デイヴィ・ジョーンズによろしく
お前が随分遅いモンだから、やっこさん、今頃海の底で待ちくたびれてる事だろうさ!
青く澄み切った空に、輪郭のはっきりとした白雲がぽつぽつと浮いている。風の流れに合わせてゆっくりと形を変えていくそれらを、ティルは船縁に顎を乗せてじっと眺めていた。傍らではオオタカが目を閉じて羽を休めている。潮風に吹かれて小さく揺れる羽を撫でつつ周囲の様子に耳を澄ませる。どこからか聞こえてくるのはウィリーの声だ。船員たちに何事か指示を出す彼の声色にも緊張感は無く、ティルは大きなあくびを漏らして目を擦った。
常ならば周囲の哨戒のため駆り出される事が多いティルとオオタカだが、どうやら今日は出番が無いまま終わりそうだ。なぜなら今度の航海は順調すぎるほどに順調で、鷹の目による警戒も星術による観測も必要ないままに目的地付近まで到着してしまったのである。流石のティルにもそれがかなりの幸運で、喜ぶべき事であるというのは理解できる。できるがしかし、それはそれとしてやる事が無いというのは少し……いや、かなり退屈だ。
「ティルー? 何してるの、そこいると邪魔だからこっち来て」
突如聞こえた声には呆れたような響きが滲んでいる。むむ、と唇を尖らせて振り返れば、ベロニカが船室の出入り口から顔を覗かせているのが見えた。ティルはしばし目を瞬かせ、動く気配の無いオオタカをちらりと見やってから彼女の元へ駆けていった。手招きされるままに船室に入り、通路の突き当りに置かれた木箱に腰かけた。木箱の中には何か重いものが入っているようで、子供二人分の体重を受け止めてもびくともしない。
ベロニカは大きく伸びをしながら、はーあ、と息を吐く。
「なんか平和だねー。航海が上手くいってるってのは良いけどさ、こう順調すぎてもちょっと不気味かも」
「ブキミ」
「そーそー。ティルにも分かる?」
「わからん!」
「だよねえ」
そう言うと思った。と呟き、ベロニカはティルの頭をわしわしと撫でた。近所の野良犬でも撫でるような手つきのそれをティルは目を細めて受け入れる。
そのまま髪をいじられ続けていたティルだったが、ふと視界の端に映った影を見てぱっと顔を上げた。つられてそちらを見たベロニカも小さな叫びを漏らし、それから顔をしかめて非難の声を上げる。
「もー、音立てずに近付いてくるのやめてって言ったじゃん!」
「すまない」
いつもとまったく変わらない無表情で言い、カゲチヨは手にしていた器とスプーンを二人に差し出す。受け取ってみれば、中に入っていたのは温かいスープだ。どうやらレイファの言いつけで昼食を運んできたらしい。ベロニカとティルが受け取って食べ始めれば、カゲチヨもそっと壁に寄りかかって自身の分のスープに口をつけ始めた。
口の周りを汚しながらがっつくティルを横目に、ベロニカが問う。
「船長どうしてた? 呑気にしてたでしょ」
カゲチヨは顔を上げ、咀嚼していた具材を呑み込んでから答えた。
「昼寝をしようとしていた」
「やっぱり」
ベロニカは呆れたように笑って肩を竦める。一時間ほど前に船長室に入っていくのを見て以来インディゴとは顔を合わせていないが、その様子だと部屋にこもってダラダラ過ごしていたのだろう。船長のくせに航海中にのんびり昼寝とは、緊張感のない事だ。
「でもまあ、今のうちに休んどくのがいいかもね。目的地に近付いたらゆっくりしてる暇も無いかもだし……」
「そこまで険しい場所なのか」
「んー……そうだね。島の周りの海流が複雑で岩礁が多いらしいのがちょっと危ないって感じ。あと海賊船もうろうろしてるみたいだけど、これは仕方ないよね。なにせあのトルトゥーガ島だし」
カゲチヨが僅かに視線を逸らし、トルトゥーガ、と小さく反芻する。それはこの船──ステラマリスが現在向かっている目的地の名だ。アーモロードからみて南西方向の海上に存在する島であり、大異変前のアーモロードの海図にも記されていた、歴史ある土地である。……と、聞かされてはいるが。
ふと顔を上げてカゲチヨの表情を見たベロニカはあれ、と首を傾げて目を瞬かせる。
「もしかして知らない? 海賊の間では有名な場所なんだけど」
「有名とは」
「あそこ、海賊の溜まり場だったの。たっくさんの海賊がその辺で入れ替わりたむろしてて、最盛期には食堂とか娼館もあったらしいよ。まあずっと前の話だから全部伝説みたいなものなんだけどね」
カゲチヨはふむと相槌を打った。港の管理人からは洞窟がどうこうとしか聞かされていなかったが、つまりトルトゥーガ島は海賊たちが共同体を作って生活していた島であるらしい。商業活動が行われていたならそれなりに開拓されて町のようなものも作られていた筈であるし、言うなれば海賊の楽園、といったところだろうか。
しかし事前に得た情報を参照する限り現在のトルトゥーガ島は無人島である。そうも賑わっていた島が、なぜ無人の孤島と化してしまったのか。
「さあ? でも確かに変だよね。近くに海賊船はいたけど、あいつらが島を拠点にしてるような雰囲気は無かったし」
「島にいられなくなった理由がある、か」
「かもしれない。……ま、大丈夫でしょ! ていうかそれを確かめるためにも上陸してみなきゃじゃん?」
快活に笑って言うベロニカに、カゲチヨは神妙な表情を浮かべる。それはそうかもしれないが、本当にそれで良いのか。どうもこの少女は迂闊というか、猪突猛進というか、攻めの姿勢が強すぎるきらいがある──と、そう思いはしたが、結局彼がそれを口に出す事はなかった。カゲチヨはそういう男である。そして、ベロニカもそういう少女であった。
二人の会話をよそに、スープをとっくに平らげていたティルは大きなあくびを漏らした。当然ながら彼はこれから向かう島の事など全く知らないし、特にこれといって興味も無い。ただ、そのナントカ島にはどんな動物(トモダチ)がいるのだろうなあ。とぼんやり考えるのみであった。
◆
ティルが思わずあくびを漏らしてしまうような退屈な航海は結局トルトゥーガ島の近くに辿り着くまで続いた。
今回は徘徊する海賊船を避けるためにアーモロードから南周りの航路で回り込むルートを取ったが、どうやらこれが大正解だったらしい。一行は海流や渦潮に巻き込まれる事もなく、至極順調に船を進めていた。まさに文字通りの順風満帆というやつである。
「……でもまあ、この船で近付けるのはここまでだな」
双眼鏡を覗いていたウィリーがそう呟く。隣に立っていたインディゴ──妙に気だるげな上に、髪に寝癖がついている。寝起きである──は船首の際から身を乗り出して海面を見下ろした。海底がかなり近い。
「いくら磁軸? とやらの力で帰れるとはいえ、こんなとこで座礁すんのは困るだろ」
「んな事は分かってる。しかし、ボートで上陸か……」
インディゴは不服そうな表情ではあ、と溜息を吐いた。地形の問題で大型の船舶が陸(おか)に近付けないというのは、どこの海でもありふれた事だ。そのため大抵の船は積み荷や人員を乗せ換えて陸へ向かうための小舟を積んでいるし、もちろんこの船もそうである。故に船がここまでしか進めないというのは大した問題ではない。今ここで問題になるのは、誰があの島に上陸するのかという事だ。
「ボートは何人乗れる?」
「誰が乗るかにもよる。五人はちと厳しいか」
「じゃあ最大四人だな。…………」
黙り込むインディゴの横顔を、ウィリーは煙草を噛みながらしばし見守る。頭上でカモメの鳴き声が響いている。辺りは見渡す限りの快晴だ。周囲にサエーナ鳥やらハンマーヘッドやらの魔物がいるような気配もない。ここでステラマリスを停泊させても問題は無いだろう。
インディゴが小さく唸り、髪を掻きながら言う。
「お前、弩出せるか」
「あ? ……あー、まあ」
「じゃあ乗れ。あとは俺とチヨと」
「私!」
前触れなく割り込んできた高い声にインディゴとウィリーは揃って顔をしかめる。振り返ってみればそこには既に星術機を装備したベロニカの姿があった。その表情はやけに楽しげで、紫苑の瞳は常の三割増しで輝いているように見える。どこからどう見てもついて来る気満々の少女に、ウィリーがあのなあ、と呆れた調子で告げる。
「何があるかも分からねえ無人島だぞ。お前が行ってどうすんだ」
「いいじゃん無人島。私も探検したい~! あのドクロっぽい石とか、なんかいい感じだし」
そう言ってベロニカが指さしたのは遠景でもよく目立つ、金色の石のように見える何かである。トルトゥーガ島のシンボルらしいそれが本当に「いい感じ」なのかはひとまず置いておいて、このままベロニカのわがままを聞いていいものか。ウィリーはちらりとインディゴへ視線を送った。インディゴはまだ眠気が抜けきっていなさそうな表情で、溜息混じりに呟く。
「まあいいか」
「良くはねえだろ」
「やったー! カゲチヨ呼んでくるねっ!」
ぴょんと跳ねて船室へ駆け戻っていくベロニカの背中を見送った男二人の間に何とも言えない空気が流れる。盛大にタバコの煙を吐き出すウィリーを横目に、インディゴも再び溜息を吐いた。そもそも今回の航海の目的は航路の開拓であって上陸はおまけのようなものでしかない。本格的に島の探索をするつもりは無いし、ベロニカもそれは重々承知している筈だ。軽く海岸沿いを歩かせて探検気分を味わわせてやればそれだけで満足するだろう。
やれやれと肩を竦めたウィリーがボートを下ろす準備に向かうのと入れ替わりに、カゲチヨを連れたベロニカが戻ってくる。状況が分かっていなさそうな彼に事の次第を伝えるため、インディゴも二人の方へと向かう。
無人島探検を前に目を輝かせていたベロニカは、島へ近付くにつれて徐々に静かになっていった。ボートが大きく揺れる。眉をひそめて海中を覗いたインディゴは舌打ちをひとつこぼして水面に手を伸ばす。水の中から力づくで引き抜いたのは、折れたオールの残骸だ。
「今度はボートが沈んでる。どうなってんだ、ここは……」
苦々しく呟いた彼の言葉に応える者はいない。
沖からでは気付けなかったが、トルトゥーガ島の周囲に広がる光景は異様としか言いようのないものだった。浅瀬に沈む船、船、船……大小さまざまな船舶の残骸が、至るところから顔を覗かせている。一隻や二隻ならば気にする必要も無かっただろうが、ここまでの数となると明らかに異常だ。
「他所で沈んだやつが海流で集まってきた……? いや、西側ならともかく、こっち側には……」
「船長、あれ見て」
ベロニカが水中を指さしながらインディゴを呼ぶ。促されるがままに見てみれば、透き通った海の底に沈んだ木材の向こう側に、白い何かが見える。……紛れもなく、人骨だ。朽ちたボートの中で複数人分の骨が重なり合うようにして横たわっている。
「あーあー、こんな所で死ぬなんて可哀想なこって……いや、やっぱり変だな。流されてきたならあんな綺麗には残らない」
「ボートでここを渡ってる最中に死んでそのままって事? ……なんで?」
「それが分からねえから困ってんだよ」
「おい、もう着くぞ」
黙々とオールを漕ぎ続けていたウィリーが言う。気付けば、遠くに見えていた筈の海岸はすぐそこまで迫っていた。
到着した砂浜にボートを引き上げ、四人はようやくトルトゥーガ島へ上陸する。早速奥へ歩いていこうとするベロニカの首根っこを慌てて掴んで引き留め、インディゴはカゲチヨへ向き直る。
「ちょっと様子見てきてくれ。できればあの岩の辺りまで」
「分かった」
ひとつ頷き、カゲチヨは林の向こうに見える黄金のドクロ岩を目指してまっすぐに歩いていく。その背中を見送りつつ、さて、と三人は視線を交わした。
「やっぱおかしいぞこの島。海鳥の一匹もいやしねえ」
「この辺にいないってだけじゃない?」
「どうだかな。けど何か不気味だぜ。さっさと戻りてえよ」
首筋をさすりながらぼやくウィリーにベロニカが不満げな視線を向ける。この期に及んで探検を続けるつもりとは、その積極性には恐れ入る。少なくとも今この場においてはまったく褒められた姿勢ではないが。
インディゴは静かにしゃがみ込み、足下の砂を掌で掬った。さらさらとした白い砂だ。中には貝殻や干からびた流木の欠片らしきものも混ざっている。ざらつく感触を払い落し、今度は海の方を見た。沖合にステラマリスが停泊しているのが見える。見える範囲にこれといった異常は見つからない、筈なのだが、妙な違和感が拭えないのは何故なのか。
それから少しの時間が流れた。カゲチヨは未だ戻ってきておらず、残された三人は延々と砂浜で待ちぼうけを食らい続けている。ドクロ岩まではそれなりに距離がある様子であるし、往き来に時間がかかっても当然の事ではあるが、それはそれとして早く帰ってきてもらわないと不安ばかりが募って仕方ない。
微妙な緊張感が漂い続ける中、ふと声を上げたのは心底つまらなそうに砂を蹴っていたベロニカだった。何だ何だと振り向いたインディゴとウィリーに向き直り、彼女は威勢よく告げる。
「トイレ!!」
「……ふーん。すればいいだろ、その辺で」
「はあ? 年頃の女子に何よその言いぐさ!」
そう言われても、ここは無人島である。便所などある筈もない。我関せずといった様子で煙草を吸い始めたウィリーに恨みがましい視線を送りつつ、インディゴは辺りを見回す。
「あー、じゃあそっちの岩陰でしてこいよ。隠れられるし丁度いいだろ」
「えー……まあいいや。絶対覗かないでよ」
普段より幾分か低い声で言い、ベロニカはずんずんとインディゴが示した先へと歩いていく。船の上では汚物など桶に溜めて海に捨てているというのに、陸に上がった途端に周囲を気にしだすというのは一体どういう事なのか。年頃の少女というのは本当に奇妙な生き物である。ウィリーが煙草の煙を宙に吹きかけながら言う。
「思春期ってやつだろ。そのうち洗濯物は別にしろとか言ってくるぞ」
「お前の加齢臭が嫌がられるのが先だろ」
「うるせえな……言っとくがテメエも臭う時は臭うからな」
「常時ヤニ臭えお前よかよっぽどマシだろうがよ」
舌打ちと共にそう吐き捨てたインディゴだったが、ふと何気なく視線を動かした瞬間、ある事に気付いて眉をひそめた。先程まで沖合にはっきりと見えていたステラマリスの姿が霞んで見える。船だけではない。遥か遠くの水平線も、抜けるような青空も白い雲も、全ての遠景が輪郭と色を失っている。
「……霧?」
思わずといったように漏らした呟きで、ようやくウィリーも異変に気付いた。傍らの弩に手をかけ、困惑した面持ちで周囲を警戒する。
二人が突然の出来事に困惑しているその間にも、周囲を覆う霧は徐々にその濃さを増していく。靄がかかりつつも見えていた筈のステラマリスの影が白に塗りつぶされてすっかり見えなくなった、その時だった。濃霧の中に突如黒い影が浮かび上がる。
呆気に取られて動けない二人の目の前に音もなく姿を現したそれは──怪しい光を纏った、一隻の船だった。
◇
用を足し、服を整えたベロニカはうーんと伸びをして改めて周囲に視線を巡らせる。彼女がインディゴに示されてやって来た岩陰はちょうど砂浜と磯の境であった。荒々しい岩々の隙間に静かな波が寄せては打ち返す様子をしばし眺め、踵を返してインディゴとウィリーの元へ戻ろうとしたベロニカだったが、寸前で足を止めて磯の向こうを振り返った。
じっと目を凝らし、岩の向こう側を見つめる。……少し離れた場所、岩肌が抉れてくぼんでいる地点に、船の残骸のようなものが見える。ベロニカは少し考え込み、うんと頷くと磯を渡ってそちらの方向へ向かってみる事にした。足を滑らせないよう気をつけつつ、星術機の浮力も借りて岩の上を渡っていく。
すぐ近くまで近づいてみて分かったのは、船の残骸が予想以上に大きかったという事だ。サイズ感としてはステラマリスと同じくらいだろうか。岩肌のくぼみも思っていたより深く洞窟と言って差し支えない規模であり、船はそこに船首を突っ込む形で朽ち果てているようだった。
さらに近付き、詳しく観察してみる。船は全体的に風化してはいるが破損そのものは少なく、船体そのものは丸ごと残っている。ただ再利用して航海に出る事は不可能だろう。何故なら船体の横っ腹に大きな穴があいているのだ。穴はちょうど人ひとりが通れる程度の大きさで、そこから覗いてみる限り船内もある程度形を留めたまま残っているようだ。ベロニカは船内を覗き込んだままうーんと唸り、一度ちらりと背後──元来た方向、ひいてはインディゴとウィリーがいる方向──を振り返り、それからもう一度船内を見て、それから満面の笑みを浮かべた。
「……ま、いっか!」
そう言って少女は意気揚々と船内へ乗り込んでいく。体重をかけても床板が抜けない事を繰り返し確かめ、よいしょ! と船内に踏み込んだ、その時だった。足下が大きく揺れる。思わぬ事態にベロニカは盛大にバランスを崩し、受け身を取る間もなく思いきりすっ転んだ。その間に揺れは収まり、船内には元の静寂が戻ってくる。
「痛てて……んもお、何……?」
ささくれた床板が頬に擦れて傷を作ったらしい。ヒリヒリとした熱に顔をしかめながら身を起こし、念のため星術機を起動させつつ辺りを見回す。乗り込んだ衝撃で船が崩れだしたのかと思ったが、揺れがすぐ収まったという事はその可能性は低いだろう。もしかすると魔物か動物が紛れ込んでいて暴れたのかもしれない。もしそうなら一人でいるのはまずい……思考を巡らせるにつれ、ベロニカの眉間にはますます皺が寄っていく。
先程までの浮かれた気分は完全に冷めた様子で立ち上がり、外に出ようと背後を振り向いたベロニカはしかし、目の前の光景に言葉を失った。
ほんの数十秒前に通ってきた大穴。外へ繋がる唯一の出口である筈のそれが、その場から影も形もなく消え失せていたのである。
◆
「は、……船、海賊船!? なんで──」
「馬鹿! んな訳あるか!!」
動揺するウィリーにインディゴが叫ぶ。
「浅瀬だぞ、こんな所まで入ってこれる筈ねえだろ!」
目の前に迫っているのは大型の船舶だ。それこそアーモロード近辺では見かけないような、黒い旗を掲げた海賊船と同じ程度のものである。比較的小型のステラマリスすら海岸までは近付けなかったのに、あの規模の船がこんなところまで入り込める筈がない。
船はじわじわと二人の元へ近付いてくる。中から乗組員が声をかけてくるような様子も無い。何かが……いや、何もかもがおかしい。弩に矢弾を装填しながらウィリーが声を荒げる。
「じゃあ何なんだよあの船は!?」
「今考えてんだ黙ってろ!!」
そう応えるインディゴだったが、残念なことに何かを考えられる余裕は今の彼には無かった。ガコン、と重い音。砲門が開いた、と反射的に気付けたのはそれが二人にとって馴染み深い音であったがゆえだ。
思考を挟む余地もなく咄嗟にその場に伏せた二人の頭上を、高熱を帯びた何かが恐ろしい速度で通りすぎていく。瞬間、背後から盛大な破壊音。次いで何かが焦げる臭い。汗が吹き出したのは髪を撫でる熱気のせいではない。インディゴが絞り出すように呟く。
「や……焼玉式焼夷弾……」
「嘘だろ!? 延焼するぞ!!」
焼玉式焼夷弾。砲丸を極限まで加熱して打ち出す、砲弾の一種である。その高熱で着弾した先にある物を発火させるため非常に高い破壊力を持つ兵器だが、船に搭載される事はほぼ無い。何故なら船は可燃物である。あんなものを撃ち出せば真っ先に燃えるのは自分たちだ。つまりあの船は、まともな船ではない。
愕然とする二人の目の前で、船体から突き出した砲門が僅かに角度を変える。はっと身を起こして駆け出した次の瞬間、またも砲撃が繰り出された。今度は焼玉式焼夷弾ではないようだがもはや砲弾の種類がどうこう言っている場合ではない。相手は確実にこちらを狙って砲撃している。とにかく逃げなければまずい。生身で砲弾など食らえば擦っただけでも即死しかねないし、焼夷弾による炎や煙にまかれてもそれとは逆にじわじわ死んでいく事になる。どちらも最悪である。
「っとにかく弾だけでも避けねえと……!」
今いる場所は完全に大砲の射程圏内だ。相手の正体や対処法について考える前に射程から出るか身を隠すかしなければならない。すぐさま踵を返し、海岸を離れて島の奥へ駆けだした。霧を突っ切るようにして鬱蒼とした林の中に踏み込み、先程の焼夷弾の痕跡を横目に走り抜ける。砲撃は飛んでこない。これ幸いと都合よく転がっていた大岩の影に隠れて船の様子を窺う。
船は沈黙したまま、黒い影となってその場に佇んでいる。白く霞む視界に目を凝らしながらウィリーが苦々しく言う。
「何なんだアイツ。どこの船だ」
「そもそも船か? この霧といい、何かおかしい」
「どっから船どう見ても船だろ。それともあれか? 船と見せかけて魔物とか」
「その可能性も……ん、今なんか……」
インディゴがそっと掌を宙に掲げる。すると雨粒らしき雫が一滴、ぽつりと空から落ちてきた。次いで肩や頭にも雫が落ちる感触が降り注ぐ。霧の次は雨か? と首を捻ったインディゴだったが、掌に広がった雫を指で拭った瞬間にその表情が強張る。同時にウィリーが悲鳴じみた声を上げた。
「おい! これ……油だ(・・)!!」
瞬間、轟音が響く。撃ち出された焼玉式焼夷弾は二人から離れた場所の地面を抉った。しかし砲弾の熱は着弾地点から周囲に伝播し──降り注いだ油を発火させる。
炎が広がるのは一瞬だった。霧を押し退けるように勢いよく燃え上がった火が、辺り一帯を赤く染め上げる。
◆
船内に自分以外の生物の気配は無い。いつでも星術を発動できるよう身構えつつ、ベロニカは古ぼけた通路を慎重に進んでいく。
外へ繋がる穴は比喩でも何でもなく、文字通りその場から綺麗さっぱり消えてしまっていた。木材が崩れて塞がれただとかそういう事ではない。そもそも穴など初めから無かったかのように、壁そのものが完全に元通りになっていたのである。
ベロニカは困惑しつつもすぐに次の行動に移った。不可思議な現象の原因が分からない以上、この場所に留まるのは良くない。外の状況を確認するためにもひとまず甲板に出るべきだ。とにかく先に船の周囲が安全である事を確かめ、その後で壁に穴でもあけて脱出すれば万事解決である。
甲板はもうすぐそこだ。ふうと息を吐いて梯子に手をかけ、ゆっくりと体重をかけて上っていく。暗い船内からようやく外へ出たと思ったのも束の間、ベロニカはすぐに異変に気付いた。白い霧が辺りを覆っていて、周囲の景色が見えなくなってしまっている。
「何よこれ……」
明らかな異常事態に思わず言葉を失ったベロニカの背後で、小さな物音がした。はっと振り返れば、船長室らしき部屋の戸がきいきいと音を立てて揺れているのが見える。ベロニカはしばし迷ってから、忍び足でそちらの方向へ向かった。逸る心臓の音を全身で感じながら戸の陰を覗き込む。
予想に反し、そこに何者かが隠れている事はなかった。室内は他の船室と同じようにがらんとしていて、古ぼけたベッドや机だけが重苦しく鎮座している。
何の気配もない空間を前にほっと息を吐いたベロニカは、ふと何かが床に落ちているのに気付く。開いたまま机の下に投げ出されたそれは一冊の本だった。何気なく手を伸ばし、紙の折れ目を直してから改めてページを捲る。内容を見るに、どうやら航海日誌のようだ。
『風馬ノ月 二十六日
航海は順調。これといった問題は無いが、食糧庫にネズミが入り込んでいやがった。掃除番は寝床であくびなんかしていやがる。文句をつけに行ったら「ニャーオ」だとよ。そんで怒られずに済むんだからヤツらは気楽で良いもんだ。…………』
◆
油の助けを借りて一気に燃え広がった炎はしかし、インディゴとウィリーの元へは届かなかった。より正確に言えば、彼らの周囲に漂う粒子が炎の勢いを殺していた。何が起こったのかと戸惑う二人の傍らに、するりと人影が躍り出る。
「無事か」
「おわっ……チヨ! 急に出てくんな!」
「すまない」
まったく悪いとは思っていなさそうな顔で謝るカゲチヨの片手には空の小瓶が握られている。その形状とラベルの文字には見覚えがあった。
「耐熱ミストか」
「炊事用の予備だ。だがこれで無くなった」
瓶を投げ捨て、カゲチヨは霧の向こうに視線をやる。どうやら彼はあの船を目にしていないらしい。ぼんやりと浮かぶ黒い影を見て僅かに眉をひそめ、問う。
「あれは何だ」
「船だよ。霧が出てきたのと同じタイミングで急に現れた」
「船。……この炎もあれが?」
「焼夷弾ぶっ放してきたんだよ。ビビったぜ」
カゲチヨは神妙に二人の顔を見比べる。何を言っているんだ、とでも言いたげな表情だが嘘は言っていないし、何ならインディゴもウィリーもこの状況が何なのかまったく分かっていないのだ。これ以上は説明しようが無い。
納得いっていない様子でカゲチヨがもう一度口を開こうとしたその時、またも轟音が辺りに響く。一瞬身構えたがいくら待っても砲弾がこちらへ飛んでくるような様子は無い。どうやらこちらを直接狙うのを止め、辺り一帯を巻き込む形で手当たり次第に砲撃を始めたようだ。インディゴが耳を塞ぎながら声を張り上げる。
「これだよ、これ! 食らったら死ぬから隠れてるんだよ!!」
半ば投げやりな言葉にカゲチヨは口の動きだけで成程、と応える。納得しているかどうかは置いておいて、ひとまず状況を受け入れたようだ。三人は岩陰に身を寄せ合うと話し合いを始める。
「で、どうすんだこれから」
「どうもこうもねえだろ。生身で戦艦に太刀打ちできるかよ」
「ボートまで逃げ……られねえよなあ。ていうかベロニカはどこ行ったんだ」
「そうだあいつトイレ行ったきりだ。チヨ、見たか?」
「見ていない」
「まあアイツも馬鹿じゃねえ。どっか隠れてんだろ。それよりオレらの方がまずいんじゃねえの」
それは本当にそうである。生木が燃える嫌な臭いに顔をしかめながらインディゴがひとつ頷く。
「とにかくこのまま逃げ続けても埒が空かねえ。反撃に出る」
「今さっき太刀打ちできねえっつったろ」
「別に戦うつもりじゃねえよ。正体不明とはいえ相手は船だ。土手っ腹に穴でも作れば砲撃どころじゃなくなるだろ」
そう言ってインディゴは荷物から取り出した物をカゲチヨに渡す。受け取った品を見たカゲチヨは得心いったようにそれをポーチにしまった。
さてと、と重い溜息を吐き、ゆっくりと立ち上がってインディゴはぼやく。
「ベロニカがいりゃもっと楽だったんだけどなあ。ほんと何やってんだ、あいつ……」
◆
『金羊ノ月 三日
あんな所に海流なんて無かった筈だ。どうしてこんな事になってる? ここは一体どこだ。南海のどっかだって事は分かる。早く航路に戻らないとまずい。最低限の食糧だけ積めば十分だって言ったのは誰だ? 野郎、後で×××に×××を突っ込んで、…………』
◆
一面の霧の中、船は静かに揺れている。本来ならば座礁どころか砂浜に乗り上げているような場所に位置していながら、その姿はまるで大海原に浮かんでいるかのような様相であった。船内の様子は窺えない。少なくとも甲板には人の姿はひとつも無く、誰かが動いたり喋ったりしている気配も見られない。
どこへも行かず、誰に動かされる訳でもなく。船はただ、砲門を向ける先を探している。隠れたネズミが尾を出すのを待っている。
その時だった。林の中から飛来した矢弾が船体に突き刺さる。一拍置いて炸裂したファイアバラージはしかし、木材の表面を焼いた程度でそれ以上燃え広がる事はなかった。
「当たったか!?」
林の中で弩を構えたウィリーが霧の向こうに目を凝らす。着弾を確認するより先に、インディゴが彼の襟を引く。
「当たった事にしとけ! 逃げるぞ!!」
「ちょっと待てよ重いんだよこっちは!」
弩を抱え直し、慌ててその場を離れた瞬間、背後で盛大な音が鳴る。今度は焼夷弾ではないようだが、だからといって安心安全である筈もない。衝撃で飛び散った木片や小石の感触を背中に感じつつ駆け抜け、崖から突き出た岩陰に身を隠す。
砲撃は続いている。あまりの轟音に脳が揺さぶられているような錯覚を覚えながら、ウィリーは再び矢弾を装填する。
「やっぱこっちを狙ってきてんな。何なんだ本当……」
「何だろうと大人しく殺されてやれるかって話だ。切り抜けるぞ」
「船長サマの仰せのままに、っと」
もう一度、霞んだ視界の先へ狙いをつける。残弾は少ない。もはや戦略とすら呼べない一か八かの手だが、何にせよやらなければ死ぬだけであるし、こんなところで死ぬ訳にはいかないのだ。
◆
『金羊ノ月 七日
食糧が尽きた。魚を釣って食えばいいなんて言ってたヤツもいたが、針には何もかからない。食糧庫のネズミを食ったヤツはさんざんゲロを吐いたきり動かなくなった。掃除番はマズかった。航路はまだ見つからない。…………』
◆
弩は機動力と引き換えに高い威力の一撃を繰り出す事のできる武器だが、いくら破壊力があっても戦艦級の船舶を相手にして勝てる訳がない。そんな事はインディゴたちも重々承知の上だ。つまりウィリーの狙撃は相手を損傷させるためのものではない。彼らの目的はただひとつ、陽動である。
絶え間ない砲撃が続く中、カゲチヨはひとり別行動を取っていた。気配を殺して霧の中を進み、やって来たのはあの船のほぼ真下である。
轟音と共に揺れる船体を見上げながらカゲチヨはそっと海の中に足を進める。目的を達成できる位置まで接近するには船底部付近まで泳いでいくしかない。
水を掻き分けて船へ近付いていくカゲチヨだったが、ふと水中に漂う何かを発見して動きを止めた。透き通った海の中で異様な存在感を放つその物体は水中に設置して用いる爆発物……つまり機雷であったが、海上戦で使用される兵器に明るくないカゲチヨにはそれが分からなかった。しかし彼はシノビである。戦場に転がっている正体不明な物体に迂闊に触れるようなヘマはしない。
カゲチヨはしばし考え込み、静かに潜水すると極力波を立てないように泳ぎ始めた。襟巻を尾びれのように漂わせながら彼はするすると水中を進んでいく。船まではまだ少し遠い。
◆
『ダビーが死んだ。こっそり捌こうとしたらジェイソンのヤツが横取りしようとしてきやがったからナイフで刺した。だけどいくら食っても喉が渇いて、渇いて、…………』
◆
「ぎゃー! 無理だ無理無理死ぬ!!」
「うるせえ!! 死ぬなら黙って死んどけ!」
いよいよ余裕が無くなって喚くばかりのウィリーを一喝したはいいが、正直なところインディゴも内心ではかなり焦っていた。というのも、先程は降り始めの小雨程度の量だったあの油が今度はかなりの量降り注いできたのである。具体的に言うと頭と肩から腕にかけてが油分でベタベタになる程度の量だ。この状態で炎にまかれれば確実に死ぬ。
幸い、距離を取って大きく移動したために船はこちらの居場所を見失っているようだった。だが度重なる砲撃のせいで周囲には点々と小さな火種が燻っているし、いつ飛んできた火の粉が肩にくっついて燃え広がるかも分からない。つまり絶体絶命である。
「く、くそ……まだかチヨーっ! 頼むから早く!」
「ええいやけくそだ! もっかい撃つぞ!」
弩を構え直し、ウィリーは狙いをつけるのもそこそこに引き金に指をかける。しかし相変わらず霧が濃いせいで命中したのかどうかまったく分からない。
舌打ちをこぼして再度矢弾をつがえ直すウィリーをインディゴが小さく制す。何だ何だと振り返ってみれば、彼は真剣な表情で霧の向こうをじっと睨んでいた。
「砲撃が止んだ」
「え?」
言われてみれば、先程から定期的に響き続けていた筈の砲音が聞こえなくなっている。訝しげに首を傾げたウィリーにインディゴが鋭く問う。
「何ぶち込んだ?」
「アイスバラージだ。どうせなら弾使い切っとこうと思って」
インディゴは数秒だけ深く考え込み、改めてウィリーに向き直ると力強く言い切る。
「同じの叩き込め。勘違いだったとしてもまあそれはそれで仕方ねえ。死の運命を受け入れるぞ」
「そこは嘘でも前向きなセリフ言えよ……」
あんまりな言い種にげんなりとした表情を浮かべつつ、ウィリーは改めてアイスバラージを装填し直す。右も左も分からない霧中で形だけの狙いをつけ、彼はもう一度引き金をひいた。
◆
『トルトゥーガが見えた。陸へ帰れる!…………』
◆
機雷を避けて水中を進んでいったカゲチヨが船の元に辿り着いたのは、泳ぎ始めてから数分後の事だった。
慎重に行ったせいで少し時間がかかりすぎてしまった。二人は無事だろうか……と考えつつ、彼はポーチを腰から外すと中にしまいこんでいたある物を取り出す。掌大の短冊のように見えるそれは水仙人掌という植物から作られる護符で、一般的に起動符と呼ばれる道具だ。中でも彼が今手にしているのは氷の術式が刻まれたものである。符が破損していない事を確認したカゲチヨは、反対側のポーチから棒手裏剣を取り出すとその柄尻に手早く起動符を括りつけていく。
合計三本の起動符つき手裏剣を完成させ、船体の上方に向かって狙いを定めたその瞬間、突然船が大きく鳴動した。激しく上下する波に浚われないよう船底にしがみつくが、いくら待っても揺れが収まる様子は無い。
実のところその揺れの原因はウィリーのアイスバラージが船の船首に命中した事にあり、更に追撃の矢弾が放たれたために余計に船を暴れさせる──無機物が傷を負って暴れる筈がないのだが、そうとしか形容できない──事になっていたのだが、そんな事情をカゲチヨが知る由もない。
彼は揺れのせいで水面と海中を浮き沈みいったり来たりしながら、それでも手裏剣を構えた。一拍置き、連続して三本、一呼吸のうちに投擲する。鋭い切っ先が寸分の狂いなく目標地点に突き刺さった瞬間、起動符が淡い光を放つ。
刹那、出現した氷柱が船体を破壊する。悲鳴じみた軋みを上げた船がバランスを欠いて大きく傾ぐのを見届ける前に、カゲチヨは素早く海へ潜ってその場を離れた。
◆
『死にたくない。
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死
「ああーっもう! うるさいなあ! もう死んでるんだから黙って大人しくしててよ!!」
◆
耳をつんざく、悲鳴のような音が聞こえてきた。瞬間、周囲を覆っていた霧が嘘のように晴れる。
「うわっ、何だ……!?」
「見ろ! あれ!」
ウィリーが慌てて指差した方向に目をやり、インディゴはぎょっとした。例の船がみるみるうちに自壊していく。それは物理的に破壊されたというよりはまるで、長い時間をかけて風化し腐り落ちていく様子を何倍もの速さで見ているかのような、そんな光景だった。
二人が言葉を失っている内に船はすっかり元の形を失い、無惨な残骸となって浅瀬に沈んだ。しばし呆然としていたインディゴは、はっとある事に気付くとそちらへ向かって駆け出す。
「ベロニカ!」
「は? え……ちょい待てよ!」
ドタドタと追いかけてくるウィリーは置き去りに、インディゴは水を跳ね上げながら船の残骸の元へ辿り着く。折れ朽ちたマストを伝って甲板だった場所を覗き込めば、ベロニカは目を白黒させつつそこに立っていた。その手には古ぼけた冊子と、そこから破り取ったらしいページが握られている。
「……あれ、船長どうしたの? ……わっ何これ、ボロボロじゃん!」
「どうしたはこっちの台詞だ馬鹿!」
「なっ何よ、急に怒鳴らなくてもいいでしょ!」
ぎゃあぎゃあとまったく実にならない応酬を始める二人の元に、ウィリーが遅れて到着する。未だ状況が呑み込めず困惑した様子の彼は、ひとまずインディゴとベロニカの間に割って入りつつ周囲を見渡す。
「どうなってんだ、こりゃ。アイツはいなくなったのか」
「ああ? あー……そうなんじゃねえの、多分」
「え、私がいない間なんかあったの?」
目を瞬かせるベロニカを前に、男二人は困り顔で視線を交わす。何かあったのかと言われればそれは確かにあったが、あれは一体何だったのか。
何とも言えない空気で沈黙する三人の元に、ふと水を掻き分ける音が届く。振り返って見てみればそこには全身水浸しのカゲチヨが立っていた。
「チヨ。上手くいった……のか?」
「分からない。お前の言った通りにしたらいつの間にか船が消えていた」
「ますます意味不明だな……」
カゲチヨの頭巾から垂れ下がる海藻を除けてやりつつインディゴは呻く。ただ状況がまったく分からないとはいえ危機は去ったようであるし、ひとまずこれで一件落着と言って良いだろう。多分。
びしょ濡れのカゲチヨのために起こした焚火にあたりながら、ベロニカは一人でいた時の状況を順番に語った。一人で船に乗り込んだ事についてはインディゴとウィリーが馬鹿だの考えなしだの猪娘だのと野次を入れてきたが、それら全てをを後にして! と一喝して振り切り、彼女は話を進める。
「で、その日誌を読んでたんだけど、最後の方に行くにつれて何か……周りが変な感じになって」
「変な感じ?」
「そう。船が揺れて、波の音がして……航海中みたいな感じになったの」
火にあてていたカゲチヨの頭巾を反転させて反対側を乾かしながら、それでね、とベロニカは続ける。
「最後のページを開いたら、何もしてないのに急にすごい勢いで文字が浮き出てきて。怖かったんだけどなんか怖すぎて腹立ってきちゃって、ページを破いちゃったんだよね。そしたら急に足下がぐにゃ~ってなって、気付いたらあそこに立ってたの」
「その文字ってのは?」
「『死にたくない』って」
ウィリーが顔をしかめて黙り込んだ。インディゴはあー……と頭を掻き、困惑が抜けきらない声色で言う。
「つまりお前が勝手に、能天気に、信じられないくらい考えなしに乗り込んだのは遭難して全滅した船の残骸で、そこで怪奇現象が起こった、と」
「だからもう良いじゃない無事だったんだから!」
「……で、俺たちを襲った船が消えたら、そこにその船の残骸が現れた。つまり……つまり何だ?」
当然、答えられる者はいない。焚火の中で薪が弾ける音ばかりが辺りに響く中、ふとカゲチヨが口を開いた。
「関係があるかは分からないが、例の洞窟の中で気になる物を見つけた」
「気になる物?」
「壁に文章が刻まれていた。知らない単語が多くて読み取れなかったが、かつてこの島にいた海賊が残した物のようだった」
「へえ……洞窟まではどう行く?」
カゲチヨが答えた道順を反芻しつつふんふんと頷き、インディゴは腰を上げる。
「じゃあ見に行くか。おい眼鏡、お前もついてこい」
「へいへい」
「えー、行っちゃうの?」
「こっちは油浴びてんだよ。火の近くにいるのはまずいだろ」
何かあったら合図しろよ~と言い残して島の奥へ向かっていく二人を見送り、ベロニカはじっとり湿ったままのカゲチヨに向き直った。ポーチの中身を検分する彼に向かって言う。
「でもちょっと不思議なんだよね。日誌見た限りだと最後まで生きてた人も餓死したと思うんだけど、船に死体は残ってなかったし」
「骨も無かったのか」
「うん。穴から落ちちゃったのかなとも思ったけど、日誌は船長室にあったし。そこから餓死寸前の人が下の船室まで移動できるかなって考えると……」
うーん……と腕を組んで考え込むベロニカをカゲチヨは横目に見つめる。しばし沈黙したまま襟巻やブーツの乾き具合を確かめていた彼だったが、ふと顔を上げると何かを思い出したように話し始める。
「昔、夜に戦場跡を通りかかった時、鎧を着た人影が歩いているのを見た事がある。落武者……敗残兵かと思ったが、よく見たら首から上が無かった」
「……え、おばけの話?」
「そういう事も、世の中にはしばしばある」
平然と言い切ったカゲチヨをベロニカは意外そうに見つめた。そのまま何事か言い返そうとした彼女はしかし、結局何も言わずにただ溜息を吐いた。確かにそういう事もあるのかもしれないが、だからといって実際に目の前に出てこられても困る。
「死んだなら死んだで私たちに迷惑かけるなって話だよね。まあ、ああやって沈んだ訳だし、今頃はもう監獄に送られてるでしょ」
「監獄?」
「沈没した船や海で死んだ船乗りはみんな海の底の監獄に送られるって話があるの。船乗り版の地獄って感じかな」
「死んだ上に監獄送りか」
「……そう考えると確かに、ちょっと気の毒な話かもね」
少女の言葉にカゲチヨも頷き返す。
インディゴとウィリーはまだ帰ってこないようだ。少し勢いの弱くなった焚火に小枝を放り込み、二人は何をするでもなく静かな時間を過ごす。
◆
どうやらベロニカの「気の毒な話」という総評はあながち的外れではなかったようである。
トルトゥーガ島を離れてステラマリスに戻ったインディゴは、出航準備の指揮もそこそこに船長室で机に向かっていた。島についての調査報告を書くためである。
とはいえ本格的な上陸調査は今後インバーの港の主導を受けた海兵たちが行う筈であるし、そこまで詳細な報告書を作る必要は無い。周辺海域の様子、確認できた範囲の地理などを軽く書き連ねたところで、インディゴは一度ペンを止めた。少しのあいだ考え込み、ひとつ息を吐くと再び手を動かし始める。書き記すのは、例の船との遭遇についてだ。
ノックの音が響く。扉を上げて入ってきたレイファの手にはもくもくと湯気を上げるカップが握られている。
「はい、コーヒー。うまいこと書けそう?」
「まあな。内容の信憑性はともかく」
「……本当に遭ったの? 「幽霊船」なんて……」
「むしろ夢だったら良かったんだけどな。見ろよこの臭えシャツ」
インディゴが溜息混じりにつまみ上げた油まみれのシャツを見て、レイファの表情がにわかに険しくなった。さっとシャツを奪い取って油汚れを確かめ始める彼女に肩を竦め、インディゴは書きかけの報告書に向き直る。
「黙っとこうと思ってたんだが、まあ恐らく書いといた方が後々の調査に役立つんだろうな……」
「……どういう事?」
「島の海賊が残した文章に書いてあった」
カゲチヨの言葉通りにドクロ岩の洞窟へ向かったインディゴとウィリーが見たのは、内部の岩壁に残されたメッセージだった。数十年前の日付が記されたその文章はトルトゥーガ島の最後の住民によって書かれたらしく、今後島を訪れるであろう者たちへ向けたものであるようだった。
メッセージの内容は大まかに以下の通りだ。「自分たちはもうこの島を離れる。数年前まで海賊たちで賑わっていたこの島も今はすっかり寂れてしまった。もしこれを読んでいる者がいるなら、残された設備は好きに使うと良い。」それから付け加えるようにもう一文。「霧と船には気をつけろ、全て奴のせいだ」。
「……トルトゥーガから人がいなくなったのは、幽霊船のせいだったって事!?」
「本当の事なんて俺に分かるかよ。とにかく実際にそう書き残してある訳だし、報告しといて悪い事はねえだろ……多分……」
そう言いつつも徐々に自信を失っていくインディゴにレイファも複雑そうな顔を向けた。不可思議な船に襲われたなど、仲間ですら信じがたいというのに港の連中が信じてくれるだろうか。
「まあ、頑張れ。あとこのシャツはもう捨てるよ。使えるとこだけ切ってハンカチにするからね」
「はいよ。……もっかい聞くけど、お前らからは霧も船も見えなかったんだな?」
「うん。ずっと晴れてたし、船なんていなかった」
「そうか……はー、どうすっかなあ……」
いよいよ頭を抱えるインディゴに苦笑を漏らしつつ、レイファは船長室を出ていく。扉が開いた一瞬だけ甲板から漏れ聞こえてくる声が騒がしさを増し、そして再び元に戻る。
インディゴはひとつ伸びをして背もたれに体を預けた。尻の下から椅子の脚が軋む音がする。色々な事がありすぎてまだ混乱しているところはあるが、文字にしてまとめ始めた事でようやく少し落ち着いてきた。
しかしまあ、よくよく考えてみるとなんとまあ気の毒な話だ。運悪く遭難した船が運悪く飢餓に見舞われ運悪く陸を直前にして全滅し、その怨念のせいで無関係の海賊たちが拠点を失って散り散りになった。そして数十年の時を経てこうして自分たちが襲われる羽目になったのだからとんでもなく大掛かりな負の連鎖である。
しかし気の毒ではあるが、だからといってその存在と所業を認められるかと言われれば断じて否だ。死人は海の底で沈黙し続けているべきである。そのための「監獄」だ──などと言えるのも、所詮自分たちにとって彼らの死が他人事でしかないからかもしれないが。
だが、それで良い。航海日誌に遺された「死にたくない」の一言を他人事として割り切れる者だけが、船に乗り続けていられる。海とはそういう場所だ。
もう一度盛大な溜息を吐き、インディゴは再びペンを手に取る。どれだけ感傷に浸ろうが全ては過去の出来事だ。今となってはもう、名も知らない哀れな船乗りの魂が、海の底で獄長とよろしくやれている事を祈るばかりである。
「デイヴィ・ジョーンズによろしく」 完
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