下ろす。こん、と小気味良い音が響いた次の瞬間、足下に淡い光が走った。光は石畳に刻まれた紋様を伝い、壁へ柱へとみるみるうちに広がっていく。

「……成功か?」

「セーコー!」

 やったやった! としがみついてくるマナを抱き止め、ノワールは南の空を見上げる。さて、思いつきの一手だったが……これが何かの助けになるだろうか。


   ◆


 ──全身が痛む。痛むという事は、つまり、おれはまだ生きている。

 目を開けて最初に視界に映ったのは、薄汚れたチエリの顔だった。汗と涙と血の上に土埃をこびりつかせ、彼女は必死の形相でこちらを覗き込んでいる。

「──、……無事、か……」

「……! クチナさん! ま、待って……いま包帯……」

 クチナはそう言われて初めて自分の腹が包帯でぐるぐる巻きにされている事に気付いた。チエリがごしごしと顔を拭いながら言う。

「お腹、半分ちぎれたみたいになってて……ちょっとずつ治ってたけど、全然起きないし、あたし、死んじゃうかと思って……」

「ああー……うん、確かに……これは死んでたかも」

 彼の身体は『ちょっと特別』だが、人より丈夫で傷の治りが速いだけで死なない訳ではないのだ。よいしょ、と起き上がってみれば腹が爆発しそうに痛んだ。だが、動けるだけで僥倖だ。

「皆は……ヨルムンガンドはどうした」

「上の階に行ってる。あたしはここにいろって言われて……」

「どうして」

「…………」

 チエリが神妙な顔で差し出したのは、刀の柄だった。その先に伸びている筈の刃は半ばから捻じ切られたかのように折れてしまっている。

「尻尾に巻き込まれて、」

 消え入りそうな声で呟き、ただでさえ小さくなっていた背中をますます丸める少女に、クチナはうーんと顎に手をやった。暫し熟考していた彼だったが、意を決したように頷くと腰に下げていた刀を一振り、チエリへ差し出した。

「これ使え」

「え! でも……」

「おれは二本持ってるから。それ、良い刀だから簡単には折れないぞ」

 ほらほら。とクチナは遠慮がちなチエリに刀を押しつける。少女が得物を受け取ったのを確認すると、彼は痛みを堪えながら緩慢な動作で立ち上がった。慌てて支えようとするチエリを止め、天を仰ぐ。

「早く皆の所へ」


 無理かそうではないかと訊かれたら、それは当然、無理に決まっている。

 後衛三人でどうにか持ちこたえてきたが、それもそろそろ限界だ。足を滑らせた床の上に血の痕が残る。苛立ちのままに杖を叩きつけたものの、残っている力では大した巫術は使えない。ヘンリエッタはべたついて頬に張りつく髪を振り払って顔を上げた。

 前に出てヨルムンガンドの気を引いているのはサヤだ。一見無事なように見える彼の左腕はよく見ると力なく垂れ下がっていて血色がいやに悪い。その後ろで弓を引くモモコも全身に傷を作っている。ヘンリエッタも脚の傷から垂れた血がブーツの中まで染みていて、とにかく全員が限界に近い。

 ただ、それはヨルムンガンドにとっても同じらしい。巨大な蛇の身体は所々が欠け、溢れた黒い体液が鱗にこびりついている。戦いのゴールは見えている……が、そこへ至るまでの道筋が見えない。

「ヘンリエッタ! 方陣!」

 サヤが掠れた声を上げた。言われた通りに陣を敷く。ヨルムンガンドは僅かに身を震わせた。効果があったようには、見えない。

 サヤは一瞬の隙を見て物陰へ身を隠し、メディカを口内へ流し込むとまた躍り出ていく。と、その時、ヨルムンガンドが大きく尾を振るった。霊堂全体が揺れる──標的となっていたモモコは寸でのところで避けた。しかし息つく暇も無く、彼女の頭上に崩れた天井の破片が降り注ぐ。

「……!」

「ッくそっ!!」

 ヘンリエッタは咄嗟に方陣を解除し、溢れたエーテルを空中で破裂させる。破陣の衝撃は大きな瓦礫の幾つかを砕いたが、それでも間に合わなかった。掌大の破片がモモコの頭を直撃する。

 倒れ込む彼女の頭から帽子が落ちてどこかへ飛んでいった。それに構わず、ヘンリエッタはすぐさま駆け寄ってモモコの具合を確かめる。

「聞こえるか、しっかりしろ!」

「っ……大丈夫、です……眩暈がする……だけ……」

 脳震盪だ。すぐには動けないし、下手に動かす訳にはいかない。頭の傷を巫術で癒しながらサヤの方を窺う。彼は二人のいる場所とは逆方向へとヨルムンガンドを引きつけていた。果たしてあと何分持つか。クチナかチエリが戻ってくるまでは、何とか──。

 そこでふと違和感に気付き、ヘンリエッタは眉をひそめた。感覚を研ぎ澄まし、そっと床に手を当てる。……足下で大きな『気』が動いている。ヨルムンガンドが何かしようとしているのかと思ったが、違う。この感覚はもしかすると。

 はっと顔を上げたその瞬間だった。壁や床に彫られた紋様ひとつひとつに淡い光が走る。目で追う暇も無く遺跡全体を駆け巡った光は眩い閃光となってある一ヵ所へ収束する──そう、巨大な柱のごとく鎮座するヨルムンガンドの元へと。

 蛇が叫び声を上げる。巨体が身悶えしようとするが、その動きが明らかに鈍い。同時に背後から足音。振り向いてみれば、階段を上ってきたクチナとチエリがこちらへ向かってきている。

 ……ヨルムンガンドの動きを封じた光の正体が、マナが組み直した霊堂の封印だと『スターゲイザー』には知るよしも無い。何が起こっているのかすら把握できていなかったが──確かに直感する。今が最大の好機だ、と。

 ヘンリエッタが力強く杖をつく。地脈の力を借りて展開された『大巫術・精霊衣』が仲間達の傷を癒し、辺りの瘴気を吹き飛ばす。駆けつけたチエリがサヤの隣へ並ぶのを横目にクチナがモモコの元へやって来る。

「無事で良かった」

「ギリギリですけどね……」

「ギリギリの所悪いけど、この作戦でいきたい」

 そう前置き、クチナは作戦を手短に告げる。モモコは彼の提案に二つ返事で頷いた。ヘンリエッタはそのやり取りを聞いて思わずといったように顔をしかめ、しかしひとつ息を吐くと覚悟を決めた様子で杖を握り直す。

 同時にチエリもサヤへ同じ内容を語っていた。巫術で多少体力が回復したらしい彼は、僅かに血色の良くなった顔に苦笑を浮かべる。

「無茶言うぜ」

「やっぱり無理かな」

「いいや、乗った。もう一踏ん張りしてやる」

 そう言い残し、お手本のようなウインクをしてサヤは走り出した。サヤと入れ替わるようにしてヘンリエッタがやって来る。彼女はチエリの隣に立つと、杖を掲げて少女の額を小突いた。

「あいた」

「行ってこい」

「……ん!」

 頷けば、ヘンリエッタも力強く頷き返して後ろへ戻っていく。チエリは数歩退いてヨルムンガンドから距離を取った。ヘンリエッタの『おまじない』のおかげで、身体の疲労は嘘のように消えている。刀を鞘に収め、舌の上で小さく言葉を転がす。それは、祈りの言葉だ。

『我が手に緋緋色金あり』

 目を閉じる。神経を集中させる。腹の底に力を込めて呼吸を繰り返す。

『此に捧ぐは勇士の御霊』

 深く息を吐くたびに指先と刀とが一体化していくような感覚が強まる。まだ早い。じっと時を待つ。

『聞こし召せ、聞こし召せ──』

 どこからか轟音。それが合図だった。目を見開く。標的を見据える。目の前に聳える白い巨体に向かって、彼女は吼える。

『──我は死の門を開くもの(・・・・・・・・・・)!』

 一歩、踏み込む──ほんの一瞬、世界の全てが動きを止めたかのような静寂が辺りを包んだ。しんとした空間に響くのは、鯉口を切る微かな音。高く跳躍し、ヨルムンガンドの身体を踏み越えながら。チエリは刀を抜いた。

 無双、一閃。

 紫電のごとき一太刀は蛇の胴を文字通り切り取って(・・・・・)いた。断崖のようにぱっくりと口を開けた傷から体液が滝のように噴き上がる。身悶えして地下に潜ろうとしたヨルムンガンドの身体に、サヤがクナイと共に放った糸が巻きつく。縺れ糸を何十本と縒り合わせて仕上げたそれは、波打つ尾へ、暴れるヒレへ、苦悶に歪む顔へと絡んで動きを封じる。

 クチナが前へ出る。その右手に握られているのは刀ではなく、虹色に煌めく『世界樹のミ』だ。彼は軽く走った勢いのまま、腕を大きく振りかぶる。

「っらあああああッッ!!」

 気合いの咆哮。振り抜かれた手の内から虹色の塊が離れる。放物線を描いて飛んでいった『世界樹のミ』はヨルムンガンドの傷口へ落ちていく……が、僅かに逸れた。傷口へ入りきらず滑り落ちる──一同がそう認識するより先に手は打ち終わっていた。

 クチナの投擲と同時にモモコが放った矢が果実に追随する。未だぐらつく視界と覚束ない腕で放たれた矢はしかし、想定通りの軌道を描いて完璧なタイミングで標的へと着弾した。

 風を切る微かな音だけを残して。

 果実を、傷口へ押し込む。

 赤黒い断面の中へ呑まれた『世界樹のミ』が、黄金の光を放つ。ヨルムンガンドが叫び声を上げた。魂を絞り尽くすような断末魔が、遺跡中に、穴の開いた天井越しの夜空に、響く。

 光と絶叫とが収まった、その後。そこに残されていたのは息絶えたヨルムンガンドの身体と、その上を這う無数の蔦葉……そして目を出したばかりの双葉だった。降り注ぐ月光に照らされて瑞々しく輝く芽は紛れもなくこれから続く未来の象徴で。

 この時をもって──『スターゲイザー』に与えられた最後のミッションは、その勝利でもって幕を閉じたのだった。

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