暗夜光・後

「……祭り?」

 ネオンの問いかけにフェルはひとつ頷いた。

「そう、建国記念日が近いからね」

「建国記念日を祝ってお祭りをするの?」

「うん。記念日と、その三日前から。大通りなんかは夜通しずっと大騒ぎだよ。国王陛下のパレードもあるしね」

「へえ……」

「今年は特に盛大にやるみたいなんだ。去年までは戦争でそんな状況じゃなかったから」

 建国記念日に行われる祭りはこの街の名物のひとつだ。ここ数年は隣国との戦争で中止せざるを得ない状況になっていたが、戦争が終わり国の状態も落ち着いてきた今年から再開する事になったのである。

「……まあ、俺はこの仕事があるから参加しないんだけど」

「!お祭りの日も来てくれるの?」

「え……うん」

「フェルも休んじゃうのかと思ってた」

 ほっとした風に言う彼女の言葉にフェルは視線を泳がせた。実のところ、一度は休もうかとも思ったのだ。実際につい先日鍵を返しに行った際、別に休みを取っても構わない、と初日に出会った女性に言われたばかりだ。フェルがそれを固辞したのは、ひとえにネオンに会いたいがためで。

「その……騎士に休みはないからね。兄さん達も四日間ずっと警備に出るみたいだし……」

「騎士って大変なのね」

「うん……」

 小さな意地のために嘘をついてしまった事にフェルが少々落ち込んでいるのには気付かず、ネオンはどこかそわそわした様子で続けて問いかけてくる。

「お祭りってどんな事をするの?パレードの他には?」

「大通りにいろんな屋台が出るかな。食べ物とか、手作りの小物とか。あとは大道芸や歌を披露してたり。騎士団の音楽隊の演奏もあるよ」

「都会のお祭りってすごいのね。わたしの里で祭りって言ったら、変な祭壇を拝んだり、ちょっと豪華なご飯が出るくらいだったわ」

 つまらないわよね、と肩を竦める彼女にフェルも苦笑する。他にもネオンは熱心に訊ねた。どんな食べ物があるのか、一番美味しかったものは何か、祭りでいちばん楽しかった思い出はどんなものか。ひとつひとつ丁寧に答えれば、その度にネオンは顔を輝かせた。

「きっと楽しいんでしょうね」

 暗くなった窓の外を眺めて彼女は呟く。遠くに見える街の灯りを見つめるその眼差しにフェルははっとした。どれだけ祭りの事を話して聞かせようが、彼女がそれを体験する事はできない。

「……ネオン」

「また謝ろうとしたでしょ」

 思わず名を呼んだフェルを振り向いたネオンの表情に陰りはない。しかしその瞳に僅かに憂いの色が見えたような気がして、フェルは目を伏せた。ネオンは微笑み、彼に告げる。

「もっと楽しい話を聞かせて。わたし、それだけで十分だから」


 ネオンを連れ出す事は可能か?と訊かれれば、フェルは悩んだ末にNOと答えるだろう。何らかの方法で鉄格子を開け、塔の外に連れていく事自体は不可能ではない。問題はその後だ。施設内には当然フェル以外にも警備の任務に就いている騎士がいる。万が一見付かればフェルはただでは済まないだろうし、ネオンだってどうなってしまうか分からない。

 どうにもできないのだ。もしもフェルに剣の腕や賢い頭や、自分の持っているすべてを投げ出してしまえるだけの勇気があったなら別だっただろうが、残念な事にフェルは凡庸な青年だった。突き抜けた才能も意志もない、恋に狂う事すらできない、ただの人間だった。

 暗い部屋の中、ランタンの光を頼りに異国の小説のページを捲っては読み解いていく。任務四日目に購入して訳し始めたこの物語も、もう終盤に差し掛かっている。嫌われ者の王子は、悪しき父王の奸計により幽閉された姫君を救うため単身王城へと潜り込む。古びた一振りの剣を手に、これまでの旅の記憶と姫への想いを胸に。王子は自分の信じる道を真っ直ぐに駆けていく。

 ふと手を止めて立ち上がり、フェルは物音を立てないようにしてそっとカーテンの向こうを覗き込む。月明かりさえ射し込まない暗い牢獄の中、ネオンはベッドに横たわって微かな寝息を立てている。布団の端から覗く首筋がほんのりと淡く光を帯びているのが見えた。フェルは唇を噛み、机の上に置いた本に目をやる。

 あの物語のようであったらどんなに良かったか。彼女は囚われの姫君で、自分は勇敢な王子であったなら。きっと物語の最後には王子は愛しの人を救い出し、二人は自由になって結ばれるのだろう。自分達もそうであったなら。

 ……細く、細く息を吐き、フェルはカーテンを閉じた。これ以上考えても辛くなるだけだ。現実は物語とは違うのだから。

 椅子に腰かけ、机に倒れ込むように突っ伏す。きっと自分は何もできないまま任期を終え、ネオンとは二度と会えなくなる。仕方のないことだ。それがあるべき形なのだ。そう言い聞かせようとしたが、割りきれない想いは水滴に変わってみるみるうちに両の目から滲みだす。フェルは声を殺して泣いた。なりふり構わず飛び出す勇気も無いくせに、一丁前に悔し涙など流す自分が何より情けなかった。


   ◆


 祭りを直前に控えた大通りは既に大きな賑わいを見せていた。気の早い商人達は既に屋台の準備を終えて商売を始めており、道行く人々に熱気のこもった呼び込みをかけている。

 フェルはいつものように塔へ持ち込む食糧を買い込んで寮へ戻る途中であった。足取りは重い。祭りが近付いて段々と熱に浮かされたようになっていく街の空気と反比例するようにして、彼の気分は落ち込んでいっていた。

 街角で談笑する婦人達も、客寄せに必死な商人も、すぐ傍を駆け抜けていった子供達も、塔に閉じ込められて孤独に過ごすネオンの存在など知らずにのうのうと暮らしている。八つ当たりでしかないのは分かっている。それでも街の楽しげな雰囲気に包まれていると、フェルの胸には黒く淀んだものが溜まっていくのだ。

 早く戻ろう、と歩くペースを上げようとしたところで、ふと彼は足を止めた。視線の先にあるのは一足早く並んだ屋台である。吸い寄せられるように近付き、並んだ商品の中からあるものをつまみ上げる。それは小さなヘアピンだった。花の形に加工された橙色の石で飾られたそれを目にした瞬間、何故か脳裏にネオンの姿が過ったのである。

 あの夜、髪を編んではしゃいでいたネオンの笑顔に、手元のヘアピンを重ね合わせる。……似合う、だろうか。女の子のファッションの事はひとつも分からないが、もしもネオンに贈るなら、これがいちばん良いような気がする。

「お兄さん、それが気になるのかい?……ああ、もしかして……彼女へのプレゼントか!」

 他の客との会話を終えた店主がそう言って笑いかけてくる。フェルは思わず肩を強ばらせた。ええと、と口ごもる彼の様子を見て店主は益々笑みを深める。

「若いってのは良いねえ!ま、女も恋も若いうちが華だ。贈りたいって思った物があったんならその気持ちが無くならない内に贈っといた方がいい。オレも昔はカミさんに……っと、この話は余計だったな」

「はあ……」

「買うんならまけとくよ。どうする?」

 フェルはヘアピンと店主の笑顔とを見比べて暫し考え込んだ後、ひとつ頷いて小銭入れを取り出した。

 毎度~!という明るい声を背中に受けて再び歩き出したフェルは、買ったばかりのヘアピンを改めてまじまじと見る。女の子に渡す小物を買うなんて初めての経験だ。そう思うと無性にこそばゆい気分になってきた。落とさないよう、ヘアピンを大事に包んでしまって彼は帰り道を急ぐ。その足取りは先程より幾分か軽かった。

 準備を終えて塔の最上階へ着いたのはちょうどいつもと同じ時間の事だった。慣れた手つきで鍵を開け、部屋の中へと入る。

「ネオン、こんばんは」

 ……返事が無い。

 フェルは荷物を放り出し、すぐさまカーテンを引っ掴んで向こう側を見た。ネオンの姿はベッドの上にあった。ぐったりと、身を投げ出すようにして横たわる彼女は緩慢な動作で顔をこちらに向けるとか細い声で彼を呼ぶ。

「フェル、……」

 その顔色はいつものそれよりも格段に悪い。フェルは血の気が引く思いがした。かじりつくように鉄格子を掴み、声をかける。

「ネオン?……どうしたの、一体何が!」

「なんでもないの……平気よ、いつもと同じ……」

 いつもと同じ・・・・・・?

 何がだ?あんなに辛そうにしているのに、それがいつもの事だと?フェルは牢獄の出入口に手をかけて思い切り揺らした。しかし、どれだけ押しても引いても手つきではびくともしない。当然だ、鍵がかかっているのだから。……いや、待て、鍵?

 身を翻し、いつも座っている小さな机へと飛び付くように駆け寄る。手を伸ばしたのは天板の下、奥の方に備え付けられた小さな引き出しだ。ごく浅いそれを乱雑に引き開け、中にあったそれを手に取る──赤い紐が結いつけられた、黒い鍵を。

 戻ってきたフェルの手に握られたそれを見て、ネオンは目を見開いた。動かない体を無理矢理起こし、彼女は首を振る。

「だめ、フェル……それは……」

 フェルに彼女の言葉を聞き入れる余裕は無かった。震える手で鍵を鍵穴に差し込み、ゆっくりと回す。がちゃり、と、確かな手応えがあった。鍵を引き抜く事すら忘れて鉄格子を押せば、金属が擦れる重い音と共に入口が開く。ネオンの顔がぐっと歪む。

 フェルは牢獄の内側へ足を踏み入れると、急いでベッドの傍へ駆け寄る。彼女の表情の変化には気付かないまま。

「ネオン!」

「──、……フェル……」

 ネオンは目を伏せ、それから傍らに膝をついたフェルへと縋りつくように手を伸ばした。フェルは迷わずその手を取る。氷のように冷えきった指先を両手で包んで暖めてやりながら、彼は憔悴しきった表情で問う。

「何があったの?急に、こんな……」

「…………」

 ネオンは暫し黙り込む。迷うように何度か口を開いたり閉じたりを繰り返した後、静かに応えた。

「……前に……言ったでしょう。街の灯りはわたし達の血でできてる、って。あれ、本当は少しだけ違うの」

 苦しげな溜息をひとつこぼし、彼女は淡々と語る。

「確かにわたし達の体液は光るけど、その光は数日もたずに消えてしまう。街灯の光源は中に入ってる錬金炉アタノールよ……わたしの血が使われてるのはそっち。……錬金術は便利だけど、触媒が必要でしょう」

 嫌な予感を感じながらフェルは頷く。この国では光、熱、冷気……生活に役立つありとあらゆる道具が錬金術を動力源としているが、それらの道具に共通するのが『触媒』が無ければ稼働しないという点だ。錬金術を用いる度に触媒は消費され、使い続けていればいつかは磨耗して使用できなくなってしまう。

「触媒にはコストがかかる……だからこの国の研究者も触媒を長持ちさせる方法を必死で探してたの。……誰が最初に見つけたのかしらね。『光るハイランダー』の体に含まれる発光成分に、そんな作用があるなんて」

 目眩がするような心地だった。そして何もかも納得がいった。ネオンがこの研究施設に閉じ込められている理由──それは被験者だからなどという生易しいものではない。彼女は材料だ。研究資材を生み出すための存在として、この塔に幽閉されているのだ。

 一体どれだけの量の血を抜かれたのか。一向に暖まらない指をフェルは強く握る。ネオンはちょっと痛いわ、と呟いて少しだけ笑った。

「フェル……フェル、聞いてくれる?」

「……なに?」

「ごめんなさい、あなたを傷付けてしまうかも。でも……今、どうしても話しておきたいの」

 フェルが頷けば、ネオンは微笑んで彼の手を握り返す。

 気付けば窓の外はすっかり暗くなっていた。ぼんやりとした暗闇に満たされた部屋の中、ネオンの体が、瞳が、淡い光を灯している。

「変でしょう。この塔にいるのはわたし一人、他の『光るハイランダー』は誰もいない」

「……『先に死んでしまった仲間』……君はそう言ってたね」

「そうだった?フェルは記憶力がいいのね。……そう。みんな死んでしまったの。全員いなくなるまで二年もかからなかった」

 そう言いながらネオンはどこか遠い目をしていた。その目に映るのは今は亡き仲間の姿か、それとも別の何かか。フェルは何も応えない。貴族の子息として安穏と暮らしてきた彼には、壮絶な経験をしてきた彼女に対してかけるべき言葉が分からない。ネオンは尚も続ける。

「ほんの数年で貴重な素材をそんなにたくさん潰すなんて、非効率的でしょう。たくさん殺されたって事は、それだけ多くの体液が必要だったって事。彼らには理由があったの」

 何だと思う?と問いかけながらフェルを見上げるその目には、何とも知れない感情が渦巻いている。フェルが答えられずにいると、彼女は困ったように唇を歪めた。

「わたし達が捕まったのは、戦争が始まって少し経った頃」

 渇いて張り付いた喉がひゅうと鳴る。

 頭のどこかで警鐘が鳴るのを感じながら、フェルはネオンの名前を呼んだ。彼女は握ったフェルの手をそっと引き寄せる。ほんのりと温もりを取り戻したネオンの指先は、引き換えにフェルの手の熱を奪ってしまっていた。ネオンは、言葉を続ける。

「錬金術の軍事利用──あなたも知ってるでしょう。錬金炉を積んだ兵器は強力ではあるけど、触媒の消費が大きいの。だから彼らはわたし達を求めた。触媒の消費を抑えて、強力な兵器をより長い時間使うため」

「ネオン……そんな、まさか……」

 半ば確信に近い推測と、それを否定したい感情の波に呑まれながら。フェルは震える声で問う。

「君を……君の仲間を、こんな目に遭わせたのは……俺たち騎士団なのか……?」

 ──この国における軍事組織は、フェルの所属する王立騎士団ただひとつだ。

 答える声は無く、……沈黙は、肯定だった。

 フェルは項垂れた。足下が崩れ落ちていくような感覚がある。信じたものに裏切られるとはこんな感覚なのか、とぼんやり思った。

「フェル。戦争は終わったのよね。どのくらいの犠牲が、わたしの家族の血は、肉は……どれだけ多くの人を……」

 顔を伏せるフェルに語りかけるネオンの声も微かに揺れていた。顔は上げないまま、繋いだ手を握りしめる。

「ごめんなさい。あなたに言ったってどうにもならないのに。でも……みんな人殺しの兵器のために殺されて、わたしだけ生き残って。外にも出られずに、こんな牢屋の中で、ずっと……」

「ネオン」

「……わたし達、何のために生きてたんだろう」

 ぽつりと呟いたネオンの瞳から光る滴がひとつ溢れた。フェルは彼女の頬に手を伸ばして指先でその滴をそっと拭った。濡れた彼の指先にも淡い光が灯る。

 頬を撫でる指先の感触に目を細め、ネオンは小さく笑う。涙を流しながら、幸せそうに。

「でも、フェルに会えて良かった。あなたといると楽しくて……わたしも生きてていいんだって思えたの。本当はもっと一緒に、色んな事……お祭りにも行ってみたかったけど……」

「なら一緒に行こう。俺がどこにだって連れていくよ。俺は……俺は、君を……」

「──ありがとう、フェル。わたし、あなたのことが好きよ」

 フェルはネオンの手をもう一度強く握り返した。白く儚げな指と、無骨な指が絡み合う。ネオンは目を伏せる。フェルにしか聞こえない、か細い声でそっと囁く。

「傍にいて。夜が明けるまで……」

 ……夜は更けていく。寄り添う二人を呑み込んだまま。


   ◆


 眠る少女の枕元に、プレゼントのヘアピンをそっと置いて。

 フェルはいつものように部屋を後にした。ゆっくりと階段を下り、重い扉を開けて外に出ようとして、ふと足を止める。彼の前に立ちはだかるようにしてそこに立っていたのは、あの錬金術師の女性だ。

「知ったところで何の得もない、と」

 フェルが何か言う間もなく、彼女はいつかと同じ淡々とした口調で話し始める。

「私は貴方にそう言いました。結局その通りになってしまいましたね。誰も得をしなかった。貴方も、私も……そして彼女も。あの牢には人の出入りを感知できる仕掛けが施してありました。彼女はそれを貴方に伝えなかったようですね。……いえ、それを知っていたとしても、貴方の行動は変わらなかったかも知れませんが」

 言葉を切り、溜息をひとつ吐き出し──残念そうに眉を下げて彼女は告げる。

「今この時をもって、貴方を解雇します。フェル・ゴルトシュミット」

 ……その後の事はよく覚えていない。荷物を纏めて一度騎士団の本部へ帰り、上司に何か問い詰められた事は記憶に残っている。そして暫しの間の謹慎を命じられた事も。自分がどんな受け答えをし、どの道筋を辿って屋敷に辿り着いたのかも定かでないまま、フェルは気付けば自室のベッドで身を縮めていた。雨が窓を打ちつける気配がする。折角明日から祭りだというのに、雨だなんてついてない。

 ドアの外からアルジェの声が聞こえる。

「フェル。フェル!何があったんだ?急に謹慎なんて……母さんも心配してたぞ」

 フェルは答えないままそっとベッドから身を起こした。兄の声には次第に戸惑いの色が混ざり始める。

「お前が心配なんだ。父さんも何も言わないし……せめて声を聞かせてくれ。話したくないならそれでも……」

「兄さんは」

 喉の奥から漏れた声は低く、平坦だ。ドア越しに兄の動揺を感じ取りながらフェルは続ける。

「『光るハイランダー』って知ってる?」

「……?何の話だ?光る……?」

「そ、っか。ごめん。……少し放っておいて」

 吐き捨てるように告げ、再びベッドへ戻る。アルジェは暫くの間ドアの前に留まっていたようだが、やがておやすみ、とだけ言って立ち去っていった。その声を聞いたフェルは毛布の中へと潜り込む。雨の音だけが部屋に谺していた。

 それから、ずっと。フェルは部屋に籠って小説の翻訳にばかり没頭していた。顔を合わせるのは食事を運んでくる侍女とだけで、表通りから聞こえる祭りの喧騒に耳を傾ける事もなく、度々訪ねてくる次兄や母に応える事もせず。

 ただひたすらにページを捲っては文章を書き連ねる。その様子を誰かが見ていたならば、鬼気迫るようだと評したかもしれない。それほどまでにフェルは没頭していた。一度だけドア越しに話しかけてきた長兄が、気でも違えたか、と問うてきた時も彼は何も答えなかった。ただ心の中で、その通りかもしれない、と一人ごちた。

 彼がようやく手を止めたのはそれから三日後の夜の事だった。訳文を書き込んだ紙の束を纏め直し、ひとつ息を吐く。フェルは思い違いをしていた。……嫌われ者の王子と美しい姫が幸せになる事はなかった。王子は悪しき王との戦いの最中に命を落とし、それを知った姫は牢の中で自ら死を選ぶ。二人が結ばれたのは死後の世界での事で──その結末は、とてもハッピーエンドとは。

 本を閉じ、フェルは立ち上がる。侍女の目を避けるようにクローゼットの中に隠しておいた荷物を手に取り、薄汚れたコートを羽織る。鎧は身に付けず、腰には剣を。準備を終えると彼は窓を開け、自分を見ている者が誰もいない事を確かめて屋敷の外へと飛び出した。遠くから聞こえる喧騒を背に、暗がりを駆ける。

 『誰も得をしない』?そんな筈はない。ネオンと出会ってフェルは多くのものを得た。喜びを。幸福を。そしてそれらと同じくらい大きな苦しみを。しかしそれで良かったのだ。その苦悩もすべて引っくるめてこそ、ネオンと過ごした時間はかけがえないものとなる。そしてその時間をここで終わらせてしまう事が、今のフェルには許せなかった。

 ──物語の結末を、書き換えに行こう。


 あの施設は騎士団が所有する錬金術研究所だ。国家機密に近い研究も行われている場所であるため当然警備は厳重であるが、今夜ばかりは少し違う。祭りの最終日に行われる国王のパレードでは、騎士団のほとんどの人員が普段の仕事を離れて街中の警備と観覧客の整理に宛がわれる事になる。パレードの前日である今夜は各所で警備計画の最終確認が行われており、多くの騎士はそちらに参加している筈なのだ。警備の数がゼロになるという事はまず無いだろうが、それでも確実に手薄にはなっている。故にフェルはじっとこの日を待っていた。未練を残さぬよう、自分を呼ぶ家族の声すら振り切って。

 フェルは施設周辺の森へ入り、外周を大きく回って西へ西へと向かっていく。外からは警備員の姿は見られない。これ幸いと茂みの中を駆け抜け、目的地へ急ぐ。今宵の空は曇っている。時折覗く月の光も朧気で、街を覆う闇はフェルの姿を誰からも隠していた。

 やがて森を抜けたフェルは足を止め、被っていたフードを脱いで視線を上に向ける。辿り着いた西の塔は、いつもと変わらない様子だった。出入口に鍵はかかっていない。重い扉の隙間に体を滑り込ませ、足音を殺して階段を上り始める。……逸る鼓動とは裏腹に、彼の思考は至って冷静だった。冷静に、腰に下げていた剣を鞘ごと外して右手に握る。

 塔の頂上まで辿り着いたフェルは迷うことなく見慣れたドアをノックする。少し間を置き、はい?と困惑したような返事と共にドアが開く──瞬間、部屋の中から覗いた頭をフェルは剣で思いきり殴りつけた。悲鳴のひとつも無いまま、フェルと同じような背格好の青年はどさりと崩れ落ちる。後頭部から血を流して昏倒している彼を部屋の隅に寄せ、机の引き出しから鍵を引ったくると、フェルはカーテンへと歩み寄って重い布を勢いよく引き剥がす。

「ネオン」

「──フェル?」

 ベッドの上で膝を抱えて固まっていた少女の表情が、怯えから動揺のそれへと変わった。その頬には涙の跡が残っている。祈るように組まれた指先に握られているのはフェルが置いていったヘアピンだ。

「フェル……どうして?あなた、解雇されたんじゃ……」

 フェルは何も言わずに牢屋の鍵を開けて中へ入っていく。ここからは時間との勝負だ。近付いてくる彼の姿に何を感じ取ったのか、ネオンはますます身を縮めてベッドの隅へと寄った。彼女の傍に跪いてフェルは言う。その顔に透けて見えるのは隠しきれない焦りの色だ。

「ネオン。君を迎えに来たんだ。一緒にここを出よう。この国から逃げるんだ」

 ネオンの瞳が揺れる。フェルは返事を待たずに荷物から取り出したもう一枚のコートを彼女に羽織らせた。されるがままになりながら、でも、と上ずった声でネオンは呟く。

「わたし、もう、帰る所も……」

「それなら探そう。君を受け入れてくれる場所を。それでも駄目ならもっと遠くへ、誰も君を知らない場所まで行こう。世界の果てだって構わない。言っただろ?どこにでも連れていくって。だから……お願いだ、ネオン」

 どうか、一緒に。差し出された手を、ネオンは泣き出しそうな表情で見た。フェルは真っ直ぐに彼女を見つめている。片時も目を逸らさずに。

 やがて、ネオンの右手がそっと掲げられる。微かに震える手は数秒かけて宙を彷徨い──フェルの掌に収まった。

 ネオンの手を引き、フェルは駆け出した。急いで階段を下り、扉を開けて外へ飛び出す。施設内に異変が起こっている事はすぐに分かった。渡り廊下の向こうから複数の灯りと足音が近付いてくる。それと、逃がすな!という怒号も。

「こっちだ」

 身を竦ませるネオンを半ば引きずるようにして来た方向とは逆の森の中へと飛び込んだ。邪魔な草木は剣で叩き折りながら、暗闇の中を真っ直ぐに駆け抜ける。ネオンは足を縺れさせながらも必死でフェルに追い付いていた。苦しさからか、それとも別の感情からか。その目から涙がひとつ、ふたつ、零れ落ちる。

 追っ手の掲げるライトが木々の隙間を斑に染め上げ、二人の背中を浮かび上がらせる。ならば、とフェルはネオンをさっと抱え、すぐ近くにあったほとんど崖のようになっている斜面を駆け下りた。茂みをクッション代わりに着地し、ネオンを下ろして再び走り出す。これで少しは時間を稼げるだろう──そんな思いに反して、崖の近くまで辿り着いた追っ手はすぐさま叫ぶ。

「あそこだ!」

 次いで、数人が斜面を下りる音。フェルは歯噛みする。ライトで照らされた気配も無かったのに何故気付かれた?念のため腰のポーチから取り出したそれを開け、適当な場所へと投げておく。微かな水音とガラスの瓶が転がる音が響く。

「フェル、フェル……!」

 息も絶え絶えに自分を呼ぶネオンの声がする。振り向いた彼ははっとした。コートからはみ出た彼女の脚に傷がついている。枝か何かで切ったのか、決して浅くはない傷──そこから溢れるのは暗闇の中で明るく光る血液だ。それこそ、追っ手の騎士達の目印ともなるような。

 フェルは前方にあったひときわ大きな木の陰に滑り込みむとネオンをそこに座らせる。ハンカチとコートの切れ端を使って手早く傷口の手当てをする彼の頭上に、ネオンの嗚咽混じりの声が降ってきた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……わたしやっぱり、」

「大丈夫だよネオン。泣かないで」

「でもこのままじゃフェルが、」

 今にも泣き出しそうな、その言葉を遮るように。

 フェルは彼女の唇を塞いだ。ただ触れるだけの拙い口づけだ。ネオンの呼吸が止まる。ほんの数秒、その間だけ世界の全てが音を失う。まるで、自分達以外の何もかもがこの世から消え失せたかのような。

 いっそ永遠にも感じられたその時間を惜しむようにゆっくりと唇を離したフェルは、呆然とするネオンの頬を撫でて笑う。

「──俺が守るから。何があっても、必ず」

「フェル」

 ネオンを置いて立ち上がり、フェルは木陰の外へと踏み出した。まばゆい光が彼を捉える。近付いてくる足音は気にも止めず、先程もポーチから取り出した──半透明の液体で満たされた小瓶の栓を開けて辺りの茂みに放り投げる。

「動くな!武器を捨てて両手を挙げろ」

 男の声が聞こえる。追っ手の騎士がどこにいるのか、フェルからは逆光でよく分からないが声から察するにそこまで近くにいる訳ではないようだ。今のうちにともう一本の瓶を今度は目の前に転がした。男の声が凄味を増す。

「動くなと言っているだろう……!」

 剣を抜く音を合図に、フェルは懐にしまい込んでいた物を手に取る。フェルからは見えないが、すぐそこにいる騎士は目を疑った事だろう。暗闇の中、ライトに照らされて浮かび上がるのは、口許に薄ら笑いすら浮かべて立つ青年の姿──そしてその手元にあるのは、火の点いたマッチだ。

 フェルはその小さな火種をそっと放る。先程ばら撒き、地面へと染み込んだばかりのファイアオイルへと。

 顔を覆う暇も無かった。瞬間的に広がった炎が騎士を呑み込む。夜空を裂くように上がった悲鳴を皮切りに他の騎士の叫び声が響きだす。早く火を消せ、応援を呼んでこい、救護班はどこだ。火の届かない遠方へ飛び散ったオイルも飛んだ火の粉と周囲の熱に反応して自ら発火し燃え始め、複数の火種が燃え上がり合流して勢いを増した炎はあっという間に森の一角を赤く染め上げた。

 周囲に立ち込める黒煙と、炎と、各所で聞こえる騎士達の声と。にわかに騒がしくなった周囲の空気が、炎の向こう側にいた二人の気配を掻き消す。誰も気付かなかった。フェルとネオンが炎の渦に呑まれるようにして姿を消した事に。


   ◆


 消火活動が完了したのは空が白み始めた頃だった。炎は森の一角を焼き尽くしたが、幸いにもそれ以上広い範囲に広がる事は無かった。城下で華々しいパレードが行われているその裏で、騎士団は密かに捜索隊を立ち上げて施設から脱走した被験体と彼女を拐かした侵入者とを捜したが、森の中のみならず、街の周辺のどこにも二人の姿は無かった。その後探索の手は国土全域に広げられたがそれも徒労に終わる。

 果たして二人はどこへ消えたのか──あの火災の中、炎にまかれて死んだという可能性も否定できなくはなかったが、焼けた森のどこにも死体らしきものは見付からない。

 結局、探索は数ヶ月もしないうちに打ち切られた。研究の要である被験体を失った施設は間もなく解体され、犯罪人を排出したゴルトシュミット家は貴族位を剥奪され零落。騎士の名門としての歴史に幕を下ろす。僅かな資源として残された『光るハイランダー』の血液も騎士団上層部によって秘密裏に処理され、全ては歴史の陰に消える事となる。一族の存在も、幽閉されていた少女の事も、落ちこぼれの青年騎士が国を捨てたその理由も。

 二人の行方を知る者は誰もいない。

0コメント

  • 1000 / 1000