暗夜光・中

 フェルが夜間警備の任務に就いてから既に三週間が経とうとしていた。今日も彼は水筒と菓子と翻訳途中の小説を鞄に詰めて夕陽に照らされた塔を上る。任務を始めた頃に比べるとその足取りは随分と軽い。

 階段を上りきって最上階に辿り着いたフェルは、鍵を開けてドアノブに手をかけるその前に今までの道のりの中で軽く乱れた前髪をそっと直す。外側に跳ねた毛の束が落ち着いたのを確認し、彼はようやく扉を開けて部屋に足を踏み入れる。

「ネオン、こんばんは」

 声をかければ、一拍置いてカーテンの向こうから応える声が返ってくる。

「こんばんは、フェル。今日は良い事でもあった?」

 フェルは思わず口許を押さえた。平静を保っているつもりだったが、いつもより浮かれているのが声に出てしまっていただろうか。机に置いた荷物からある物を取り出し、カーテンを掻き分けて向こう側の少女の姿を確かめる。ネオンはいつもと同じようにベッドに腰かけてフェルを待っていた。カーテンの隙間から覗いた顔に向かってにこりと微笑む彼女をフェルは小さく手招く。

「ちょっと来てくれる?」

「なに?」

 近付いてきたネオンに向かってフェルが鉄格子の隙間から差し出したのはまだほんのりと温かいパウンドケーキの一切れだ。小さな紙袋で包まれたそれを受け取り、ネオンはきょとんとした表情でフェルを見つめる。

「持ってきたんだ。一緒に食べようと思って」

 フェルが照れたようにはにかみながら言えば、ネオンは白い頬をほんのりと赤らめてありがとう、と呟いた。


 初めて言葉を交わしたあの日以降、こうしてネオンと会話をするのがフェルの日課となっていた。初めは挨拶とちょっとした世間話程度しか話せず、それもフェルがほぼ一方的に話しかけているような状態だったが、それを何日も続けている内にとうとうネオンも折れたらしい。次第に言葉を返してくれるようになり、今では二人はすっかり打ち解けていた。

「あなた、かなり変わってるのね。わたしと会ってるのがバレたら仕事が無くなるんじゃないの?」

 とネオンは呆れたように言っていたが、フェルの仕事中に他の誰かが塔にやって来た事は一度もないし、ネオンが誰かに告げ口をしている様子もない。解雇されるリスクは承知している。しかし、仕切りの向こうに人がいるのにその存在を無視して過ごすというのは、フェルにとっては耐え難い苦痛だったのである。そして何より話し相手がいると仕事も楽しい。これに尽きる。

 出勤してから夜が更けるまで暫しの間二人で他愛ない話をして過ごし、ネオンが就寝した後は夜中は本を読んで時間を潰す。そして夜が明けると起床したネオンと挨拶を交わして退勤する……もはや仕事と呼んでいいのかすら分からないが、これが最近のフェルの仕事のルーチンであった。

 ネオンは自分の事を多くは語らなかったが、代わりにフェルに様々な事を訊ねた。街の様子、今日読んだ小説の事、騎士団の仕事、この国の文化。中でも彼女が聞きたがったのはフェル自身の話だ。

「俺の実家は代々続く騎士の家なんだ」

 ある夜、フェルは彼女にこう話して聞かせた。ランタンの灯りが照らす狭い範囲の中で、二人は鉄格子を挟んで隣り合わせに座っている。

「父さんは騎士団本部の大隊長。母さんはもう引退してるけど元小隊長。二人兄さんがいるんだけど、どっちも優秀で……俺だけなんだ。才能が無いの」

「だからこんな所の警備を押し付けられたのね」

「う……そ、そうだな……」

「……でも、それに感謝すべきなのかしら。あなたがここに来てなかったら、わたしはこうしてあなたと話せなかった訳だし……」

 ネオンの呟きにフェルは目を丸くした。はっとして顔を上げたネオンも、彼の反応を見て慌てたように視線を泳がせる。

「あ……ごめんなさい、失礼な事を言ってしまって……」

「!い、いや、違うんだ。その……そういう考え方もあったのかって驚いただけなんだ。気にしてないよ」

 フェルの弁明にネオンはほっとしたように表情を緩めた。何故だかその顔が直視できず、それとなく視線を逸らしながらフェルは脳内で先のやり取りを反芻する。確かに、ネオンの言うとおりかもしれない。こんな場所に配属された時は不運を呪ったが、今こうして二人で話をして過ごす事ができているのはその不運のお陰なのだ。

「……俺、本当はすごくラッキーなのかも」

 呟けば、ネオンは何言ってるの、と笑った。だってそうだろう。今や、こうして彼女が笑顔を向ける先に自分がいる──その事実こそがフェルにとっては大きな幸福となっていたのだから。

 彼にとって。これが正真正銘の初恋であった。

 フェルは考える。元より自分は少年時代騎士訓練校の男子寮で生活しており、同年代の女性と接触した経験が少なかった。女子と話をする際の緊張を恋と勘違いしている──そんな可能性も否定しきれない。しかし、塔を下りて寮に帰り、次の仕事のために眠ろうと目を瞑ったその時、瞼の裏には必ずネオンの笑顔が浮かぶのだ。これを恋と言わずして何と言えばいいのだろう。

 彼女の事をもっと知りたい。話をしたい。もっと近くで触れてみたい──そんな考えが脳裏を過るたび、フェルは頬を強くつねって自分を戒める。

 自分は騎士で、任務で彼女を監視している身なのだ。そんな事が許される筈がない。それに彼女だってきっと退屈しのぎに自分と話してくれているだけなのだ。あんな誰も寄り付かないような塔の上で、牢獄に一人閉じ込められていては、寂しいだろうから、…………。

 ……それでいい。退屈しのぎでも何でもいい。彼女の孤独を、少しでも癒してあげたい。

 フェルは自身の心に固く誓う。自分のできる限りの事をしよう。落ちこぼれ騎士ひとりの力では、ネオンをあの環境から救う事はあまりにも難しい。ならばせめて、一時だけでも彼女を笑顔にしてあげよう。彼女が笑ってくれるなら、それだけで十分自分は報われる。

 フェルはネオンが好きだ。そして彼は、彼女の笑った顔をこそ、いっとう愛しく感じていた。


   ◆


 またある夜の事である。いつもと同じ時間に部屋までやって来たフェルが扉を開けるなり、ネオンの明るい声が響いてきた。

「フェル、こんばんは!ねえ、カーテンを開けてみてくれる?」

 いつになく弾んだ調子の声を不思議に思いつつ、フェルは言われるがままにカーテンを掻き分ける。いつもと同じ冷たい鉄格子の向こう側にネオンの姿を認め、彼はぽかんと口を開けた。

 いつも所々跳ねたまま手付かずで放置していた髪を、今日のネオンは綺麗に整えていた。後ろから持ってきた髪を左右に分けて編み込み、胸の方へ流している。頭の上部から生える髪は左右それぞれ纏めて平たい団子状にし、その根本からは一本ずつ三つ編みが出ていた。変わった髪型だ。変わっているが、とても可愛い。

 とはいえ素直にそんな事を言える筈もなく、フェルは内心どぎまぎしながらとても似合っている旨を伝えた。その言葉にネオンはそっとはにかむ。

「わたしの故郷の伝統的な髪型なの。本当はお団子は布で覆うんだけどね。……久しぶりにやってみたけど、上手くできて良かった」

 暫し手鏡──彼女の牢獄にはこうした小物もいくつか持ち込まれていた。無論、簡単には割れないように細工がなされている──で自身を眺めていたネオンだったが、ふと顔を上げてフェルの元へ歩み寄ってくる。

「フェル、ひとつお願いしていい?」

「ん……なに?」

「ここの三つ編みをね、こう……先っぽを団子の下に入れるみたいにして……留めてほしいの。自分じゃ上手くできなくて……」

 そんな言葉と共に渡されたのは小さなヘアピンだ。フェルが頷けば、ネオンはほっと表情を緩めて鉄格子の前に椅子を運んでくる。こちらに背を向けて腰を下ろした彼女の淡い金の髪に、フェルは慎重な手つきで触れた。柔らかくさらさらとした綺麗な髪だ。少し傷んでいるのが勿体無い。

「ハイランダーはみんなこうして髪を編むの。おしゃれな人は色のついた紐を一緒に編み込んだりもしてたわ」

「へえ……そうなんだ」

 楽しそうに語るネオンの言葉に、フェルはヘアピンを挿す位置を調整しつつ頷く。

 『ハイランダー』とはラガード領ハイランド地方に住まう少数民族を指す言葉だ。傭兵部族として名高い民族であるが、大陸の内部に位置するこの国とは馴染みが薄い。前々から気になってはいたのだ。彼女がここに来る前どんな生活をしていたのか。……そして何故ここに閉じ込められてしまう事になったのか。

 フェルは口を開きかけ、ネオンの様子を見て唇を噛んだ。折角楽しそうにしているのに、自分がなにか訊く事で辛い記憶を思い出させてしまわないだろうか。

 フェルの迷いを感じ取ったのか。ネオンは細く息を吐き出し、呟くように言う。

「何も訊かないでいてくれるのね」

「!…………ごめん」

「何で謝るの?あなたのそういう優しいところ、わたし、好きよ」

「っ、す、!?」

「ちょっとだけ聞いてくれる?あなたになら話したいの」

 突如飛び出した「好き」という言葉に過剰反応して思わずヘアピンを取り落としたフェルは、数秒置いて彼女の問いかけに頷いた。ネオンはくすくすと笑い、静かに語り始める。

「わたしはね、ずっと昔にハイランドから追い出されたハイランダーの氏族の末裔なの。ご先祖さま達は長い旅をして、この国から少し離れた山奥を拓いてそこに住み始めたって聞いてるわ」

「……追い出された?」

「ええ。……きっと、他のハイランダーからも嫌われてたんでしょうね。わたし達、こんな身体だから」

 ネオンは少しだけ俯いた。垂れた前髪の奥の瞳には淡い光が灯っている。フェルは何も応えられない。一瞬翳った空気を吹き飛ばそうとするかのように、ネオンは再び明るい声で言う。

「わたしは家族と一緒に里で暮らしてたわ。父さんと母さんと、それから兄さんと姉さんが一人ずつ。三人きょうだいの末っ子だから、フェルとお揃いね」

「そうだったんだ。ネオンはしっかりしてるからお姉さんっていうイメージがあったよ」

「そう?でもわたし、いつも怒られてたのよ。末っ子だからって甘えてばかりいないでちゃんとしなさいって」

「それは……うん、俺もたまに言われる……」

 ネオンは声を上げて笑った。鈴を転がすような笑い声にフェルもつられて笑みをこぼす。髪を留める作業はとっくに終わっていた。それに気付いているのかいないのか、ネオンは遠い目をしながら続ける。

「懐かしいわ。いつも母さんの手伝いをしながら父さんと兄さんが狩りから帰ってくるのを待ってた。フェルは鹿を捌いた事ってある?わたしはあるのよ。もう、やり方は忘れてしまったけど。…………」

「……ネオン?」

 急に俯いて黙り込んだネオンに、フェルはおずおずと声をかける。暫しの間そのままでいた彼女は、やがてすっくと立ち上がるとフェルの目の前で両手を広げてくるりと一回転してみせた。三つ編みが揺れる。色の白いネオンの手足が、髪が、頬が、ランタンの橙色の光に照らされて眩く輝く。

「一度でいいから見せたかったの。……あなたに」

 橙の光に染め上げられた彼女の頬にほんのりと赤みが差したのはフェルの見間違いではなかった筈だ。フェルは鉄格子を握り締め、彼女を見つめて応える。唇からこぼれたのは、先程は飲み込んでしまった素直な言葉だ。

「その、綺麗だよ。俺が今まで見た女の子の誰よりも……いちばん可愛い」

「……、……そう。…………ありがとう」

 ネオンはそう言って照れたように笑った。

 残念な事に、せっかく編んだ髪をネオンはすぐに解いてしまった。髪を結んだまま寝ると痕がついてしまうからと言っていたが、それが本当の理由かどうかはフェルには分からない。ただ、手鏡に映る自分の姿を見て喜ぶネオンのはしゃいだ声と、はにかむような笑顔は確かに彼の脳裏に焼き付いていた。


   ◆


 ──ネオンは果物が好きだと言ってたな。

 露天に並んだ干し果物の袋詰めを見て自然とそう考えてしまう自分に、フェルは思わず苦笑した。フェルは夜間の仕事を終えて一眠りした後、こうして街に出る事がたびたびあった。次の夜に持っていく食糧や書籍を調達するためである。最近はもっぱら「これを持っていったらネオンは喜んでくれるだろうか」とばかり考えながら買い物をしてしまっているが。

 とはいえ、あまり差し入れが多いと彼女も困ってしまうだろう。年頃の女の子に毎夜毎夜菓子ばかり食べさせる訳にはいかない。干し果物へ伸びそうになった手をぐっと堪えてフェルは二つ歩き出す──と、そこで急に彼を呼び止める声があった。振り向いてみれば、そこにはよく見知った顔。

「アルジェ兄さん」

「ようフェル。買い出しか?」

 自身も品物がいっぱいに詰まった紙袋を抱え、明るい表情で問いかけてきたのはフェルの兄──三兄弟の次男・アルジェだった。家族の中でも浮きがちなフェルが、唯一気兼ねなく話ができる相手である。

 フェルがひとつ頷けば、彼はそうかと応えてにこりと笑う。

「任務はどうだ?上手くやれてるか?」

「まあ……失敗はしてないよ」

「そうか。お前も災難だよな、あんな所に飛ばされて」

 思わず口から出そうになったそんな事ないよ、という言葉をフェルは寸でのところで飲み込んだ。たとえ仲の良い家族といえど、ネオンの事を勘づかれる訳にはいかない。

「……そうだね。でもまあ、慣れれば簡単な仕事だよ」

「もしうちの部隊に空きができたら、すぐにでもお前の事呼び戻してやるからな。任期は半年だったか?上手くいけばもっと短く済むぞ」

「え?それは……」

 フェルの言葉を遮るように、時間を告げる鐘が鳴り響く。それを聞いたアルジェはあー、と声を上げて顔をしかめた。

「悪い、俺もう戻らなきゃ。……じゃあな、フェル!良い報せを待ってろよ~」

 そう言って駆け足で去っていく兄の背中を、フェルは呆然と見送った。立ち尽くす彼の頭の中を埋めるのは先程の兄の言葉だ。任期は半年、上手くいけばもっと短く済む。

 夜間警備の任務は、最初から任期が半年だと決まっていた。今の時点で任務に就いてから既に一ヶ月ほど経過している。つまり残りは五ヶ月、きっとあっという間にその時は訪れてしまう。それが更に短くなるかもしれないとなれば……。

 今まで忘れていた……いや、無意識に考える事を避けていたのか。どちらにせよ、現実を突きつけられたフェルは目眩がするような心地がした。いずれ、ネオンとは別れる日がくる。そしてそうなれば、二度と再会する事は叶うまい。

 呆然としているうちに予想外に時間が過ぎてしまっていた。買い物を済ませ、準備を整えて覚束ない足取りで塔へと向かう。半ば放心したまま扉に手をかけ部屋に入ろうとしたところでフェルは我に返った。いけない。自分がこんな調子ではネオンを心配させてしまう。けれど、しかし、…………。

 目を瞑って頬を叩き、深呼吸をしてからフェルはドアノブを回す。

「やあ、こんばんは」

「こんばんはフェル。今日は少し遅かった?」

「あ、ええと。買い物に手間取ってね」

 間違った事は言っていない。フェルの言葉にネオンはカーテンの向こうから、そう、とだけ返した。荷物を机に広げながら、フェルは何でもない風を装って彼女に声をかける。

「ネオンはさ。俺以外の……今までここで働いてた人と話した事ってあるの?」

「どうしたの急に?……無いわ。話しかけたのも、話しかけられたのも、あなたが初めて」

 返ってきた声はどこか憂いを帯びていた。予想していたのと同じ答えにフェルは唇を噛む。

 ──俺がいなくなったら、彼女はまた一人で……。

「……フェル?どうしたの……?」

 結局、心配させてしまった。戸惑ったように声をかけてくるネオンに、フェルはすぐに応える事ができなかった。暫し目を伏せて呼吸を整え、話のネタにしようと持ってきた愛読書を荷物から取り出す。ランタンを片手にゆっくりとカーテンを掻き分ければ、彼女は気遣わしげな目でフェルを見つめていた。

「フェル……?」

「大丈夫、何でもないよ。今日は俺の好きな本持ってきたんだ。良かったら読んでみない?」

 努めて明るい声で言い、鉄格子の隙間から本を差し出す。ネオンはフェルの顔を見上げて瞳を戸惑いに揺らし、しかし何も言わずにそれを受け取った。

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