暗夜光・前
フェルにその任務が与えられたのは、彼が正式に騎士団の一員と認められて二ヶ月が経った頃だった。
勤務地は街外れにある古びた砦だという。既に役目を果たし本来の用途として使われなくなって久しいその場所は、現在は錬金術師達の研究施設として稼働しているのだと聞いた。まだ陽も傾いていない時間だというのに薄暗い通路をメモを頼りに幾つも潜り抜け、ようやく辿り着いた鋼鉄のドアを三回、等間隔にノックする。
間もなく返ってきた声に従って静かに部屋へと入ったフェルを待っていたのは錬金術師らしき格好の女性であった。フェルを向かいのソファに座るよう促し、女性は淡々とした口調で自らの名と階級とを告げる。どうやら彼女はこの施設の責任者であるようだ。
「こんな奥まった場所までご苦労様です」
「いえ、そんな……」
「長時間歩いてお疲れでしょうが、早速仕事の話をさせて頂きます。よろしいですか?」
ひとつ頷けば、女性は傍らのデスクに置いてあった鍵をつまみ上げてカチリと揺らす。
「貴方の仕事は夜間警備です。施設全体の警備ではなく、夜通し一室に留まる形で駐在して頂く事になります。ここまでは事前にお知らせしていたと思いますが……」
「はい。承知しています」
「より詳細に説明しますと、貴方の仕事は二つあります。一つは日没前にこの鍵を持って西の塔へ向かい、最上階の部屋を夜通し監視する事。もう一つは六時の鐘が鳴ったら塔の出入口を施錠し、鍵を所定の位置へ返す事です。この業務を毎日欠かさず行って頂きます」
続けざまに女性が差し出した施設内の地図を受け取り、さっと目を通す。フェルの勤務地であるという『西の塔』とは砦の西端に建つ塔の事だろう。また地図上のある一室には赤いペンで丸がしてあった。女性がすかさずその部屋が鍵を返す場所だと告げる。
「以上の二つの仕事さえ完璧にこなして頂ければその他には何も要求する事はありません。日中は好きに過ごして構いませんし、職員寮に貴方の部屋もご用意してあります。何か疑問点などはありますか?」
フェルは俯き、何を見るでもなく地図に目を滑らせる。きっと彼女は説明を手早く終わらせて本来の業務に戻りたいのだろう。フェルを見る眼差しはどこか冷たく、よそよそしかった。
数秒のあいだ黙り込んでいたフェルだったが、ふと顔を上げて女性に向かって控えめに問いかける。
「監視とは、一体何の?」
女性の眉がぴくりと動いた。聞いてはならない事だっただろうかと不安に思うフェルをよそに彼女は一度目を伏せ、微かな嘆息を吐き出し、問いに答える──無機質だった声に、どこか悩ましげな響きを宿して。
「知ったところで、貴方には何の得もない」
教えられた道順を辿って一人歩くフェルは、女性の言葉の意図を考えあぐねていた。自分にとって、得のないもの──いったい何なのだろう。あの物言いから察するに、彼女は何の監視なのか知られたくないようだったが、それほどの物とは一体……?
しかしどれだけ疑問が残ろうと、任務として命じられた以上は仕事をこなさくてはならない。渡り廊下の突き当たりに立ちふさがる重厚な扉の前でフェルは足を止めた。ここが目的地である西の塔の入口だ。渡された鍵を鍵穴へ差し込みゆっくりと回せば、扉の内側で何かが噛み合う音がした。鍵を引き抜いて重い扉を引く。たちまち噴き出してきた空気はひどく埃っぽく、フェルは思わず顔をしかめた。
塔の中へ踏み入ったフェルを出迎えたのは螺旋状に続く石の階段だった。扉を閉め、そっと足をかける。最上階までの道のりは長そうだ。余計な事は考えずに無心で上り続ける。鉄格子が嵌められた窓から差し込む光は薄まりつつある橙色で、その色はこれから訪れる夜への不安をフェルの心に尚更強く刻み付けた。
最上階まで辿り着くのに、数分かかった。階段を上りきったフェルの目の前に現れたのは木製の扉で、その傍らの壁には小さな鍵がひとつ、打ち込んだ釘に引っ掛かる形でぶら下げてある。どうやらこの鍵はこの扉の鍵らしい。扉を開け、恐る恐るその向こう側を覗き込む。
部屋の中には片手で数えられる程の物しか無かった。小さな机と椅子、ランタン、鉄格子の嵌まった二重窓。そして一番目を引くのは部屋の真ん中、天井から垂れ下がる黒いカーテンだ。音を立てないように部屋へ入り、周囲を見回す。ふと目についたのは机の上に置かれた一枚の紙だ。どうやらこの仕事の前任者からの置き手紙であるらしい。
『カーテンの向こう側を覗かない事。物音がしても反応しない事。なるべく物音を立てない事。夜は長い。読書や書き物で時間を潰してもいいし、何なら仮眠を取ったって構わない。ただ、上記の注意点は必ず守る事。心配する事はない。守りさえすれば楽な仕事だから。君の幸運を祈る』
短い手紙を読み終えたフェルはすぐ傍のカーテンに目をやった。石畳の床につくかつかないかの長さのそれはのっぺりと黒く、星の無い夜空のような暗さでもって部屋の半分を覆い隠していた。フェルは細く息を吐き、静かに椅子を引いて腰かける。微かに震える手でランタンに火を灯せば部屋は柔らかな光で照らされ、冷たい床には黒い影が落ちた。縋るように窓越しの景色を見る。ぽつりぽつりと灯りの点き始めた街の遠景は、フェルの不安など知った事ではないという風にただ悠然とそこに在り続けている。
初日の夜は、それだけで終わった。一晩の間カーテンはぴくりとも動かず、向こう側から何の気配がするという事もなかった。空が明るくなり、遠くから朝を告げる鐘の音が聞こえてくる頃、フェルはフラフラになりながら塔を下りた。出入口の鍵をしっかり閉めたのを確認し、事前に指示された寮の部屋に辿り着いた彼はすぐさまベッドに崩れ落ちる。
なるほど、楽な仕事といえば楽な仕事だ。あの静寂すぎる空間と何が潜んでいるのかも分からないカーテンに囲まれて過ごすストレスを勘定に入れなければの話だが。
指令によれば任務期間は半年、つまりこれから半年もの間あんな夜を過ごし続けなければならないのだ。フェルは自分の運命を呪った。自分なりに必死に、真面目に生きてきたつもりなのにこの仕打ちはあんまりだ。何の因果でこんな場所に追いやられてしまったのだろう。
答えは簡単だ。フェルが騎士として落ちこぼれだったからだ。
二日目、眠りから目覚めたフェルは暫しの間今夜もあの塔に上らねばならない憂鬱を噛みしめながらベッドを転がっていた。とても行きたくない。しかし仕事なのだから行かねばならない。のろのろと起き上がって準備を済ませたところで、彼は昨夜読んだ前任者の手紙の事を思い出す。
悩んだ末、フェルは塔に本を何冊か持ち込む事にした。何もせず手持ち無沙汰で過ごすには夜は静か過ぎるし、かといって眠ってしまうというのも仕事をサボっているようで気が引ける。幸い、彼は読書を好む人種であった。居心地の悪い部屋でも、本さえあれば少しは退屈と不安を紛らわす事ができるだろう。
昨日と同じ時間に塔の最上階へやって来て椅子に座ったフェルは、ふとある事に気が付いた。机の天板の下に小さな引き出しがついている。ゆっくりと引き出してみれば、中に入っていたのは赤い紐が結わい付けられた黒い鍵だった。形からして、この部屋や塔の出入口の鍵のスペアという訳ではなさそうだ。何の鍵だろうかと不思議に思いつつ、そのまま引き出しを閉める。備品にあまり触れるのもよくないだろう。
持ってきた本を開き、紙面上に躍る文字列の世界へと意識を沈める。無限に広がる空想の物語は幼い頃からフェルの心を慰めてくれる存在だった。勇敢な戦士、賢い盗賊、優しい王子……物語の中では、彼は何にだってなれたのだ。こんな薄暗い塔での任務を押し付けられた落ちこぼれ騎士ではなく、理想の自分に。
その夜も、そうして更けていった。カーテンは微動だにせず、ただ沈黙を保ってそこに佇み続けていた。
三日目、フェルは塔に軽食を持ち込んだ。水筒に入れた紅茶と、欠片を溢さずに食べられる一口サイズの焼き菓子と。夜が明けるまでの時間をずっと飲まず食わずでいるのも中々辛いものがあるのだ。その夜も何事も起こらず過ぎていった。
四日目、街で異国語の辞書と小説を買った。翻訳しながら読むのは時間が掛かるが、どうせこれから先も暇な夜が続くのだから却ってその方が良いだろう。その夜も何事も起こらず過ぎていった。
五日目、フェルは辞書を片手に小説の翻訳を進めていた。文法の違いに戸惑う事はあるが、それでも最初の数ページ分の内容は分かってきた。どうやらこの小説は王道の冒険小説であるようだ。物語は嫌われ者の王子が美しい姫と出会うシーンから始まっている。あらすじによれば、二人はこれから連れ立って長い冒険の旅へ出るのだという。フェルはわくわくしてきた。心躍る冒険の物語は、彼の最も好む類の空想なのである。
この時、フェルは自分が任務中である事をすっかり忘れていた。まるで自室でひとり作業をしている時のような気分で訳し終えた文章を読み返し、文を整える。出来上がった訳文を眺めて満足げに頷き、次のページに指をかけた、その時だった。
かつん、と何かが床を跳ねる音がした。
不意の出来事に驚いたフェルは思わず持っていた鉛筆を取り落とす。軽い音を立てて机の上を転がる鉛筆には目もくれず、彼はランタンを掲げてカーテンの方向へと勢いよく振り返った。黒い布と石床との間には僅かな隙間がある。その隙間から顔を出す小さな金属製の何かを見付けたフェルは自身の血の気がさっと引いていくのを感じた。速くなる鼓動と震える呼吸を押さえつつ、そっと椅子から立ち上がる。
よく見てみれば、そこに落ちているのはネックレスか何かのようだ。これといった装飾もない、細い革紐に小さな石が通してあるだけのシンプルなネックレスである。床に膝をつき、恐る恐る手を伸ばす──。
「──ねえ。見張りのひと」
……ランタンを床に落とさなかった事だけは評価できるだろう。突如聞こえた声にフェルは呼吸すら忘れてその場で固まった。急な出来事の連続で頭が真っ白になっている彼の様子を知ってか知らずか、声は続けて問いかける。
「そこにいるんでしょう?お願いがあるの。……それ、取ってもらえないかしら」
それはか細い女の声だった。我に返ったフェルは自分へ投げかけられた言葉を何とか飲み込む。『それ』とはこのネックレスの事だろう。声の主はネックレスを拾ってくれるよう自分に頼んでいる──この、黒いカーテンの向こう側から。フェルは一瞬、どうすべきか迷った。初日に説明を受けた際、フェルが何を監視するのかと問うた時のあの女性の言葉が脳裏に過ったのである。
『知ったところで、貴方には何の得もない』
「……お願い。大事な物なの。カーテンの隙間から、手を伸ばしてくれるだけでいいから……」
沈黙するフェルに尚も向けられる言葉は、懇願するような切実な響きを孕んでいた。フェルはごくりと唾を呑んだ。震える手を擦り合わせ、ネックレスをつまみ上げて深呼吸をひとつ。そして暫し目を伏せて心を落ち着け、意を決してカーテンの隙間に手を差し込んでそっと広げる。
向こう側にあったのは鉄格子だった。
言葉を失うフェルの指先に冷たいものが触れる。太い格子の隙間から伸ばされた白い手が、彼の差し出していたネックレスをそっと受け取った。落とし物を大事に胸に抱き、声の主は──痩せた色白の少女は、口許に微かな笑みを浮かべて囁く。
「ありがとう」
少女の手が存外に強い力で腕を突き返し、フェルは思わず数歩後ずさる。その拍子に隙間が閉じ、カーテンは元のように黒く、重々しくフェルのいる空間と向こう側の空間とを仕切ってしまう。部屋には今までと同じ静寂が下りる。ただひとつ、フェルの鼓動だけがどくどくとうるさく鳴り続けている。
……女の子、だった。歳は自分と同じくらいだろうか。何故こんなところにいるのか。もしかして、これまでの五日間も彼女はずっとここにいたのか。『監視対象』とは、もしかして。呆然とその場に立ち尽くすフェルの指先には、先程触れた少女の冷たい手の感触が残っている。
それから程なくして、終業の鐘が聞こえてきた。
力ない足取りで部屋を出たフェルはのろのろと塔を下り、鍵を返却して寮に戻ると初日の彼がそうしたようにベッドへと崩れ落ちた。今夜の仕事のためにも眠っておかなければならないのだが、どうにも目が冴えてしまってとても睡眠などできそうにない。原因は分かっている。あの少女だ。
夜間警備の任務。部屋を仕切るカーテン。前任者からの置き手紙。女性の質問への反応。窓に嵌められた鉄格子。向こう側の牢獄と、その中の少女……。
果たして自分に与えられたこの仕事は、いったい何のための任務なのか。いや、警備の目的が『少女の監視』である事くらいはフェルにも想像がつく。しかし何故、何のためにあの少女はあんな場所にいるのか。人の寄り付かない塔の上で、鉄格子の内側で、カーテンでその姿を隠されて。
フェルは胸の奥のどこかがきゅっと締まるような感覚を覚えた。これ以上深入りしてはいけない気がする。女性の言っていた事は恐らく正しいのだ。知ったところで、自分には何の得もない。けれど。フェルは自分の右手をじっと見つめる。
あの時触れた指先の冷たい感触が忘れられない。
六日目、フェルは始業時間ぎりぎりまで迷ってから塔へと向かった。いつものように一段ずつしっかりと踏みしめながら階段を上り、最上階の扉の前に立つ。ドアノブに手をかけてひとつ深呼吸をすると、彼は意を決して扉を開いた。部屋の様子は何ら変わっていなかった。机も椅子もランタンも昨日と同じ場所にあるし、カーテンはぴくりともせずに佇んで部屋を分断している。向こう側で何かが動いているだとか、そういう気配も感じられない。
荷物を机の傍に置くとフェルはランタンに火を灯す。部屋を橙色に染め上げる灯をそっと持ち上げ、彼はカーテンの前に立った。もう一度、深呼吸をひとつ。大きく息を吸い込んで、彼は口を開く。
「あの……ちょっと、良いかな」
絞り出した声は僅かに上ずっていた。すぐに反応が返ってくる事はなく、部屋には暫しの沈黙が下りる。逸る鼓動の音がフェルの頭の中にいやに響いていた。そのまま数十秒は待っただろうか。不意にカーテンの向こう側から小さな声が返ってくる。
「わたしと話をしてはいけないんじゃないの?」
フェルは内心ほっと胸を撫でおろした。内容はさておいて、返事があった事自体に安心したのだ。先程よりも落ち着いた声で少女の問いに答える。
「カーテンの向こう側を探るなって話ではあったけど、話をするなって言われた訳ではないから……その、開けてもいいかな」
「……構わないわ」
フェルはカーテンの隙間をゆっくりと広げた。開いた暗幕の向こう側の光景で真っ先に目に入ったのはやはり物々しい鉄格子で、その内側の空間には小さな部屋があるのが見えた。机と椅子、小さな棚と窓、どこか別の部屋へ繋がっているらしい扉、そして簡素なベッド。
少女はベッドの上に腰かけて、どこか硬い表情でフェルをじっと見つめていた。シンプルなクリーム色のワンピースに包まれた手足は細く、いやに白い肌色と相まってどこか不健康な印象がある。が、それだけだ。見た目には何も変わった所は無く、どこからどう見ても、彼女はどこにでもいそうな少女だった。
「自分から話しかけてきた見張り番はあなたが初めてだわ」
少女はぽつりと呟く。急なフェルの行動に驚いてはいるようだが、その声にはどこか感嘆したような色があった。
フェルは重いカーテンの内側に身を滑り込ませて鉄格子のすぐ目の前に立つ。強固に嵌め込まれたそれは比較的最近備え付けられたものであるようで、塔自体の造りにはそぐわない光沢を保っていた。格子に触れないよう注意しつつ、フェルは再度少女に声をかける。
「俺はフェル、フェル・ゴルトシュミット。君は?」
「……ネオン」
控えめに告げられた名前を、フェルは舌の上で転がすようにして反芻した。ネオン。この国ではあまり聞きなれない響きだ。
「そうね。わたし、この国の人間じゃないから」
ネオンは事もなげに呟いた。フェルはどこの出身なのか、と訊こうとして思い直す。いま重要なのはそこではない。
「君はどうしてここに?」
「……そう。やっぱり何も知らされてないのね」
フェルの問いには答えず、そう呟いてネオンはおもむろに立ち上がる。足音ひとつ立てないまま歩み寄ったのは例のごとく鉄格子の嵌められた窓だ。分厚い硝子を細い指先でなぞり、彼女は怪訝な表情を浮かべるフェルを振り返らないまま唇を開く。
「──街灯の光が見えるでしょう」
そんな言葉と共に指さしたのは鉄格子越しに見える街の景色だ。夜景を薄く彩る淡い光を物憂げな瞳に映しながら彼女は囁く。
「あれは私の血でできてるのよ。いいえ、もしかしたら先に死んでしまった仲間の物かもね。あれのために私は生かされているの。……灯りを消してみて」
振り返ったネオンの視線にあるのはフェルが掲げるランタンだ。彼女の言葉に従って灯を消せば辺りは一瞬で暗闇に包まれる。暗闇に慣れていない目を凝らして周囲を見回したフェルは、目の前に広がる思いがけない光景に言葉を失った。
射し込む月明かりだけが微かに照らす部屋の中、佇むネオンの瞳が、身体が、淡く光を帯びている。
「『光るハイランダー』って知ってる?」
フェルの反応は気にも留めず、ネオンは静かな声で告げる。
「わたしはこの塔に連れてこられた奴隷。資源としての『光るハイランダー』の、最後の一人よ」
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