【SQX】終章

「……あれ?」

 目を開けると白い空間だった。エノクは首を傾げる。はて、自分は確か瘴気に呑み込まれた筈で……いや、その前に自分とエレオノーラを守る障壁を張った筈で……。

「心配するな。全部うまくいった」

 唐突に聞こえてきた声に顔を上げる。声の主……少年はいつものようにすぐ傍に浮かんでエノクを見下ろしていた。ただ一ついつもと違うのは、その身体がほろほろと崩れ落ちつつあるという点で。

「……きみ、やっぱり消えるの?」

「まあな。力を使い果たしてしまった……ってところだ」

 だが、と少年は肩を竦めて続ける。

「俺の力は意識ごとお前の中に溶け込んだ訳だから……そのうち戻って来れる、かも」

「かも……」

「正直、自分がどうなるのか分からないんだ。あやふやで悪いがこれ以上は勘弁してくれ」

 エノクは神妙な表情で頷いた。少年の身体はゆっくりと、しかし確実に崩壊を続けている。既に両脚は完全に失われていた。

 砂糖が紅茶の中に溶けていく様子を彷彿とさせる光景をまじまじと見ていたエノクだったが、ある事を思い出してあっと声を上げた。

「そうだ! モモコさんからきみに伝言があったんだ」

「モモコから?」

「うん。『私は約束を守れましたか』って」

 少年は目を瞬かせて、それから少しだけ困ったような笑顔を浮かべた。どこかばつが悪そうに彼は答える。

「そうだな……伝えておいてくれ。『重荷を背負わせて悪かった』」

「うん」

「それから、『ありがとう』と」

「分かった。伝えるよ」

 頷けば穏やかな笑みが返ってくる。エノクは顎に手を当てて、他に言っておく事が無かったかどうか思い出そうとした。ここに来る前は言いたい事がありすぎて困ってしまうくらいだったのに、今となっては何も思い浮かばない。

 ならば、とエノクは少年へ向き直る。怪訝な視線を向けてくる少年に、エノクは真剣な声色で問うた。

「何か、言い残しておきたい事とか無いの?」

「え……そう言われても……」

「あるでしょ、何かこう……何かしらが」

「……特に思い浮かばないな。いやそんな顔するな! 本当に無いんだ。無いっていうか……もう言うまでもないっていうか」

 そう言う少年の顔はどこか晴れ晴れとしていて、そう返されてしまってはエノクも追及する事はできなかった。

 少年はうーんと唸って腕を組む。その腕も、手首から先は崩壊して無くなってしまっていた。

「だけど……そうだな、強いて言うなら」

 崩れた腕がエノクの頬に添えられる。水蒸気でも触れたかのような希薄な感触。青年にぐいと顔を近付け、彼は至って穏やかに言う。

「俺はもう消えるが、いなくなる訳じゃない。いつもお前の傍にいる。……例えるなら、そうだな、真昼の星……みたいなものだ」

「真昼の……星」

「姿が見えなくても、お前を見守ってる」

 なんて、格好付けすぎたな……と苦笑する少年に、エノクもつられて笑う。

 少年の身体は、肩から上を残してその殆どが消滅しようとしていた。残っている部分もじきに消える。別れの時は近いが、不思議と寂しさは感じなかった。エノクは形を失い始めた少年の毛先に触れる。

「次は僕が迎えに行くよ」

 何が、どうやって……などとは、少年は言わなかった。ただ笑って目を伏せ、エノクの額に自分の額を優しく押し当てた。

「ああ……待ってる」

 満ち足りた声色の囁きを残して、少年の姿は完全に消滅した。一切の音と色が失われた白の世界で、エノクは目を閉じる。


 ……意識が戻ってきた。自分の身体が正しく動く事を確かめたエノクは辺りを見回す。草の生い茂る平原だったそこは、枯れ野原へと変貌してしまっていた。一歩踏み出せば枯れ草が潰れて軽い音を立てる。

 一面のセピア色に落ちる影は二つ。一つはエノクの、そしてもう一つは少し離れた場所に座り込むエレオノーラのものだ。エノクは静かに彼女の元へ歩み寄る。

 エレオノーラはその膝に男の亡骸を抱いていた。穏やかに眠っているような表情を浮かべた男の、その身体が末端から崩れて塵に変わっていっている。汚れたキルトの裾が、斬り裂かれた胸が、少女に抱かれた頭が。目にも見えないほどの塵となって風に流されていくのを……エノクはじっと見守っていた。

 男の姿は跡形も消えてなくなった。後に残ったのは、一本の古びた槍だけ。

「……エレオノーラ」

 呼びかければ少女の肩が僅かに揺れる。一度だけ掌で顔を拭って、それからエレオノーラは立ち上がった。エノクを振り返り、彼女は少し掠れた声で応える。

「帰りましょう」

 エノクは頷く。投げ出されていた剣と盾を拾い上げ、天を仰いだ。雲ひとつない空に浮かぶ月は随分と西へ傾いている。空の色は混じりけのない漆黒だが、じきに東側が白んでくる事だろう。

 夜明けを間近に控えたレムリアの大地を踏みしめ、二人はマギニアへと戻っていく。


   ◆


 エノクとエレオノーラが帰還した時、マギニアは大変な騒ぎになっていた。ヨルムンガンドの討伐と三竜の撃退、それに伴うお祝いムードと怪我人の対応に追われた医療班の鬼気迫る雰囲気、安堵と未だ残る緊張……混沌とした空気の漂う街に足を踏み入れた二人は、まずそれぞれの仲間にしこたま叱られた。勝手にいなくなり、その上妙に汚れて──エノクに至っては、鎧に巨大な傷を作って──戻ったのだから当然と言えば当然だが。

 その後でお互いに何があったのかを語り合った。とはいえエノク達が語った事はそう多くはない。ただ、昨日までいた二人が、もうここにはいないという事だけを伝えた。仲間達も何かを察したらしい。それ以上深く追及はしてこなかった。

 それからエノクはモモコの元へ向かった。彼女は頭を強く打ちつけたため、念のためにと別室で脳の検査を受けていたのである。少年から預かった言葉を伝えると、モモコは僅かに瞳を潤ませて呟いた。

「良かった、」

 そして、彼女はエノクを抱きしめる。言葉は無かったが、優しく背を撫でる感触は確かに自分を労うそれで、エノクもまたその肩に鼻先を埋めた。

 こうして、マギニアや海の一族、レムリアに息づくすべての生き物にとって最も長い夜は──終わりを迎えたのだった。


 それからの日々はあっという間に過ぎていった。暫し療養に専念した後は司令部に呼び出され、叙勲がどうの式典がどうのという話をし、あれよあれよという間に公衆の面前で勲章やら何やらを渡され……報酬として与えられたとんでもない額の金銭に呆然としている内に、気付けば一ヶ月も時が経っていた。

 一ヶ月──人々の混乱が収まり、日常を取り戻すには十分な時間だ。司令部の仕事が元の量に戻り、街に活気がみなぎり始めたのを見計らい、ペルセフォネは正式に発表した。「三週間後、レムリアを発つ」と。

「三週間かあ。長いようで短いね」

 隣に座ってクッキーを貪っていたチエリが呟く。エノクは鎧の手入れをする手を止めて、そうだねと応えた。こうして宿の部屋で過ごす時間も残り僅かだ。

「早めに荷物を纏めないと。……チエリは家に帰ったらどうするの?」

「んー……まずお父さんとお母さんに謝って……それからまた学校に行くかなあ。休学になってるみたいだし。そう言うエノクくんは?」

「僕は……」

 言いかけて口をつぐんだエノクを見てチエリは首を傾げる。エノクは傷痕が完全に修理された胸当てを手に取って黙り込んでいたが、やがて顔を上げると困ったように笑った。

「まだ決めてないんだ。とりあえず、成人の儀をちゃんと終わらせなきゃね」

「そっか」

 納得したように頷き、チエリは再びクッキーにかじりつく。エノクはそんな彼女を暫し眺めて、それから再び鎧を磨き始めた。艶々と輝く金属の表明に映る自分の顔は、マギニアに乗る前より少したくましくなったように見える。……錯覚かもしれないが、まあ、冒険の中で成長したのだいう事にしておきたい。


   ◆


 レムリアを発つ一週間前。マギニアに先立って、海の一族の船団がレムリアを離れる事になった。見送りに向かった『スターゲイザー』やペルセフォネの前で、見慣れない木彫りのお守り──モリビトの子供から貰ったものらしい──を首から下げたエンリーカは晴れやかに笑った。

「秘宝は手に入らなかったけれど、私達はこのレムリアで宝より大事なものを得たわ。ありがとう『スターゲイザー』。あなた達の航海に幸運があるよう祈ってる」

 ……水平線に向かってまっすぐに進んでいく船団を見送り、一息ついたところでふとモモコが口を開く。

「彼の事は良かったのですか?」

 船に乗り込む前、挨拶にやってきたエンリーカの後ろに控えていた赤毛の水平。服装こそ異なっていたが、あの背格好と髪の色は、確かに。

 問いかけられたペルセフォネは何度か瞬きをし、それから曖昧な微笑みを返す。その表情を見たモモコはそれ以上何も問わなかった。

 白黒はっきりつけられない事も、言葉にしない方がいい事も、世の中には数多くある。ペルセフォネ本人が口にしない事を選んだのなら、それはきっとそれが一番良い選択なのだ。


   ◆


 そして、今。

 足の裏に伝わる微かな振動を感じながら、エノクは分厚いガラス窓の外をじっと眺めている。水平線の向こう側に豆粒のように見えていた大陸は徐々に大きくなり、今では港の景色がはっきりと見える位置まで近付いていた。

 マギニアがレムリアを出てから既に二週間が経過している。今見えているあの港は三つ目の寄港地だ。マギニアに残っている冒険者は、出立の頃と比べて半分程度まで減っている。『ウルスラグナ』やこれまで共に戦ってきた冒険者達が別れを惜しみながら船を下りていく姿を思い出したエノクは、胸の奥から込み上げてくるものを感じた。

「エノク君? ……ああ、ここにいたんですね」

 廊下の向こうからモモコがやって来る。エノクは出かけた涙を慌てて引っ込めて振り返った。

「はい。……何だか懐かしくなっちゃって」

「ああ、そういえばレムリアに到着する前もここで外の様子を見てましたね。……もう揺れは平気ですか?」

「へ、平気ですよ……」

 視線を泳がせるエノクにモモコはくすくすと笑い、目を細めて窓の外を見る。

「あの港を出たら、次は私達です」

「……はい」

「それより大事な見送りが先ですけどね。そろそろ居住区へ戻りましょう」

 エノクは頷いた。外ばかりに気を取られて別れの挨拶の時間が短くなってしまうなど、あまりにも締まらない。

 艦橋を出て市街地へと下りていく。途中、船体が大きく揺れた。低空飛行していた状態から海面に着水したのである。エノクは危うく転びそうになり、モモコに笑われてしまった。マギニアの事は好きだが、やはりこの揺れだけはいただけない。

 市街地を進み、すっかりお馴染みとなった診療所を訪れる。裏口から中に入ると奥からサヤの声が聞こえてきた。

「マナ殿~離してくれよ~。某、そろそろ行かないと……」

 何事かと声の聞こえる方を覗き込んでみれば、荷物を抱えたサヤの脚にマナがしがみついている。そのすぐ横ではソファーに腰かけたノワールが紅茶を啜っていて、大変シュールな光景だ。

「……何やってるの?」

「いやさあ、マナ殿がお別れしたくないって……」

 サヤが溜息混じりにそう言えば、マナはずびびと洟を啜って応える。エノクとモモコはあー……と苦笑した。紅茶を飲み干したノワールが肩を竦めて立ち上がる。

「マナ、いい加減にしろ。迷惑だろう」

「ううー……」

 ノワールに引き剥がされたマナは恨みがましい目で彼の脚をぽこぽこと殴ったが、抱き上げられると途端に大人しくなった。涙と洟でデロデロになった顔を肩に押しつけてくる少女にやれやれと首を振りながらノワールはサヤへ向き直る。

「引き留めて悪いな」

「いやいや、大丈夫。んじゃ某は先に行くから! 後で見送りよろしく~」

 軽やかに手を振ってサヤは部屋を出ていく。裏口の扉が閉まる音が聞こえたのとほぼ同時にノワールが口を開いた。

「あいつだけ先に行かせて良かったのか?」

「本人がそうしたいと言ったので。あっちはあっちで話が纏まっているようですし」

「そうか」

 ノワールは素直に頷いた。彼の腕の中でマナがもぞもぞと身を捩る。彼女の小さな掌の中には折り紙の手裏剣が握られていた。

 それから一時間と経たない内にマギニアは港に到着した。少しの待機時間を経て、検疫を終えた冒険者から順に下船が始まる。仲間や知り合いとの別れを惜しむ者、団体で賑やかに下りていく者、一人で足早に去る者……様々な冒険者の姿でごった返す出口に『スターゲイザー』の面々も立っていた。

 ひとり荷物を背負ったサヤがうーんと伸びをする。

「さて……もう行くか」

「本当に一人で下りちゃうの?」

「一人じゃないだろ。あいつらいるし」

 あっけらかんと言って彼が指さした先には、同じく荷物を抱えたエレオノーラ達一行が立っている。

 サヤがこの港で下りる彼女達について行くと言い出したのは、ほんの数日前の事だった。理由は定かでない。ただ、サヤとエレオノーラの間で契約とはまた違った何かしらのやり取りがあったのは確からしかった。

「報酬も貰ったし、もうやり残した事もない。お主ら元気でな~。もし次会っても某こんなキャラじゃなくなってると思うけど」

「そういうの、どう反応したらいいか分からないからやめてよ……」

「ははは! ……っと、そうだ、ヘンリエッタ!」

 怪訝な顔をしたヘンリエッタを傍に呼び寄せ、サヤは彼女の耳許にそっと口を寄せた。他の誰にも聞こえない囁きを聞き取ったヘンリエッタは彼を見上げて素っ気なく応える。

「及第点だ」

「それは良かった。初めて解く問題だったが……ま、良い経験にはなったよ」

 ヘンリエッタが肩を竦める──しかしその眉間には常のようなシワは刻まれていなかった。

 二人のやり取りを横目に、エノクはエレオノーラの元へ歩み寄っていく。さっさと下りようとするスペードをメルセデスと共に引き留めていた彼女は、エノクの姿に気付くと静かに振り返る。

 二人は無言で見つめ合う。少しの間そうしていたが、やがてエノクがそっと右手を差し出した。エレオノーラも同じように手を伸ばす。エノクの手の内に収まったエレオノーラの手は、予想していたほど華奢ではなかった。

「元気で」

「……ええ、貴方も」

「機会があったらハイランドにおいでよ。案内するから」

「そうね……きっと、いつか」

 気付けば広場にいる冒険者達の数は残り僅かだ。二人のやり取りが終わったのを見計らったサヤが、ノワールとマナの元を離れてこちらへやって来る。

「行きますか」

「ええ」

 荷物を担ぎ直し、一行は出口へ向かっていく。最後にエレオノーラが一度だけ振り向いた。

「さよなら」

 ……四人の姿が他の冒険者の背中に紛れて見えなくなる。マナが圧し殺した泣き声を上げ始めるのを聞きながら、エノクは漠然と思った。

 きっと──もう二度と、会う事はないのだろう、と。


   ◆


 サヤ達と別れた港を出てから次の港に辿り着くまで、ほんの数日だった。

 窓の外から着陸が近い事を告げる放送の声が聞こえてくる。改めて荷物を検分しながら、エノクは客室を見回した。狭苦しいと思っていた筈の三人部屋は、こうして一人になってみると随分広く感じる。

「おい、終わったか」

 開けっ放しになっていた扉からヘンリエッタが顔を出した。その後ろには既に旅支度を終えたチエリの姿も見える。エノクはベッドの上に置いていた最後の荷物を鞄の中に詰め込んだ。

「今終わったよ」

「じゃ、行こっか。あんま遅いとモモコさん達待たせちゃうかもだし」

 チエリの言葉に頷き返し、最後にもう一度忘れ物がないか確認して部屋を出る。いつも通り居眠りしていたヴィヴィアンと傍らのマーリンに挨拶をしてから、三人は宿を後にした。

 息子を学生寮に迎えに行ったモモコとは広場で落ち合う事になっている。自分達と同じように荷物を抱えた冒険者達を横目に、並んで広場へ続く大通りを歩いていく。

 歩いている内にある事を思い出したエノクは、そういえば、と二人に問いかけた。

「クチナさんは結局どこにいるんだろうね」

 チエリとヘンリエッタは困ったように顔を見合わせる。

 クチナの姿がどこにも見えない事に気付いたのは、サヤ達を見送ったその日だった。慌ててマギニア中を探し回ったが、結局見付けられずに今日という日を迎えてしまったのだ。

「それが……これ見て」

 そう言いながらチエリが懐から取り出したのは一枚の紙切れだ。受け取ってみれば、そこには整った字で短い文章が書かれている。

「……クチナさんの字だね」

「あたしの荷物に入ってたの」

 チエリは困惑と呆れをない交ぜにした表情で呟く。ヘンリエッタも同じ顔をしているし、恐らくエノクもそうだろう。簡潔な感謝と別れの挨拶が綴られた紙切れを、エノクは丁寧に畳み直してチエリに返した。何も言わずにいなくなるよりは多少マシだが、まさか書き置きだけ残して去っていくとは。

「最初から最後までよく分からん奴だったな……」

 ヘンリエッタのぼやきに二人も揃って頷いた。


 息子を連れて戻ってきたモモコと合流し、検疫を受ける。問題なく検査を通過すれば、もう後は船から下りるだけだ。重い荷物──重量の大半は鎧が原因だ──を地面に下ろし、エノクは息を吐く。

「ついに、か……」

「何だ、嫌なら下りなくてもいいんだぞ」

「流石にそうはいかないよ」

 苦笑混じりに応えればヘンリエッタはふんと鼻を鳴らす。元からマギニア在住の彼女はエノク達を見送る側の立場だ。隣に立っていたマリアンヌが感慨深げに言う。

「最初に君達と会った時は、こんな長い付き合いになるとは思わなかったよ。世話になったね」

「こちらこそ。先生もお元気で」

 にこやかに笑うマリアンヌと握手を交わしたその時、エノクの腰のあたりにどんと何かがぶつかるような衝撃があった。何事かと見てみれば、そこには白い頭が。

「マナ」

 少し離れた場所にいたノワールがたしなめるように呼べば、マナはゆっくりとエノクの脚から身体を離す。彼女は何か言いたげに口をもごもごさせると、涙で濡れた顔を上げ、右手を差し出した。そこに握られているのは折り紙の花だ。目を瞬かせるエノクにノワールが言う。

「お守り、だそうだ。邪魔でなかったら貰ってやってくれ」

「あのね! あのねえ……マナ、おわかれしても、みんなだいすきだから……だいすきだから……」

 エノクはそっと地面に膝をつき、えぐえぐと嗚咽を漏らすマナの頭を撫でた。折り紙の花を受け取って優しく笑いかける。

「ありがとう。大事にするよ」

 マナは大きく頷き、エノクにぎゅうと抱きついた。それからモモコとチエリにも順番に抱きつき、名残惜しそうにしながらも少女はノワールの元へ戻っていく。やれやれと言ったように子供を抱き上げるノワールを横目に、ヘンリエッタが口を開いた。

「まあ今生の別れとも限らないだろう。私もそのうち船を下りる」

「え!?」

 驚愕の表情を浮かべて聞いてないんだけど……と漏らすマリアンヌをよそに、ヘンリエッタは続ける。

「だから、まあ……別れの挨拶はしない。せいぜい健康に過ごせ」

 つっけんどんに言いながらも、ヘンリエッタの表情は穏やかだ。三人は顔を見合わせて笑った。何となく、彼女ならば本当にすぐにでもマギニアを離れてこちらを訪ねて来そうな気がする。

 ……さて、そろそろ潮時だ。エノクは荷物を抱え直してモモコを振り返る。彼女はひとつ頷いて、見送りに来た面々にもう一度頭を下げた。それから一行はゆっくりと街の出口へと向かっていく。

「──また会うまで死ぬなよ!」

 徐々に遠ざかる背中に、ヘンリエッタは手を振りながらそう声を投げる。やがて人混みに紛れてその姿が見えなくなっても、彼女はずっと手を振り続けていた。


 港町からラガード方面へ向かうには山をいくつか越えなければならない。流石に徒歩での山越えは厳しいという事で馬車を乗り継いで行くつもりだったのだが、残念な事に港町から出る馬車は全て出払ってしまっていた。一気に大量の冒険者が下船して、それぞれの目的地へ旅立ったのだから当然の事ではあるが。

 そういう訳で一行は港町から隣の小都市へ向かう街道を歩いていた。この街の馬車が全滅でも隣街ならば……という魂胆である。幸い隣街までの距離はさほど遠くない。冒険者ほどの体力が無いアリーを気遣って遅めに歩いても、日が暮れる前には辿り着けるだろう。

「いい天気だねえ!」

 先頭を歩いていたチエリがはしゃいだ声を上げる。風は少し強いものの、確かにとても良い天気だ。今歩いている道は小高い丘の上にある。振り返れば、延々と続く水平線が空と海とを切り分けているのが見える。眼下の港には羽を海上で休めるマギニアの姿。寄港する時間はさほど長くないと聞いた。冒険者を下ろし終え、物資を積み込んだらすぐにでも飛び立っていくのだろう。

 街道の左右には青々とした草原が広がっている。そよぐ草の上で蝶々が睦み合い、どこかから聞いた事のない虫の声が聞こえてくる。数歩前を行くモモコが道端に咲く植物の名前を息子に教えている。その優しい声を聞きながら、エノクはふと足下を見た。

 久々に踏む本土の地面はレムリアのそれとは同じようでどこか違っていて、思わず僅かな寂寥の混じる息を吐いた。ひとつひとつ思い返す。きっともう二度と訪れる事のないあの島で得たものを。そして、あの島へ置いてきたものを。

 ひときわ強い風が頬を撫でた。ふと空を見上げる。抜けるような青空の下を足早に通り過ぎていく白い雲。その遥か頭上で瞬く見えない光に想いを馳せた。

 ──待っていてほしい。いつかもう一度、その手を掴みに行くまで。

「……エノクくーん?  置いてっちゃうよー!」

 明るい呼び声が響いてくる。青年は再び歩き出す。道は長く、長く続いている。吹き渡る風にその背を押されながら、冒険者達は旅路を往く。


『真昼の星を掴むまで』 完

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